小説鍛錬室
小説投稿室へ運営方針(感想&評価について)
投稿室MENU | 小説一覧 |
住民票一覧 |
ログイン | 住民登録 |
作品ID:626
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約4200文字 読了時間約3分 原稿用紙約6枚
読了ボタン
button design:白銀さん Thanks!※β版(試用版)の機能のため、表示や動作が変更になる場合があります。
あなたの読了ステータス
(読了ボタン正常)一般ユーザと認識
「黒猫と難破船」を読み始めました。
読了ステータス(人数)
読了(317)・読中(2)・読止(0)・一般PV数(978)
読了した住民(一般ユーザは含まれません)
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし /
黒猫と難破船
作品紹介
今日はいい天気だね、と。
土砂降りの雨の日に彼女は言った。
空想遊び。難破船。コーンスープ。赤い屋根の家。
僕と彼女は、雨空を眺める。
土砂降りの雨の日に彼女は言った。
空想遊び。難破船。コーンスープ。赤い屋根の家。
僕と彼女は、雨空を眺める。
今日はいい天気だね、と土砂降りの雨の日に彼女は言った。
確かにそうかもしれない。なんとんなく、同意の意味を込めて僕は頷く。雨のしずくが雨どいを伝って軒下に落ちると、飛び散った雨水はアスファルトと同化する。彼女は、一心に曇天の先を見つめている。
雨が止む気配はない。僕は、それに安心して目を閉じた。僕は雨の落ちる音が好きだった。凄く心が落ち着く。雨に濡れるのは嫌だけど、安全地帯からこうして眺めてみたり、耳を澄ませてみたりするのは素晴らしい贅沢だと思う。
今朝、大雨警報が発令されてから今日が予定日だった知らない街の散策は、延期になった。当然発生した宙ぶらりんの休日を、どうしたものかと持て余していた僕の元へ、傘を片手に彼女はびしょ濡れになってやって来た。
警報だよ、なんて息を切らした彼女に言えるはずもない。
髪から雨水を垂らす彼女を、僕は呆れ顔で出迎えた。
***
彼女を風呂場に連れて行くと、僕は部屋の外へ出る。雨が止まないうちに、温かい飲み物でも用意しよう。
シャワーの水音が薄っぺらい壁越しに聞こえる。僕は、アパートで一人暮らしをしていた。
自宅で猫と暮らしている彼女は、僕のアパートのごく近所に住んでいた。それこそ、このアパートの窓辺から彼女の家の、赤い屋根が見えるくらいの距離にある。
慣れた手つきで二人分のコーンスープを作る。四角いクルトンが入った黄色い粉末をカップにあけて、火にかけていたやかんから程よい量の熱湯を注いだ。
こんなにいい天気なら、きっと今日はいい日になる。面倒な、見ず知らずの街を歩き回ることなんかよりも、よっぽどいい。
洗濯物のないベランダを眺めて僕は空想する。この部屋は難破船で、乗組員は僕と彼女の二人だけ。嵐の中で、一人ぼっちでこの沈みかけの船は揺れている。沈みかけということは、さして問題じゃない。
なぜなら、僕と彼女は雨が好きだからだ。
「着替えあるー?」
キッチンのすぐ後ろのドア越しに、彼女の声がした。
「ああ、ちょっと待ってて」
きっちり十五秒はかき混ぜないと、粉末が溶け切らないんだけどな……。仕方なく、カップの中で渦を作っていたスプーンはそのまま入れっぱなしにしておくことにする。
「はいよ」
ドアの隙間から、後ろ手でスウェットの上下一式を差し入れた。
奥で彼女が受け取り、手を引っ込めると扉が閉められる。衣擦れの音とビニール袋が擦れる音がし始めた。それから、ドライヤーの騒がしいブロー音。きちんと乾かしているようでよかった。前に、ロクに髪を乾かさずに出てきた彼女に注意したことがあった。僕は、彼女に風邪を引かれるのは凄く困るから、その時は面倒くさがる彼女をソファに座らせて僕が乾かすことになったことを思い出した。
スープをかき混ぜる作業に戻る。
「ね! 君が寂しくしてると思って来てあげたよ。嬉しい?」
ユニットバスの浴室から、着替えの合間に彼女は上機嫌で僕に話しかけた。
「ああ。もちろん。……遠足が延期になるくらいの豪雨でも、家にやってくるとはね」
彼女は、雨が降る日は決まって嬉しそうにしていた。湿気で自慢のくせ毛も膨らむけれど、それすらも愛しているようだった。
「当然でしょ。傘は、一応雨への礼儀のつもり。それを差さないのは、私が雨に濡れて行っても風邪をひいても平気だと信じたからだよ」
「まさか僕の手厚い看護に期待してる?」
風邪をうつされても彼女を介抱する自分の姿がよぎった。
「まあね。……だだっ広い家にいるよりも、君の小さな城にいた方がずっとマシだよ。風邪引いたのならなおさらさ」
――ガチャ、
「やあ」
着古した僕のスウェットを、ああまで着こなす人を僕以外に僕は知らない。
「相変わらず似合うね。膝のダメージなんか特に」
スウェットに空いた左ひざの穴をほのめかす。彼女が着ようが穴は穴だけど。
彼女は、生乾きの黒髪をかき上げるとはにかんだ。
「そう? お。スープだ。気が利くね」
「最後のふた袋だから、大事に飲んでよ」
僕は彼女が置いていった自前のカップを彼女に手渡す。それから、テレビの前にどっかりと置いてある二人用のソファに腰を下ろした。隣の僕のベッドから、掛け布団に使っていた毛布を引っ張り出して、カップを抱えた彼女を上手にくるむ。
「足先、冷えてない?」
「へーき。ありがと」
「そう」
僕は、今朝からつけっぱなしの暖房の設定温度を一つ上げると、自分のスープに口をつけた。
少しだけ、雨の勢いが増した気がした。
***
スープを飲み終えると、カップは手近な机の上に置き去りにして、彼女はベランダの景色を眺めはじめた。毛布は気に入ったようで、そのままマントのように着用している。
雨は、まだ続いている。ソファの正面にあるリサイクルショップで買った型遅れのテレビは、ニュースの防災情報を流していた。
「……今日はいい天気だね」
彼女は、こんな土砂降りの雨の日に、不意にそう呟いた。
そうかもしれない。僕は同意の意味を込めて頷く。
雨のしずくが雨樋を伝って落ちて行った。地面のアスファルトと同化する運命だとしても、空からゴールの地面までの距離を、彼らは一心不乱に生きる。
雨とは、無数の命の始まりと終わりの連続で、僕らはその循環の中で生きている。
そんな風に思えたら、きっと雨の見方も変わるのかもしれない。だけど、そんなことを考えて生きているのは彼女くらいのものだろう。
僕は雨に濡れるのはあまり好きではない。雨とは、やはり安全地帯から眺めたり、雨音を聞いて楽しむ洒落た映画みたいなものだと思う。ただ、濡れた彼女にシャワーや着替えを貸したり、彼女にスープを作ったりしてかいがいしく世話を焼くのは好きだ。
「空想遊びをしないかい」
「へえ? なにするの?」
彼女が乗り気だったので、僕はテレビを消した。
「ここは難破船だ。……君と僕は、残された最後の乗組員だ。外は豪雨で、雷鳴が響く嵐の真っただ中に取り残されて揺られている。しがみついているこの船は、もうすぐ沈没するかもしれない。しないかもしれない」
「……ふぅむ」
彼女は目をつぶって、ベッドに寝転がった。
僕も、ソファに腰を落ち着けてくつろぎながら空想する。
潮騒。
雷鳴。
打ち付ける雨粒。
冷たい海の飛沫。
波に揺られて上下する視界。
濡れそぼった衣類。髪。
珍しく、不安そうな顔をする彼女。
寒さと、恐怖で震える手。
離れないように、僕らはなんとか手をつなぐ。
……。
「……うーん。気づいたら南国の有人島に流れ着いて、陽気な現地人たちに歓迎されて、そこで流された仲間のことなんてさっさと忘れて二人でバカンスするってオチはどう?」
「……救いがない設定のつもりだったんだけど、そうか。ご都合主義も悪くはないね」
彼女は優しい。大抵の状況では、当事者がよっぽど幸運でない限りはそんなことにはならない。ただ、空想遊びは、多くの場合「死」という概念から切り取られている。だから、普通はそんなものかもしれない。
僕がする空想の場合、どれだけ空想をしても、絶妙なタイミングで彼女の生きる踏み台となって自分は死ぬ運命だった。唐突に現れた巨大な鮫から庇ったり、嵐が去ってから幾日もたった後に、壮絶な飢餓に襲われた彼女に死ぬ気でもいだ片腕を食べさせたり。
僕は、想像の中では自己犠牲が一番好きだった。献身的に彼女に尽くす自分が好きなのだろう。献身という意味の中で、自己犠牲ほど熱烈に相手に尽くすものはないのだから。
「……君の家に居ついている猫は元気かい」
空想に飽きて、僕は彼女の家の生意気な猫を思い出した。
「ああ、元気だよ。連れて行こうか迷ったけど、この城へは出禁だからね」
「そりゃそうだ。……次に大雨が降るようなら、今度は僕の方から出向いてあげようか」
「別に、私はそんなに寂しがりやなんかじゃないぞ」
「寂しいのは、僕の方なんだ」
こうして彼女が遊びに来てくれるから、寂しいという感情をずっと忘れていた。雨の降る日は、いつもこの部屋は暖かく、そして彼女の姿があるから。
「……なら、仕方ないね。久方ぶりに、我が家を大掃除しなくてはならなくなってしまった」
「別に、気を使わなくてもいいよ」
「ははーん。さては、乙女心が分かってないな?」
「……どうやらそうらしい」
ベランダから見える、あの屋根は近いようでいて遠い。
「雨音が、小さくなってきたね」
彼女の声に、そうだね、とだけ僕は返す。
「……遠足、延期になるんだっけ」
僕は、ベッドから零れた黒髪の先に触れる。
「行きたくないなー」
彼女は、手足をバタつかせた。それから息を吐いて、しかめっ面で天井を眺める。
「……ねえ」
「……ん? どうした?」
彼女は、ソファに転がった僕を見ようとして、寝転がったまま首を後ろに向ける。
「小雨になったらさ。一緒にどこかへ歩かない?」
「へえ……君にしては、上出来だね」
「どういうことだよ、それって」
僕が煮え切らない表情をしていると、
「主体性のない遠足よりも、君と歩く方がずっといいってことだよ。……スープ飲んでお腹が満たされたら、なんだか二度寝がしたくなってきた。……雨やんだら起こしてよ」
「君が牛になっても、僕は君のことを忘れないよ。……おやすみ」
僕は、空になった二つのカップを取ると、キッチンに向かった。
遠足の嫌いな僕らなら、こんな雨の日にはどこへ行こう?
小さな難破船に、乗組員は僕と彼女の二人だけ。口うるさい現実を忘れて、僕らはしばし大海に漂う。
嵐で舵輪やマストが壊れてなくなっても、奇跡のような潮流で、きっと僕らは誰も知らない南国の有人島にでもたどり着いて、気ままなバカンスを楽しむのだろう。
そんな奇跡は、僕らにはあまり必要のないものであるらしい。
雨の勢いが、少し弱まってきた。
確かにそうかもしれない。なんとんなく、同意の意味を込めて僕は頷く。雨のしずくが雨どいを伝って軒下に落ちると、飛び散った雨水はアスファルトと同化する。彼女は、一心に曇天の先を見つめている。
雨が止む気配はない。僕は、それに安心して目を閉じた。僕は雨の落ちる音が好きだった。凄く心が落ち着く。雨に濡れるのは嫌だけど、安全地帯からこうして眺めてみたり、耳を澄ませてみたりするのは素晴らしい贅沢だと思う。
今朝、大雨警報が発令されてから今日が予定日だった知らない街の散策は、延期になった。当然発生した宙ぶらりんの休日を、どうしたものかと持て余していた僕の元へ、傘を片手に彼女はびしょ濡れになってやって来た。
警報だよ、なんて息を切らした彼女に言えるはずもない。
髪から雨水を垂らす彼女を、僕は呆れ顔で出迎えた。
***
彼女を風呂場に連れて行くと、僕は部屋の外へ出る。雨が止まないうちに、温かい飲み物でも用意しよう。
シャワーの水音が薄っぺらい壁越しに聞こえる。僕は、アパートで一人暮らしをしていた。
自宅で猫と暮らしている彼女は、僕のアパートのごく近所に住んでいた。それこそ、このアパートの窓辺から彼女の家の、赤い屋根が見えるくらいの距離にある。
慣れた手つきで二人分のコーンスープを作る。四角いクルトンが入った黄色い粉末をカップにあけて、火にかけていたやかんから程よい量の熱湯を注いだ。
こんなにいい天気なら、きっと今日はいい日になる。面倒な、見ず知らずの街を歩き回ることなんかよりも、よっぽどいい。
洗濯物のないベランダを眺めて僕は空想する。この部屋は難破船で、乗組員は僕と彼女の二人だけ。嵐の中で、一人ぼっちでこの沈みかけの船は揺れている。沈みかけということは、さして問題じゃない。
なぜなら、僕と彼女は雨が好きだからだ。
「着替えあるー?」
キッチンのすぐ後ろのドア越しに、彼女の声がした。
「ああ、ちょっと待ってて」
きっちり十五秒はかき混ぜないと、粉末が溶け切らないんだけどな……。仕方なく、カップの中で渦を作っていたスプーンはそのまま入れっぱなしにしておくことにする。
「はいよ」
ドアの隙間から、後ろ手でスウェットの上下一式を差し入れた。
奥で彼女が受け取り、手を引っ込めると扉が閉められる。衣擦れの音とビニール袋が擦れる音がし始めた。それから、ドライヤーの騒がしいブロー音。きちんと乾かしているようでよかった。前に、ロクに髪を乾かさずに出てきた彼女に注意したことがあった。僕は、彼女に風邪を引かれるのは凄く困るから、その時は面倒くさがる彼女をソファに座らせて僕が乾かすことになったことを思い出した。
スープをかき混ぜる作業に戻る。
「ね! 君が寂しくしてると思って来てあげたよ。嬉しい?」
ユニットバスの浴室から、着替えの合間に彼女は上機嫌で僕に話しかけた。
「ああ。もちろん。……遠足が延期になるくらいの豪雨でも、家にやってくるとはね」
彼女は、雨が降る日は決まって嬉しそうにしていた。湿気で自慢のくせ毛も膨らむけれど、それすらも愛しているようだった。
「当然でしょ。傘は、一応雨への礼儀のつもり。それを差さないのは、私が雨に濡れて行っても風邪をひいても平気だと信じたからだよ」
「まさか僕の手厚い看護に期待してる?」
風邪をうつされても彼女を介抱する自分の姿がよぎった。
「まあね。……だだっ広い家にいるよりも、君の小さな城にいた方がずっとマシだよ。風邪引いたのならなおさらさ」
――ガチャ、
「やあ」
着古した僕のスウェットを、ああまで着こなす人を僕以外に僕は知らない。
「相変わらず似合うね。膝のダメージなんか特に」
スウェットに空いた左ひざの穴をほのめかす。彼女が着ようが穴は穴だけど。
彼女は、生乾きの黒髪をかき上げるとはにかんだ。
「そう? お。スープだ。気が利くね」
「最後のふた袋だから、大事に飲んでよ」
僕は彼女が置いていった自前のカップを彼女に手渡す。それから、テレビの前にどっかりと置いてある二人用のソファに腰を下ろした。隣の僕のベッドから、掛け布団に使っていた毛布を引っ張り出して、カップを抱えた彼女を上手にくるむ。
「足先、冷えてない?」
「へーき。ありがと」
「そう」
僕は、今朝からつけっぱなしの暖房の設定温度を一つ上げると、自分のスープに口をつけた。
少しだけ、雨の勢いが増した気がした。
***
スープを飲み終えると、カップは手近な机の上に置き去りにして、彼女はベランダの景色を眺めはじめた。毛布は気に入ったようで、そのままマントのように着用している。
雨は、まだ続いている。ソファの正面にあるリサイクルショップで買った型遅れのテレビは、ニュースの防災情報を流していた。
「……今日はいい天気だね」
彼女は、こんな土砂降りの雨の日に、不意にそう呟いた。
そうかもしれない。僕は同意の意味を込めて頷く。
雨のしずくが雨樋を伝って落ちて行った。地面のアスファルトと同化する運命だとしても、空からゴールの地面までの距離を、彼らは一心不乱に生きる。
雨とは、無数の命の始まりと終わりの連続で、僕らはその循環の中で生きている。
そんな風に思えたら、きっと雨の見方も変わるのかもしれない。だけど、そんなことを考えて生きているのは彼女くらいのものだろう。
僕は雨に濡れるのはあまり好きではない。雨とは、やはり安全地帯から眺めたり、雨音を聞いて楽しむ洒落た映画みたいなものだと思う。ただ、濡れた彼女にシャワーや着替えを貸したり、彼女にスープを作ったりしてかいがいしく世話を焼くのは好きだ。
「空想遊びをしないかい」
「へえ? なにするの?」
彼女が乗り気だったので、僕はテレビを消した。
「ここは難破船だ。……君と僕は、残された最後の乗組員だ。外は豪雨で、雷鳴が響く嵐の真っただ中に取り残されて揺られている。しがみついているこの船は、もうすぐ沈没するかもしれない。しないかもしれない」
「……ふぅむ」
彼女は目をつぶって、ベッドに寝転がった。
僕も、ソファに腰を落ち着けてくつろぎながら空想する。
潮騒。
雷鳴。
打ち付ける雨粒。
冷たい海の飛沫。
波に揺られて上下する視界。
濡れそぼった衣類。髪。
珍しく、不安そうな顔をする彼女。
寒さと、恐怖で震える手。
離れないように、僕らはなんとか手をつなぐ。
……。
「……うーん。気づいたら南国の有人島に流れ着いて、陽気な現地人たちに歓迎されて、そこで流された仲間のことなんてさっさと忘れて二人でバカンスするってオチはどう?」
「……救いがない設定のつもりだったんだけど、そうか。ご都合主義も悪くはないね」
彼女は優しい。大抵の状況では、当事者がよっぽど幸運でない限りはそんなことにはならない。ただ、空想遊びは、多くの場合「死」という概念から切り取られている。だから、普通はそんなものかもしれない。
僕がする空想の場合、どれだけ空想をしても、絶妙なタイミングで彼女の生きる踏み台となって自分は死ぬ運命だった。唐突に現れた巨大な鮫から庇ったり、嵐が去ってから幾日もたった後に、壮絶な飢餓に襲われた彼女に死ぬ気でもいだ片腕を食べさせたり。
僕は、想像の中では自己犠牲が一番好きだった。献身的に彼女に尽くす自分が好きなのだろう。献身という意味の中で、自己犠牲ほど熱烈に相手に尽くすものはないのだから。
「……君の家に居ついている猫は元気かい」
空想に飽きて、僕は彼女の家の生意気な猫を思い出した。
「ああ、元気だよ。連れて行こうか迷ったけど、この城へは出禁だからね」
「そりゃそうだ。……次に大雨が降るようなら、今度は僕の方から出向いてあげようか」
「別に、私はそんなに寂しがりやなんかじゃないぞ」
「寂しいのは、僕の方なんだ」
こうして彼女が遊びに来てくれるから、寂しいという感情をずっと忘れていた。雨の降る日は、いつもこの部屋は暖かく、そして彼女の姿があるから。
「……なら、仕方ないね。久方ぶりに、我が家を大掃除しなくてはならなくなってしまった」
「別に、気を使わなくてもいいよ」
「ははーん。さては、乙女心が分かってないな?」
「……どうやらそうらしい」
ベランダから見える、あの屋根は近いようでいて遠い。
「雨音が、小さくなってきたね」
彼女の声に、そうだね、とだけ僕は返す。
「……遠足、延期になるんだっけ」
僕は、ベッドから零れた黒髪の先に触れる。
「行きたくないなー」
彼女は、手足をバタつかせた。それから息を吐いて、しかめっ面で天井を眺める。
「……ねえ」
「……ん? どうした?」
彼女は、ソファに転がった僕を見ようとして、寝転がったまま首を後ろに向ける。
「小雨になったらさ。一緒にどこかへ歩かない?」
「へえ……君にしては、上出来だね」
「どういうことだよ、それって」
僕が煮え切らない表情をしていると、
「主体性のない遠足よりも、君と歩く方がずっといいってことだよ。……スープ飲んでお腹が満たされたら、なんだか二度寝がしたくなってきた。……雨やんだら起こしてよ」
「君が牛になっても、僕は君のことを忘れないよ。……おやすみ」
僕は、空になった二つのカップを取ると、キッチンに向かった。
遠足の嫌いな僕らなら、こんな雨の日にはどこへ行こう?
小さな難破船に、乗組員は僕と彼女の二人だけ。口うるさい現実を忘れて、僕らはしばし大海に漂う。
嵐で舵輪やマストが壊れてなくなっても、奇跡のような潮流で、きっと僕らは誰も知らない南国の有人島にでもたどり着いて、気ままなバカンスを楽しむのだろう。
そんな奇跡は、僕らにはあまり必要のないものであるらしい。
雨の勢いが、少し弱まってきた。
後書き
未設定
|
読了ボタン
button design:白銀さん Thanks!読了:小説を読み終えた場合クリックしてください。
読中:小説を読んでいる途中の状態です。小説を開いた場合自動で設定されるため、誤って「読了」「読止」押してしまい、戻したい場合クリックしてください。
読止:小説を最後まで読むのを諦めた場合クリックしてください。
※β版(試用版)の機能のため、表示や動作が変更になる場合があります。
自己評価
感想&批評
作品ID:626投稿室MENU | 小説一覧 |
住民票一覧 |
ログイン | 住民登録 |