作品ID:1179
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英雄の願い
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 休載中
前書き・紹介
【1946年】 1 悲しみと未来
目次 |
戦争が終わってからどれだけたっただろう。
フィンランド共和国の冬は長い。窓の外を重く降り続ける雪を見つめてアリナは物思いに沈んだ。
聞こえてきた声に我に返る。
「あなたは英雄になりたかったのですか?」
「いいえ」
歴戦の猛者であるかつての英雄とも呼ばれる前線指揮官はそう静かに応じると長く伸びた金色の頭を緩く左右に振った。
この、物静かな女性が、戦場にあっては豹変するというのが信じがたいことだった。
どこかきつそうな印象を受ける彼女――アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、フィンランド陸軍の英雄とも呼ばれるひとりで、その弟のエイノ・イルマリは空軍の撃墜王として名を馳せる。
姉弟そろって、化け物じみた戦闘能力を有していた。
「わたしは、スオミを守りたかっただけです」
ニッコリと笑う。
軽い酩酊状態にあるのか、テーブルに置かれたアルコールの入ったコップに新聞記者の男は目を細めた。
ソビエト連邦の魔の手から。そして、ドイツから。
なにものからも、祖国を守りたかった。
だから、そのために戦ったのだ。
そう彼女は言った。
「弟も同じ気持ちでしょう」
フィンランド――ースオミを守るために。
彼らは、ソビエト連邦に総力戦を挑んだのだ。
圧倒的な物量差を支える事は並大抵の事ではなかった。そして、そんな戦時中に、徐々にすり減っていくのは自分達の正常な神経だ。
それを保ちながら戦い続けるという事は尋常ならざることだったとしか言えない。それでも、心を折る事もなく戦い続けられたのは、ひとえに祖国への募る思いがあったせいだろう。
アリナ・エーヴァは隣に座っている弟のエイノ・イルマリを横目に見やった。
穏やかな女性の瞳に、エイノ・イルマリはほほえみを返した。
彼がまだ十代の頃は、このフランス外人部隊の隊員でもあった陸戦のプロフェッショナルに対して、身内ながら軽い恐怖を覚えたものだが、今はそうではなかった。
頼もしい姉。
誰よりもフィンランドを愛し、そのために自分自身を犠牲にした彼女――アリナ・エーヴァ。
「姉さんのことを、戦闘狂だとか、英雄だとか、そういったことを言う人もいますが、姉さんはそんなものを望んだわけじゃないんです」
戦士として年月を数え、そうして大人になった青年はうなずきながら新聞記者の男に苦笑した。
姉――アリナ・エーヴァはそれほど多くを語る人間ではない。
戦場でこそ、派手な行動と言動で目立ちもするが、私生活にいたってはいっそ平凡と言ってもいいだろう。
部下たちを鼓舞するための言動と、普段の行動が異なって当たり前だ。
なによりも、戦場という、非日常的な場所で通常と変わらない態度ができる人間がいるだろうか。
「姉さんは、ただ、平和で安心して生活できるスオミを守りたかっただけです」
それはそう。
時の元帥――カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥と気持ちは同じだ。フィンランドの軍人、兵士たちは全員が同じ気持ちで、ひとつの目的に向かって邁進した。
「イッル……」
「姉さん?」
「……いいのよ」
戦場であったことを多く語るべきではない、とアリナは思っている。だから語らない。
「あんな、最悪の、凄惨な戦争の記憶を、語り継ぐ必要などないのよ」
未来は明るいのだから、なにも、暗い過去を語り継ぐ必要などない。
伸びかかった金髪を揺らしながら、彼女は立ち上がると窓の外を物憂げに見つめた。しばらくの沈黙がその場を支配した。
彼女の様子に、弟のエイノ・イルマリも、新聞記者の男も声を発する事ができずにいる。軍人であるからか、細く見えるがきっちりと筋肉の付いた背中は確かに戦士のものだった。重い銃をとって自ら戦いに参加した。
「わたしは、もう二度とスオミの国民に泣いてもらいたくない」
そう言って彼女は長い睫毛を伏せた。
どれほどの沈黙だったのか。
静寂を切り裂いた彼女の声に、エイノ・イルマリは背筋を正した。
喧嘩をすれば全く歯が立たなかった姉。けれども、そんな彼女が、コッラーの戦いの指揮を任されたと聞いて、どこかほっとした当時のエイノがいた。
姉ならば大丈夫だろうと、そう思った。
「……俺は、姉さんが、コッラーを任されたと聞いたとき、ほっとしたんだ」
「あら、どうして?」
くすりと彼女が弟に対して笑った。
「姉さんなら、絶対に守りきってくれると、信じて居たから」
姉のアリナ・エーヴァであれば必ず自軍を有利に導いてくれると弟は信じて居た。彼女を誰よりも。
「……でもね、本当は、あの戦いはわからなかったのよ」
なにせ、相手は四千人だ。
どうなるのかすらわからなかった。
戦線の重要性は充分に理解していたが、それでも圧倒的な戦力差がそこには存在していた。
たった三二人でどれほど戦えるだろうか、と。
「あのときの、部隊の人間全員が、一騎当千だったから、あれだけ戦えたのよ」
「わかっています」
姉と弟の会話を聞いている新聞記者の男は、二人の陸と空の英雄の姉弟を取り巻く空気に手帳に走らせるペンを思わず止めた。
それほどまでに、静寂に満ちた空気がそこにはあった。
これが、戦時中、英雄とたたえられるほどの戦いを繰り広げた人間なのかと。
「……准尉、大尉」
新聞記者の男がエイノ・イルマリとアリナ・エーヴァに呼び掛けた。
そっと肩越しにアリナが振り返る。
エイノ・イルマリが空軍准尉。そうして、アリナ・エーヴァは陸軍大尉だ。
「わたしたちは、けれどあなた方の戦う姿に救われたのです」
「ありがとう」
アリナが笑った。
どこか悲しげに。
切なげに。
「けれども、わたしはスオミを守るために多くのものを失いました……」
穏やかな瞳に涙の膜がにじんだように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「リュティ大統領も……」
そこまでつぶやいて、アリナは目元を指先で拭った。
表情を隠すように窓の外に視線を戻した彼女はそうして再び沈黙した。
多くのものを失った。
特に過酷な戦闘の最前線に立たざるを得なかった彼女は自分の中にある人間らしさすらも失っていったのだ。
「恐ろしいのは、本当は、自分自身でした……」
自分が人間でなくなるような恐ろしさ。
最前線で敵を屠り続ける彼女を見て多くの兵士達が勇気づけられる。彼らを鼓舞するためにも彼女は戦わなければならなかった。そしてそれ故に彼女は最前線で、まっすぐに前だけを見つめ続けた。
冬戦争。
そして、継続戦争とラップランド戦争。
「わたしは……」
どうにか人の「形」を保っているが、それすらも妖しい。
アルコールの力を借りてやっとそれらしい形をとどめているに過ぎない。ふと気を緩めれば目の前にちらつくのは「ウラー!」と叫び声を上げて突撃してくる赤軍兵士たち。
「わたしは、殺しすぎました……」
後悔しているわけではない。
あの時代には必要だった事だ。
殺しすぎて、戦場を忘れる事ができなくなっている自分がいる。
「亡くした戦友たちが、そして殺して死んでいった赤軍兵士やドイツ兵が、目の前から消えないんです」
そもそも、始まりはどこからだったのか、と、新聞記者の男――サイラ・プールネンは考えた。
少なくとも、軍人達にとっての始まりは一九三九年十一月二十六日。
政治家達の駆け引きはもっと前からはじめられていたはずだ。
ソビエト連邦はフィンランドなどの東欧諸国に数々の恫喝的な要求を突きつけてきた。十月十二日ソ連外務人民委員モロソフと老政治家パーシキヴィを代表とする代表団によって両国の話し合いがもたれた。その会談にはヨシフ・スターリンも出席し、相互援助条約の調印を提案、要求をしてきたのである。
フィンランド側がそれを拒否すると、今度は、フィンランド湾の防衛を目的とした限定的な相互援助条約を提案されたが、これもフィンランドは拒否をした。そうすると、ソ連側はフィンランドと領土の取引を提案したのであるが、これがひどい内容でフィンランドには到底受け入れがたいものであった。
スターリンはカレリア地峡の国境がレニングラードに余りにも近すぎると力説し、その防衛のためにもハンコ岬が必要だと主張したが、フィンランド政府はこれに対して全く妥協をしなかった結果、ソ連とフィンランドの間の交渉は約一ヶ月にわたって行われた後に、スターリンの「さようなら」とモロトフの「ごきげんよう」という言葉で打ちきりになった。
どちらにしたところで、その会見は、大国の我が儘を小国に押しつけただけの都合のいいものだった。おそらく、ソビエト連邦は、そうして結果的にはラトビア、エストニア、リトアニアらの小国と同様にフィンランドもその手の内にしようとしていたのだろう。
「カレリア国境付近で、ソ連の部隊が我が国の砲撃を受けて負傷者が出た、という事件がありましたが、それについて大尉はどう思われましたか?」
プールネンに問いかけられて、アリナ・エーヴァはそっと眉をひそめた。
彼女は当時、予備役中尉だった。
予備役、というのは要するにそういうことで、よほどのことがない限り動員される事がない。予備役が動員されるということは、国家的な「有事」が起こった時だ。
当時のアリナはすでに三十五歳。
兵士としては、体力の盛りを越えていた。
もちろんそれでも、若い経験を積んでいないひよっこに負けるつもりなどなかった。比較対象は主に弟のエイノ・イルマリだったりもするが。
よく戦争になる前は、十歳年少の弟をからかったものだ。そんな姉のからかいに対して、憮然として機嫌を悪化させる青年が可愛くてたまらなくて、姉はついつい度を超えてしまった。
「我が国が、ソ連を攻撃するなど、そんな余裕があったとは思えません」
きっぱりと彼女が言い放つ。
そうすると、プールネンは手帳になにごとかを書き込みながら顔を上げて、少しきつめの美人の顔を見つめた。
実際の年齢よりも若く見えるのは、きっと彼女が軍人であるためだろう。
どこか屈託のない笑顔は、彼女が軍人として歩んできた時間の中にできた落差だ。アリナは自らも「沢山のものを失った」と表現した。
「そんなことをすれば、あのスターリンのことです。結果は目に見えています」
一軍人ですらわかることだ。
それを、フィンランド首脳陣が知らなかったわけはない。
児戯にすら劣る。
彼女はそう言い切った。
そうして「始まってしまった」のだ。
戦争が。
フィンランド共和国の冬は長い。窓の外を重く降り続ける雪を見つめてアリナは物思いに沈んだ。
聞こえてきた声に我に返る。
「あなたは英雄になりたかったのですか?」
「いいえ」
歴戦の猛者であるかつての英雄とも呼ばれる前線指揮官はそう静かに応じると長く伸びた金色の頭を緩く左右に振った。
この、物静かな女性が、戦場にあっては豹変するというのが信じがたいことだった。
どこかきつそうな印象を受ける彼女――アリナ・エーヴァ・ユーティライネンは、フィンランド陸軍の英雄とも呼ばれるひとりで、その弟のエイノ・イルマリは空軍の撃墜王として名を馳せる。
姉弟そろって、化け物じみた戦闘能力を有していた。
「わたしは、スオミを守りたかっただけです」
ニッコリと笑う。
軽い酩酊状態にあるのか、テーブルに置かれたアルコールの入ったコップに新聞記者の男は目を細めた。
ソビエト連邦の魔の手から。そして、ドイツから。
なにものからも、祖国を守りたかった。
だから、そのために戦ったのだ。
そう彼女は言った。
「弟も同じ気持ちでしょう」
フィンランド――ースオミを守るために。
彼らは、ソビエト連邦に総力戦を挑んだのだ。
圧倒的な物量差を支える事は並大抵の事ではなかった。そして、そんな戦時中に、徐々にすり減っていくのは自分達の正常な神経だ。
それを保ちながら戦い続けるという事は尋常ならざることだったとしか言えない。それでも、心を折る事もなく戦い続けられたのは、ひとえに祖国への募る思いがあったせいだろう。
アリナ・エーヴァは隣に座っている弟のエイノ・イルマリを横目に見やった。
穏やかな女性の瞳に、エイノ・イルマリはほほえみを返した。
彼がまだ十代の頃は、このフランス外人部隊の隊員でもあった陸戦のプロフェッショナルに対して、身内ながら軽い恐怖を覚えたものだが、今はそうではなかった。
頼もしい姉。
誰よりもフィンランドを愛し、そのために自分自身を犠牲にした彼女――アリナ・エーヴァ。
「姉さんのことを、戦闘狂だとか、英雄だとか、そういったことを言う人もいますが、姉さんはそんなものを望んだわけじゃないんです」
戦士として年月を数え、そうして大人になった青年はうなずきながら新聞記者の男に苦笑した。
姉――アリナ・エーヴァはそれほど多くを語る人間ではない。
戦場でこそ、派手な行動と言動で目立ちもするが、私生活にいたってはいっそ平凡と言ってもいいだろう。
部下たちを鼓舞するための言動と、普段の行動が異なって当たり前だ。
なによりも、戦場という、非日常的な場所で通常と変わらない態度ができる人間がいるだろうか。
「姉さんは、ただ、平和で安心して生活できるスオミを守りたかっただけです」
それはそう。
時の元帥――カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥と気持ちは同じだ。フィンランドの軍人、兵士たちは全員が同じ気持ちで、ひとつの目的に向かって邁進した。
「イッル……」
「姉さん?」
「……いいのよ」
戦場であったことを多く語るべきではない、とアリナは思っている。だから語らない。
「あんな、最悪の、凄惨な戦争の記憶を、語り継ぐ必要などないのよ」
未来は明るいのだから、なにも、暗い過去を語り継ぐ必要などない。
伸びかかった金髪を揺らしながら、彼女は立ち上がると窓の外を物憂げに見つめた。しばらくの沈黙がその場を支配した。
彼女の様子に、弟のエイノ・イルマリも、新聞記者の男も声を発する事ができずにいる。軍人であるからか、細く見えるがきっちりと筋肉の付いた背中は確かに戦士のものだった。重い銃をとって自ら戦いに参加した。
「わたしは、もう二度とスオミの国民に泣いてもらいたくない」
そう言って彼女は長い睫毛を伏せた。
どれほどの沈黙だったのか。
静寂を切り裂いた彼女の声に、エイノ・イルマリは背筋を正した。
喧嘩をすれば全く歯が立たなかった姉。けれども、そんな彼女が、コッラーの戦いの指揮を任されたと聞いて、どこかほっとした当時のエイノがいた。
姉ならば大丈夫だろうと、そう思った。
「……俺は、姉さんが、コッラーを任されたと聞いたとき、ほっとしたんだ」
「あら、どうして?」
くすりと彼女が弟に対して笑った。
「姉さんなら、絶対に守りきってくれると、信じて居たから」
姉のアリナ・エーヴァであれば必ず自軍を有利に導いてくれると弟は信じて居た。彼女を誰よりも。
「……でもね、本当は、あの戦いはわからなかったのよ」
なにせ、相手は四千人だ。
どうなるのかすらわからなかった。
戦線の重要性は充分に理解していたが、それでも圧倒的な戦力差がそこには存在していた。
たった三二人でどれほど戦えるだろうか、と。
「あのときの、部隊の人間全員が、一騎当千だったから、あれだけ戦えたのよ」
「わかっています」
姉と弟の会話を聞いている新聞記者の男は、二人の陸と空の英雄の姉弟を取り巻く空気に手帳に走らせるペンを思わず止めた。
それほどまでに、静寂に満ちた空気がそこにはあった。
これが、戦時中、英雄とたたえられるほどの戦いを繰り広げた人間なのかと。
「……准尉、大尉」
新聞記者の男がエイノ・イルマリとアリナ・エーヴァに呼び掛けた。
そっと肩越しにアリナが振り返る。
エイノ・イルマリが空軍准尉。そうして、アリナ・エーヴァは陸軍大尉だ。
「わたしたちは、けれどあなた方の戦う姿に救われたのです」
「ありがとう」
アリナが笑った。
どこか悲しげに。
切なげに。
「けれども、わたしはスオミを守るために多くのものを失いました……」
穏やかな瞳に涙の膜がにじんだように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
「リュティ大統領も……」
そこまでつぶやいて、アリナは目元を指先で拭った。
表情を隠すように窓の外に視線を戻した彼女はそうして再び沈黙した。
多くのものを失った。
特に過酷な戦闘の最前線に立たざるを得なかった彼女は自分の中にある人間らしさすらも失っていったのだ。
「恐ろしいのは、本当は、自分自身でした……」
自分が人間でなくなるような恐ろしさ。
最前線で敵を屠り続ける彼女を見て多くの兵士達が勇気づけられる。彼らを鼓舞するためにも彼女は戦わなければならなかった。そしてそれ故に彼女は最前線で、まっすぐに前だけを見つめ続けた。
冬戦争。
そして、継続戦争とラップランド戦争。
「わたしは……」
どうにか人の「形」を保っているが、それすらも妖しい。
アルコールの力を借りてやっとそれらしい形をとどめているに過ぎない。ふと気を緩めれば目の前にちらつくのは「ウラー!」と叫び声を上げて突撃してくる赤軍兵士たち。
「わたしは、殺しすぎました……」
後悔しているわけではない。
あの時代には必要だった事だ。
殺しすぎて、戦場を忘れる事ができなくなっている自分がいる。
「亡くした戦友たちが、そして殺して死んでいった赤軍兵士やドイツ兵が、目の前から消えないんです」
そもそも、始まりはどこからだったのか、と、新聞記者の男――サイラ・プールネンは考えた。
少なくとも、軍人達にとっての始まりは一九三九年十一月二十六日。
政治家達の駆け引きはもっと前からはじめられていたはずだ。
ソビエト連邦はフィンランドなどの東欧諸国に数々の恫喝的な要求を突きつけてきた。十月十二日ソ連外務人民委員モロソフと老政治家パーシキヴィを代表とする代表団によって両国の話し合いがもたれた。その会談にはヨシフ・スターリンも出席し、相互援助条約の調印を提案、要求をしてきたのである。
フィンランド側がそれを拒否すると、今度は、フィンランド湾の防衛を目的とした限定的な相互援助条約を提案されたが、これもフィンランドは拒否をした。そうすると、ソ連側はフィンランドと領土の取引を提案したのであるが、これがひどい内容でフィンランドには到底受け入れがたいものであった。
スターリンはカレリア地峡の国境がレニングラードに余りにも近すぎると力説し、その防衛のためにもハンコ岬が必要だと主張したが、フィンランド政府はこれに対して全く妥協をしなかった結果、ソ連とフィンランドの間の交渉は約一ヶ月にわたって行われた後に、スターリンの「さようなら」とモロトフの「ごきげんよう」という言葉で打ちきりになった。
どちらにしたところで、その会見は、大国の我が儘を小国に押しつけただけの都合のいいものだった。おそらく、ソビエト連邦は、そうして結果的にはラトビア、エストニア、リトアニアらの小国と同様にフィンランドもその手の内にしようとしていたのだろう。
「カレリア国境付近で、ソ連の部隊が我が国の砲撃を受けて負傷者が出た、という事件がありましたが、それについて大尉はどう思われましたか?」
プールネンに問いかけられて、アリナ・エーヴァはそっと眉をひそめた。
彼女は当時、予備役中尉だった。
予備役、というのは要するにそういうことで、よほどのことがない限り動員される事がない。予備役が動員されるということは、国家的な「有事」が起こった時だ。
当時のアリナはすでに三十五歳。
兵士としては、体力の盛りを越えていた。
もちろんそれでも、若い経験を積んでいないひよっこに負けるつもりなどなかった。比較対象は主に弟のエイノ・イルマリだったりもするが。
よく戦争になる前は、十歳年少の弟をからかったものだ。そんな姉のからかいに対して、憮然として機嫌を悪化させる青年が可愛くてたまらなくて、姉はついつい度を超えてしまった。
「我が国が、ソ連を攻撃するなど、そんな余裕があったとは思えません」
きっぱりと彼女が言い放つ。
そうすると、プールネンは手帳になにごとかを書き込みながら顔を上げて、少しきつめの美人の顔を見つめた。
実際の年齢よりも若く見えるのは、きっと彼女が軍人であるためだろう。
どこか屈託のない笑顔は、彼女が軍人として歩んできた時間の中にできた落差だ。アリナは自らも「沢山のものを失った」と表現した。
「そんなことをすれば、あのスターリンのことです。結果は目に見えています」
一軍人ですらわかることだ。
それを、フィンランド首脳陣が知らなかったわけはない。
児戯にすら劣る。
彼女はそう言い切った。
そうして「始まってしまった」のだ。
戦争が。
後書き
作者:sakura |
投稿日:2012/09/02 00:37 更新日:2012/09/02 00:40 『英雄の願い』の著作権は、すべて作者 sakura様に属します。 |
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