作品ID:1747
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鏖都アギュギテムの紅昏
小説の属性:ライトノベル / 異世界ファンタジー / 激辛批評希望 / 中級者 / R-15&18 / 連載中
こちらの作品には、暴力的・グロテスクおよび性的な表現・内容が含まれています。18歳未満の方、また苦手な方はお戻り下さい。
前書き・紹介
一回戦第五典礼『影曳ク死蟲/正義機構』
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一回戦 第五典礼
黒滅(ネロメス)・ウティリ
罪状:変異血脈根絶法違反、大量殺人、貴族殺人、強盗罪、強姦罪
対
魔月(マガツ)・ディプロア・カザフィテス・カナニアス
罪状:異律者の軍勢を〈帝国〉版図に招じ入れたる前例なき利敵行為
――貴族とは、人にあらず。
――貴族とは、統治の円環を廻す歯車なれば、
――人がましい幸福を得ようなどと願うこと自体、万民への不忠と知れ。
魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスの生きる指標とは、つまるところそれに尽きる。
公正であれ。寛大であれ。冷徹であれ。闊達であれ。聡明であれ。傲慢であれ。
そして何より、勇猛であれ。
おおよそ封権君主に求められる資質のすべてを勝ち取った男は、周囲の期待に応えることに疑問を抱かなかったし、ごくごく自然な流れとして自らを貴族の中の貴族と定義づけた。
ゆえに、この生き方を負担に思ったことなど一度もない。
今までも。これからも。
●
「余は誇り高きカザフ公なれば、貴様に最敬礼を命ず。その車椅子から降り、這いつくばり、名乗れ」
魔月は傲然と相手を見下し、言い放った。
――いやいやいや……
狼淵は参列席で、半ばあきれながらそれを見下ろしていた。左右には維沙と刈舞もいる。
外界での地位など、アギュギテムではほとんど意味がないことぐらいわかっているはずなのだが、あの貴公子の態度はとにかく首尾一貫している。
魔月と対峙するように、異様な影がひとつ。
一見したところ、その者はあどけない少年に見えた。
ちらと隣に座る維沙を見やる。
――こいつとほとんど変わらない年頃か。
元の場所に目を戻す。
大きな瞳は茫洋とした光を宿し、魔月を見ていない。この世のどこも、見ていない。
「ァ、アー……」
手入れも何もしていない黒髪を振り乱し、口の端から涎のすじが垂れている。
病的な震えが、終始その矮躯を襲っていた。
木製の車椅子の中に、ぐったりと背を預けている。体型は、黒紫の長衣に覆われて正確なところはよくわからない。ずいぶん着ぶくれしていた。
黒滅・ウティリ。
八鱗覇濤に参加しているクソ野郎のなかでは、まずまず平均的な罪状であろう。
――しかし、車椅子ってお前。
自力で立つこともできないとでも言うのか? そんな奴がどうやって戦う?
「……物狂いか」
魔月は息をつき、首を振りながら手袋を外す。
やがて餓天法師がやってきて、二人の間に立った。
「これより八鱗覇濤が一回戦、第五典礼を執り行う」
「アー、アッアッ、アー……」
黒滅は、こてんと首を傾げた。別段疑問を呈そうとしていたわけではなく、姿勢を保つ労力を支払うのが面倒になっただけのようだ。
「双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」
魔月は手袋をはずし、腰の剣を抜き放った。
神聖八鱗拷問具ではないが、見事な拵えだ。
「黒滅・ウティリ。並びに魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアス。第七炎生礼賛経典義(テスタメントゥム・デュエリウム)が典範に従い、宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)に己が霊格を問え」
餓天法師が手を差し上げた。
「――始め」
振り下ろす。
瞬間、黒滅が、嗤った。人間の黒い情念を煮詰めて凝らせたような、禍々しい笑みだった。
大気が、凝固する。
張り詰めた沈黙が、戦士二人と参列者たちを縛った。
が。
「……動きませんね」
刈舞が自らの尖った顎をつかむ。
達人同士の決闘典礼ではよくあることだ。何も考えず闇雲に斬りかかったり、チョキを突き出したりするのは二流どころのやることである。確率が半々の博打を打っているのと何も変わらない。
真の戦士ならば、少しでも勝率を上げるべく冷静に己の呼吸を隠し、相手の呼吸を読もうとする。
が、お互いがお互いの呼吸を読み切れなかった場合、往々にしてこういう膠着状態ができてしまう。
「妙だ」
維沙が、ぽつりと言った。
「偉そうな人の様子がおかしい」
偉そうな人、か。
苦笑しながら、狼淵は魔月に目を向ける。
……貴公子のこめかみを、汗が伝っていた。
目元は険しく細められ、表情に余裕がない。
――何だ?
ただの真剣勝負に伴う緊張というには切迫しすぎている。魔月とはさほどの接触もなかったが、命の取り合いに気後れするような人がましい弱さとは無縁の男であることぐらいはわかる。
明らかに、彼は追い詰められていた。
何故か。
黒滅に目を移す。
「アッ…………アッ…………アッ…………」
嗤笑を浮かべている。
しかし……笑い方が、なんだか妙だった。
断続的なのだ。普段は死人のような無表情なのに、一定の間隔で痙攣のように嗤う。
笑顔は一瞬しか続かず、すぐに元の無表情に戻る。
異様な光景だった。わけもなく心胆が寒くなる。
――何だ……?
何が、起こっている?
●
魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスは、不敗の霊将である。軍団指揮という方面において彼を上回る人間など存在しない。率いた軍勢は常に、必ず、圧倒的に勝った。
ゆえに一対一の殺し合いも、大規模戦闘における戦術をそのまま置き換えて考える癖がついていた。
腕力、胆力、反射神経などは兵数の多寡や士気、練度などに置き換えられる。
そして――呼吸を読む、というのは、情報戦と本質を同じくする。いかにこちらの実情を悟られずに、相手の実情を掴むか。
その戦いにおいて、魔月は現在、完敗していた。
――明らかに、奴はこちらの呼吸の周期を察知している。
魔月の戦力が最も充実する「吐ききる瞬間」に、黒滅は痙攣のような嗤笑を閃かせるのだ。
ためしに呼吸周期をずらしてみたが、寸分違わず嗤いがついてきた。
いつでもお前を殺せるぞ――という意思表示。
そして、それにも増して魔月を混乱のどん底に叩き落とす事実があった。
――この賎民……[呼吸をしていない]……
あり得ない。
人間というものは、呼吸の段階によって、戦闘能力が桁違いに変化する。
息を吐き切る瞬間は、心身ともに臨戦状態だ。普段にはない力が全身に漲り、機敏かつ強力に動ける。
反対に、息を吸い終える瞬間は非常に危険である。何をするにも一拍遅れ、力もほとんど出ない。
ゆえに、どんな戦士であろうと、息を吐き切る直前に攻撃を仕掛ける。
例外はない。ひとつたりとも、ない。
それは気息から力を取り出す人体構造上の必然である。
呼吸をしない生き物など存在しない。人間も、畜生も、異律者さえもこの法則には従う。
だから単純に考えて、黒滅の呼吸を隠す技能が神域に達しており、こちらが察知できないだけではないか。
魔月も最初はそう考えた。
だが、現実的にそんなことがありうるのか? 魔月の本分は将であるが、これまでの幾多の戦役にて陣頭に立って切り込んできた。一人の戦士としても、年齢に似合わぬ場数を踏んでいる。その経験から言うと、若い者ほど呼吸の情報戦を軽視してしまう傾向が強く、また重要性に気づいたとしても技術が伴わない。
呼吸の完璧な偽装など、螺導・ソーンドリスのような老剣鬼が一生を費やす修業を積んだ上に、平伏するという体勢の利点も生かすことで初めて可能となる離れ業なのだ。魔月ですら、出来るのは両極点の瞬間をあやふやにする程度で、吸っていることや吐いていること自体は隠しおおせない。
黒滅の年齢は、どう見ても兵役に取られるほどにも達していない。普通ならば至聖祭壇に立つことなどありえない子供である。
それが、なぜ。
まぁ、可能性の一つとして、奴がこちらのいかなる想像をも絶する規格外の天才である、という考えは残しておいてもいい。納得はしがたいが。
なんにせよ、現段階では結論は出せない。
だが、黒滅の戦術的な目的は明白だ。わざわざ「お前の呼吸を読んでいるぞ」と教えてくれる理由などひとつしかない。
時間を稼ぎたいのだ。
つまりこのまままんじりともせずに膠着状態を続けていると、こちらにとって良からぬ「何か」が訪れるのだ。
――こちらの消耗を待っている……?
確かに、こうして心機を臨戦させて敵と対峙することは、心身ともに重い疲労をもたらす。何時間も続けていられるものではない、が――
迂遠に過ぎる。どれだけ待つつもりだ。そんなことをするくらいなら「お前の呼吸を読んでいるぞ」という情報を与えずに「 」勝負でも挑んだ方がまし……
――ん?
何だ?
今、自分の思考には、不自然な空白があった。
そして――その理由に思い当たる前に、黒滅・ウティリが、手をこちらに突き出してきた。
痩せ細った、枯れ木のような手だった。
魔月は、ぼんやりとそれを見ていた。
●
狼淵は、奇妙な光景を目の当たりにしていた。
黒滅が、意味の良くわからないことをやり始めたのだ。
「……何してんだ、あいつ」
手を、突き出していた。
どういうわけか、[人差し指と中指をぴんと伸ばし、まっすぐ魔月に差し向けていたのだ]。
「よくわからないけど、なにかのおまじないじゃないかな」
「いやいやいや……」
そんなことをして敵が死ぬなら苦労はない。現に魔月も、不可解そうな目でそれを見ている。特に何も起こらない。
――あれ、待てよ?
「あの仕草は、確か法で禁止されてたよな?」
「そういえば、そうだね。……ん、変だな。どうして禁止されてたんだっけ?」
二人で首を傾げる。まったく思い出せない。明らかに妙だ。
「……まずいですね」
刈舞だけが、確信を込めた眼で至聖祭壇を凝視している。
「なにがだよ?」
「号して「形象鎌」。銘を「ウェリタス」。黒滅・ウティリの体に宿れる拷問具の名です」
「それが……何なんだ?」
「かの拷問具の御力は、所持者以外の全人類の記憶から、ひとつだけ任意の概念を消す――というものです」
「え」
「我々は今、[何かを忘れさせられている]。そして黒滅・ウティリだけがそれを覚えている」
任意の概念をひとつだけ、全人類の頭から消せる。ひとつだけ。
しかし、その概念と関連がある諸々の記憶は残っているため、整合性を欠くありさまとなっているのだ。
「忘れさせる……って、そのどこが形象鎌なんだよ」
どちらかと言えば忘却剣オブリヴィオの範疇ではないのか。全人類に効果を及ぼすのなら、オブリヴィオより強力なくらいだ。
「いやまぁ、いろいろと小難しい機序の末に、結果的に「忘れた」としか表現のしようがない事態になっているわけですが……より正確に言うなら、ウェリタスの力は「共通認識の形象化」です」
「聞いただけで頭が痛くなるから原理の説明はもういい」
「は、はぁ……ともかく、黒滅のあの手は、何か重大かつ致命的な意味があると考えてよいでしょう」
黒滅は意図不明な手を突き出してから微動だにしていない。ただ痙攣のような笑いを続けているだけだ。
魔月もまた、動かない。ただ警戒の念を強くしただけのようだった。
●
一歩、右に動く。
すると、黒滅(ヤツ)の手もそれに従ってついてきた。
さらに一歩、右に動く――と見せかけて左に戻った。
敵は特に慌てることもなく、ゆったりと向きを修正する。
「ふむ」
今の反応のズレから、魔月は推論を立てる。
ひとつ。どうやらあの人差し指と中指を突き出した手は、こちらに向けることで初めて意味が生じるらしいということ。
ふたつ。弓や弩のように、わずかでも狙いがそれれば不発に終わるのではなく、だいたいこちらに向いていれば良いらしいということ。
あの貧相な腕の中に何らかのからくりが埋め込まれており、小さな刃なり礫なりを飛ばしてくる――という線はこれで消えた。
刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドから、事前に奴の拷問具の概要は聞いている。
さっきの不自然な思考の空白は、形象鎌ウェリタスによるものなのだろう。
どう考えてもあの手ははったりではない。現実的な意味がある。
「……やれやれ」
魔月は決断した。所詮、推論では限界がある。兵法において勝利を呼ぶのは熟考よりも果断である。
剣をくるりと逆手に持ち替える。
一歩大きく踏み込む。
呼吸は隠さない。そんな必要はないから。
とにかく攻撃手段として意表をつくことだけを考えた。ゆえに必殺でなくとも良い。
全身の関節の動きを連動させ、鋭い裂帛とともに、[魔月は剣を投じた]。
投げ槍の鍛錬は、戦塵の中に身を置く武人としては当然の嗜みである。
一方、奴は戦場など知るまい。知っているのは市井での個人的な殺し合いのみ。
大規模集団戦闘においては「 」よりも投げ槍や弓のほうが効率の良い殲滅手段であることも知らず、そのような戦技が今この場で出てくる可能性を念頭にすら置いていないはず。ゆえに、反応が遅れた。
狙いは――極めて正確。黒滅の脳天に向けて、緩やかな孤を描きながら突き進む。
――当然、何らかの対応をされるだろう。しかし対応するということは、こちらに判断の材料を与えるということだ。
魔月は、己の身に宿る神聖八鱗拷問具を励起させた。基本指針としては、敵が投剣を凌いだ瞬間に拷問具による第二撃を加える。しかし黒滅の対応如何によっては、第二撃の内容を柔軟に変えることも考えておく。
鈍い、音がした。
魔月は、瞠目した。
少年の頭が、がくんと後ろに倒れ、反動でゆっくりと前に戻ってくる。
その顔面から、剣の柄が生えていた。
意味不明な手は力を失って、車椅子の手すりから垂れ下がる。
矮躯全体が二、三回痙攣し――やがて動かなくなった。
瞬間――頭の中の霧が晴れた。
そうだ。あれはチョキだ。視界に収めただけで即死する、危険極まる手だ。
黒滅の死とともに、形象鎌が力を失ったため、魔月の脳裏にも「じゃんけん」という概念が戻ってきたのだ。
――死?
死んだ、だと?
愕然とした思いで、少年の死体を見やる。どう見ても、黒滅の脳髄を剣が貫通していた。
微動だにしない。
――今ので? 死んだ?
特段、子供を手に掛けたことによる罪悪感などない。極罪人同士の殺し合いの場で、そんな寝惚けたことを言うつもりはない。
しかし、いくらなんでも投剣だけで決着がつくとは思わなかった。
人の生き死には、存外に味気ないものであるが、それにしたところで神聖八鱗拷問具に選ばれた勇士が、まさか、こんな……
衝撃が過ぎ去ると、今度は呆然とした。
思考の、一瞬の、停止。
――その時。
黒滅の、手が、動いた。
ゆっくりと持ち上がり、人差し指と中指を除く三指が折り曲げられてゆく。
全身が、総毛だった。
――何だ……!?
あり得ぬ。明らかに死んでいるはずだ。
最も根本的な死生観の、崩壊。
そして、死(チョキ)が、形作られる。
最初は、軽い衝撃くらいにしか感じなかった。
魔月は一歩後ろに下がり、姿勢の均衡を保とうとする。
まだ、生きている。きわどいところであったが、ともかく衝撃と自失から立ち直り、目を閉ざすことに成功した。
黒滅の死体が出したチョキは、不発に終わった。
が。
体に、妙な違和感があった。
視界が、徐々に傾いてゆく。
それに引っ張られるように、視線を転じると――石畳に、何かが転がっていた。
細長い芋か何かのように見える。
あれは。
確か、見覚えがあるぞ。というか、毎日見ているはずだ。
「……おぉ、」
己の、右脚。
腿の中ほどで、すっぱりと切断されている。血が噴出している。
左右の重心が致命的に狂い、貴公子はその場に転倒した。
「がっ……ふ」
――何が、起こった……?
震えながら、さらに後方を見やる。
至聖祭壇の石畳に、透き通った翠色の戦鎌が突き立っていた。緩やかに湾曲した刃が、石材に罅を入れ、深々と埋まっている。
形象鎌ウェリタス。
おおよそのところは、それで察せられた。
「発条(ばね)仕掛けか……」
あの枯れ木のような腕で、これほど威力のある投擲などできようはずもない。
恐らくは、車椅子に秘密がある。
内部に投石器じみた機構が組み込まれており、呆れたことに至聖の祭具たる形象鎌を高速で射出するのだ。それも、チョキと同時に。
それはわかる。わかるのだが――
何故、頭部を剣が貫通した状態でそんなことができるのか。
意味が分からない。黒滅・ウティリはからくり人形だとでも言うのか。
墓標のようにそびえていたウェリタスが、液状化した。
まるで意志を持つように、魔月のすぐ横を這い進んでゆく。
――再装填か。
成すすべもない。手を伸ばして阻もうとしても、指の間から通り抜けてゆくだろう。
一射目は単なる照準設定にすぎない。
その結果をもとに、射角・仰角を調節した二射目こそが本命だ。
足を失った状態では避けようもない。唯一希望があるとするなら、奴がこちらに狙いを定めているまさにその瞬間にチョキを突き付けることだったが――
――無理であろうな。
そもそもチョキに対する防御など簡単だ。さっき魔月がやったように、目を閉じればいいのである。
もちろん、普通の状況では目を閉ざしている間に別の攻撃を食らうのが関の山であるが、現状、魔月にはチョキしか攻撃手段がない。
二択を迫るための、「対の選択肢」がこちらに存在しない以上、黒滅がチョキをかわすのはあまりにも簡単だ。
というか、脳天を貫かれて平然と戦闘を続けるような存在に対して、何をすれば勝利となりうるのか。
――潮時だな。
冷徹に、そう結論付ける。
存外につまらん最期だ。まぁ、人類を裏切った咎人の散り際が不本意なものになるのは、ある意味当然の報いか。
不器用に肩をすくめようとした、その瞬間――
「カザフ公よ!!!! 誓いを忘れ腐ったかッ!!!!」
雷鳴が、轟いた。
鼓膜がびりびりと痺れ、魔月は顔をしかめる。
爆音のごとき大音声。
まったく、いつものことながら、あの男の肺腑は一体どうなっているのか。
声だけで人を殺せそうである。
嫌々ながら、爆心地に目を向ける。
案の定、参列席の片隅で、縦にも横にも雄大なる偉丈夫が、腕を組んでふんぞり返っていた。
霊燼・ウヴァ・ガラク。
「貴公の咎は、全人類に対するものであるッ!!!! 片脚を失い、衝撃はあろう!! 苦痛もあろう!! なれど、そんな程度では到底貴公の罪は償いきれぬ!!!! 猛省せよッ!!!! そして奮起せよッ!!!! 貴公に誇りがあるのなら、心に巣食う諦念と怯懦を滅殺すべしッ!!!!」
黙れ。暑苦しい。
だいたい貴様、弱小家門たるガラク家の五男坊の分際で何を偉そうに指図をしておるのか。同じ貴族でも越えられぬ家格というものがあることを弁えよ。〈帝国〉への功多き軍団長(レガートゥス)でなければ不敬罪に処していたところだ。
それよりも何よりも。
「まるで余が女子供のごとく重傷に心折れ、苦しみ悶えているかのような放言、極めて不快である」
ここで死んだら、あたかも霊燼の言が正しかったかのようではないか。腹立たしい。
……同時に、魔月はこの状況を冷静に利用していた。
霊燼の大音声は、否応もなく人の注意を引き付けずにはおかない。黒滅・ウティリですら、それは例外ではない。
今この瞬間、敵はこちらを見ていない。
その可能性に、賭けた。
「〈惑乱せし自己同一性〉の八鱗よ――」
かすれた声で、祝詞を口ずさむ。
よりにもよって、この拷問具が自らを選んだことに、神の悪意を感じながら。
「藍緑の虚妄を纏い――」
思えば、自らの生は、この概念を否定するための戦いであったと。
今はその誇りだけを、噛みしめて。
「凝固せよ――!」
太腿の切断面から、藍緑の奔流が吹き出し、するすると伸びてゆく。
号して「矛盾鎖」。銘を「エブリエタス」。
されど、今回はかかる祭具の物質的側面のみをあてにする。
自在に動き、伸び、形を変える「鎖」としての特性。
そして、神聖八鱗拷問具に共通する、宿主の肉体との融和性。
この二つを、利用する。
高速で石畳を這い進み、切断された魔月の右脚に触れると、先端部分が融解して肉と一体化。
魔月と右脚が鎖で繋がった形だ。そのまま今度は引っ張る。急速に短くなってゆく矛盾鎖エブリエタス。
牽引する力を利用して、魔月は寝返りを打つ。
直後、すぐそばを風圧と共に翠色の何かが回転しながら凄まじい勢いで通り過ぎて行った。
間一髪だ。
やがて切断面同士がぴたりと接触。その周囲を半ば液状化した鎖で何重にも縛り上げる。
もちろん、こんな処置で脚が治るなら苦労はない。人体は粘土細工とは違うのだ。
だが、まともに戦うにはともかく立ち上がらなければならぬし、立ち上がるならば杖代わりになる何かが必要だった。今回はたまたま自分の脚がそれに最適だったというだけのことである。
エブリエタスはそのまま右脚全体に巻きつき、魔月の思う通りの動きをさせる。
が、さすがに拷問具をこのように活用したのは初めてだ。足の動きを代行させるにしても加減がわからない。元通りと言うわけには到底いかぬ。
――ともかく。
魔月は、ゆっくりと、立ち上がった。
そうとも。物狂いの賎民風情にいつまでも見下ろされる屈辱を甘受する気はない。
視界の端に映る黒滅の影を確認。チョキは出していない。
素早く敵を視界の中央に収める。ただそれだけで体勢が崩れそうだったが、なんとかこらえる。血を失いすぎた。意識を保つのにも苦労する。
――仕切り直しだ。
●
――ずっと、一緒だった。
――二人がこの世に生まれ落ちて以降、いついかなる時も、寄り添っていた。
母親から化け物呼ばわりされたときも。城邑から追放されたときも。
行く先々で石を投げつけられ、時には槍もて追われたときも。
絆は決して綻びることがなかった。
彼らは、幸せだった。
恐怖と疑心と嫉妬が拭い難く鬱積するこの世界で、決して揺るがぬ信頼を手にできる人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
何物も、二人の仲に罅を入れることなどできはしなかった。
いかなる苦難も、二人で乗り越えてきた。どれだけ辛くとも、生きることを諦めたりはしなかった。
うれしいも、かなしいも、二人で共有した。何度か喧嘩して、同じ数だけ仲直りした。
食べ物も、お金も、女も、二人で奪い、二人で分かち合った。
社会が、彼ら兄弟に、まっとうに生きることを許してくれなかったから。
気づけば、二人の通った後には、人体の破片が浮かぶ血沼が広がるようになっていた。
――そうとも。
「誰も僕たちを止められぬ何故なら僕たちには絆があるから絆があるから絆があるから」
[彼]は、口の中でひとりごちた。
生まれてはじめての、独り言だった。
実際のところ、あてが外れていた。
ぐつぐつと煮え滾り濁り果てた目で黒髪の貴公子を睨みつける。
この時点で敵が生きているのは想定外だ。
彼の基本戦術は、形象鎌ウェリタスを活用して全人類にじゃんけんの概念を忘れさせ、すかさずチョキを突き付けることだ。
もちろん、魔月もこの万物流転の祭儀を忘れ去っているので「人差し指と中指だけを突き出した手」の意味を認識できず、この時点では殺傷力が発生しない。
しかし、ウェリタスによる忘却は永遠ではない。一定時間で解除される。
それまでの間、敵の注意をチョキに引き付けることができれば――記憶が戻ると同時に魔月の頭が破裂するというわけだ。
この形而上的連携技を逃れた者など、今まで一人たりともいなかった。
当然、二の矢、三の矢は用意している。しないはずがない。
そのひとつが、車椅子に組み込んだ射出装置だ。形象鎌ウェリタスの姿と、権能(ちから)を行使した事実を隠し、前述の連携技を凌いだ敵に対する二の矢として放たれる。さすがに本物の矢ほどの初速は出ないが、神聖八鱗拷問具の刃は甲冑を斬り裂くほどのものだ。不意打ちの手段としては十分すぎる。
が、敵はこれすら生き残る。あまつさえ足を失ってなお立ち上がる。
そして――四の矢はない。続く三の矢が不発に終われば、もはやこちらに打つ手はない。
あぁ、だがそれは、いつものことだ。常に生と死の狭間を安住の地としてきたのだから。
彼は全身で混沌と絡み合う筋肉を瞬発させ、車椅子から跳ね飛んだ。
空中で邪魔な長衣を脱ぎ捨てる。
「地に伏し泥を啜り七本の肢にて蟲のように影のように死のように這いずり進み殺し奪い未通女を穢し金切る凱歌をひしり上げること幾星霜この命この痛みこの愉悦こそ僕の神楽僕の信仰僕の愛僕の絆僕の絆絆絆絆絆絆――」
そう、絆だ。それだけが、信ずるに足るものだ。
黒滅・ウティリは強く強く、痛いほどまでにそれを実感した。
[なぜなら]、[奇跡が起こっているのだから]。
●
現実が、歪んだ。
そう錯覚するほどの酩酊が、魔月を襲った。
断じて貧血による意識の混濁などではない。
――なんだ、これは。
今まで黒滅・ウティリには驚かされ続けてきたが、すべてはこの前振りだったのではないか。
「僕が持たぬすべてを持った人よその名は魔月欠落なき肉体と美々しき顔容そしてこの世の栄華を約束された尊き血そのすべてを僕は羨み憎み欲情し穢さんと望むゆえにゆえにゆえにあなたの〈魂〉を喰らい〈魄〉を蝋漬けにして永遠の伴侶となさしめん」
「何を思い上がっている。下賤の胤が」
変異血脈。
しかし、これほど極端な奇形が存在するとは。あまつさえ今まで生き残るとは。
二人の子供が、混ぜ合わされ、絡み合っていた。
全体の輪郭を成すのは、額から剣柄が生えた子供の方だ。常人で言えば十歳程度の矮躯から、長さの異なる三本の腕が生えている。
そして、その胸に抱かれるように、赤子がいた。肉が融合し、蓑虫のように張り付いていた。
異様な光を湛えて、赤子はこちらを湿った炎のごとき眼で貫く。
直後、腹這いに着地して、その顔は隠された。七本の手足がぐっと折り曲げられ、次なる動きの力を蓄える。
剣の刺さった十歳児の顔が持ち上がり、飛び出しかけた眼球をぎょろつかせた。
魔月は即座にチョキを突き出す。
何も起こらない。
翠色の奔流が黒滅に殺到し、瞬時に凝固。奴の手の中で大鎌を形成する。
呼吸が――ない。攻めかかってくる時機が読めぬ。ゆえに反応が遅れた。
戦鎌の刃が魔月の首を薙ぎ払った。
硬質の激音。想像以上に重い衝撃だ。
矛盾鎖エブリエタスを頸部に巻きつかせていたのだ。健常な肉体と武術を持った者の斬撃であれば防ぎきれなかっただろうが、踏み込みすら満足に行えぬこの奇形児に対しては鎖帷子として十分に機能する。
骨の浮き出る手が、親指、薬指、小指を曲げにかかる。読み通り。斬撃を防がれた者が次にすることなどじゃんけん以外にない。
手を渾身の力で踏み潰した。骨の砕ける感触。
その脚で黒滅の腹――に相当する部位を蹴り上げ、ひっくり返す。
右脚の違和感をこらえつつ、赤子と対面する。
呼吸は――している。黒滅の体内構造がどうなっているのか想像もつかないが、片方が呼吸していればもう片方は息を止めていても問題ないようだ。
今、ちょうど吸い始めた。魔月は拳に鎖を巻きつけ、小さなその頭蓋を打ち砕かんと握りしめた。
その手が、止まった。
――何をしている。
拳を振り下ろせ。奴に行動する暇を与えるな。殺せ。黒滅・ウティリは「 」だ。
「またかッ!」
――瞬間。
世界から、ありとあらゆる争いが消え去った。
●
最初からこうしなかったことには理由がある。
何年か前、一度だけ同じことをした。全人類の頭から「敵」という概念を消したのだ。
だが、「憎しみ」が残る。
行き場をなくした憎しみは、いかなる衝動として表に現れるか。
――自殺である。
ぶつけ先をなくし、体内に溜まりに溜まった攻撃衝動は、裏返って自壊衝動となる。今まさに敵を殺さんとしていた者ならば、敵意は極限まで高まっており、裏返るまでに何秒もかからない。
ゆえに、黒滅にとっては最終手段だ。
自殺は駄目だ。それは黒滅という名を与えられた二人の少年の、生き方すべてを否定するものだ。
どれほど苦しくても、哀しくても、生きることを諦めてはいけないのだ。
人は、死ぬ。時には無残に。
だがそれは、必死に生き足掻いた結果であるべきだ。
直前まで全力で生きようとしていた敵が、どんよりと眼を濁らせて自殺するさまを見るのは忍びなかった。
だが、いい。一瞬、動きを止めるだけで十分だ。
こうして余裕ができた以上、チョキは出さない。この男の美しい顔は、僕たちの体に縫い付けて生涯の恋人とするのだ。
相棒の頭蓋に刺さった剣を、引き抜く。
がくん、と、首が力なく曲がる。
黒滅は――今やただ一人の黒滅となったその少年は、共に血塗られた生を駆け抜けた「彼」の死を悼んだ。
半身たる相棒の〈魂〉は、もはやこの体のどこにもない。すでに魔月の中にある。
それを取り戻す意味でも、魔月に自殺など許すわけにはいかなかった。
うれしいも、かなしいも、二人で分かち合った。神聖八鱗拷問具に選ばれたのは彼の方で、自分は小才が効くだけの凡人だったように思う。だから、知恵が遅れている彼の軍師役という立場に甘えていた。自らは決して矢面に立つことはなかった。彼のあどけない笑顔が、それを赦してくれていた。
――あぁ、だけど。
これからは、一人きりで、歩いてゆくよ。
……形象鎌ウェリタスは、御力を発揮していた。
宿主たる彼が死んだというのに。
……体が、動いていた。
半分は、彼のものだったはずなのに。
ありざることだ。この身は彼の胸に生えた腫瘍に過ぎぬ。
――あぁ、だから!
ただ一人の黒滅は、これを絆の証と受け取った。彼が、僕に、遺してくれたのだ。
小さな胸が、勇気でいっぱいになった。目頭に熱が溜まっていった。
ありがとう。ありがとう。ありがとうありがとうありがとう。
何度言っても、言い足りない。
我慢しなかった。する必要がなかった。
黒滅は剣を不器用に構えた。涙で揺らぐ視界の中で、魔月の胸に狙いを定める。
これからは本当の意味でひとつになろう。
「僕の無垢なる半身よ――」
生まれてはじめて、自分の手で、決着をつけるのだ。それこそが、生きるということなのだ。
満身の力を込めて、突き出す。
「……っ」
がつん、と、奇妙な手ごたえ。
その刃は――鎖の巻きついた手に掴み取られていた。万力のごとく握りしめられ、押しても引いても動かない。
黒滅は、目を見開いた。
馬鹿な。
もちろん、「敵」という概念がなくなったからといって生存本能までどうにかなるわけではない。危険が迫ってくれば避けようとはする。
が――攻撃を止め、握りしめ、動けなくし、刺すような眼でこちらを睨みつけるなど……どう見ても戦闘行動だ。
つまり、何だ? この貴公子は「敵意」や「憎しみ」以外の動機で殺し合いを行っているとでも言うのか?
そんなことが、ありうるのか? ごく基本的な心理として、何の敵意も介在しない殺人などというものが存在しうるのか?
「――余は、誇り高きカザフ公なれば」
魔月が、口を開いた。
ゆっくりと、骨のように白い手が動いた。
「貴様がごとき賎民風情には考えの及ばぬ法(のり)によってことに臨んでおる」
人差し指と中指が伸ばされ、残る三指が折り曲げられはじめる。
咄嗟に目を閉ざした。だが無意味だった。
両目に熱の塊が生じ、苦痛が爆発する。
眼窩にチョキの指を突き入れられたのだ。
喉が勝手に蠕動し、金切り声を上げる。
「こは戦にあらず。皇帝陛下の御庭先を荒らせし害虫、今ここで駆除いたすことこそ忠道なり」
それは――何だ。
義務、感……?
手に持った剣が、もぎとられた。根本的に腕力が違うのだ。
喉に、冷たく硬いものが押し当てられた。
「貴様は滅ばねばならぬ。生まれたことが間違いであったがゆえ」
「か……っ」
刃は徐々に徐々に、喉仏に埋まってゆく。
頭の中で、何かが膨らんだ。
最後の最後で、黒滅はこの男の人品を見誤った。
昆虫のごとき、異質な思考。
猛烈な嫌悪が、黒滅の胸を満たした。
――貴様は。
体の中を、肉がうねる。
怒りを込めて。呪いを込めて。
――貴様は生きていない。
肉の中で、何かの線が繋がった。
いかに欠落なき美しい肉体を持とうと。いかに黒滅には想像を絶する業績を挙げ続けようと。
この男は黒滅の万分の一も生きていない。
そうしたいからそうする、ではなく、[そうせねばならないからそうする]、という在り方。
責務の奴隷。
動く屍。
――そんなからくり仕掛けとさして変わらぬ存在が。
――生きたいとも思わず、生きて叶えるべき望みも持たぬ、人型の虚無ごときが。
「ぼ……ぐ……だぢ……を……ッ」
殺そうと言うのか!!
いまだ生え変わらぬ乳歯を、噛み砕く。
生きたのだ。僕たちは生きたのだ。
生きたかったから、生きたのだ。幸福を掴みたかったから生きたのだ。
誰一人、僕たちの生存を望んではくれなかったけれど。
苦しく、哀しい生だったけれど。
だけどそれは、彼らが「黒滅・ウティリはおぞましい異形であるがゆえに死んで欲しい」と心から願ったからだ。
[それは尊い願いなんだ]。すべての「欲しい」は、神聖なものなんだ。
彼らになら、力及ばず敗北し、殺されたとて納得できたのだ。
――それを……それを……!
口から、血の混じった絶叫が轟き渡った。
[瞬間]、[視界が]、[開けた]。
黒滅は、それが今は亡き相方の視野であることを即座に悟った。
焦点の合わぬ、ぼやけた映像。黒々と悪鬼のごとくわだかまる、魔月の姿。
脳天に剣を撃ち込まれた衝撃で飛び出た眼球が、それでも自らの本分を果たそうとしている。
叫喚。
第二肢と第四肢がのたうちながら伸び、魔月の顔面に掴みかかった。
第一肢と第五肢と第六肢は奴の腕に絡み付く。
第三肢と第七肢は敵の白い喉を締め上げはじめる。
――しね。しね。しね。
おまえのこころはぼくたちのからだよりきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい。
「それで、どうする」
魔月は、底光りする眼でこちらを見下している。
「余をくびり殺すにはあまりに非力ぞ」
知っている。
黒滅は、自らの肉の中で蠢くモノの存在を感じていた。
今まで一度も意識されることすらなかった、ソレを。
――母の胎内で、何を間違ったか混ぜこぜに育ってしまった兄弟。
二人の人間の混合物であるにも関わらず、黒滅には[七本]しか肢がなかった。
つまりこれは、そういうことであり。
「っ!」
二人の黒滅の接合部より、血と脂が吹き出し、ずるりと産まれてくるものがあった。
ぬらぬらと赤黒く濡れ光る、筋肉がむき出しとなった腕。
毒蛇のごとく伸長し、死を形作る。今度こそ邪魔はさせない。七肢すべてで魔月の動きを封じ、殺す。もはや頭部破裂も厭わぬ。このようなおぞましい心根の持ち主を自らに縫い付けるなど怖気が走る。
が。
目の前に、拳がある。呼吸を読まれていたのだ。
「ぎっ」
突き出した第八肢をパーへと変化させようとするが――魔月の手は単なるグーではなく、拳撃も兼ねていた。
脳の中を火花が散り、前歯が何本か折れ砕ける。
さらに一撃。鼻頭が粉砕される。小さな黒滅には敵手の呼吸を読む才能などない。そのあたりはすべて大きな黒滅が担っていたから。
敵の拳に、パーを合わせることさえできれば――!
血まみれのパーを突き出す。奇跡的な幸運。魔月はちょうど拳を繰り出しているところだ。
――しね。
黒滅は凄絶な笑みを浮かべる。
だが――何も起きない。
魔月は、ゆっくりと拳を開いた。白いものが落下した。それは潰れた黒滅の眼球であった。
掌の中に何かを握り込んでいると、殺傷の霊威が働かない。つまり、魔月の手はグーとして成立しておらず、そこにパーをぶつけても全くの無意味。
だが、これからは違う。正真正銘のチョキが来る。
反射的に目を閉ざそうとする――が、できない。
相方の眼球は目蓋を越えて飛び出ている。望みもしないのに視覚情報を黒滅の脳に送り続けている。
「……ぁ……」
知略で負けたことよりも。
今まさに死のうとしていることよりも。
[相方との絆こそが自分を殺そうとしている]事実に、黒滅は打ちのめされた。
「……ぁあぁ……」
目蓋ごと破られ潰された眼窩から、血と、房水と、涙と、絶望が溢れ出た。
「……ぃ……ぎ……だ……ぃ……」
「駄目だ」
おぞましいまでに白く滑らかな指が、死の象徴を形作った。
それが、黒滅・ウティリの知覚した、最期のものとなった。
「典礼、かく成就せり! 勝者、魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアス! ますらおに誉れあれかし!」
――誉れあれかし!
――誉れあれかし!
黒滅(ネロメス)・ウティリ
罪状:変異血脈根絶法違反、大量殺人、貴族殺人、強盗罪、強姦罪
対
魔月(マガツ)・ディプロア・カザフィテス・カナニアス
罪状:異律者の軍勢を〈帝国〉版図に招じ入れたる前例なき利敵行為
――貴族とは、人にあらず。
――貴族とは、統治の円環を廻す歯車なれば、
――人がましい幸福を得ようなどと願うこと自体、万民への不忠と知れ。
魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスの生きる指標とは、つまるところそれに尽きる。
公正であれ。寛大であれ。冷徹であれ。闊達であれ。聡明であれ。傲慢であれ。
そして何より、勇猛であれ。
おおよそ封権君主に求められる資質のすべてを勝ち取った男は、周囲の期待に応えることに疑問を抱かなかったし、ごくごく自然な流れとして自らを貴族の中の貴族と定義づけた。
ゆえに、この生き方を負担に思ったことなど一度もない。
今までも。これからも。
●
「余は誇り高きカザフ公なれば、貴様に最敬礼を命ず。その車椅子から降り、這いつくばり、名乗れ」
魔月は傲然と相手を見下し、言い放った。
――いやいやいや……
狼淵は参列席で、半ばあきれながらそれを見下ろしていた。左右には維沙と刈舞もいる。
外界での地位など、アギュギテムではほとんど意味がないことぐらいわかっているはずなのだが、あの貴公子の態度はとにかく首尾一貫している。
魔月と対峙するように、異様な影がひとつ。
一見したところ、その者はあどけない少年に見えた。
ちらと隣に座る維沙を見やる。
――こいつとほとんど変わらない年頃か。
元の場所に目を戻す。
大きな瞳は茫洋とした光を宿し、魔月を見ていない。この世のどこも、見ていない。
「ァ、アー……」
手入れも何もしていない黒髪を振り乱し、口の端から涎のすじが垂れている。
病的な震えが、終始その矮躯を襲っていた。
木製の車椅子の中に、ぐったりと背を預けている。体型は、黒紫の長衣に覆われて正確なところはよくわからない。ずいぶん着ぶくれしていた。
黒滅・ウティリ。
八鱗覇濤に参加しているクソ野郎のなかでは、まずまず平均的な罪状であろう。
――しかし、車椅子ってお前。
自力で立つこともできないとでも言うのか? そんな奴がどうやって戦う?
「……物狂いか」
魔月は息をつき、首を振りながら手袋を外す。
やがて餓天法師がやってきて、二人の間に立った。
「これより八鱗覇濤が一回戦、第五典礼を執り行う」
「アー、アッアッ、アー……」
黒滅は、こてんと首を傾げた。別段疑問を呈そうとしていたわけではなく、姿勢を保つ労力を支払うのが面倒になっただけのようだ。
「双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」
魔月は手袋をはずし、腰の剣を抜き放った。
神聖八鱗拷問具ではないが、見事な拵えだ。
「黒滅・ウティリ。並びに魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアス。第七炎生礼賛経典義(テスタメントゥム・デュエリウム)が典範に従い、宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)に己が霊格を問え」
餓天法師が手を差し上げた。
「――始め」
振り下ろす。
瞬間、黒滅が、嗤った。人間の黒い情念を煮詰めて凝らせたような、禍々しい笑みだった。
大気が、凝固する。
張り詰めた沈黙が、戦士二人と参列者たちを縛った。
が。
「……動きませんね」
刈舞が自らの尖った顎をつかむ。
達人同士の決闘典礼ではよくあることだ。何も考えず闇雲に斬りかかったり、チョキを突き出したりするのは二流どころのやることである。確率が半々の博打を打っているのと何も変わらない。
真の戦士ならば、少しでも勝率を上げるべく冷静に己の呼吸を隠し、相手の呼吸を読もうとする。
が、お互いがお互いの呼吸を読み切れなかった場合、往々にしてこういう膠着状態ができてしまう。
「妙だ」
維沙が、ぽつりと言った。
「偉そうな人の様子がおかしい」
偉そうな人、か。
苦笑しながら、狼淵は魔月に目を向ける。
……貴公子のこめかみを、汗が伝っていた。
目元は険しく細められ、表情に余裕がない。
――何だ?
ただの真剣勝負に伴う緊張というには切迫しすぎている。魔月とはさほどの接触もなかったが、命の取り合いに気後れするような人がましい弱さとは無縁の男であることぐらいはわかる。
明らかに、彼は追い詰められていた。
何故か。
黒滅に目を移す。
「アッ…………アッ…………アッ…………」
嗤笑を浮かべている。
しかし……笑い方が、なんだか妙だった。
断続的なのだ。普段は死人のような無表情なのに、一定の間隔で痙攣のように嗤う。
笑顔は一瞬しか続かず、すぐに元の無表情に戻る。
異様な光景だった。わけもなく心胆が寒くなる。
――何だ……?
何が、起こっている?
●
魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスは、不敗の霊将である。軍団指揮という方面において彼を上回る人間など存在しない。率いた軍勢は常に、必ず、圧倒的に勝った。
ゆえに一対一の殺し合いも、大規模戦闘における戦術をそのまま置き換えて考える癖がついていた。
腕力、胆力、反射神経などは兵数の多寡や士気、練度などに置き換えられる。
そして――呼吸を読む、というのは、情報戦と本質を同じくする。いかにこちらの実情を悟られずに、相手の実情を掴むか。
その戦いにおいて、魔月は現在、完敗していた。
――明らかに、奴はこちらの呼吸の周期を察知している。
魔月の戦力が最も充実する「吐ききる瞬間」に、黒滅は痙攣のような嗤笑を閃かせるのだ。
ためしに呼吸周期をずらしてみたが、寸分違わず嗤いがついてきた。
いつでもお前を殺せるぞ――という意思表示。
そして、それにも増して魔月を混乱のどん底に叩き落とす事実があった。
――この賎民……[呼吸をしていない]……
あり得ない。
人間というものは、呼吸の段階によって、戦闘能力が桁違いに変化する。
息を吐き切る瞬間は、心身ともに臨戦状態だ。普段にはない力が全身に漲り、機敏かつ強力に動ける。
反対に、息を吸い終える瞬間は非常に危険である。何をするにも一拍遅れ、力もほとんど出ない。
ゆえに、どんな戦士であろうと、息を吐き切る直前に攻撃を仕掛ける。
例外はない。ひとつたりとも、ない。
それは気息から力を取り出す人体構造上の必然である。
呼吸をしない生き物など存在しない。人間も、畜生も、異律者さえもこの法則には従う。
だから単純に考えて、黒滅の呼吸を隠す技能が神域に達しており、こちらが察知できないだけではないか。
魔月も最初はそう考えた。
だが、現実的にそんなことがありうるのか? 魔月の本分は将であるが、これまでの幾多の戦役にて陣頭に立って切り込んできた。一人の戦士としても、年齢に似合わぬ場数を踏んでいる。その経験から言うと、若い者ほど呼吸の情報戦を軽視してしまう傾向が強く、また重要性に気づいたとしても技術が伴わない。
呼吸の完璧な偽装など、螺導・ソーンドリスのような老剣鬼が一生を費やす修業を積んだ上に、平伏するという体勢の利点も生かすことで初めて可能となる離れ業なのだ。魔月ですら、出来るのは両極点の瞬間をあやふやにする程度で、吸っていることや吐いていること自体は隠しおおせない。
黒滅の年齢は、どう見ても兵役に取られるほどにも達していない。普通ならば至聖祭壇に立つことなどありえない子供である。
それが、なぜ。
まぁ、可能性の一つとして、奴がこちらのいかなる想像をも絶する規格外の天才である、という考えは残しておいてもいい。納得はしがたいが。
なんにせよ、現段階では結論は出せない。
だが、黒滅の戦術的な目的は明白だ。わざわざ「お前の呼吸を読んでいるぞ」と教えてくれる理由などひとつしかない。
時間を稼ぎたいのだ。
つまりこのまままんじりともせずに膠着状態を続けていると、こちらにとって良からぬ「何か」が訪れるのだ。
――こちらの消耗を待っている……?
確かに、こうして心機を臨戦させて敵と対峙することは、心身ともに重い疲労をもたらす。何時間も続けていられるものではない、が――
迂遠に過ぎる。どれだけ待つつもりだ。そんなことをするくらいなら「お前の呼吸を読んでいるぞ」という情報を与えずに「 」勝負でも挑んだ方がまし……
――ん?
何だ?
今、自分の思考には、不自然な空白があった。
そして――その理由に思い当たる前に、黒滅・ウティリが、手をこちらに突き出してきた。
痩せ細った、枯れ木のような手だった。
魔月は、ぼんやりとそれを見ていた。
●
狼淵は、奇妙な光景を目の当たりにしていた。
黒滅が、意味の良くわからないことをやり始めたのだ。
「……何してんだ、あいつ」
手を、突き出していた。
どういうわけか、[人差し指と中指をぴんと伸ばし、まっすぐ魔月に差し向けていたのだ]。
「よくわからないけど、なにかのおまじないじゃないかな」
「いやいやいや……」
そんなことをして敵が死ぬなら苦労はない。現に魔月も、不可解そうな目でそれを見ている。特に何も起こらない。
――あれ、待てよ?
「あの仕草は、確か法で禁止されてたよな?」
「そういえば、そうだね。……ん、変だな。どうして禁止されてたんだっけ?」
二人で首を傾げる。まったく思い出せない。明らかに妙だ。
「……まずいですね」
刈舞だけが、確信を込めた眼で至聖祭壇を凝視している。
「なにがだよ?」
「号して「形象鎌」。銘を「ウェリタス」。黒滅・ウティリの体に宿れる拷問具の名です」
「それが……何なんだ?」
「かの拷問具の御力は、所持者以外の全人類の記憶から、ひとつだけ任意の概念を消す――というものです」
「え」
「我々は今、[何かを忘れさせられている]。そして黒滅・ウティリだけがそれを覚えている」
任意の概念をひとつだけ、全人類の頭から消せる。ひとつだけ。
しかし、その概念と関連がある諸々の記憶は残っているため、整合性を欠くありさまとなっているのだ。
「忘れさせる……って、そのどこが形象鎌なんだよ」
どちらかと言えば忘却剣オブリヴィオの範疇ではないのか。全人類に効果を及ぼすのなら、オブリヴィオより強力なくらいだ。
「いやまぁ、いろいろと小難しい機序の末に、結果的に「忘れた」としか表現のしようがない事態になっているわけですが……より正確に言うなら、ウェリタスの力は「共通認識の形象化」です」
「聞いただけで頭が痛くなるから原理の説明はもういい」
「は、はぁ……ともかく、黒滅のあの手は、何か重大かつ致命的な意味があると考えてよいでしょう」
黒滅は意図不明な手を突き出してから微動だにしていない。ただ痙攣のような笑いを続けているだけだ。
魔月もまた、動かない。ただ警戒の念を強くしただけのようだった。
●
一歩、右に動く。
すると、黒滅(ヤツ)の手もそれに従ってついてきた。
さらに一歩、右に動く――と見せかけて左に戻った。
敵は特に慌てることもなく、ゆったりと向きを修正する。
「ふむ」
今の反応のズレから、魔月は推論を立てる。
ひとつ。どうやらあの人差し指と中指を突き出した手は、こちらに向けることで初めて意味が生じるらしいということ。
ふたつ。弓や弩のように、わずかでも狙いがそれれば不発に終わるのではなく、だいたいこちらに向いていれば良いらしいということ。
あの貧相な腕の中に何らかのからくりが埋め込まれており、小さな刃なり礫なりを飛ばしてくる――という線はこれで消えた。
刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドから、事前に奴の拷問具の概要は聞いている。
さっきの不自然な思考の空白は、形象鎌ウェリタスによるものなのだろう。
どう考えてもあの手ははったりではない。現実的な意味がある。
「……やれやれ」
魔月は決断した。所詮、推論では限界がある。兵法において勝利を呼ぶのは熟考よりも果断である。
剣をくるりと逆手に持ち替える。
一歩大きく踏み込む。
呼吸は隠さない。そんな必要はないから。
とにかく攻撃手段として意表をつくことだけを考えた。ゆえに必殺でなくとも良い。
全身の関節の動きを連動させ、鋭い裂帛とともに、[魔月は剣を投じた]。
投げ槍の鍛錬は、戦塵の中に身を置く武人としては当然の嗜みである。
一方、奴は戦場など知るまい。知っているのは市井での個人的な殺し合いのみ。
大規模集団戦闘においては「 」よりも投げ槍や弓のほうが効率の良い殲滅手段であることも知らず、そのような戦技が今この場で出てくる可能性を念頭にすら置いていないはず。ゆえに、反応が遅れた。
狙いは――極めて正確。黒滅の脳天に向けて、緩やかな孤を描きながら突き進む。
――当然、何らかの対応をされるだろう。しかし対応するということは、こちらに判断の材料を与えるということだ。
魔月は、己の身に宿る神聖八鱗拷問具を励起させた。基本指針としては、敵が投剣を凌いだ瞬間に拷問具による第二撃を加える。しかし黒滅の対応如何によっては、第二撃の内容を柔軟に変えることも考えておく。
鈍い、音がした。
魔月は、瞠目した。
少年の頭が、がくんと後ろに倒れ、反動でゆっくりと前に戻ってくる。
その顔面から、剣の柄が生えていた。
意味不明な手は力を失って、車椅子の手すりから垂れ下がる。
矮躯全体が二、三回痙攣し――やがて動かなくなった。
瞬間――頭の中の霧が晴れた。
そうだ。あれはチョキだ。視界に収めただけで即死する、危険極まる手だ。
黒滅の死とともに、形象鎌が力を失ったため、魔月の脳裏にも「じゃんけん」という概念が戻ってきたのだ。
――死?
死んだ、だと?
愕然とした思いで、少年の死体を見やる。どう見ても、黒滅の脳髄を剣が貫通していた。
微動だにしない。
――今ので? 死んだ?
特段、子供を手に掛けたことによる罪悪感などない。極罪人同士の殺し合いの場で、そんな寝惚けたことを言うつもりはない。
しかし、いくらなんでも投剣だけで決着がつくとは思わなかった。
人の生き死には、存外に味気ないものであるが、それにしたところで神聖八鱗拷問具に選ばれた勇士が、まさか、こんな……
衝撃が過ぎ去ると、今度は呆然とした。
思考の、一瞬の、停止。
――その時。
黒滅の、手が、動いた。
ゆっくりと持ち上がり、人差し指と中指を除く三指が折り曲げられてゆく。
全身が、総毛だった。
――何だ……!?
あり得ぬ。明らかに死んでいるはずだ。
最も根本的な死生観の、崩壊。
そして、死(チョキ)が、形作られる。
最初は、軽い衝撃くらいにしか感じなかった。
魔月は一歩後ろに下がり、姿勢の均衡を保とうとする。
まだ、生きている。きわどいところであったが、ともかく衝撃と自失から立ち直り、目を閉ざすことに成功した。
黒滅の死体が出したチョキは、不発に終わった。
が。
体に、妙な違和感があった。
視界が、徐々に傾いてゆく。
それに引っ張られるように、視線を転じると――石畳に、何かが転がっていた。
細長い芋か何かのように見える。
あれは。
確か、見覚えがあるぞ。というか、毎日見ているはずだ。
「……おぉ、」
己の、右脚。
腿の中ほどで、すっぱりと切断されている。血が噴出している。
左右の重心が致命的に狂い、貴公子はその場に転倒した。
「がっ……ふ」
――何が、起こった……?
震えながら、さらに後方を見やる。
至聖祭壇の石畳に、透き通った翠色の戦鎌が突き立っていた。緩やかに湾曲した刃が、石材に罅を入れ、深々と埋まっている。
形象鎌ウェリタス。
おおよそのところは、それで察せられた。
「発条(ばね)仕掛けか……」
あの枯れ木のような腕で、これほど威力のある投擲などできようはずもない。
恐らくは、車椅子に秘密がある。
内部に投石器じみた機構が組み込まれており、呆れたことに至聖の祭具たる形象鎌を高速で射出するのだ。それも、チョキと同時に。
それはわかる。わかるのだが――
何故、頭部を剣が貫通した状態でそんなことができるのか。
意味が分からない。黒滅・ウティリはからくり人形だとでも言うのか。
墓標のようにそびえていたウェリタスが、液状化した。
まるで意志を持つように、魔月のすぐ横を這い進んでゆく。
――再装填か。
成すすべもない。手を伸ばして阻もうとしても、指の間から通り抜けてゆくだろう。
一射目は単なる照準設定にすぎない。
その結果をもとに、射角・仰角を調節した二射目こそが本命だ。
足を失った状態では避けようもない。唯一希望があるとするなら、奴がこちらに狙いを定めているまさにその瞬間にチョキを突き付けることだったが――
――無理であろうな。
そもそもチョキに対する防御など簡単だ。さっき魔月がやったように、目を閉じればいいのである。
もちろん、普通の状況では目を閉ざしている間に別の攻撃を食らうのが関の山であるが、現状、魔月にはチョキしか攻撃手段がない。
二択を迫るための、「対の選択肢」がこちらに存在しない以上、黒滅がチョキをかわすのはあまりにも簡単だ。
というか、脳天を貫かれて平然と戦闘を続けるような存在に対して、何をすれば勝利となりうるのか。
――潮時だな。
冷徹に、そう結論付ける。
存外につまらん最期だ。まぁ、人類を裏切った咎人の散り際が不本意なものになるのは、ある意味当然の報いか。
不器用に肩をすくめようとした、その瞬間――
「カザフ公よ!!!! 誓いを忘れ腐ったかッ!!!!」
雷鳴が、轟いた。
鼓膜がびりびりと痺れ、魔月は顔をしかめる。
爆音のごとき大音声。
まったく、いつものことながら、あの男の肺腑は一体どうなっているのか。
声だけで人を殺せそうである。
嫌々ながら、爆心地に目を向ける。
案の定、参列席の片隅で、縦にも横にも雄大なる偉丈夫が、腕を組んでふんぞり返っていた。
霊燼・ウヴァ・ガラク。
「貴公の咎は、全人類に対するものであるッ!!!! 片脚を失い、衝撃はあろう!! 苦痛もあろう!! なれど、そんな程度では到底貴公の罪は償いきれぬ!!!! 猛省せよッ!!!! そして奮起せよッ!!!! 貴公に誇りがあるのなら、心に巣食う諦念と怯懦を滅殺すべしッ!!!!」
黙れ。暑苦しい。
だいたい貴様、弱小家門たるガラク家の五男坊の分際で何を偉そうに指図をしておるのか。同じ貴族でも越えられぬ家格というものがあることを弁えよ。〈帝国〉への功多き軍団長(レガートゥス)でなければ不敬罪に処していたところだ。
それよりも何よりも。
「まるで余が女子供のごとく重傷に心折れ、苦しみ悶えているかのような放言、極めて不快である」
ここで死んだら、あたかも霊燼の言が正しかったかのようではないか。腹立たしい。
……同時に、魔月はこの状況を冷静に利用していた。
霊燼の大音声は、否応もなく人の注意を引き付けずにはおかない。黒滅・ウティリですら、それは例外ではない。
今この瞬間、敵はこちらを見ていない。
その可能性に、賭けた。
「〈惑乱せし自己同一性〉の八鱗よ――」
かすれた声で、祝詞を口ずさむ。
よりにもよって、この拷問具が自らを選んだことに、神の悪意を感じながら。
「藍緑の虚妄を纏い――」
思えば、自らの生は、この概念を否定するための戦いであったと。
今はその誇りだけを、噛みしめて。
「凝固せよ――!」
太腿の切断面から、藍緑の奔流が吹き出し、するすると伸びてゆく。
号して「矛盾鎖」。銘を「エブリエタス」。
されど、今回はかかる祭具の物質的側面のみをあてにする。
自在に動き、伸び、形を変える「鎖」としての特性。
そして、神聖八鱗拷問具に共通する、宿主の肉体との融和性。
この二つを、利用する。
高速で石畳を這い進み、切断された魔月の右脚に触れると、先端部分が融解して肉と一体化。
魔月と右脚が鎖で繋がった形だ。そのまま今度は引っ張る。急速に短くなってゆく矛盾鎖エブリエタス。
牽引する力を利用して、魔月は寝返りを打つ。
直後、すぐそばを風圧と共に翠色の何かが回転しながら凄まじい勢いで通り過ぎて行った。
間一髪だ。
やがて切断面同士がぴたりと接触。その周囲を半ば液状化した鎖で何重にも縛り上げる。
もちろん、こんな処置で脚が治るなら苦労はない。人体は粘土細工とは違うのだ。
だが、まともに戦うにはともかく立ち上がらなければならぬし、立ち上がるならば杖代わりになる何かが必要だった。今回はたまたま自分の脚がそれに最適だったというだけのことである。
エブリエタスはそのまま右脚全体に巻きつき、魔月の思う通りの動きをさせる。
が、さすがに拷問具をこのように活用したのは初めてだ。足の動きを代行させるにしても加減がわからない。元通りと言うわけには到底いかぬ。
――ともかく。
魔月は、ゆっくりと、立ち上がった。
そうとも。物狂いの賎民風情にいつまでも見下ろされる屈辱を甘受する気はない。
視界の端に映る黒滅の影を確認。チョキは出していない。
素早く敵を視界の中央に収める。ただそれだけで体勢が崩れそうだったが、なんとかこらえる。血を失いすぎた。意識を保つのにも苦労する。
――仕切り直しだ。
●
――ずっと、一緒だった。
――二人がこの世に生まれ落ちて以降、いついかなる時も、寄り添っていた。
母親から化け物呼ばわりされたときも。城邑から追放されたときも。
行く先々で石を投げつけられ、時には槍もて追われたときも。
絆は決して綻びることがなかった。
彼らは、幸せだった。
恐怖と疑心と嫉妬が拭い難く鬱積するこの世界で、決して揺るがぬ信頼を手にできる人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
何物も、二人の仲に罅を入れることなどできはしなかった。
いかなる苦難も、二人で乗り越えてきた。どれだけ辛くとも、生きることを諦めたりはしなかった。
うれしいも、かなしいも、二人で共有した。何度か喧嘩して、同じ数だけ仲直りした。
食べ物も、お金も、女も、二人で奪い、二人で分かち合った。
社会が、彼ら兄弟に、まっとうに生きることを許してくれなかったから。
気づけば、二人の通った後には、人体の破片が浮かぶ血沼が広がるようになっていた。
――そうとも。
「誰も僕たちを止められぬ何故なら僕たちには絆があるから絆があるから絆があるから」
[彼]は、口の中でひとりごちた。
生まれてはじめての、独り言だった。
実際のところ、あてが外れていた。
ぐつぐつと煮え滾り濁り果てた目で黒髪の貴公子を睨みつける。
この時点で敵が生きているのは想定外だ。
彼の基本戦術は、形象鎌ウェリタスを活用して全人類にじゃんけんの概念を忘れさせ、すかさずチョキを突き付けることだ。
もちろん、魔月もこの万物流転の祭儀を忘れ去っているので「人差し指と中指だけを突き出した手」の意味を認識できず、この時点では殺傷力が発生しない。
しかし、ウェリタスによる忘却は永遠ではない。一定時間で解除される。
それまでの間、敵の注意をチョキに引き付けることができれば――記憶が戻ると同時に魔月の頭が破裂するというわけだ。
この形而上的連携技を逃れた者など、今まで一人たりともいなかった。
当然、二の矢、三の矢は用意している。しないはずがない。
そのひとつが、車椅子に組み込んだ射出装置だ。形象鎌ウェリタスの姿と、権能(ちから)を行使した事実を隠し、前述の連携技を凌いだ敵に対する二の矢として放たれる。さすがに本物の矢ほどの初速は出ないが、神聖八鱗拷問具の刃は甲冑を斬り裂くほどのものだ。不意打ちの手段としては十分すぎる。
が、敵はこれすら生き残る。あまつさえ足を失ってなお立ち上がる。
そして――四の矢はない。続く三の矢が不発に終われば、もはやこちらに打つ手はない。
あぁ、だがそれは、いつものことだ。常に生と死の狭間を安住の地としてきたのだから。
彼は全身で混沌と絡み合う筋肉を瞬発させ、車椅子から跳ね飛んだ。
空中で邪魔な長衣を脱ぎ捨てる。
「地に伏し泥を啜り七本の肢にて蟲のように影のように死のように這いずり進み殺し奪い未通女を穢し金切る凱歌をひしり上げること幾星霜この命この痛みこの愉悦こそ僕の神楽僕の信仰僕の愛僕の絆僕の絆絆絆絆絆絆――」
そう、絆だ。それだけが、信ずるに足るものだ。
黒滅・ウティリは強く強く、痛いほどまでにそれを実感した。
[なぜなら]、[奇跡が起こっているのだから]。
●
現実が、歪んだ。
そう錯覚するほどの酩酊が、魔月を襲った。
断じて貧血による意識の混濁などではない。
――なんだ、これは。
今まで黒滅・ウティリには驚かされ続けてきたが、すべてはこの前振りだったのではないか。
「僕が持たぬすべてを持った人よその名は魔月欠落なき肉体と美々しき顔容そしてこの世の栄華を約束された尊き血そのすべてを僕は羨み憎み欲情し穢さんと望むゆえにゆえにゆえにあなたの〈魂〉を喰らい〈魄〉を蝋漬けにして永遠の伴侶となさしめん」
「何を思い上がっている。下賤の胤が」
変異血脈。
しかし、これほど極端な奇形が存在するとは。あまつさえ今まで生き残るとは。
二人の子供が、混ぜ合わされ、絡み合っていた。
全体の輪郭を成すのは、額から剣柄が生えた子供の方だ。常人で言えば十歳程度の矮躯から、長さの異なる三本の腕が生えている。
そして、その胸に抱かれるように、赤子がいた。肉が融合し、蓑虫のように張り付いていた。
異様な光を湛えて、赤子はこちらを湿った炎のごとき眼で貫く。
直後、腹這いに着地して、その顔は隠された。七本の手足がぐっと折り曲げられ、次なる動きの力を蓄える。
剣の刺さった十歳児の顔が持ち上がり、飛び出しかけた眼球をぎょろつかせた。
魔月は即座にチョキを突き出す。
何も起こらない。
翠色の奔流が黒滅に殺到し、瞬時に凝固。奴の手の中で大鎌を形成する。
呼吸が――ない。攻めかかってくる時機が読めぬ。ゆえに反応が遅れた。
戦鎌の刃が魔月の首を薙ぎ払った。
硬質の激音。想像以上に重い衝撃だ。
矛盾鎖エブリエタスを頸部に巻きつかせていたのだ。健常な肉体と武術を持った者の斬撃であれば防ぎきれなかっただろうが、踏み込みすら満足に行えぬこの奇形児に対しては鎖帷子として十分に機能する。
骨の浮き出る手が、親指、薬指、小指を曲げにかかる。読み通り。斬撃を防がれた者が次にすることなどじゃんけん以外にない。
手を渾身の力で踏み潰した。骨の砕ける感触。
その脚で黒滅の腹――に相当する部位を蹴り上げ、ひっくり返す。
右脚の違和感をこらえつつ、赤子と対面する。
呼吸は――している。黒滅の体内構造がどうなっているのか想像もつかないが、片方が呼吸していればもう片方は息を止めていても問題ないようだ。
今、ちょうど吸い始めた。魔月は拳に鎖を巻きつけ、小さなその頭蓋を打ち砕かんと握りしめた。
その手が、止まった。
――何をしている。
拳を振り下ろせ。奴に行動する暇を与えるな。殺せ。黒滅・ウティリは「 」だ。
「またかッ!」
――瞬間。
世界から、ありとあらゆる争いが消え去った。
●
最初からこうしなかったことには理由がある。
何年か前、一度だけ同じことをした。全人類の頭から「敵」という概念を消したのだ。
だが、「憎しみ」が残る。
行き場をなくした憎しみは、いかなる衝動として表に現れるか。
――自殺である。
ぶつけ先をなくし、体内に溜まりに溜まった攻撃衝動は、裏返って自壊衝動となる。今まさに敵を殺さんとしていた者ならば、敵意は極限まで高まっており、裏返るまでに何秒もかからない。
ゆえに、黒滅にとっては最終手段だ。
自殺は駄目だ。それは黒滅という名を与えられた二人の少年の、生き方すべてを否定するものだ。
どれほど苦しくても、哀しくても、生きることを諦めてはいけないのだ。
人は、死ぬ。時には無残に。
だがそれは、必死に生き足掻いた結果であるべきだ。
直前まで全力で生きようとしていた敵が、どんよりと眼を濁らせて自殺するさまを見るのは忍びなかった。
だが、いい。一瞬、動きを止めるだけで十分だ。
こうして余裕ができた以上、チョキは出さない。この男の美しい顔は、僕たちの体に縫い付けて生涯の恋人とするのだ。
相棒の頭蓋に刺さった剣を、引き抜く。
がくん、と、首が力なく曲がる。
黒滅は――今やただ一人の黒滅となったその少年は、共に血塗られた生を駆け抜けた「彼」の死を悼んだ。
半身たる相棒の〈魂〉は、もはやこの体のどこにもない。すでに魔月の中にある。
それを取り戻す意味でも、魔月に自殺など許すわけにはいかなかった。
うれしいも、かなしいも、二人で分かち合った。神聖八鱗拷問具に選ばれたのは彼の方で、自分は小才が効くだけの凡人だったように思う。だから、知恵が遅れている彼の軍師役という立場に甘えていた。自らは決して矢面に立つことはなかった。彼のあどけない笑顔が、それを赦してくれていた。
――あぁ、だけど。
これからは、一人きりで、歩いてゆくよ。
……形象鎌ウェリタスは、御力を発揮していた。
宿主たる彼が死んだというのに。
……体が、動いていた。
半分は、彼のものだったはずなのに。
ありざることだ。この身は彼の胸に生えた腫瘍に過ぎぬ。
――あぁ、だから!
ただ一人の黒滅は、これを絆の証と受け取った。彼が、僕に、遺してくれたのだ。
小さな胸が、勇気でいっぱいになった。目頭に熱が溜まっていった。
ありがとう。ありがとう。ありがとうありがとうありがとう。
何度言っても、言い足りない。
我慢しなかった。する必要がなかった。
黒滅は剣を不器用に構えた。涙で揺らぐ視界の中で、魔月の胸に狙いを定める。
これからは本当の意味でひとつになろう。
「僕の無垢なる半身よ――」
生まれてはじめて、自分の手で、決着をつけるのだ。それこそが、生きるということなのだ。
満身の力を込めて、突き出す。
「……っ」
がつん、と、奇妙な手ごたえ。
その刃は――鎖の巻きついた手に掴み取られていた。万力のごとく握りしめられ、押しても引いても動かない。
黒滅は、目を見開いた。
馬鹿な。
もちろん、「敵」という概念がなくなったからといって生存本能までどうにかなるわけではない。危険が迫ってくれば避けようとはする。
が――攻撃を止め、握りしめ、動けなくし、刺すような眼でこちらを睨みつけるなど……どう見ても戦闘行動だ。
つまり、何だ? この貴公子は「敵意」や「憎しみ」以外の動機で殺し合いを行っているとでも言うのか?
そんなことが、ありうるのか? ごく基本的な心理として、何の敵意も介在しない殺人などというものが存在しうるのか?
「――余は、誇り高きカザフ公なれば」
魔月が、口を開いた。
ゆっくりと、骨のように白い手が動いた。
「貴様がごとき賎民風情には考えの及ばぬ法(のり)によってことに臨んでおる」
人差し指と中指が伸ばされ、残る三指が折り曲げられはじめる。
咄嗟に目を閉ざした。だが無意味だった。
両目に熱の塊が生じ、苦痛が爆発する。
眼窩にチョキの指を突き入れられたのだ。
喉が勝手に蠕動し、金切り声を上げる。
「こは戦にあらず。皇帝陛下の御庭先を荒らせし害虫、今ここで駆除いたすことこそ忠道なり」
それは――何だ。
義務、感……?
手に持った剣が、もぎとられた。根本的に腕力が違うのだ。
喉に、冷たく硬いものが押し当てられた。
「貴様は滅ばねばならぬ。生まれたことが間違いであったがゆえ」
「か……っ」
刃は徐々に徐々に、喉仏に埋まってゆく。
頭の中で、何かが膨らんだ。
最後の最後で、黒滅はこの男の人品を見誤った。
昆虫のごとき、異質な思考。
猛烈な嫌悪が、黒滅の胸を満たした。
――貴様は。
体の中を、肉がうねる。
怒りを込めて。呪いを込めて。
――貴様は生きていない。
肉の中で、何かの線が繋がった。
いかに欠落なき美しい肉体を持とうと。いかに黒滅には想像を絶する業績を挙げ続けようと。
この男は黒滅の万分の一も生きていない。
そうしたいからそうする、ではなく、[そうせねばならないからそうする]、という在り方。
責務の奴隷。
動く屍。
――そんなからくり仕掛けとさして変わらぬ存在が。
――生きたいとも思わず、生きて叶えるべき望みも持たぬ、人型の虚無ごときが。
「ぼ……ぐ……だぢ……を……ッ」
殺そうと言うのか!!
いまだ生え変わらぬ乳歯を、噛み砕く。
生きたのだ。僕たちは生きたのだ。
生きたかったから、生きたのだ。幸福を掴みたかったから生きたのだ。
誰一人、僕たちの生存を望んではくれなかったけれど。
苦しく、哀しい生だったけれど。
だけどそれは、彼らが「黒滅・ウティリはおぞましい異形であるがゆえに死んで欲しい」と心から願ったからだ。
[それは尊い願いなんだ]。すべての「欲しい」は、神聖なものなんだ。
彼らになら、力及ばず敗北し、殺されたとて納得できたのだ。
――それを……それを……!
口から、血の混じった絶叫が轟き渡った。
[瞬間]、[視界が]、[開けた]。
黒滅は、それが今は亡き相方の視野であることを即座に悟った。
焦点の合わぬ、ぼやけた映像。黒々と悪鬼のごとくわだかまる、魔月の姿。
脳天に剣を撃ち込まれた衝撃で飛び出た眼球が、それでも自らの本分を果たそうとしている。
叫喚。
第二肢と第四肢がのたうちながら伸び、魔月の顔面に掴みかかった。
第一肢と第五肢と第六肢は奴の腕に絡み付く。
第三肢と第七肢は敵の白い喉を締め上げはじめる。
――しね。しね。しね。
おまえのこころはぼくたちのからだよりきもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい。
「それで、どうする」
魔月は、底光りする眼でこちらを見下している。
「余をくびり殺すにはあまりに非力ぞ」
知っている。
黒滅は、自らの肉の中で蠢くモノの存在を感じていた。
今まで一度も意識されることすらなかった、ソレを。
――母の胎内で、何を間違ったか混ぜこぜに育ってしまった兄弟。
二人の人間の混合物であるにも関わらず、黒滅には[七本]しか肢がなかった。
つまりこれは、そういうことであり。
「っ!」
二人の黒滅の接合部より、血と脂が吹き出し、ずるりと産まれてくるものがあった。
ぬらぬらと赤黒く濡れ光る、筋肉がむき出しとなった腕。
毒蛇のごとく伸長し、死を形作る。今度こそ邪魔はさせない。七肢すべてで魔月の動きを封じ、殺す。もはや頭部破裂も厭わぬ。このようなおぞましい心根の持ち主を自らに縫い付けるなど怖気が走る。
が。
目の前に、拳がある。呼吸を読まれていたのだ。
「ぎっ」
突き出した第八肢をパーへと変化させようとするが――魔月の手は単なるグーではなく、拳撃も兼ねていた。
脳の中を火花が散り、前歯が何本か折れ砕ける。
さらに一撃。鼻頭が粉砕される。小さな黒滅には敵手の呼吸を読む才能などない。そのあたりはすべて大きな黒滅が担っていたから。
敵の拳に、パーを合わせることさえできれば――!
血まみれのパーを突き出す。奇跡的な幸運。魔月はちょうど拳を繰り出しているところだ。
――しね。
黒滅は凄絶な笑みを浮かべる。
だが――何も起きない。
魔月は、ゆっくりと拳を開いた。白いものが落下した。それは潰れた黒滅の眼球であった。
掌の中に何かを握り込んでいると、殺傷の霊威が働かない。つまり、魔月の手はグーとして成立しておらず、そこにパーをぶつけても全くの無意味。
だが、これからは違う。正真正銘のチョキが来る。
反射的に目を閉ざそうとする――が、できない。
相方の眼球は目蓋を越えて飛び出ている。望みもしないのに視覚情報を黒滅の脳に送り続けている。
「……ぁ……」
知略で負けたことよりも。
今まさに死のうとしていることよりも。
[相方との絆こそが自分を殺そうとしている]事実に、黒滅は打ちのめされた。
「……ぁあぁ……」
目蓋ごと破られ潰された眼窩から、血と、房水と、涙と、絶望が溢れ出た。
「……ぃ……ぎ……だ……ぃ……」
「駄目だ」
おぞましいまでに白く滑らかな指が、死の象徴を形作った。
それが、黒滅・ウティリの知覚した、最期のものとなった。
「典礼、かく成就せり! 勝者、魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアス! ますらおに誉れあれかし!」
――誉れあれかし!
――誉れあれかし!
後書き
作者:バール |
投稿日:2016/06/27 20:37 更新日:2016/06/27 20:37 『鏖都アギュギテムの紅昏』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。 |
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