作品ID:180
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アルバイト軍師!
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 連載中
前書き・紹介
第七話 脱兎の如く逃走したい……と思います!
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第七話 脱兎の如く逃走したい……と思います!
追撃の準備を完了したノートリアム陣営に、エーベルン第五軍から手紙を預かったという地元住民が来たのは、まさにエイシアが追撃の号令を発する直前の出来事であった。
「……ほう」
その手紙を受け取ったエイシアは、目を細めて微笑を浮かべた。
「……何と書かれていますか?」
傍に居たリリアが尋ねると、エイシアはその手紙をリリアに渡した。
「拝見致します」
手紙を受け取ったリリアが、手紙に目を通すと驚きの表情に変わった。
「こ、これは、挑戦状ではありませんか!」
リリアの叫びに、カイ、デネール、カシェル、ダルトも驚きの表情を浮かべた。
「……ああ、そうだ。一万余の兵力でまだ挑むらしい」
エイシアは微笑を浮かべた。決死の覚悟で挑む相手と戦いを挑むのは、武人として本望だ。バッカスという下手くそより少しは骨がある。存分に相手をしてやろうではないか。
その時、兵の一人が天幕に入って来た。
「申し上げます! 今、地元の住民がエーベルンの兵から預かった書状を渡しに来ました。これが、その書状です」
「…………は?」
エイシアは目を丸くした。書状なら立った今受け取ったばかりである。
さらに一人、兵が天幕に入ってきた。
「申し上げます! 今、地元の住民がエーベルンの兵から預かった書状を渡しに……」
さらに。
「申し上げます! 今、地元の住民が……」
またさらに。
「申し上げます! 今、……」
「申し……」
「申……」
以下、省略。
結局、全部で送られてきた書状は十通。
「………………」
エイシアは目を細めて十通にも渡る書状を横一列に並べた。
「おい、これは何だ?」
『………………』
エイシアの質問に、誰も答えられなかった。
「……無視しますか?」
カイが言うと、エイシアは机の上で頬杖をついた。
内容は全てバラバラ。
一通目は、散々侮辱する言葉が並べられた挑戦状。
二通目は、降伏するから、兵の命は助けて欲しい。という、降伏文書。
三通目は、撤退するから追撃しないで欲しい。という、嘆願書。
四通目は、バッカス大公爵の現在位置が記され、自分達は見逃して欲しい。という、醜悪な裏切り文書。
五通目は、降伏を拒否する。という、送っても無い文書に対する返信書。
六通目は、ノートリアム西の諸国が軍勢を動かしている。という、どう考えても欺瞞書。
七通目は、会見を設けて、穏便に戦いを終わらせたい。という、合議文書。
八通目は、ウォルス王の近くに暗殺者を配置した。撤退すれば、暗殺者も引き上げる。という、脅迫状。
九通目は、ノートリアムに勝ち目は無い。直ちに降伏せよ。という、降伏勧告。
十通目は、この手紙を受け取ったら、誰かに送らないと不幸になる。という、不幸の手紙。
「最後の不幸の手紙は何だ!? 私を侮辱しているのか!?」
エイシアは怒りの拳をテーブルにぶつけた。
「お、落ち着いてください……」
リリアが、エイシアの肩を叩き、肩で息をするエイシアを止めた。
「尋ねる。これは全て挑発か? それとも、真実が含まれているのか?」
エイシアが四人の将に尋ねる。
「……もし、これが謀略だとすれば、我等を足止めにするというのが一番しっくり来ます」
デネールが言うと、カイ、カシェル、ダルトが注目する。
「ならば、無視か?」
カイが言うと、デネールは頷く
「それが……宜しいかと。我等は敵を追撃良いのです」
「だが……。ここまで執拗に手紙を送りつけた理由は何だ?」
ダルトが言うと、エイシアは眉を吊り上げた。
「どういう事だ?」
「はい。姫様への挑発であったり、降伏文書であったり、送る理由は足止めであろうが、それが本当の理由なのか? という疑問が残ります。ここまで執拗な手紙の応酬。変だとは思いませんか? 逃げるだけならば、別に手紙を送る必要性は無く、さっさと引き上げれば良い。このような挑発めいた事をすれば、徹底的に追撃される可能性があるにも関わらず」
「……一理あるな」
エイシアはダルトの言葉に同意した。
「もし、これが挑発であり、我等に一矢報いる為の行動であるとすれば、兵を危険に晒す事になります。追撃は行えば宜しいかと思いますが、別に我等は敵を殲滅する為に来たのでは無く、迎撃に来たのです。敵が引き上げれば我等の役目は終わり。既に我々の勝利は不動であり、無用な血を流す必要性はありません」
「では、追撃は慎重に行え……と?」
「御意」
「…………だが、逆に考えればそれこそが敵に狙いではないか?」
エイシアの反論にダルトは黙った。
「カシェル。お前はどう考える?」
人生の大半を戦場に過している宿将に一同の視線が注がれた。
「……事の真偽はともかく、ダルト殿の進言通り、慎重に追撃して宜しいかと。敵の狙い通りだったとしても、此方に被害はありません。ただ、このような事、長く生きていますが初めての事です。エーベルン……いや、敵第五軍には相当な知恵者がいるかもしれませんな」
「知恵者……か」
「はい」
「ならば、何故、第一から第四軍を見捨てるような真似をしたのだ?」
カイが口を開く。
「エーベルンは一枚岩では無いと聞き及んでいます。例の王位継承の件で。もしかすれば、敵第五軍はバッカス大公爵の政敵なのかもしれません」
「……それならば、納得はできる。……よし、敵を追撃する。但し、伏兵に十二分に注意せよ。先頭はカイに任せる。強行偵察部隊を先鋒とせよ」
「はっ! ……え? あの者はまだ経験が足りぬかと」
「経験が足りないからこそ、やらせるのだ」
「はっ! 承知致しました」
ノートリアム首脳部は、思わぬ時間を潰して追撃を開始した。
追撃の先鋒、エーベルン強行偵察部隊。『鴉軍』に所属する、部隊の一つである。その機動力はノートリアム最速と言われる。
その指揮官であるリシャルト=ワーグナーは、疾風の如く迅速にエーベルン軍を追走した。
このリシャルト。元はただの一兵卒であったが、武勇もさることながら兵の指揮能力に優れており、エイシアにその才覚を見出されて、カイの副官の一人に抜擢された、まだ二十四の若き将である。何時か引退するであろう、宿将カシェルの後継者として期待され、カイに厳しく指導されている真っ最中だ。
リシャルトは一定の距離進む度に四方に偵察を放ち、伏兵の存在に注意しながら進み続けた。しかし、一向に伏兵は発見されず、宿営の跡すら残っていなかった。
偵察部隊が進み続けて一昼夜が経過した頃、部隊の一人がある物を発見し、リシャルトに報告した。報告を受けたリシャルトは自分の目で確認すべく、馬を飛ばす。
「こ、これは!? 何時の間にこんな物を……」
リシャルトが馬降り、徒歩で森の中を進み、茂みの中から見た物。
それは、砦であった。
狭い街道を利用して、砦で街道自体を封鎖しており、さらに左右の森には木を超える高さで複数の弓塔が建てられていた。兵の数を悟られないようにする為か、大量の旗が立てられており、武器の反射光の量を見る限り、大勢の兵が武器を構えて、決死の防戦を覚悟しているようだった。
「ここで一戦交えれば……被害は大きいな。良し、引き上げるぞ。急ぎカイ様に報告だ!」
リシャルト率いる偵察部隊の報告は、カイを通してエイシアに直ちに伝わった。
「……敵の書状は砦で決戦準備をする為の時間稼ぎ……だったのか?」
エイシアはその報告を受けて、疑問を口にした。
「そうかもしれません。そうではないかもしれません」
カイが目を閉じたまま、腕組みをしながら言った。
「どういう意味だ?」
エイシアが尋ねると、ゆっくりと目を開けた。
「……申し訳ありません。何かは分かりません。ただ……漠然とした違和感があるのです」
「違和感……か」
エイシアもそれを感じていたのだろう。カイの言葉に共感した。
「この違和感。まるで、相手の手の上で踊らされているような気分です。リシャルト、敵兵は確認出来たのか?」
天幕で膝を地に付けて控えるリシャルトに、カイが尋ねる。
「……確実に確認できた訳ではありません。大量の旗が並べられており、兵が隠されているようでした。左右の森の中には弓塔がいくつも建てられ、私見ではありますが、伏兵が控えている可能性があります。私としましては、可能な限り近づいて確認したかったのですが、敵に発見される必要性は無いと判断し、遠くの茂みから目視しました」
「……そうか」
カイが言うと、デネールが一歩前にでた。
「どうしますか? 砦を攻撃しますか?」
「……敵の備えが万全であるのに?」
エイシアが言うと、デネールが首を横に振った。
「万全では無い。と、思われます」
「……万全では……無い?」
「はい。もし、万全であるならば、書状を送る意味がありません。万全では無く、時間を稼ぎたいからこそ、あのような書状を送った。と、考えられませんか?」
「待て。確かに、そうも考えられる。だが、それこそが敵の狙いかもしれん。万全の状態では無いと油断させ、我等に一撃を与えて、然るのち撤退する」
「……一矢報いる……と?」
「砦がそう簡単に建設できるとは思えぬ。事前に準備していたのではないか?」
エイシアの言葉にも一理あった。常識的に考えて第四軍が敗北した時点で砦を建設始めたとすれば、まだ、未完成のはずである。だが、敵は的確な場所に砦を建設し、万全の状態で迎え撃つ構えを見せている。それは、第四軍が敗北する遥か前。ノートリアムとエーベルンが激突する前の時点で建設を始めた……であるならば、完成していたとしても不思議ではない。
「……味方の敗北が前提ですぞ」
カシェルが言うと、エイシアは大きな溜息を吐いた。
「そこが問題だ。味方が敗北する。それが前提で作られた……という事になる。だが以前、カイが言ったように、エーベルンは一枚岩では無い。しかも、あのバッカスという男は戦下手だ。負ける事を考えていても不思議では無い。……不思議では無い……が……」
エイシアは唇を噛み締めた。
「普通では有り得ない事ですな。味方を助けるならともかく、見捨てるというのは」
カシェルはあっさりとエイシアの問題点を言い放った。
一体何処の世界に、味方が負ける事を前提とし、さらには見捨てた上での作戦を考える人間がいるだろうか?
「……手の上で踊らされている。まさに、それだな」
エイシアは目を閉じて、腕組みをした。
「私は今まで戦で負けた事は無い。だが、それは負けなかっただけ……かもしれない……と、常々自分に言い聞かせていた。慢心と驕りは焦りと油断を生み、兵を無駄に死なせる」
目を開けたエイシアは、剣を鞘から抜き放った。
「砦を攻め落とす! 敵の備えが万全であると判断すれば、その時点で追撃は中止! 我等は敵の撤退を見送り、凱旋する! 攻撃は明日、夜明けと同時に実行する!」
『はっ!』
四人の名将と若き将の卵は、エイシアに向かって返答と同時に頭を下げた。
ノートリアム軍は砦から離れた場所で陣を構築して夜明けを待ち、日の出と共に出撃、砦に向かって総攻撃を開始した。
「攻撃開始!」
エイシアの号令の元、先陣の歩兵部隊が突撃を開始した。
最前列は盾を前に、左右両端はそれぞれの外側に盾を、内側は上に盾をならべ、一切の弓矢の攻撃を防ぐ体勢であった。
異変に気付いたのは先陣を任されたデネールであった。
「…………全軍停止! 止まれ!」
歴戦の勇将が下したとっさの判断で、ノートリアムの攻撃は停止した。
デネールが気付いた異変。それは、砦が静か過ぎる事。そして、弓の有効射程距離に入ってもまったく敵の矢が飛んで来なかったこと。そして、もう一つ。歴戦の勇将ならでは……だろうか? デネールは敵の砦から殺気というか、威圧感というか、戦場独特の空気を感じなかった。と、言うより。人の気配がまったくしない。
デネールは盾を構えたまま、単身ゆっくりと砦に近づいた。
「デネール! どうした!? 何か起こった!?」
デネールに声を掛けたのは、後方にいるはずのエイシアであった。デネールが停止命令を下した瞬間、エイシアは単騎で馬を飛ばして先陣まで駆け抜けたのである。
そして、少し遅れてリリアが近衛騎兵部隊の一部を引き連れ、エイシアに追い付いた。
「エイシア様! お一人では危険でございます!」
「……ああ、すまん。リリア」
エイシアは一言、リリアに謝罪の言葉を述べると、改めてデネールを見つめた。
「……あの砦、変です。殺意を微塵も感じません」
デネールが言うと、エイシアは砦に目を移した。
確かに、砦からは何も感じない。此方が急に行軍を停止したというのに動揺すら無い様だった。
エイシアは二十名ほどの歩兵に偵察を命じて、砦に向かわせた。
天幕でエイシアが受け取った偵察からの報告は、衝撃的な内容であった。
「……未完成の砦?」
エイシアが尋ねると、偵察兵は首を横に振った。
「いえ、未完成と言いましょうか……その……。張りぼて……ならば正確かと」
「は……張りぼてだと!?」
エイシアはテーブルを拳で、バンッ。と、叩き付けた。
「は、はい……。その、旗があるだけで、兵は木の枝に武器や鎧を着せて作られた偽兵でした。あと、砦は表面側だけで、内部は何もありません。弓塔は板を組み合わせて、その後ろを木材で支えているだけで……」
エイシアは力無く椅子に座り込んだ。
「ふふふふ……。あははははははははは……」
そして、自嘲するように笑った。
敵の張りぼての砦を恐れて尻込みしただけで無く、敵に退却する時間を与えてしまった形になる。しかし、張りぼての砦とは……。確かに、砦を作るならばそれなりの日数が要する。だが、張りぼてならば……一昼夜で建造する事が可能だ。張りぼてなので建造という言葉に値するかどうか疑問だが……。
笑いを止めたエイシアは、椅子から立ち上がった。
「全軍に通達! これより敵を追撃する! 張りぼての砦まで作ったのであれば、敵は退却している最中だという事だ。敵には我等に挑戦する意思は一切ない!」
「お待ち下さい」
エイシアの言葉を止めたのはデネールであった。
「何だ! デネール!?」
声を荒げてエイシアはデネールを見つめた。
「追撃は此処までが宜しいと進言致します」
「此処までだと!? 敵は我等を恐れて小細工をしただけだ! 我等は必要以上に敵を過大評価した。敵に恐れを為したと言われたいか!」
「言いたい者には好きなだけ言わせておけば宜しいでしょう。何を焦っておられるのですか?」
「焦っている!? このエイシア=レンダークが焦っていると言うか!」
「はい」
「もう良い! 下がれ! 此処から先は近衛騎兵部隊のみで追撃する!」
「……お待ち下さい」
今度はカイが一歩前に進み出た。
「鴉軍も動向致します。追撃するならば、騎兵部隊のみが宜しいでしょう」
「おい、カイ殿。お主も危険だと思っていないのか?」
カシェルが言うと、カイは首を横に振った。
「危険だからこそ、私も同行するのです。万が一、敵の罠があれば、鴉軍が殿となってエイシア様をお守り致します」
カイのはっきりとした言葉に、カシェルは大きく溜息を吐いた。
「……なれば、騎兵部隊のみの追撃。我等歩兵、弓兵部隊は待機でよろしゅうございますか?」
ダルトが確認の様にエイシアに尋ねた。
「そうだ。指揮はダルト、お前に任せる」
「はっ」
ダルトの返答と同時にエイシア天幕から躍り出た。
ノートリアム軍三万五千の内、騎兵のみ一万五千騎が追撃を続行した。
追撃を続ける事、翌日の昼近くになった頃。
ついにノートリアム軍は、森の間にある街道を退却し続けるエーベルン第五軍の最後尾を目視する事に成功した。
「やはり、逃げる為の時間稼ぎだったか!」
エイシアは自分自身の判断が間違っていなかった事を確信した。
「エイシア様、このまま攻撃しますか?」
カイが尋ねると、エイシアは大きく頷いた。
「当然だ! 我々はその為にここまで追いかけてきたのだ!」
エイシアは馬首を挙げると、鞘から剣を抜き放った。
「全軍武器構え! 突撃ぃいいいいいいいいいい!」
ノートリアム軍の中で、最強の騎兵部隊一万五千は、矢のような速さでエーベルン軍の最後尾に向かって突進を開始した。
「よし! このまま敵最後尾に噛み付くぞ!」
あと、もう少しで手が届く。
エイシアが蹂躙戦の開始を確信した瞬間だった。
逃げるエーベルン軍と追うノートリアムの間に、奇妙な水溜りがある事に……。
「と、止まれ! 停止だ! 罠だ!」
エイシアが叫んだ瞬間だった。
両軍の間に火の壁が出現した。
もう少し、あと一瞬でもエイシアの判断が遅れていれば、ノートリアム軍は炎の海の藻屑と化していた。だが、エイシアはそれを回避して見せた。
「……まずい。全軍撤収! 急げ!」
罠を見破った。そのはずだった。
エイシアの判断は、すぐさま打ち破られた。
ノートリアム軍は風下に位置していた。つまり、火はノートリアムに向かってくる。さらに、ノートリアムの左右からも火が点火されていた。デヴォン地方に数多ある森から多数の獣達が街道に飛び出し、鳥達も一斉に逃げ始める。
「奴等は森全てに火をつけるつもりだ。森ごと丸焼きにされるぞ!」
エイシアはすぐさま引き返した。だが、火の勢いは猛烈だった。
「くそ! エーベルンは森に予め油を撒いていたのか!」
そう考えなければ、たとえ風が多少強くとも、説明できない程の猛烈な火の勢いであった。
あらゆる場所から火と煙が上がり、さらに風が火の勢いを加速させていた。来た道を戻ろうにも、一万五千もの兵をいきなり反転させるのは難しい上に、炎による恐怖からか、統率が中々取れない状況であった。いつしかノートリアム軍は火の海に包囲された形となった。
「エイシア様! こちら側の林道には火がまだ届いておりません! こちらから脱出を!」
リリアが指し示した道。確かに、まだ火が届いておらず、今すぐ駆け抜ければ全軍脱出できるだろう……。
だが、罠であった時は?
エイシアに味方の兵が次々と撃ち殺される映像が湧き上がった。
危険すぎる。
だが、しかし。火は確実に迫っていた。
「全軍我に続け! この火の海から脱出する!」
エイシアの決断は下された。ノートリアム軍一万五千騎は、細い林道を通って脱出を行った。
一時間程、馬を飛ばし続けると無事ノートリアム軍は完全に脱出に成功していた。しかし、兵の顔色は悪く、士気があからさまに低下しており、疲労の色が濃く出ていた。
「……エイシア様。このままダルト殿に合流するまで馬を飛ばしましょう」
小声で進言したのはカイであった。
「分かっている。もし、伏兵が居れば突き破るぞ」
細い林道。伏兵による奇襲を行うには絶好すぎる場所であった。そして退路は炎で無くなっている。もし、襲撃されれば全滅覚悟で吶喊する以外、方法は無い。
「ご苦労様。流石ノートリアムでも最精鋭の騎馬兵。予定より早かったから準備がまだですよ」
暢気な声が、エイシアの耳に届いた。
エイシアが声の方に目を向けると、エーベルンの旗を持った、見た事も無い異国の服装の若い男が立っていた。
「くっ! 伏兵か!」
エイシアが剣の柄に手を添えた時、その若い男は旗を地面に突き立て、また茂みに戻り、大きな布を地面に敷いた。
「もうちょっと待ってね」
若い男はそう言うと、また茂みに戻り、今度は小さなテーブルを布の上に置き、また茂みに戻る。
茂みに戻っては手にした物を次々とテーブルの上に置く。そこには簡素な宴席が設けられていった。
「さて、準備よし。そこの……赤毛の短髪の女性。貴方がエイシア=レンダーク様で?」
「ち、違う! 私はリリア。エイシア様のお傍付きだ!」
「あ、こりゃ失礼。えーと、エイシア様は居られますか? 居ないなら呼んで欲しいのだけれど……」
「私がエイシア=レンダークだ!」
エイシアが返答すると、若い男はゆっくりと頭を下げた。
「貴方がエイシア様ですか。どうぞ、此方の席へ。貴方を待っていたのですよ」
エイシアは頷くと、ゆっくりと馬から降りた。
「エイシア様!」
リリアとカイが慌てて止めようとするが、エイシアは手でそれを制した。
「ああ、護衛ですか? んじゃ、そのお二人もどうぞ。席は用意していませんので、立ったままになりますが宜しければ」
若い男は微笑みながら言うと、二人に手招きをした。
リリアとカイは互いに目を合わせ、同時に馬から降りた。
エイシアが上座に座り、その後ろをリリアとカイが固めた。
下座には若い男が座った。
「えーと、まずは自己紹介を。私の名はユウト=キサラギ。私の国の文字で書くと『如月悠斗』となります。エーベルン軍第五軍の軍師で、シンヴェリル領主バルバロッサ息女、リューネ=アートルの側近で、客将です」
「……客将……だと?」
「ええ、そうですよ。給金安いです。衣食住は保障されているので恵まれているかなりいい方、だと思いますけど」
悠斗と名乗るその男は笑いながら、木製のジョッキに麦酒を注いだ。
「えーと、お酒は大丈夫ですか? 一応、水も用意しましたけど……」
「問題ない」
エイシアが答えると、悠斗は木製のジョッキをエイシアに渡し……たかったが、カイがそれを奪い取った。
「ああ、毒なんか入っていませんよ。そんな事しなくても……殺す気なら炎で焼き殺すか、伏兵で殲滅している」
悠斗と名乗る男は、声が変わったように、さらに目つきさえ変わり、睨むようにカイを見つめた。
その声は灰暗い死の底から呻く死人のようで。
その目は相手を蔑む狂気の悪魔のようで。
その威圧感に、ノートリアム随一の将にして、随一の戦士たる男を一歩後ろに下がらせた。
「カイ。貸せ」
「エイシア様!?」
エイシアはカイからジョッキを奪うと、リリアが止める間も無く一気に飲み干した。
「おお、結構飲まれる方ですか?」
悠斗の声は元に戻り、微笑みながらエイシアのジョッキに麦酒を注いだ。
「失礼して、俺も一杯」
悠斗はジョッキを傾けて麦酒を飲み、
「ふぅ」
一息付いてジョッキをテーブルに置いた。
「さて、私がここに居る理由をエイシア様はお分かりか?」
「……いや、分からんな」
分かっている。ノートリアム総司令官であるエイシアは分かってはいるが、武人としてのエイシアが納得できなかった。
「できれば、このまま撤退して頂きたい。そして望めるならば、全力でこの炎の消火に努めて頂きたい。火を放った人間が言う台詞ではありませんが、これは私の良心です」
「追撃を諦めて火を消せだと。ふざけるな!」
エイシアはジョッキをテーブルに叩きつけて悠斗に怒鳴った。
「何故私を殺さぬ! 私は敗れた! 私は貴様の実質捕虜だ! なぜ敵を打ち倒さない!」
「……エイシア様の存在そのものが、エーベルンにとって不利益にも、利益にもなるからですよ」
「どういう意味だ?」
悠斗は地図をテーブルに広げた。
「現在の勢力図を良く考えて見てください。ノートリアム、エーベルンだけの関係ならば、ここで貴方を殺せばいいでしょうが……」
「……北方の遊牧の民と……ドゴールか」
「然り。もし、ここで貴方を討ち果たせばどうなります? ノートリアムとエーベルンの全面戦争が勃発する! そうすれば、北の遊牧の民が火事場泥棒を始めるだろう。で、その後は?」
「……疲弊した両国、調子に乗った北方の遊牧の民。ドゴールにとって西へ侵略する最高にして絶好の機会か」
舌打ちをしてエイシアは地図を見つめた。
「そうなればノートリアム、エーベルン両国の国土が焦土と化し、何万、何十万の民が難民になる。だからこそ、ここで貴方には撤退して頂きたい」
「だが、貴様達が攻めて来たのだ! そう簡単に引き下がれるか!」
「エイシア様の命と、ノートリアム一万五千騎の命を失ってもですか? それが失われれば、ノートリアムの国防戦力はガタ落ち。最悪、ノートリアムの西の諸国が我先にと攻め込むでしょう。と言うより、私が攻め込ませます」
先程と同じ、顔。それを僅かに悠斗が見せた。
「っ!」
攻め込ませる。それはつまり、西方諸国を動かす謀略を既に準備している……という事になる。
「しかし、私としては、そうなって欲しくはない。何より……私は戦争が大嫌いです!」
「だ、大嫌いだと?」
エイシアにとっては初耳の言葉だった。武人であれば戦こそが全て。その存在理由。それを大嫌いと表現するとは……。
「兵とは何です? 民です。私がもっとも嫌い存在。それは、自己の権力を増やす為、自己の栄誉の為、自己の権威を高める為に、人々を煽動し、戦わせる人間です! 戦争は所詮、殺し合いです。ただの殺し合いです」
悠斗は拳を握り締めてテーブルを叩いた。
「何故殺す!? 何故奪う!? 何故悲しみを作る!? 何故憎しみを作る!? 何故? 何故? 何故? 何故!?」
「………………」
「……失礼。しかし、これが私の本音です」
エイシアは真っ直ぐ。改めて目の前の悠斗を見つめた。
「………………」
エイシアは如月悠斗という存在を捉えかねた。
温和で微笑みを浮かべて話す、お人好しに見えれば、威圧感と恐怖を感じる別人の顔をみせる。どちらがこの男の本性か……。
「……我が撤退すれば、お前達はどうする?」
「勿論、エーベルンへ。我が家に帰ります」
大きく深呼吸を一つ。
エイシアはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……良いだろう。これ以上追撃はせぬ」
エイシアの言葉を聴いた瞬間、悠斗は深く頭を下げた。
「真の名将たるエイシア様のご決断。深く感謝致します!」
悠斗は頭を上げると、懐から一枚の羊皮を取り出した。
「これをお使い下さい」
「何だ? これは?」
エイシアが受け取ってそれを開くと、そこにはこの辺り一帯の地図と無数の×や○、△や□印が付けられていた。
「消火に必要な水を大量に用意し、水瓶にいれて印の所に設置しています。また、油を撒いた場所も記載しています。あと、火傷に効く薬と、火が届かないであろうと予想される住民の避難場所も記載しています。お役立て下さい」
「…………礼は言わんぞ」
「それは勿論。何せ、火を点けた張本人ですから」
エイシアは馬に乗り、悠斗を見つめた。
「ユウト=キサラギ……だったな」
「はい」
「お前はこの私に生涯初めて、敗北という二文字を刻んだ男だ」
「……エイシア様は敗北していません。私がエイシア様から逃げる事からできた。それだけです」
「そうか。ならばこの戦、ノートリアムの勝利で私の勝利では無い。覚えておけ、お前はこの世で初めて私から勝利を奪った男だ!」
「できれば、戦場ではなく、のんびりした所で酒をゆっくり飲みましょう。叶うならば」
「叶うならば」
悠斗が頭を下げると、エイシアは馬を飛ばした。
ノートリアム軍はエイシア指揮の下、すぐさま消火活動の為に移動を開始した。それを悠斗は見送った。
エーベルン王国ノートリアム侵攻軍第五軍一万三千。殿を務めながら死傷者無し。
この前代未聞の快挙は、人から人へ、噂となってすぐさまエーベルン全土に知れ渡る事となる。
悠斗はシンヴェリルに帰還した。時に、神耀歴七五八年六月下旬の事である。
追撃の準備を完了したノートリアム陣営に、エーベルン第五軍から手紙を預かったという地元住民が来たのは、まさにエイシアが追撃の号令を発する直前の出来事であった。
「……ほう」
その手紙を受け取ったエイシアは、目を細めて微笑を浮かべた。
「……何と書かれていますか?」
傍に居たリリアが尋ねると、エイシアはその手紙をリリアに渡した。
「拝見致します」
手紙を受け取ったリリアが、手紙に目を通すと驚きの表情に変わった。
「こ、これは、挑戦状ではありませんか!」
リリアの叫びに、カイ、デネール、カシェル、ダルトも驚きの表情を浮かべた。
「……ああ、そうだ。一万余の兵力でまだ挑むらしい」
エイシアは微笑を浮かべた。決死の覚悟で挑む相手と戦いを挑むのは、武人として本望だ。バッカスという下手くそより少しは骨がある。存分に相手をしてやろうではないか。
その時、兵の一人が天幕に入って来た。
「申し上げます! 今、地元の住民がエーベルンの兵から預かった書状を渡しに来ました。これが、その書状です」
「…………は?」
エイシアは目を丸くした。書状なら立った今受け取ったばかりである。
さらに一人、兵が天幕に入ってきた。
「申し上げます! 今、地元の住民がエーベルンの兵から預かった書状を渡しに……」
さらに。
「申し上げます! 今、地元の住民が……」
またさらに。
「申し上げます! 今、……」
「申し……」
「申……」
以下、省略。
結局、全部で送られてきた書状は十通。
「………………」
エイシアは目を細めて十通にも渡る書状を横一列に並べた。
「おい、これは何だ?」
『………………』
エイシアの質問に、誰も答えられなかった。
「……無視しますか?」
カイが言うと、エイシアは机の上で頬杖をついた。
内容は全てバラバラ。
一通目は、散々侮辱する言葉が並べられた挑戦状。
二通目は、降伏するから、兵の命は助けて欲しい。という、降伏文書。
三通目は、撤退するから追撃しないで欲しい。という、嘆願書。
四通目は、バッカス大公爵の現在位置が記され、自分達は見逃して欲しい。という、醜悪な裏切り文書。
五通目は、降伏を拒否する。という、送っても無い文書に対する返信書。
六通目は、ノートリアム西の諸国が軍勢を動かしている。という、どう考えても欺瞞書。
七通目は、会見を設けて、穏便に戦いを終わらせたい。という、合議文書。
八通目は、ウォルス王の近くに暗殺者を配置した。撤退すれば、暗殺者も引き上げる。という、脅迫状。
九通目は、ノートリアムに勝ち目は無い。直ちに降伏せよ。という、降伏勧告。
十通目は、この手紙を受け取ったら、誰かに送らないと不幸になる。という、不幸の手紙。
「最後の不幸の手紙は何だ!? 私を侮辱しているのか!?」
エイシアは怒りの拳をテーブルにぶつけた。
「お、落ち着いてください……」
リリアが、エイシアの肩を叩き、肩で息をするエイシアを止めた。
「尋ねる。これは全て挑発か? それとも、真実が含まれているのか?」
エイシアが四人の将に尋ねる。
「……もし、これが謀略だとすれば、我等を足止めにするというのが一番しっくり来ます」
デネールが言うと、カイ、カシェル、ダルトが注目する。
「ならば、無視か?」
カイが言うと、デネールは頷く
「それが……宜しいかと。我等は敵を追撃良いのです」
「だが……。ここまで執拗に手紙を送りつけた理由は何だ?」
ダルトが言うと、エイシアは眉を吊り上げた。
「どういう事だ?」
「はい。姫様への挑発であったり、降伏文書であったり、送る理由は足止めであろうが、それが本当の理由なのか? という疑問が残ります。ここまで執拗な手紙の応酬。変だとは思いませんか? 逃げるだけならば、別に手紙を送る必要性は無く、さっさと引き上げれば良い。このような挑発めいた事をすれば、徹底的に追撃される可能性があるにも関わらず」
「……一理あるな」
エイシアはダルトの言葉に同意した。
「もし、これが挑発であり、我等に一矢報いる為の行動であるとすれば、兵を危険に晒す事になります。追撃は行えば宜しいかと思いますが、別に我等は敵を殲滅する為に来たのでは無く、迎撃に来たのです。敵が引き上げれば我等の役目は終わり。既に我々の勝利は不動であり、無用な血を流す必要性はありません」
「では、追撃は慎重に行え……と?」
「御意」
「…………だが、逆に考えればそれこそが敵に狙いではないか?」
エイシアの反論にダルトは黙った。
「カシェル。お前はどう考える?」
人生の大半を戦場に過している宿将に一同の視線が注がれた。
「……事の真偽はともかく、ダルト殿の進言通り、慎重に追撃して宜しいかと。敵の狙い通りだったとしても、此方に被害はありません。ただ、このような事、長く生きていますが初めての事です。エーベルン……いや、敵第五軍には相当な知恵者がいるかもしれませんな」
「知恵者……か」
「はい」
「ならば、何故、第一から第四軍を見捨てるような真似をしたのだ?」
カイが口を開く。
「エーベルンは一枚岩では無いと聞き及んでいます。例の王位継承の件で。もしかすれば、敵第五軍はバッカス大公爵の政敵なのかもしれません」
「……それならば、納得はできる。……よし、敵を追撃する。但し、伏兵に十二分に注意せよ。先頭はカイに任せる。強行偵察部隊を先鋒とせよ」
「はっ! ……え? あの者はまだ経験が足りぬかと」
「経験が足りないからこそ、やらせるのだ」
「はっ! 承知致しました」
ノートリアム首脳部は、思わぬ時間を潰して追撃を開始した。
追撃の先鋒、エーベルン強行偵察部隊。『鴉軍』に所属する、部隊の一つである。その機動力はノートリアム最速と言われる。
その指揮官であるリシャルト=ワーグナーは、疾風の如く迅速にエーベルン軍を追走した。
このリシャルト。元はただの一兵卒であったが、武勇もさることながら兵の指揮能力に優れており、エイシアにその才覚を見出されて、カイの副官の一人に抜擢された、まだ二十四の若き将である。何時か引退するであろう、宿将カシェルの後継者として期待され、カイに厳しく指導されている真っ最中だ。
リシャルトは一定の距離進む度に四方に偵察を放ち、伏兵の存在に注意しながら進み続けた。しかし、一向に伏兵は発見されず、宿営の跡すら残っていなかった。
偵察部隊が進み続けて一昼夜が経過した頃、部隊の一人がある物を発見し、リシャルトに報告した。報告を受けたリシャルトは自分の目で確認すべく、馬を飛ばす。
「こ、これは!? 何時の間にこんな物を……」
リシャルトが馬降り、徒歩で森の中を進み、茂みの中から見た物。
それは、砦であった。
狭い街道を利用して、砦で街道自体を封鎖しており、さらに左右の森には木を超える高さで複数の弓塔が建てられていた。兵の数を悟られないようにする為か、大量の旗が立てられており、武器の反射光の量を見る限り、大勢の兵が武器を構えて、決死の防戦を覚悟しているようだった。
「ここで一戦交えれば……被害は大きいな。良し、引き上げるぞ。急ぎカイ様に報告だ!」
リシャルト率いる偵察部隊の報告は、カイを通してエイシアに直ちに伝わった。
「……敵の書状は砦で決戦準備をする為の時間稼ぎ……だったのか?」
エイシアはその報告を受けて、疑問を口にした。
「そうかもしれません。そうではないかもしれません」
カイが目を閉じたまま、腕組みをしながら言った。
「どういう意味だ?」
エイシアが尋ねると、ゆっくりと目を開けた。
「……申し訳ありません。何かは分かりません。ただ……漠然とした違和感があるのです」
「違和感……か」
エイシアもそれを感じていたのだろう。カイの言葉に共感した。
「この違和感。まるで、相手の手の上で踊らされているような気分です。リシャルト、敵兵は確認出来たのか?」
天幕で膝を地に付けて控えるリシャルトに、カイが尋ねる。
「……確実に確認できた訳ではありません。大量の旗が並べられており、兵が隠されているようでした。左右の森の中には弓塔がいくつも建てられ、私見ではありますが、伏兵が控えている可能性があります。私としましては、可能な限り近づいて確認したかったのですが、敵に発見される必要性は無いと判断し、遠くの茂みから目視しました」
「……そうか」
カイが言うと、デネールが一歩前にでた。
「どうしますか? 砦を攻撃しますか?」
「……敵の備えが万全であるのに?」
エイシアが言うと、デネールが首を横に振った。
「万全では無い。と、思われます」
「……万全では……無い?」
「はい。もし、万全であるならば、書状を送る意味がありません。万全では無く、時間を稼ぎたいからこそ、あのような書状を送った。と、考えられませんか?」
「待て。確かに、そうも考えられる。だが、それこそが敵の狙いかもしれん。万全の状態では無いと油断させ、我等に一撃を与えて、然るのち撤退する」
「……一矢報いる……と?」
「砦がそう簡単に建設できるとは思えぬ。事前に準備していたのではないか?」
エイシアの言葉にも一理あった。常識的に考えて第四軍が敗北した時点で砦を建設始めたとすれば、まだ、未完成のはずである。だが、敵は的確な場所に砦を建設し、万全の状態で迎え撃つ構えを見せている。それは、第四軍が敗北する遥か前。ノートリアムとエーベルンが激突する前の時点で建設を始めた……であるならば、完成していたとしても不思議ではない。
「……味方の敗北が前提ですぞ」
カシェルが言うと、エイシアは大きな溜息を吐いた。
「そこが問題だ。味方が敗北する。それが前提で作られた……という事になる。だが以前、カイが言ったように、エーベルンは一枚岩では無い。しかも、あのバッカスという男は戦下手だ。負ける事を考えていても不思議では無い。……不思議では無い……が……」
エイシアは唇を噛み締めた。
「普通では有り得ない事ですな。味方を助けるならともかく、見捨てるというのは」
カシェルはあっさりとエイシアの問題点を言い放った。
一体何処の世界に、味方が負ける事を前提とし、さらには見捨てた上での作戦を考える人間がいるだろうか?
「……手の上で踊らされている。まさに、それだな」
エイシアは目を閉じて、腕組みをした。
「私は今まで戦で負けた事は無い。だが、それは負けなかっただけ……かもしれない……と、常々自分に言い聞かせていた。慢心と驕りは焦りと油断を生み、兵を無駄に死なせる」
目を開けたエイシアは、剣を鞘から抜き放った。
「砦を攻め落とす! 敵の備えが万全であると判断すれば、その時点で追撃は中止! 我等は敵の撤退を見送り、凱旋する! 攻撃は明日、夜明けと同時に実行する!」
『はっ!』
四人の名将と若き将の卵は、エイシアに向かって返答と同時に頭を下げた。
ノートリアム軍は砦から離れた場所で陣を構築して夜明けを待ち、日の出と共に出撃、砦に向かって総攻撃を開始した。
「攻撃開始!」
エイシアの号令の元、先陣の歩兵部隊が突撃を開始した。
最前列は盾を前に、左右両端はそれぞれの外側に盾を、内側は上に盾をならべ、一切の弓矢の攻撃を防ぐ体勢であった。
異変に気付いたのは先陣を任されたデネールであった。
「…………全軍停止! 止まれ!」
歴戦の勇将が下したとっさの判断で、ノートリアムの攻撃は停止した。
デネールが気付いた異変。それは、砦が静か過ぎる事。そして、弓の有効射程距離に入ってもまったく敵の矢が飛んで来なかったこと。そして、もう一つ。歴戦の勇将ならでは……だろうか? デネールは敵の砦から殺気というか、威圧感というか、戦場独特の空気を感じなかった。と、言うより。人の気配がまったくしない。
デネールは盾を構えたまま、単身ゆっくりと砦に近づいた。
「デネール! どうした!? 何か起こった!?」
デネールに声を掛けたのは、後方にいるはずのエイシアであった。デネールが停止命令を下した瞬間、エイシアは単騎で馬を飛ばして先陣まで駆け抜けたのである。
そして、少し遅れてリリアが近衛騎兵部隊の一部を引き連れ、エイシアに追い付いた。
「エイシア様! お一人では危険でございます!」
「……ああ、すまん。リリア」
エイシアは一言、リリアに謝罪の言葉を述べると、改めてデネールを見つめた。
「……あの砦、変です。殺意を微塵も感じません」
デネールが言うと、エイシアは砦に目を移した。
確かに、砦からは何も感じない。此方が急に行軍を停止したというのに動揺すら無い様だった。
エイシアは二十名ほどの歩兵に偵察を命じて、砦に向かわせた。
天幕でエイシアが受け取った偵察からの報告は、衝撃的な内容であった。
「……未完成の砦?」
エイシアが尋ねると、偵察兵は首を横に振った。
「いえ、未完成と言いましょうか……その……。張りぼて……ならば正確かと」
「は……張りぼてだと!?」
エイシアはテーブルを拳で、バンッ。と、叩き付けた。
「は、はい……。その、旗があるだけで、兵は木の枝に武器や鎧を着せて作られた偽兵でした。あと、砦は表面側だけで、内部は何もありません。弓塔は板を組み合わせて、その後ろを木材で支えているだけで……」
エイシアは力無く椅子に座り込んだ。
「ふふふふ……。あははははははははは……」
そして、自嘲するように笑った。
敵の張りぼての砦を恐れて尻込みしただけで無く、敵に退却する時間を与えてしまった形になる。しかし、張りぼての砦とは……。確かに、砦を作るならばそれなりの日数が要する。だが、張りぼてならば……一昼夜で建造する事が可能だ。張りぼてなので建造という言葉に値するかどうか疑問だが……。
笑いを止めたエイシアは、椅子から立ち上がった。
「全軍に通達! これより敵を追撃する! 張りぼての砦まで作ったのであれば、敵は退却している最中だという事だ。敵には我等に挑戦する意思は一切ない!」
「お待ち下さい」
エイシアの言葉を止めたのはデネールであった。
「何だ! デネール!?」
声を荒げてエイシアはデネールを見つめた。
「追撃は此処までが宜しいと進言致します」
「此処までだと!? 敵は我等を恐れて小細工をしただけだ! 我等は必要以上に敵を過大評価した。敵に恐れを為したと言われたいか!」
「言いたい者には好きなだけ言わせておけば宜しいでしょう。何を焦っておられるのですか?」
「焦っている!? このエイシア=レンダークが焦っていると言うか!」
「はい」
「もう良い! 下がれ! 此処から先は近衛騎兵部隊のみで追撃する!」
「……お待ち下さい」
今度はカイが一歩前に進み出た。
「鴉軍も動向致します。追撃するならば、騎兵部隊のみが宜しいでしょう」
「おい、カイ殿。お主も危険だと思っていないのか?」
カシェルが言うと、カイは首を横に振った。
「危険だからこそ、私も同行するのです。万が一、敵の罠があれば、鴉軍が殿となってエイシア様をお守り致します」
カイのはっきりとした言葉に、カシェルは大きく溜息を吐いた。
「……なれば、騎兵部隊のみの追撃。我等歩兵、弓兵部隊は待機でよろしゅうございますか?」
ダルトが確認の様にエイシアに尋ねた。
「そうだ。指揮はダルト、お前に任せる」
「はっ」
ダルトの返答と同時にエイシア天幕から躍り出た。
ノートリアム軍三万五千の内、騎兵のみ一万五千騎が追撃を続行した。
追撃を続ける事、翌日の昼近くになった頃。
ついにノートリアム軍は、森の間にある街道を退却し続けるエーベルン第五軍の最後尾を目視する事に成功した。
「やはり、逃げる為の時間稼ぎだったか!」
エイシアは自分自身の判断が間違っていなかった事を確信した。
「エイシア様、このまま攻撃しますか?」
カイが尋ねると、エイシアは大きく頷いた。
「当然だ! 我々はその為にここまで追いかけてきたのだ!」
エイシアは馬首を挙げると、鞘から剣を抜き放った。
「全軍武器構え! 突撃ぃいいいいいいいいいい!」
ノートリアム軍の中で、最強の騎兵部隊一万五千は、矢のような速さでエーベルン軍の最後尾に向かって突進を開始した。
「よし! このまま敵最後尾に噛み付くぞ!」
あと、もう少しで手が届く。
エイシアが蹂躙戦の開始を確信した瞬間だった。
逃げるエーベルン軍と追うノートリアムの間に、奇妙な水溜りがある事に……。
「と、止まれ! 停止だ! 罠だ!」
エイシアが叫んだ瞬間だった。
両軍の間に火の壁が出現した。
もう少し、あと一瞬でもエイシアの判断が遅れていれば、ノートリアム軍は炎の海の藻屑と化していた。だが、エイシアはそれを回避して見せた。
「……まずい。全軍撤収! 急げ!」
罠を見破った。そのはずだった。
エイシアの判断は、すぐさま打ち破られた。
ノートリアム軍は風下に位置していた。つまり、火はノートリアムに向かってくる。さらに、ノートリアムの左右からも火が点火されていた。デヴォン地方に数多ある森から多数の獣達が街道に飛び出し、鳥達も一斉に逃げ始める。
「奴等は森全てに火をつけるつもりだ。森ごと丸焼きにされるぞ!」
エイシアはすぐさま引き返した。だが、火の勢いは猛烈だった。
「くそ! エーベルンは森に予め油を撒いていたのか!」
そう考えなければ、たとえ風が多少強くとも、説明できない程の猛烈な火の勢いであった。
あらゆる場所から火と煙が上がり、さらに風が火の勢いを加速させていた。来た道を戻ろうにも、一万五千もの兵をいきなり反転させるのは難しい上に、炎による恐怖からか、統率が中々取れない状況であった。いつしかノートリアム軍は火の海に包囲された形となった。
「エイシア様! こちら側の林道には火がまだ届いておりません! こちらから脱出を!」
リリアが指し示した道。確かに、まだ火が届いておらず、今すぐ駆け抜ければ全軍脱出できるだろう……。
だが、罠であった時は?
エイシアに味方の兵が次々と撃ち殺される映像が湧き上がった。
危険すぎる。
だが、しかし。火は確実に迫っていた。
「全軍我に続け! この火の海から脱出する!」
エイシアの決断は下された。ノートリアム軍一万五千騎は、細い林道を通って脱出を行った。
一時間程、馬を飛ばし続けると無事ノートリアム軍は完全に脱出に成功していた。しかし、兵の顔色は悪く、士気があからさまに低下しており、疲労の色が濃く出ていた。
「……エイシア様。このままダルト殿に合流するまで馬を飛ばしましょう」
小声で進言したのはカイであった。
「分かっている。もし、伏兵が居れば突き破るぞ」
細い林道。伏兵による奇襲を行うには絶好すぎる場所であった。そして退路は炎で無くなっている。もし、襲撃されれば全滅覚悟で吶喊する以外、方法は無い。
「ご苦労様。流石ノートリアムでも最精鋭の騎馬兵。予定より早かったから準備がまだですよ」
暢気な声が、エイシアの耳に届いた。
エイシアが声の方に目を向けると、エーベルンの旗を持った、見た事も無い異国の服装の若い男が立っていた。
「くっ! 伏兵か!」
エイシアが剣の柄に手を添えた時、その若い男は旗を地面に突き立て、また茂みに戻り、大きな布を地面に敷いた。
「もうちょっと待ってね」
若い男はそう言うと、また茂みに戻り、今度は小さなテーブルを布の上に置き、また茂みに戻る。
茂みに戻っては手にした物を次々とテーブルの上に置く。そこには簡素な宴席が設けられていった。
「さて、準備よし。そこの……赤毛の短髪の女性。貴方がエイシア=レンダーク様で?」
「ち、違う! 私はリリア。エイシア様のお傍付きだ!」
「あ、こりゃ失礼。えーと、エイシア様は居られますか? 居ないなら呼んで欲しいのだけれど……」
「私がエイシア=レンダークだ!」
エイシアが返答すると、若い男はゆっくりと頭を下げた。
「貴方がエイシア様ですか。どうぞ、此方の席へ。貴方を待っていたのですよ」
エイシアは頷くと、ゆっくりと馬から降りた。
「エイシア様!」
リリアとカイが慌てて止めようとするが、エイシアは手でそれを制した。
「ああ、護衛ですか? んじゃ、そのお二人もどうぞ。席は用意していませんので、立ったままになりますが宜しければ」
若い男は微笑みながら言うと、二人に手招きをした。
リリアとカイは互いに目を合わせ、同時に馬から降りた。
エイシアが上座に座り、その後ろをリリアとカイが固めた。
下座には若い男が座った。
「えーと、まずは自己紹介を。私の名はユウト=キサラギ。私の国の文字で書くと『如月悠斗』となります。エーベルン軍第五軍の軍師で、シンヴェリル領主バルバロッサ息女、リューネ=アートルの側近で、客将です」
「……客将……だと?」
「ええ、そうですよ。給金安いです。衣食住は保障されているので恵まれているかなりいい方、だと思いますけど」
悠斗と名乗るその男は笑いながら、木製のジョッキに麦酒を注いだ。
「えーと、お酒は大丈夫ですか? 一応、水も用意しましたけど……」
「問題ない」
エイシアが答えると、悠斗は木製のジョッキをエイシアに渡し……たかったが、カイがそれを奪い取った。
「ああ、毒なんか入っていませんよ。そんな事しなくても……殺す気なら炎で焼き殺すか、伏兵で殲滅している」
悠斗と名乗る男は、声が変わったように、さらに目つきさえ変わり、睨むようにカイを見つめた。
その声は灰暗い死の底から呻く死人のようで。
その目は相手を蔑む狂気の悪魔のようで。
その威圧感に、ノートリアム随一の将にして、随一の戦士たる男を一歩後ろに下がらせた。
「カイ。貸せ」
「エイシア様!?」
エイシアはカイからジョッキを奪うと、リリアが止める間も無く一気に飲み干した。
「おお、結構飲まれる方ですか?」
悠斗の声は元に戻り、微笑みながらエイシアのジョッキに麦酒を注いだ。
「失礼して、俺も一杯」
悠斗はジョッキを傾けて麦酒を飲み、
「ふぅ」
一息付いてジョッキをテーブルに置いた。
「さて、私がここに居る理由をエイシア様はお分かりか?」
「……いや、分からんな」
分かっている。ノートリアム総司令官であるエイシアは分かってはいるが、武人としてのエイシアが納得できなかった。
「できれば、このまま撤退して頂きたい。そして望めるならば、全力でこの炎の消火に努めて頂きたい。火を放った人間が言う台詞ではありませんが、これは私の良心です」
「追撃を諦めて火を消せだと。ふざけるな!」
エイシアはジョッキをテーブルに叩きつけて悠斗に怒鳴った。
「何故私を殺さぬ! 私は敗れた! 私は貴様の実質捕虜だ! なぜ敵を打ち倒さない!」
「……エイシア様の存在そのものが、エーベルンにとって不利益にも、利益にもなるからですよ」
「どういう意味だ?」
悠斗は地図をテーブルに広げた。
「現在の勢力図を良く考えて見てください。ノートリアム、エーベルンだけの関係ならば、ここで貴方を殺せばいいでしょうが……」
「……北方の遊牧の民と……ドゴールか」
「然り。もし、ここで貴方を討ち果たせばどうなります? ノートリアムとエーベルンの全面戦争が勃発する! そうすれば、北の遊牧の民が火事場泥棒を始めるだろう。で、その後は?」
「……疲弊した両国、調子に乗った北方の遊牧の民。ドゴールにとって西へ侵略する最高にして絶好の機会か」
舌打ちをしてエイシアは地図を見つめた。
「そうなればノートリアム、エーベルン両国の国土が焦土と化し、何万、何十万の民が難民になる。だからこそ、ここで貴方には撤退して頂きたい」
「だが、貴様達が攻めて来たのだ! そう簡単に引き下がれるか!」
「エイシア様の命と、ノートリアム一万五千騎の命を失ってもですか? それが失われれば、ノートリアムの国防戦力はガタ落ち。最悪、ノートリアムの西の諸国が我先にと攻め込むでしょう。と言うより、私が攻め込ませます」
先程と同じ、顔。それを僅かに悠斗が見せた。
「っ!」
攻め込ませる。それはつまり、西方諸国を動かす謀略を既に準備している……という事になる。
「しかし、私としては、そうなって欲しくはない。何より……私は戦争が大嫌いです!」
「だ、大嫌いだと?」
エイシアにとっては初耳の言葉だった。武人であれば戦こそが全て。その存在理由。それを大嫌いと表現するとは……。
「兵とは何です? 民です。私がもっとも嫌い存在。それは、自己の権力を増やす為、自己の栄誉の為、自己の権威を高める為に、人々を煽動し、戦わせる人間です! 戦争は所詮、殺し合いです。ただの殺し合いです」
悠斗は拳を握り締めてテーブルを叩いた。
「何故殺す!? 何故奪う!? 何故悲しみを作る!? 何故憎しみを作る!? 何故? 何故? 何故? 何故!?」
「………………」
「……失礼。しかし、これが私の本音です」
エイシアは真っ直ぐ。改めて目の前の悠斗を見つめた。
「………………」
エイシアは如月悠斗という存在を捉えかねた。
温和で微笑みを浮かべて話す、お人好しに見えれば、威圧感と恐怖を感じる別人の顔をみせる。どちらがこの男の本性か……。
「……我が撤退すれば、お前達はどうする?」
「勿論、エーベルンへ。我が家に帰ります」
大きく深呼吸を一つ。
エイシアはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……良いだろう。これ以上追撃はせぬ」
エイシアの言葉を聴いた瞬間、悠斗は深く頭を下げた。
「真の名将たるエイシア様のご決断。深く感謝致します!」
悠斗は頭を上げると、懐から一枚の羊皮を取り出した。
「これをお使い下さい」
「何だ? これは?」
エイシアが受け取ってそれを開くと、そこにはこの辺り一帯の地図と無数の×や○、△や□印が付けられていた。
「消火に必要な水を大量に用意し、水瓶にいれて印の所に設置しています。また、油を撒いた場所も記載しています。あと、火傷に効く薬と、火が届かないであろうと予想される住民の避難場所も記載しています。お役立て下さい」
「…………礼は言わんぞ」
「それは勿論。何せ、火を点けた張本人ですから」
エイシアは馬に乗り、悠斗を見つめた。
「ユウト=キサラギ……だったな」
「はい」
「お前はこの私に生涯初めて、敗北という二文字を刻んだ男だ」
「……エイシア様は敗北していません。私がエイシア様から逃げる事からできた。それだけです」
「そうか。ならばこの戦、ノートリアムの勝利で私の勝利では無い。覚えておけ、お前はこの世で初めて私から勝利を奪った男だ!」
「できれば、戦場ではなく、のんびりした所で酒をゆっくり飲みましょう。叶うならば」
「叶うならば」
悠斗が頭を下げると、エイシアは馬を飛ばした。
ノートリアム軍はエイシア指揮の下、すぐさま消火活動の為に移動を開始した。それを悠斗は見送った。
エーベルン王国ノートリアム侵攻軍第五軍一万三千。殿を務めながら死傷者無し。
この前代未聞の快挙は、人から人へ、噂となってすぐさまエーベルン全土に知れ渡る事となる。
悠斗はシンヴェリルに帰還した。時に、神耀歴七五八年六月下旬の事である。
後書き
作者:そえ |
投稿日:2010/03/27 17:22 更新日:2010/03/29 22:02 『アルバイト軍師!』の著作権は、すべて作者 そえ様に属します。 |
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