作品ID:1976
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小説の属性:一般小説 / 未選択 / お気軽感想希望 / 初投稿・初心者 / R-15&18 / 連載中
前書き・紹介
犬の幽霊のお話です。
孟 公 の 犬
前の話 | 目次 | 次の話 |
【 一 】
南周朝 ・ 令文王の時代、水害により黄河の流れが変じたため洛陽から戴了へと王都が移されていた頃の話である。
辺境を守る南周軍部隊の中に、弘農という地方の人で孟然という者があった。
孟然は上背と骨柄に秀で膂力にも恵まれた勇者で、騎射に巧みであったので戦場で幾度も武功を挙げるうちに認められて、兵卒から将へと徐々に引き立てられた。
孟然には財産と呼べるほどの貯えは何も無かったが、ただ故郷から連れてきてそのまま軍中に伴っている一頭の犬があった。 黒毛の雄犬で、並みの番犬などよりも優にひと回りも大きなその犬を孟然は 「 片雪片牙 ( へんせつへんが ) 」 と名付けて、家族同様にいつくしむと共に熱心に訓練を繰り返し、様々な事を教え込んだ。
片雪とは犬の模様である。 全体はつやのある黒一色だが、右の眼の周りから前肢にかけて、小さな真っ白の斑点が吹き散らした如くに配されて輝きを放ち、そこだけが雪に降り積もられたようになっていた。
片牙は歯並びの様 ( さま ) である。 右の上顎から一本だけ長めの牙が生えていて口の外側に伸びること数寸に達し、離れたところからもそれと判るほどに良く目立った。
非常に賢い犬で、普段は誰に対しても人なつこく遊び好きだが、ひとたび孟然に従って戦いに臨むと、その働きぶりと勇敢さは練達の兵にも劣らない。
戦車に繋がれた敵方の曳馬たちは低く響いて来るその犬のうなり声を耳にするだけで前に進むことに怯みを見せ、兵を背に乗せて疾駆する良く鍛えられた騎馬でさえも、一吠えされると脅え狂って竿立ちになり、乗り手を振るい落として逃げて行く。
初めのうちは味方の馬まで無用に驚かせるというので厩兵の職にある同僚たちは孟然の愛犬が近くに寄り付くのを嫌ったが、しばらく経つと、敵馬を追い払う事でもたらされる戦場の走り易さに人よりも馬の方が先に慣れ、求めて犬を頼るようになった。
暗夜の行軍中に誰よりも早く伏兵に気づいたり敵の進軍した方角を正しく嗅ぎ分けて示してみせる感覚の鋭敏さなどは人の及ぶところではなく、孟然と部隊の危機や錯誤を、犬の耳と鼻は未然に良く防いだ。
身動きは上等の猟犬すら比べものにならない程に素早い。 敵味方双方の兵が入り乱れて戦う局面などでは、突き出される槍先や剣の太刀筋を易々とかわして敵兵の懐に難なく飛び込むことができた。
鎧の厚みを右の牙が貫き、さらに肩や腕に深々と噛みつかれると、大抵の者は痛みと怖ろしさに戦意を失って地に膝をつき降伏してしまう。 また、しばしば孟然を狙って放たれた敵からの矢に躍り上がって宙で顎に捕らえ、牙で噛み折ったりはじき飛ばしたりして主の身を守ることもあった。
犬は陣中で人気者となり、一緒に暮らす味方ばかりでなく対峙する敵にも良く知られるようになった。 孟然は片雪片牙と呼び続けていたのだが、多くの軍兵は、ただ一音で簡単に 「 片 ( へん ) 」 と呼んだ。
片よこの肉をやろう、片よ今日も元気か、などと呼ばわって犬を可愛がる者があまりに増えた頃、孟然はこだわらず笑って 「 衆呼転称して即ち名を識らしむ。 汝は片だ 」 と宣じて、犬の名を 「 片 」 と改めた。
【 原註 : 衆呼転称して即ち名を識らしむ ( しゅうこてんしょうしてすなわちなをしらしむ ) 。 本来の名前よりも、広く世に知られた呼び名の方が用いる上で都合が良い、の意 】
犬は飼い主の側を片時も離れることなく共に日々を送り務めを果たしていたが、やがて運命の転機となる激しい戦いに遭い、主人より先にその命を落とす時がやって来た。
東方の領地に封じられていた野心ある王族、彭陵侯が主君の令文王に叛旗をひるがえし、黄河下流の北岸と徐湖 ( じょこ ) に面する諸城を占領した 『 東徐の乱 』 が起きたのである。
緒戦は舟を用いた湖上での戦さとなり、備えと数に劣る南周軍は苦戦を強いられた。
急仕立てで押し出した南周の戦舟は陣形を失って崩れ立つうち次々と沈んでゆき、孟然が乗り込んで指揮する一隻も、敵の苛烈な攻撃にさらされて浸水が始まった。
矢が雨のように降り注ぐ中、孟然も犬も身に数条の傷を負いながら互いをかばいつつ戦うが、敵の優勢をくつがえす事がどうしてもできない。
絶望的な時が過ぎていくうち、犬の悲痛な一叫に耳を打たれた孟然が背後を振り返ると、片は魚油漬けの屑布を巻いて汚煙を上げる長火矢に首の真ん中を射ぬかれて、もはや起き上がることも叶わない姿になり果てていた。
孟然は愛犬の血だまりにひざまづいたまま天を仰いで嘆き、失なわれた多くの仲間と、そして最期のその時まで自分に付き従った片の復讐を心に誓って湖水へと飛び込み、乱戦を落ち延びた。
【 二 】
孟然は岸にたどり着くと敗走する味方の残兵を自分の元にまとめたものの、その数は百人にも満たない。 集まった者たちは口々に、ひとまず戴了を目指し本軍と合流するべきだと言い騒いで逃げ腰になる意見が多かったが、孟然だけは 「 これは準備なく起きたにわかな反乱であり、賊は指揮を下す将を欠いたまま大勢だけを待んでいる。 叛主に心服する兵はまだ少なく、命がけで戦う覚悟も弱い今のうちに彭陵侯一人を討てば、敵は戦う名分を失って四散するに違いない 」 と叱咤して奇襲を主張した。
その言葉に同意して踏み留まろうと決めた者はそこから更に減ってわずか四 、五十人となり、他は戴了へと逃げた。
孟然は徐湖から上陸した敵が伸びきって行軍する地形を見越して孤曄山 ( こかざん ) の隘路で待ち受け、明け方に不意を突いて彭陵侯の軍勢に挑みかかったが、孟然と兵士たちは王旗を欠き、軍馬も無く、武具は不揃いで、そのありさまは貧しい流民にも劣るものであった。
何よりも、数が少ない。
彭陵侯はあざけって、自身の在る中軍を後方へと動かす手配りを怠ったままで孟然たちを迎え撃とうとした。
前進を試みる孟然一行は、須臾のうちに、押し寄せる敵の取り囲むところとなって容赦なく弓矢を浴びせかけられてしまう。
寡兵の死命は今まさに制せられん、とわずかな望みも絶えたその時、不可思議な事が起こった。
虚空に、聞く者を総毛立たせる怖ろしげな獣の唸り声が突如湧きあがって孟然の身の周りを渦巻くように鳴り響いたかと思う間に、飛び来たる矢のことごとくが空中で割れ砕けて、孟然を焦点とする半球の内側でぽとぽとと地面へと散り落ち始めたのである。 それはあたかも人の目には見えない神来の天幕が、孟然を守りおおっているかのようであった。
見えない幕がもたらす力の働きは他の南周兵にも及んで、敵の全軍があっけに取られて漏らすつぶやきの中を孟然たちは一人も傷負うこと無しに彭陵侯の前面へと肉薄して行く。
敵陣の中央で掲げられた貴人用の傘影の下に座す、ひときわ豪華な白銀の鎧を身に着けた男を孟然の眼がちらりと認めた時、獣の唸り声もまた同じく昂まりを見せた。
あの男こそ彭陵侯であろう、と孟然は直感した。
「 この声は、孟然殿の犬が出す唸り声に似てはいないか。 片が戦う時の声にそっくりだ 」
前に進む南周兵の一人がふと気付いて周りの仲間に問うと、空に耳を傾けていた他の数人も 「 確かに似ている 」 とうなずいた。
「 片の体は死しても、その霊魂が現世に残って孟然殿を守ろうとしているのだろう。 そうでなければ、幽鬼のように邪悪なものが好きこのんで切所にある我々に力を貸すはずがあるまい 」
孟然と共に長く働いてきた古参兵がそう言って励ますと、決死の思いを持って敵に当たろうと覚悟していた南周兵たちは一層強い勇気をみなぎらせた。
そう話している間にも不思議な獣の声は南周兵の周囲だけでなく、さらに広がって戦場と空の全体に満ちた。 音の源は、耳持つ者がどこに在っても、その目の届く限りのいずこにもあった。 はるか遠くからこだまの届くが如くに感じ取れる一方で、各人の首根のすぐ後ろから重なって聞こえても来る。 そのため彭陵兵の一人ひとりが、まず自分だけが真っ先に不気味な唸りの主に狙われてしまったものと錯覚して、身の周りをきょろきょろとうかがい、怪異に怯み始めた。
高らかだった叛乱の意気が、一転して挫け色あせてゆく。
「 片の霊が、邪魔する者を憑り殺すぞ 」
大声自慢な一人の南周兵が息の限りにそう叫ぶと、それをきっかけに彭陵の逆徒はさらに怖れて包囲を弱め、中にはこらえきれず耳をふさいで逃げ出す雑兵まで現れた。
賊は勇将孟然と常にその傍らにあって主を助けた片の話を詳しく聞き知っていたので、孟然の精妙で鋭い鏃 ( やじり ) だけでなく、死した犬の祟りからも等しく身を避けようとしたのである。
孟然は厚みを失ってまばらに崩れた敵陣の兵列越しに、青銅の剛弓をもって彭陵侯を射た。
放たれた矢は射手と標的を隔てる空間を一線につなぎ、侯の鎧をたやすく貫いて脇腹を深く傷付け、敵勢をそのただ一射で大混乱に陥とし入れた。
彭陵侯は痛みに怖れおののいて自領へと退却し、やがてその傷が元で死んだ。
【 三 】
幽霊となった飼い犬の加護を得て叛乱を鎮圧したというので、孟然と片の活躍は戴了で大きな評判となった。
孟然は王宮から召し出しを受け、令文王の直々の命によって特別な昇位を果たし奮遠将軍の重職を授けられる事が決まった。
令文王は数ある趣味の中でも特に狩猟と弓を愛し、また無類の犬好きでもあったので、孟然の勇敢さと弓術だけでなく、片がその死後も己れの主人を守り続けたという話の顛末に強く心を動かされたのである。
孟然は栄進し、同様にこもごもの昇格や褒美を受けた徐湖以来の戦友たちと共に、王都戴了で大きな屋敷を構えて軍務に励む日々を送ることとなった。
その仕事ぶりは謹直で公正であり、兵士の調練のみにとどまらず、長らく王宮で習慣化していた賄賂や政務の不効率をも上奏によって正したため、一部の悪吏を除いた戴了の人々は皆、大いにその恩恵を受けることができた。
そんなある日、はるか西域から戴了を訪れていた異国の老呪術士が孟然の屋敷の門前で足を止め、 「 なぜであろう。 ここには良くない霊気が漂っておる。 なぜであろう 」 と不思議そうに幾度もつぶやいた。
不審に思った家人が中に招いて詳しく真意を問い正そうとすると、ちょうど孟然が出仕のため、馬を屋敷の正門へと歩ませて来るところである。 軍装で馬を御する堂々とした姿の孟然をひと目見て、呪術士はすぐに告げた。
「 わかった。 悪い霊気は将軍の周りによどんでいる。 獣の、おそらくは雄犬の霊である。 急ぎ祓い去るがよろしかろう 」
孟然は珍客の言葉をすぐにはとがめず、高齢の相手を敬って下馬すると呪術士の見立てを笑って打ち消し、簡単に事のいきさつを語ると、こう締めくくった。
「 異郷の老師よ、それは私の犬の霊魂なのだ。 かつて片と名付けて飼っていた犬が、忠節を守り続けて今もこの世に残っている。 私はその魂の働きによって命を救われ、武功まで立てることができた。 悪い物のはずがあろうか 」
しかし呪術士は重々しく首を振り、それにつれて、束ねた白髪から旅に老いた足先までを包む灰色の長衣がもどかしげに揺れた。
「 違う。 死せる魂がこの世に留まろうと欲するのは、命の理 ( ことわり ) を踏み外すものである。 その望みの源が正であろうが邪であろうが、それは関係がないのだ。
将軍よ、あなたの犬はすでに十分あなたに尽くした。 命を投げ出すまで尽くした。 死したる後もなお天理へと収まらず、天に帰するを拒む魂には休まる場所も時もない。 それは現世にある限り存在そのものが削られ続けて、やがて最後には一切が消え果ててしまう。
あなたは、あなたの犬が二度も死ぬことを望まれるのか 」
自分と片との絆を侮辱されたと感じた孟然はひどく腹を立てて、呪術士を屋敷から追い出した。
呪術士はしばらく門の外にたたずんだ後、やがて嘆息して、「 その犬は沈み行く舟上で命を落とした。 負うは溺禍の縁 ( えにし ) である。 再び水難に遭う時その魂はたちどころに弱まり、永遠に失なわれるであろう 」 と寂しそうに言い置き、静かに立ち去って行った。
【 四 】
その後しばらくして、北辺の地域で太守を任じられていた郭緯が王権を軽んじて不穏な振舞いを繰り返したので討伐する事が決まり、孟然自身も一軍を率いて征旅に加わった。
郭緯は、人口と兵数が少ない北辺地方特有の不利を悩みとしていた事情から、思い余って外境に威を張る異民族の 『 遂戎 ( ついじゅう ) 』 と手を結びその軍兵を長城の内側へと招き入れたが、南周軍は礫原の谷でその連合軍を大いに破って郭緯を虜にした。
危機に陥った遂戎の単于 ( ぜんう : 部族の首長 ) 、 参祉被 ( さんしひ。 人名。 参威啓の子孫 ) は偽って降伏の意と条件を伝え、使者と通訳使を幾度も往復させて時を稼ぐ一方で少数の配下に谷の迂回を命じて礫河の堤を数里にわたって決壊させ、南周軍の陣地を水攻めにした。
すでに郭緯を捕らえる目的を達し、勝利に油断していた南周の兵は上 ・ 中軍もろとも為す術もなく激しい水流に呑まれ、下流で待ち受ける遂戎の者どもにその多くが捕らえられたり打ち殺されたりしてしまった。
孟然も濁流に翻弄されながら必死に戦ううちに味方から漂い離れてただ一人になっていたが、その体がついに泥水の渦に引き寄せられ沈みかけたその刹那、鎧の腰に巻いた錦の戦帯が、上方に生じた何かこの世の物ならぬ力に支えられて冷たい水の中から浮き上がるのを覚えた。
片が現われたのである。
「 片よ、私を救うか 」
孟然は孤絶を打ち払う希望をにわかに得て喜んだが、すぐにその表情を曇らせた。
風に運ばれて届く犬霊の息吹きには、かつて顕現した時のような揺るぎない勇ましさや猛々しさがない。流れに逆らって孟然を水面に保とうとする見えない顎 ( あぎと ) の力も、徐々に失われていくようであった。
戦帯と鎧越しに伝わって来る犬の苦しみと震えを察するうち、孟然は以前に屋敷を訪れた、あの異国の呪術士が残していった言葉を思い返し悟った。
これは水難が今まさに片の魂を蝕んでいるのであろう、と。
「 もう良い 」
その言葉は、人と犬が互いを信じ共に過ごした、かけがえのない日々から生まれたものであった。
「 片よ、もう良い 」
孟然は穏やかに語りかけて、何もない宙に手を伸ばすと決して触れることのできない犬の頭を撫でた。
「 ここに居てはならない。 すぐに私から離れよ 」
命じた孟然はいったん流れにさらわれたが、その体が沈みきる前に、片の発した泣くような吠え声を伴なって再び空中と波打ちの間際にとどめられる。
孟然は犬の迷いを断つため、努めて明るい笑顔で告げた。
「 別れの時が来たのだ。 さあ、天へと帰るが良い ─── このまま水の中にあると汝は消えてしまうぞ 」
ようやくその言葉に応えて、詫びるような、あるいは別れを惜しむような一筋の物哀しい遠吠えが地から天へと向かって高く高く伸び、やがて溶けるように静まった。
孟然の体はあっと言う間に泥でにごった奔流にとらわれて水中で浮き沈みを始め、気を失って下流の岸に打ち上げられるとそのまま遂戎の捕虜となった。
【 五 】
礫原の戦いから数年の時が過ぎた頃、両者ともが通礼使の儀辞壮句に飽くほどの問罪と釈明、慰撫と朝貢を重ね、積まれた竹簡が典客殿の書院に山と築かれた後で、南周と遂戎の間に和議がととのい、双方の捕虜が交換される取り決めが定められた。
孟然もその中の一人として遥か辺境の果てから都へと生きて還ることがかなったが、南周の軍法では、異民族に捕らえられ王化の外の地で年月を送った将軍は兵権を失い、兵士の衣食を世話する役務を専らとする閑職に追いやられるか、軍事への関わりを持てない一介の庶民へと身分が落とされる。
孟然は遂戎に囚われていた間に単干の血縁に連なる娘を妻に娶っていた事情もあったため身辺を整理すると軍を退き、以後は市井にあって人々に弓を教えて暮らそうと考え、弘農への帰郷を王宮に願い出た。
この時分、宮中の一高官に張桔 ( ちょうきつ ) という侍中の者があって、かつて孟然が将軍の職を務めていた時に賄賂と不正を糾弾され恥をかいた事から、孟然とその功績を深く憎み続けていた。
当時の恨みを今こそ晴らしてやろうと目論んだ張桔は、令文王に捕虜交換による帰還者の名簿を隠したまま侍中の権限を悪用して詔勅を私造し、王の名において孟然を死罪人の表に書き加えると、通敵の科 ( とが ) により市中にて斬首するよう画策した。
いわれの無い罪と曲解された法を連ねて突然の死を言い渡される不名誉に孟然は内心ただならぬ怒りと疑いを持ったが、王威をかざして臨んで来る張侍中と争えば反逆の汚名を被るかもしれず、そうなればその累は以前の部下たちや故郷の縁者、そして妻と、それだけでなく遠く遂戎の地にまで及ぶおそれさえある。
すでに軍の後ろだてを失い、他の高官たちとの人脈を断たれている孟然が詔勅に抗がう術は無かった。
【 六 】
人々の行き交う北景門の商市広場に曳き出された孟然が、全てを諦めて刑台の刃座へと自身の首を差し伸べようとした 、その時である。
一頭の犬が吠えた ─── 何の前触れも無く、予兆の一切も無く、突如として百雷の束ねにも匹敵する犬の咆哮が、凄まじい怒りの念で万物を圧する轟音となって空から地に降り落ち、全天にこだました。
声は雲をかき消し、太陽に藍色の円虹をかけて空を揺らし、鳴動させてゆく。
戴了の犬という犬もまた、その変事に感応して狂い猛ると火がついたように吠え始めた。
それは岩積みで組まれた衛門廷の大柱が震動し続けた末にその位置をずらす程のかつてない激しさを宿した大音であって、「 周代諸王諸侯縁覧 」 によれば、贅美を尽くした装飾をうたわれた史書殿の竜額を縁取る白玉細工に唯一のひびを入れたのは、まさにこの時の吠え声であったとも伝わる。
首切り役人たちは刑場を襲った暴風同然の騒がしさにうろたえながら、それでも蛮勇を奮って必死に孟然の首を打ち落とそうとしたが、自身の握る大鉞が、犬の噛み跡そのままのへこみを幾重にも刻みつけられメキメキと歪みねじれてゆく様を目の当りにすると、皆たまらず怖れ逃げ散ってしまった。
混乱の中、何者かが人ごみのどこかで良く通る大声を発した。
「 惜しいかな。 罪無き者の命が断たれようとしておるぞ。 惜しいかな 」
人々は将軍だった頃の孟然とその名声を改めて思い起こし、縄目を受ける孟然と、その横に立て掛けてある罪板を見比べてざわめいた。
「 奸計、奸計、これは小悪人の奸計なり 」
義憤を感じつつも手を出しかねて刑の執行を見守っていた群衆の中から数人の兵士が語らって進み出て、一人刑台でたたずむ孟然の縛めを解いた。
孟然は急転した己れの命運と耳を圧して吠え荒れる空のありさまにしばらく絶句していたが、やがて息を整えると、自分を救い出した人々に礼を言って深々と再拝した。
「 将軍、災難でござったな 」
飄々と歩み寄って来るその声は最前、人が動くきっかけとなった大声と同じものである。
見るとその主は、かつて孟然に天理を説いた西域の老呪術士であった。
孟然は犬の姿を捜し求めるように空へ視線を注いだまま、自省と感謝を込めて老人に述懐した。
「 あなたは正しかった。 あの時の教えと言葉がなければ、私は片の霊魂をただ便利な物であるとのみ考えて、ついにはそれが消え去るまで頼り続けたに違いない 」
孟然が自由の身に戻ったことに満足したものか、空の異変からは怒りが消えて、潮が引くように、ゆっくりと小さくなっていく。
「 だがなぜ、私はまた救われる事を得たのだろうか。 あの声は片のものだ。 すると、片は未だこの世をさまよっているのだろうか 」
「 あなたの犬は 」 呪術士は軽い仕草で上方を示した。 「 すでに天へとその処 ( ところ ) を定めておる。 きっと先ほどは、かつて共に暮らした主の難儀をうち払うために、天帝に許しを乞うてひと時の間だけここへ降り来たったのであろう ‥‥‥ あの声の遠さから察するに、もはや地を遠く離れて天に帰らんとしておるのではなかろうか 」
さらに何事かを尋ねようとする孟然を手で制して、呪術士は孟然の無事を喜び刑台へ集まり始めた人々が作る肩垣の陰にその年老いた体を没した。
「 わしも帰るとしよう 」
呪術士は二度と姿を見せなかった。
【 七 】
市中で起きた斬首にまつわる大騒ぎは空の吠え声と同様に当然王宮にも達したので、事情を調べさせた令文王はすぐに事の一部始終を知った。 孟然が存命しており、しかもすでに王都戴了に戻り来ているとの報告を受けると大いに喜び、その一方で、張侍中を叱り飛ばして死罪の命令を即座に取り消すとともに、孟然を近衛部隊付きの弓術師範として礼を尽くして王宮に迎えるようにと、居並ぶ重臣一同にその場で厳命した。
王は南周の軍法を重んじてはいたが、孟然の無欲と忠節に信頼を置くこと篤かったので、次善の案として、孟然に軍とは別の成り立ちを持つ近衛兵に対して将たる栄誉を用意したのである。
孟然は令文王の望みを奉じてその後長く近衛の兵に弓術の奥義を惜しむ事なく伝え、勇気ある優れた射手を多く育てたので、その手腕と徳、人柄を称えられて最後には公の位を得るに至り、弘農に六百戸の封邑を賜わった。
弘農から世に出て公となった孟姓の者は幾人かいるが、南周弘農の孟公といえばこの孟然を指す。
「 異柳紀周代 」 に言う。
片は、その後も気が向くとしばしば孟然の元を訪れたようである。 というのも、一頭だけで飼われていた孟家の雌犬がいつの間にか右の牙が目立って長い仔犬を産み落としたり、孟然の弟子の放った矢が、慎重に狙いを定めたはずの標的の手前で突然に折れたり跳ね返ったりする出来事があり、それを見た孟然が驚きもなく 「 ああ、片よ汝、いたずらでもしに来たのか 」 と笑って、見えない犬を歓迎する事が一度ならずあったからである。
戴了から洛陽へと都が戻されて孟家の場所が移り変わっても、犬の幽霊がもたらすそれらの怪異は時おり思い出したかのように起きてそのつど人々の噂となったが、孟然が寿命を全うして世を去るとぴたりと収まった。
今も戴了の街では、片目の周りに白斑を持って産まれてくる犬を 「 片雪相 」 と呼んで珍重している。
終わり
南周朝 ・ 令文王の時代、水害により黄河の流れが変じたため洛陽から戴了へと王都が移されていた頃の話である。
辺境を守る南周軍部隊の中に、弘農という地方の人で孟然という者があった。
孟然は上背と骨柄に秀で膂力にも恵まれた勇者で、騎射に巧みであったので戦場で幾度も武功を挙げるうちに認められて、兵卒から将へと徐々に引き立てられた。
孟然には財産と呼べるほどの貯えは何も無かったが、ただ故郷から連れてきてそのまま軍中に伴っている一頭の犬があった。 黒毛の雄犬で、並みの番犬などよりも優にひと回りも大きなその犬を孟然は 「 片雪片牙 ( へんせつへんが ) 」 と名付けて、家族同様にいつくしむと共に熱心に訓練を繰り返し、様々な事を教え込んだ。
片雪とは犬の模様である。 全体はつやのある黒一色だが、右の眼の周りから前肢にかけて、小さな真っ白の斑点が吹き散らした如くに配されて輝きを放ち、そこだけが雪に降り積もられたようになっていた。
片牙は歯並びの様 ( さま ) である。 右の上顎から一本だけ長めの牙が生えていて口の外側に伸びること数寸に達し、離れたところからもそれと判るほどに良く目立った。
非常に賢い犬で、普段は誰に対しても人なつこく遊び好きだが、ひとたび孟然に従って戦いに臨むと、その働きぶりと勇敢さは練達の兵にも劣らない。
戦車に繋がれた敵方の曳馬たちは低く響いて来るその犬のうなり声を耳にするだけで前に進むことに怯みを見せ、兵を背に乗せて疾駆する良く鍛えられた騎馬でさえも、一吠えされると脅え狂って竿立ちになり、乗り手を振るい落として逃げて行く。
初めのうちは味方の馬まで無用に驚かせるというので厩兵の職にある同僚たちは孟然の愛犬が近くに寄り付くのを嫌ったが、しばらく経つと、敵馬を追い払う事でもたらされる戦場の走り易さに人よりも馬の方が先に慣れ、求めて犬を頼るようになった。
暗夜の行軍中に誰よりも早く伏兵に気づいたり敵の進軍した方角を正しく嗅ぎ分けて示してみせる感覚の鋭敏さなどは人の及ぶところではなく、孟然と部隊の危機や錯誤を、犬の耳と鼻は未然に良く防いだ。
身動きは上等の猟犬すら比べものにならない程に素早い。 敵味方双方の兵が入り乱れて戦う局面などでは、突き出される槍先や剣の太刀筋を易々とかわして敵兵の懐に難なく飛び込むことができた。
鎧の厚みを右の牙が貫き、さらに肩や腕に深々と噛みつかれると、大抵の者は痛みと怖ろしさに戦意を失って地に膝をつき降伏してしまう。 また、しばしば孟然を狙って放たれた敵からの矢に躍り上がって宙で顎に捕らえ、牙で噛み折ったりはじき飛ばしたりして主の身を守ることもあった。
犬は陣中で人気者となり、一緒に暮らす味方ばかりでなく対峙する敵にも良く知られるようになった。 孟然は片雪片牙と呼び続けていたのだが、多くの軍兵は、ただ一音で簡単に 「 片 ( へん ) 」 と呼んだ。
片よこの肉をやろう、片よ今日も元気か、などと呼ばわって犬を可愛がる者があまりに増えた頃、孟然はこだわらず笑って 「 衆呼転称して即ち名を識らしむ。 汝は片だ 」 と宣じて、犬の名を 「 片 」 と改めた。
【 原註 : 衆呼転称して即ち名を識らしむ ( しゅうこてんしょうしてすなわちなをしらしむ ) 。 本来の名前よりも、広く世に知られた呼び名の方が用いる上で都合が良い、の意 】
犬は飼い主の側を片時も離れることなく共に日々を送り務めを果たしていたが、やがて運命の転機となる激しい戦いに遭い、主人より先にその命を落とす時がやって来た。
東方の領地に封じられていた野心ある王族、彭陵侯が主君の令文王に叛旗をひるがえし、黄河下流の北岸と徐湖 ( じょこ ) に面する諸城を占領した 『 東徐の乱 』 が起きたのである。
緒戦は舟を用いた湖上での戦さとなり、備えと数に劣る南周軍は苦戦を強いられた。
急仕立てで押し出した南周の戦舟は陣形を失って崩れ立つうち次々と沈んでゆき、孟然が乗り込んで指揮する一隻も、敵の苛烈な攻撃にさらされて浸水が始まった。
矢が雨のように降り注ぐ中、孟然も犬も身に数条の傷を負いながら互いをかばいつつ戦うが、敵の優勢をくつがえす事がどうしてもできない。
絶望的な時が過ぎていくうち、犬の悲痛な一叫に耳を打たれた孟然が背後を振り返ると、片は魚油漬けの屑布を巻いて汚煙を上げる長火矢に首の真ん中を射ぬかれて、もはや起き上がることも叶わない姿になり果てていた。
孟然は愛犬の血だまりにひざまづいたまま天を仰いで嘆き、失なわれた多くの仲間と、そして最期のその時まで自分に付き従った片の復讐を心に誓って湖水へと飛び込み、乱戦を落ち延びた。
【 二 】
孟然は岸にたどり着くと敗走する味方の残兵を自分の元にまとめたものの、その数は百人にも満たない。 集まった者たちは口々に、ひとまず戴了を目指し本軍と合流するべきだと言い騒いで逃げ腰になる意見が多かったが、孟然だけは 「 これは準備なく起きたにわかな反乱であり、賊は指揮を下す将を欠いたまま大勢だけを待んでいる。 叛主に心服する兵はまだ少なく、命がけで戦う覚悟も弱い今のうちに彭陵侯一人を討てば、敵は戦う名分を失って四散するに違いない 」 と叱咤して奇襲を主張した。
その言葉に同意して踏み留まろうと決めた者はそこから更に減ってわずか四 、五十人となり、他は戴了へと逃げた。
孟然は徐湖から上陸した敵が伸びきって行軍する地形を見越して孤曄山 ( こかざん ) の隘路で待ち受け、明け方に不意を突いて彭陵侯の軍勢に挑みかかったが、孟然と兵士たちは王旗を欠き、軍馬も無く、武具は不揃いで、そのありさまは貧しい流民にも劣るものであった。
何よりも、数が少ない。
彭陵侯はあざけって、自身の在る中軍を後方へと動かす手配りを怠ったままで孟然たちを迎え撃とうとした。
前進を試みる孟然一行は、須臾のうちに、押し寄せる敵の取り囲むところとなって容赦なく弓矢を浴びせかけられてしまう。
寡兵の死命は今まさに制せられん、とわずかな望みも絶えたその時、不可思議な事が起こった。
虚空に、聞く者を総毛立たせる怖ろしげな獣の唸り声が突如湧きあがって孟然の身の周りを渦巻くように鳴り響いたかと思う間に、飛び来たる矢のことごとくが空中で割れ砕けて、孟然を焦点とする半球の内側でぽとぽとと地面へと散り落ち始めたのである。 それはあたかも人の目には見えない神来の天幕が、孟然を守りおおっているかのようであった。
見えない幕がもたらす力の働きは他の南周兵にも及んで、敵の全軍があっけに取られて漏らすつぶやきの中を孟然たちは一人も傷負うこと無しに彭陵侯の前面へと肉薄して行く。
敵陣の中央で掲げられた貴人用の傘影の下に座す、ひときわ豪華な白銀の鎧を身に着けた男を孟然の眼がちらりと認めた時、獣の唸り声もまた同じく昂まりを見せた。
あの男こそ彭陵侯であろう、と孟然は直感した。
「 この声は、孟然殿の犬が出す唸り声に似てはいないか。 片が戦う時の声にそっくりだ 」
前に進む南周兵の一人がふと気付いて周りの仲間に問うと、空に耳を傾けていた他の数人も 「 確かに似ている 」 とうなずいた。
「 片の体は死しても、その霊魂が現世に残って孟然殿を守ろうとしているのだろう。 そうでなければ、幽鬼のように邪悪なものが好きこのんで切所にある我々に力を貸すはずがあるまい 」
孟然と共に長く働いてきた古参兵がそう言って励ますと、決死の思いを持って敵に当たろうと覚悟していた南周兵たちは一層強い勇気をみなぎらせた。
そう話している間にも不思議な獣の声は南周兵の周囲だけでなく、さらに広がって戦場と空の全体に満ちた。 音の源は、耳持つ者がどこに在っても、その目の届く限りのいずこにもあった。 はるか遠くからこだまの届くが如くに感じ取れる一方で、各人の首根のすぐ後ろから重なって聞こえても来る。 そのため彭陵兵の一人ひとりが、まず自分だけが真っ先に不気味な唸りの主に狙われてしまったものと錯覚して、身の周りをきょろきょろとうかがい、怪異に怯み始めた。
高らかだった叛乱の意気が、一転して挫け色あせてゆく。
「 片の霊が、邪魔する者を憑り殺すぞ 」
大声自慢な一人の南周兵が息の限りにそう叫ぶと、それをきっかけに彭陵の逆徒はさらに怖れて包囲を弱め、中にはこらえきれず耳をふさいで逃げ出す雑兵まで現れた。
賊は勇将孟然と常にその傍らにあって主を助けた片の話を詳しく聞き知っていたので、孟然の精妙で鋭い鏃 ( やじり ) だけでなく、死した犬の祟りからも等しく身を避けようとしたのである。
孟然は厚みを失ってまばらに崩れた敵陣の兵列越しに、青銅の剛弓をもって彭陵侯を射た。
放たれた矢は射手と標的を隔てる空間を一線につなぎ、侯の鎧をたやすく貫いて脇腹を深く傷付け、敵勢をそのただ一射で大混乱に陥とし入れた。
彭陵侯は痛みに怖れおののいて自領へと退却し、やがてその傷が元で死んだ。
【 三 】
幽霊となった飼い犬の加護を得て叛乱を鎮圧したというので、孟然と片の活躍は戴了で大きな評判となった。
孟然は王宮から召し出しを受け、令文王の直々の命によって特別な昇位を果たし奮遠将軍の重職を授けられる事が決まった。
令文王は数ある趣味の中でも特に狩猟と弓を愛し、また無類の犬好きでもあったので、孟然の勇敢さと弓術だけでなく、片がその死後も己れの主人を守り続けたという話の顛末に強く心を動かされたのである。
孟然は栄進し、同様にこもごもの昇格や褒美を受けた徐湖以来の戦友たちと共に、王都戴了で大きな屋敷を構えて軍務に励む日々を送ることとなった。
その仕事ぶりは謹直で公正であり、兵士の調練のみにとどまらず、長らく王宮で習慣化していた賄賂や政務の不効率をも上奏によって正したため、一部の悪吏を除いた戴了の人々は皆、大いにその恩恵を受けることができた。
そんなある日、はるか西域から戴了を訪れていた異国の老呪術士が孟然の屋敷の門前で足を止め、 「 なぜであろう。 ここには良くない霊気が漂っておる。 なぜであろう 」 と不思議そうに幾度もつぶやいた。
不審に思った家人が中に招いて詳しく真意を問い正そうとすると、ちょうど孟然が出仕のため、馬を屋敷の正門へと歩ませて来るところである。 軍装で馬を御する堂々とした姿の孟然をひと目見て、呪術士はすぐに告げた。
「 わかった。 悪い霊気は将軍の周りによどんでいる。 獣の、おそらくは雄犬の霊である。 急ぎ祓い去るがよろしかろう 」
孟然は珍客の言葉をすぐにはとがめず、高齢の相手を敬って下馬すると呪術士の見立てを笑って打ち消し、簡単に事のいきさつを語ると、こう締めくくった。
「 異郷の老師よ、それは私の犬の霊魂なのだ。 かつて片と名付けて飼っていた犬が、忠節を守り続けて今もこの世に残っている。 私はその魂の働きによって命を救われ、武功まで立てることができた。 悪い物のはずがあろうか 」
しかし呪術士は重々しく首を振り、それにつれて、束ねた白髪から旅に老いた足先までを包む灰色の長衣がもどかしげに揺れた。
「 違う。 死せる魂がこの世に留まろうと欲するのは、命の理 ( ことわり ) を踏み外すものである。 その望みの源が正であろうが邪であろうが、それは関係がないのだ。
将軍よ、あなたの犬はすでに十分あなたに尽くした。 命を投げ出すまで尽くした。 死したる後もなお天理へと収まらず、天に帰するを拒む魂には休まる場所も時もない。 それは現世にある限り存在そのものが削られ続けて、やがて最後には一切が消え果ててしまう。
あなたは、あなたの犬が二度も死ぬことを望まれるのか 」
自分と片との絆を侮辱されたと感じた孟然はひどく腹を立てて、呪術士を屋敷から追い出した。
呪術士はしばらく門の外にたたずんだ後、やがて嘆息して、「 その犬は沈み行く舟上で命を落とした。 負うは溺禍の縁 ( えにし ) である。 再び水難に遭う時その魂はたちどころに弱まり、永遠に失なわれるであろう 」 と寂しそうに言い置き、静かに立ち去って行った。
【 四 】
その後しばらくして、北辺の地域で太守を任じられていた郭緯が王権を軽んじて不穏な振舞いを繰り返したので討伐する事が決まり、孟然自身も一軍を率いて征旅に加わった。
郭緯は、人口と兵数が少ない北辺地方特有の不利を悩みとしていた事情から、思い余って外境に威を張る異民族の 『 遂戎 ( ついじゅう ) 』 と手を結びその軍兵を長城の内側へと招き入れたが、南周軍は礫原の谷でその連合軍を大いに破って郭緯を虜にした。
危機に陥った遂戎の単于 ( ぜんう : 部族の首長 ) 、 参祉被 ( さんしひ。 人名。 参威啓の子孫 ) は偽って降伏の意と条件を伝え、使者と通訳使を幾度も往復させて時を稼ぐ一方で少数の配下に谷の迂回を命じて礫河の堤を数里にわたって決壊させ、南周軍の陣地を水攻めにした。
すでに郭緯を捕らえる目的を達し、勝利に油断していた南周の兵は上 ・ 中軍もろとも為す術もなく激しい水流に呑まれ、下流で待ち受ける遂戎の者どもにその多くが捕らえられたり打ち殺されたりしてしまった。
孟然も濁流に翻弄されながら必死に戦ううちに味方から漂い離れてただ一人になっていたが、その体がついに泥水の渦に引き寄せられ沈みかけたその刹那、鎧の腰に巻いた錦の戦帯が、上方に生じた何かこの世の物ならぬ力に支えられて冷たい水の中から浮き上がるのを覚えた。
片が現われたのである。
「 片よ、私を救うか 」
孟然は孤絶を打ち払う希望をにわかに得て喜んだが、すぐにその表情を曇らせた。
風に運ばれて届く犬霊の息吹きには、かつて顕現した時のような揺るぎない勇ましさや猛々しさがない。流れに逆らって孟然を水面に保とうとする見えない顎 ( あぎと ) の力も、徐々に失われていくようであった。
戦帯と鎧越しに伝わって来る犬の苦しみと震えを察するうち、孟然は以前に屋敷を訪れた、あの異国の呪術士が残していった言葉を思い返し悟った。
これは水難が今まさに片の魂を蝕んでいるのであろう、と。
「 もう良い 」
その言葉は、人と犬が互いを信じ共に過ごした、かけがえのない日々から生まれたものであった。
「 片よ、もう良い 」
孟然は穏やかに語りかけて、何もない宙に手を伸ばすと決して触れることのできない犬の頭を撫でた。
「 ここに居てはならない。 すぐに私から離れよ 」
命じた孟然はいったん流れにさらわれたが、その体が沈みきる前に、片の発した泣くような吠え声を伴なって再び空中と波打ちの間際にとどめられる。
孟然は犬の迷いを断つため、努めて明るい笑顔で告げた。
「 別れの時が来たのだ。 さあ、天へと帰るが良い ─── このまま水の中にあると汝は消えてしまうぞ 」
ようやくその言葉に応えて、詫びるような、あるいは別れを惜しむような一筋の物哀しい遠吠えが地から天へと向かって高く高く伸び、やがて溶けるように静まった。
孟然の体はあっと言う間に泥でにごった奔流にとらわれて水中で浮き沈みを始め、気を失って下流の岸に打ち上げられるとそのまま遂戎の捕虜となった。
【 五 】
礫原の戦いから数年の時が過ぎた頃、両者ともが通礼使の儀辞壮句に飽くほどの問罪と釈明、慰撫と朝貢を重ね、積まれた竹簡が典客殿の書院に山と築かれた後で、南周と遂戎の間に和議がととのい、双方の捕虜が交換される取り決めが定められた。
孟然もその中の一人として遥か辺境の果てから都へと生きて還ることがかなったが、南周の軍法では、異民族に捕らえられ王化の外の地で年月を送った将軍は兵権を失い、兵士の衣食を世話する役務を専らとする閑職に追いやられるか、軍事への関わりを持てない一介の庶民へと身分が落とされる。
孟然は遂戎に囚われていた間に単干の血縁に連なる娘を妻に娶っていた事情もあったため身辺を整理すると軍を退き、以後は市井にあって人々に弓を教えて暮らそうと考え、弘農への帰郷を王宮に願い出た。
この時分、宮中の一高官に張桔 ( ちょうきつ ) という侍中の者があって、かつて孟然が将軍の職を務めていた時に賄賂と不正を糾弾され恥をかいた事から、孟然とその功績を深く憎み続けていた。
当時の恨みを今こそ晴らしてやろうと目論んだ張桔は、令文王に捕虜交換による帰還者の名簿を隠したまま侍中の権限を悪用して詔勅を私造し、王の名において孟然を死罪人の表に書き加えると、通敵の科 ( とが ) により市中にて斬首するよう画策した。
いわれの無い罪と曲解された法を連ねて突然の死を言い渡される不名誉に孟然は内心ただならぬ怒りと疑いを持ったが、王威をかざして臨んで来る張侍中と争えば反逆の汚名を被るかもしれず、そうなればその累は以前の部下たちや故郷の縁者、そして妻と、それだけでなく遠く遂戎の地にまで及ぶおそれさえある。
すでに軍の後ろだてを失い、他の高官たちとの人脈を断たれている孟然が詔勅に抗がう術は無かった。
【 六 】
人々の行き交う北景門の商市広場に曳き出された孟然が、全てを諦めて刑台の刃座へと自身の首を差し伸べようとした 、その時である。
一頭の犬が吠えた ─── 何の前触れも無く、予兆の一切も無く、突如として百雷の束ねにも匹敵する犬の咆哮が、凄まじい怒りの念で万物を圧する轟音となって空から地に降り落ち、全天にこだました。
声は雲をかき消し、太陽に藍色の円虹をかけて空を揺らし、鳴動させてゆく。
戴了の犬という犬もまた、その変事に感応して狂い猛ると火がついたように吠え始めた。
それは岩積みで組まれた衛門廷の大柱が震動し続けた末にその位置をずらす程のかつてない激しさを宿した大音であって、「 周代諸王諸侯縁覧 」 によれば、贅美を尽くした装飾をうたわれた史書殿の竜額を縁取る白玉細工に唯一のひびを入れたのは、まさにこの時の吠え声であったとも伝わる。
首切り役人たちは刑場を襲った暴風同然の騒がしさにうろたえながら、それでも蛮勇を奮って必死に孟然の首を打ち落とそうとしたが、自身の握る大鉞が、犬の噛み跡そのままのへこみを幾重にも刻みつけられメキメキと歪みねじれてゆく様を目の当りにすると、皆たまらず怖れ逃げ散ってしまった。
混乱の中、何者かが人ごみのどこかで良く通る大声を発した。
「 惜しいかな。 罪無き者の命が断たれようとしておるぞ。 惜しいかな 」
人々は将軍だった頃の孟然とその名声を改めて思い起こし、縄目を受ける孟然と、その横に立て掛けてある罪板を見比べてざわめいた。
「 奸計、奸計、これは小悪人の奸計なり 」
義憤を感じつつも手を出しかねて刑の執行を見守っていた群衆の中から数人の兵士が語らって進み出て、一人刑台でたたずむ孟然の縛めを解いた。
孟然は急転した己れの命運と耳を圧して吠え荒れる空のありさまにしばらく絶句していたが、やがて息を整えると、自分を救い出した人々に礼を言って深々と再拝した。
「 将軍、災難でござったな 」
飄々と歩み寄って来るその声は最前、人が動くきっかけとなった大声と同じものである。
見るとその主は、かつて孟然に天理を説いた西域の老呪術士であった。
孟然は犬の姿を捜し求めるように空へ視線を注いだまま、自省と感謝を込めて老人に述懐した。
「 あなたは正しかった。 あの時の教えと言葉がなければ、私は片の霊魂をただ便利な物であるとのみ考えて、ついにはそれが消え去るまで頼り続けたに違いない 」
孟然が自由の身に戻ったことに満足したものか、空の異変からは怒りが消えて、潮が引くように、ゆっくりと小さくなっていく。
「 だがなぜ、私はまた救われる事を得たのだろうか。 あの声は片のものだ。 すると、片は未だこの世をさまよっているのだろうか 」
「 あなたの犬は 」 呪術士は軽い仕草で上方を示した。 「 すでに天へとその処 ( ところ ) を定めておる。 きっと先ほどは、かつて共に暮らした主の難儀をうち払うために、天帝に許しを乞うてひと時の間だけここへ降り来たったのであろう ‥‥‥ あの声の遠さから察するに、もはや地を遠く離れて天に帰らんとしておるのではなかろうか 」
さらに何事かを尋ねようとする孟然を手で制して、呪術士は孟然の無事を喜び刑台へ集まり始めた人々が作る肩垣の陰にその年老いた体を没した。
「 わしも帰るとしよう 」
呪術士は二度と姿を見せなかった。
【 七 】
市中で起きた斬首にまつわる大騒ぎは空の吠え声と同様に当然王宮にも達したので、事情を調べさせた令文王はすぐに事の一部始終を知った。 孟然が存命しており、しかもすでに王都戴了に戻り来ているとの報告を受けると大いに喜び、その一方で、張侍中を叱り飛ばして死罪の命令を即座に取り消すとともに、孟然を近衛部隊付きの弓術師範として礼を尽くして王宮に迎えるようにと、居並ぶ重臣一同にその場で厳命した。
王は南周の軍法を重んじてはいたが、孟然の無欲と忠節に信頼を置くこと篤かったので、次善の案として、孟然に軍とは別の成り立ちを持つ近衛兵に対して将たる栄誉を用意したのである。
孟然は令文王の望みを奉じてその後長く近衛の兵に弓術の奥義を惜しむ事なく伝え、勇気ある優れた射手を多く育てたので、その手腕と徳、人柄を称えられて最後には公の位を得るに至り、弘農に六百戸の封邑を賜わった。
弘農から世に出て公となった孟姓の者は幾人かいるが、南周弘農の孟公といえばこの孟然を指す。
「 異柳紀周代 」 に言う。
片は、その後も気が向くとしばしば孟然の元を訪れたようである。 というのも、一頭だけで飼われていた孟家の雌犬がいつの間にか右の牙が目立って長い仔犬を産み落としたり、孟然の弟子の放った矢が、慎重に狙いを定めたはずの標的の手前で突然に折れたり跳ね返ったりする出来事があり、それを見た孟然が驚きもなく 「 ああ、片よ汝、いたずらでもしに来たのか 」 と笑って、見えない犬を歓迎する事が一度ならずあったからである。
戴了から洛陽へと都が戻されて孟家の場所が移り変わっても、犬の幽霊がもたらすそれらの怪異は時おり思い出したかのように起きてそのつど人々の噂となったが、孟然が寿命を全うして世を去るとぴたりと収まった。
今も戴了の街では、片目の周りに白斑を持って産まれてくる犬を 「 片雪相 」 と呼んで珍重している。
終わり
後書き
・ これは僕が初めて書いた小説です。 2015 年 10 月頃に完成。
今回ここに投稿させていただくにあたり、少し手直ししました。
・ 「 南周 」 という王朝は実在しません。 人物名、地名、書名なども
すべて架空の物です。 ついでに書いておくと、作中の諺 ( ことわざ ) 風の
文言も自作したものです。
・ 史記のような列伝体で書かれた人物伝を基に、講釈士が加筆した感じの
作風を目指しました。
作者:a10 ワーディルト |
投稿日:2018/02/20 01:35 更新日:2018/05/11 12:20 『シーンズ ・ ライク ・ ディーズ 』の著作権は、すべて作者 a10 ワーディルト様に属します。 |
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