作品ID:2215
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小説の属性:一般小説 / 未選択 / お気軽感想希望 / 初投稿・初心者 / R-15&18 / 連載中
前書き・紹介
高校の演劇部にて。
インビジブル・ラブネス
前の話 | 目次 | 次の話 |
インビジブル・ラブネス
【 1 】
「 ここはキスだよ! キスするの! この劇で一番大事なシーンなんだから、校長の通達なんて関係なく、当然の流れとしてキスになるんだよ! それ以外、考えられない! キス! キ ── ス ────!! 」
ヒロインの役を演じる先輩は罠にかかった猛獣が暴れるみたいな勢いでそう喚いて、軸足を支点に体を回転させながら、講堂の床を怒りにまかせ何度も踏み鳴らした。
傍らにポツンと立っている相手役の僕にも、彼女の全力ストンピングが生み出す殺人的な振動がズシズシ伝わって来る。
キスさせやがれと先輩が足をひと踏みするたび、その動きにつれて頭に仮付けされている金髪のクリップウィッグ ( 房に小分けされた演劇用カツラ ) だけは優雅に波打った。
キャラ崩壊だ。 先輩その役、悲しみに耐えて気高く生きる貴婦人の代名詞なんですけど ‥‥‥。 着付け作業を買って出てくれている服飾研究会の女子生徒があまりの剣幕に当てられて、先輩のために用意された濃紺のラバノワドレスを広げかけた状態で固まっていた。 怯えきった他の部員、特に上級生の人たちが、チラチラ僕に視線を送って来る。 お前、主役として何とかしてくれよって目だ。 うーん。 ダメ元で、まあまあ落ち着いてください、って軽くなだめてみようかな。 ズシン。 いや無理です危険です。
劇のリハーサルは大詰めの段階に入っていて、もう多少の個人的な不満や意見は胸にしまい、今は各人が演技の総合的なすり合わせを行なうべき時だ ‥‥‥ とは言え、上演寸前までこぎ着けた劇作りを、堅苦しい横やりで突然に邪魔されてしまった先輩がダークフォース感にあふれた激情を爆発させるのも無理はない。
いつもは演劇部のリーダーとして部活動全体のバランスに目を配る人だが、事が学校からのクレームごときが原因であっさり変更されてしまう劇の演出となると話は違ってくる。 社会的には半分子供扱いの高校生ではあっても、一人の女優としては決して譲れない矜持にも似た部分が出て来るのだろう。
今がそうだった。
間近に迫った今年の文化祭、そこでの劇は、先輩を始めとする三年生の演劇部員にとっては高校生活で最後の作品発表の機会となる。 悔いの無いよう、出来る限り納得いく物に仕上げようとするのは当然だった。
特に先輩は今回の上演を自分の学年だとか部長としての立場だけでなく、入学してから今まで、同好会落ち寸前の弱小集団だった演劇部を盛り上げ育ててきた彼女自身の集大成としても位置づけているようだ。 熱意が違う。
演目は一般にも広く知られる戯曲で、王道恋愛もののジャンルでは定番のひとつだ。
愛し合う男女が戦火に引き裂かれ、主人公の男は戦いの中で落命し、残されたヒロインは人生を一人で強く生きていく ─── 何度か映画化もされている筋立てのはっきりした物語だから、観客は展開や伏線に気を配る必要がない。 気構えなく、誰でも一度は何かの形で見た事のある場面の数々を楽しんでもらう ─── そういう趣向だった。
主人公役は、一年生にも関わらず、この僕に任される事になっている。 理由は単純で、男子部員の中で一番背の高いのが僕だったからだ。
そして、先輩がもう一人の主役とも言うべきヒロイン役をつとめるのは、普段からの圧倒的な校内注目度を考えればこちらは順当な人選と言えた。
" 金髪の美少女 " という原作設定通りの役作りにも無理を感じさせないほどに整った顔立ちで、しかもスラっと脚の伸びたプロポーションに恵まれた先輩は舞台映えがするという意味ではこの劇のヒロインとして理想的と言って良い存在だが、ただでさえ男子に引けを取らない背丈に加えて、今作ではドレスをまとう役柄に合わせ、ヒールタイプの靴をコーディネートする必要がある。
相手役に求められるのは経験や演技力よりも、まず第一に、舞台で並んだ時にヒロインと釣り合うに十分な身長というわけだった。
【 2 】
「 ふーん。 君が主人公やるんだ 」
夏休み直前、期末テスト明けに開かれた配役ミーティングで部員それぞれに演じる担当人物が決定した日、先輩は 『 この世にこんな下級生いたのね 』 と言いたげな表情で僕に近寄って来ると、「 ふーん。 ほほう。 へー。 ふむふむ 」 みたいな声と一緒に時々爪先立ったり前かがみになったりしながら、僕の体のかなり近くを尋問前のゲシュタポ風にゆっくり一周した。
ランナー用の青い極細カチューシャが、セミロングより気持ち長めにした先輩の深黒い髪を飾り気なくまとめている。 肌は遠めにうかがい見ていた時の勝手なイメージとは違って意外に少し日焼け気味で、それが活発そうな眉と、知的なラインを描く鼻梁の陰影を明るく健康的に際立たせていた。
やがて先輩はくすっと笑うと僕の正面で向き合い、値踏みするように少し首を傾げてから、さらにぐっと一歩、間を詰めて来ると眼と眼を合わせたまま 「 それじゃ別れのキスシーン、私は君としちゃうってことね 」 ─── 何げなさそうに、パイナップルミントの息でボソリとつぶやいた。
緊張で少しつっかえ気味によよよろしくお願いしますと言いかけていた僕はそのひと言にびっくりして、思わず挨拶の言葉を飲み込んで先輩の唇を凝視してしまう。
あーっ、そうだそうなのそうだよそう言えば、と今さらだが思い至る。 この劇って、主人公とヒロインがキスするとこあんじゃん ‥‥‥ ! ! て事は ! するのキス ?!
そこは最も有名なシーンだ。
戦場へと赴く主人公と故郷に残されるヒロインが、別れ際に初めての口づけを交わす場面だった。 物語前半のエピソードはその瞬間に向かって収斂して行き、後半においてはそれを感情的背景として登場人物たちが終幕へと導かれる。
映画化された作品のポスター類などは、ほとんどがそのシーンをモチーフとしてデザインされているはずだ。
極論するなら、これは恋人たちがキスして戦争して泣ける劇ですよと言ってもいいかもしれない。
キス ‥‥‥ っ ‥‥‥ !
あせりまくる僕の反応をちょっと楽しそうに見守っていた先輩は、いかにも年上のお姉さん然とした余裕ある態度で気づかうように微笑んだ。
「 本当にキスするわけじゃないよ。 私と君は抱き合ってからくるっと回って、少し角度を変えるの。 私は、客席に背中を向けて立つ君の後ろに隠れる事になってるわ 」
えっ ‥‥‥ 。 ‥‥‥ じゃ ‥‥‥ なんちゃってキス ? フェイクキス ? 嘘キス ? VRキス ?
「 がっかりした ? 」
あれ。 なんか今の会話で上下関係が確定してしまった気がする。 まあ最上級生ヒロインと低レベル一年の僕の立場じゃ、それが当然ではあるんだろうけど。
「 ねえねえ、がっかりした ? 」 先輩、容赦なく追撃。
自覚できるくらいポカンとした顔からなんとか復帰した僕は平静を装って、いえ別に ‥‥‥ と応じるのが精一杯だ。 その言い終わりに先輩の大人感アップな 「 フフっ 」 が被せられて、上下ギャップはさらに広がった。
「 凡コメントだね。 君って、とことん普通なタイプの一年生 」
でもそういう性格の方がこの役には合ってるかもしれない、頑張るのよ、と言い置いて、先輩は立ち去って行く。
ま、高校生の部活演劇だしそんなもんだろうな、と僕は納得し、肩すかし感と安堵とパニック恥と草原号泣疾走欲求をやわらげるため、心の嘘記憶に 『 知ってたし 』 と付け加えた。
なんちゃってキスかあ ‥‥‥。 いえ別に、いいんですけど。 知ってたし。
【 3 】
そう。 その通りの演出プランで行くはずだったのだ ‥‥‥ さっきまでは。
運が悪いと言うか規則順守が裏目に出たというか、学校に提出した上演冊子サンプルにたまたま目を通した校長が、教育的配慮によってその場面に待ったをかけてきたのである。 演目を解説した見開きページには、頑張りすぎた漫画研究部の傑作イラストが中央にでかでかと配されていて ─── 崩壊炎上する巨大要塞をバックに、舌を絡めあって抱擁する半裸の先輩となんか機動ウォリアーっぽい僕の姿がそこにはあった ‥‥‥ なにマゲドンだよコレ! 世界観全然違うし!
校長の意向を受けた職員会議で急きょ台本の検閲が行なわれ、その結果出された大まかな指示は
・ 抱き合うの禁止。
・ 無論、キス禁止。
要するに、もっと高校生にふさわしい ( 保護者クレームが殺到するおそれの無い ) 健全で無難な演劇にしなさいと指導しているつもりらしい。
「 実際にはキスしませんって、あたし何度も説明したんです。 でも学校側としては、いかにもそういうコトしてますっていう見せ方をするのもダメなんだそうで 」
副部長が講堂で練習中だった部員みんなを集めて、自分としては出来る限り先方を説得しようと努力してみたのだが的態度でキスシーン中止の報告を始めたのが、ついさっきのこと。
それを聞かされ激怒したヒロイン役の先輩が、だからと言っておめおめと退却して来る奴があるか気味のキレ方で床に踏みつけ攻撃を始めたのがその数分後。
もしシーン変更の通達がどうしても動かせないものだとすると、夏休みと二学期が始まってからの一ヶ月強を費やした練習は、その一部が本番では活かされず、無駄に終わってしまう事になる ‥‥‥ が、まあそれは、演じる僕らが我慢すれば丸く収まる話だと言えなくもない。
しかし、劇のクオリティ面への影響は深刻だった。
劇全体を俯瞰した時に重要なのは実はキスそのものではなく、その後に続く、主人公とヒロインの短いが印象的な会話の方にある。
やり取りの一部には二人が初めての口づけについて語り合い心を通わせるというくだりがあって、そこで使われる表現は次幕で訪れる主人公の死にざまと、終幕でヒロインが劇を締めくくる最後のセリフに深い関連性を持つのだ。
キスシーンが無くなるという変更は、本来密接なつながりを持つそれらのエピソードからドラマ性を大きく喪失させてしまう。
作品の主題が弱まりかねない、困った問題だった。
─── そこまで考えて、ようやく僕は気付いた。 そうか、だから先輩はあんなに腹を立てているんだ。 単なるエゴではない ─── あれはこの劇の台本が持つ表現意図とその構造を深く理解できているからこその、演技者としての天性の勘から発した心からの訴えに違いない。
「 もういい気にしない!! キスする! たとえ廃部になってもキスするから! 私、あのシーン好きなの! あのシーンやるの、夢だったんだからー! どうせ半年後には卒業だし、怒られて後がどうなろうと知ったこっちゃないわ! 」
──── 単 な る エ ゴ だ っ た ──── 。
【 4 】
「 妥協するしかないですね 」
誰も言い出せなかった結論を、おそらくキス禁止令を言い渡された職員室からこの講堂までを戻って来るあいだ中、ずっと考え抜いてきたであろう副部長がはっきりと口にした。
「 !! 」
敗北宣言とも取れるその声に反応して物凄いスピードで振り返った先輩のウィッグが激しく乱れて顔のほとんどを覆い隠し、金髪の隙間から片目だけがギロリと覗く格好になる。 普通にしていれば表情豊かでぱっちりとした大きな瞳は彼女が持つ魅力のひとつだが、こんな状況では殺気の発信源でしかない。 ステルスゲーなら射程外の敵にすら発見されるレベルです先輩。
微かに 「 うぬぅ ‥‥‥ 」 と不満そうなうめき声までが絞り出されてきて、どう見ても絶対反対だと判る姿になっている。 鬼 、キスの鬼だ。 怖い。
だが、副部長は眼鏡レンズ反射バリアを駆使して表情を消し、ひるむことなく冷静に続けた。 ‥‥‥ よく見ると少し震えてるし、正確には先輩にではなく先輩の足首に話しかけてるけど。
「 こっここは全暗転を使う、という事でどうですか。 主人公とヒロインは、向き合って互いの顔を近付ける。 台本通りに、です。
そこまで進めたら、全部の照明をすーっと落とすんですよ。 非常口の誘導灯や機器類のインジケーターも、黒幕でその間だけ隠してしまいましょう。 そして真っ暗な中で一拍置いてから、また明るさを戻してキス後の会話シークエンスに入るんです ─── 二人はキスを見せない。 その代わり、観客にキスを、想像、させる。 そういう流れにしましょう 」
「 う、うぅ ‥‥‥ 」
身構えている先輩が緊張を解いていく様子から察すると、これは副部長に渋々ながらも同意を示す、肯定的うめき声らしい。
全暗転。 舞台だけでなく、観客席を含む劇会場全体を暗くする演出法だ。
舞台はほとんどの場合その直前まで皓々と照らされているから、明暗の差が生む効果は日常の生活で室内を消灯したりする時などよりも大きい。
平たく言えば、観客は突然光を奪われてしばらく何も見えなくなる。
確かにその案は、次善の選択肢としては悪くなかった。 何より、この方法だと台本の手直しを人物の動きと照明の演出変更だけに留めることができる。 現実問題として、今からきっちり整合性を保ったキス無しバージョンの膨大なセリフを書き起こすのは無理というものだ。
周りの部員にも台本をめくって小さなうなずきを示す数人の顔が見られるのは、これなら演出改変の影響は小さいぞ ‥‥‥ という事を確認しているからなのだろう。
劇での役割りや受け持ちが同じ後輩に、小声でこのアイデアの利点を説明している上級生もいる。 雰囲気としては高評価な感じだ。
そんな中で一応落ち着きを取り戻した先輩は頭をぐりぐりして雑に髪の流れを直すと、それでもどこか不満そうな腕組みポーズで、唯一の味方を探し求めるみたいにじっと僕の方を見た。
「 君はそれでいいのかな 」
あ。 こっちに振られた。
えっはい、えーと、上演をまず第一に考えるなら ‥‥‥ と慎重に言葉を選び選び、僕は副部長の解決策に賛成する。
これについては、僕の方にも別の事情があった。
文化祭が近付くにつれて校内に演劇部の演目と配役が知れわたってしまい、どうやら劇の中で先輩とキスできる許せない奴がいるらしいという話題で、クラスメートや一部の男子上級生は事あるごとに妬み半分で僕をからかい始めていたのだ。
そんな興味本位の話題に対して、副部長が先生に説明して回ったのと同じように、リアルのキスなんてしませんよするわけないだろしないよしねえってしつけえんだよテメエ、と何回否定したか数えきれない。
無駄に背が高いのが幸いしたのか、あからさまな嫌味やイジメ的な行為は無かったのだが、平凡な高一男子としてそういう自分の立ち位置がちょっとだけ重荷になっていた僕からすると、この新しい演出で注目シーンのハードルが低くなるのは正直ほっとできるところもあった。
変更は学校側が決めた事だし、劇を丸ごと上演中止にしろというほどの乱暴な指示でもないし、ついでにそんな消極的な理由も手伝って、‥‥‥そのシーン、副部長の言うように暗転への演出差し替えがいいと思います ── と僕は続けていた。
「 ‥‥‥ 」
話の文脈から早々に結論を悟った先輩は僕からぷいっと顔ごと視線をそらすと、言い終わりを最後まで待つことなく 「 まあ君がそれでいいって言うなら私もそれでいいし別にいいんだけど 」 みたいな事をぶつぶつぼやきながら、折りたたみ式の半身鏡にかがみ込んで前髪を整え始める。
多少、いやあからさまにブスっとした顔つきではあるけれど、形としては折れてくれたみたいだ。
心の中で説得成功のガッツポーズを取っていそうな副部長が、天井の演壇用アーク灯を仰いで小さく息をついた。
【 5 】
こうして怒れるヒロイン様の講堂破壊行為は終息し、リハーサルは再開された ‥‥‥ が、先輩の機嫌が完全に直ったわけではなかった。
こうなると、今から特に繰り返して練習する必要があるのは言うまでもなく新しい演出に変更された、暗転式キスシーンだ。 ここでは舞台に立つのは先輩と僕だけだから、それ以外のほぼ全員を、舞台効果の目玉となる全暗転実行係に振り分ける事ができる。 対象となるのは講堂備え付けの照明スイッチ、アンプやビデオカメラ類、体育館部分のシーリングライト、そして数えてみたら十二ヶ所もあった独立電源の非常口灯。
それらを、一斉に消す。 やってみると結構バラバラだった。
「 何か 『 せーの 』 で動けるみたいにはっきりした、講堂のどこで待機してても分かる合図があった方がいいなあ ‥‥‥ ねえ、主人公く ー ん! 」
副部長が演台の下から僕に呼び掛けてきた。 本来キスの前に僕と先輩が抱き合うきっかけとなる愛の告白を、今までよりも情熱的に、もっと大きく呼びかけるように、という指示だ。
キスと一緒に抱き合いシーンもボツになっているから、この部分のセリフはわりと自由な改変で再利用が可能だった。 映画などではささやくように語られる所だけど、この劇では一種の号令としての意味も兼ねて、消灯の合図に使われる事になる。 責任けっこう大きいな。
息を吸い込んで胸を張る。 出す声を音のボールにして、遠くに投げるようなイメージで ‥‥‥ こう言おう、
『 私の愛は決して ─── 』
‥‥‥ う。
台本の " ト書き " に沿って、僕の正面にヒロインが、いや先輩が、先輩自身として素のままで立っていた。 腕組みに、仁王立ちで。 やっぱり怒ってるのかなー。
『 ── 君の心を離れはしない! 』
怒ってるなあれは。
心の底から不服そうな、お前の言うことなんて絶対信じねえって感じの眼で睨まれてる。 これは演劇部の全員に降りかかった災難のはずなのに、なんか直で向き合ってる僕だけが叱責されてるみたいなんですけど。
講堂の各所から一つひとつ確認を取った副部長が、消灯タイミング分かりやすくなったよ、本番も今ので行こう、と笑顔でオーケーをくれた。
それに合わせて、不自然にオーバーなアクションで親指を立てたグーを出してきたのは 「 それはそれとして、ついでにヒロインを説得してやる気をよみがえらせてね! 」 という意味なのだろうか。 多分そうなんだろうな ‥‥‥ 。
【 6 】
「 なによう。 なんで意外そうなのよ 」
帰りの校門でも、一足先に外へ出て待ってくれていた先輩には普段の自信や落ち着きのような感じは無くて、まだちょっと悔しそうで平常運転とは言えなかった。 腕組みしてるし。
さすがに今日は怒って先に帰ったのかと思いました、と正直に言ってみると、
「 楽しい気分じゃないのは認めるけど。 練習を欠かす理由にはならないでしょ 」
当然のように割り切った口調だ。 この辺りが彼女の凄いところだった。 外見の可愛らしさ以上に、役者としてのこの人の本質は演技力にある。 そしてそれを支えているのが、当たり前だけど徹底した練習だ。
先輩に誘われた僕が、二人で校門から駅までの下校時間を使い台本の読み合わせをするようになって、かれこれ三ヶ月。 配役が決まってすぐに、それは始まった。
あれはまだ七月が、下旬の頃。
劇の練習が開始されてからたった数回で、僕は潰れかけていた。 自分で自分にギリギリ合格点を出せたのは、最初の読み合わせだけ。
出演者全員が各自台本を手に、輪になってセリフを読み上げていったその一回のみが、他の人たちの足を引っ張らずに主人公役らしく劇に参加できたと言える程度の、情けない出来でしかなかった。
その頃、僕は台本無しだとまるで駄目だった。 セリフの量と長さで頭が一杯になって舞台での動きに精彩がなく、たまに思い通りに体が動くとセリフを間違える。
僕が失敗するたび、練習の進行は止まった。
その日も最悪、本当にみっともない練習しか出来なかった僕を部員の半分がなぐさめ、残りは難しい顔であきらめ気味に目配せしながら部室をぞろぞろ出ていくという、新しい下校習慣が一段落していた。
部室には、自分だけが残っている。
他の人たちと連れ立って帰ることはとてもできない ── 迷惑をかけまくっているのだ。 談笑の輪に入れるはずもなかった。 僕は、劇が失敗に終わるとしたら原因はきっと自分だろうという不吉な予想を立てながら、のろのろと一人で帰り支度を済ませたのを憶えている。
学校の正門を出ると敷地境からはアカバポプラの片並木が始まり、駅までの少し長い道のりに沿って夕陽が木々の規則的な影を落とす。
先輩は一本目の木影の中に立っていた。
「 一緒に帰ろうよ 」 当然のように ─── まるで約束していたみたいに ─── 彼女はそう言って、僕の横に歩み寄った。
もしこれが普段の僕だったら、きれいな年上の女性と二人きりで下校できるという夢シチュエーションにどきどきして舞い上がっていたはずだ。 表面的な態度はともかく、少なくとも内心はヒャッホウサンクガッってなるに違いなかった。
でもその時の落ち込みっぷりはそういう浮わついた考えが持てないほど酷かったから、僕はうつむき気味に立ち止まったまま、はっきり返事もできずにいた。
「 帰りながら練習しよう。 台本出して 」
帰りながら、練習 ‥‥‥ 駅に着くまでの時間を使って、という意味だろうか。 今は無駄だ、と思った。 正直に言えば、やる気が出せる状態じゃない。 僕としてはいったん失敗の悪循環を忘れられるだけの時間を置いて、一人で静かにセリフを暗記していきたいというのが本音だ。 まず集中。 今はただセリフだけに集中して、他の要素を断ち、完全な暗記を第一に 「 おっぱい、見すぎだと思うな 」 き記憶夏服っ!?
予想外の指摘にびっくりして顔を上げると、いつの間にか真ん前に回り込んでいた先輩は夏服の胸元を視線から防御するように片手を当てて、少し非難顔だった。 いや下向いてたから角度的には確かにそうなりますけど ! !
「 今は集中しなさいね 」
見ていたのではなくどちらかと言えばあなたの推測 F カップの方から視界に入って来たのだと思います台本は今すぐに出します!
「 セリフは歩きながら憶えて、小声でいいから必ず口も動かすこと。 他の役は全部私がやるから、息継ぎと間 ( ま ) も頭に入れるようにするのよ 」
先輩はそう言うと横の位置に戻って、振り向くことなくさっさと歩き出した。
「 大丈夫、一緒に頑張ろう 」 という自信たっぷりの一言を残して ‥‥‥ 。
役者は舞台の上を複雑に動き回る。 その動きには時として走ったり倒れたり、斬ったり跳ねたりなど、一層の激しさが求められたりもする。
「 だからね、セリフは体を動かしながら憶える方がいいんだよ 」
─── というのが先輩の持論だった。 それが正しいかどうか、セリフ記憶術として誰にでも有効なのかどうか、僕には判らない。
ただ、半ば強引に開始されたこの補習風・駅までレッスンのおかげで僕の頭には不思議とセリフが刻み込まれ、演技がどうにか見られる水準の物に段々と変わって行ったのは確かだ。
台本を手に持って、僕は先輩と歩く。 歩きながら、相手に聞き取れるかどうかの微かな声でお互いにセリフを掛け合っていく、やっている事はただそれだけの単純なものなのだが、そのうちに先輩はいくつかのルールを追加した。
「 他の人に聞かれちゃ駄目、悟られちゃ駄目 ─── 」 悪企みを思いついた子供みたいな顔でそう言うと、─── だって恥ずかしいじゃない、と彼女は笑顔で付け足した。
ひとつの場面を始めたら、何があっても中断しないという鉄則もできた。
通学路はその大部分が公園や区画された緑地に沿っていたが、駅に近くなると交通量の多い国道を横切り、そこを境として商店街に入る。 行き交う人が多くなると僕たちは自然と肩を寄せあう歩き方になり、時々必要に応じて交互に相手の耳元でセリフをささやいた。 ルールの 1 と 2 だ。
『 オルレアンを陥とす事にこだわり過ぎると、この者たちは一人残らず皆殺しにされるぞ 』 先輩が、バスから降りてきたおばちゃんの一団に巻きまれてどうにかやり過ごしつつ物騒な一言。 これはルール 3 。
『 サウスケンジントン公爵は、逆包囲されるのを恐れて独断で撤退の用意を始めたとか 』 公園から出ていく補助輪自転車の子供を見やりながら、これは僕。 こんな風にセリフと実際の光景が妙な関連を見せてツボにはまったりすると、先輩も僕も時々笑いが止まらなくなった ── 端からは、変な二人連れに見えていたに違いない 。
気付けば自分の受け持つセリフにとどまらず、台本一冊が丸々すべて頭に入っていた。 そして練習ではミスが減ることで余裕が生まれ、進行に追われるのではなく積極的に流れを作り出すように劇への働きかけが変わっていく。 演技という捉えどころの不確かな世界で自分を動かしていくコツを、僕は理解し始めていたのかもしれない。
もし今の自分が成長できているとすれば、それは間違いなく先輩のおかげだった。
【 7 】
と、そんな事を思い出しながら校門をくぐった僕の横を歩いて行く先輩はどこかうわの空で、さっきの 「 気分によらず、練習はする 」 発言とは裏腹になかなか口を開こうとしない。
夏休みの夕暮れから始まって以来、部活後に欠かす事なく続けて来て半ば習慣になっていた帰り道と、今日は雰囲気が違っていた。
やっぱり、あの急遽 ( きゅうきょ ) 決まった新演出に不満があるのか、僕は思いきってその点を質問してみた。 また怒り出すかもしれないという予想もしていたけど、案に相違して、副部長は正しいよ ── と先輩は言い切った。
「 あれで行くしかない。 そこは納得できてるつもり 」
暦 ( こよみ ) はもう十一月に入っていて、夕暮れというよりむしろ夜に近い暗さの中では表情の細かいところまでは分かりにくいが、声の調子に少し明るさがあるのは救いだった。
多分、副部長は心配しすぎたのかもしれない。 うん先輩は大丈夫。
「 不満があるとすれば ── 」
伸びた人差し指が、すうっと僕の鼻先に突き付けられた。
「 君に不満 」
は っ う ?!
「 演出を変えるなら変えるでね、変え方ってもんがあるのよ。 気持ちのいい譲り方って言うかお互い納得しての結論ていうか、そんな感じのきれいな落ち着き方みたいな、わかるでしょ ? 良く考えたら、抵抗してたの私だけだったよね。 ね 」
それは ‥‥‥ はいそうですけど ‥‥‥ 謝るとこなのここ ?
「 あっ腹立ってきた! すごい孤独感あったよ! 役柄として主人公はこういう時ヒロインを救うべきなのに、何なの味方してもくれずに黙あ ー って見てるばっかって! 頼りなくない ?! 不誠実だよ!! 他のみんなはともかく、君と私は当事者なんだからね、キスの ‥‥ 」
しまった怒り出した。
「 ‥‥‥ キスシーンの 」
収まった。
先輩は最後の所を言い直してから急に黙ると十秒近く考えて、次はとても小さな声で 「 駅でアイス食べたい 」 と、ヒロイン見捨て罪の僕を許す条件を提示してくれた。
【 8 】
舞台で両腕を広げ、集まるアーク灯の光の中で僕は 『 ─── 離れはしない! 』 と叫ぶ。 はい暗転来た。 講堂全体が、一斉に暗くなる。
もう一度。 『 離れはしない! 』 ほら暗転。 ぴったりだ。 僕のセリフがトリガーになっているせいか、魔法の呪文みたいでちょっと気持ちいい。
上演直前にすべり込ませた新規演出という特殊な事情はあったが、全暗転キスシーンはどうやら心配なく劇の一部になりつつある。 その部分だけをピックアップしての練習がノーミスで出来るようになったのは勿論、劇全体の進行を通して見ても、前後の流れを壊さず自然にまとまっていた。
「 君、楽しそうね 」
舞台中央で僕と向き合っている先輩が、暇そうに絡んできた。 あれから数日経って、腕組み威圧にも飽きてきたみたいだ。 今は本番と違って講堂の窓にカーテンを掛けていないから、ライトを消しても外からの明かりで暗さの効果は中途半端だった。 先輩が無意味に体を左右にゆらゆらさせているのが見える。
「 た ー の ー し ー い ー ? 」
暇そう、と言うより彼女の場合は本当に暇だった。 暗転入りのセリフに気を張る僕と違って、する事がない。
本来ならこの後で、ヒロインには主人公と抱きあって感動的な ( 実際にしないとは言え、キスとセットになった ) 名場面が待っているはずだったから、注がれてきて結果として無駄に終わってしまった熱意と現在の落差はかなり大きい。 表現の機会を失った無念さは先輩にしか分からないもので、他の誰かが軽々しく想像する事はできないだろう。
「 あのさ 」
窓の光を振り仰いだ先輩の横顔が見せたシルエットの寂しさと繊細な美しさに、僕は思わず目を見開いた。
「 ‥‥‥ 暗転してる間、舞台に私がいる意味ってあるのかな 」
一時的に作り出された半闇の中で、金髪を微かに光らせた少女は静かに自問する。
ここで無責任に、 あります、 と口出ししてしまうのは簡単な事だ。 でもそれは、先輩の葛藤が小さなものだと決め付けるのに等しい。
僕は無言を貫くしかなかった。
【 9 】
「 駅でラーメン食べたい 」
今日は一言目からそれですか ‥‥‥ 。
「 私がおごってあげる 」 先輩は校門を抜けると僕より前に出て、背中を見せたままはしゃいで話し続けた。 「 アーケードのラーメン屋さん、行きたかったんだけどなかなか入る勇気が出なかったの 」 変だ、と思った。 練習が始まる気配がまるで無かった。 これじゃ二人で、ただ一緒に下校しているだけだ。
「 でも君が横にいれば大丈夫そう。 店員さんに注文するのお願いね 」
それはともかく ‥‥‥ 何気ない感じで言いながら、僕は足を速めて先輩の横に追いついて、練習もしましょう、と誘ってみた。 頭の中でわだかまっている疑問は、喉もとまで出かかった所で抑え込む。 それを僕が口にすべきではない。
先輩が横に並んだ僕よりさらに早い歩みで再びリードを奪うのと、つまらなそうにこう言い放つのは、ほぼ同時だった。
「 えー ? いいよー、練習はもう。 君は、セリフを全部覚えきってるし十分だよ 」
でもせっかく一緒に下校してるわけですしハハハ、と無理な笑顔で食い下がる。 「 必要ないって言ってるのにフフフしつこーい 」 脚の長さは伊達じゃなく、直線を行く先輩はかなり速い。 ただ自転車向けの進入防止柵を抜けた直後に若干のトルクロスが出るようだ。 練習を ‥‥‥ しないと。 立ち上がりのノーズを押さえかけた瞬間、水たまりか何かを避ける振りで先輩は軽く一歩跳んだ。 「 きょ、今日は ‥‥‥ パスねラーメン食べたいしー 」 抜けない。 ていうか今のステップ不当加速だ。
僕たちは凄いスピードで歩いていた。 並ぶといつもの練習が始まりそうな位置関係になりそうで、多分先輩はそれが嫌なんだ。 それでいて、あからさまに走ったりすれば必死さが出てしまって、それもまた悔しいのだろう。 やせ我慢のデッドヒートはいつまでも終わりそうになくて、先輩の意外な子供っぽさにあきれた僕は、さっき我慢できた言葉を思わず口走ってしまった。
先輩の演技は、
先輩の演技はだんだん悪くなってます、と。 ─── 前を行く足が止まった。
数秒かけて荒い息を収めてから、半端な角度で振り返る上気した横顔が怒りに染まっている。 「 なによそれ 」 唇が震えていた。
「 ‥‥‥ な ‥‥‥ 生意気だよ 」
これは先輩の声と動きに最も近くで接し続けている、僕だけに分かる感覚だった。 この人の作り出したヒロインは生気に満ち、若々しさと、そしてはじけるような色彩の明るさがあった。 今はただ逸脱のない美しさと技巧だけの別人だ。
初めのうちは、変化は小さかった。 ほんのわずかな粗さ、雑さ、そして多分、失望や諦めが、少しづつ彼女の演じるヒロイン像に入り込んで、その魅力を蝕んでいったのだろう。
僕が気付いているくらいだ。
先輩には、もっとはっきりした自覚があるはずだった。
原因は間違いなく、変更された演出だ。 その決定は先輩の高校生活最後の思い出になるはずだった劇から、一番大事な場面を奪った。
その結果やる気を無くしても、先輩は納得していると明るく嘘をつき、一人でその気持ちを隠し続けてきて ‥‥‥ もうすぐ隠しきれなくなる。 いや、もしかしたら、最後まで僕以外の誰も気が付かないのかもしれない。 ベストではないにせよ高校の部活としてはまあまあの出来だ、と観た人は拍手してくれるのかもしれない。
でもそれは先輩にふさわしくない。 先輩が一生懸命になって作りたいと望んだ劇にふさわしくない。
そして僕は、この気持ちをどうやって伝えればいいのか分からない。
先輩はしばらく横目で僕を睨みつけていたが、脱力した感じでもう一度 「 君って生意気 」 と繰り返すと、背中を向けて普通の速さで歩き出した。 もう表情は見えない。
その気になれば追いつける。
でも、ついて行くべきでない事だけは明らかだった。
【 10 】
今朝は校門にパイプ組みのガクガクラインでアーチができて、レターボードとスプレーで " 文 化 祭 " とイベント感たっぷりに大書きされているところだったが ─── 無視だ。
あの超失言をどうやって許してもらおうかをずっと考えながら登校してきた僕はそれどころではなく、アーチの組み立て工事を珍しそうに見物する生徒と先生たちの人波をかき分けて、一歩も立ち止まらずにそこを素通りした。 文化祭の話題で普段より心持ち賑々しい廊下をむっつりしたまま教室まで行って、席に座り後悔のため息をつく。
アプローチが、破滅的に良くなかった。 昨日はおとなしくラーメンを一緒に食べて ( 相手の奢りだし ) 、先輩が空腹を満たしてから、その後でごく軽めに演技の事を話題にするべきだった。
取りあえず部活あがりに根気良く謝っていこう。 何日か続けて謝罪すればいつかきっと ‥‥‥ って、いや待て。
日曜日が文化祭本番。
土曜日は準備日で午後は休校。
今日は金曜日。 あ。 そうか。
部活で劇の練習ができるのって。 今日までだ ‥‥‥!
まずい時間がない。 仮に今日の帰り道で先輩と仲直りできて彼女の機嫌が直ったとしても、そのメンタルが演技に反映されるのは本番の舞台でという事になってしまう。
それだと急すぎるな ‥‥‥ 放課後までに、直接会って謝ろう。
そうだ。 いっそ今、朝のうちに三年生の教室まで行って来よう。 クラスが分からないけど、総当たりする位の時間はあるはずだ。 念のため昼休みにも挨拶して、仲直りにカフェラテでもご馳走すれば ‥‥‥ 。
そこまでプランを練った時、僕は教室の不自然な静けさに気付いて顔を上げた。
周りも廊下も静か過ぎる。 ついさっきまでは、けっこう騒がしかったはずだ ‥‥‥ ちょっとシーンとし過ぎじゃないのか。
口をつぐんだクラスメートが、幾人かづつのグループになってこちらの座席を窺っていた。 入口で女子の一人が 「 あいつです 」 ポーズで僕を指さすその後ろには、三年生を示す、鳶色ラインのガードカラーがうわ先輩 ‥‥‥ 。
先輩が教室に来ていた。
演劇部は知らないが演劇部の部長なら評判だけは知っている ‥‥‥ という生徒は多い。 ああ、美人で有名な人でしょ、と続ける生徒はもっと多い。 そんな感じで話題にされる本人が朝の一年生区画をうろうろしていた事に大勢が驚いて、何が始まるのか興味津々で見守っている。
その先輩が、少しぎこちない歩き方で僕の席に近付いて来た。 何か緊張してるっぽい。
「 ‥‥‥ おは、よう ‥‥‥ 」 やや固い挨拶に、思わず立ち上がってしまう。 上官に対する部下みたいに直立しておはようございますと返すものの、何なんだこの注目度 ‥‥‥ こっち見過ぎだろ、演劇部には厳しい上下関係なんて無いよ楽しいよ。
「 朝から悪いんだけど。 ‥‥‥ きっ、昨日の事について、どうしても早めに伝えておきたい事があったものだから 」
あれ ?
「 まず、私には練習に積極的でない点があったわ。 それと、 」
もしかして先輩の方から ?
「 君は、必ずしも、生意気などではないと訂正したいの 」
これは ‥‥‥ あやまってくれてる ? のかな ? だとしたら僕と同じ事を考えて、僕よりも素早く考えを行動に移したということになる。 感情面での諍いが劇に悪影響をもたらさないように、わざわざ下級生の僕に気を使ってくれるなんて普通できることじゃない。 やっぱり凄い人だ。
解決 ‥‥‥ 解決じゃん、スピード解決。 という事はもう、問題も心配も一切なしで文化祭を迎えられる ‥‥‥!
「 ‥‥‥ それだけ 」 いつもは相手の目を見て話す先輩が、めずらしく伏し目気味だった。 こういう時って後輩はどう返すのがいいんだろう。 人目もあるし、余計な憶測で噂にならないような返事にしないと駄目だよな ‥‥‥ そして、いいえ自分の方こそ失礼な事を、とか何とか僕が言おうとするかしないかの所で、早くも身をひるがえして小走りに教室から駆け去る先輩の、とても良く通る腹式発声が響いた。
「 でも次からはもうちょっと優しい言いかたにして ! 」
【 11 】
昼休みの僕に取れた行動は 『 みんなからの質問責めとかアドバイス責めとか単なる責めを避けるため部室に逃げ込んで頭を抱える 』 の一択だった。
パン買うつもりだったけど、生徒密度高めの購買スペースに自分から出向いて注目を集めるのもバカバカしい ‥‥‥ 昼の食事は諦めよう。
先輩の思いっきり不用意な一言と、クラスメートの想像力過剰な憶測から始まった無責任な噂は午前中一杯かけてアップグレードを重ねつつ猛威を振るって、今では学校中に広まっている。
─── ヒロイン役の演劇部部長は、何か知らんけど積極的じゃなかったらしい。
─── 主役を担当する一年生は、何か知らんけど優しくなかったらしい。
→ 何か知らんけど部長かわいそう一年許せねえ。
こんな感じの流れができたところで、学校サイトは公式扱いの表ページだけでなくフリーさが高い裏の方も、うちのクラスのスレッドには僕あての非難書き込みが殺到した。
それは上演の詳細が知られ始めた夏休み以降、これまでもちらほら舞い込んでいた劇の配役をネタにした冷やかし風のものではなく、今回は、先輩と僕が部活以外の私的な関係面で何かあったらしい ‥‥‥ という思い込みによる反感が、にわかなプチ炎上の原動力になっているみたいだ。
大体九割のメッセージがストレートに 『 なんか知らんが死ね 』 な内容で、残りは 『 分際はわきまえた方が良いと思うので死ね 』 『 誰が誰を好きになっても自由だが死ね 』 『 下級生が学校のアイドル的三年生にアプローチするという、無駄だと分かっていても諦めないチャレンジ精神にとても感動し、勇気をもらいました。 死ね 』 みたいな、変則的 『 死ね 』 だった。
初めのうちは自分なりに事態を収拾しようと火消し対応を試みてはみたが、怒りのコメント数があまりに多過ぎて僕は途中から誤解を解くための丁寧な説明をするのに疲れ、最後にはサイトを見るのもやめた。
実際に起きた事の一部始終を書くなんて言い訳めいているし、噂が過熱しきっている今となってはどうせ逆効果だろうし、第一それは、本当にする必要があるのかどうかも分からない不特定多数への説明の中で、自分だけでなく先輩の振る舞いに触れる事にもなる ─── ちょっと嫌だった。
もともと先輩のファンは男女・学年を問わずかなり多くて、しかもそれなりに熱心で時として迷惑だという学内事情は、劇中のキスシーンに向けられてきた興味本位の反応を見ればある程度までは分かっていたつもりだったけど ‥‥‥ この騒ぎの大きさは考えていた以上だ。
精神ダメージと引き換えに、僕は一気に有名になった。
【 12 】
「 やったね ! 何でだか知らないけど、学年関係なしに演劇部がすっごい話題になってるよ ! 」
誰もいない部室の静けさにホッとした僕が長机脇の椅子に腰を落ち着けるのとほぼ同時に、副部長が満面の笑みで ─── 今の僕が一番嫌いなフレーズ、『 なんか知らんけど 』 的な言い回しとともに ─── 部室に駆け込んで来た。
掲示板の暴言ストームに疲れきって、生気の失せた顔に縦線効果が付いている僕とは雲泥の差だ。
「 劇の注目度も上がっててびっくり ! もう苦労して宣伝する必要なんてないかも ! 」
‥‥‥ 悪い注目度だと思いますけど ‥‥‥ 昼食を食いっぱぐれたせいもあって、のろのろと呟く僕からの返事を形だけ聞いてから、副部長は再び元気にまくし立てる。
「 部長本人が注目されるのは、実を言うといつもの事なのよ、やっぱ綺麗だし絵になるし。 でも今回は、共演者の君までついでに話題になってるわけ ! これって凄いよ !
知名度に釣り合いが取れて、キャスティングに説得力が出てきた感じなの ! 」
それ全部、誤解がきっかけです ─── 僕は弱々しく否定した。 副部長のハイな気分に水を差したくはなかったけど、この人には最低限の経緯を知っておいてもらわないと。
先輩と僕が朝に交わした会話の断片だけが一人歩きしている事、口から出まかせのいい加減な嘘が大量生産されている事、どんなに説明しても無視されてしまって騒ぎに手がつけられなくなっている事。
‥‥‥ 聞く耳を持たない人って、怖いですよね ‥‥‥ しみじみ絞り出した感慨を受けて思慮深くうなずくと、副部長は励ますように僕の肩へ手を力強く置いた。
「 説明してるのに無視するなんて良くないね 」
そして、三たびクラッチしてまくし立てに戻った。
「 でもそれはそれとして、この盛り上がりっぷりなら公演当日にはきっと立ち見が出ると私は見たわ ! そして断言するよ、この劇は、絶対に今年の文化祭の目玉になる ! つまり、演劇部が始まって以来の快挙なのよ ! これってあれじゃない ? ! 伝説 ? 伝説になるってやつじゃない ? ! 」
今言ったこと聞いてました ?
「 はっそうだ ! 講堂のフリースペースを、通路と観劇用部分に区分けするロープかなんかを今のうちから用意しとかないとまずいかも ! 」
‥‥‥ あなたが現在とっている態度を '' 聞く耳を持たない '' と言います。
しかしその抗議を実際に指摘する間もなく、副部長は戸棚の紙束を抱えると慌ただしく部室から出て行ってしまった。
あれは多分、今回の劇に合わせて印刷しておいた告知ポスターだ。 宣伝する必要は無さそうだと言ってはいても、やっぱり出来る事はきっちりやり切ってから本番当日を迎えたいのだろう。
裏方に徹する補佐役としては頼もしいけど、残念ながら副部長が噂の打ち消しを買って出てくれそうな気配はなかった。
するべき事も食べる物もない今の僕としては ‥‥‥ 寝よう、午後まで。
【 13 】
数分ほどすると、部室のドアがもう一度開けられる音が机に突っ伏す僕の頭上を静かに通り過ぎた。
「 あ。 本当にいた 」
先輩だった。 伏せ寝の体勢から顔を上げる僕を、ドア枠の境目にすらりと立ったままで面白そうに眺めている。
'' 本当に '' と口にしているってことは、聞いた話の内容を確かめに来たという意味あいなんだろう。 校内のどこかでポスター貼り中の副部長と会って、その時に僕の話題が出たに違いない。
「 それに、お昼も食べずにしょんぼりしてるのも本当みたい 」
彼女は誤解同情を集める立場のせいか、誤解ヘイトの的にされている僕よりもずいぶん気楽に見えた。 この人はネットとかを自分から熱心に見て回るタイプではないみたいだし、おそらく今の騒ぎについては書き込まれたものを直接に読んでいるわけではなく、人づてであらましを聞いて漠然と知っているだけなのかもしれない。
「 ねえねえ、もしかして落ち込んでる ‥‥‥ ? のかな ? 」
少しカチンと来た。
そりゃまあ ‥‥‥ たっぷり一生分の 『 死ね 』 を名指しで食らったわけですからね、落ち込みもしますよ、と応じる僕の話し方が、抑えようとしても投げやりな険しさを帯びてしまう。
感じている悔しさや、一方的に何かを決めつけられてしまう理不尽さへの不満は、言うまでもなく無数の匿名書き込みとそれを送信した奴らに対してだが、0.5 パーセントだけ ‥‥‥「 先輩がわざわざ一年生の教室まで出張って来てあんな事を言うからです気を付けてくださいチッまったく 」 風な気分を口調に混入させてみた。
「 確かに ‥‥‥ うん。 確かにそうね 」
人ごと気味に微笑んでいた先輩は僕の愚痴を肯定すると真顔になって、短くもう一言、「 ごめんね 」 を付け足した。 それから握ったままのドアノブを何度も無意味に回したり止めたりしながら 「 私、朝のうちに、どうしても君に会って話がしたくて ‥‥‥ 放課後に部活で顔を会わせるまで、待っていたくなくて 」 と打ち明けてくる。
見えにくい。 良く観察すると先輩の体が、半開きになったままのドアの裏にだんだん隠れていくところだった。
「 あんな風に目立つのが周りの人たちからどういう受け取られ方をするかって事まで、考えてなかったの ‥‥‥ ごめんなさい 」
あ ‥‥‥ あれ ? まずい、クレーム成分高すぎたのかな。 ひょっとして、僕言い過ぎ ?
なんとなくだけど、先輩には誰がどんな文句を言って来ても意に介さず常に明るく、そして悪びれず開き直ってみせるようなイメージがあった。 今朝といい今といい、こんな感じで素直に謝ってくるのって予想外だ。
しかも年上の女性にこうまでしおらしく出られてしまうと、なんか僕の方が、自分に降りかかったトラブルを目上の人のせいにしようとする器量の小さい男に見えてくるマジック。
まずい。
い、いいえ ! 先輩が気にする事じゃありません ─── あああ、思わず大声でフォローしてしまったくっそう。
さらにもう一声を期待するような表情の先輩という名の原因に向けて、ああいうネットの暴言は、書く方が悪いんですから誰のせいでもないんですよ ‥‥‥ って、なるべく優しく聞こえるようにああくっそう。
‥‥‥ 会話の流れ的に、そうするしかない法則。
するとドアノブのカチャカチャをリズム良く終わらせた先輩は 「 そう言ってくれると、私、気が楽 」 と話題と雰囲気の両方を切り換えたように、やっと部室の中に入って来て長机を隔てて立つと、大きくふくらんだスカートのポケットから何かを取り出しながら僕の真正面に座った。
「 でも、昼ごはん抜きなんて可哀相だから一食おごってあげる 」
おなか空いてるでしょ ─── 少し安心した眼差しでふんわり笑う彼女が机の上にコトリと置いてくれたのは、一個のカップラーメンだった。
【 14 】
「 それにしても 」
カセットコンロを片付ける僕の背中に、軽い上から目線の説教モードに入った先輩からのダメ出しが投げかけられてくる。
「 ネットの掲示板で叩かれたくらいの理由でパン買うの諦めるなんて変だよ。 君って意外に、他人の評判とかを気にしちゃうのね 」
振り返ると、熱湯を注いだカップ麺の紙フタを両手の指で一心に押さえている先輩が、壁時計をにらんで秒針の動きを律儀に追い続けている。
「 私だったら、どうでもいい相手から何を言われてもきっとスルーできるわ 」
フタの隙間から湯気が洩れないように一生懸命になっている姿はいかにもカップラーメン食べ慣れていない感じで、そんな子供じみた真剣さがかえって可愛らしかった。
「 誰の意見なのかも分かんない悪口なんて無視すればいいの。 要するに、気にしすぎ 」
猫背のフタ押さえポーズと大人な処世観にギャップがあるものの、ここは異を唱えることなく 「 はい 」 の一言だ。 昼食抜きで空腹だった僕からすれば、今のこの人はカップラーメンを恵んでくれる神、いや女神。 どんな教義にでも同意できる。
「 てことは君の性格には、目立つのを良しとしないような控えめな一面があるんだよ ‥‥‥ 人目を無視しきれないの 」
はいそうです女神気をつけます。
「 君は舞台の本番だと人の多さに呑まれて上がっちゃったり、段取り崩すのを怖がって自分からアドリブやとっさの判断をためらうタイプかもしれない ‥‥‥ これは役者としては欠点かもね 」
その通りです女神いつか直します。
「 ‥‥‥ 良し、できあがり。 三分経ったよ 」
ありがとうございます女神いただきます女神。
だが大喜びで手を伸ばしたカップ麺には、まだしっかりと先輩の指が掛けられたままだった。
正面に腰を下ろした彼女は長机越しに、けっこう近くからじっと僕を見て思案顔になっている。
あのう、女神。 ‥‥‥ えっと、あの。
「 なに ? 」
‥‥‥ ちょっと、その、ここだと近いので。
ラーメンを窓際の辺りまで持って行って、女神から少し離れた所で食べてもいいでしょうか。 ここで食べると、真ん前に座る女神の顔が近過ぎてさすがに気まずいです ─── これをどうやってスマートに言おうか考えていると、先輩は不思議そうに小首をかしげてから、すぐに僕の言いたいことを察して少しだけ赤くなった。
「 あ、ああ、そういう事ね、うん 」
女神ならわかってもらえると信じていました。
では。 ぐ。 あれ。 ぐぐぐ。
動かない。
良く見るとカップ麺を聖なる力で守護する先輩の指先には、さっきより更に強い意志が加わっている。
「 いいこと考えた 」
‥‥‥ 女神 ?
「 欠点は克服しよう 」
は ?
先輩は急にくすくす笑い始めると ─── それは 『 くすくす 』 というより、聞きようによってはもはや 『 くくく 』 と形容すべき剣呑な笑い方だったけど ─── いきなり気まぐれな神託を下してきた。
「 ラーメン、動かしちゃ駄目。 私の目の前で食べなよ 」
なっ何言ってんすか女神 ? !
「 これは ‥‥‥ そう、言わば、人目を気にしなくする練習ね 」
「 ‥‥‥ 」
「 別に昨日の仕返しとかじゃないよ 」
「 ‥‥‥ 」
「 早くどうするか決めないと麺がのびると思う 」
「 ‥‥‥ 」
「 食べないなら私が食べちゃう 」
‥‥‥ 食べます。
【 15 】
「 フォークで器用に食べるわね 」 ずずず。
「 そこに浮かんでるのはエビなの ? 」 もぐもぐ。
「 自分で選んどいてアレだけど。 バジル味噌しめじ味て 」 ずー、もぐもぐ。
「 奥歯に銀歯見っけ 」 ごくん。
‥‥‥ どういう罰ゲームだ。
長机に肘をつき、組んだ指にほっそりした顎をちょこんと乗せた先輩が至近距離からそんな感じに色々話しかけてくる中で、僕はカップ麺をなんとか食べ終えた。
こんなんで人目耐性つくのかな ‥‥‥ そんな疑問を感じつつも感謝を示した僕のご馳走さまでしたを合図に、先輩もぐぐっと伸びをしながら椅子から立ち上がる。
「 ん、んー。 ‥‥‥ どういたしまして。 私は先に行くね。 放課後の練習で、また会いましょ 」
どことなく満足そうに見える態度が、ちょっと悔しい。
「 そうそう、放課後の練習っていえば ─── 今日のリハーサルが、大掛かりな準備としては最後になるわね 」
リハーサル。 それは今の僕たちにとって、やや微妙な話題だ。 先輩の劇への取り組み方は、どう変化するんだろう ‥‥‥ どんな表情で言っているのかを確かめてみようと見上げたタイミングで、先輩の制服が反った背と上へ伸びる腕の動きにつれて広く開き、カッターシャツのぴっちりかかった腹筋の起伏だとか顕著過ぎる胸の起伏だとかが、布皺の乱れを押しのけて色々と浮かび上がる。
僕は自分も椅子を跳び立って距離を取り、もう少し上にあるはずの先輩の顔と目の前のボディラインから慌てて視線をそらした。
「 本番のつもりで、一緒に頑張ろう 」
気付けば昼休みの終了を告げる予鈴が遠くで鳴り出していて、先輩はもう背中を見せて歩き始めている。
「 ああそれと 」
ドアの手前まで進んだ所で先輩は軽やかにくるっと回ると、透明感のある声を迷い無く響かせた。
「 もう昨日みたいな事、言わせないから 」
上半身を微かに傾けて自信たっぷりに僕を見上げている瞳はきらきらと澄みきり、失意や諦めの色などまるで窺えない。
「 君がどんなに意地悪になったって褒めたくなるような私を見せてあげる 」
この人が半日をかけて伝えたかったのは、結局のところ今の一言だったのかもしれない。
僕は黙ってうなずいた。
【 16 】
『 見て、煙よ ! モン・リッゼールの峰に狼煙 ( のろし ) が ─── 勝ったんだわ ! 』
リラックスした感じで講堂に現れたジャージ姿の先輩は、特に改まって前説をすることもなしに、開幕一声目のセリフを力強くそう叫ぶと最後のリハーサルをいきなりスタートさせた。 家族役を担当している他の演者たちを大きな仕草で呼び招きながら、その幕場で川岸に見立てている舞台前方の縁 ( へり ) ぎりぎりまでヒロインは笑顔で走り寄って行く。
戦火におびえて描き割り背景の奥に縮こまる家族たちをもどかしそうに何度も振り返り、時おり背を向けたままステップして何の目印もない舞台の外縁へと近付く先輩の大胆な足運びに驚いた演出係が、あ、と声なく口だけを動かすのが見えた。
脚本上、ヒロインと客席の間に横たわるのは浅い小川 ─── 舞台と講堂の床を隔てて垂直に落ち込む 1 メートル半近い段差ではなく、軍隊向けの渡河点を探して斥候にあたる主人公ともうすぐ出会う事になる、西フランスの農園地帯を流れるごく浅い小川だった。
ごく浅い、小川。 だから彼女は舞台縁に近付くことを特にためらったりしない。 そして、その場面ではできる限り前方へと出て演じることで観客との距離が縮まり、臨場感や訴えかける力もその分だけ強まり得る ‥‥‥ らしいが ‥‥‥ そこは、今まで先輩が踏み進めずにいた領域だった。
人気だとか注目度の大きさだとか部長の肩書きだとか、先輩のそういった評判のもろもろがどんなものであれ、その辺はやっぱり高校三年生の女子としては仕方のない反応になる。
あまり前には出ない ─── 怖いのだ。
舞台で強い光を受ける中から役者が見下ろす客席最前列近くの影は段差のせいでとても黒々としていて、そこは本来の高低差より深く大きく見えてしまうため、学年とか性別など関係なく、誰であっても怯んでしまう。
また、ここで問題なのは恐怖心だけではなかった。 もしも端に近付き過ぎて足を踏み外し、まかり間違って下に転げ落ちでもしたら講堂は恐らく先輩のファンが上げる悲鳴で騒然となり、劇は一時中断になるだろうし関係者スクランブルでその場を取りつくろう事になってみっともないだろうし、何より危ない。
これが演劇専用に設計された本格的な舞台であれば、縁の近くには目立たない溝を支えとして小型照明を取り付けられるクランク・レールや、床表面の仕上げを粗くして靴を滑りにくくした帯状の部分があらかじめ作られているため、役者は足の感覚だけで 『 舞台の果て 』 を知ることができるのだが、平凡な公立高校の施設にそこまでの用意を望むのは無理というものだった。
そこで、演出係を含めた演者全員の総意として、この要素については 『 特にこだわらず、本人が行けると思う所まで行く 』 ということで、前方への位置取りは当事者の先輩任せになっていたのだが ‥‥‥ ヒロインは今、何の屈託もなく舞台端ギリギリを動きながらフランスの小さな反撃をたたえている ─── まるで危うさなど物ともせず、奈落の淵に立つことを楽しむ不敵な軽業師のように。
昨日までの先輩は常に縁まで 1 メートルほどを残した辺りで止まり、十分な余裕を開けて役を演じていた。前に出ることを意識し過ぎて固さが出てしまうよりも、安全な内側で伸びのび立ち回る方が確実だと ─── 特にこだわる事はないと ─── 考えていたはずだ。
しかし最終リハーサルで、彼女はその課題を、一人で楽々と乗り越えていた。
『 お姉ちゃん危ないよう、川に落ちちゃうよ 』
『 お嬢さま、お気をつけなさいまし ! 』
『 イングランド軍が撤退したわけでもないのに大仰に浮かれおって ‥‥‥ こっこれ、もう少し淑女らしくせぬか ! 』
妹役と召使い役、そして父親役のセリフが、今にも舞台から飛び降りそうなくらいに川岸、つまり客席へと身を乗り出している先輩の自信ありげな笑みによって別の方向から生活感の色彩を与えられ、説得力を形づくる。
先輩はそのシーンだけで、一気に表現してしまった ─── ここにいるのは自由に育った勝気な長女、おとなしい次女と召使いに堅物の農場主だと。
不思議だった。 今までとは全体の雰囲気がまるで違う。 何度も練習を重ねてきて聞き慣れたはずのセリフ、見慣れたはずの動作が、彼女をフィルターとして新しい何かへと、いや、「 劇 」へと、変わりつつあった。
それは先輩が持つ外見の美しさが作り出す、一人を焦点とした華やぎではない。 感情表現の巧みさだとか発声の安定感のように個別の評価ができるものでもない。 演劇の分野でごく稀に誰かの身に宿る、舞台に点在する役者たちの演技を自分へと収束させて意味と役割を与え、観る者へと再び投げ掛ける選ばれた才能だった。
そして、先輩が最終リハーサルにわざわざ前説の時間を取らなかった理由に、皆が気付き始める。
必要なかったのだ。
'' 私は特にこだわらなくていい事にも本気でこだわって頑張るよ、こんな風に、こうやって '' ─── こんな風に。 先輩は笑顔と数歩多くした足運びだけで、自分のメッセージを演劇部全体に宣言していた。
さあ、劇を始めようよ、と。
【 17 】
僕ごときが先輩の劇への取り組み方を心配するなんて、おこがましかったな ‥‥‥。
昨日の余計な一言は的外れで、先輩を混乱させただけだった。 舞台袖の掃除用具立て掛けスペースに引っ込み、最終リハーサルを見守る一団の中に埋没して自分の身の程知らずをつらつら ( 主人公の戦死シーンを済ませて暇になったので ) 、しんみりと反省する。
もう場面は終盤だ。 愛を誓った恋人は世を去って久しく、その恋人が命を投げだした戦争の結末も老人の語り草と成り果てた後の時代。
『 死 ‥‥‥ 死 』
ベッドを捉える細く絞った光の筋が、徐々にその輪を小さくして、横たわるヒロインの上半身だけを浮かび上がらせていく。
『 死は、死とは ‥‥‥ ただの扉だわ。 私は怖れずに扉を開けるでしょう。 そして会いに行くのよ、私を待ってくれている人に 』
ヒロインが、その人生を老齢による穏やかな形で終わらせるラストシーンで最後のセリフを発し終え、体から力を抜いて全てを演じきったところで、講堂のいたる所から期せずして拍手がわき起こった。
手を叩いているのは、身内の演劇部員だけではない。 助っ人として手を貸してくれている映画研究部や放送部、服飾研究会の面々も含めた関係者が総立ちになり、中には涙ぐんでいる女子生徒までいる。
どうなるか知っているはずの物語を、舞台効果の大部分を温存した中で演じたジャージ姿・ノーメイクのヒロインに、この場にいる人たちは今、間違いなく心を奪われていた。
これがリハーサルなのだという事は、きっと誰もが分かっている。 それでも皆に手元の作業を中断してまでも称賛を贈らせてしまうだけの輝きが、先輩にはあった。
やっぱり、すごい人なんだ。
【 18 】
やがて後片付けに取り掛かる人の動きと、先輩を中心に集まり始めた人の輪で急に賑やかな場所と化した舞台の隅っこで、僕は目の前で起きていた事にまだ圧倒されたままでいた。 先輩の方に足を進めようとしているのに、誰かをよけたり誰かに押されたりで効率かなり悪めに、結果として無意味なウロウロが続く羽目になっている。
でもとにかく直接はっきりと、ヒロインすごく良かったです、と言わなくちゃいけない。 昨日の帰り道で無神経に口走った一言の手前、そしてその言葉が完全に間違っていたと分かる最終リハーサルの出来映えを見れば、僕には最低でも先輩にそう伝えるべきだという使命感めいたものがあった。
「 釘ー ! 釘に気を付けて運んで ! 釘ー ! 」 あった、けど ‥‥‥。 すぐ横を通って運び出される危険度レベル 8000 の大道具、ザ・釘玉座。
「 ペンキ塗り足した所だけ乾ききってないから触る前に地図見てね ! ペンキ地図作ってあるから ! 」 おおう。 持っていい部分が限られた背景パーツトラップ。
「 パラフィン紙と和紙の包み順、服の生地ごとに違うって言ったっけ ? ! 言ったはず ! ! 言ったよ ! ! ! んじゃ今言うわね実は違うの 」 おおうう無理からぬブーイングと未だ全員分の丈合わせが済んでいなかった脇役用衣装の展開そして再収納。
気付けば今や、先輩ですら雑巾を片手に拭き掃除の受け持ち場所を確認していた。 他の女子部員に指示を出しながら、率先して床の汚れを拭いていく。 あ、そうか。 そのためのジャージか。
‥‥‥ 今は感想どころじゃないな ‥‥‥。
作業時間が限られている放課後の今は、後片付けの方が目下の急務だった。 特に僕は生息数の少ない男子演劇部員で、しかも主人公役とはいえ一年生だったから、重量レベル 6 、危険度レベル 20 以上の人工物体は全て自分から運び出さないと存在価値が問われてしまう。
僕が持ちます、と声を掛けて取りあえず一番重そうな鉄パイプ暖炉に手を伸ばすと、それを一人でズリズリ動かそうと苦闘していた村娘役の二年生さんがほっとした笑顔で振り返った。 半分幽霊系部員の、確か、いつもはコーラス部メインの細めな人だ。 この人と僕の二人だけで運ぶのはきついかな ‥‥‥。
せーの、で持ち上げたところで、「 君の主人公も堂々としてたね。 夏休みの頃とは違って、すっごく上手くなっててびっくりしたよ 」 と思わぬ好評価をしてくれたためテンションが無駄に上がって、これ意外と軽いから僕だけで運びますよ大丈夫ですようわ軽いわこれハハハと言ってしまった。 重量レベル 8500。 人は褒められると、伸びる。 あるいは、褒められると、運ぶ。
【 19 】
結局、最終リハーサルの片付けと整理が完全に終わってホッとできたのは、本来の下校時刻をだいぶ過ぎてからだった。 空が暗い。 演劇部以外のスタッフさん達には早めに引き上げてもらい、後は外廊下の掃除に使ったデッキブラシを洗うだけとなったところで女子部員勢が制服に着替えるため部室棟へ集団移動。
そこからは、講堂は急にがらんと寂しくなった。 用具室の施錠や職員室報告で僕以外の男子部員は散りぢりになり、僕は一人で講堂の体育館部分を消灯して回る。 夜の学校には違和感あるけど、本番前のこういう雰囲気もひっくるめたのが高校の文化祭なんだろう。 悪くない。
次から次に雑用をこなした末に、ようやく一息つけた僕が講堂の外にある水飲み場で手と顔を洗い終わって視線を動かすと、探そうとしていた先輩は本校舎に繋がる渡り廊下の柱に制服姿で静かに寄りかかって、もうこっちを見ていた。
いつから背後を取っていたのか知らないけど、どことなく 「 ふふん 」 て感じの、「 何か言いたいことはないかな ? 」みたいな、ちょっと澄まして得意そうな表情だ。 バジル味噌しめじ味顔だ。
でも、当然と言えば当然かもしれない。 先輩が見事にやってのけた今日のリハーサルは劇に関わる全員に自信を与え、良い意味で緊張させて文化祭本番へと鼓舞した。 プロの演出家がたまに使う、劇が 『 仕上がった 』 という言い回しに近い状態に僕たちは入っている。
これは間違いなく先輩のおかげだった。
【 20 】
「 ‥‥‥ 」
見つめられて、なんとなく落ち着かなくなった気分をハムスターっぽくタオル顔ごしごし動作でやりすごす僕に、柱を離れた彼女は黙ったまま近付いて来る。 目の前まで来て足を止めて ─── それでもまだ、先輩は僕を見上げたまま無言でいた。
「 ‥‥‥ 」
あ。 待ってる。 これは先輩待ってる。
今この人が不自然なくらい何も言わないのは、僕の方から称賛の口火を切らせたいからなんだろう。
不釣り合いだけど、先輩と僕は今回主演ペアだ。 だから相手役として、気の利いた一言で共演者の演技を称えるのは当然の礼儀だと言っても良かった。 第一それこそが、僕がさっきから先輩に伝えようとしていた事だったわけだし。
でも、どんな風に褒めようかな ‥‥‥ リハーサル直後と違って、中途半端な長さの時間を挟んでからこうして改めて二人きりで向き合うと、悪い意味で少し冷静になってしまう。 取りあえず僕の口から出て来たのは ‥‥‥
お疲れさまでした、ヒロインすごく良かったです、の凡コメント。
「 ‥‥‥ 」
‥‥‥ き、基本は大切だ。 ここから展開していけばいいんだ。
「 えー 」
それなりの期待感を隠そうともしていなかった先輩から、最高のがっかり笑顔で強烈なリターンを決められてしまう。 ありがちコメント罪にもかかわらず先輩がまだ怒っていないのは、きっと執行猶予がついたからだろう。 大丈夫、時間はたっぷりある、先輩の御機嫌 HP も高い、すぐに言い直そう。 えーとー ‥‥‥‥ ラ、ラ ‥‥‥
ラストシーン、感動しました。
「 ‥‥‥ 」
なんか一瞬ぴくっとしてから半笑顔。
「 んもー、それだけなのー ? あんまり普通で逆にびっくりだな ‥‥‥ ね、君は主人公なんだよ ? 一番近くで私を見てたのに、出てくる感想がそんな ‥‥‥ ぼー、んー、コメントってー。 駄目、もっと他のこと言って 」
そういうのは聞きあきた的腕組みポーズの無慈悲リターンウィズ説教。 一応心から言ってるんですけど ‥‥‥ これも却下ですか。 ゲームブレイク寸前だ。 うーん、どう褒めるのがいいんだろう。 えっと、こうなったら ‥‥‥
本当に今までで最高の出来でした、すごいです神です、何もかもが文句無しに素晴らしかったです、尊敬します完璧です演劇の歴史は今日を境に新しい時代に突入するのですそうでしょうかそうですともと言ってみる。 無差別ほめ爆撃。
「 ‥‥‥ うん 」
先輩はクルっと体を回して背中を向けた。
「 うん。 ありがと 」
‥‥‥ あれ ?
この時僕には何となく、僕の位置からは見えない先輩の顔から、表情が消え去ってしまったような気がした。
褒め言葉に照れているとか、成功が確実になった満足感を隠そうとしたとか、そういう理由じゃない。 まるで僕の言葉をきっかけにシャッターが閉まるみたいに、先輩と僕の間に、縮められない距離が生まれた感じだった。 無理に言葉にしようとするなら ─── 疎外 ─── だろうか。
まずい事、言っちゃったのかな。
あの、とか、ええと、とか何とか、意味のない言葉を並べて取り繕おうとする僕に、先輩は後ろ姿を見せたままでとても優しく 「 君の方もなかなかだったね。 良かったよ 」と凡コメ返し。 もしかすると軽いやり取りに逃げる機会をくれたのかもしれない。
僕が乾いた声で、先輩だって凡コメントですよね ‥‥‥ と仕方なく応じたところで、
「 おーい ! おーいー ! 」
騒がしい声とセットで、僕の視界端に縦円残像で光るメガネ。
副部長だった。
「 あっ部長ーっ ! ! ラッキーです、もう遅くなったからって事で、運動部の先生が駅までミニバン出して送ってくれるって ! ! 女子優先ですー ! 」
副部長だ。
「 そう、今行く ─── 今行くよ 」
そんな風に返事をした先輩は、明らかにこの場の興味をそっちに切り換えるふりをしていた。
「 早くー ! 」 走る副部長だ。
「 あわただしいわね ‥‥‥ 待っうわちょ 」
「 急いで時間無いです急いでー ! 」 より正確には、先輩をガシッとつかんで疾走するトゥーミニッツウォーニングノーハドル副部長だ。
「 さあこっちですよ部長 ! 電車で帰る女子しゅーごー ! 集合だよー ! 」
段取り優先で動く副部長の絶対的アブダクションパワーによって、ドナドナ仔牛のように問答無用で連れ去られる先輩。 でも最後になんとか振り返って、どことなく救われたように僕へと手を振る先輩は落ち着いた表情だった。 多分僕たちは二人とも、この会話が途中で終わった事にホッとしている。
副部長、ありがとうございます。
【 21 】
次の日。 文化祭をいよいよ明日に控えての最終ミーティングは、発表系文化部としては定番となる、
『 頑 張 ろぉ ー ぅ ! ! 』 『 お ー ! ! 』
の儀式があった他は、普段の部活よりもむしろ簡単に済んだ。 特に僕たち演劇部は他の部と比べてスケジュール進行が理想的で、準備も練習も、昨日のリハーサルがピークだったから何もする必要がなかったのだ。
練習三昧だった昨日までよりも早めに校門を出た僕をはずむ足音だけで呼び止めた先輩は、小走りで横に並んで来ると、「 あのね。 昨日の帰り際に、気付いたの。 君の言葉で気付いた 」 と前置きなしに打ち明けてきた。
「 私やっぱり、'' 完璧 '' な場面作りがしたかったんだな、って。 リハーサルが上手くまとまった程度で満足してちゃいけなかった。
トータルだとちょっと負けた気分、残念な気分 ─── もちろんベストは尽くすよ。 でも正直に白状するなら、今はそんな感じ 」
先輩と僕の間でそういう始まり方をする話題はただひとつ、学校からケチを付けられた例のキスシーンしかない。
そして僕は、自分が軽はずみに口にした「 完璧 」が藪ヘビNGワードだったと知って内心で後悔しながら、学校の施設を使わせてもらってる部活の劇なんですから多少の手直しは仕方ないですよ ‥‥‥ みたいなボンクラ意見で、なだめ役に回るしかない。
「 わかってるけど。 そういう正論で押されちゃったら、引き下がるしかないけど ‥‥‥ 」
そこまで言ってから先輩は少し乱暴に、
「 なんだよもう。 わかってるよそんなの、でも私だって少しぐらい言いたいこと言ってもいいでしょ 」 と開き直ってくる。 なだめるのは失敗。 でも、こんな感じで僕が小さな不満の聞き役に回る方が、上辺だけで同意するよりずっといいとも思う。 僕はいつの間にか、この人が本気で怒っているのかどうかが分かるようになったみたいだ。
並木道の先を軽くにらみつつ少し口を尖らせて愚痴る先輩は、部長としての肩書きを今はオフにしているようだった。
「 ‥‥‥ 悔いを残したくなかったんだって本音を、君には伝えておきたかっただけ 」
傾き始めた日差しを受けて落ち葉の上を歩く先輩の足取りは、いつもよりも少しのんびり目だ。 そんな感じで取り留めのない話をもう暫く続けてから、やがて僕たちはどちらからともなく練習に入った。
【 22 】
その後は駅に着くまで、先輩と僕は秋の夕暮れの中を小声よりもさらに声を落として、互いの肩を近づけ劇中のセリフをひたすら愚直に掛け合い続ける。 声量は段々と小さくなっていき、最後には二人ともほとんど無音に近く、口の動きも微かなものになった。
それでも不思議とお互いに相手の言葉を受けそこなう事はなく、ついに一つのミスもしないままアーケードの改札を通り抜けて、僕たちは夏以来続けてきた長い練習を終えた。
感謝の気持ちを込め少し真面目に頭を下げるとびっくりされて、「 やだやめてよ 」 とぽむぽむ背中を叩かれる。 照れて笑う先輩に、愚痴を言う気配はもうなさそうだ。
吹き抜けコンコースでそれぞれのホーム階段へと上がって行く別れ際に、先輩は気持ちを切り替えた口調で 「 明日は頑張ってね 」 と明るく励ましてくれた。
はい、と軽く一礼して階段を登って行こうとした僕だったが、目の前の先輩の陽気さがどこか捉えどころのない所在無さげな揺らめきを帯びたようで、その意外すぎる弱々しさに思わず、踏み出しかけていた足が止まる。
それは直前までの口調とは奇妙なくらい繋がりのない、ちょっと困ったような、思いつきを持て余すような、少し複雑な微笑みだった。
まだ会話が続くのだろうか、と体を向け直して待つ僕に気付いた先輩は小さく口を開きかけたように見えたが、すぐに、考え直した事がわかる眼差しとともに普段の表情を取り戻すと、なんでもないよ、と肩をすくめただけで踵 ( きびす ) を返し、強く広がった黒髪が落ち着く間も見せず曲がり角の先へ消えて行く。
何か、もっと僕に言っときたい事でもあるのかと思ったけど。 気のせいかな ─── 自分だけポツンと立ち尽くしたまま、考え過ぎを自戒する。 気のせいだな。
そして再び帰宅に使うホームの方へと向き直り ─── そこで初めて、自分がその階段を登る動作の違和感に、高まる焦燥感に、僕は気付いた。
足をそっちに動かしたくない。 なぜなら ‥‥‥。
僕は先輩から貰える言葉を聞くために立ち止まったんじゃない。
僕があの人に、伝えたい事があるから止まったんだ。
気のせいじゃない。
確信した瞬間、僕は向きを変えて走り始めた。 なぜそう思えるのかについての理由が曖昧なまま、先輩の後を追いかける。
言おう、何かを。 何を言おう ? 何かを伝えなければならないと感じつつ、一度も立ったことのないホームへ勢い任せで駆け上がってみると、少し遠めの場所に立っていた先輩は驚いた顔で近付いて来た。
「 どうしたの 」
ちょうど到着した電車を気にする事もなく、息を切らしかけた僕に問いかける。 車両がホームに進入する時の音と風が収まって、深呼吸をした僕が前かがみの状態から背筋を伸ばすのを見守る先輩は、すでに上級生かつ演劇部部長としての落ち着きを取り戻していた。
そして僕の方は、告げるべき価値のある言葉を思いつけず数秒のあいだ棒立ちになっていたが、やがて気まずさに焦る口が勝手に動いて ───
明日は先輩も頑張ってください、とだけ、それだけを、やっと言えた。
必死の 凡 コ メ ン ト 。
ああぁ、またやってしまった ‥‥‥ これは、平凡にもほどがあるって突っ込まれるレベルのひと言だ。 わざわざ追いかけてまでして伝える内容じゃない ‥‥‥ 僕は自分で自分に呆れかける。
でも先輩はなぜかこんなありふれた言葉を聞いた途端、このホームに僕が現れたのを見た時よりもびっくりして息を呑んだ。
そして絶句したまま少し挙動不審なくらい眼を泳がせてから、うつむき加減でこくっとうなずいた。
「 うん 」
顔がだいぶ横向きにそらされた状態で発された小声なので自信ないけど、これ多分僕への返事だと思う。
「 ‥‥‥ 頑張るよ 」
会話としてはそこまでだった。 先輩は、私急用あるから、忙しいから、みたいな意味の事をもごもごと呟いて、体幹が前方傾斜しそうなくらいの勢いでホームの先端部方向へと歩み去る。 次いで進行方向の先に設置されていた自販機の一台に気付くと、その陰に飛び込んでじっと動かなくなってしまった。
どうやら怒らせてはいないようだけど ‥‥‥ 呆れさせたのか、それとも困惑させたのか、分かりやすく距離を取られたって事は、少なくともそんな感じっぽい。
仕方なく、以上ですそれじゃ失礼します、と遠くから呼びかけてみると、自販機から生えた腕が綺麗に指をそろえた手の平だけを、こちらに数回ぎこちなく振ってくれた。
【 23 】
─── 劇の本番って言っても( 笑 )、要は客席に人がいるかどうかの違いしかないし ‥‥‥ 演じる当事者からすると退屈なルーチン消化 ? みたいな ? そういう一面もあるんですよ実は。 練習で何回もセリフは言ってるし聞いてるし、あとは位置取りぐらいですか、注意するとしたら。 そういう意味では自分を驚かせる要素 ? って考えてみたら何もないですね (笑)。
クラスメートとかによく聞かれるんですけど、ミスとか意識しての緊張とか気後れとか、そういうのは事前の練習が十分にできてれば、舞台にいる時は感じませんねほとんどね。 僕、ミスらしいミスってした事ないんで。 失敗とかを無くす事を目的に僕らはずっと練習してきたわけで、そういう意味では何も考えずその練習通りに動くのが、実はもっとも簡単なんですよね要は。
仮にまあ(笑)何かアクシデントが起きても、大抵はリハーサルのどこかで誰かが同じ事やってたりしますし、そういう意味ではアクシデントが起きても対処はすぐにできるんですよ逆に言えば。 トラブルとかはあったらあったで、それをどう活かすか ? っていうのも器量ですよね要は役者のね。 そうい「 ちょっと ? 」うのも含めて楽し「 あの、ちょっと ? 」まないと ───
「 ねちょっと ! 大丈夫 ? ! なんかずっと一人で送風調整紐に話しかけてるけど大丈夫っ ? ! 」
気がつくと、心配そうなメガネフレームが僕の肩をがくがく揺さぶっていた。 あ ‥‥‥ 副部長。 「 舞台袖まで来て緊張で自我喪失しないでね ! もうすぐだよ ! 本番だよ ! 」
‥‥‥ 僕は講堂の舞台脇、上手側にある掃除用具立て掛けスペースにしゃがんでいた。 暗くて狭いこの場所はいつの間にか、もうすぐ出番が来る僕が待機するための専用引きこもりポイントとして定着している。 ここに普段は立って待つ僕が、背を向けてうずくまってガクガクしているので不自然に見えたらしい。
「 おーい ‥‥‥ 」
だだだ大丈夫です。 緊張を和らげるために脳内名優キャラで脳内インタビューに答えてただけです大丈夫です。
「 そうだ、掌に人って書いて ‥‥‥ 」 すでに三千万人分くらい飲んでますので大丈夫です。
「 でも君、未知の熱病に感染したみたいになってるけど 」 この震えは武者震いです大丈夫です。 汗は武者汗です。 水とタオルもらいます。
ついにやって来た文化祭当日、劇の開演を控えた講堂は立ち見エリアまで人が一杯で、もう今さら来てもムダだ的な札止め放送が全校内に繰り返し流れるほどの活況を呈している。 プログラムの前後を音楽系の部活で構成して全体の流れに変化をつけているせいもあるけど、上演時間の割り当てや発表順を見れば、僕たち演劇部が今年のメイン扱いになっているのは間違いなかった。 見慣れた制服だけでなく私服も目立つ客席には、超満員ならではの、音にならない衣擦れや呼吸の気配がみなぎっていて、非日常の時間が始まるのを誰もが今や遅しと待ち構えている。
生徒会のタイムキーパーさん二人が舞台の両端でバサバサ、と厚めの白布をはためかせた。 準備完了の合図だ。
【 24 】
無人だった空間に、金髪の少女が小走りで現れる。 そして観客の頭上はるか彼方を指差し言う。
『 見て、煙よ ! モン・リッゼールの峰に狼煙が ─── 』
劇が始まった。
ラバノワドレス姿の先輩は、幕開け送りの拍手が残す少し軽薄な余韻を自分の一声だけで現実から遮断して、僕とは反対側の舞台袖を躍り出ると講堂全体に喜びを響かせた。 この物語の彼女なら、間違いなくそんな風にする ─── 拍手が完全に収まって静かになるまで控えめに出番を待つような事はしない。 先輩はすでに演技を始めるべき時の見極め方までも、ヒロインになりきっていた。 そのドレスは一流ブランド品に比べれば素材や仕立てこそ高校生の縫製レベルで多少見劣りするかもしれないが、身にまとう彼女自身の活力と美しさがそれを十分に補っている。 すごく可愛い。 凡コメントだけど。
「 スポット、アッパー気味だな 」
光に眼を細める先輩の変化に気づいた副部長が、すぐさま講堂二階廊下に陣取るスタッフさんにメールを打ち始めた。 「 もっと下げてもらおう 」
今動いているスポット照明はヒロインを講堂上部の左右から照らす、二本の手動ハロゲンライトだ。 天井固定のアーク灯とは別に先輩の動きを追う十字の光線が、演者の移動に忠実すぎる追い方でその姿を白い交差の中に捉え続けている。 それ自体は悪いことではないが、副部長の言う通り、どうやら明るさの中心をヒロインの顔に合わせているようだった。 これでは遠くの山から上がる狼煙を見て喜ぶ時、つまり顔を上げ気味にするたびに、光が眼を直射してしまう。 先輩まぶしいだろうな ‥‥‥。
『 しかし楽観もできまい。 これは噂だがな、敵の攻勢は海路だけでなくオルレアンにも ─── 』
『 あーあ、早くサンアンリオの港が解放されて、お父様の心配事が昔みたいに葡萄の作付け話だけに戻りますように ! 戦争なんて真っ平 ! 』
あれ。
動き回る先輩の姿が ‥‥‥ 少しだけ遠かった。 立ち上がってよく見てみる。 ここはヒロインが他の家族や召使いと矢継ぎ早に会話していき、笑いや時代背景の説明を交えつつ登場人物たち各々の個性を際立たせるくだりだった。 ひと通りそれが終わった所で僕の登場となるので、この場面の流れについては舞台上の演者よりも、常に同じ待機場所から全体を見ている僕の方が詳しかったりするのだが ─── やっぱり変だ、先輩の立ち位置。 前に出過ぎている。 昨日のリハーサルよりも、さらに舞台の縁近くで動いているようだ。 ひょっとしたら照明の影響で、位置取りの目測が狂ったのかもしれない。
もしも端までの距離を読み違えて、背を向けたまま客席側に出すぎてしまったら ‥‥‥ という仮定が脳裏に浮かんで、僕はゾッとした。
元々先輩の足運びは、計ったようにとても正確だ。 だからこそ、演技の開始位置がずれた状態で動き続けたら舞台から落ちるんじゃないか、そんな予感がする。
『 あら婆や、私はもうあなたよりも背が高くなっているのに ? カゴに山盛りのピートを、ほら ! 楽々牛舎まで運べるくらい元気に育っているのに ? 』 持ち上げられた編み籠が、遠景の一部として見慣れたバスケットリングを、今までに無いほど深く、僕の視界から遮った。
いや、これは '' 予感 '' じゃない。 分かっている。 先輩は最も縁に近付いた時、きっと足を踏み外して客席の床に落ちてしまう。 それを理解しているのは多分、僕だけだ。
でもどうする ? どうやって知らせよう ? 今からじゃ、どうしようもない ─── もどかしさに思わず一歩踏み出す僕を見て、両手で 「 早い早い 」 と押し返す仕草をする副部長。 確かに、まだ僕の出て行くところではなかった。 舞台上の会話はもう少し続く。 そしてヒロインは話しながら聞きながら、段差に背を向けて軽やかに動き続けてしまう。
ここからでは、どうしようもない。 だから伝えようがない。
だから ─── 直接行こう。
僕が直接、あの人がいる所まで行って助けよう。
震えも緊張も、どこかへ消え去っていた。 行かなきゃ。
決然と前に進む僕に驚いて、副部長が手足を大の字に広げ、止めにかかる。 口だけを動かして 「 まだだってば ! 出番じゃないよ ! 」 と訴えてくるが、説明している時間がないし、第一、話したところで信じてもらえるかどうか、確信が持てなかった。
仕方ない ‥‥‥ 副部長に両手を伸ばし、その顔からそっとメガネを外して制服の胸ポケットにしまってあげた。
「 は ? ! 」 横をすり抜け舞台へ進む。 「 なっなんなの ? 私はメガネ外されると行動できなくなる設定なの ? ! なんかすごく傷付くんだけどー ! ! 」
呪いの踊りみたいに手を捻り動かして抗議する副部長のささやきを後に、僕は無言で舞台へと歩み出た。 明確な意図を持つ足取りで、ずかずか先輩目指して近付いて行く。 客席のあちこちから、怪訝そうな視線が集まって来た。 台本を無視した主人公の早すぎる登場に、ヒロインの家族役を演じる人たちも遠くで呆気に取られている。 そして僕とは反対側でひと固まりになっている一家の方を向いたままの先輩は、僕の乱入に気付くことなく演技を続けて、ついに決定的な一歩を踏み下ろしてしまった。
足を受け止める床の無い、虚空へ。
【 25 】
間に合わない ─── 。
『 あ ‥‥‥ 』 ぐらりと傾く金髪の少女は倒れかけながらも身をよじると、素早く空足を畳んで体重の預け先を探り直そうとする。 つま先が辛うじて演台の角を引っ掛けた拍子に差し上げられた手が、僕の目には自分を呼び招くように見えた。
間に合わない ─── はずない ! !
僕は、なりふり構わず最後の数メートルを全力で先輩めがけて駆け寄った。 つんのめりそうな体勢のまま手をがっしり握ってから、外に寄り過ぎた重心を力任せに舞台側へと引き戻す。 そして思い切り腕を伸ばし、片足が宙を泳いで下の床に落ちかかる彼女の背中を、ギリギリのところで僕の胸に抱き止めていた。
客席で上がりかけた悲鳴が、安堵と意外さのどよめきに取って代わる。原作とは少しだけ違うドッキリ風味の展開は、視界にちらほら見える指先だけを使った音無しの拍手から判断する限り、幸いにも新解釈の演出だと受け取ってもらえたみたいだった。
そして、僕に何とかできるのはここまでだと気付く ─── 出番じゃないから、セリフがない。 当然『 ト書き 』 もない。 凡コメントすら出ない空っぽ状態だった。 ど、どうしよう。
この人 に頼ろう。
↓
先輩 の耳元で口だけを動かして、任せます、と丸投げ。 すると落下の恐怖からたったの一呼吸でステータス復帰した先輩は、瞬時に状況を理解して僕を大げさに突き飛ばした。 バランスを崩してよろめき離れる僕。
『 いきなり ‥‥‥ いきなり見ず知らずの女性を抱き寄せるなんて ‥‥‥、ずいぶん ‥‥‥ 本当に、ずいぶん、礼儀知らずの騎士さまね 』
取りあえず、面識のない相手に怒ってみせるヒロイン。 怒りのあまり、なかなか言葉が出てこない ─── という体で時間を稼ぎ、この場にふさわしいセリフを即興で口にしていく。 才能だけじゃなく、とんでもない舞台度胸だ。 ただ ‥‥‥ 気のせいか、広めに乱れてしまったドレスの胸元を直す指先の動きにリアル怒気が漂っている。 えーと、ロックオンしようとしてるの僕の事ですかね。
いや ‥‥‥ いや僕、触ってないです。 身に覚えがないです。
谷間も見てないです。
顔がパフっと埋まってしまったのはレスキュー上の不可抗力です。
誓います全てを忘れると。
『 もし哀れな村娘を助けたおつもりになっているならお生憎様、この川はとても浅いのです。 ここだけではなくて、あっちも浅いし ‥‥‥ この辺も浅いし ‥‥‥ こっちだって、うん、浅いわね。 たとえ川岸のどこで転んでも、溺れたりなんかするわけないわ。 さあ、黙っていないで名前くらいはおっしゃって下さいな ! それなりに誇る御血筋、家名がおありでしょう ? 』
あ、上手い。 少し強引かもしれないけど、ひと笑い取りながらヒロインの方から僕に名乗りを促す道筋を作ってくれた。 これなら僕も無駄棒立ち無言状態を脱して、覚えているセリフを一言一句変えることなく口にする事ができる。
台本に復帰。 劇は再び動きだした。
【 26 】
『 敵に長弓と重騎兵の大援軍だと ! ! き、きっとオルレアンから転進して来たイングランドの主力部隊だ ‥‥‥ 奴ら数千人でモン・リッゼールを越える気だぞ。 撤退しないと俺たちゃ全滅だ 』
『 早合点するな、私が峠まで前進して敵情を見てこよう。 確かまだ補給に使っていた駄馬が残っていたな。 即席で騎兵を仕立てるぞ ─── 輜重兵 ! 馬を荷車から解け ! 』
「 良くやったよ、ほんと良くやってくれたよう ! 」
幕あいの節目で上手舞台袖に帰還すると、待ち構えていた副部長が涙目感動顔で僕への褒めモードに入っていた。 僕レベルの演技に感動するわけもないから、これは当然さっきの先輩救助についての反応だろう。 感謝されるのは少し気恥ずかしくもあり、役に立てた事が実感できて何となく誇らしくもある。
「 あそこで君が出て行かなかったら上演どころじゃなかった。 私、ほんと何てお礼言ったらいいか ‥‥‥ 」
いそいそと僕の顔に汗取りコットンとタオルを乗せ、間髪置かずキャップを外した水ボトルをストロー差しで手渡してくれる。 VIP待遇だ ‥‥‥ うむ、ご苦労。 「 メガネの件については日を改めて話そうね 」 すいません正座で待機します。
いいタイミングで客席から大きな笑い声が、何度も続けざまに聞こえて来る。 見せどころの一つ、村から金目の物を盗んで逃げ出そうとする臆病者の兵士を、召使いとヒロインが懲らしめる場面だ。 締め括りには全員が下手に去って場面が変わるから、出ずっぱりだった先輩も休憩を取れるはずだった。 最後にもう一度起こる、笑いと拍手。 この反応の良さは、観客が劇に退屈せず、十分な興味を持ち続けている事を意味していた。
物語半ばを過ぎた劇の運びも、ここまでは順調と言える。 演者各人の連携は質が高く非常に緊密。 音響や照明の効果は安定している。 幕替え、場面替えでの道具類移動の段取りもスムーズこの上ない。 冒頭でヒロインに降りかかったアクシデントにしても、劇を観ている人達には実情を知られていないし、台本本来の話運びを知っている僕らから見れば、いい形で乗り切れた以上は特に問題とする必要がなかった。 結果オーライ効果だ。
そしてやはり、何よりも凄いのは先輩の存在だった。 僕にもだんだん分かってきたが、この人は並みの役者と違って、どうやら情熱とかやる気が空回りする事がないらしい。 普通は失敗を取り戻そうとすればどこかに不自然な焦りが出て、大抵がお決まりの失敗落ち込み悪循環に陥ってしまうものだが、彼女の場合は、自分が段差下に落ちかけた事すら新しい要素として劇の中に取り込んでしまう。
先輩が創り出しているのは、台本のセリフを機械的になぞれば再現できてしまうような、一個の安易な人物像ではなかった。 その演技には誰にも真似のできない生命力を伴った、彼女自身に属するそれとは別の鼓動が脈打っている。 その周囲には演じている世界の大気が揺らめき、別の法則が司る時間が流れていると錯覚してしまうほどだ。 僕たち演劇部員をも含めて今や講堂全体が、ヒロインの背後に垣間見える世界の鮮烈さに圧倒され、魅了されていた。
【 27 】
「 理想的に進んでる。 完璧だよ、このまま最後まで行っちゃおう 」
次の幕場へ僕を送り出そうとする副部長の励ましを受けて、ありがとうございます、と頭を下げた視界に、向かい側の舞台袖で丸椅子に座り、水色の保冷シートを頭から掛けて小休止する先輩の姿がちらりと入ってくる。
先輩は遠くから、動かず真っすぐに僕を見ていた ─── ささやきが届くはずもないのに、まるで今ここで使われた 「 完璧 」 という言葉の響きを聞き咎めるかのように。
“ 私やっぱり、'' 完璧 '' な場面作りがしたかったんだな、って ”
先輩は昨日、そう言った。 完璧、という言葉の重みと使いどころは人それぞれだ。 一種のレトリックで、感嘆や形容の一例として気楽に連発する人もいるだろうし、言葉本来の意味を厳格に当てはめようとする人もいる。 先輩は、後者だ。
この劇は、あの人にとって将来どんな思い出になるのだろう。 あれだけの熱演で僕たちを引っ張って来た先輩にとって、この時間は 「 完璧 」 さに欠ける、思い返したくもない苦い記憶になってしまうのだろうか。
僕は自分の無力を実感する。 今度こそ、できる事はなさそうだ。
またすぐに僕の出番が来る。 舞台で演技に集中してさえいれば、この事についてこれ以上深く考えなくて済むのがありがたかった。
【 28 】
『 聞きました。 あなた方の部隊だけで前進して、峠を守って戦う、って。 ‥‥‥ 嘘でしょう ? 』
衝突を何度か経た後で相手の温かい人柄に触れ、やがて主人公を慕う気持ちを隠せなくなるヒロイン。 庶民の出自を軽んじられ、名ばかりの下級騎士として追い使われるだけの主人公。 二人はお互いに心を通わせることで人間として成長する。
劇はもっとも有名なヤマ場に差しかかり、やがて、問題の場面がやって来た。 直前ぎりぎりになって演出を差し換え、考えてみたら練習終盤すべてのトラブルの原因となった、別れのキスシーンだ。
無謀な戦いに赴く決意を変えない主人公に失望して立ち去ろうとするヒロインを、愛の告白が引き留める。
私は君を愛している、我が心も我が命も、君のためだけにある、と。
『 それは本当 ? 』
振り返り問いかけてくる先輩は、内心たじろぐほど綺麗だった。
『 神に誓って。 私が価値を見い出すもの全てに誓って 』
そう応える声に震えが出ず誠実な響きを保てたのは、練習の賜物だ。 それにしても ─── この綺麗さは、おかしい。 この人の姿は、夏以来ずっと一緒に過ごして見慣れているはずなのに。 いくらなんでも、ここまで綺麗なはずない。
『 でも、今になってお心の内を知っても悲しさが募るだけだわ、貴方は行ってしまうのだから。 私は嬉しい、嬉しいのに、その何倍も悲しいの 』
どんな表情をしていても綺麗だ。 僕はなぜ、この人の事を信じられないくらい綺麗だと ‥‥‥ ああそうか。
直感した。
美しさだけじゃなくて、同時に、'' 愛を帯びて在る '' 感情を見出しているからなのだと。
つまり、
僕はヒロインに恋したんだ。
【 29 】
言葉を重ねつつ、先輩と僕は歩み寄っていく。 想いを託した声が交わされるたびに相手へと歩を進め、舞台の中央で、ついには互いの息がかかるくらいにまで、二人を隔てる空間は狭まろうとしていた。
わずかに上気した表情で何かを問うように見上げてくる先輩の顔が、すぐ目の前にある。 客席は静まりかえり、固唾を飲んで二人が結ばれる瞬間を見守っている。
そして、暗転のきっかけとなる最後のセリフを、ヒロインを受け止めるために両腕を広げた主人公が強く大きく語りかける。 それは愛の囁きではなく、誓いの叫びだった。
『 たとえ命尽きても、私の愛は、決して君の心を離れはしない ! ! 』
言葉を発し終えるのと同時に、すべての照明機器から光が断たれ、講堂は文字通り墨のような暗黒の底に沈んだ。
それに応じて音楽が砲撃の効果音に取って代わり、徐々に大きくなって、悲恋の先に待つ戦争の無情さを訴える。 慎重に計算されたナレーション付きの音響と選曲が功を奏して、突然訪れた暗闇に包まれても、客席からはざわめきや混乱は起きなかった。
曲調がメインフレーズに入って盛り上がるその間に、僕と先輩はあらかじめ舞台の中央部から数歩離れておき、次のセリフに入るタイミングを測って照明の再点灯を待つ。
‥‥‥ そうなるはずだった。
しかし先輩の顔も息吹きも、僕の前を去りはしなかった。そうする代わりに、僕が広げた腕の中に先輩はふわりと体を預けると、その唇はためらいを感じさせないまま進み続けて、やがて僕の口元にそっと、溶けるように押し付けられた。
僕は驚きのあまり、何もできない。びっくりして反射的に飛びのくこともできたはずだが、足は一歩も動かなかった。
二人はごく自然に、お互いの背中に手を添えて、じっと支え合っている。
誰からも見えない闇の中で、僕たちは抱き合ったまま、本当の口づけによってそのシーンを演じていた。
完璧なキスシーンを。
気がつくと音楽はフェードアウトして、砲撃の音に軍馬の不規則な喧騒が加わり始めていた。
場面が変わる。 劇が進もうとしている。 少しだけくらくらする頭の中で、主人公のセリフが瞬いた。
ゆっくりと先輩の頬が離れて行く。柔らかな感触を失った僕は我に返り、慌てて腕の力をゆるめた。
しなやかな体が微笑むように消え引いて、温かさだけを残したまま真っ暗な中で数歩下がって行く気配がする。
劇。
劇に。 劇に ‥‥‥ 戻らないと。
一人になった僕はセリフを発するために、自分でも驚いてしまうほど大きく息を吸い込んだ。
【 30 】 / 終章
それ以降を結末から言えば、僕たちの劇は目立った失敗もなく最高の出来に仕上がった。 終幕後の拍手はなんと十分以上も続き、カーテンの隙間から先輩が姿を見せて深くお辞儀した時のスタンディングオベーションの凄さは勿論、単体でひょっこり顔を出した僕や、次の演目のために観客入れ替えの誘導を受け持った風紀委員さんですら拍手を貰えたくらいだ。 当然、後日に文化祭全体を振り返った時の総評も上々だった。
自分でも信じられない事だが、役者としての僕はあのキスに動揺しなかった。 多分あの時、思考のどこかでは、今の自分はあくまでも劇の主人公で、今の先輩は同様に劇のヒロインなのだと ─── 二人の行為は役柄を反映したアドリブのようなものなのだと ─── 理解していたのだろうと思う。
そう、劇は劇だ。 僕と先輩が、劇を出発点にお互いの距離を縮めたりするといった事もなかった。 受験を控えた彼女が一、二年生に演劇部を託して去って行く時も僕はあの人にとって一人の下級生にすぎなかったし、最後に二人であのシーンを振り返って話をしたりもしなかった。
ただ、あの劇の後の、三年生が卒業していくまでの数ヶ月、校庭やカフェテリアでたまに先輩と目が合った時に、駅のコンコースで彼女が見せた微かに迷うような、まだ自分がどうするか決めかねているといった趣きの、捉えどころのない独特な笑顔が一瞬僕へと向けられる事はあった。それは僕たちだけが共有する、誰も知らない秘密のシーンを演じた二人にしか理解できないサインのようなものだった。
在校生と卒業生が交流する部籍会で再び顔を合わせる機会が増えても、僕と先輩は未だにあの時の数秒間を話題にしたことがない。 言葉にしてしまえば、それはその途端に今ある形から何か別のものとして色褪せ始めるような気がするのだ。
そして思う。 もし先輩にとって、高校生活最後に演じたあの劇が大切な思い出になったのなら、そうなる手助けをもしも僕ができていたなら、あの夏、アカバポプラの木陰で僕を待ってくれていた彼女に感謝の気持ちを示すことができたのなら ─── 僕は十分満足だ、と。
そう考えておくのが賢いと、分かっている。
触れることなく保つべき思い出もあるのだと、分かっている。
でも ‥‥‥、
それでも、ふとした会話の切り替わりに生じた短い沈黙の中、先輩があの頃と変わる事のない謎めいた笑顔を浮かべ僕を見つめている時には、いつかはこの緩やかな暗黙のルールをどちらかが踏み越える時が来るのかもしれないと、そっと考えてみずにはいられない。
END
【 1 】
「 ここはキスだよ! キスするの! この劇で一番大事なシーンなんだから、校長の通達なんて関係なく、当然の流れとしてキスになるんだよ! それ以外、考えられない! キス! キ ── ス ────!! 」
ヒロインの役を演じる先輩は罠にかかった猛獣が暴れるみたいな勢いでそう喚いて、軸足を支点に体を回転させながら、講堂の床を怒りにまかせ何度も踏み鳴らした。
傍らにポツンと立っている相手役の僕にも、彼女の全力ストンピングが生み出す殺人的な振動がズシズシ伝わって来る。
キスさせやがれと先輩が足をひと踏みするたび、その動きにつれて頭に仮付けされている金髪のクリップウィッグ ( 房に小分けされた演劇用カツラ ) だけは優雅に波打った。
キャラ崩壊だ。 先輩その役、悲しみに耐えて気高く生きる貴婦人の代名詞なんですけど ‥‥‥。 着付け作業を買って出てくれている服飾研究会の女子生徒があまりの剣幕に当てられて、先輩のために用意された濃紺のラバノワドレスを広げかけた状態で固まっていた。 怯えきった他の部員、特に上級生の人たちが、チラチラ僕に視線を送って来る。 お前、主役として何とかしてくれよって目だ。 うーん。 ダメ元で、まあまあ落ち着いてください、って軽くなだめてみようかな。 ズシン。 いや無理です危険です。
劇のリハーサルは大詰めの段階に入っていて、もう多少の個人的な不満や意見は胸にしまい、今は各人が演技の総合的なすり合わせを行なうべき時だ ‥‥‥ とは言え、上演寸前までこぎ着けた劇作りを、堅苦しい横やりで突然に邪魔されてしまった先輩がダークフォース感にあふれた激情を爆発させるのも無理はない。
いつもは演劇部のリーダーとして部活動全体のバランスに目を配る人だが、事が学校からのクレームごときが原因であっさり変更されてしまう劇の演出となると話は違ってくる。 社会的には半分子供扱いの高校生ではあっても、一人の女優としては決して譲れない矜持にも似た部分が出て来るのだろう。
今がそうだった。
間近に迫った今年の文化祭、そこでの劇は、先輩を始めとする三年生の演劇部員にとっては高校生活で最後の作品発表の機会となる。 悔いの無いよう、出来る限り納得いく物に仕上げようとするのは当然だった。
特に先輩は今回の上演を自分の学年だとか部長としての立場だけでなく、入学してから今まで、同好会落ち寸前の弱小集団だった演劇部を盛り上げ育ててきた彼女自身の集大成としても位置づけているようだ。 熱意が違う。
演目は一般にも広く知られる戯曲で、王道恋愛もののジャンルでは定番のひとつだ。
愛し合う男女が戦火に引き裂かれ、主人公の男は戦いの中で落命し、残されたヒロインは人生を一人で強く生きていく ─── 何度か映画化もされている筋立てのはっきりした物語だから、観客は展開や伏線に気を配る必要がない。 気構えなく、誰でも一度は何かの形で見た事のある場面の数々を楽しんでもらう ─── そういう趣向だった。
主人公役は、一年生にも関わらず、この僕に任される事になっている。 理由は単純で、男子部員の中で一番背の高いのが僕だったからだ。
そして、先輩がもう一人の主役とも言うべきヒロイン役をつとめるのは、普段からの圧倒的な校内注目度を考えればこちらは順当な人選と言えた。
" 金髪の美少女 " という原作設定通りの役作りにも無理を感じさせないほどに整った顔立ちで、しかもスラっと脚の伸びたプロポーションに恵まれた先輩は舞台映えがするという意味ではこの劇のヒロインとして理想的と言って良い存在だが、ただでさえ男子に引けを取らない背丈に加えて、今作ではドレスをまとう役柄に合わせ、ヒールタイプの靴をコーディネートする必要がある。
相手役に求められるのは経験や演技力よりも、まず第一に、舞台で並んだ時にヒロインと釣り合うに十分な身長というわけだった。
【 2 】
「 ふーん。 君が主人公やるんだ 」
夏休み直前、期末テスト明けに開かれた配役ミーティングで部員それぞれに演じる担当人物が決定した日、先輩は 『 この世にこんな下級生いたのね 』 と言いたげな表情で僕に近寄って来ると、「 ふーん。 ほほう。 へー。 ふむふむ 」 みたいな声と一緒に時々爪先立ったり前かがみになったりしながら、僕の体のかなり近くを尋問前のゲシュタポ風にゆっくり一周した。
ランナー用の青い極細カチューシャが、セミロングより気持ち長めにした先輩の深黒い髪を飾り気なくまとめている。 肌は遠めにうかがい見ていた時の勝手なイメージとは違って意外に少し日焼け気味で、それが活発そうな眉と、知的なラインを描く鼻梁の陰影を明るく健康的に際立たせていた。
やがて先輩はくすっと笑うと僕の正面で向き合い、値踏みするように少し首を傾げてから、さらにぐっと一歩、間を詰めて来ると眼と眼を合わせたまま 「 それじゃ別れのキスシーン、私は君としちゃうってことね 」 ─── 何げなさそうに、パイナップルミントの息でボソリとつぶやいた。
緊張で少しつっかえ気味によよよろしくお願いしますと言いかけていた僕はそのひと言にびっくりして、思わず挨拶の言葉を飲み込んで先輩の唇を凝視してしまう。
あーっ、そうだそうなのそうだよそう言えば、と今さらだが思い至る。 この劇って、主人公とヒロインがキスするとこあんじゃん ‥‥‥ ! ! て事は ! するのキス ?!
そこは最も有名なシーンだ。
戦場へと赴く主人公と故郷に残されるヒロインが、別れ際に初めての口づけを交わす場面だった。 物語前半のエピソードはその瞬間に向かって収斂して行き、後半においてはそれを感情的背景として登場人物たちが終幕へと導かれる。
映画化された作品のポスター類などは、ほとんどがそのシーンをモチーフとしてデザインされているはずだ。
極論するなら、これは恋人たちがキスして戦争して泣ける劇ですよと言ってもいいかもしれない。
キス ‥‥‥ っ ‥‥‥ !
あせりまくる僕の反応をちょっと楽しそうに見守っていた先輩は、いかにも年上のお姉さん然とした余裕ある態度で気づかうように微笑んだ。
「 本当にキスするわけじゃないよ。 私と君は抱き合ってからくるっと回って、少し角度を変えるの。 私は、客席に背中を向けて立つ君の後ろに隠れる事になってるわ 」
えっ ‥‥‥ 。 ‥‥‥ じゃ ‥‥‥ なんちゃってキス ? フェイクキス ? 嘘キス ? VRキス ?
「 がっかりした ? 」
あれ。 なんか今の会話で上下関係が確定してしまった気がする。 まあ最上級生ヒロインと低レベル一年の僕の立場じゃ、それが当然ではあるんだろうけど。
「 ねえねえ、がっかりした ? 」 先輩、容赦なく追撃。
自覚できるくらいポカンとした顔からなんとか復帰した僕は平静を装って、いえ別に ‥‥‥ と応じるのが精一杯だ。 その言い終わりに先輩の大人感アップな 「 フフっ 」 が被せられて、上下ギャップはさらに広がった。
「 凡コメントだね。 君って、とことん普通なタイプの一年生 」
でもそういう性格の方がこの役には合ってるかもしれない、頑張るのよ、と言い置いて、先輩は立ち去って行く。
ま、高校生の部活演劇だしそんなもんだろうな、と僕は納得し、肩すかし感と安堵とパニック恥と草原号泣疾走欲求をやわらげるため、心の嘘記憶に 『 知ってたし 』 と付け加えた。
なんちゃってキスかあ ‥‥‥。 いえ別に、いいんですけど。 知ってたし。
【 3 】
そう。 その通りの演出プランで行くはずだったのだ ‥‥‥ さっきまでは。
運が悪いと言うか規則順守が裏目に出たというか、学校に提出した上演冊子サンプルにたまたま目を通した校長が、教育的配慮によってその場面に待ったをかけてきたのである。 演目を解説した見開きページには、頑張りすぎた漫画研究部の傑作イラストが中央にでかでかと配されていて ─── 崩壊炎上する巨大要塞をバックに、舌を絡めあって抱擁する半裸の先輩となんか機動ウォリアーっぽい僕の姿がそこにはあった ‥‥‥ なにマゲドンだよコレ! 世界観全然違うし!
校長の意向を受けた職員会議で急きょ台本の検閲が行なわれ、その結果出された大まかな指示は
・ 抱き合うの禁止。
・ 無論、キス禁止。
要するに、もっと高校生にふさわしい ( 保護者クレームが殺到するおそれの無い ) 健全で無難な演劇にしなさいと指導しているつもりらしい。
「 実際にはキスしませんって、あたし何度も説明したんです。 でも学校側としては、いかにもそういうコトしてますっていう見せ方をするのもダメなんだそうで 」
副部長が講堂で練習中だった部員みんなを集めて、自分としては出来る限り先方を説得しようと努力してみたのだが的態度でキスシーン中止の報告を始めたのが、ついさっきのこと。
それを聞かされ激怒したヒロイン役の先輩が、だからと言っておめおめと退却して来る奴があるか気味のキレ方で床に踏みつけ攻撃を始めたのがその数分後。
もしシーン変更の通達がどうしても動かせないものだとすると、夏休みと二学期が始まってからの一ヶ月強を費やした練習は、その一部が本番では活かされず、無駄に終わってしまう事になる ‥‥‥ が、まあそれは、演じる僕らが我慢すれば丸く収まる話だと言えなくもない。
しかし、劇のクオリティ面への影響は深刻だった。
劇全体を俯瞰した時に重要なのは実はキスそのものではなく、その後に続く、主人公とヒロインの短いが印象的な会話の方にある。
やり取りの一部には二人が初めての口づけについて語り合い心を通わせるというくだりがあって、そこで使われる表現は次幕で訪れる主人公の死にざまと、終幕でヒロインが劇を締めくくる最後のセリフに深い関連性を持つのだ。
キスシーンが無くなるという変更は、本来密接なつながりを持つそれらのエピソードからドラマ性を大きく喪失させてしまう。
作品の主題が弱まりかねない、困った問題だった。
─── そこまで考えて、ようやく僕は気付いた。 そうか、だから先輩はあんなに腹を立てているんだ。 単なるエゴではない ─── あれはこの劇の台本が持つ表現意図とその構造を深く理解できているからこその、演技者としての天性の勘から発した心からの訴えに違いない。
「 もういい気にしない!! キスする! たとえ廃部になってもキスするから! 私、あのシーン好きなの! あのシーンやるの、夢だったんだからー! どうせ半年後には卒業だし、怒られて後がどうなろうと知ったこっちゃないわ! 」
──── 単 な る エ ゴ だ っ た ──── 。
【 4 】
「 妥協するしかないですね 」
誰も言い出せなかった結論を、おそらくキス禁止令を言い渡された職員室からこの講堂までを戻って来るあいだ中、ずっと考え抜いてきたであろう副部長がはっきりと口にした。
「 !! 」
敗北宣言とも取れるその声に反応して物凄いスピードで振り返った先輩のウィッグが激しく乱れて顔のほとんどを覆い隠し、金髪の隙間から片目だけがギロリと覗く格好になる。 普通にしていれば表情豊かでぱっちりとした大きな瞳は彼女が持つ魅力のひとつだが、こんな状況では殺気の発信源でしかない。 ステルスゲーなら射程外の敵にすら発見されるレベルです先輩。
微かに 「 うぬぅ ‥‥‥ 」 と不満そうなうめき声までが絞り出されてきて、どう見ても絶対反対だと判る姿になっている。 鬼 、キスの鬼だ。 怖い。
だが、副部長は眼鏡レンズ反射バリアを駆使して表情を消し、ひるむことなく冷静に続けた。 ‥‥‥ よく見ると少し震えてるし、正確には先輩にではなく先輩の足首に話しかけてるけど。
「 こっここは全暗転を使う、という事でどうですか。 主人公とヒロインは、向き合って互いの顔を近付ける。 台本通りに、です。
そこまで進めたら、全部の照明をすーっと落とすんですよ。 非常口の誘導灯や機器類のインジケーターも、黒幕でその間だけ隠してしまいましょう。 そして真っ暗な中で一拍置いてから、また明るさを戻してキス後の会話シークエンスに入るんです ─── 二人はキスを見せない。 その代わり、観客にキスを、想像、させる。 そういう流れにしましょう 」
「 う、うぅ ‥‥‥ 」
身構えている先輩が緊張を解いていく様子から察すると、これは副部長に渋々ながらも同意を示す、肯定的うめき声らしい。
全暗転。 舞台だけでなく、観客席を含む劇会場全体を暗くする演出法だ。
舞台はほとんどの場合その直前まで皓々と照らされているから、明暗の差が生む効果は日常の生活で室内を消灯したりする時などよりも大きい。
平たく言えば、観客は突然光を奪われてしばらく何も見えなくなる。
確かにその案は、次善の選択肢としては悪くなかった。 何より、この方法だと台本の手直しを人物の動きと照明の演出変更だけに留めることができる。 現実問題として、今からきっちり整合性を保ったキス無しバージョンの膨大なセリフを書き起こすのは無理というものだ。
周りの部員にも台本をめくって小さなうなずきを示す数人の顔が見られるのは、これなら演出改変の影響は小さいぞ ‥‥‥ という事を確認しているからなのだろう。
劇での役割りや受け持ちが同じ後輩に、小声でこのアイデアの利点を説明している上級生もいる。 雰囲気としては高評価な感じだ。
そんな中で一応落ち着きを取り戻した先輩は頭をぐりぐりして雑に髪の流れを直すと、それでもどこか不満そうな腕組みポーズで、唯一の味方を探し求めるみたいにじっと僕の方を見た。
「 君はそれでいいのかな 」
あ。 こっちに振られた。
えっはい、えーと、上演をまず第一に考えるなら ‥‥‥ と慎重に言葉を選び選び、僕は副部長の解決策に賛成する。
これについては、僕の方にも別の事情があった。
文化祭が近付くにつれて校内に演劇部の演目と配役が知れわたってしまい、どうやら劇の中で先輩とキスできる許せない奴がいるらしいという話題で、クラスメートや一部の男子上級生は事あるごとに妬み半分で僕をからかい始めていたのだ。
そんな興味本位の話題に対して、副部長が先生に説明して回ったのと同じように、リアルのキスなんてしませんよするわけないだろしないよしねえってしつけえんだよテメエ、と何回否定したか数えきれない。
無駄に背が高いのが幸いしたのか、あからさまな嫌味やイジメ的な行為は無かったのだが、平凡な高一男子としてそういう自分の立ち位置がちょっとだけ重荷になっていた僕からすると、この新しい演出で注目シーンのハードルが低くなるのは正直ほっとできるところもあった。
変更は学校側が決めた事だし、劇を丸ごと上演中止にしろというほどの乱暴な指示でもないし、ついでにそんな消極的な理由も手伝って、‥‥‥そのシーン、副部長の言うように暗転への演出差し替えがいいと思います ── と僕は続けていた。
「 ‥‥‥ 」
話の文脈から早々に結論を悟った先輩は僕からぷいっと顔ごと視線をそらすと、言い終わりを最後まで待つことなく 「 まあ君がそれでいいって言うなら私もそれでいいし別にいいんだけど 」 みたいな事をぶつぶつぼやきながら、折りたたみ式の半身鏡にかがみ込んで前髪を整え始める。
多少、いやあからさまにブスっとした顔つきではあるけれど、形としては折れてくれたみたいだ。
心の中で説得成功のガッツポーズを取っていそうな副部長が、天井の演壇用アーク灯を仰いで小さく息をついた。
【 5 】
こうして怒れるヒロイン様の講堂破壊行為は終息し、リハーサルは再開された ‥‥‥ が、先輩の機嫌が完全に直ったわけではなかった。
こうなると、今から特に繰り返して練習する必要があるのは言うまでもなく新しい演出に変更された、暗転式キスシーンだ。 ここでは舞台に立つのは先輩と僕だけだから、それ以外のほぼ全員を、舞台効果の目玉となる全暗転実行係に振り分ける事ができる。 対象となるのは講堂備え付けの照明スイッチ、アンプやビデオカメラ類、体育館部分のシーリングライト、そして数えてみたら十二ヶ所もあった独立電源の非常口灯。
それらを、一斉に消す。 やってみると結構バラバラだった。
「 何か 『 せーの 』 で動けるみたいにはっきりした、講堂のどこで待機してても分かる合図があった方がいいなあ ‥‥‥ ねえ、主人公く ー ん! 」
副部長が演台の下から僕に呼び掛けてきた。 本来キスの前に僕と先輩が抱き合うきっかけとなる愛の告白を、今までよりも情熱的に、もっと大きく呼びかけるように、という指示だ。
キスと一緒に抱き合いシーンもボツになっているから、この部分のセリフはわりと自由な改変で再利用が可能だった。 映画などではささやくように語られる所だけど、この劇では一種の号令としての意味も兼ねて、消灯の合図に使われる事になる。 責任けっこう大きいな。
息を吸い込んで胸を張る。 出す声を音のボールにして、遠くに投げるようなイメージで ‥‥‥ こう言おう、
『 私の愛は決して ─── 』
‥‥‥ う。
台本の " ト書き " に沿って、僕の正面にヒロインが、いや先輩が、先輩自身として素のままで立っていた。 腕組みに、仁王立ちで。 やっぱり怒ってるのかなー。
『 ── 君の心を離れはしない! 』
怒ってるなあれは。
心の底から不服そうな、お前の言うことなんて絶対信じねえって感じの眼で睨まれてる。 これは演劇部の全員に降りかかった災難のはずなのに、なんか直で向き合ってる僕だけが叱責されてるみたいなんですけど。
講堂の各所から一つひとつ確認を取った副部長が、消灯タイミング分かりやすくなったよ、本番も今ので行こう、と笑顔でオーケーをくれた。
それに合わせて、不自然にオーバーなアクションで親指を立てたグーを出してきたのは 「 それはそれとして、ついでにヒロインを説得してやる気をよみがえらせてね! 」 という意味なのだろうか。 多分そうなんだろうな ‥‥‥ 。
【 6 】
「 なによう。 なんで意外そうなのよ 」
帰りの校門でも、一足先に外へ出て待ってくれていた先輩には普段の自信や落ち着きのような感じは無くて、まだちょっと悔しそうで平常運転とは言えなかった。 腕組みしてるし。
さすがに今日は怒って先に帰ったのかと思いました、と正直に言ってみると、
「 楽しい気分じゃないのは認めるけど。 練習を欠かす理由にはならないでしょ 」
当然のように割り切った口調だ。 この辺りが彼女の凄いところだった。 外見の可愛らしさ以上に、役者としてのこの人の本質は演技力にある。 そしてそれを支えているのが、当たり前だけど徹底した練習だ。
先輩に誘われた僕が、二人で校門から駅までの下校時間を使い台本の読み合わせをするようになって、かれこれ三ヶ月。 配役が決まってすぐに、それは始まった。
あれはまだ七月が、下旬の頃。
劇の練習が開始されてからたった数回で、僕は潰れかけていた。 自分で自分にギリギリ合格点を出せたのは、最初の読み合わせだけ。
出演者全員が各自台本を手に、輪になってセリフを読み上げていったその一回のみが、他の人たちの足を引っ張らずに主人公役らしく劇に参加できたと言える程度の、情けない出来でしかなかった。
その頃、僕は台本無しだとまるで駄目だった。 セリフの量と長さで頭が一杯になって舞台での動きに精彩がなく、たまに思い通りに体が動くとセリフを間違える。
僕が失敗するたび、練習の進行は止まった。
その日も最悪、本当にみっともない練習しか出来なかった僕を部員の半分がなぐさめ、残りは難しい顔であきらめ気味に目配せしながら部室をぞろぞろ出ていくという、新しい下校習慣が一段落していた。
部室には、自分だけが残っている。
他の人たちと連れ立って帰ることはとてもできない ── 迷惑をかけまくっているのだ。 談笑の輪に入れるはずもなかった。 僕は、劇が失敗に終わるとしたら原因はきっと自分だろうという不吉な予想を立てながら、のろのろと一人で帰り支度を済ませたのを憶えている。
学校の正門を出ると敷地境からはアカバポプラの片並木が始まり、駅までの少し長い道のりに沿って夕陽が木々の規則的な影を落とす。
先輩は一本目の木影の中に立っていた。
「 一緒に帰ろうよ 」 当然のように ─── まるで約束していたみたいに ─── 彼女はそう言って、僕の横に歩み寄った。
もしこれが普段の僕だったら、きれいな年上の女性と二人きりで下校できるという夢シチュエーションにどきどきして舞い上がっていたはずだ。 表面的な態度はともかく、少なくとも内心はヒャッホウサンクガッってなるに違いなかった。
でもその時の落ち込みっぷりはそういう浮わついた考えが持てないほど酷かったから、僕はうつむき気味に立ち止まったまま、はっきり返事もできずにいた。
「 帰りながら練習しよう。 台本出して 」
帰りながら、練習 ‥‥‥ 駅に着くまでの時間を使って、という意味だろうか。 今は無駄だ、と思った。 正直に言えば、やる気が出せる状態じゃない。 僕としてはいったん失敗の悪循環を忘れられるだけの時間を置いて、一人で静かにセリフを暗記していきたいというのが本音だ。 まず集中。 今はただセリフだけに集中して、他の要素を断ち、完全な暗記を第一に 「 おっぱい、見すぎだと思うな 」 き記憶夏服っ!?
予想外の指摘にびっくりして顔を上げると、いつの間にか真ん前に回り込んでいた先輩は夏服の胸元を視線から防御するように片手を当てて、少し非難顔だった。 いや下向いてたから角度的には確かにそうなりますけど ! !
「 今は集中しなさいね 」
見ていたのではなくどちらかと言えばあなたの推測 F カップの方から視界に入って来たのだと思います台本は今すぐに出します!
「 セリフは歩きながら憶えて、小声でいいから必ず口も動かすこと。 他の役は全部私がやるから、息継ぎと間 ( ま ) も頭に入れるようにするのよ 」
先輩はそう言うと横の位置に戻って、振り向くことなくさっさと歩き出した。
「 大丈夫、一緒に頑張ろう 」 という自信たっぷりの一言を残して ‥‥‥ 。
役者は舞台の上を複雑に動き回る。 その動きには時として走ったり倒れたり、斬ったり跳ねたりなど、一層の激しさが求められたりもする。
「 だからね、セリフは体を動かしながら憶える方がいいんだよ 」
─── というのが先輩の持論だった。 それが正しいかどうか、セリフ記憶術として誰にでも有効なのかどうか、僕には判らない。
ただ、半ば強引に開始されたこの補習風・駅までレッスンのおかげで僕の頭には不思議とセリフが刻み込まれ、演技がどうにか見られる水準の物に段々と変わって行ったのは確かだ。
台本を手に持って、僕は先輩と歩く。 歩きながら、相手に聞き取れるかどうかの微かな声でお互いにセリフを掛け合っていく、やっている事はただそれだけの単純なものなのだが、そのうちに先輩はいくつかのルールを追加した。
「 他の人に聞かれちゃ駄目、悟られちゃ駄目 ─── 」 悪企みを思いついた子供みたいな顔でそう言うと、─── だって恥ずかしいじゃない、と彼女は笑顔で付け足した。
ひとつの場面を始めたら、何があっても中断しないという鉄則もできた。
通学路はその大部分が公園や区画された緑地に沿っていたが、駅に近くなると交通量の多い国道を横切り、そこを境として商店街に入る。 行き交う人が多くなると僕たちは自然と肩を寄せあう歩き方になり、時々必要に応じて交互に相手の耳元でセリフをささやいた。 ルールの 1 と 2 だ。
『 オルレアンを陥とす事にこだわり過ぎると、この者たちは一人残らず皆殺しにされるぞ 』 先輩が、バスから降りてきたおばちゃんの一団に巻きまれてどうにかやり過ごしつつ物騒な一言。 これはルール 3 。
『 サウスケンジントン公爵は、逆包囲されるのを恐れて独断で撤退の用意を始めたとか 』 公園から出ていく補助輪自転車の子供を見やりながら、これは僕。 こんな風にセリフと実際の光景が妙な関連を見せてツボにはまったりすると、先輩も僕も時々笑いが止まらなくなった ── 端からは、変な二人連れに見えていたに違いない 。
気付けば自分の受け持つセリフにとどまらず、台本一冊が丸々すべて頭に入っていた。 そして練習ではミスが減ることで余裕が生まれ、進行に追われるのではなく積極的に流れを作り出すように劇への働きかけが変わっていく。 演技という捉えどころの不確かな世界で自分を動かしていくコツを、僕は理解し始めていたのかもしれない。
もし今の自分が成長できているとすれば、それは間違いなく先輩のおかげだった。
【 7 】
と、そんな事を思い出しながら校門をくぐった僕の横を歩いて行く先輩はどこかうわの空で、さっきの 「 気分によらず、練習はする 」 発言とは裏腹になかなか口を開こうとしない。
夏休みの夕暮れから始まって以来、部活後に欠かす事なく続けて来て半ば習慣になっていた帰り道と、今日は雰囲気が違っていた。
やっぱり、あの急遽 ( きゅうきょ ) 決まった新演出に不満があるのか、僕は思いきってその点を質問してみた。 また怒り出すかもしれないという予想もしていたけど、案に相違して、副部長は正しいよ ── と先輩は言い切った。
「 あれで行くしかない。 そこは納得できてるつもり 」
暦 ( こよみ ) はもう十一月に入っていて、夕暮れというよりむしろ夜に近い暗さの中では表情の細かいところまでは分かりにくいが、声の調子に少し明るさがあるのは救いだった。
多分、副部長は心配しすぎたのかもしれない。 うん先輩は大丈夫。
「 不満があるとすれば ── 」
伸びた人差し指が、すうっと僕の鼻先に突き付けられた。
「 君に不満 」
は っ う ?!
「 演出を変えるなら変えるでね、変え方ってもんがあるのよ。 気持ちのいい譲り方って言うかお互い納得しての結論ていうか、そんな感じのきれいな落ち着き方みたいな、わかるでしょ ? 良く考えたら、抵抗してたの私だけだったよね。 ね 」
それは ‥‥‥ はいそうですけど ‥‥‥ 謝るとこなのここ ?
「 あっ腹立ってきた! すごい孤独感あったよ! 役柄として主人公はこういう時ヒロインを救うべきなのに、何なの味方してもくれずに黙あ ー って見てるばっかって! 頼りなくない ?! 不誠実だよ!! 他のみんなはともかく、君と私は当事者なんだからね、キスの ‥‥ 」
しまった怒り出した。
「 ‥‥‥ キスシーンの 」
収まった。
先輩は最後の所を言い直してから急に黙ると十秒近く考えて、次はとても小さな声で 「 駅でアイス食べたい 」 と、ヒロイン見捨て罪の僕を許す条件を提示してくれた。
【 8 】
舞台で両腕を広げ、集まるアーク灯の光の中で僕は 『 ─── 離れはしない! 』 と叫ぶ。 はい暗転来た。 講堂全体が、一斉に暗くなる。
もう一度。 『 離れはしない! 』 ほら暗転。 ぴったりだ。 僕のセリフがトリガーになっているせいか、魔法の呪文みたいでちょっと気持ちいい。
上演直前にすべり込ませた新規演出という特殊な事情はあったが、全暗転キスシーンはどうやら心配なく劇の一部になりつつある。 その部分だけをピックアップしての練習がノーミスで出来るようになったのは勿論、劇全体の進行を通して見ても、前後の流れを壊さず自然にまとまっていた。
「 君、楽しそうね 」
舞台中央で僕と向き合っている先輩が、暇そうに絡んできた。 あれから数日経って、腕組み威圧にも飽きてきたみたいだ。 今は本番と違って講堂の窓にカーテンを掛けていないから、ライトを消しても外からの明かりで暗さの効果は中途半端だった。 先輩が無意味に体を左右にゆらゆらさせているのが見える。
「 た ー の ー し ー い ー ? 」
暇そう、と言うより彼女の場合は本当に暇だった。 暗転入りのセリフに気を張る僕と違って、する事がない。
本来ならこの後で、ヒロインには主人公と抱きあって感動的な ( 実際にしないとは言え、キスとセットになった ) 名場面が待っているはずだったから、注がれてきて結果として無駄に終わってしまった熱意と現在の落差はかなり大きい。 表現の機会を失った無念さは先輩にしか分からないもので、他の誰かが軽々しく想像する事はできないだろう。
「 あのさ 」
窓の光を振り仰いだ先輩の横顔が見せたシルエットの寂しさと繊細な美しさに、僕は思わず目を見開いた。
「 ‥‥‥ 暗転してる間、舞台に私がいる意味ってあるのかな 」
一時的に作り出された半闇の中で、金髪を微かに光らせた少女は静かに自問する。
ここで無責任に、 あります、 と口出ししてしまうのは簡単な事だ。 でもそれは、先輩の葛藤が小さなものだと決め付けるのに等しい。
僕は無言を貫くしかなかった。
【 9 】
「 駅でラーメン食べたい 」
今日は一言目からそれですか ‥‥‥ 。
「 私がおごってあげる 」 先輩は校門を抜けると僕より前に出て、背中を見せたままはしゃいで話し続けた。 「 アーケードのラーメン屋さん、行きたかったんだけどなかなか入る勇気が出なかったの 」 変だ、と思った。 練習が始まる気配がまるで無かった。 これじゃ二人で、ただ一緒に下校しているだけだ。
「 でも君が横にいれば大丈夫そう。 店員さんに注文するのお願いね 」
それはともかく ‥‥‥ 何気ない感じで言いながら、僕は足を速めて先輩の横に追いついて、練習もしましょう、と誘ってみた。 頭の中でわだかまっている疑問は、喉もとまで出かかった所で抑え込む。 それを僕が口にすべきではない。
先輩が横に並んだ僕よりさらに早い歩みで再びリードを奪うのと、つまらなそうにこう言い放つのは、ほぼ同時だった。
「 えー ? いいよー、練習はもう。 君は、セリフを全部覚えきってるし十分だよ 」
でもせっかく一緒に下校してるわけですしハハハ、と無理な笑顔で食い下がる。 「 必要ないって言ってるのにフフフしつこーい 」 脚の長さは伊達じゃなく、直線を行く先輩はかなり速い。 ただ自転車向けの進入防止柵を抜けた直後に若干のトルクロスが出るようだ。 練習を ‥‥‥ しないと。 立ち上がりのノーズを押さえかけた瞬間、水たまりか何かを避ける振りで先輩は軽く一歩跳んだ。 「 きょ、今日は ‥‥‥ パスねラーメン食べたいしー 」 抜けない。 ていうか今のステップ不当加速だ。
僕たちは凄いスピードで歩いていた。 並ぶといつもの練習が始まりそうな位置関係になりそうで、多分先輩はそれが嫌なんだ。 それでいて、あからさまに走ったりすれば必死さが出てしまって、それもまた悔しいのだろう。 やせ我慢のデッドヒートはいつまでも終わりそうになくて、先輩の意外な子供っぽさにあきれた僕は、さっき我慢できた言葉を思わず口走ってしまった。
先輩の演技は、
先輩の演技はだんだん悪くなってます、と。 ─── 前を行く足が止まった。
数秒かけて荒い息を収めてから、半端な角度で振り返る上気した横顔が怒りに染まっている。 「 なによそれ 」 唇が震えていた。
「 ‥‥‥ な ‥‥‥ 生意気だよ 」
これは先輩の声と動きに最も近くで接し続けている、僕だけに分かる感覚だった。 この人の作り出したヒロインは生気に満ち、若々しさと、そしてはじけるような色彩の明るさがあった。 今はただ逸脱のない美しさと技巧だけの別人だ。
初めのうちは、変化は小さかった。 ほんのわずかな粗さ、雑さ、そして多分、失望や諦めが、少しづつ彼女の演じるヒロイン像に入り込んで、その魅力を蝕んでいったのだろう。
僕が気付いているくらいだ。
先輩には、もっとはっきりした自覚があるはずだった。
原因は間違いなく、変更された演出だ。 その決定は先輩の高校生活最後の思い出になるはずだった劇から、一番大事な場面を奪った。
その結果やる気を無くしても、先輩は納得していると明るく嘘をつき、一人でその気持ちを隠し続けてきて ‥‥‥ もうすぐ隠しきれなくなる。 いや、もしかしたら、最後まで僕以外の誰も気が付かないのかもしれない。 ベストではないにせよ高校の部活としてはまあまあの出来だ、と観た人は拍手してくれるのかもしれない。
でもそれは先輩にふさわしくない。 先輩が一生懸命になって作りたいと望んだ劇にふさわしくない。
そして僕は、この気持ちをどうやって伝えればいいのか分からない。
先輩はしばらく横目で僕を睨みつけていたが、脱力した感じでもう一度 「 君って生意気 」 と繰り返すと、背中を向けて普通の速さで歩き出した。 もう表情は見えない。
その気になれば追いつける。
でも、ついて行くべきでない事だけは明らかだった。
【 10 】
今朝は校門にパイプ組みのガクガクラインでアーチができて、レターボードとスプレーで " 文 化 祭 " とイベント感たっぷりに大書きされているところだったが ─── 無視だ。
あの超失言をどうやって許してもらおうかをずっと考えながら登校してきた僕はそれどころではなく、アーチの組み立て工事を珍しそうに見物する生徒と先生たちの人波をかき分けて、一歩も立ち止まらずにそこを素通りした。 文化祭の話題で普段より心持ち賑々しい廊下をむっつりしたまま教室まで行って、席に座り後悔のため息をつく。
アプローチが、破滅的に良くなかった。 昨日はおとなしくラーメンを一緒に食べて ( 相手の奢りだし ) 、先輩が空腹を満たしてから、その後でごく軽めに演技の事を話題にするべきだった。
取りあえず部活あがりに根気良く謝っていこう。 何日か続けて謝罪すればいつかきっと ‥‥‥ って、いや待て。
日曜日が文化祭本番。
土曜日は準備日で午後は休校。
今日は金曜日。 あ。 そうか。
部活で劇の練習ができるのって。 今日までだ ‥‥‥!
まずい時間がない。 仮に今日の帰り道で先輩と仲直りできて彼女の機嫌が直ったとしても、そのメンタルが演技に反映されるのは本番の舞台でという事になってしまう。
それだと急すぎるな ‥‥‥ 放課後までに、直接会って謝ろう。
そうだ。 いっそ今、朝のうちに三年生の教室まで行って来よう。 クラスが分からないけど、総当たりする位の時間はあるはずだ。 念のため昼休みにも挨拶して、仲直りにカフェラテでもご馳走すれば ‥‥‥ 。
そこまでプランを練った時、僕は教室の不自然な静けさに気付いて顔を上げた。
周りも廊下も静か過ぎる。 ついさっきまでは、けっこう騒がしかったはずだ ‥‥‥ ちょっとシーンとし過ぎじゃないのか。
口をつぐんだクラスメートが、幾人かづつのグループになってこちらの座席を窺っていた。 入口で女子の一人が 「 あいつです 」 ポーズで僕を指さすその後ろには、三年生を示す、鳶色ラインのガードカラーがうわ先輩 ‥‥‥ 。
先輩が教室に来ていた。
演劇部は知らないが演劇部の部長なら評判だけは知っている ‥‥‥ という生徒は多い。 ああ、美人で有名な人でしょ、と続ける生徒はもっと多い。 そんな感じで話題にされる本人が朝の一年生区画をうろうろしていた事に大勢が驚いて、何が始まるのか興味津々で見守っている。
その先輩が、少しぎこちない歩き方で僕の席に近付いて来た。 何か緊張してるっぽい。
「 ‥‥‥ おは、よう ‥‥‥ 」 やや固い挨拶に、思わず立ち上がってしまう。 上官に対する部下みたいに直立しておはようございますと返すものの、何なんだこの注目度 ‥‥‥ こっち見過ぎだろ、演劇部には厳しい上下関係なんて無いよ楽しいよ。
「 朝から悪いんだけど。 ‥‥‥ きっ、昨日の事について、どうしても早めに伝えておきたい事があったものだから 」
あれ ?
「 まず、私には練習に積極的でない点があったわ。 それと、 」
もしかして先輩の方から ?
「 君は、必ずしも、生意気などではないと訂正したいの 」
これは ‥‥‥ あやまってくれてる ? のかな ? だとしたら僕と同じ事を考えて、僕よりも素早く考えを行動に移したということになる。 感情面での諍いが劇に悪影響をもたらさないように、わざわざ下級生の僕に気を使ってくれるなんて普通できることじゃない。 やっぱり凄い人だ。
解決 ‥‥‥ 解決じゃん、スピード解決。 という事はもう、問題も心配も一切なしで文化祭を迎えられる ‥‥‥!
「 ‥‥‥ それだけ 」 いつもは相手の目を見て話す先輩が、めずらしく伏し目気味だった。 こういう時って後輩はどう返すのがいいんだろう。 人目もあるし、余計な憶測で噂にならないような返事にしないと駄目だよな ‥‥‥ そして、いいえ自分の方こそ失礼な事を、とか何とか僕が言おうとするかしないかの所で、早くも身をひるがえして小走りに教室から駆け去る先輩の、とても良く通る腹式発声が響いた。
「 でも次からはもうちょっと優しい言いかたにして ! 」
【 11 】
昼休みの僕に取れた行動は 『 みんなからの質問責めとかアドバイス責めとか単なる責めを避けるため部室に逃げ込んで頭を抱える 』 の一択だった。
パン買うつもりだったけど、生徒密度高めの購買スペースに自分から出向いて注目を集めるのもバカバカしい ‥‥‥ 昼の食事は諦めよう。
先輩の思いっきり不用意な一言と、クラスメートの想像力過剰な憶測から始まった無責任な噂は午前中一杯かけてアップグレードを重ねつつ猛威を振るって、今では学校中に広まっている。
─── ヒロイン役の演劇部部長は、何か知らんけど積極的じゃなかったらしい。
─── 主役を担当する一年生は、何か知らんけど優しくなかったらしい。
→ 何か知らんけど部長かわいそう一年許せねえ。
こんな感じの流れができたところで、学校サイトは公式扱いの表ページだけでなくフリーさが高い裏の方も、うちのクラスのスレッドには僕あての非難書き込みが殺到した。
それは上演の詳細が知られ始めた夏休み以降、これまでもちらほら舞い込んでいた劇の配役をネタにした冷やかし風のものではなく、今回は、先輩と僕が部活以外の私的な関係面で何かあったらしい ‥‥‥ という思い込みによる反感が、にわかなプチ炎上の原動力になっているみたいだ。
大体九割のメッセージがストレートに 『 なんか知らんが死ね 』 な内容で、残りは 『 分際はわきまえた方が良いと思うので死ね 』 『 誰が誰を好きになっても自由だが死ね 』 『 下級生が学校のアイドル的三年生にアプローチするという、無駄だと分かっていても諦めないチャレンジ精神にとても感動し、勇気をもらいました。 死ね 』 みたいな、変則的 『 死ね 』 だった。
初めのうちは自分なりに事態を収拾しようと火消し対応を試みてはみたが、怒りのコメント数があまりに多過ぎて僕は途中から誤解を解くための丁寧な説明をするのに疲れ、最後にはサイトを見るのもやめた。
実際に起きた事の一部始終を書くなんて言い訳めいているし、噂が過熱しきっている今となってはどうせ逆効果だろうし、第一それは、本当にする必要があるのかどうかも分からない不特定多数への説明の中で、自分だけでなく先輩の振る舞いに触れる事にもなる ─── ちょっと嫌だった。
もともと先輩のファンは男女・学年を問わずかなり多くて、しかもそれなりに熱心で時として迷惑だという学内事情は、劇中のキスシーンに向けられてきた興味本位の反応を見ればある程度までは分かっていたつもりだったけど ‥‥‥ この騒ぎの大きさは考えていた以上だ。
精神ダメージと引き換えに、僕は一気に有名になった。
【 12 】
「 やったね ! 何でだか知らないけど、学年関係なしに演劇部がすっごい話題になってるよ ! 」
誰もいない部室の静けさにホッとした僕が長机脇の椅子に腰を落ち着けるのとほぼ同時に、副部長が満面の笑みで ─── 今の僕が一番嫌いなフレーズ、『 なんか知らんけど 』 的な言い回しとともに ─── 部室に駆け込んで来た。
掲示板の暴言ストームに疲れきって、生気の失せた顔に縦線効果が付いている僕とは雲泥の差だ。
「 劇の注目度も上がっててびっくり ! もう苦労して宣伝する必要なんてないかも ! 」
‥‥‥ 悪い注目度だと思いますけど ‥‥‥ 昼食を食いっぱぐれたせいもあって、のろのろと呟く僕からの返事を形だけ聞いてから、副部長は再び元気にまくし立てる。
「 部長本人が注目されるのは、実を言うといつもの事なのよ、やっぱ綺麗だし絵になるし。 でも今回は、共演者の君までついでに話題になってるわけ ! これって凄いよ !
知名度に釣り合いが取れて、キャスティングに説得力が出てきた感じなの ! 」
それ全部、誤解がきっかけです ─── 僕は弱々しく否定した。 副部長のハイな気分に水を差したくはなかったけど、この人には最低限の経緯を知っておいてもらわないと。
先輩と僕が朝に交わした会話の断片だけが一人歩きしている事、口から出まかせのいい加減な嘘が大量生産されている事、どんなに説明しても無視されてしまって騒ぎに手がつけられなくなっている事。
‥‥‥ 聞く耳を持たない人って、怖いですよね ‥‥‥ しみじみ絞り出した感慨を受けて思慮深くうなずくと、副部長は励ますように僕の肩へ手を力強く置いた。
「 説明してるのに無視するなんて良くないね 」
そして、三たびクラッチしてまくし立てに戻った。
「 でもそれはそれとして、この盛り上がりっぷりなら公演当日にはきっと立ち見が出ると私は見たわ ! そして断言するよ、この劇は、絶対に今年の文化祭の目玉になる ! つまり、演劇部が始まって以来の快挙なのよ ! これってあれじゃない ? ! 伝説 ? 伝説になるってやつじゃない ? ! 」
今言ったこと聞いてました ?
「 はっそうだ ! 講堂のフリースペースを、通路と観劇用部分に区分けするロープかなんかを今のうちから用意しとかないとまずいかも ! 」
‥‥‥ あなたが現在とっている態度を '' 聞く耳を持たない '' と言います。
しかしその抗議を実際に指摘する間もなく、副部長は戸棚の紙束を抱えると慌ただしく部室から出て行ってしまった。
あれは多分、今回の劇に合わせて印刷しておいた告知ポスターだ。 宣伝する必要は無さそうだと言ってはいても、やっぱり出来る事はきっちりやり切ってから本番当日を迎えたいのだろう。
裏方に徹する補佐役としては頼もしいけど、残念ながら副部長が噂の打ち消しを買って出てくれそうな気配はなかった。
するべき事も食べる物もない今の僕としては ‥‥‥ 寝よう、午後まで。
【 13 】
数分ほどすると、部室のドアがもう一度開けられる音が机に突っ伏す僕の頭上を静かに通り過ぎた。
「 あ。 本当にいた 」
先輩だった。 伏せ寝の体勢から顔を上げる僕を、ドア枠の境目にすらりと立ったままで面白そうに眺めている。
'' 本当に '' と口にしているってことは、聞いた話の内容を確かめに来たという意味あいなんだろう。 校内のどこかでポスター貼り中の副部長と会って、その時に僕の話題が出たに違いない。
「 それに、お昼も食べずにしょんぼりしてるのも本当みたい 」
彼女は誤解同情を集める立場のせいか、誤解ヘイトの的にされている僕よりもずいぶん気楽に見えた。 この人はネットとかを自分から熱心に見て回るタイプではないみたいだし、おそらく今の騒ぎについては書き込まれたものを直接に読んでいるわけではなく、人づてであらましを聞いて漠然と知っているだけなのかもしれない。
「 ねえねえ、もしかして落ち込んでる ‥‥‥ ? のかな ? 」
少しカチンと来た。
そりゃまあ ‥‥‥ たっぷり一生分の 『 死ね 』 を名指しで食らったわけですからね、落ち込みもしますよ、と応じる僕の話し方が、抑えようとしても投げやりな険しさを帯びてしまう。
感じている悔しさや、一方的に何かを決めつけられてしまう理不尽さへの不満は、言うまでもなく無数の匿名書き込みとそれを送信した奴らに対してだが、0.5 パーセントだけ ‥‥‥「 先輩がわざわざ一年生の教室まで出張って来てあんな事を言うからです気を付けてくださいチッまったく 」 風な気分を口調に混入させてみた。
「 確かに ‥‥‥ うん。 確かにそうね 」
人ごと気味に微笑んでいた先輩は僕の愚痴を肯定すると真顔になって、短くもう一言、「 ごめんね 」 を付け足した。 それから握ったままのドアノブを何度も無意味に回したり止めたりしながら 「 私、朝のうちに、どうしても君に会って話がしたくて ‥‥‥ 放課後に部活で顔を会わせるまで、待っていたくなくて 」 と打ち明けてくる。
見えにくい。 良く観察すると先輩の体が、半開きになったままのドアの裏にだんだん隠れていくところだった。
「 あんな風に目立つのが周りの人たちからどういう受け取られ方をするかって事まで、考えてなかったの ‥‥‥ ごめんなさい 」
あ ‥‥‥ あれ ? まずい、クレーム成分高すぎたのかな。 ひょっとして、僕言い過ぎ ?
なんとなくだけど、先輩には誰がどんな文句を言って来ても意に介さず常に明るく、そして悪びれず開き直ってみせるようなイメージがあった。 今朝といい今といい、こんな感じで素直に謝ってくるのって予想外だ。
しかも年上の女性にこうまでしおらしく出られてしまうと、なんか僕の方が、自分に降りかかったトラブルを目上の人のせいにしようとする器量の小さい男に見えてくるマジック。
まずい。
い、いいえ ! 先輩が気にする事じゃありません ─── あああ、思わず大声でフォローしてしまったくっそう。
さらにもう一声を期待するような表情の先輩という名の原因に向けて、ああいうネットの暴言は、書く方が悪いんですから誰のせいでもないんですよ ‥‥‥ って、なるべく優しく聞こえるようにああくっそう。
‥‥‥ 会話の流れ的に、そうするしかない法則。
するとドアノブのカチャカチャをリズム良く終わらせた先輩は 「 そう言ってくれると、私、気が楽 」 と話題と雰囲気の両方を切り換えたように、やっと部室の中に入って来て長机を隔てて立つと、大きくふくらんだスカートのポケットから何かを取り出しながら僕の真正面に座った。
「 でも、昼ごはん抜きなんて可哀相だから一食おごってあげる 」
おなか空いてるでしょ ─── 少し安心した眼差しでふんわり笑う彼女が机の上にコトリと置いてくれたのは、一個のカップラーメンだった。
【 14 】
「 それにしても 」
カセットコンロを片付ける僕の背中に、軽い上から目線の説教モードに入った先輩からのダメ出しが投げかけられてくる。
「 ネットの掲示板で叩かれたくらいの理由でパン買うの諦めるなんて変だよ。 君って意外に、他人の評判とかを気にしちゃうのね 」
振り返ると、熱湯を注いだカップ麺の紙フタを両手の指で一心に押さえている先輩が、壁時計をにらんで秒針の動きを律儀に追い続けている。
「 私だったら、どうでもいい相手から何を言われてもきっとスルーできるわ 」
フタの隙間から湯気が洩れないように一生懸命になっている姿はいかにもカップラーメン食べ慣れていない感じで、そんな子供じみた真剣さがかえって可愛らしかった。
「 誰の意見なのかも分かんない悪口なんて無視すればいいの。 要するに、気にしすぎ 」
猫背のフタ押さえポーズと大人な処世観にギャップがあるものの、ここは異を唱えることなく 「 はい 」 の一言だ。 昼食抜きで空腹だった僕からすれば、今のこの人はカップラーメンを恵んでくれる神、いや女神。 どんな教義にでも同意できる。
「 てことは君の性格には、目立つのを良しとしないような控えめな一面があるんだよ ‥‥‥ 人目を無視しきれないの 」
はいそうです女神気をつけます。
「 君は舞台の本番だと人の多さに呑まれて上がっちゃったり、段取り崩すのを怖がって自分からアドリブやとっさの判断をためらうタイプかもしれない ‥‥‥ これは役者としては欠点かもね 」
その通りです女神いつか直します。
「 ‥‥‥ 良し、できあがり。 三分経ったよ 」
ありがとうございます女神いただきます女神。
だが大喜びで手を伸ばしたカップ麺には、まだしっかりと先輩の指が掛けられたままだった。
正面に腰を下ろした彼女は長机越しに、けっこう近くからじっと僕を見て思案顔になっている。
あのう、女神。 ‥‥‥ えっと、あの。
「 なに ? 」
‥‥‥ ちょっと、その、ここだと近いので。
ラーメンを窓際の辺りまで持って行って、女神から少し離れた所で食べてもいいでしょうか。 ここで食べると、真ん前に座る女神の顔が近過ぎてさすがに気まずいです ─── これをどうやってスマートに言おうか考えていると、先輩は不思議そうに小首をかしげてから、すぐに僕の言いたいことを察して少しだけ赤くなった。
「 あ、ああ、そういう事ね、うん 」
女神ならわかってもらえると信じていました。
では。 ぐ。 あれ。 ぐぐぐ。
動かない。
良く見るとカップ麺を聖なる力で守護する先輩の指先には、さっきより更に強い意志が加わっている。
「 いいこと考えた 」
‥‥‥ 女神 ?
「 欠点は克服しよう 」
は ?
先輩は急にくすくす笑い始めると ─── それは 『 くすくす 』 というより、聞きようによってはもはや 『 くくく 』 と形容すべき剣呑な笑い方だったけど ─── いきなり気まぐれな神託を下してきた。
「 ラーメン、動かしちゃ駄目。 私の目の前で食べなよ 」
なっ何言ってんすか女神 ? !
「 これは ‥‥‥ そう、言わば、人目を気にしなくする練習ね 」
「 ‥‥‥ 」
「 別に昨日の仕返しとかじゃないよ 」
「 ‥‥‥ 」
「 早くどうするか決めないと麺がのびると思う 」
「 ‥‥‥ 」
「 食べないなら私が食べちゃう 」
‥‥‥ 食べます。
【 15 】
「 フォークで器用に食べるわね 」 ずずず。
「 そこに浮かんでるのはエビなの ? 」 もぐもぐ。
「 自分で選んどいてアレだけど。 バジル味噌しめじ味て 」 ずー、もぐもぐ。
「 奥歯に銀歯見っけ 」 ごくん。
‥‥‥ どういう罰ゲームだ。
長机に肘をつき、組んだ指にほっそりした顎をちょこんと乗せた先輩が至近距離からそんな感じに色々話しかけてくる中で、僕はカップ麺をなんとか食べ終えた。
こんなんで人目耐性つくのかな ‥‥‥ そんな疑問を感じつつも感謝を示した僕のご馳走さまでしたを合図に、先輩もぐぐっと伸びをしながら椅子から立ち上がる。
「 ん、んー。 ‥‥‥ どういたしまして。 私は先に行くね。 放課後の練習で、また会いましょ 」
どことなく満足そうに見える態度が、ちょっと悔しい。
「 そうそう、放課後の練習っていえば ─── 今日のリハーサルが、大掛かりな準備としては最後になるわね 」
リハーサル。 それは今の僕たちにとって、やや微妙な話題だ。 先輩の劇への取り組み方は、どう変化するんだろう ‥‥‥ どんな表情で言っているのかを確かめてみようと見上げたタイミングで、先輩の制服が反った背と上へ伸びる腕の動きにつれて広く開き、カッターシャツのぴっちりかかった腹筋の起伏だとか顕著過ぎる胸の起伏だとかが、布皺の乱れを押しのけて色々と浮かび上がる。
僕は自分も椅子を跳び立って距離を取り、もう少し上にあるはずの先輩の顔と目の前のボディラインから慌てて視線をそらした。
「 本番のつもりで、一緒に頑張ろう 」
気付けば昼休みの終了を告げる予鈴が遠くで鳴り出していて、先輩はもう背中を見せて歩き始めている。
「 ああそれと 」
ドアの手前まで進んだ所で先輩は軽やかにくるっと回ると、透明感のある声を迷い無く響かせた。
「 もう昨日みたいな事、言わせないから 」
上半身を微かに傾けて自信たっぷりに僕を見上げている瞳はきらきらと澄みきり、失意や諦めの色などまるで窺えない。
「 君がどんなに意地悪になったって褒めたくなるような私を見せてあげる 」
この人が半日をかけて伝えたかったのは、結局のところ今の一言だったのかもしれない。
僕は黙ってうなずいた。
【 16 】
『 見て、煙よ ! モン・リッゼールの峰に狼煙 ( のろし ) が ─── 勝ったんだわ ! 』
リラックスした感じで講堂に現れたジャージ姿の先輩は、特に改まって前説をすることもなしに、開幕一声目のセリフを力強くそう叫ぶと最後のリハーサルをいきなりスタートさせた。 家族役を担当している他の演者たちを大きな仕草で呼び招きながら、その幕場で川岸に見立てている舞台前方の縁 ( へり ) ぎりぎりまでヒロインは笑顔で走り寄って行く。
戦火におびえて描き割り背景の奥に縮こまる家族たちをもどかしそうに何度も振り返り、時おり背を向けたままステップして何の目印もない舞台の外縁へと近付く先輩の大胆な足運びに驚いた演出係が、あ、と声なく口だけを動かすのが見えた。
脚本上、ヒロインと客席の間に横たわるのは浅い小川 ─── 舞台と講堂の床を隔てて垂直に落ち込む 1 メートル半近い段差ではなく、軍隊向けの渡河点を探して斥候にあたる主人公ともうすぐ出会う事になる、西フランスの農園地帯を流れるごく浅い小川だった。
ごく浅い、小川。 だから彼女は舞台縁に近付くことを特にためらったりしない。 そして、その場面ではできる限り前方へと出て演じることで観客との距離が縮まり、臨場感や訴えかける力もその分だけ強まり得る ‥‥‥ らしいが ‥‥‥ そこは、今まで先輩が踏み進めずにいた領域だった。
人気だとか注目度の大きさだとか部長の肩書きだとか、先輩のそういった評判のもろもろがどんなものであれ、その辺はやっぱり高校三年生の女子としては仕方のない反応になる。
あまり前には出ない ─── 怖いのだ。
舞台で強い光を受ける中から役者が見下ろす客席最前列近くの影は段差のせいでとても黒々としていて、そこは本来の高低差より深く大きく見えてしまうため、学年とか性別など関係なく、誰であっても怯んでしまう。
また、ここで問題なのは恐怖心だけではなかった。 もしも端に近付き過ぎて足を踏み外し、まかり間違って下に転げ落ちでもしたら講堂は恐らく先輩のファンが上げる悲鳴で騒然となり、劇は一時中断になるだろうし関係者スクランブルでその場を取りつくろう事になってみっともないだろうし、何より危ない。
これが演劇専用に設計された本格的な舞台であれば、縁の近くには目立たない溝を支えとして小型照明を取り付けられるクランク・レールや、床表面の仕上げを粗くして靴を滑りにくくした帯状の部分があらかじめ作られているため、役者は足の感覚だけで 『 舞台の果て 』 を知ることができるのだが、平凡な公立高校の施設にそこまでの用意を望むのは無理というものだった。
そこで、演出係を含めた演者全員の総意として、この要素については 『 特にこだわらず、本人が行けると思う所まで行く 』 ということで、前方への位置取りは当事者の先輩任せになっていたのだが ‥‥‥ ヒロインは今、何の屈託もなく舞台端ギリギリを動きながらフランスの小さな反撃をたたえている ─── まるで危うさなど物ともせず、奈落の淵に立つことを楽しむ不敵な軽業師のように。
昨日までの先輩は常に縁まで 1 メートルほどを残した辺りで止まり、十分な余裕を開けて役を演じていた。前に出ることを意識し過ぎて固さが出てしまうよりも、安全な内側で伸びのび立ち回る方が確実だと ─── 特にこだわる事はないと ─── 考えていたはずだ。
しかし最終リハーサルで、彼女はその課題を、一人で楽々と乗り越えていた。
『 お姉ちゃん危ないよう、川に落ちちゃうよ 』
『 お嬢さま、お気をつけなさいまし ! 』
『 イングランド軍が撤退したわけでもないのに大仰に浮かれおって ‥‥‥ こっこれ、もう少し淑女らしくせぬか ! 』
妹役と召使い役、そして父親役のセリフが、今にも舞台から飛び降りそうなくらいに川岸、つまり客席へと身を乗り出している先輩の自信ありげな笑みによって別の方向から生活感の色彩を与えられ、説得力を形づくる。
先輩はそのシーンだけで、一気に表現してしまった ─── ここにいるのは自由に育った勝気な長女、おとなしい次女と召使いに堅物の農場主だと。
不思議だった。 今までとは全体の雰囲気がまるで違う。 何度も練習を重ねてきて聞き慣れたはずのセリフ、見慣れたはずの動作が、彼女をフィルターとして新しい何かへと、いや、「 劇 」へと、変わりつつあった。
それは先輩が持つ外見の美しさが作り出す、一人を焦点とした華やぎではない。 感情表現の巧みさだとか発声の安定感のように個別の評価ができるものでもない。 演劇の分野でごく稀に誰かの身に宿る、舞台に点在する役者たちの演技を自分へと収束させて意味と役割を与え、観る者へと再び投げ掛ける選ばれた才能だった。
そして、先輩が最終リハーサルにわざわざ前説の時間を取らなかった理由に、皆が気付き始める。
必要なかったのだ。
'' 私は特にこだわらなくていい事にも本気でこだわって頑張るよ、こんな風に、こうやって '' ─── こんな風に。 先輩は笑顔と数歩多くした足運びだけで、自分のメッセージを演劇部全体に宣言していた。
さあ、劇を始めようよ、と。
【 17 】
僕ごときが先輩の劇への取り組み方を心配するなんて、おこがましかったな ‥‥‥。
昨日の余計な一言は的外れで、先輩を混乱させただけだった。 舞台袖の掃除用具立て掛けスペースに引っ込み、最終リハーサルを見守る一団の中に埋没して自分の身の程知らずをつらつら ( 主人公の戦死シーンを済ませて暇になったので ) 、しんみりと反省する。
もう場面は終盤だ。 愛を誓った恋人は世を去って久しく、その恋人が命を投げだした戦争の結末も老人の語り草と成り果てた後の時代。
『 死 ‥‥‥ 死 』
ベッドを捉える細く絞った光の筋が、徐々にその輪を小さくして、横たわるヒロインの上半身だけを浮かび上がらせていく。
『 死は、死とは ‥‥‥ ただの扉だわ。 私は怖れずに扉を開けるでしょう。 そして会いに行くのよ、私を待ってくれている人に 』
ヒロインが、その人生を老齢による穏やかな形で終わらせるラストシーンで最後のセリフを発し終え、体から力を抜いて全てを演じきったところで、講堂のいたる所から期せずして拍手がわき起こった。
手を叩いているのは、身内の演劇部員だけではない。 助っ人として手を貸してくれている映画研究部や放送部、服飾研究会の面々も含めた関係者が総立ちになり、中には涙ぐんでいる女子生徒までいる。
どうなるか知っているはずの物語を、舞台効果の大部分を温存した中で演じたジャージ姿・ノーメイクのヒロインに、この場にいる人たちは今、間違いなく心を奪われていた。
これがリハーサルなのだという事は、きっと誰もが分かっている。 それでも皆に手元の作業を中断してまでも称賛を贈らせてしまうだけの輝きが、先輩にはあった。
やっぱり、すごい人なんだ。
【 18 】
やがて後片付けに取り掛かる人の動きと、先輩を中心に集まり始めた人の輪で急に賑やかな場所と化した舞台の隅っこで、僕は目の前で起きていた事にまだ圧倒されたままでいた。 先輩の方に足を進めようとしているのに、誰かをよけたり誰かに押されたりで効率かなり悪めに、結果として無意味なウロウロが続く羽目になっている。
でもとにかく直接はっきりと、ヒロインすごく良かったです、と言わなくちゃいけない。 昨日の帰り道で無神経に口走った一言の手前、そしてその言葉が完全に間違っていたと分かる最終リハーサルの出来映えを見れば、僕には最低でも先輩にそう伝えるべきだという使命感めいたものがあった。
「 釘ー ! 釘に気を付けて運んで ! 釘ー ! 」 あった、けど ‥‥‥。 すぐ横を通って運び出される危険度レベル 8000 の大道具、ザ・釘玉座。
「 ペンキ塗り足した所だけ乾ききってないから触る前に地図見てね ! ペンキ地図作ってあるから ! 」 おおう。 持っていい部分が限られた背景パーツトラップ。
「 パラフィン紙と和紙の包み順、服の生地ごとに違うって言ったっけ ? ! 言ったはず ! ! 言ったよ ! ! ! んじゃ今言うわね実は違うの 」 おおうう無理からぬブーイングと未だ全員分の丈合わせが済んでいなかった脇役用衣装の展開そして再収納。
気付けば今や、先輩ですら雑巾を片手に拭き掃除の受け持ち場所を確認していた。 他の女子部員に指示を出しながら、率先して床の汚れを拭いていく。 あ、そうか。 そのためのジャージか。
‥‥‥ 今は感想どころじゃないな ‥‥‥。
作業時間が限られている放課後の今は、後片付けの方が目下の急務だった。 特に僕は生息数の少ない男子演劇部員で、しかも主人公役とはいえ一年生だったから、重量レベル 6 、危険度レベル 20 以上の人工物体は全て自分から運び出さないと存在価値が問われてしまう。
僕が持ちます、と声を掛けて取りあえず一番重そうな鉄パイプ暖炉に手を伸ばすと、それを一人でズリズリ動かそうと苦闘していた村娘役の二年生さんがほっとした笑顔で振り返った。 半分幽霊系部員の、確か、いつもはコーラス部メインの細めな人だ。 この人と僕の二人だけで運ぶのはきついかな ‥‥‥。
せーの、で持ち上げたところで、「 君の主人公も堂々としてたね。 夏休みの頃とは違って、すっごく上手くなっててびっくりしたよ 」 と思わぬ好評価をしてくれたためテンションが無駄に上がって、これ意外と軽いから僕だけで運びますよ大丈夫ですようわ軽いわこれハハハと言ってしまった。 重量レベル 8500。 人は褒められると、伸びる。 あるいは、褒められると、運ぶ。
【 19 】
結局、最終リハーサルの片付けと整理が完全に終わってホッとできたのは、本来の下校時刻をだいぶ過ぎてからだった。 空が暗い。 演劇部以外のスタッフさん達には早めに引き上げてもらい、後は外廊下の掃除に使ったデッキブラシを洗うだけとなったところで女子部員勢が制服に着替えるため部室棟へ集団移動。
そこからは、講堂は急にがらんと寂しくなった。 用具室の施錠や職員室報告で僕以外の男子部員は散りぢりになり、僕は一人で講堂の体育館部分を消灯して回る。 夜の学校には違和感あるけど、本番前のこういう雰囲気もひっくるめたのが高校の文化祭なんだろう。 悪くない。
次から次に雑用をこなした末に、ようやく一息つけた僕が講堂の外にある水飲み場で手と顔を洗い終わって視線を動かすと、探そうとしていた先輩は本校舎に繋がる渡り廊下の柱に制服姿で静かに寄りかかって、もうこっちを見ていた。
いつから背後を取っていたのか知らないけど、どことなく 「 ふふん 」 て感じの、「 何か言いたいことはないかな ? 」みたいな、ちょっと澄まして得意そうな表情だ。 バジル味噌しめじ味顔だ。
でも、当然と言えば当然かもしれない。 先輩が見事にやってのけた今日のリハーサルは劇に関わる全員に自信を与え、良い意味で緊張させて文化祭本番へと鼓舞した。 プロの演出家がたまに使う、劇が 『 仕上がった 』 という言い回しに近い状態に僕たちは入っている。
これは間違いなく先輩のおかげだった。
【 20 】
「 ‥‥‥ 」
見つめられて、なんとなく落ち着かなくなった気分をハムスターっぽくタオル顔ごしごし動作でやりすごす僕に、柱を離れた彼女は黙ったまま近付いて来る。 目の前まで来て足を止めて ─── それでもまだ、先輩は僕を見上げたまま無言でいた。
「 ‥‥‥ 」
あ。 待ってる。 これは先輩待ってる。
今この人が不自然なくらい何も言わないのは、僕の方から称賛の口火を切らせたいからなんだろう。
不釣り合いだけど、先輩と僕は今回主演ペアだ。 だから相手役として、気の利いた一言で共演者の演技を称えるのは当然の礼儀だと言っても良かった。 第一それこそが、僕がさっきから先輩に伝えようとしていた事だったわけだし。
でも、どんな風に褒めようかな ‥‥‥ リハーサル直後と違って、中途半端な長さの時間を挟んでからこうして改めて二人きりで向き合うと、悪い意味で少し冷静になってしまう。 取りあえず僕の口から出て来たのは ‥‥‥
お疲れさまでした、ヒロインすごく良かったです、の凡コメント。
「 ‥‥‥ 」
‥‥‥ き、基本は大切だ。 ここから展開していけばいいんだ。
「 えー 」
それなりの期待感を隠そうともしていなかった先輩から、最高のがっかり笑顔で強烈なリターンを決められてしまう。 ありがちコメント罪にもかかわらず先輩がまだ怒っていないのは、きっと執行猶予がついたからだろう。 大丈夫、時間はたっぷりある、先輩の御機嫌 HP も高い、すぐに言い直そう。 えーとー ‥‥‥‥ ラ、ラ ‥‥‥
ラストシーン、感動しました。
「 ‥‥‥ 」
なんか一瞬ぴくっとしてから半笑顔。
「 んもー、それだけなのー ? あんまり普通で逆にびっくりだな ‥‥‥ ね、君は主人公なんだよ ? 一番近くで私を見てたのに、出てくる感想がそんな ‥‥‥ ぼー、んー、コメントってー。 駄目、もっと他のこと言って 」
そういうのは聞きあきた的腕組みポーズの無慈悲リターンウィズ説教。 一応心から言ってるんですけど ‥‥‥ これも却下ですか。 ゲームブレイク寸前だ。 うーん、どう褒めるのがいいんだろう。 えっと、こうなったら ‥‥‥
本当に今までで最高の出来でした、すごいです神です、何もかもが文句無しに素晴らしかったです、尊敬します完璧です演劇の歴史は今日を境に新しい時代に突入するのですそうでしょうかそうですともと言ってみる。 無差別ほめ爆撃。
「 ‥‥‥ うん 」
先輩はクルっと体を回して背中を向けた。
「 うん。 ありがと 」
‥‥‥ あれ ?
この時僕には何となく、僕の位置からは見えない先輩の顔から、表情が消え去ってしまったような気がした。
褒め言葉に照れているとか、成功が確実になった満足感を隠そうとしたとか、そういう理由じゃない。 まるで僕の言葉をきっかけにシャッターが閉まるみたいに、先輩と僕の間に、縮められない距離が生まれた感じだった。 無理に言葉にしようとするなら ─── 疎外 ─── だろうか。
まずい事、言っちゃったのかな。
あの、とか、ええと、とか何とか、意味のない言葉を並べて取り繕おうとする僕に、先輩は後ろ姿を見せたままでとても優しく 「 君の方もなかなかだったね。 良かったよ 」と凡コメ返し。 もしかすると軽いやり取りに逃げる機会をくれたのかもしれない。
僕が乾いた声で、先輩だって凡コメントですよね ‥‥‥ と仕方なく応じたところで、
「 おーい ! おーいー ! 」
騒がしい声とセットで、僕の視界端に縦円残像で光るメガネ。
副部長だった。
「 あっ部長ーっ ! ! ラッキーです、もう遅くなったからって事で、運動部の先生が駅までミニバン出して送ってくれるって ! ! 女子優先ですー ! 」
副部長だ。
「 そう、今行く ─── 今行くよ 」
そんな風に返事をした先輩は、明らかにこの場の興味をそっちに切り換えるふりをしていた。
「 早くー ! 」 走る副部長だ。
「 あわただしいわね ‥‥‥ 待っうわちょ 」
「 急いで時間無いです急いでー ! 」 より正確には、先輩をガシッとつかんで疾走するトゥーミニッツウォーニングノーハドル副部長だ。
「 さあこっちですよ部長 ! 電車で帰る女子しゅーごー ! 集合だよー ! 」
段取り優先で動く副部長の絶対的アブダクションパワーによって、ドナドナ仔牛のように問答無用で連れ去られる先輩。 でも最後になんとか振り返って、どことなく救われたように僕へと手を振る先輩は落ち着いた表情だった。 多分僕たちは二人とも、この会話が途中で終わった事にホッとしている。
副部長、ありがとうございます。
【 21 】
次の日。 文化祭をいよいよ明日に控えての最終ミーティングは、発表系文化部としては定番となる、
『 頑 張 ろぉ ー ぅ ! ! 』 『 お ー ! ! 』
の儀式があった他は、普段の部活よりもむしろ簡単に済んだ。 特に僕たち演劇部は他の部と比べてスケジュール進行が理想的で、準備も練習も、昨日のリハーサルがピークだったから何もする必要がなかったのだ。
練習三昧だった昨日までよりも早めに校門を出た僕をはずむ足音だけで呼び止めた先輩は、小走りで横に並んで来ると、「 あのね。 昨日の帰り際に、気付いたの。 君の言葉で気付いた 」 と前置きなしに打ち明けてきた。
「 私やっぱり、'' 完璧 '' な場面作りがしたかったんだな、って。 リハーサルが上手くまとまった程度で満足してちゃいけなかった。
トータルだとちょっと負けた気分、残念な気分 ─── もちろんベストは尽くすよ。 でも正直に白状するなら、今はそんな感じ 」
先輩と僕の間でそういう始まり方をする話題はただひとつ、学校からケチを付けられた例のキスシーンしかない。
そして僕は、自分が軽はずみに口にした「 完璧 」が藪ヘビNGワードだったと知って内心で後悔しながら、学校の施設を使わせてもらってる部活の劇なんですから多少の手直しは仕方ないですよ ‥‥‥ みたいなボンクラ意見で、なだめ役に回るしかない。
「 わかってるけど。 そういう正論で押されちゃったら、引き下がるしかないけど ‥‥‥ 」
そこまで言ってから先輩は少し乱暴に、
「 なんだよもう。 わかってるよそんなの、でも私だって少しぐらい言いたいこと言ってもいいでしょ 」 と開き直ってくる。 なだめるのは失敗。 でも、こんな感じで僕が小さな不満の聞き役に回る方が、上辺だけで同意するよりずっといいとも思う。 僕はいつの間にか、この人が本気で怒っているのかどうかが分かるようになったみたいだ。
並木道の先を軽くにらみつつ少し口を尖らせて愚痴る先輩は、部長としての肩書きを今はオフにしているようだった。
「 ‥‥‥ 悔いを残したくなかったんだって本音を、君には伝えておきたかっただけ 」
傾き始めた日差しを受けて落ち葉の上を歩く先輩の足取りは、いつもよりも少しのんびり目だ。 そんな感じで取り留めのない話をもう暫く続けてから、やがて僕たちはどちらからともなく練習に入った。
【 22 】
その後は駅に着くまで、先輩と僕は秋の夕暮れの中を小声よりもさらに声を落として、互いの肩を近づけ劇中のセリフをひたすら愚直に掛け合い続ける。 声量は段々と小さくなっていき、最後には二人ともほとんど無音に近く、口の動きも微かなものになった。
それでも不思議とお互いに相手の言葉を受けそこなう事はなく、ついに一つのミスもしないままアーケードの改札を通り抜けて、僕たちは夏以来続けてきた長い練習を終えた。
感謝の気持ちを込め少し真面目に頭を下げるとびっくりされて、「 やだやめてよ 」 とぽむぽむ背中を叩かれる。 照れて笑う先輩に、愚痴を言う気配はもうなさそうだ。
吹き抜けコンコースでそれぞれのホーム階段へと上がって行く別れ際に、先輩は気持ちを切り替えた口調で 「 明日は頑張ってね 」 と明るく励ましてくれた。
はい、と軽く一礼して階段を登って行こうとした僕だったが、目の前の先輩の陽気さがどこか捉えどころのない所在無さげな揺らめきを帯びたようで、その意外すぎる弱々しさに思わず、踏み出しかけていた足が止まる。
それは直前までの口調とは奇妙なくらい繋がりのない、ちょっと困ったような、思いつきを持て余すような、少し複雑な微笑みだった。
まだ会話が続くのだろうか、と体を向け直して待つ僕に気付いた先輩は小さく口を開きかけたように見えたが、すぐに、考え直した事がわかる眼差しとともに普段の表情を取り戻すと、なんでもないよ、と肩をすくめただけで踵 ( きびす ) を返し、強く広がった黒髪が落ち着く間も見せず曲がり角の先へ消えて行く。
何か、もっと僕に言っときたい事でもあるのかと思ったけど。 気のせいかな ─── 自分だけポツンと立ち尽くしたまま、考え過ぎを自戒する。 気のせいだな。
そして再び帰宅に使うホームの方へと向き直り ─── そこで初めて、自分がその階段を登る動作の違和感に、高まる焦燥感に、僕は気付いた。
足をそっちに動かしたくない。 なぜなら ‥‥‥。
僕は先輩から貰える言葉を聞くために立ち止まったんじゃない。
僕があの人に、伝えたい事があるから止まったんだ。
気のせいじゃない。
確信した瞬間、僕は向きを変えて走り始めた。 なぜそう思えるのかについての理由が曖昧なまま、先輩の後を追いかける。
言おう、何かを。 何を言おう ? 何かを伝えなければならないと感じつつ、一度も立ったことのないホームへ勢い任せで駆け上がってみると、少し遠めの場所に立っていた先輩は驚いた顔で近付いて来た。
「 どうしたの 」
ちょうど到着した電車を気にする事もなく、息を切らしかけた僕に問いかける。 車両がホームに進入する時の音と風が収まって、深呼吸をした僕が前かがみの状態から背筋を伸ばすのを見守る先輩は、すでに上級生かつ演劇部部長としての落ち着きを取り戻していた。
そして僕の方は、告げるべき価値のある言葉を思いつけず数秒のあいだ棒立ちになっていたが、やがて気まずさに焦る口が勝手に動いて ───
明日は先輩も頑張ってください、とだけ、それだけを、やっと言えた。
必死の 凡 コ メ ン ト 。
ああぁ、またやってしまった ‥‥‥ これは、平凡にもほどがあるって突っ込まれるレベルのひと言だ。 わざわざ追いかけてまでして伝える内容じゃない ‥‥‥ 僕は自分で自分に呆れかける。
でも先輩はなぜかこんなありふれた言葉を聞いた途端、このホームに僕が現れたのを見た時よりもびっくりして息を呑んだ。
そして絶句したまま少し挙動不審なくらい眼を泳がせてから、うつむき加減でこくっとうなずいた。
「 うん 」
顔がだいぶ横向きにそらされた状態で発された小声なので自信ないけど、これ多分僕への返事だと思う。
「 ‥‥‥ 頑張るよ 」
会話としてはそこまでだった。 先輩は、私急用あるから、忙しいから、みたいな意味の事をもごもごと呟いて、体幹が前方傾斜しそうなくらいの勢いでホームの先端部方向へと歩み去る。 次いで進行方向の先に設置されていた自販機の一台に気付くと、その陰に飛び込んでじっと動かなくなってしまった。
どうやら怒らせてはいないようだけど ‥‥‥ 呆れさせたのか、それとも困惑させたのか、分かりやすく距離を取られたって事は、少なくともそんな感じっぽい。
仕方なく、以上ですそれじゃ失礼します、と遠くから呼びかけてみると、自販機から生えた腕が綺麗に指をそろえた手の平だけを、こちらに数回ぎこちなく振ってくれた。
【 23 】
─── 劇の本番って言っても( 笑 )、要は客席に人がいるかどうかの違いしかないし ‥‥‥ 演じる当事者からすると退屈なルーチン消化 ? みたいな ? そういう一面もあるんですよ実は。 練習で何回もセリフは言ってるし聞いてるし、あとは位置取りぐらいですか、注意するとしたら。 そういう意味では自分を驚かせる要素 ? って考えてみたら何もないですね (笑)。
クラスメートとかによく聞かれるんですけど、ミスとか意識しての緊張とか気後れとか、そういうのは事前の練習が十分にできてれば、舞台にいる時は感じませんねほとんどね。 僕、ミスらしいミスってした事ないんで。 失敗とかを無くす事を目的に僕らはずっと練習してきたわけで、そういう意味では何も考えずその練習通りに動くのが、実はもっとも簡単なんですよね要は。
仮にまあ(笑)何かアクシデントが起きても、大抵はリハーサルのどこかで誰かが同じ事やってたりしますし、そういう意味ではアクシデントが起きても対処はすぐにできるんですよ逆に言えば。 トラブルとかはあったらあったで、それをどう活かすか ? っていうのも器量ですよね要は役者のね。 そうい「 ちょっと ? 」うのも含めて楽し「 あの、ちょっと ? 」まないと ───
「 ねちょっと ! 大丈夫 ? ! なんかずっと一人で送風調整紐に話しかけてるけど大丈夫っ ? ! 」
気がつくと、心配そうなメガネフレームが僕の肩をがくがく揺さぶっていた。 あ ‥‥‥ 副部長。 「 舞台袖まで来て緊張で自我喪失しないでね ! もうすぐだよ ! 本番だよ ! 」
‥‥‥ 僕は講堂の舞台脇、上手側にある掃除用具立て掛けスペースにしゃがんでいた。 暗くて狭いこの場所はいつの間にか、もうすぐ出番が来る僕が待機するための専用引きこもりポイントとして定着している。 ここに普段は立って待つ僕が、背を向けてうずくまってガクガクしているので不自然に見えたらしい。
「 おーい ‥‥‥ 」
だだだ大丈夫です。 緊張を和らげるために脳内名優キャラで脳内インタビューに答えてただけです大丈夫です。
「 そうだ、掌に人って書いて ‥‥‥ 」 すでに三千万人分くらい飲んでますので大丈夫です。
「 でも君、未知の熱病に感染したみたいになってるけど 」 この震えは武者震いです大丈夫です。 汗は武者汗です。 水とタオルもらいます。
ついにやって来た文化祭当日、劇の開演を控えた講堂は立ち見エリアまで人が一杯で、もう今さら来てもムダだ的な札止め放送が全校内に繰り返し流れるほどの活況を呈している。 プログラムの前後を音楽系の部活で構成して全体の流れに変化をつけているせいもあるけど、上演時間の割り当てや発表順を見れば、僕たち演劇部が今年のメイン扱いになっているのは間違いなかった。 見慣れた制服だけでなく私服も目立つ客席には、超満員ならではの、音にならない衣擦れや呼吸の気配がみなぎっていて、非日常の時間が始まるのを誰もが今や遅しと待ち構えている。
生徒会のタイムキーパーさん二人が舞台の両端でバサバサ、と厚めの白布をはためかせた。 準備完了の合図だ。
【 24 】
無人だった空間に、金髪の少女が小走りで現れる。 そして観客の頭上はるか彼方を指差し言う。
『 見て、煙よ ! モン・リッゼールの峰に狼煙が ─── 』
劇が始まった。
ラバノワドレス姿の先輩は、幕開け送りの拍手が残す少し軽薄な余韻を自分の一声だけで現実から遮断して、僕とは反対側の舞台袖を躍り出ると講堂全体に喜びを響かせた。 この物語の彼女なら、間違いなくそんな風にする ─── 拍手が完全に収まって静かになるまで控えめに出番を待つような事はしない。 先輩はすでに演技を始めるべき時の見極め方までも、ヒロインになりきっていた。 そのドレスは一流ブランド品に比べれば素材や仕立てこそ高校生の縫製レベルで多少見劣りするかもしれないが、身にまとう彼女自身の活力と美しさがそれを十分に補っている。 すごく可愛い。 凡コメントだけど。
「 スポット、アッパー気味だな 」
光に眼を細める先輩の変化に気づいた副部長が、すぐさま講堂二階廊下に陣取るスタッフさんにメールを打ち始めた。 「 もっと下げてもらおう 」
今動いているスポット照明はヒロインを講堂上部の左右から照らす、二本の手動ハロゲンライトだ。 天井固定のアーク灯とは別に先輩の動きを追う十字の光線が、演者の移動に忠実すぎる追い方でその姿を白い交差の中に捉え続けている。 それ自体は悪いことではないが、副部長の言う通り、どうやら明るさの中心をヒロインの顔に合わせているようだった。 これでは遠くの山から上がる狼煙を見て喜ぶ時、つまり顔を上げ気味にするたびに、光が眼を直射してしまう。 先輩まぶしいだろうな ‥‥‥。
『 しかし楽観もできまい。 これは噂だがな、敵の攻勢は海路だけでなくオルレアンにも ─── 』
『 あーあ、早くサンアンリオの港が解放されて、お父様の心配事が昔みたいに葡萄の作付け話だけに戻りますように ! 戦争なんて真っ平 ! 』
あれ。
動き回る先輩の姿が ‥‥‥ 少しだけ遠かった。 立ち上がってよく見てみる。 ここはヒロインが他の家族や召使いと矢継ぎ早に会話していき、笑いや時代背景の説明を交えつつ登場人物たち各々の個性を際立たせるくだりだった。 ひと通りそれが終わった所で僕の登場となるので、この場面の流れについては舞台上の演者よりも、常に同じ待機場所から全体を見ている僕の方が詳しかったりするのだが ─── やっぱり変だ、先輩の立ち位置。 前に出過ぎている。 昨日のリハーサルよりも、さらに舞台の縁近くで動いているようだ。 ひょっとしたら照明の影響で、位置取りの目測が狂ったのかもしれない。
もしも端までの距離を読み違えて、背を向けたまま客席側に出すぎてしまったら ‥‥‥ という仮定が脳裏に浮かんで、僕はゾッとした。
元々先輩の足運びは、計ったようにとても正確だ。 だからこそ、演技の開始位置がずれた状態で動き続けたら舞台から落ちるんじゃないか、そんな予感がする。
『 あら婆や、私はもうあなたよりも背が高くなっているのに ? カゴに山盛りのピートを、ほら ! 楽々牛舎まで運べるくらい元気に育っているのに ? 』 持ち上げられた編み籠が、遠景の一部として見慣れたバスケットリングを、今までに無いほど深く、僕の視界から遮った。
いや、これは '' 予感 '' じゃない。 分かっている。 先輩は最も縁に近付いた時、きっと足を踏み外して客席の床に落ちてしまう。 それを理解しているのは多分、僕だけだ。
でもどうする ? どうやって知らせよう ? 今からじゃ、どうしようもない ─── もどかしさに思わず一歩踏み出す僕を見て、両手で 「 早い早い 」 と押し返す仕草をする副部長。 確かに、まだ僕の出て行くところではなかった。 舞台上の会話はもう少し続く。 そしてヒロインは話しながら聞きながら、段差に背を向けて軽やかに動き続けてしまう。
ここからでは、どうしようもない。 だから伝えようがない。
だから ─── 直接行こう。
僕が直接、あの人がいる所まで行って助けよう。
震えも緊張も、どこかへ消え去っていた。 行かなきゃ。
決然と前に進む僕に驚いて、副部長が手足を大の字に広げ、止めにかかる。 口だけを動かして 「 まだだってば ! 出番じゃないよ ! 」 と訴えてくるが、説明している時間がないし、第一、話したところで信じてもらえるかどうか、確信が持てなかった。
仕方ない ‥‥‥ 副部長に両手を伸ばし、その顔からそっとメガネを外して制服の胸ポケットにしまってあげた。
「 は ? ! 」 横をすり抜け舞台へ進む。 「 なっなんなの ? 私はメガネ外されると行動できなくなる設定なの ? ! なんかすごく傷付くんだけどー ! ! 」
呪いの踊りみたいに手を捻り動かして抗議する副部長のささやきを後に、僕は無言で舞台へと歩み出た。 明確な意図を持つ足取りで、ずかずか先輩目指して近付いて行く。 客席のあちこちから、怪訝そうな視線が集まって来た。 台本を無視した主人公の早すぎる登場に、ヒロインの家族役を演じる人たちも遠くで呆気に取られている。 そして僕とは反対側でひと固まりになっている一家の方を向いたままの先輩は、僕の乱入に気付くことなく演技を続けて、ついに決定的な一歩を踏み下ろしてしまった。
足を受け止める床の無い、虚空へ。
【 25 】
間に合わない ─── 。
『 あ ‥‥‥ 』 ぐらりと傾く金髪の少女は倒れかけながらも身をよじると、素早く空足を畳んで体重の預け先を探り直そうとする。 つま先が辛うじて演台の角を引っ掛けた拍子に差し上げられた手が、僕の目には自分を呼び招くように見えた。
間に合わない ─── はずない ! !
僕は、なりふり構わず最後の数メートルを全力で先輩めがけて駆け寄った。 つんのめりそうな体勢のまま手をがっしり握ってから、外に寄り過ぎた重心を力任せに舞台側へと引き戻す。 そして思い切り腕を伸ばし、片足が宙を泳いで下の床に落ちかかる彼女の背中を、ギリギリのところで僕の胸に抱き止めていた。
客席で上がりかけた悲鳴が、安堵と意外さのどよめきに取って代わる。原作とは少しだけ違うドッキリ風味の展開は、視界にちらほら見える指先だけを使った音無しの拍手から判断する限り、幸いにも新解釈の演出だと受け取ってもらえたみたいだった。
そして、僕に何とかできるのはここまでだと気付く ─── 出番じゃないから、セリフがない。 当然『 ト書き 』 もない。 凡コメントすら出ない空っぽ状態だった。 ど、どうしよう。
この人 に頼ろう。
↓
先輩 の耳元で口だけを動かして、任せます、と丸投げ。 すると落下の恐怖からたったの一呼吸でステータス復帰した先輩は、瞬時に状況を理解して僕を大げさに突き飛ばした。 バランスを崩してよろめき離れる僕。
『 いきなり ‥‥‥ いきなり見ず知らずの女性を抱き寄せるなんて ‥‥‥、ずいぶん ‥‥‥ 本当に、ずいぶん、礼儀知らずの騎士さまね 』
取りあえず、面識のない相手に怒ってみせるヒロイン。 怒りのあまり、なかなか言葉が出てこない ─── という体で時間を稼ぎ、この場にふさわしいセリフを即興で口にしていく。 才能だけじゃなく、とんでもない舞台度胸だ。 ただ ‥‥‥ 気のせいか、広めに乱れてしまったドレスの胸元を直す指先の動きにリアル怒気が漂っている。 えーと、ロックオンしようとしてるの僕の事ですかね。
いや ‥‥‥ いや僕、触ってないです。 身に覚えがないです。
谷間も見てないです。
顔がパフっと埋まってしまったのはレスキュー上の不可抗力です。
誓います全てを忘れると。
『 もし哀れな村娘を助けたおつもりになっているならお生憎様、この川はとても浅いのです。 ここだけではなくて、あっちも浅いし ‥‥‥ この辺も浅いし ‥‥‥ こっちだって、うん、浅いわね。 たとえ川岸のどこで転んでも、溺れたりなんかするわけないわ。 さあ、黙っていないで名前くらいはおっしゃって下さいな ! それなりに誇る御血筋、家名がおありでしょう ? 』
あ、上手い。 少し強引かもしれないけど、ひと笑い取りながらヒロインの方から僕に名乗りを促す道筋を作ってくれた。 これなら僕も無駄棒立ち無言状態を脱して、覚えているセリフを一言一句変えることなく口にする事ができる。
台本に復帰。 劇は再び動きだした。
【 26 】
『 敵に長弓と重騎兵の大援軍だと ! ! き、きっとオルレアンから転進して来たイングランドの主力部隊だ ‥‥‥ 奴ら数千人でモン・リッゼールを越える気だぞ。 撤退しないと俺たちゃ全滅だ 』
『 早合点するな、私が峠まで前進して敵情を見てこよう。 確かまだ補給に使っていた駄馬が残っていたな。 即席で騎兵を仕立てるぞ ─── 輜重兵 ! 馬を荷車から解け ! 』
「 良くやったよ、ほんと良くやってくれたよう ! 」
幕あいの節目で上手舞台袖に帰還すると、待ち構えていた副部長が涙目感動顔で僕への褒めモードに入っていた。 僕レベルの演技に感動するわけもないから、これは当然さっきの先輩救助についての反応だろう。 感謝されるのは少し気恥ずかしくもあり、役に立てた事が実感できて何となく誇らしくもある。
「 あそこで君が出て行かなかったら上演どころじゃなかった。 私、ほんと何てお礼言ったらいいか ‥‥‥ 」
いそいそと僕の顔に汗取りコットンとタオルを乗せ、間髪置かずキャップを外した水ボトルをストロー差しで手渡してくれる。 VIP待遇だ ‥‥‥ うむ、ご苦労。 「 メガネの件については日を改めて話そうね 」 すいません正座で待機します。
いいタイミングで客席から大きな笑い声が、何度も続けざまに聞こえて来る。 見せどころの一つ、村から金目の物を盗んで逃げ出そうとする臆病者の兵士を、召使いとヒロインが懲らしめる場面だ。 締め括りには全員が下手に去って場面が変わるから、出ずっぱりだった先輩も休憩を取れるはずだった。 最後にもう一度起こる、笑いと拍手。 この反応の良さは、観客が劇に退屈せず、十分な興味を持ち続けている事を意味していた。
物語半ばを過ぎた劇の運びも、ここまでは順調と言える。 演者各人の連携は質が高く非常に緊密。 音響や照明の効果は安定している。 幕替え、場面替えでの道具類移動の段取りもスムーズこの上ない。 冒頭でヒロインに降りかかったアクシデントにしても、劇を観ている人達には実情を知られていないし、台本本来の話運びを知っている僕らから見れば、いい形で乗り切れた以上は特に問題とする必要がなかった。 結果オーライ効果だ。
そしてやはり、何よりも凄いのは先輩の存在だった。 僕にもだんだん分かってきたが、この人は並みの役者と違って、どうやら情熱とかやる気が空回りする事がないらしい。 普通は失敗を取り戻そうとすればどこかに不自然な焦りが出て、大抵がお決まりの失敗落ち込み悪循環に陥ってしまうものだが、彼女の場合は、自分が段差下に落ちかけた事すら新しい要素として劇の中に取り込んでしまう。
先輩が創り出しているのは、台本のセリフを機械的になぞれば再現できてしまうような、一個の安易な人物像ではなかった。 その演技には誰にも真似のできない生命力を伴った、彼女自身に属するそれとは別の鼓動が脈打っている。 その周囲には演じている世界の大気が揺らめき、別の法則が司る時間が流れていると錯覚してしまうほどだ。 僕たち演劇部員をも含めて今や講堂全体が、ヒロインの背後に垣間見える世界の鮮烈さに圧倒され、魅了されていた。
【 27 】
「 理想的に進んでる。 完璧だよ、このまま最後まで行っちゃおう 」
次の幕場へ僕を送り出そうとする副部長の励ましを受けて、ありがとうございます、と頭を下げた視界に、向かい側の舞台袖で丸椅子に座り、水色の保冷シートを頭から掛けて小休止する先輩の姿がちらりと入ってくる。
先輩は遠くから、動かず真っすぐに僕を見ていた ─── ささやきが届くはずもないのに、まるで今ここで使われた 「 完璧 」 という言葉の響きを聞き咎めるかのように。
“ 私やっぱり、'' 完璧 '' な場面作りがしたかったんだな、って ”
先輩は昨日、そう言った。 完璧、という言葉の重みと使いどころは人それぞれだ。 一種のレトリックで、感嘆や形容の一例として気楽に連発する人もいるだろうし、言葉本来の意味を厳格に当てはめようとする人もいる。 先輩は、後者だ。
この劇は、あの人にとって将来どんな思い出になるのだろう。 あれだけの熱演で僕たちを引っ張って来た先輩にとって、この時間は 「 完璧 」 さに欠ける、思い返したくもない苦い記憶になってしまうのだろうか。
僕は自分の無力を実感する。 今度こそ、できる事はなさそうだ。
またすぐに僕の出番が来る。 舞台で演技に集中してさえいれば、この事についてこれ以上深く考えなくて済むのがありがたかった。
【 28 】
『 聞きました。 あなた方の部隊だけで前進して、峠を守って戦う、って。 ‥‥‥ 嘘でしょう ? 』
衝突を何度か経た後で相手の温かい人柄に触れ、やがて主人公を慕う気持ちを隠せなくなるヒロイン。 庶民の出自を軽んじられ、名ばかりの下級騎士として追い使われるだけの主人公。 二人はお互いに心を通わせることで人間として成長する。
劇はもっとも有名なヤマ場に差しかかり、やがて、問題の場面がやって来た。 直前ぎりぎりになって演出を差し換え、考えてみたら練習終盤すべてのトラブルの原因となった、別れのキスシーンだ。
無謀な戦いに赴く決意を変えない主人公に失望して立ち去ろうとするヒロインを、愛の告白が引き留める。
私は君を愛している、我が心も我が命も、君のためだけにある、と。
『 それは本当 ? 』
振り返り問いかけてくる先輩は、内心たじろぐほど綺麗だった。
『 神に誓って。 私が価値を見い出すもの全てに誓って 』
そう応える声に震えが出ず誠実な響きを保てたのは、練習の賜物だ。 それにしても ─── この綺麗さは、おかしい。 この人の姿は、夏以来ずっと一緒に過ごして見慣れているはずなのに。 いくらなんでも、ここまで綺麗なはずない。
『 でも、今になってお心の内を知っても悲しさが募るだけだわ、貴方は行ってしまうのだから。 私は嬉しい、嬉しいのに、その何倍も悲しいの 』
どんな表情をしていても綺麗だ。 僕はなぜ、この人の事を信じられないくらい綺麗だと ‥‥‥ ああそうか。
直感した。
美しさだけじゃなくて、同時に、'' 愛を帯びて在る '' 感情を見出しているからなのだと。
つまり、
僕はヒロインに恋したんだ。
【 29 】
言葉を重ねつつ、先輩と僕は歩み寄っていく。 想いを託した声が交わされるたびに相手へと歩を進め、舞台の中央で、ついには互いの息がかかるくらいにまで、二人を隔てる空間は狭まろうとしていた。
わずかに上気した表情で何かを問うように見上げてくる先輩の顔が、すぐ目の前にある。 客席は静まりかえり、固唾を飲んで二人が結ばれる瞬間を見守っている。
そして、暗転のきっかけとなる最後のセリフを、ヒロインを受け止めるために両腕を広げた主人公が強く大きく語りかける。 それは愛の囁きではなく、誓いの叫びだった。
『 たとえ命尽きても、私の愛は、決して君の心を離れはしない ! ! 』
言葉を発し終えるのと同時に、すべての照明機器から光が断たれ、講堂は文字通り墨のような暗黒の底に沈んだ。
それに応じて音楽が砲撃の効果音に取って代わり、徐々に大きくなって、悲恋の先に待つ戦争の無情さを訴える。 慎重に計算されたナレーション付きの音響と選曲が功を奏して、突然訪れた暗闇に包まれても、客席からはざわめきや混乱は起きなかった。
曲調がメインフレーズに入って盛り上がるその間に、僕と先輩はあらかじめ舞台の中央部から数歩離れておき、次のセリフに入るタイミングを測って照明の再点灯を待つ。
‥‥‥ そうなるはずだった。
しかし先輩の顔も息吹きも、僕の前を去りはしなかった。そうする代わりに、僕が広げた腕の中に先輩はふわりと体を預けると、その唇はためらいを感じさせないまま進み続けて、やがて僕の口元にそっと、溶けるように押し付けられた。
僕は驚きのあまり、何もできない。びっくりして反射的に飛びのくこともできたはずだが、足は一歩も動かなかった。
二人はごく自然に、お互いの背中に手を添えて、じっと支え合っている。
誰からも見えない闇の中で、僕たちは抱き合ったまま、本当の口づけによってそのシーンを演じていた。
完璧なキスシーンを。
気がつくと音楽はフェードアウトして、砲撃の音に軍馬の不規則な喧騒が加わり始めていた。
場面が変わる。 劇が進もうとしている。 少しだけくらくらする頭の中で、主人公のセリフが瞬いた。
ゆっくりと先輩の頬が離れて行く。柔らかな感触を失った僕は我に返り、慌てて腕の力をゆるめた。
しなやかな体が微笑むように消え引いて、温かさだけを残したまま真っ暗な中で数歩下がって行く気配がする。
劇。
劇に。 劇に ‥‥‥ 戻らないと。
一人になった僕はセリフを発するために、自分でも驚いてしまうほど大きく息を吸い込んだ。
【 30 】 / 終章
それ以降を結末から言えば、僕たちの劇は目立った失敗もなく最高の出来に仕上がった。 終幕後の拍手はなんと十分以上も続き、カーテンの隙間から先輩が姿を見せて深くお辞儀した時のスタンディングオベーションの凄さは勿論、単体でひょっこり顔を出した僕や、次の演目のために観客入れ替えの誘導を受け持った風紀委員さんですら拍手を貰えたくらいだ。 当然、後日に文化祭全体を振り返った時の総評も上々だった。
自分でも信じられない事だが、役者としての僕はあのキスに動揺しなかった。 多分あの時、思考のどこかでは、今の自分はあくまでも劇の主人公で、今の先輩は同様に劇のヒロインなのだと ─── 二人の行為は役柄を反映したアドリブのようなものなのだと ─── 理解していたのだろうと思う。
そう、劇は劇だ。 僕と先輩が、劇を出発点にお互いの距離を縮めたりするといった事もなかった。 受験を控えた彼女が一、二年生に演劇部を託して去って行く時も僕はあの人にとって一人の下級生にすぎなかったし、最後に二人であのシーンを振り返って話をしたりもしなかった。
ただ、あの劇の後の、三年生が卒業していくまでの数ヶ月、校庭やカフェテリアでたまに先輩と目が合った時に、駅のコンコースで彼女が見せた微かに迷うような、まだ自分がどうするか決めかねているといった趣きの、捉えどころのない独特な笑顔が一瞬僕へと向けられる事はあった。それは僕たちだけが共有する、誰も知らない秘密のシーンを演じた二人にしか理解できないサインのようなものだった。
在校生と卒業生が交流する部籍会で再び顔を合わせる機会が増えても、僕と先輩は未だにあの時の数秒間を話題にしたことがない。 言葉にしてしまえば、それはその途端に今ある形から何か別のものとして色褪せ始めるような気がするのだ。
そして思う。 もし先輩にとって、高校生活最後に演じたあの劇が大切な思い出になったのなら、そうなる手助けをもしも僕ができていたなら、あの夏、アカバポプラの木陰で僕を待ってくれていた彼女に感謝の気持ちを示すことができたのなら ─── 僕は十分満足だ、と。
そう考えておくのが賢いと、分かっている。
触れることなく保つべき思い出もあるのだと、分かっている。
でも ‥‥‥、
それでも、ふとした会話の切り替わりに生じた短い沈黙の中、先輩があの頃と変わる事のない謎めいた笑顔を浮かべ僕を見つめている時には、いつかはこの緩やかな暗黙のルールをどちらかが踏み越える時が来るのかもしれないと、そっと考えてみずにはいられない。
END
後書き
中国故事、「 絶纓の会 」 をモチーフにしてみました。
作者:a10 ワーディルト |
投稿日:2019/07/29 01:21 更新日:2019/07/29 18:59 『シーンズ ・ ライク ・ ディーズ 』の著作権は、すべて作者 a10 ワーディルト様に属します。 |
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