作品ID:2303
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夕霧
小説の属性:一般小説 / 異世界ファンタジー / お気軽感想希望 / 中級者 / 年齢制限なし / 連載中
前書き・紹介
お待たせしました
道標
前の話 | 目次 |
土と倒木まじりの水が広い川を流れていく。ぼんやりとそれを見ていた奴隷は聞き慣れた声に顔を上げる。
青空を背に、スナチが傍らに立っていた。
その手にはこの街の名物、小麦を薄くのばして焼いた生地に肉と焼き野菜を包んだものが二つ握られている。先ほど屋台で買ったのか、まだ湯気がたっていた。
スナチは無言で片方を奴隷に渡す。
「好きですね、これ。」
「うまいだろ。」
確かにおいしいけれど、滞在中ほとんどこれしか食べていないのはどうかと思う。
奴隷は手の中のぬくもりを感じつつ、かぶりつく前にスナチに尋ねる。
「どうでした。」
「どうもこうも。」
もうすでにほとんどを口に収めている彼は、一度口の中のものを飲みこんでから答える。
どうしたのだろう。言葉の意図がつかめずに首をかしげると、スナチは後ろを指さした。
「お前を買ったあの御者。闇商売人だったらしいぞ。」
二人は麓へ降り、一番近くの大きな街へとやってきていた。そこで奴隷は「他の奴隷たちのてんまつを報告するべきだ」と主張した。
自分はともかく、他の者たちはちゃんと奴隷市場に登録され、売買の記録が残る。もちろん運ばれた先の雇い主は彼らの到着を待っているはずだし、何があったのか知っているのにそれを黙っているのは心苦しい。
そんなことをかみ砕いて言った奴隷だが、結局のところこれはすべて国民の義務、「法律」で定められていることだ。破ればたとえ異国の人といえど、何らかの処罰は免れないだろう。
奴隷の考えを知ってか知らずか、スナチは少し渋ってから、結局奴隷市場の顔役に話をしに行った。顔役はスナチの話を聞いて快く連絡役を買って出てくれた。その返事を聞きに行っていたのだ。
「お前らは南の牧場に買われたことになっていた。けど、その牧場は存在しないことがわかった。」
「……はい?」
「合計十人の奴隷。買ったやつの素性もわからない、どこに連れていかれる途中だったのかも。」
おもわず、足が止まる。
数歩先に進み、スナチが振り返る。
奴隷はあのときと同じように、呆然としていた。
「おい。」
「す、すみません。」
「別にいいよ。――それより大丈夫か。」
「大丈夫です。……いいひとだったので、その。びっくりして。」
スナチはその様子に眉をひそめる。
この国では奴隷も立派な財産なのだという。持ち主は奴隷の扱いによって品位を問われるためにこのようなことはあり得ないらしい。
御者をやっていた男は偽造文書まで作って、この国では最低の行いをしようとしていた。いったい、どこに利があったというのか。
なにか、男の目的のために必要だったのか。それとも。
奴隷を見下し、スナチはため息をつく。
どうしてこう、問題ごとばかり起こるのか。
「……なにか?」
「いいや、なんでも。」
さあ行くぞと促されて、奴隷は慌てて歩き出した。
夜明け前。町はずれにある安い宿屋の、馬小屋の裏。
空き地になっているそこを借りて、スナチはいつもの鍛錬を行う。
体をほぐし、温まってきたところで瞑想。
鳥の声。木々の揺れと葉擦れ。人々の声。それらがどんどん遠のき、思考の底へと沈んでいく。思い出すのは故郷のことだ。
山間の村。旗がはためく空と、村人たちの顔。みんなが家族で、他人で。
出発も、今日のように晴れた日だった。
しきたりで見送りは誰もいなかった。
ムガチと二人、振り返らずに歩いたあの日。どんな会話をしたか、もう思い出すことはできない。
そもそもあいつはどんな顔をしていたっけ。
ゆっくりと、瞼を開ける。
こんなことを考えても、意味がない。
落ち着いたら型に添った素振りだ。
自前の杖を持つ。細見のそれは一見するとただの杖だが、実は中に剣が仕込まれている。宝玉のはまっている部分が柄であり、抜けば腕と同じぐらいの長さの刀身がすらりと現れる。
いざというとき、すぐに使えるように、一つ一つの型を確認する。
基礎の一番から順番に行って、その後はその場の動きで組み替えて舞う。
そう、これは剣舞。
神に奉げる踊りだ。
わかりきった型の繰り返しとはいえ、鍛錬が終わる頃にはだいぶ消耗していた。汗だくになった体を拭こうと馬小屋をまわりこむ。
馬小屋の表側は宿屋の中庭になっていて、そこに井戸と水場があるのを知っていった。本来馬を洗うためのもののようだったが、人が使っているのも見たことがあった。
ちょうど今も人影が見える。なぜか桶を持っている奴隷だった。
「おはようございます。部屋にいないからびっくりしました。」
「ああ。――ニリは?」
ややあって、奴隷が水の入った桶を持ち上げる。
「宿屋のおかみさんから仕事をもらいまして。今から馬のお世話を。」
奴隷は何もしないのが性に合わないのか、なにかと仕事を見つけては働いていた。もちろん少ないが稼いでいて「路銀の足しに」とスナチに渡してきたので、黙って受け取って新しい服を買ってやったら泣いていた。
うれし涙だと思おう。スナチはどちらかといえば前向きなほうだ。
その服を着て、今日も元気に働いている。長い上着に七分丈のズボンをはいた姿は幼さを助長させている。
軽い返事をして体を拭き始めたスナチを奴隷はちらりと見た。
「――なんだ?」
「い、え。別に。」
桶を手にその場を離れる。
スナチは首をかしげる。
すぐに、そんなことにかまけていると風邪をひきそうだと、体を拭くことに集中することにする。
じゅうぶん離れた後で、奴隷は再度、スナチの体を見る。
男の人にしては細く女の人にしては肉付きがない体。
この人の事情を、うすうす察している。
ただ、個人的な話になってくるので直接聞くのは憚られる。
詳しい話を聞けないままついてきてしまったけれど。
このまま、スナチについて行けばいいのか。奴隷はひそかに迷っていた。
二人そろって宿屋に入ると、ちょうど裏から出てきた女将が二人を手招く。若い二人を子供かなにかのようにかわいがってくれている人の好い女性だ。
「今呼びに行こうかと思ったんだ。あんたらにお客だよ。」
女将は一階の食堂の隅を指さす。
そこにいたのは、青いローブを着て柔和な笑みを浮かべる女性。
その恰好は役人であることを示していた。
奴隷はスナチを見上げる。スナチは怪訝そうな顔のまま、役人に近づいていく。
「……何か用ですか。」
ぶっきらぼうなその言葉は失礼にあたるだろうに、役人は変わらず柔和にほほ笑んでいた。「失礼。奴隷商に問い合わせをした少年を探していてね。君がスナチかい?」
「そうだ。」
そっけない返事に奴隷はおもわずスナチの袖を引いた。「どうした?」といつもの調子で帰すスナチに、奴隷は「……何でもないです。」と諦めて椅子に座ることを勧めた。
役人の前に座るスナチの後ろに立つ。二人と同じ土俵に立つ勇気はない。
「少し事実の確認と、君の身元確認をね。なにぶん証拠が君の話しかないもので。」
「いいですよ。付き合いましょう。」
態度はさておき、スナチはわりと素直に役人の向かい側に座る。
「出身は?」
「山向こうの集落。……ああ、国には属してない。そもそも他の街と交流はないから存在すら知られてないだろう。」
「そ、そう……その子とは同郷かしら?」
「や、ついこの間あったばっかりだ。野垂れ死にそうだったのを連れが助けて。」
「そのお連れさんは?」
「ニリを助けて死んだ。」
「その話を証明できる記録や物品はあるかしら?」
スナチは自分の目を指さす。
「俺が見た。それ以外何か必要か?」
椅子の背もたれに手をかけていた奴隷はどうにかため息をのみこんだ。
なんというか、怪しすぎる。
役人もそう思っているらしいことがその表情からひしひしと伝わってきていた。
「ちなみに……これは直接関わりのないことだけれど。」
「なんだ。」
「君、スナチ君だっけ。見たところ君は『無性』のようだけれど。」
奴隷はおもわずスナチを見る。
すました顔でそれを聞いたスナチは、なんてこともないようにうなずいた。
「そうだ。それがどうした?」
役人が顔を硬くした。
端っことはいえ、ここは食堂。周りにいた他の客の目線も集まってきていて、場の空気がピリピリと張り詰める。
『無性』とは、その言葉通り男でも女でもない人をさす。
かつてこの国でその言葉に当てはまるのは多くの場合神職の者たちだった。俗世から離れる証明に性器を切り取る施術を施された人々。のちにその処置は死亡率が異常に高かったことや、神への信仰自体が内部腐敗で王権に打倒されて下火になり、忌むべき歴史として扱われていた。
『無性』になったものは、男性とも女性ともつかない体つきになる。
そして、今でもその施術を行っている者――つまり、かつての王権が否定したものを今でも信仰しているという行為自体が、この国では異端なのだ。
場の空気にやっと気づいたらしい。スナチが奴隷を見上げる。
「――おい。もしかしてまた『国』がらみのことか?」
そう言われて奴隷ははっとする。
「もしかして、『無性』の意味、解らないんですか?」
「言葉通りの意味なんだが。」
あ、と役人が小さくつぶやく。奴隷と同じようにある可能性に気がついたようだ。
『無性』。その多くは神職者。
残りの少数は、生まれつき性をもたない身体異常者を指す。
おそらくスナチは後者のことを言いたかったのだ。
「……すみません。こちらが早とちりしたようです。」
「やっぱりか。」
「念のために確認しますが、あなたは神職にあたるのではないのですよね?」
「お前らの創造する神には仕えてないぞ。」
奴隷はその発言にひやりとしたが、役人はそうでもなかった。国が違えば信仰も違うと理解している。
「人が何を信じるかは自由。――ですが、そこに国や家族というしがらみを持ってしまうのが人間なのですよね。」
少し寂しそうに言われたその言葉に、スナチは目を細める。
「私見だな?」
「ええ、ええ。――受け売りですけどね。」
役人は感情をひっこめて、スナチを元通りの柔和な笑みで見た。
「念のため、手術痕がないか確かめさせてはいただけませんか? 嫌ならば断わっていただいてもかまいません。」
「場所を変えても?」
役人は静かにうなずく。
スナチが立ち上がる。ひとつにまとめた髪が肩からこぼれる。
「俺たちの部屋に行こう。――ニリ、行くぞ。」
「あ、はい。」
二人の後をついていきながら、役人はニリと呼ばれている子供のことをじっと見ていた。
スナチの体を隅々まで観察したのち、すっきりとした顔で役人が告げる。
「ありがとうございました。そうそう、亡くなった奴隷たちはしっかりと弔って、刑期が残っている者に関しては子供や親戚にしっかり引き継ぎましたからご安心を。」
「そうかい。」
その言葉を聞いて嫌そうな顔をしているスナチを見て、奴隷は笑ってしまった。
「そういう決まりなんですよ。」
「なんとなくわかるけど。――でも、納得できるかは別問題だろ。」
「そうですね。」
二人の会話を咎めることなく柔和な笑みを崩さない役人に、「そういえば。」とスナチが声をかける。
「あんた、この街には詳しい?」
「え? ええ。生まれも育ちもこの街よ。」
「じゃあ、旅人で、砂色の髪をしたやつを見たことはあるか。」
役人は怪訝そうにスナチを見る。
「お知り合いですか?」
「そんなもんだ。」
「ちなみにお名前をうかがっても?」
「ヌシロ。」
……ややあって、役人は首を横に振る。
「いいえ。知りませんね。」
「そうか。ありがとう。」
役人はスナチが初めて敬意を払ったような気がして苦笑する。そしてそのまま去っていった。
青いローブの後ろ姿が見えなくなるまで雑踏を見ていた奴隷は、肩を叩かれてはっとする。スナチが無言できびすを返したのが見えて、慌てて宿屋に戻った。
やっと質問ができたのは部屋に戻った後だった。
「探しているんですか?」
ヌシロ。名前の雰囲気的にスナチたちと同郷の者だろうか。
「ああ。」
「でもどうしてお役人に?」
「あいつはまだ、生きてるから。」
スナチはそれ以上語らず、一方的に会話を打ち切った。
「ここでの用は済んだ。明日にはここを発つぞ。」
「ええ? そんな急な……。」
旅をするには準備がいる。
荷物をまとめて保存食を調達し、お世話になった人たちにあいさつ回りをして――、と、忙しく頭を回転し始めた奴隷は、それまでの会話なんてすっかりどこかへ飛ばしてしまった。
街の中。どこかの路地で。
仕事を終え、地味なローブに身を包んだ役人が小走りにどこかへと向かっている。細い路地を抜けた先にはちいさな水場があった。
こんこんと湧く水をぼう、と見ている男がいる。水場の縁石にこしかけてぼんやりしているその後姿に、役人はまっすぐ声をかけた。
「ヌシロ。」
男がゆっくりと振り向く。
ひょろりと痩せた姿。砂色の髪はぼさぼさで、無造作に後ろでくくっている。
「……。」
晴れ渡って白んだ青空に似た目がこちらを見るのを確認して、役人は男の傍らに立った。
行き倒れていた男を保護してから、もう長い月日が経った。しかし、男の容姿はほとんど変わっていない。
なにか、自分たちとは別の空気をまとった異国人。
そんな彼を知る人物が現れた。
「今日、スナチと名乗る少年に会いました。あなたとおなじ瞳をした――。」
詳しく語ろうとした役人は、目の前の男がもうこちらを見ていないことに気がつく。
「ちょっと、聞いてます?」
「……ああ。」
その返事は、今までの空虚な吐息とは違った。
役人は黙って男を見る。その顔は、珍しく笑っていた。
「もうそんな時期か。」
男は、暮れかかっている空を見上げながら、からからと声を上げて笑った。
青空を背に、スナチが傍らに立っていた。
その手にはこの街の名物、小麦を薄くのばして焼いた生地に肉と焼き野菜を包んだものが二つ握られている。先ほど屋台で買ったのか、まだ湯気がたっていた。
スナチは無言で片方を奴隷に渡す。
「好きですね、これ。」
「うまいだろ。」
確かにおいしいけれど、滞在中ほとんどこれしか食べていないのはどうかと思う。
奴隷は手の中のぬくもりを感じつつ、かぶりつく前にスナチに尋ねる。
「どうでした。」
「どうもこうも。」
もうすでにほとんどを口に収めている彼は、一度口の中のものを飲みこんでから答える。
どうしたのだろう。言葉の意図がつかめずに首をかしげると、スナチは後ろを指さした。
「お前を買ったあの御者。闇商売人だったらしいぞ。」
二人は麓へ降り、一番近くの大きな街へとやってきていた。そこで奴隷は「他の奴隷たちのてんまつを報告するべきだ」と主張した。
自分はともかく、他の者たちはちゃんと奴隷市場に登録され、売買の記録が残る。もちろん運ばれた先の雇い主は彼らの到着を待っているはずだし、何があったのか知っているのにそれを黙っているのは心苦しい。
そんなことをかみ砕いて言った奴隷だが、結局のところこれはすべて国民の義務、「法律」で定められていることだ。破ればたとえ異国の人といえど、何らかの処罰は免れないだろう。
奴隷の考えを知ってか知らずか、スナチは少し渋ってから、結局奴隷市場の顔役に話をしに行った。顔役はスナチの話を聞いて快く連絡役を買って出てくれた。その返事を聞きに行っていたのだ。
「お前らは南の牧場に買われたことになっていた。けど、その牧場は存在しないことがわかった。」
「……はい?」
「合計十人の奴隷。買ったやつの素性もわからない、どこに連れていかれる途中だったのかも。」
おもわず、足が止まる。
数歩先に進み、スナチが振り返る。
奴隷はあのときと同じように、呆然としていた。
「おい。」
「す、すみません。」
「別にいいよ。――それより大丈夫か。」
「大丈夫です。……いいひとだったので、その。びっくりして。」
スナチはその様子に眉をひそめる。
この国では奴隷も立派な財産なのだという。持ち主は奴隷の扱いによって品位を問われるためにこのようなことはあり得ないらしい。
御者をやっていた男は偽造文書まで作って、この国では最低の行いをしようとしていた。いったい、どこに利があったというのか。
なにか、男の目的のために必要だったのか。それとも。
奴隷を見下し、スナチはため息をつく。
どうしてこう、問題ごとばかり起こるのか。
「……なにか?」
「いいや、なんでも。」
さあ行くぞと促されて、奴隷は慌てて歩き出した。
夜明け前。町はずれにある安い宿屋の、馬小屋の裏。
空き地になっているそこを借りて、スナチはいつもの鍛錬を行う。
体をほぐし、温まってきたところで瞑想。
鳥の声。木々の揺れと葉擦れ。人々の声。それらがどんどん遠のき、思考の底へと沈んでいく。思い出すのは故郷のことだ。
山間の村。旗がはためく空と、村人たちの顔。みんなが家族で、他人で。
出発も、今日のように晴れた日だった。
しきたりで見送りは誰もいなかった。
ムガチと二人、振り返らずに歩いたあの日。どんな会話をしたか、もう思い出すことはできない。
そもそもあいつはどんな顔をしていたっけ。
ゆっくりと、瞼を開ける。
こんなことを考えても、意味がない。
落ち着いたら型に添った素振りだ。
自前の杖を持つ。細見のそれは一見するとただの杖だが、実は中に剣が仕込まれている。宝玉のはまっている部分が柄であり、抜けば腕と同じぐらいの長さの刀身がすらりと現れる。
いざというとき、すぐに使えるように、一つ一つの型を確認する。
基礎の一番から順番に行って、その後はその場の動きで組み替えて舞う。
そう、これは剣舞。
神に奉げる踊りだ。
わかりきった型の繰り返しとはいえ、鍛錬が終わる頃にはだいぶ消耗していた。汗だくになった体を拭こうと馬小屋をまわりこむ。
馬小屋の表側は宿屋の中庭になっていて、そこに井戸と水場があるのを知っていった。本来馬を洗うためのもののようだったが、人が使っているのも見たことがあった。
ちょうど今も人影が見える。なぜか桶を持っている奴隷だった。
「おはようございます。部屋にいないからびっくりしました。」
「ああ。――ニリは?」
ややあって、奴隷が水の入った桶を持ち上げる。
「宿屋のおかみさんから仕事をもらいまして。今から馬のお世話を。」
奴隷は何もしないのが性に合わないのか、なにかと仕事を見つけては働いていた。もちろん少ないが稼いでいて「路銀の足しに」とスナチに渡してきたので、黙って受け取って新しい服を買ってやったら泣いていた。
うれし涙だと思おう。スナチはどちらかといえば前向きなほうだ。
その服を着て、今日も元気に働いている。長い上着に七分丈のズボンをはいた姿は幼さを助長させている。
軽い返事をして体を拭き始めたスナチを奴隷はちらりと見た。
「――なんだ?」
「い、え。別に。」
桶を手にその場を離れる。
スナチは首をかしげる。
すぐに、そんなことにかまけていると風邪をひきそうだと、体を拭くことに集中することにする。
じゅうぶん離れた後で、奴隷は再度、スナチの体を見る。
男の人にしては細く女の人にしては肉付きがない体。
この人の事情を、うすうす察している。
ただ、個人的な話になってくるので直接聞くのは憚られる。
詳しい話を聞けないままついてきてしまったけれど。
このまま、スナチについて行けばいいのか。奴隷はひそかに迷っていた。
二人そろって宿屋に入ると、ちょうど裏から出てきた女将が二人を手招く。若い二人を子供かなにかのようにかわいがってくれている人の好い女性だ。
「今呼びに行こうかと思ったんだ。あんたらにお客だよ。」
女将は一階の食堂の隅を指さす。
そこにいたのは、青いローブを着て柔和な笑みを浮かべる女性。
その恰好は役人であることを示していた。
奴隷はスナチを見上げる。スナチは怪訝そうな顔のまま、役人に近づいていく。
「……何か用ですか。」
ぶっきらぼうなその言葉は失礼にあたるだろうに、役人は変わらず柔和にほほ笑んでいた。「失礼。奴隷商に問い合わせをした少年を探していてね。君がスナチかい?」
「そうだ。」
そっけない返事に奴隷はおもわずスナチの袖を引いた。「どうした?」といつもの調子で帰すスナチに、奴隷は「……何でもないです。」と諦めて椅子に座ることを勧めた。
役人の前に座るスナチの後ろに立つ。二人と同じ土俵に立つ勇気はない。
「少し事実の確認と、君の身元確認をね。なにぶん証拠が君の話しかないもので。」
「いいですよ。付き合いましょう。」
態度はさておき、スナチはわりと素直に役人の向かい側に座る。
「出身は?」
「山向こうの集落。……ああ、国には属してない。そもそも他の街と交流はないから存在すら知られてないだろう。」
「そ、そう……その子とは同郷かしら?」
「や、ついこの間あったばっかりだ。野垂れ死にそうだったのを連れが助けて。」
「そのお連れさんは?」
「ニリを助けて死んだ。」
「その話を証明できる記録や物品はあるかしら?」
スナチは自分の目を指さす。
「俺が見た。それ以外何か必要か?」
椅子の背もたれに手をかけていた奴隷はどうにかため息をのみこんだ。
なんというか、怪しすぎる。
役人もそう思っているらしいことがその表情からひしひしと伝わってきていた。
「ちなみに……これは直接関わりのないことだけれど。」
「なんだ。」
「君、スナチ君だっけ。見たところ君は『無性』のようだけれど。」
奴隷はおもわずスナチを見る。
すました顔でそれを聞いたスナチは、なんてこともないようにうなずいた。
「そうだ。それがどうした?」
役人が顔を硬くした。
端っことはいえ、ここは食堂。周りにいた他の客の目線も集まってきていて、場の空気がピリピリと張り詰める。
『無性』とは、その言葉通り男でも女でもない人をさす。
かつてこの国でその言葉に当てはまるのは多くの場合神職の者たちだった。俗世から離れる証明に性器を切り取る施術を施された人々。のちにその処置は死亡率が異常に高かったことや、神への信仰自体が内部腐敗で王権に打倒されて下火になり、忌むべき歴史として扱われていた。
『無性』になったものは、男性とも女性ともつかない体つきになる。
そして、今でもその施術を行っている者――つまり、かつての王権が否定したものを今でも信仰しているという行為自体が、この国では異端なのだ。
場の空気にやっと気づいたらしい。スナチが奴隷を見上げる。
「――おい。もしかしてまた『国』がらみのことか?」
そう言われて奴隷ははっとする。
「もしかして、『無性』の意味、解らないんですか?」
「言葉通りの意味なんだが。」
あ、と役人が小さくつぶやく。奴隷と同じようにある可能性に気がついたようだ。
『無性』。その多くは神職者。
残りの少数は、生まれつき性をもたない身体異常者を指す。
おそらくスナチは後者のことを言いたかったのだ。
「……すみません。こちらが早とちりしたようです。」
「やっぱりか。」
「念のために確認しますが、あなたは神職にあたるのではないのですよね?」
「お前らの創造する神には仕えてないぞ。」
奴隷はその発言にひやりとしたが、役人はそうでもなかった。国が違えば信仰も違うと理解している。
「人が何を信じるかは自由。――ですが、そこに国や家族というしがらみを持ってしまうのが人間なのですよね。」
少し寂しそうに言われたその言葉に、スナチは目を細める。
「私見だな?」
「ええ、ええ。――受け売りですけどね。」
役人は感情をひっこめて、スナチを元通りの柔和な笑みで見た。
「念のため、手術痕がないか確かめさせてはいただけませんか? 嫌ならば断わっていただいてもかまいません。」
「場所を変えても?」
役人は静かにうなずく。
スナチが立ち上がる。ひとつにまとめた髪が肩からこぼれる。
「俺たちの部屋に行こう。――ニリ、行くぞ。」
「あ、はい。」
二人の後をついていきながら、役人はニリと呼ばれている子供のことをじっと見ていた。
スナチの体を隅々まで観察したのち、すっきりとした顔で役人が告げる。
「ありがとうございました。そうそう、亡くなった奴隷たちはしっかりと弔って、刑期が残っている者に関しては子供や親戚にしっかり引き継ぎましたからご安心を。」
「そうかい。」
その言葉を聞いて嫌そうな顔をしているスナチを見て、奴隷は笑ってしまった。
「そういう決まりなんですよ。」
「なんとなくわかるけど。――でも、納得できるかは別問題だろ。」
「そうですね。」
二人の会話を咎めることなく柔和な笑みを崩さない役人に、「そういえば。」とスナチが声をかける。
「あんた、この街には詳しい?」
「え? ええ。生まれも育ちもこの街よ。」
「じゃあ、旅人で、砂色の髪をしたやつを見たことはあるか。」
役人は怪訝そうにスナチを見る。
「お知り合いですか?」
「そんなもんだ。」
「ちなみにお名前をうかがっても?」
「ヌシロ。」
……ややあって、役人は首を横に振る。
「いいえ。知りませんね。」
「そうか。ありがとう。」
役人はスナチが初めて敬意を払ったような気がして苦笑する。そしてそのまま去っていった。
青いローブの後ろ姿が見えなくなるまで雑踏を見ていた奴隷は、肩を叩かれてはっとする。スナチが無言できびすを返したのが見えて、慌てて宿屋に戻った。
やっと質問ができたのは部屋に戻った後だった。
「探しているんですか?」
ヌシロ。名前の雰囲気的にスナチたちと同郷の者だろうか。
「ああ。」
「でもどうしてお役人に?」
「あいつはまだ、生きてるから。」
スナチはそれ以上語らず、一方的に会話を打ち切った。
「ここでの用は済んだ。明日にはここを発つぞ。」
「ええ? そんな急な……。」
旅をするには準備がいる。
荷物をまとめて保存食を調達し、お世話になった人たちにあいさつ回りをして――、と、忙しく頭を回転し始めた奴隷は、それまでの会話なんてすっかりどこかへ飛ばしてしまった。
街の中。どこかの路地で。
仕事を終え、地味なローブに身を包んだ役人が小走りにどこかへと向かっている。細い路地を抜けた先にはちいさな水場があった。
こんこんと湧く水をぼう、と見ている男がいる。水場の縁石にこしかけてぼんやりしているその後姿に、役人はまっすぐ声をかけた。
「ヌシロ。」
男がゆっくりと振り向く。
ひょろりと痩せた姿。砂色の髪はぼさぼさで、無造作に後ろでくくっている。
「……。」
晴れ渡って白んだ青空に似た目がこちらを見るのを確認して、役人は男の傍らに立った。
行き倒れていた男を保護してから、もう長い月日が経った。しかし、男の容姿はほとんど変わっていない。
なにか、自分たちとは別の空気をまとった異国人。
そんな彼を知る人物が現れた。
「今日、スナチと名乗る少年に会いました。あなたとおなじ瞳をした――。」
詳しく語ろうとした役人は、目の前の男がもうこちらを見ていないことに気がつく。
「ちょっと、聞いてます?」
「……ああ。」
その返事は、今までの空虚な吐息とは違った。
役人は黙って男を見る。その顔は、珍しく笑っていた。
「もうそんな時期か。」
男は、暮れかかっている空を見上げながら、からからと声を上げて笑った。
後書き
スナチ→15歳くらい
ニリ →10歳くらい
ヌシロ→年齢不詳
ぐらいの軽い気持ちで書いています。
作者:水沢妃 |
投稿日:2021/05/05 11:31 更新日:2021/05/05 11:31 『夕霧』の著作権は、すべて作者 水沢妃様に属します。 |
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