蜜雨

※名前固定のモブキャラ出演あり






 吹き玉やさぼん玉、吹けば五色の玉が出る――

 夏の匂いを伴った風が汗ばむ肌を撫で、どこまでも澄み切った天藍の空へとさぼん玉を泳がせる。はお世話になっている酒屋の出入り口前で、休憩がてら子供達が楽しそうな声を上げながらさぼん玉を飛ばす様子をぼんやりと見守っていた。外にいると次第に強まる太陽の照りが肌を焼いて体に熱を蓄えるものだから、髪を結わえる事が多くなる今日この頃。その髪には沖田から贈られた藍色の簪が飾られ、日の光に反射してきらきらと輝きを放っていた。結局断っても尚頑なにへ簪を贈ろうとする沖田の熱意(と店主の後押し)に負けてしまったのだ。沖田がに似合うと見立ててくれた美しく繊細な装飾が施された簪から、彼の体温が伝わる様であった。髪の毛一本一本が沖田に染められ、更にの身体は熱情に侵食されていく。

ちゃん」

 さぼん玉で遊んでいた子供達の一人であるおさとが、の目の前ににゅっと割り込んできた。

「なんや女の顔になってんで? まあた愛しのお師匠さんのこと……いや、さては沖田はんのこと考えてるんか?」

 おさとはの顔を覗き込みながらにやりと口角を上げ、怪しげに微笑む。おおよそ子供がしていい表情ではなかったのだが、おませなおさとはを揶揄う時によくこの表情を浮かべていた。図星を突かれたはぎくりと肩を強張らせて慌てふためきだす。

「ちちちち違いますよう!! 私は師匠と運命の出逢いを果たして以来ずっとずっと、この先もずうっと師匠一筋です!! ……って、おさとちゃんがどうして沖田さんのことを知ってらっしゃるのですか?」
「だって沖田はんがお仕事お休みの時はいつもうちら遊んでもろてるもん」

 だからこそおさとはつい先日沖田とが手を繋いで通りを歩く姿を見掛けた時、世間は狭いなと感じたのだ。

「おさとちゃん、私そんなお話一回も聞いて……!」
「あんなあ……うちが優しくてかっこええ兄ちゃん紹介したる言うても、私には師匠という心に決めたお方がいるので! ってろくに話も聞かんかったのはちゃんやで?」

 いくつも年齢が下の子供にやれやれと諭される程、は自分の想い人しか見えていなかった。

「ああっそれもこれも師匠が魅力的過ぎるのがいけないのです! 強くてお顔立ちが整ってらして、均整の取れた肉体と逞しい腕が私をすっぽりと包んで、低く重く響く自信に満ち溢れたお声が私の耳元でこう囁くの「ちゃんちゃん、楽しく妄想してはるとこ悪いんやけど」
「なんですか? 今いい所なのですけ、ど……」

 おさとが冷静にの着物の裾を強めに引っ張りながら、事実と願望が入り混じった妄想を止めに入る。そしておさとが指差す先には、「ちゃん、お客さんやで~」同じくがよく遊んであげている豆坊がにこにこしていた。その背後には相変わらず険しい顔をしている男が。

「……斎藤、さん……」

 の呟きは精彩を欠き、掠れていた。






 と斎藤の微妙な空気に興味津々のおさとと何にも感じ取っていない豆坊を家へと帰るよう促したは、人目がつく事を恐れて斎藤を店の中へと迎え入れた。幸いこの時間帯はいつも休みなく働くに休憩して欲しいと気を遣う常連のお客達が来ない為、店が閑散としているのだ。それを知ってか知らずか、おとめをはじめとした店の人間達も又に留守を任せて店を出払っていた。

「逃げないんだな」
「はじめから逃がす気なんてないのでしょう……?」
「沖田君と違って……か?」

 ここで沖田の名を出されれば、は口を噤むしかなかった。既に斎藤は沖田がを見逃している事に気づいている。しかしはこれ以上自分の所為で彼の立場が危うくなるのならば、いっそ沈黙を保っていたかった。先日沖田がここに訪れた際、新撰組の仲間を引き連れてを殺す事も、捕縛して拷問する事も出来た。しかし彼は殺気すら微塵も出さなかったばかりか、碌に詰問する事さえしなかった。いや、正確には出来なかったのだが、そんな沖田の心情を読み取れる程、の理解は追いついてはいない。それでもは半ば無意識に沖田を庇っていた。

「フン……随分と絆されてるじゃないか。まさか沖田君に惚れたか?」

 の頑なな態度を鼻で笑う斎藤の軽い言葉に彼女はかあっと頬を染めた。

「っ……そんなこと……!」
「そうだな……お前が好いているのは"師匠"だったな」

 全てを知った上で含み笑いをする斎藤。足元から狼に喰われていく感覚がを襲う。

「……お話を聞いてらしたのですね……」
「その師匠とやらを脅せば、お前を丸裸に出来そうだと思う位にはね」

 厭味ったらしく薄く笑う斎藤に対し、つい先刻まで窮地に立たされていた筈のも負けじと強かに笑みを張り付ける。

「ふふ、あの方を脅す……? それは無意味ですわ。あの方の前では、どのような剣客も赤子同然……もちろん私も、あなたも」
「そうか……やはり師匠とは、剣術の師匠を指していたのだな……」
「……っは!」

 斎藤は軒先で話していたとおさとの会話で、の付け入る隙に見当をつけていた。師匠――その名を出せばはあからさまに取り乱し、正常な判断も出来ずにきっと襤褸を出す筈だ。そして斎藤のその読みは見事的中した。それはもう面白い位に。案の定は師匠を凄腕の剣客と吐き出し、自らも剣を振るう事を匂わせた。

「俺は沖田君の様に貴様を逃すつもりはない」

 腰に帯びていた二振りの刀のうち一振りをに無理矢理握らせ、残ったもう一方の刀を斎藤はするりと抜いた。

「抜け。さもなくば殺す」

 抑えていた殺気を前面に押し出し、刀身を水平にして切っ先をに向けて突きの構えを取る。だがは臆する事なく只静かに渡された刀を胸に抱えたまま、鈍く輝く斎藤の刀の刃文の波に一瞬目線を移し、そして斎藤の鋭い眼光を見詰めた。二人の視線が絡まると、斎藤の眦が裂かれる。の顔擦れ擦れに突きが繰り出されると、遅れてやってきた風圧がの髪を揺らした。そのまま刀を横薙ぎに移動させ、物打ち部をの首筋にひたりと沿わせる。

「刀を抜かなければ、このまま首を刎ねるぞ」

 無慈悲で獰猛な狼の眼差しがを容赦なく捕らえる。しかしの表情は穏やかなまま、いまだ微動だにせず落ち着き払った声を静寂に落とし続ける。

「あなたほど聡明なお方が何の情報も得られぬまま殺すなんて愚行を犯す筈がありません」
「……フッ、出来ればお前と直接刀を交えたかったんだが……これ以上の脅しは無駄な様だな」

 の体温を奪っていく凍てつく刃が下ろされた。
 ここで斎藤と殺し合いを始めるのは容易い。だが、それは比古の教え――即ち飛天御剣流の理に反する。

「生憎私が刀を抜く時は、弱き人々を守るためのみです。各々の相容れない正義に突き動かされた殺し合いに混ざるつもりはありません」
「つまりお前は幕府側にも、長州側にも付くつもりはない、と」
「人々のために刀を振るうには、どの権力にも利用されぬよう自身が自由の身でなければならないのです」

 は斎藤から受け取った刀を差し出した。

「剣は凶器、剣術は殺人術。どんな綺麗事やお題目を口にしても、それが真実。人を守るために人を斬る、人を生かすために人を殺す。これが剣術の真の理……だからこそ私は望むのです。刀のいらない新時代を……!」
「それが貴様の正義か」

 は頷いた。これで話は終いだ。しかし斎藤はまだ終わらせなかった。

「貴様がこの刀を振るえば、人間の骨はおろか、刀を折ることさえ可能なのだろう?」

 素早くの白い皮膚が張り付いた手首を掴んで峻厳に追及する。

「そんな真似が出来るのはお前と、お前の師匠の他に誰がいる?」
「……知りませっ、ぅ!」

 斎藤のざらついた細長い指がの薄っぺらい肉を抉る。奇しくもこの間斎藤に掴まれた側の手首であった。まだ完全に治りきっていない手首がじくじくと痛みを発する。

「答えぬのならそれもまたよし。このまま腕をへし折るまでだ」

 本気だ。やはり斎藤は沖田の様に優しくもなければ、見逃してくれる程お人好しでもない。は瞬時にそう判断し、斎藤の手を放そうと距離を取るどころか、逆に踏み込んで斎藤の懐に入り重心を崩す。そのまま斎藤の喉元に鞘を押し付けた後、は斎藤の手を払って飛び退いた。支えを失った刀は鞘に納まったまま鈍い音をたてて地に伏す。

「成程……それがお前の答えか」
「答えも何も……私は知らないと……!」
「そのわかりやすく焦る態度が何よりの答えだ」

 斎藤は呆れた様に溜息を吐いて刀を拾うと踵を返した。本音を言ってしまえば、が思い浮かべた人物を特定までしたかったが、彼女の実力を考えるとそう容易く事は運べないらしい。嘘も駆け引きもド下手だが、実力は桁違いだ。

「邪魔したな」

 既に次の策を練り、監察方をどう使おうか思案する斎藤がそう言って戸を引こうとするその前に戸が勢いよく開いた。

「あんだよサイトーちゃん! もう帰んのか?」
「原田さん……」
「すまねえな、斎藤……俺は止めたんだが原田がどうしてもってんで……」

 あの斎藤をサイトーちゃんと呼んで豪胆な振る舞いをする男は、帰ろうとする斎藤の肩を組んで再び店の中に入った。心底面倒くさそうに顔を歪めた斎藤の後ろについて入ってきたのは、少々申し訳なさそうにしながらも苦笑を漏らしている前髪を逆立てた男である。彼らの腰の刀を見るに、きっと新撰組であろう。しかも斎藤と親し気にしている。間違いなく幹部だ。

「このオレを差し置いて一人で真昼間から女口説いて酒飲もうなんざ考えるサイトーちゃんが悪ィ!」
「そう言う原田さんはもう酔っぱらってるんですか?」

 冷たくあしらう斎藤を気にも留めず、男は豪快に笑うばかりだ。鬱陶しい位に絡んでくる様はまさしく酔っ払いと称されても違和感はない。

「いやあ騒がしくて申し訳ないね、お嬢ちゃん。俺達は斎藤とは知り合いでね……あっちの騒がしいのは原田左之助。俺は「ガムシン! 一人だけいい恰好すんなよ!」
「原田さんに、ガムシン、さん? ようこそお越しくださいました。私はこの酒屋の美人看板娘のと申します」

 ふふふと笑いながら、ちゃっかり自身を美人と称する。沖田や斎藤が掻き乱さなければ本来呑気な性格の女なのだ。

「こらいいぜ! 美人がてめえのコト美人だってよ! さすがサイトーちゃんお気に入りの店だな!」
「ここに来たのは初めてですが」
「原田お前また変な渾名広めようとすんな」
「あらあら、ガムシンとは渾名でいらしたのですね。では私も原田さんを渾名でお呼びしようかしら」
「お! 別嬪さんに渾名で呼ばれるなんざ光栄だな!」
「左之さん! で、どうでしょう?」

 ガムシンよりも突飛な渾名が飛び出してくるかと思いきや、存外平凡な呼び名にガムシンこと永倉はずっこけた。だが、にこにこと笑みを浮かべているはどこか誇らしげだ。

「あれ? もしかしてこの娘天然?」

 乾いた笑いと共に呟いた永倉の言葉は笑い合っている原田とには届かなかったが、密かに斎藤だけが同意しているのであった。






 表立って剣を振るう事も、密偵として動く事も得意とする斎藤がたった数日での居場所を突き止めようとも、沖田はなんら驚きはしなかった。むしろその斎藤からに探りを入れるという条件付きではあったが、彼女が働いている酒屋を聞き出したのは自分の方だ。彼女をもっと知りたいという好奇心が沖田の中で大きく膨れ上がった結果だった。沖田はと時間を重ねれば重ねる程彼女がわからなくなり、不思議と彼女に惹かれていった。沖田の童の様に純真無垢な好奇心が、本人の自覚なしに徐々に恋慕の情に色づき始めたのだ。
 これにはさすがの斎藤も驚いた。剣の腕は新撰組随一とされるが、直感で物事を考えるきらいがある沖田がろくすっぽから情報を得られぬまま帰ってくるのは斎藤の予想通りである。案の定に会いに行ったあの日、沖田は決定的な情報を聞き出せなかった。しかしながら当の沖田が大して悪びれる様子もなく笑いながら屯所に戻ってくるものだから、斎藤が彼を責める気を失うのも無理はない。それに、斎藤は大方沖田も又自分と同様にに華麗に逃げられたのだと思った。だが、どうやらそうではないらしい。
 初めこそは沖田の来訪に悄然として俯いていたが、沖田と接していくうちに笑顔を覗かせ、真摯な態度を見せる様になっていったのだ。その話を沖田の口から聞いたからこそ、斎藤はに沖田に惚れたかと鎌をかけたのである。
 そうして斎藤は沖田のこれまでの行動と、の反応から、互いに憎からず思っているのではないかと推察していた。世の女子を夢中にさせる程の美男子と持て囃される事は多々あっても、色恋沙汰には滅法鈍く興味もない、只々直向きに一心不乱に近藤に尽くす事だけを生き甲斐としてきた様な男が、まさか敵か味方かわからぬ手練れの女に気持ちを傾けるとは思ってもみなかった。沖田の優しさも、温もりも、全て仲間内に向けられていたのに、今や出会って間もないに注ぎ込まれようとしている。それ程までに彼女の存在は鮮烈であったのだ。その事実は沖田のみならず、斎藤も認めざるを得なかった。あの斎藤すら自分の感情を制御できず、から目が離せないでいるのだから相当である。

 沖田は急いていた。
 今日、斎藤がに会いに行く。きっと沖田よりももっとずっと厳しくを揺さぶり追い詰めるであろう。最近では長州が不穏な動きをしている。を叩けばもしかしたら何か情報が出てくるかもしれない。それは近藤――ひいては新撰組にとってどれ程有益になるのかわからぬ程沖田も馬鹿ではないし甘くもなかった。だからこそ沖田は斎藤の行いを咎められないのだ。それでも沖田は懸命に足を動かしていた。たとえ自分が出しゃばってもどうにもならないのをわかっていても。

「あっ! 沖田はんや!」
「沖田はん! ええところに!」

 どうしても外せない隊務を終えた沖田が斎藤との待つ酒屋へ向かっている途中、よく屯所に遊びに来てくれる子供達に声を掛けられた。

「豆坊におさとちゃん! ごめんね、ボク今日はちょっと急いでて遊べないんだ」

 いつも優しく穏やかな笑みを綻ばせているあの沖田が目に見えて焦っている。しかし今のおさとに、そんな沖田の様子を気に留める余裕はなく、捲し立てる様に早口で喋り出した。

「えーっ! せっかく沖田はんに恰好よくちゃん助けてもらお思ったんに!」
「あんなあ、ちゃんなあ、細い目ぇした兄ちゃんの顔見たらなあ、なんや困っててん」
「っもしかしてそのちゃんって酒屋の……!」
「なんや沖田はんもちゃん知ってんか。ほら、前にうち言うたやん、沖田はんに似合いの別嬪紹介したるって! そやのに沖田はんときたらやれ近藤さんやらトシさんやらでまったく聞き耳もたんと「ごめんっおさとちゃん! 今からボクその"ちゃん"に会いに行ってくるよ!」

 普段は楽しそうにおさとのお喋りを聞いてくれる沖田が話を遮ってまで駆けていってしまった。いつもの沖田では到底考えられない行動に、おさとが驚き目を丸くする。「おさとちゃん、沖田はん行きよったで」その横で豆坊だけは変わらずに、のほほんと目の前で起こった出来事をそのまま口にしていた。






 その人以外眼中になく、その人の為ならば命を捧げる覚悟すらある位大切な存在がお互いに居るにもかかわらず、どうしようもなく惹かれ合うのは何故だろう。その理由がいまだ見つからないからこそ、沖田は戸惑い、は苦悩しているのだ。

「そちらは甘みよりも酸味の強いお酒で、少し癖のある深い味わいが特徴です」

 元々原田と永倉は斎藤と同じく隊務が休みの日であった。せっかくの休みだ、酒を飲むか、女を愉しむか、はたまたその両方か。命のやり取りを忘れ、くだらないことを談笑しながら洛中を散策していると、新撰組幹部の一人である斎藤が酒屋に入っていくのが見えた。冷やかし半分、酒の飲みたさ半分で斎藤を追おうとするが、彼らの前に二人の子供が立ち塞がる。酒屋の娘と知り合いだという子供達が、今あそこの酒屋では、なんだか訳ありの男女が話しているのだから邪魔をしいでほしいと訴えてきたのだ。その話でますます原田と永倉は斎藤とその娘の関係性に興味を持った。そして最終的に酒屋に乗り込むのであった。

「さすが美人看板娘を背負ってるだけあって、酒に詳しいな。それとも斎藤をオトすために覚えたのか?」

 せっかく酒屋に来たのだから酒を飲みたいと宣う原田の要望にお応えして、は酒を試飲してもらいつつ丁寧に解説していった。だが、待ち望んだ酒で満たされて気分が良くなった原田は再び先刻の話題を蒸し返す。

「おいおい原田、絡み酒はやめろ。お嬢ちゃんが困ってるじゃねえか」
「そうですよ、原田さん。コイツは私ではなく、沖田君にご執心なんですから」
「なんだよ嬢ちゃんまで総司にお熱かよ! 結局は顔だってのか!」
「ちっ違います! 私がお慕いしておりますのは沖田さんではなく、せいじゅ――っ!」

 が焦って師匠の名を口走ろうとした丁度その時であった。沖田が酒屋の戸を引いたのは。

「フッ……噂をすれば沖田君のお出ましだ」
「いやあ……すみません、どうやらボクはお呼びでない様だ。邪魔者は失礼します」

 にこりと笑う沖田の表情がやけに冷たくて、はその場から動く事も、何の言葉を返す事も出来なかった。
 明らかに動揺していた沖田の背中と、色を失っていくを傍目で見ていた斎藤は全ての事情を察して愉快そうに口の端を吊り上げる。そんなしたり顔の斎藤とは裏腹に、原田と永倉はこの異様な空気になんだなんだと首を傾げるばかりであった。






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