蜜雨

 見廻りに出ていた沖田が屯所へ戻ると、見事に泥と血と雨でぐちゃぐちゃに汚れていた。沖田を迎え入れた隊士達も、そのままではとても屯所に入れられないと慌ただしく手拭いを準備しに走る。慌てる隊士をよそに、当の本人はこれだけ無残な姿であっても、相変わらずのほほんと構えていた。すぐに沖田の元に手拭いが到着すると、町娘を助けて賊を斬ったから後処理を頼みますと隊士に告げる。

「ほう……あの沖田君が女を助けるために賊を斬るなんてな……どれ、私も行こう」

 あの沖田が悲惨な姿になって帰還したとざわめく隊士達の話を聞き、どんなもんか拝んでやろうとやって来た斎藤は沖田自身より沖田の話に興味を持った。しかしすぐに平隊士が組長にそんな汚れ役をさせられないと反論したが、当然斎藤に一蹴されて早々に死体の場所へと向かう。沖田は特段引き留める事無く、そんな斎藤の背中を無言で見送るのであった。

 件の裏路地に着くと、そこには確かに死体が二つ転がっていた。斎藤はさっさと死体を片付けようと動く隊士を制止し、じっと死体の損傷部を観察し始める。そして即座に沖田の太刀筋でない事に気づいた斎藤は一つの予想を立てた。



「沖田君、入るぞ」

 障子越しに声を掛けると、返事をする様に障子を滑らせて沖田が顔を出す。すっかり身なりが綺麗になった沖田は、斎藤の来訪に特に驚く様子もなく「どうぞ」と自室へと通した。沖田の部屋の中は簡素で、生活感などまるでなかった。だからこそ、大事そうに手拭いの上にちょこんと置かれた簪が異様な輝きを放っているように見えるのだ。

「女の忘れ物か」

 簪を見つけた斎藤が確信めいた問いを沖田に投げ掛ける。

「賊を殺したのは沖田君ではない。女の方なんだろう?」
「やっぱり気づいちゃいました?」

 最早気づかれても構わないといった軽い口ぶりだ。
 賊を斬ったではなく、女を助けて賊を斬ったという沖田の申し出がどうにも斎藤の中で引っ掛かった。まるで女を庇うように聞こえたのだ。現に行ってみれば、賊は見覚えのない太刀筋で斬り殺されていた。見る者が見れば沖田の剣筋でない事は一目瞭然。

「……あの女か」

 斎藤の言う女が誰の事を指しているかわかった沖田は、肯定も否定もせず意味ありげに微笑む。
 あの見覚えのない太刀筋を、斎藤はつい先日も見た気がしたのだ。
 最近腕の立つ人斬りが秘密裏に動いているという情報が新撰組内で広まっていた。既に新撰組の隊士も何人か殺られている。その噂の人斬りが今夜又刀を振るうかもしれないという情報が斎藤の耳に入った。情報の出所が不正確だったので斎藤は適当な隊士を送ったが、見事な剣捌きで全員討ち取られていたのだ。その時の太刀筋と今回の太刀筋はどことなく似ている気がする。あのという女が噂の人斬りなのか、それとも別の者がいて、偶然と同じ流派なだけなのか。どちらにせよ、あの自称田舎娘は只者ではないと斎藤は踏んでいた。

「敵なのか」
「わかりません……只――」

 彼女が敵でない事を願う自分がいた。彼女は強い。きっと並大抵の剣じゃ歯が立たないだろう。確実に新撰組の脅威となる。しかしながら沖田の心情はそれだけで片づけられる程単純なものではなかった。
 穏やかにそして冷徹に人を殺すに触れた時、強さの裏に微かに不安に震える唇や、逡巡に濡れる黒曜石の脆弱さを小さく感じた。救いたいと思った。あのまま捨て置けなかったのだ。涙を流しているのなら拭ってやりたいし、悲しんでいるのならば笑顔にしたい。人殺しには違いないのだけれど、彼女の核心に少しでも触れてしまったら、意味もなく人を殺しているとはどうしても思えなかった。かと言って、彼女を突き動かしているものが何なのかはわからない。だからこそもっと彼女を知りたいと思った。思ってしまったのだ。







*







 沖田は雨上がりの太陽の光を浴びて気持ちよさそうに目を細める。その足取りは甚く軽やかだ。
 彼の勢いに流され、もつい一緒に出てきてしまった。だが、こんな所を剣心に見られでもしたら言い訳しようもない。只でさえこれから祇園祭が本格的に始まろうとしている時分。洛中の人通りはいつもの比ではない。そして何よりも、沖田に触れられる度にどこか比古に対して後ろめたさを感じてしまう。比古を想う気持ちがじわじわと沖田に侵食されていく感覚に陥るのだ。その底知れぬ感覚がどうしようもなく恐ろしくて、これ以上彼と一緒に居たらどうにかなってしまいそうだった。
 帰ろう――は沖田の名を呼んだ。

「あの、沖田さ……っ!」

 剣を扱う才能は剣心をも凌ぐであるが、如何せん元が鈍くさい。今回もその鈍くささが災いして人にぶつかってしまった。沖田は透かさず手を伸ばし、よろめいたの手を引いて歩く。中世的な顔つきながらもごつごつとした武骨な剣豪の掌を意識してしまえば、たちどころにの顔は恥じらいの色に染まった。まただ。またの中に沖田が入り込んでくる。

「すみません、沖田さん……私やっぱり……!」

 どう足掻いても感情が溢れかえってしまうは困ったように眉を寄せて必死に声を上げた。そのの訴えに被せる様に沖田も声を震わせる。

「嫌なら……本当に嫌ならば、ボクの手を振り払ってください」

 索漠とした笑みを浮かべる沖田に、の決心が揺らぐ。

「っ、そんな言い方……ずるいです……」

 それじゃあ振り払おうにも振り払えない。

「ずるいのはさんの方だ。可愛らしく頬を染めて、刀すら握ったコトもなさそうな顔をする」

 刀を持たぬは、その辺に居る世間知らずな女子となんら変わりなかった。しかし虫一匹殺さなそうな顔をしている彼女の手は幾人もの血で汚れている。間違いなくは人斬りなのだ。あの雨の夜は決して夢ではない。彼女の底知れぬ凍てついた闇だ。その落差が沖田を酷く困惑させる。



 沖田に手を取られたはしずしずと歩みを進めていた。いつでも解ける様に繋がれた手を最後に選んだのはだ。その甘く厳しい桎梏から逃れようと思えば逃れられるのに、どうしてもできなかった。やんわりと視界を狭められ、沖田を見つめるしかないにはもう逃げ場のない逃げ道しか残されていなかったのだ。

さん、着きましたよ」

 そこは祇園祭の時期に合わせて江戸から渡り歩いてきた行商人の露店であった。彩り豊かな簪や質の良い櫛が陳列されている。

「これは……」
「見廻りしてる最中にこのお店を見つけたんです。どれも綺麗でしょう?」
「そう、ですね……」

 沖田の問いには歯切れ悪く肯定する。あの夜は簪すらも躊躇いなく人を殺す道具として扱った。美しい装飾が施された簪を膠もなく血で汚したのだ。それを知っている筈なのに、沖田は簪を眺めながら綺麗だと口にした。あの夜の血生臭さが手繰られる。

「実はあの時さんの簪、ボクが持っているんです。その簪をボクにくれる代わりに、新しい簪を贈らせてください」
「……っどうして……どうしてあなたは……」

 私に優しく触れるのですか――は目線を落とし、そっと深紅に燃える花の簪に触れた。その花はまるで刈り取られて血に染まる人の頭の様だ。

「あなたが泣いていたから」

 その言葉の意味をが理解するよりも先に沖田は彼女が触れていた花の簪を静かに奪い去り、目の前に翳した。

「やはりさんは赤よりも青の方がずっと似合いますね」

 眩しい微笑を零した沖田には目を見開く。
 に青が似合うと言った男はこれで二人目だった。またも比古の影が掻き乱され、沖田が音を立てて近づいてくる。もはや逃れられやしない。



 石造りの階段が続く道の周囲は竹林が繁茂していて、風が吹く度に涼しげな囁きが聞こえた。この先の頂上には神社が厳かに佇んでいる。
 が閉眼しながら合掌して熱心に参る姿を気付かれない様に横目で見遣る。その少々俯き気味な半面の輪郭が百合に似ていた。だが百合の花の美しさも、解語の花には及ばない。

「訊いてもいいですか? さんが刀を振るう理由を……」

 お参りを終えると、木々が軋む音しか許されなかった地に沖田が声を落とした。

「……私は高尚な思想など持ち合わせておりません」

 沖田も又高尚な思想などありはしなかった。只彼は彼の慕う近藤の為に生命を燃やし、その身を剣に捧げるのみ。新撰組という肩書は後から付いてきたに過ぎない。

「只時代時代の苦難から弱き人々を守る……それだけです」

 の言葉が沖田の腰に携えた刀に鈍く圧し掛かる。
 本当の幸いを求め、は刀を握り、人を斬る。彼女を突き動かす熾烈に輝く信念。その根幹に触れた瞬間であった。おっとりとして弱弱しい印象を受けるが、強く張り詰めた表情で截然とした物言いをするものだから、今度は沖田が目を丸くする番であった。そのか細くて小さな手に刀は余りにも重苦しく、を蝕んでいるとさえ思っていた。しかしそんな思考すら沖田の傲慢だったと気づかされる。沖田が思う以上に彼女は彼女なりの剣の道を邁進し、戦場に身を置き、芯のある正義を貫こうとしていたのだ。

「いつだって犠牲となるのは刀を持たぬ弱き人々――その弱き者を脅かす者は、たとえ新撰組であろうと攘夷志士であろうと斬り伏せます」

 だからこそは如何なる権力や派閥にも属さず自由の剣であり続けた。

「……参ったなあ。本当はボク、ここで斬られた新撰組の隊士について何か知らないかさんを探りに来たのに……」

 沖田は乾いた笑いを漏らす。一切の誤魔化しもなく、真摯に受け答えしてくれたをこれ以上欺く事など沖田には土台無理な話だった。斎藤と違って沖田は剣しかない。こうした隠密行動や思考を巡らす案件は存外苦手なのだ。そんな沖田でもの言葉を聞いたら今回新撰組を斬った者が彼女でない事位わかる。だが、それだけで沖田の肝胆のざわめきは収まらない。

「本当にあなたは不思議なお人だ……」

 との距離を僅かでも埋めるよう抱き寄せた。突然の事には抵抗を示すが、沖田は構わず腕の中のあたたかくて柔い感触が離し難くて力を入れる。は途端に体を強張らせた。密着すればする程鮮明に鼓膜を刺激する心臓の鼓動。咄嗟に添えた手からは意外と男らしい胸板の硬さが伝わる。自然と自分の顔に熱が集まるのがわかったは、一刻も早く沖田から離れようと藻掻いた。しかし沖田は逃がさないとばかりに自分の胸に添えられたの手首を掴む。

「い……っ!」
「っすみません……!」

 の顔が痛みで歪むと、ぱっと沖田は手を離した。あの日斎藤に強く握られた手首は、いまだに掴まれると痛みを発するのだ。おかげで沖田から離れられたが、真っ赤な顔をばっちり見られてしまった。

「そんな顔をされてしまったら、今すぐにでもあなたが欲しくなる」

 ついに優しくも激しい瞳に追い詰められた。いっそ斎藤の様に手荒く扱ってくれればどれ程良かっただろうか。少なくともこんな行き場のない感情を持て余す事はなかった筈だ。の唇はもう比古の名を紡ぐことさえ許されない。

 雨に濡れて匂い立つ菖蒲の香りが科戸の生温い風と共にここまで届けられ、火照りを冷ます様に二人の肌を撫でるのだった。






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