其之一
鬱蒼とした森の中、道なき道を練り歩くの顔には些か疲労の色が見えていた。自分の住む山から離れ、パオズ山に入ってはや一週間、ずっと道に迷っていた。は究極の方向音痴だったのである。その特性の所為で何度師匠に怒られたことか。無理もない。山中で修行していたはずが、いつの間にか川から海へ行き、都を縦断し、また海を渡って川を辿りながら山に戻ってきたのだから、もはや天賦の才である。そんなは至って真面目に、そして貪欲に目的地に向かおうとしている。今だって人に道を訊こうとうろうろしているのだが、いるのは獰猛な獣ばかり。食料には困らないが、いつまでたっても目的地に着くことは叶わない。どうしたものかと頭を悩ませていると、少しだけ離れた所から激しく森がざわめく気配があることに気づく。獣同士の縄張り争いか、それとも狩りか。いずれにせよ、警戒しておくに越したことはない。は腰に括りつけてある刀の柄に手を掛けて集中力を研ぎ澄ませる。そして茂みから飛び出してきた熊の顔面目掛けて横薙ぎに刀を振り払った。
「ふう……」
が息を吐いて刀を鞘に納めると熊は大きな音をたてて地面に倒れた。一件落着かと思いきや――
「うわああああ!! どいてくれええ!!」
その熊の背後から猿のような小柄な少年が物凄い勢いで駆けてくる。少年は追いかけていた熊がいきなり倒れ、しかもその先に人がいるとは思わず、勢いを殺せずに突っ込もうとしていた。もまさかこんな人里離れた山奥で人間が熊を追いかけているという場面に遭遇するとは思わず、最悪の事態が折り重なり、そのまま少年とぶつかってしまった。幸いなことに少しでも勢いを殺そうと、が後ろに飛んだおかげで互いにそこまでの痛みはない。受け身が取れてよかったとがほっとしていると、なんだか胸に違和感を感じた。
「ん? なんかおまえの胸、やわら「これ以上触ったら次は殴るぞ?」いでででででええ!!!」
あろうことか少年はの胸に丁度顔を埋めるようにぶつかってきたのだ。おまけにご丁寧に感想まで述べようとしたので、は顔を離すように片耳を引っ張り上げた。これには少年も堪らずから離れる。
「おーいつつ……なんだよ、胸くれー。おまえも鍛えればオラみてえに硬くなっから気にすんなよな」
「問題はそこじゃ――まあ、いいか」
自分の胸を叩きながらけたけたと笑う少年からは一切の悪気は感じられない。はそんな少年の態度に毒気を抜かれ、腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなり、これ以上の口論は諦めた。
「少年、名前は?」
「オラか? オラ、孫悟空ってんだ!」
「孫……悟空……? もしかして孫悟飯さんと知り合いか?!」
がばりと悟空の両肩を掴むと、悟空は呆けた顔をして口を開く。
「なんだおまえ、じっちゃんの知り合いなんか?」
「俺の師匠は孫悟飯さんと兄弟弟子なんだ。師匠が亡くなるときに、一度孫悟飯さんの所へ訪ねてみろと仰っていたから、ぜひ会ってみたくてパオズ山に来たんだが……」
「そっか。でもじっちゃん死んでっから、もう会えねえぞ」
あまりにも悟空があっけらかんと言うものだから、は理解が追いつかず、目を見開くことしかできなかった。
師匠と肩を並べる程の実力者、一度教えを請いたいと胸を馳せていたのに、まさか亡くなっていたとは――少しだけ感傷に浸っていると、どこからか腹の音が聞こえてきた。
「オラ腹減っちまった!」
どこまでも自由な奴。はそう思うと同時に、悟空の強靭な精神力に感心した。自分もまだまだだな。
悟空の家に着くと、悟空はまず初めにじいちゃんの形見だという綺麗な丸い玉に向かって一礼し、が来たことを報告した。悟空にとっては孫悟飯の形見であり、お位牌代わりなのだろう。も悟空に倣って一礼し、挨拶を済ませた。
さあ次はご飯の準備だ。悟空が追いかけ、が仕留めた熊をさっそく丸焼きにしようと悟空が火の準備をしようとすると、が制止した。
「一宿一飯の恩ってやつだ。俺に任せてくれるか?」
悟空が今夜は家に泊まれと言ってくれたおかげで、久しぶりにまともな寝床を確保したはご機嫌だ。そんながひとたび刀に手を触れ、凛とした眼差しで熊を見つめて抜刀すれば、あっという間に熊を捌いてしまった。
「すげーなあ!! あっちゅーまに熊を……うわああ!!」
悟空は見事な刀捌きよりも、の刀を見て驚きの声をあげた。なんとが手にしている刀に刀身がない。熊を捌いて折れたわけではなく、元から刀身がないのだ。一体全体どうやってあの熊を捌いたのだろう。
「は妖術使いだったんだな?! どうりで男のくせに細っこくてやわらかいと思ったんだ妖怪め!!」
から距離を取り、構えながら睨みつける。
「まあ落ち着け悟空。これは妖術というか、妖刀と言った方が正しいかもな」
「ようとう?」
は赤ん坊の頃、山に捨てられていた所を師匠に拾われた。そのときが肌身離さず持っていたのがこの天叢雲だ。
なぜ妖刀と呼んでいるのか――それは刀身こそないが、一振りすれば切れ味はどこまでも鋭く、生き血も残さず飲み込み、そして以外の者が扱おうとすると、まるで拒絶を示すかのように刀は重くなり、柄は焼けるように熱くなる。これを妖刀と呼ばずなんと呼ぼう。しかしにとって天叢雲は羽のように軽い武器であり、お守りであり、体の一部であった。
「だから俺が妖怪というよりも、この刀が奇天烈なだけさ。これでも気に入ってるんだ、俺の相棒を悪く言わないでくれ。悟空もその背中のやつ、大切なものなんだろ?」
ニカっと笑うからは邪気など感じられない。悟空は構えを解き、こんな顔で笑う奴が悪い奴なわけがないと、今度こそ本当にから警戒心を解き放った。悟空もまた孫悟飯の形見である如意棒をに見せ、二人はお互いの師匠の話題で盛り上がった。
「っはー! 食った食ったあ!! オラ、こんなうめえ料理はじめて食ったぞ!!」
「それは良かった。にしても……明日の分までもつと思っていたんだが……悟空の胃袋はどうなっているんだ……?」
が捌いた熊肉と、パオズ山で迷っている最中に採っていたきのこや山菜類を入れた鍋をいたく気に入った悟空の食べる手は、とうとうこの大きな鍋を空にするまで止まらなかった。
悟空の家にやけに大きな鍋があると思ったら、こういうことだったのか。
丸焼き以外料理という料理をしたことがない悟空の家で、しばらく使われていない鍋を発見した。きっと彼の師匠である孫悟飯が際限ない食欲を持つ可愛い弟子のお腹を満たす為に使っていたのだろう。
「ん? 、なにやってんだ?」
「ああ、これは熊の胆嚢。紐に括りつけて乾燥させ、生薬にする。悟空には無縁かもしれないが、胃痛や胸焼け、消化器系全般に効果があるんだ。ただびっくりするほど苦いけどな」
「よくわかんねえけど、オラ苦いのは嫌いだ」
「ははは! 悟空には必要ないだろうから安心しろよ」
こうしてと悟空は久しぶりにひとりではない食卓を楽しく終えたのだった。
「悟空、悪いが俺は寝る前に水浴びしてくるから先に寝ててくれ」
食事の片付けも終わり、火を消して寝る準備をしている悟空には声を掛ける。これまた久しぶりにふたりで寝ることにワクワクしていた悟空は少しがっかりしていた。せっかくのマタをマクラにしようと思っていたのに、となにやら不穏な発言が聞こえた気がしたが、深く突っ込むとややこしそうだったのでは再度悪いなと謝って家を出ていく。
「はー! やあっと解放されたー!!」
滝の麓にやってきたは身につけていた衣服を脱ぎ捨て、水浴びをしていた。この時間だけ、胸に巻いたサラシを外し、本来の自分に戻る。
月明かりが眩しく、水面には自分の顔や身体が映っていた。しなやかな肢体、柔らかな胸――どれもにとっては無用のものである。
は女として成長していくに従って、抗うように男装をしていた。武道を極めるのに男女は関係ないと師匠は言っていたが、が修行で見てきた世界は違かった。武道を極めるにあたって、男でいた方が相手が本気で掛かってくるのだ。これがもし女だったならば、たとえ勝負に勝とうがなんやかんや文句を言われ、うやむやにされるのが関の山だ。鬱陶しくてたまらない。それならばいっそ男になってしまおうと決意したのがはじまりで、今ではすっかり男装が定着してしまった。
「それにしても孫悟空……か……なかなかどうして面白い男だな」
師匠が心臓病で亡くなって、暫くは放心状態だった。あの頃どうやって生きていたのか今でも思い出せない。そんな無気力な日々を過ごしていたある日、突然夢に師匠が出てきた。あのゲンコツを貰わなかったら、今ももしかしたら半死半生のまま世を生きていたかもしれない。
師匠に活を入れられると、に生きる気力が湧いてきた。師匠の遺言通り孫悟飯に会いに行き、それからゆっくり世界を回る。師匠の師匠である武天老師と呼ばれる亀仙人にも会ってみたい、師匠がついぞ到達できなかったカリン塔の天辺にも挑戦したい、西の都に行って科学技術を学んでみたい――ワクワクが止まらなかった。
自分はこうして立ち直ったのだが、同じような境遇にある悟空は自分の師が亡くなったというのに随分とあっけらかんとしていて、心身共に鍛え抜いているのだとは感心していた。自分はまだ師匠が亡くなったことを口にするのも躊躇うというのに。
「おめえその胸についたでけえシリを隠したくてこんなもん巻いてたんか?」
聞こえるはずがない悟空の声に弾かれるように振り向くと、サラシを手にしてただただ不思議そうにしている悟空がいた。はすぐに極力悟空の目に触れないように素早く体を隠しながら川の岸辺に服と共に置いていた刀を掴み、鞘で悟空の後頭部を叩きつけて川に落とす。悟空が上がってくる前に着替えてしまおう。
「いってーっ! なんで思いっきりオラの頭叩くんだよ?!」
「これでも手加減はした。あわよくば記憶が消えないかと思ったが、思った通りの石頭だな……いいか、悟空。今見たことは即刻忘れろ。いいな?」
「なんだ? やっぱ胸にシリがついてるの気にしてんのか?」
川から上がって水浸しになった道着を絞りながら、どこかずれた発言をする悟空にはずっこけそうになりながらも、かろうじて口を開いた。
「……悟空は女って知ってるか?」
「女? 女なら知ってっぞ! 見たことはねえけど。オラ、じいちゃん以外の人間に会ったのが初めてだかんな」
「……なるほどな」
は小さく呟いた。
サラシ越しの胸を触られ、あまつさえ直接体を見られることとなったが、悟空は女の体はおろか人間の体の構造や違いについての知識が皆無なのだ。だからこその体を見ても女だと騒ぎ立てるようなことはなく、むしろ胸を第二のシリだと勘違いしている。これはにとって嬉しい誤算であった。
「悪かったな、突然殴ったりして。あとで打撲に効く薬を塗ってやる。けど、むやみやたらと人が水浴びしているところに来るんじゃないぞ」
「なんでだ? オラのじいちゃんは裸の付き合いも大事だって言ってたぞ」
「それもまあ一理あるが……そうだな、悟空がもう少し大人になったらまた別の付き合い方があるってわかるはずさ」
悟空は相変わらず首を傾げていたが、ま、いっかと持ち前のお気楽思考ですぐに忘れてしまった。
「寝ているときに悟飯さんにやっていたようなことするなよ。次は刀を抜くからな」
「いぃ?! ちぇー……せっかく久しぶりにキンタマクラしようと思ったのに……」
悟空と一緒の寝床であることは泊まらせてもらう以上文句はなかったが、いくら男女の区別がつかない悟空でも警告しておいて良かったと心底思ったであった。