第10話
弟への愛が爆発して東京まできた訳だが(いわゆるご都合主義)、なんやかんやで東京へは現役時代だった頃に遠征で何度も訪れており、そのおかげで都会に慣れているの足取りに迷いはない。駅構内のトイレでどこから入手したのか謎の音駒高校の制服に手早く着替える。の身長では女子の制服だと目立つため男子制服だ。長い髪はカツラに収め、顔を隠すマスクを装着する。この時期まだ花粉症が流行っていて助かった。やるからには完璧を求めてとことんやり抜くの性格により、無事音駒高校仕様の男装が完成した。
そうしてあっさりと音駒高校の侵入に成功したは、時間経過とともに若干冷静さを取り戻していた。
「ん? 音駒って……まさか」
さっと顔色を変えた。
以前恩師に聞いたことがある。倒したい相手がオレンジコートで待っていると。そしていつかセンターコートで戦う――ネコとカラスのゴミ捨て場の決戦だ。ここが本当にあのネコの音駒ならばあの監督がいるんじゃないかと思考をぐるぐると巡らせていたら、丁度曲がり角から人が飛び出してきて思いっきりぶつかってしまった。視力の悪い右目側で死角となっていたのだ。通常のであれば多少ぶつかられても堪えられるが、完全に死角からぶつかられて力の抜けていた状態だったために冷たい廊下に伏せることとなった。
「悪ぃ!」
よほど急いでいるのかちらりとを確認して謝ると、そのまま駆け抜けていってしまった。この場合、へんに関わりを持たなかったと考えれば不幸中の幸いだったのかもしれない。
「おい、だいじょう、ぶ……か」
訂正しよう。最悪だ。
冷たい廊下に放置されたを心配して声を掛けてくれた男子生徒の言葉は尻すぼみに消えていく。
ぶつかられた衝撃でカツラがすっぽ抜けた。男子の制服に長い髪――どう考えても不審者である。あまりにも気まずすぎて顔が上げられない。
「おま「あのっ! 怪しい者ではありません! どうかこの事は黙ってもらえませんか?!」
ばっと立ち上がって男子生徒の手を両手で包み込むと、上目遣いで懇願する。なぜかこれをすると大概は許してもらえるので、このピンチを脱しようと苦し紛れに実行したという訳だ。この男子生徒に効果があるかは未知数である。
「あー……っと……」
鶏冠のように逆立った少し奇抜な髪型をした男子生徒は、少し目線を逸らしながら後頭部をガシガシと掻いた。言葉を濁す男子生徒には鼓動を早める。ダメか――そう思った矢先、男子生徒は口を開いた。
「別に俺は君をどうこうするつもりはないよ」
にっこりとそれはもう完璧な笑顔であった。完璧すぎるが故に胡散臭さを感じてしまうほどだ。
「じゃっじゃあ「君の連絡先聞かせてくれたら黙っておくよ?」
「えと、それは……「じゃあ名前だけでも」
人は窮地に立たされると判断力が鈍る。先に難易度が高い条件を出されると当然断るが、その後にハードルを落とした条件を出すと最初断った手前承諾を得やすくなる。これは人間の心理的な現象である。男はそれを利用していた。
「ソ、ソラっていいますー!!!」
しかし影山の防衛反応は正常に働いた。
かつて自分が使っていたコートネームならば名前っぽい。咄嗟に浮かんだアイディアとしては名案だ。
名前を叫びながら走り出したを、もちろん男は追うことはしなかった。名前を教えるという条件は満たしていたからだ。だがが廊下に落とした携帯がきっかけで、黒尾はの本当の名前を知り、やがて黒尾とは追いかけ追われの関係となるのだった。
(あからさまな黒尾贔屓はここから始まった)