蜜雨

※"それもまた彼の戦場"の内容含、イシュヴァール殲滅戦捏造






 イシュヴァールは強い乾燥地帯で、草木もろくに育たない岩と砂だらけの土地だ。ここの気候と私の焔は相性が良く、術を発動すれば確実に人を殺せる。国家錬金術師という肩書を持った大量殺戮兵器の完成だ。
 そんな私でも弱点がある。湿気だ。現在ここイシュヴァールでは極めて珍しい雨が降っていた。私の火力ありきで動いていた隊は、これ以上先に進めず目の前の敵とは膠着状態。まもなく救援が来ると言っていたが、まだだろうか。

「すまない、遅くなった。ここからは隊が引き受ける」

 耳を疑った。まさかの隊が来ると思わなかったのだ。彼女の錬金術の性質上、主にオアシスや川付近に配置されていると聞いたから。
 しかし、そうか――この雨はイシュバールの民にとっても、白雪の錬金術師にとっても大いなる恵みを齎すのか。

「第十二地区は我々が殲滅した。マスタング隊はただちにそこを通って帰還してくれ」

 士官学校を卒業し、軍服に袖を通した際にとヒューズとの三人で写真を撮った事があった。比較的体格が軍人然としていた私とヒューズは、我ながらなかなか様になっていたのだが、小柄で可愛らしい顔立ちをしていたは着られている感が最後まで抜けなかった。それが今や硝煙の匂いが染みついた煤まみれの軍服を纏う、人殺しの目をした軍人となっている。
 あの頃では考えられない位、随分と偉くなったものだ。いつの間にか私も、そしても一小隊を率いる立場になってしまった。

「マスタング少佐! 私はもうこの怪我では足手まといです! ここに置いていってください!」

 雨の中敵と応戦していた私の部下の一人が負傷して帰ってきた。太い血管をやられたのか、出血量が多い。確かにまともな治療道具すらないこの戦場では、助かる見込みは少ないだろう。部下の意思を汲んで私が頷こうとすると、が部下に服を脱ぐように指示をした。そしてが両手を合わせて部下の体に触れると、錬成反応によって辺りが光った。

「止血はした。さて……君は痛みには強い方か?」

 は厳しい表情で部下に布を噛ませる。そして私の湿気って使い物にならない発火布の水分を一瞬で蒸発させ、「彼の傷口を焼くんだ、マスタング少佐」そう言い放った。






「それにしても、あの少佐凄かったな」
「あの後俺達のいた十三地区も落としたんだろ?」

 の指示通り第十二地区を通って無事帰還した私達は、テントで休息をとっていた。大して美味くもないコーヒーを啜ってぼんやりしていると、先刻のの話が聞こえてくる。
 雨の中のはまさに水を得た魚。存分に彼女お得意の錬金術が発揮され、大量のイシュヴァール人が死んだだろう。私がこうしている今も、彼女はどこかで人殺しの目をして人を殺しているのだ。士官学校時代に錬金術について語り合った時ののキラキラした笑顔が、血で塗りつぶされていく。

「そうだ、あいつ。少佐とマスタング少佐に処置された奴。どうなったんだろうな」
「ああ、あいつか。医者の治療を受けて快方に向かってるってよ」
「錬金術ってのは人を殺すだけじゃねぇんだな。命まで救っちまうたぁ……」
「なぁに言ってんだバカ。俺達がこうしてられんのも、錬金術のおかげなんだぞ」
「まったく、国家錬金術師様様だな」

 "錬金術師よ、大衆のためにあれ"
 こんな戦場に長くいると、そんな基本理念も忘れてしまいそうに――いや、この焔で人を殺した時、目に入らないよう自身で消し炭にしたのだ。だが、、おまえは凄いな。ほんの数分で私や、私の部下にすら、人の命を容赦なく奪い去れる錬金術で希望を与えてしまうのだから。

「ありがとうございますっ、ありがとうございます……っ! こんな、こんな役立たずの命を救って頂いて……!!」
「命に上も下もない。同じ命だ。役立たずな命などないよ」


 自分の命が繋がったと実感した部下は涙を必死に堪えながら、震える声で私とに感謝していた。そんな部下の肩を叩いたは、その時だけは上官としてではなく、として笑みを零した。そうだ――どれだけ人を殺し、血に汚れようとも、なのだ。
 私は今度こその笑った顔を思い出していた。












「おーい、! いや、少佐!」

 ガタイの良い軍人に埋もれる一際小さい昔馴染みを見つけた。丁度茶を貰っていたも俺を見つけると、カップ片手に駆け寄ってくる。

「マース! 久しぶり、なのは嬉しいんだけど……少佐はやめてよ」
「じゃあ白雪姫って呼んだ方がよかったか?」
「……もしかしてそのあだ名、軍部中に広まってる?」

 おおよそ姫と呼ばれる人間にあるまじき顔をしていたが、そんな所も変わってなくて安心した。ただ、そんなもまた人殺しの目をしている。こいつが国家錬金術師で、どう足掻いてもここが戦場だと痛感した。

「この間の雨の日の活躍で、おまえの名が更に広がったのは間違いないな」
「その雨の日に、焔の錬金術師殿の救援に向かったよ」

 士官学校時代から付き合っている男の話をしているようには到底見えない無感情な顔をして、は茶を一口飲んだ。
 今日みたいにからっからに晴れた日のロイは敵なしだが、雨の日には滅法弱かった。戦力が大幅に下がったマスタング隊の元に、の隊が救援――久方ぶりの逢瀬が戦場で、しかも早々に惚れた女に負傷兵の傷口を焼いてくれなんてお願いされた時のロイの心情は考えたくもない。

「俺の隊にもロイの隊が増援として来てくれてな……」

 戦力差もあって攻める事もできず、手詰まりだった状況を打破してくれたのがロイの錬金術だった。屋上から俺達に向かって撃ってくるイシュヴァール人をロイの焔が一網打尽にしたのだ。すぐに追い詰めるように生き残りがいないか屋上へ足を進めると、嫌になるくれぇ目にした白髪に褐色の肌と赤い瞳を持つイシュヴァール人の男が建物内に隠れていた。

「ヒースクリフだった」

 その名を口にしたのは士官学校の卒業式以来だったと思う。だが、忘れはしない。厳しい士官学校を共に過ごした同期を誰が忘れるものか。そして、これからもずっと覚えているだろう。
 きっとも、ロイも、この戦地に赴くと決まった時、ヒースクリフの顔が過ったはずだ。俺は過った。もし奴が俺達の敵側ではなく、俺達側であったなら――いや、これ以上は止めだ。不毛過ぎる。

「ヒースクリフはロイを撃った。そしてそのヒースクリフの頭を俺が撃った」
「ッロイは?!」
「無事だ。国家錬金術師の証の銀時計に丁度弾が当たって無傷で済んだんだ」

 もっとも、あいつの精神は今もなお終わらない殺戮に蝕まれ、傷つき、化膿して腫れ上がっているだろうが。

「そっ、か……ごめん、いつもマースに損な役割をさせて」
「……俺にもな、グレイシアっていう、今も中央で俺の帰りを健気に待っている最っ高にいい女がいるんだ……けど、ロイに言われたよ。血に汚れた手で惚れた女を抱き締めるのかって」
「抱き締めるよ」

 その言葉は俺の答えでもあり、の答えでもあった。自分も血に汚れた手でロイを抱き締めると言ったのだ。

「ロイが生真面目に何でもかんでも背負い込む姿を見るほど――ロイの強さの裏に隠された弱さを知れば知るほど、私は強くあろうと思えるんだ」

 ロイ、おまえは幸せ者だよ。ここまでおまえを理解し、こんな所でも笑ってみせる位強い女を俺は見た事がない。
 死ぬなよ、ロイ。次おまえに逢ったら抱き締めるんだってが決意してるんだ。だから絶対に死んでくれるな。俺もこの手でグレイシアを抱き締めるまで生きてやる。こんな人殺しでも人並みの幸せを望んでいいんだって、血に汚れた手でも極上の幸せを掴めるんだって俺とが証明してやるからよ。

「うへぇ、まっず……泥水啜ってる気分」

 カップに残っていた茶を一気に飲み干したは顔を顰めた。

「おまえ、料理は大雑把なくせに茶を入れる時だけ妙なこだわりあるよな。美味いけど」
「大衆食堂の料理は大味なの! それに、お茶の淹れ方は父親に徹底的に叩き込まれたからね」

 そういえばの実家は食堂だった。しかもそれなりに繁盛してるのに、育ち盛りのチビ達のおかげでいつまでたっても貧乏だってぼやいてたっけ。
 本当に茶だけは愛しのグレイシアちゃんよりも、本格的に習っただけあるの方が淹れ方は上手だと思う。ここで重要なのは、淹れ方――美味さで言ったらそりゃもうグレイシアの圧勝よ。なんたってグレイシアが出してくれる物は全て俺への愛情たっぷりだから、何よりも美味いのだ。あーあ、早く会いてぇなぁ。



 後日ロイを見つけたが物陰まで手を引っ張っていき、ひっそりとロイを抱き締めているのを目撃した。そしてロイもまたに応えるように、震える手を彼女の背中に回してしっかりと抱き締めていた。
 そうだ、ロイ。そうやって何もかもかなぐり捨てて、どうしようもない葛藤を呑み下して、俺達は愛する女をその手で抱くんだ。












 最後に燃やした名も知らぬご老人の姿が、言葉が、脳に焼き付いて離れない。きっとあのご老人は私の顔を忘れないだろうし、私自身もあのご老人の顔を決して忘れない。

 イシュヴァール殲滅戦は我々の勝利で終わった。
 倒壊した建物の瓦礫を椅子にしてぼうっと座っていたら、「ロイ」と名前を呼ばれた。この場で私を"マスタング少佐"と呼ばない者は限られている。



 彼女は私の顔を見ると、悲し気に小さく笑って隣に座った。互いに無言で周囲の喧騒を眺める。砂埃と共に舞っていた火薬の匂いや死臭など誰も気にする様子もなく、気の抜けた顔で勝利に酔いしれ、祝杯を挙げ、帰り支度をする兵士達がまるで別世界のように映った。

「マスタング少佐、少佐」

 の名を呼んだはいいが、その後に続く言葉が見つからない。それはも同じようだった。そんな折に一人の兵士が私達に声を掛けてきた。

「一杯どうですか?」

 酒瓶を差し出してきた兵士の後ろには、過酷な戦いを生き抜いた屈強な男達が並んでいた。私とは彼らを受け入れると、軍支給品の粗末なカップを渡されて酒を注がれる。

「君達の名は?」

 私が尋ねれば、みな口々に答えてくれた。なんと驚くべき事に彼らは私の隊だったのだ。末端だから知らないのも無理はないと言われたが、なさけない。自分は長い戦いを支えてくれていた仲間の名も知らずに今まで過ごしてきたのだ。死んでいった部下の名もほとんど覚えていない。ましてや手に掛けたイシュヴァール人の事などなにひとつ――

「お話し中申し訳ありません!!」

 敬礼しながら声高に叫ぶ男が私達の輪に入ってきた。

「君は……!」

 私の横に座っていたがその男の顔を見て声を上げる。

「あの時少佐お二人に命を助けて頂いた者です!」
「やっぱり! 傷は大丈夫なのか?」

 ここにきてやっと嬉しそうに笑ったは男に駆け寄った。その男の後ろにいる数人の男達はの隊らしく、男を私達の所まで連れてきてくれたらしかった。

「マスタング少佐」

 完全にの後に続くタイミングを失って彼らの背中を見つめていた私の名を呼んだのは、最初に声を掛けてきてくれた部下だった。

「俺達にとっちゃ貴方達は英雄なんだ。貴方達のおかげで、あの男のようにたくさんの兵が生き残れました」

 を一瞥した後、「感謝します」と部下に敬礼をされれば、これ以上上官としてなさけない顔を見せる訳にはいかなかった。

「君達も……生き残ってくれてありがとう」

 そして私もまた生き残った。



 士官学校時代、ヒューズになぜこの学校に入ったか聞いた事がある。国を守る礎となるために入った私とは違い、彼は愛する女を守るため、と大真面目な顔で言い放った。にもヒューズ同様の質問を投げると、彼女はあっさりと答えた。

「お金」

 余りにもあっけらかんとしているもんだから、私はぽかんと口を開けるしかなかった。横でヒューズが大爆笑しているのをうるさいと一蹴する気も起きない。

「うち七人兄弟で母親も亡くなってるからさ、私が稼がないと本当に家計が火の車なんだよね。その点軍に入ったら食いっぱぐれないし、もし戦死しても家族にお金を遺せる。まさに一石二鳥!」

 ぐっとガッツポーズをしてみせたは「それに――」と続けた。

「所詮一人の人間が守れるものなんて、そんくらいだと思ってるから」

 自分の無力さを嘲るように眉を寄せては笑った。
 この時から彼女はわかっていたのだ。この国を護るなどただの理想だと。実際私はたった一握りの人を守るので精一杯だった。いくら力を持とうが、これだけしか助けられなかったのだ。そんな愚かな己に腹が立つ。

「……が言った通りだな」
「え?」

 終戦に伴って大総統の挨拶が始まるというので、とヒューズと共に本部へ向かっている道すがら呟いた。

「一人の力などたかが知れている。ならば私は自分で守れるだけ……ほんのわずかでいい……大切な者を守ろう」

 下の者が更に下の者を守る。小さな人間なりにそれくらいはできるはずだ。青いと言われようがかまわない。理想や綺麗事も、それを成し遂げた時、ただの"可能な事"に成り下がるのだ。

「理想を語れなくなったら人間の進化は止まる」
「……おまえ、考え方は変わったけど根っこは青臭いままだな!」
「あはは! 私はロイのそんな所が好きだけどね!」
「おい! 愛しのグレイシアちゃんと離れてる俺の前でイチャつくな!」

 それを言うなら私達だって配属先が違うから長い間離れていたし、なんなら久しぶりの再会が戦場だったんだ。おまえよりよっぽど悲惨だろう。

「嫉妬深い男は嫌われるぞ、ヒューズ」
「嫉妬深いのはどっちだ! 忘れたとは言わせねぇぞ、士官学校時代に近づく男を「ねぇ、ロイの理想を実現させるんだったらさ……景色は見晴らしが良くなくちゃいけないよね?」

 胸倉を掴み合う私達なんて気にせず、は話を続けていた。思わず掴み合っていた手を緩め、が見つめる視線を辿っていく。その先には大総統が堂々と立ち塞がっていた。

「そうだな……あそこはさぞかし気分がいいだろうな」

 私達一兵士なんぞゴミのように見下せるあの大総統の座は。

「だが、私一人の力ではあそこに登りつめる事はできない。その自信がある」
「何を威張っとるんだおまえは!」
「安心してよ。私とマースが隣にいる」
「ああ……面白そうじゃねぇか、一口乗ってやるよ」
「じゃあ私はロイの左側守るから、マースは右側担当ね!」
「担当制かよ!」

 とうの昔に奪われた私の心臓をが守り、ヒューズが右腕となる――これほど頼れる同志がいるものか。

「あとは背中を守ってくれるたくさんの部下と、もしロイが道を外した時に遠慮なく撃てる部下も必要だね。もしかしてロイの事だからもう目星つけてたりして――」

 私は非力な人間だ。それ故に全てを守るには仲間の協力が必要だ。私が仲間の命を守り、その仲間がまた別の命を守る。何があっても生き、意地汚く生きのび、皆でこの国を変えてみせる。






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