蜜雨

 その男は足元こそフワフワしていて覚束ず、髪の毛もモジャモジャであったが、かと思えば揺るがぬ意志を持っていつも宙を見上げていた。馬鹿みたいに口を開け、何もかも吹き飛ばす勢いで大声で笑ってはよく周囲の者に五月蠅いと詰られていたが、手を伸ばして幾億もの星を掴もうと夢を語る時は存外物静かであった。



第十二訓




 宙から降って来たのは飛行石を持った可憐な少女――ではなくガタイのいい男で、しかも昔からの知り合いだった。

「おお、金時ィ! 邪魔すオロロロロロロロロ!!」
「いきなり人の家ぶっ壊したかと思えばゲロるんじゃねェェェェェ!!!!」

 屋根を突き破って銀時の前に現れたのは、絶賛船酔い中の坂本辰馬であった。出オチならぬ、出ゲロで全てを台無しにした男である。

「酔い止めが切れてしまってのお……悪いがのとこに連れてってくれんか」

 青白い顔をしながらも笑みを絶やさない所は腹が立つほどタフだ。文句の一つや二つ口にしようとしたが、の名前を出された銀時は乱暴に頭を掻きながら深いため息を吐き、坂本の首根っこを掴んで神楽と新八に後片付けを頼み、万事屋を出て行った。

 行き交う人々は散っていった桜を踏み荒らしたことも忘れ、新緑に目覚めようとしていた。

の診療所前までだからな」
「なんじゃお前、と喧嘩でもしちゅーか」
「そんなんじゃねーよ」

 銀時のその一言で坂本は何かを察すると、都会の無機質な雑踏の中を引き摺られながらぽつりと呟く。

「銀時……わしはお前に話しちょかんといけんことがある」

 坂本が金時ではなく、銀時と名を呼んだ。
 いつになく神妙な面持ちの坂本に対して、銀時は無言で歩みを進める。






 思えば船酔いで弱っている自分を甲斐甲斐しく世話してくれたに出会った瞬間から一目惚れしていたのかもしれない。

 坂本は宇宙を跨いで商いをする合間にたまたま寄った故郷の星で飲み歩き、奇しくもと初めて出会った時のようにゲ〇を吐いていた。
 吐き過ぎてうすぼんやりとした意識の中でも、の一本筋の通った声はしっかりと坂本の耳に届く。白く細い指の割に、幾度も鍛錬を重ねた所為で硬くなった皮を被った手が坂本に触れると、と初めて対峙した時のことが思い出された。

 攘夷戦争に参加する為坂本は船酔いをしながらも、なんとか海を渡って本州に降り立った。しかし吐き気に耐えきれず、上陸した途端銀時と高杉にゲ〇をぶちかましてしまう。当然ゲ〇をまともに被ってモザイクだらけになった二人に天誅されるが、キレた二人を宥めて坂本を介抱してくれたのは医者であるであった。おそろしく美しい顔立ちをしたは当時からよく女に間違われており、坂本もご多分に洩れず「こがな美人見たことないやき」と本能のまま抱きつこうとすると、は坂本の口に薬を突っ込み、無理矢理水を飲ませることで華麗に回避した。もちろん「俺は男だ」と言いながら。

 そして坂本はその時の経験をまったく活かすことなく、再会した喜びのあまりに抱き着こうとしてまた口に薬を突っ込まれ、ぶっ掛ける勢いで水を飲ませられるのであった。

「ざんじだとわかったぜよ」

 出会った当初と声も手の感触も行動すらも変わらぬのに、坂本を見る瞳の色だけは変わっていた。

は何もかも忘れちょった」

 いつだったかは言った。一度診た患者は忘れないし、最後まで責任もって面倒をみるのが医者だと。しかしどうだ、怪我をしても暴れまわる銀時達に、ろくでなしの幼馴染を持つと主治医は大変だと眉尻を下げて困ったように笑っていたは坂本はおろか、銀時達のことまで綺麗さっぱり忘れていた。

 坂本が利き腕を負傷して戦線離脱した後達の師である松陽が死に、敗走した攘夷志士はもれなく散り散りになった。そんな混乱の最中、復帰した坂本はやっと銀時を見つけた。昔から気がつけばの傍には銀時がいたから、てっきりも共にいるかと坂本は期待に胸を弾ませたが、銀時の口からは信じられない言葉が返ってきた。「アイツは死んだよ」そう言った銀時の目も死んでいたことに、当時の銀時は気づいていただろうか。は死んだと言いつつもどこかで生きていると信じる銀時は永劫この地に縛られるだろうと知りながら、坂本は銀時を宙へと誘ったのだった。

「このままわしはと別れるわけにはいかんかった」

 記憶がないに、自分はかつての仲間だと信じてもらうのは意外に簡単であった。
 自分の名前すら忘れてしまったは医者という立場から、出会った人々にかつての師匠同様先生と呼ばれていた。そんな彼女の本来の名は――畏怖の念を抱いて天人や仲間内からも彼岸の羅刹と呼ばれ、攘夷戦争に参加していたということは伏せておいた。ただは坂本が故意に隠した過去も、記憶を失った際手に持っていた刀に自分の核心に触れる何かがあるのではないかと勘付いていた。何故かその刀は自分の手に馴染み、暴漢に襲われれば体が勝手に動いてしまうらしいのだ。もちろん口八丁手八丁の坂本が真実を話す筈もなく、には剣の才があった為医者をしながら剣の方でも世の人々を救っていたと話した。決して嘘でないところが、流石話術で飯を食っていると言っても過言ではない坂本である。
 そして坂本は畳み掛けるようにの信用獲得に口を動かした。
 記憶をなくしていてもは世の流れを汲んで男の方が何かと都合がいいと考え、男装をしていたのだが、坂本はの職業は医者で現在記憶喪失中で本来は女であると正体を見破った。重ねて首の詰まった服を着ていて絶対に見えない筈なのにの首には傷があり、腹にも火傷の痕があることを告げれば、いよいよは坂本は昔の自分を知っていることを信じざるを得なくなったのだ。

「わしは記憶をのうしちゅうに付け込んで、我がモンにしたんじゃ」

 全てを忘れ、唯一持っていた刀の意味も知らないまま月日が流れ、医者として真っ当な道を歩むを見つけた時、目の前に選択肢を突き付けられた気分であった。このまま彼女を救うふりして、ずっと傍らに置いておこうかと何度も思った。愚かだ、馬鹿だとは思ったが、決して間違いではないと思った。全くもって他人が他人の幸せの定義を決めつけるなんて出来やしないけれども、願わずにはいられない――たとえ大切な人間の記憶を失っていようとも、戦火の匂いや血でぬかるんだ土の感触、刀から伝わる肉を断つ鈍い弾力も忘れたままでいれるのなら、そのまま何も知らない彼女のままでいてほしいと。

を抱いたわしが憎いか、わしを斬るか……のう、銀時」

 坂本の右腕は刀こそ以前のように握れなくなったが、の懸命な治療により日常生活では何不自由なく動かせるようになった。まさかその右腕で自分が抱かれようとは、その当時は思っていなかっただろうが。
 坂本の傷を見た時、は思い耽るようにただじっとその傷跡を見詰めていた。何か思い出したのかと問えば、今の自分ならばもっと上手く縫えると、かつてののように困ったように皺を寄せて笑った。その表情や言葉だけで、たとえ記憶を失っていてもなのだと思い知った。坂本がよく知る以前のも、たとえ自分が人殺しに成り下がろうと、それでもどこまでも医者であろうとする奴であった。医者と羅刹という相反する立場にいて、何故そんなにも狂わずに猛進出来るのか――それはかつての師である松陽との約束だからと癖のある困り顔で笑って教えてくれたのだ。

「……んなことしねェよ。アイツを傷つけたんならまだしも、少なくとも傷ついてんのはお前の方みたいだしな」
「アッハッハッハッハ! まったくもってそん通りじゃ!」

 陽気に笑ってみせる坂本が裏でどれだけ悩んだかは、坂本本人にしかわからない。ただ銀時は自分ならばきっと記憶を失ったを見つけたが最後、手足を斬り落としてでも丸め込んで一生自分だけのモンにするだろう。腐敗しきった思考は坂本にも一瞬過った。このままは記憶を取り戻さない方が良いのかもしれない。幾度自分を問い詰めても、一向に答えは出なかった。しかし坂本は結局自分が苦しんででもの記憶を取り戻すことに協力したのだった。

 坂本を映すの角の取れたまあるい双眸はまるで空っぽで、いつも無色透明だった。まるで迷子の子供そのものだ。そんなを隣に置いておくことに耐えられなかったのは、坂本の方であった。何度をこの手に抱こうが、が死んだと聞かされた時に空いた穴が埋まることは、満たされることはなかった。そこで坂本は気づかされたのだ。自分が惚れ込んでいたのが、大切な仲間に囲まれ、大切な仲間を想い、笑うだということに。

 坂本はひと時でも惚れた女を、を自分の手に抱けた幸せを噛み締めながら、これからは隣ではなく仲間としてを護っていくことを誓って、宙から解き放つことにした。どっかの誰かが垂らした釣り糸がの記憶をキャッチして、かの地にリリースしていることを信じて。

 今はもう焼けて廃屋と化した松下村塾の場所を見つけ出し、を連れて行った。建物の大部分は焼けて悲惨な状態になっていたが、それでも根強く残っていた木々の中に一際立派な桜の木があった。まだ周りの木に新しい息吹はなかったのにもかかわらず、まるでを待っていたかのようにその桜の木だけは精一杯花を開かせていた。だが、もう春にもなろうとしているのに、その美しい桜の花を誰にも見せたくないとばかりに、名残惜しそうに雪が桜を隠していた。

「本当はな、銀時……をお前にだけは会わしちゅうなかった」

 坂本はもう少し早く――それこそ桜が散る前に地球に降りる予定であったが、思ったより仕事が立て込んでそうもいかなかった。いや、これはただの言い訳に過ぎない。桜を幸せそうに見つめるを見れば見るほど、自分が嫉妬と羨望に塗れていくのがわかっていたから、あえて先延ばしにしていただけだ。今も昔も彼女が想いを馳せるのは自分でないことくらい知っている。それでも彼女の心根に坂本辰馬という存在が一片でもあれば救われる自分がいるのも又真実であった。

「……ぎん……とき……」

 かつての記憶を思い出したが最初に口に出した名前は、目の前にいる自分ではなかった。その事実に少なからず胸を痛めたが、同時に彼女の根底を知れて安心してしまった。ああ、銀時がを想うように、やはりも銀時を同じように想っていたのだと。

「辰馬……ありがとう」

 一足早く雪解けを見た。寒さで紅が差すの頬に透き通る雫が滑り落ちる。やがてその涙は雪と共に溶け合い、蕾になるのだろうか。淡い光に愛しい面影が遠のいてゆく。
 好いた女が自分の元を離れていくと悟ったのに、それでも見惚れてしまった――その佇まいのなんと美しきことか。

「あなたのこと、だいすきよ」

 残酷なことを言う。そんなことを言われた日にゃ、碌に悲しむことも出来やしない。いつもの調子の良い笑顔で、愛しい女を自分ではない男の元へ送り出さなければならないではないか。

「……後悔してねェのか」
「たとえ自分でない男を想うちょっても、復讐の念に燃えとっても、惚れた女にゃ最後の最期まで笑いよってほしいだけちや」

 かつての学び舎で全ての記憶を取り戻し、銀時の存在と同時に彼と先生と交わした約束を思い出したは、半ば衝動的に銀時の元へ行かなければという使命に駆られていた。坂本ははじめからそうなると分かっていたのか、あらかじめ調べておいた銀時の場所を教え、これからは江戸で過ごすよう仕事の斡旋もした。銀時には会うだけでいいと、江戸で暮らすことを渋ったであったが、坂本はの思惑を見抜いていた。彼女に眠っていたのはあたたかくもやさしい思い出ばかりではない。師を殺した者へのドロドロとした恨み辛みまでも思い出していたのだ。その首謀者を殺し、自分も死のうとしている。だから坂本は彼女を江戸に、銀時の傍に身を置かざるを得ない状況をつくろうとした。ただ、坂本がそうしなくとも、きっと銀時ならばそんなを二度と放そうとはしないだろうが。

を幸せにするのも、生かすのも、わしはお前しかおらん思うちゅう」

 坂本の目の奥に宿る確かな覚悟に思わず銀時も目を見開いて声を失う。
 随分と厄介な女に惚れたものだ。大の男が雁首揃えて一人の女の幸せを願い、藻掻いている。当の女ときたら、自らの死を望んで復讐に生きている。とんだ与太話である。

「……やべーわ俺……お前のことカッコいいとか思っちゃってる……」

 もし銀時が坂本の立場であったら同じようにを笑顔で送り出せただろうか――いや、これ以上はやめておこう。ただ、と銀時が再会出来たのは、かつての仲間の尽力があったからということだけは胸に刻まなければならない。

「アハハハハ! じゃあやっぱ貰うてええか?」
「未練タラタラじゃねェか!!」

 銀時はさっきまで感じていた恩は何だったんだと言わんばかりに、坂本を容赦なく地面に向かって投げつけた。






(好いた女の為を想って退いちゃうもっさんが狂おしい程好きなんだけど、上手く伝えられなくてこうなった)



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