春秋さぁん。
ドアの向こうからいつもより大きく、間延びした声が聞こえてくる。手の中にある箸やらグラスやら小皿やらをいつもの位置に置いてキッチンに戻ると、は先ほどと変わらない姿勢でフライパンと向き合っていた。ジュワジュワと音を立てながら混ざり合う卵と油。米と肉と葱。その匂いが鼻をくすぐって、身体の真ん中のような奥底のような、不思議な場所からぐうと低い音が鳴る。
「髪結んでくれませんか、暑くて」
春秋さんのと同じのでいいですからと付け加えながらは一心不乱に腕を動かし続けている。視線すらもこちらに向けないのだから、相当必死になっているのだろう。その真剣さに若干気圧されながらもゴムを持ってきての後ろに立つ。その瞬間にぐっと気温が高くなって、背中にじわりと汗が滲んだ。しかし、きっと俺よりも背が低い彼女のほうがフライパンから放たれる熱の被害を受けているはずだ。自分より少し茶色がかった柔らかい髪に触れて、そのまま首と髪の間に手を差し込む。予想通り既にうなじはしっとりとしていた。風呂は食事の後にしようというの提案は正しかったな、なんて考えながら今の自分と同じように一つにまとめてみる。けど、後ろから見た姿に違和感を覚えてすぐに解いた。何が違うんだと考える必要はない。の結び方を真似て、高い位置で結び直してみる。……うん、はやっぱりこっちのほうがしっくりくる。
「何で結び直したんですか?」
「え、……やっぱり気づいてたか」
「さすがにわかりますよ」
「集中してるからバレないかと思った」
「……そんなに真剣に見えました?」
「だいぶな」
電子音がしてがフライパンを持ち上げる。そんな細い腕でよく持てるなと思っている俺をよそに、は慣れた手つきでその中身を皿に盛るとすぐさま残りに取り掛かった。
「本当に一皿ずつ作るんだな」
「こうしたほうが速く火が通るからパラパラになるんですって」
それより、髪。戻してくれませんか?
油が跳ねる音に紛れて聞こえてきた言葉の意味がすぐに理解できず、俺は瞬きをしたまま固まった。いつまで経っても髪に触れない俺に痺れを切らしたのか、は髪を揺らして振り返る。
「髪、最初の結び方に戻して」
不満そうにも甘えているようにも思える瞳が俺を見て、やっと返事ができた。の髪を手に取って最初と同じように低い位置で括る。半歩下がって後ろ姿を眺めてみたけど、どうも落ち着かない。
「ありがとうございます」
「ああ、うん。……なぁ、本当にこれでいいのか?多分いつものほうが似合ってるぞ」
はちらりと俺を見て小さく息を吐いた。細い手が動いて、フライパンの隣に並んでいたスープの火が消える。
ああ、これは返事をしたくないということなんだろうな。そう結論づけて、スープをよそってしまっていいかに尋ねると彼女はこくりと頷いた。の隣に立ってちらりと斜め下に視線を移してみる。忙しなく動き続ける腕とは裏腹に、髪はぴくりとも動かない。やっぱりいつものほうがいいと思うんだけどな。
スープを掬って、器に移す。それを何回か繰り返した頃。
「だってこっちのほうがおそろいっぽいじゃないですか」
いつもより小さく早口気味の声が聞こえてきた。少し時間があいたせいか判断が遅れてしまい、「え」としか言えなかった俺を無視してはフライパンを傾ける。おそろいにしたかったのか。もしかして自分でするのが恥ずかしいから俺にさせたのか。どうしてすぐ言わなかったんだ。聞きたいことが次から次へと湧いてきて、どれから聞こうか悩んでいる間には炒飯が盛られた皿を手に取っていた。
「」
「春秋さん、スープ持ってきてくれませんか?わたしこれ持っていきますから」
「いや、それはいいんだけど。それより今の、」
「何のことですか」
キッチンに俺を置いてはリビングに向かって歩き始める。うなじのすぐ上で束ねられた髪が、さっきとは別物のようにふわふわと浮いていた。