「なあ、ってシャンプーどこで買ってるんだ?」
アイスが三分の一くらいなくなった頃、春秋さんが思い出したように尋ねてきた。ちょうどその時わたしは唇についたチョコを舌の先で舐めるというお行儀の悪いことをしてしまっていて、まずいと思ったけどもう遅かった。春秋さんはしっかりとその瞬間を見ていたらしく、子どもの悪戯を笑って許す親みたいな顔をしていた。夏の夜特有の生温い風が吹いて、洗ったばかりのわたしと春秋さんの髪が揺れる。
「今の見なかったことにしてもらえませんか?」
「無理だな」
「なんで」
「可愛かったから」
「……ばか」
小さく抗議をして、気恥ずかしさを誤魔化すように縁石の上に乗った。アスファルトから数センチ突き出た石の上を、バランスを取りながら歩く。いつもなら簡単にできるのにアイスを食べながらだとちょっと難しくて、身体のバランスが崩れるたびに隣から腕が伸びてきて身体を支えられた。ふと気が付くと春秋さんがさっきまで食べていた宇治金時のアイスは跡形もなく消えていて、唯一残された細い棒は今や大きい手に好き勝手に弄ばれていた。綱渡りをするように歩きながら細い棒がくるくると忙しなく動くのを眺めること数分。何の拍子かわからないけど、先ほど受け取った質問の事をはっと思い出した。
「ごめんなさい、シャンプーの話でしたよね」
「え?ああ、うん。すまん、俺も忘れかけてた」
「今は美容院でおすすめされたの使ってます」
「市販の?」
「ううん、美容院にしか置いてないです」
わたしの回答に春秋さんはなるほどと大きく頷いた。聞くと、わたしの家に泊まった次の日は必ずと言っていいほどどこのシャンプーを使っているのかと女の子に聞かれるというのだ。ただ春秋さんはそんなことこれっぽっちも気にしたことがなくて、明日も聞かれそうな気がするからわたしに質問してきた、と。どこのシャンプーを使ってるのか教えるのはいいんだけど、わたしとしてはそれよりも気になることがある。シャンプーのことはただの口実で、春秋さんと話したい女の子が適当に話題を見つけて聞いてきてるだけなんじゃないですか、とか、そんなこと。春秋さんには言わないけど。
「市販のはどれ使ってもあんまり合わないんですよね」
「そうなのか?」
「春秋さんはそういうのないんですか?これ使うと髪がきしむとか、重くなるとか」
「うーん……意識したことないな。いつも適当に買ってる」
風が吹いて春秋さんの真っ黒な髪が揺れる。それなりに意識をして髪の手入れをしてるわたしと同じくらいに艶がある髪だ。これが体質の違いなんだろうか。わたしはシャンプーを変えるとすぐ髪の調子が変わるけど、確かに春秋さんの髪はわたしのシャンプーを使おうが旅行先のシャンプーを使おうがまったく変わらない。いいなあ、わたしもそうだったらよかったのに。
縁石を歩くのにも飽きてきて、春秋さんとの距離を縮めてアイスを齧りながら上に手を伸ばすと、春秋さんはやっとこちらを見下ろして立ち止まった。わたしもそれに合わせて足を止めて、男の人にしては長い後ろ髪に指を滑り込ませてみる。そしてそれは何の抵抗もなく流れていく。
「羨ましい」
「羨ましいのか?」
「だって、特にケアしなくてもこんなに綺麗なんだもん」
ふぅん、と呟きながら今度は春秋さんはわたしの髪を一束摘んだ。ぴょんぴょんと跳ねる毛先が、街灯に照らされて栗色に光っている。こうやって見るとわたしの髪って春秋さんの髪と色が全然違うんだなぁ。あんまり気にしたことなかった。
「俺はの髪も好きだけど」
「それなりに手入れしてますから」
「いや、そういうことじゃなくて」
元々の色とか触り心地とか、そういうのが。春秋さんはそう言うと摘んだ髪に顔を近づけて鼻と唇を埋めた。ついでに鼻で息を吸った音まで聞こえてきて、わたしは思わず後退りする。その拍子に髪が引っ張られて、春秋さんは慌てて指を離した。
「い、いきなりやめてください、心臓に悪いから」
「じゃあ前もって言ったらやらせてくれたのか?」
「……」
「ほら、やっぱり」
春秋さんはくすくす笑って「行こう」と優しく口にした。とてもスマートに、もう何十年もやり慣れたことのように、春秋さんの手が差し出される。一方のわたしは毎回ぎこちなく手に取る。太くて長い指が指に絡むと低い体温が伝わってきた。春秋さんと手を繋ぐといつもわたしのほうが身体が熱くて、手が冷たくなって気持ち良い時もあるんだけど、腹が立つことのほうが多い。春秋さんに手を引かれて歩き始めてもなんだかすっきりしなくて、少しでも体温を下げようと木の棒にかろうじて残っていた冷たい塊を口に含んで舌の上で転がす。
「眠いか?」
「そんなに眠くないです」
「そっか」
「……どうして?」
「いつもより体温が高くなってる気がして」
大体そういう時って眠いか恥ずかしいかのどっちかだろ?と春秋さんがわたしの顔を覗き込んでくる。くそ、やられた。言い訳を潰されてわたしはささやかな抵抗として春秋さんを睨んだ。それさえも笑われて、春秋さんの指がすりすりとわたしの手の甲を撫でる。
「その触り方やめてください」
「何で?」
「何でって、なんか……その……」
どう表現したらいいのか迷って口篭る。視線を感じて顔を上げると、細い目がこちらを見ていた。そこでやっとまた春秋さんのペースに乗せられていることに気づいて脇を小突く。春秋さんは笑いながら、思ってもいないくせに謝罪の言葉を口にした。
「明日休みだろ?帰ったら寝るだけだし、俺としてはいくらでもいやらしい気分になってもらっていいんだけどな」
信じらんない、ばか、と小さい声で精一杯抵抗する。わたしの気も知らないで、わたしと同じ香りを漂わせた黒い髪が楽しそうに風に身を任せている。