「暑い!」
ドアを開けてお邪魔しますも言わずに叫ぶと、奥の方から物音がして春秋さんが笑いながら現れた。ぺたぺたと何も身に着けていない足がフローリングを渡ってくる。
「今日は特に暑いな」
「まだ十時なのにこの暑さなんてもうこの世の終わりですよ!歩いただけなのに汗かいちゃった」
持っていた袋を春秋さんに差し出すと春秋さんは「お」と声を弾ませてそれを受け取った。
「これが噂のレモンパイか。並んでたか?」
「わたしがお店に着いた時は二、三人だったかな。でもお店出た時は長い列になってました」
うわぁ、と言葉にはしなかったけど春秋さんは苦笑いを浮かべる。サンダルを脱いで部屋に入ると天国のような心地良い空気が汗を乾かしてくれた。冷房の風が当たる場所に立っていると、春秋さんが「さすがにそれは体調悪くなるぞ」と笑った。
「シャワーでも浴びるか?」
「え、いいんですか?」
「ああ。汗かいたんじゃ気持ち悪いだろ」
「やったぁ。ありがとうございます」
春秋さんに誘われるがまま、躊躇することなく浴室に向かう。ほんの少し前まで浴室に足を踏み入れるだけで緊張してたのに、タオルが置いてある棚を開けるのも脱いだ服を置くのも、今ではもう何とも思わずに一人でできてしまう。寂しいような嬉しいような、よくわからない感覚だ。頭こそ洗わなかったものの、今日はもう外出ないしいいか、とメイクを落として顔を水で冷やす。身体に張り付いていた熱がどんどん流されて、やっと自分の身体を取り戻していく。
「ああ、今飲み物、を……」
廊下に出るとキッチンに立っていた春秋さんがわたしを振り返って、話してる途中にもかかわらず何も言わなくなってしまった。丸くなった目はわたしの顔のあたりに釘付けになっている。メイクを落としたの、そんなに変だったかな。首を傾げると春秋さんは思考を取り戻したようにはっと瞬きをした。
「すまん、初めて見る髪型だったから驚いた」
「え?あれ、春秋さんといる時にしてたことありませんでしたっけ」
大したことはない、ただ髪を結んで捻って、丸くまとめただけの髪型だ。だけど春秋さんはまじまじとわたしを見つめて、女の子ってほんとにいろんな髪型にするよな、と言いながら手に持っていたピッチャーを傾けてコップに液体を注いだ。今の発言は一体誰のことを思い出しながら言ったんだろう。いや、これ以上このことについて考えないほうがいいな、と頭を振って思考を取り払った。春秋さんの隣に立って、二つのレモンパイと二つのグラスを眺める。
「可愛い」
「何が?」
「レモンパイ」
「なんだ、俺のことじゃないのか」
「春秋さんに対して可愛いと思ったことなんて今まで一回もないですよ」
「それは残念だな」
春秋さんは笑いながらわたしを見下ろして、その髪型いいな、似合ってる、と目を細めた。その瞬間に心臓が苦しくなって、飛び上がるくらい嬉しいのに、わたしは顔を逸らしてレモンパイを見ながら「そうですか」と小さい声で答えることしかできない。ここで手を上げて喜んで嬉しいと一言言えるのが可愛い女の子なんだろう。やろうと思えばできるけどそれは相手が春秋さんでなければの話だ。きっと春秋さん以外の人の前でならいくらでもできる。なのに、春秋さんを前にすると途端にわたしは可愛くない女になってしまう。よくわたしなんかと付き合えるなって自分で思うくらいだ。それなのに春秋さんは嬉しそうに笑っている。春秋さんの気持ちに沿うようなことなんて一切してないのに。
「何でそんなに嬉しそうなんですか」
さらに可愛くないことを言ったのに、春秋さんはもっと顔を崩した。はは、と春秋さんの声が廊下を反射する。
「なあ、自分じゃわからないと思うけど、今すごく可愛い顔してるぞ」