蛇口をひねると、キュ、と甲高い音が浴室に響いた。息を深く吐く。髪をかきあげて目を開けると、壁の端から端まで伸びた横長の鏡の隅っこで縮こまるが映っていた。お互いの裸なんて何回も見てるのに何を今更そんなに恥ずかしがっているのか。頬が緩んだ次の瞬間、が鏡越しに「なに」と非常に短い文句をぶつけてきた。
「何でもないよ」
立ち上がってバスタブに脚を入れると、縮こまっていた身体がさらに小さくなる。確かに広いとは言い難い大きさのバスタブではあるけど、がそこまで身体を縮める必要はない。なのに、はこれでもかというほど身体を固めている。できるだけ俺の目に映る身体の面積を少なくしようとしているんだろう。の正面に腰を落とすとはちらりと俺を見てすぐに視線をバスタブの外に投げた。
「まだ緊張する?」
「……春秋さんと違って慣れてないので」
「なんだよ、俺が何とも思ってないみたいな言い方だな」
「何とも思ってないんじゃないですか」
「まさか」
お湯の中での腕を掴んで引き寄せる。わ、とが声を上げて、小さい身体がバランスを崩した。その拍子に波が生まれてバシャバシャと音を立ててバスタブからお湯が流れていく。膝の上にを座らせるとはいよいよどうしたらいいのかわからなくなったようで、もう身体を隠すことはしなくなった。それどころか俺の良いようにされている。俺の手には合わないほどの細い手首を握って胸のあたりに持ってくる。
「ほら、少し緊張してるのわかるだろ」
「……そ、そんなこと、言われ、ても……」
どこを見たらいいのかわからないらしい。の視線はあっちに行ったりこっちに来たり、かと思えばどことも言えない方向に向いたり忙しい。赤くなっている顔は浴室の熱だけが原因ではないだろう。まとまりそこなったの髪がほんの少し垂れて、耳のあたりにぺったりと張り付いている。それを避けてやるとの身体がぴくりと跳ねた。
「は、春秋さん」
「ん?」
「髪、あげないんですか」
「え?ああ、そうだったな」
手首につけっぱなしだったゴムの存在を思い出して結ぼうとしたら、わたしがやる、とが自分から言ってきた。胸に置かれたままの手をどうにかしたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。からしたらもっと状況が悪化しないか?と思ったけどあえて黙っていることにした。じゃあ頼むという俺の言葉にの表情はほっとしたように和らいで、疑うことなく背中に腕を回してくる。けど、正面から俺の髪を結ぶのが難しいようですぐに小さな呻き声が聞こえてきた。身体はさっきよりくっついてるし、俺の髪を結ぶために腕をあげてるから無防備だし、ほんと、何というか。の背中に腕をまわして抱きしめるとが「ひえ」と色気のない声を上げる。
「は、春秋さん!やめてください!」
「何で」
「な、何でって……結びにくい、から……」
素直に恥ずかしいと言えばいいのに何でそれを言い訳にするのか。が結んでくれるって言ったんだろと言い返すと想像どおりは何も言えなくなった。詰めが甘いんだよなあ、本当に。普段隙がないくせにこういうところで隙を見せてくるんだから。もたもたとの腕と手が首のあたりで動いて、そのたびにの身体が肌の上で擦れて、……うん。今日はやらしい気分にならないかなと思っていたけど、無理だな。でも、よくよく考えたら不思議なことじゃない。三週間ぶりに会うんだし。遠征に行っていたから当然ではあるけど、一人でしてなかったんだから。
「できた!春秋さん、髪結べまし、」
「」
「はい?」
「すまん、勃ってきた」
「え、なっ、なんっ……!?」
を抱きしめたまま一ミリも動かない俺の腕の中でが動揺して、水面が波立つ。予想もしてなかったのだろうか。いや、でも確かに風呂に入ってる最中にこうなったことは今まであんまりなかったかもしれない。俺も今の今までそうならないだろうと思っていたくらいだから。が身じろぎを始めて、その刺激で更に身体が反応する。くそ、まずい。そんなつもり微塵もなかったのに。今日はが仕事で疲れてるから、この後は用意してた飯を食べて、映画を観て、そのまま眠るだけのはずだったのに。
「ばか、動くなって……!変に動いたら悪化するんだよ」
「だ、だって、」
「別のこと考えてるからちょっと待ってくれ」
「べ、別の……?」
きっとは訝しげな顔をしているんだろうが、正直それどころじゃない。今はとにかく以外のことを考えないと。目を閉じてに関する一切のものを遮断しようと努める。母親の顔とか同じゼミの女子の顔とか、冷静になれるあらゆるものを頭の中から掘り起こしていると。
「は、るあきさん」
「……何だ?」
「あ、の……」
わたしといるのに、わたし以外のこと、考えてるんですか……。
小さな声が聞こえてきて、ここまで必死に積み上げてきたものが一気に崩れ落ちていく。の肩を両手で掴んで身体を引き剥がすと顔を赤くさせたが恥ずかしさで泣きそうな顔をしていて、それを見ただけですべてが無に帰した。いや、なんだったらさっきより酷いことになっている。
「わざと言ってるだろ!?」
「ち、違います!わたし以外のこと考えてるんだったら考えないでって言ってるだけです!」
「この状況でのこと考えたら治まらないんだよ!」
「だ、だから……!ご飯、とか……後でいい、から」
「……はあ?」
どこともいえない場所に視線を向けているが腕を伸ばして、腰のあたりに触れてくる。反射的に腰が跳ねるけどは止めない。
。俺の言葉にはやっと視線を絡めてきた。
「わたし、その……いい、から……」
言葉だけ聞いたら意味がわからないものでも、俺にはわかってしまう。ぱら、と束になった自分の前髪が数本視界の中に落ちてくる。静まり返った風呂場に、ぽちゃん、と水滴が落ちた音が何度も反射する。まさかが自分からこんなことを言ってくるなんて。俺も少なからず動揺しているようで、口を開いて、閉じて、を何回か繰り返して、再び息を吸う。
「……疲れてるんだろ」
「……ちょっと、だけ」
「もっと疲れるぞ。今までのでわかるだろ?」
「……」
は気まずそうな顔でちらりと俺を見て、意を決したように目をぎゅっと瞑って俺の唇に自分の唇を押し当ててきた。恋人らしくもなければ色気もない、ヤケクソのような行動だ。でも返事としてこれ以上のものはない。ため息を吐いての首筋に歯を立てると、水に濡れていつもよりうねった髪が俺の身体に張り付いた。