背が高い人は頭を撫でられ慣れていないらしい。かといって背が低い人が撫でられ慣れているかと言われると、そうでもないと思う。わたしが最後に頭を撫でられたのは十年くらい前だ。しかも親に。たぶん恋人がいれば違ったんだろうとは思うけど、正直どういう場面で恋人に頭を撫でられるかがわからない。漫画や映画ではよくあるシチュエーションだけど、現実でもあんな風に好きな人とか恋人に頭を撫でられることはあるんだろうか。そして、そういう人に頭を撫でられるのは嬉しいものなのだろうか。
なんて、思っていた時期がわたしにもあったのだ。遠い昔のことみたいに感じるけど、意外とそうでもない。春秋さんと出会ってから時間が流れる速さが変わった気がするのはどうしてだろう。
「……春秋さん」
「うん?」
「それ、眠くなるからやめません?」
「眠くなってもいいだろ、寝てるんだし」
「それはそうなんですけど……」
寝かしつけるような手つきで春秋さんがわたしの頭を撫でる。わたしはそれに抗って、重くなる瞼を開かせて頭を動かそうと努力する。喋ってないと本当にこのまま眠ってしまいそうだからだ。やだ、まだ寝たくない。そう思っているのがこれでもかというほど伝わっているのだろう。手で頭を支えながら、暗い部屋の中で春秋さんがくすくす笑った。僅かに漏れている月や街灯の光と、暗闇にやっと慣れてきた目のおかげでなんとかその表情を捉えられているけど、気を緩んだ瞬間に瞼に阻まれてしまうだろう。そうだ、間接照明をつけたら少しは目が覚めるかな。……いや、いまさら明かりでどうにかなる眠気じゃない。春秋さんの手が優しくて、髪に触れるたびに脳にぽたりぽたりと麻酔が広がっていく。どうしよう。ほんとに眠くなってきた。何か、なにか話さないと。
「その格好、何ていうんだっけ……」
「え?」
「その、寝っ転がってる……あ、涅槃像だ……」
「はあ?」
「春秋さんって、大仏だったんですね……」
「……、眠いなら寝ていいんだぞ」
「……やだ……」
「そうは言ってもなぁ……。そんな眠そうにしてたらこっちが申し訳なくなる」
「……春秋さんと、話してたら……眠くない、から……」
だって、しばらく、会えないでしょ。
ほとんど眠りかけてる脳味噌では遠回しな表現すらできなくて、わたしは思ってることをそのまま口にした。それまで余裕があった春秋さんの表情が途端に固くなり、眉尻が申し訳なさそうに下がる。
このまま眠ってしまったら春秋さんとはしばらく会えなくなる。たぶん春秋さんのことだから、わたしが寝ているうちに、別れの言葉を言わずに家を出ていく。置き手紙の一つくらいは残していくかもしれないけど。ボーダーの活動とは言ってるけど、何日も会えなくなるなんていつもの活動じゃないはずだ。前みたいに一週間会えなくなるとか二週間会えなくなるとか、どれくらいで帰ってくるかがわかってるならまだ気持ちが楽だけど、今回はそうじゃない。上手くいけば二週間で終わる、なんて。
「春秋、さん」
「うん」
「帰ってきたら、なに、食べたいですか……」
「作ってくれるのか?」
「……ん」
「そうだなぁ……」
「わたし、……待ってます、から……」
春秋さんも話してくれたらちょっとは起きられるのに、なかなか話をしてくれない。何で、もっと話してよ、と思うのに口が回らない。春秋さんの目がわたしを見つめている。何を考えてるのか、いまいちわからない目だ。申し訳ないと思っているのか、ボーダーの仕事にいい加減慣れてくれと思っているのか、さっさと寝ろと思われてるのか。でもそんなの知らない。わたしはまだ眠るわけにはいかない。このまま時が止まればいいのに。どうして進んでしまうんだろう。しかもいつもより速く。
「うん」
春秋さんの声がひどく優しくて、寂しい。吐息混じりの掠れた声がわたしを呼ぶ。返事をしたつもりなんだけど、正直できているか自信がない。
「ごめんな」
謝るくらいなら行かないでよ。ひどい人。わたしのことを置いて、一体どこに何をしに行くんだろう。わたしと仕事どっちが大事なの、なんて言うつもりはない。それくらいはわかってるつもりだ。でも、春秋さん。わたしが寂しいと思ってることは、覚えておいてほしいです。
堪らなくなって、ゆるゆると手を伸ばす。春秋さんの髪に触れて、そのまま撫でると春秋さんの呼吸がほんの少し止まった。そうだ、このまま春秋さんも眠くなっちゃえばいいんだ。このまま一緒に寝て、出発に間に合わなかった!ってなっちゃえばいい。
「」
なってくれるような人だったら、どれだけよかったか。
春秋さんの手はすっかりやるべきことを見失ってわたしの後頭部に添えられまま動こうとしない。かわりに、わたしはひたすらに春秋さんの頭を撫でた。行かないで。気をつけて。寂しい。ちゃんと一人で待てるから。次に会えなくなるのが怖い。無事に帰ってきたらどこに行こう。ありとあらゆることが頭の中でぐるぐる渦巻く。でも、最後に残った言葉は結局一つだけ。
「愛してる」
遠くで声がする。うん、と声を出してみる。制御が効かなくなった頭が、わたしも、と口を動かす。
「はるあきさん」
「うん」
「あいしてる……」
「……うん。わかってる」
すり、と春秋さんがわたしの髪を撫でる。その手が下りてきて、わたしの瞼を閉じさせた。
「やだ、ねたく……ない……」
「もう一時だぞ」
「あした……おやすみ、だから……」
だから、大丈夫だもん。その言葉は春秋さんに抱きしめられてシャツの生地に滲んでいった。春秋さんはわたしの体を抱きしめながら、ゆっくりと頭を撫でている。たまに髪を掻き分けて、春秋さんの指が触れてくる。この人の形を覚えないといけない気がして、わたしも春秋さんの頭を撫でる。生地一枚の向こうで春秋さんの胸が定期的に、健康的に、膨らんだり萎んだりしている。眠ってしまったらこの体温も息遣いも、何もかもがわたしの手の届かないところに行ってしまう。嫌だ。もう待つのは嫌だ。毎回こんな思いするくらいなら、別れたほうが絶対いいに決まってる。でも、わたしはどうしたって春秋さんのことが好きなんだ。
「帰ってきたら、が行きたいって言ってたカフェに行こう」
「……ん……」
「あと、この前作ってくれた焼きそば。あんかけの。覚えてるか?」
「うん……」
「あれ作ってくれないか?美味かったから」
「……ほんと……?」
「ああ。楽しみにしてる」
「うん……がんばって、つくる……」
「はは。うん。俺も、……。頑張るから」
「……」
「絶対に帰ってくる。だから、今日はもう寝よう」
「……うん……」
おやすみ、と春秋さんの声がわたしを撫でる。ゆっくり、深く深くへと、春秋さんに抱きしめられながら意識が沈んでいく。
「おやすみなさい」