「なあ、これほんとに大丈夫か?」
「んー……たぶん大丈夫じゃないですか?見えてないけど」
「もう既に崩れてきてるんだが……」

正直、ここからあの写真どおりの髪型になると思えない。結びかけていた髪を解いて、端末に表示されているとおりにの髪を持ち上げ直す。これを捻って左に持っていって、そこにゴムを下から通して、……ん?

「ちょ、ちょっと待ってくれ。今のところ巻き戻してくれ」
「え?どこ?」
「五秒くらい……あ、そこ。そこで止めてくれないか」

が顔の横でシークバーをいじって、俺は背中を丸めて食い入るように動画を見つめる。こうだろうかと思ってやってみたものの、自信がない。俺の唸り声が後ろから聞こえてくるのが可笑しいのか、脚の間でがくすくすと笑った。俺は正直笑う余裕なんてまったくない。の髪を相手に格闘し始めてもう十五分は経ってしまっている。家を出ようと話していた時間はもう目の前で、焦りもあるせいかなかなか手元がおぼつかない。くそ、興味本位で「髪結ぶの大変そうだな」なんて言わなければよかった。

「別に制限時間があるわけでもないし、家出るの遅れてもいいですから」

は既に遅れる前提でいるらしい。確かに水族館なんて何時に入ってもいいし、その後の食事だって余裕を持って予約したからまったく気にすることはないんだけど。

「いや、でも俺のせいで遅れるのも……」
「いいんですよ。やってみますかって言ったのわたしだし」

それを言われたら、やってみるって言ったのも俺なんだけどな。口の中だけで返事をして、髪を髪に巻きつけていく。自分でも何をやっているか分からなくなってきた。一方のはベッドに背中を預けて髪をいじられている間、楽しそうに鼻歌を歌っている。たまに俺の足の指を撫でたりしてきて、俺と違って暇で暇でしょうがないだろうにとても楽しそうだ。

「ん、あれ?」
「え?どうかしました?」
「できた、かもしれない」
「え!」

触ってもいいですか、とが正面を向いたまま尋ねてくる。返事をすると、さっきまで俺がいじっていた後頭部に向けて小さい手がそろそろと伸びてきた。おそるおそるという言葉がぴったりなほどに慎重に束ねられた髪に触れる。髪が落ちてこないことを確認すると、今度は形を確かめるようにまとまった髪の輪郭をなぞったり指先で押したり。そこで初めて完成したことを確信したのか、がくるりと俺を振り返った。

「できてる!」
「大丈夫なのか?」
「見た目は?崩れてないですよね?」
「ああ、動画と同じような感じになってる」
「やったぁ!」

は突然立ち上がって、ベッドに腰かけてる俺に向かって万歳をした。つられて両腕を上げるとはこの上なく楽しそうに笑ってもう一度天に向かって腕を伸ばす。こんなことでこんなに喜ぶなんて、可愛い子だ。慣れないことをしたせいで若干の疲労感もあったけど、それを忘れてるくらいに頬が緩んでいるのが自分でもわかる。ふにゃふにゃな情けない顔をしてしまっているだろうけど、にならどれだけ見られても構わない。は俺のこういうところを目にしたって何も思わないだろうから。家を出て一歩足を踏み出した瞬間、湯気のような空気が襲いかかってくる。今日も暑いですねえと下から声がして、暑いなあと俺も声を出した。まるで身体が溶け始めたような感覚に陥り、とぐだぐだ話しながら駅を目指す。すぐに信号にぶつかり、日陰の中で信号が変わるのを待って、ふとが後ろをちらちらを見ていることに気付いた。何だ、知り合いでもいたか?そう思って振り返ってみたものの、誰もいない。ただ路面店の窓ガラスがあるだけだ。

「綺麗にできてますね」

その言葉でやっとの行動を理解した。

「そうか?」
「うん、初めてなのにここまで綺麗にできるなんてすごい」

女の子が生まれたら結んであげたら?という台詞に脳が一瞬フリーズする。はあ、なるほど、ふうん、へえ。頭の中で何の意味もない相槌が響き渡る。女の子。うん、いいな。女の子が生まれたら朝髪を結ぶのが俺の仕事になる。なかなか楽しそうだ。うん。子ども、か。何も言わない俺を不審に思ったのか、窓ガラスに映った自分の髪を見つめていたが俺を見上げて、そして首を傾げる。しばらく見つめ合った後、やっと自分が口にしたことの意味を自覚したのかは突然「違う!」と声を上げた。

「まだ何も言ってないだろ」
「目が言ってた!」
「へえ?何て?」
「……こ、子どもか、って……」
「お。正解」

信号が青に変わる。そういう意味で言ったんじゃないと訴えてくるを笑って、細い手首を掴んだ。斜め後ろを歩く玖芽をちらりと見る。可愛い髪型だ。俺がやったのだと思うと何故だか一層可愛く見える。たまには俺が玖芽の髪を結ぶのもいいかもしれない。何回かやれば家を出るのだって遅くならないはずだ。

「そういうつもりで言ったんじゃないですから」
「さっきも聞いたよ、それ。は子ども欲しくないのか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「欲しいんだ」
「や、あ……ぅ……」

蝉の鳴き声に負けての声が聞こえなくなっていく。俺は女の子じゃなくてもいいからな。の気を紛らわせてやろうと思って言ったのに、繋いでいる手の甲を抓られた。