空気が震えた。
反射的に振り返っても、部屋の光景は一切変わっていない。ただ、ドアや壁をいくつか隔てた向こうで人が生きている気配が確実にある。さっきまでその気配がなかったのに障害物が一つ減っただけでこんなにも変わるなんて、なんだか不思議な感じだ。数メートル離れたところでタオルを取り出す微かな物音や手が滑ったのだろう無機物が床に落ちる音が不定期に聞こえてくる。しばらくすれば戻ってくるだろう。まだほんの少し熱っぽい身体の上半分を起こしたまま端末の上で指を滑られていると、予想していたとおりドアが開いた音がしてまた空気が震えた。ただ、次に動くであろうドアノブがぴくりとも動かない。ドアを見つめてもそれは変わらなくて、わたしはベッドの上に座り直して首を傾げた。
浴室に戻った?でもそんな感じはしないし……廊下で急に具合が悪くなって動けなくなった、とか……?春秋さんって健康体そのものだけど最近疲れてたみたいだし、ないとは言い切れない。思考を巡られているとだんだん不安の気持ちが生まれてきて、とうとう床に足の裏をくっつけた。

「春秋さん?」

おそるおそる声を出しながらドアから顔を出す。廊下の真ん中で大きな身体がびくりと震えて「うわっ」という珍しい声が聞こえてくるのと、わたしが叫び声に近い声を出したのはほぼ同時だった。まずいところを見られた、という顔をして冷蔵庫の前に立っている春秋さんは缶ビールを手に持っている。髪は丸くまとめられたまま。そしてなんと、服は下着一枚だけのまま。

「なっ何で服着てないんですか!」
「てっきり寝てるもんだと思って……先に寝てていいって言ったのに」
「起きてるって言ったじゃないですか!」
「でもあんな眠そうな顔してたら……というか、俺の身体なんて死ぬほど見てるんだからそんな恥ずかしがらなくてもいいんじゃないか?」
「ばか!!」

どこを見たらいいかわからなくなっているわたしとは真逆に、春秋さんはけろっとした顔で缶ビールをたまに傾けては満足そうに小さく息を吐いている。お父さんもそうだったけど、やっぱり男の人ってお風呂上りに下着一枚で歩き回るものなのかな。春秋さんもこういう格好するなんて、いやでもそれくらい気を許してくれてるって思えば、「

「っは、はい!?」

突然呼ばれて声を裏返したわたしに、春秋さんは可笑しそうに顔を崩した。濡れたままの髪がゆらゆらといつもより重そうに揺れている。よく見たら、肌もまだ湿っぽい。身体をちゃんと拭いてないからなのか、暑さで汗が滲んでいるからなのかはわからないけど。

「幻滅したか?」
「は?……え?何に?」
「風呂上がりにこんな格好してて。の前でこういうことしたことなかっただろ」

……ああ、春秋さんのことか。幻滅なんてこれっぽっちもしてなかったから何のことかわからなかった。

「それくらいのことでしませんよ、幻滅なんて」
「……そうなのか?」
「わたしだってお風呂上がりにアイス食べるし」
「下着一枚で?」
「ばか」

春秋さんと違ってシャツくらい着ますと言うと春秋さんは笑って、目を細めてから「そっか」と呟く。そして持っている缶ビールをちらりと見下ろすと、飲んでみるか?と尋ねてきた。わたしは驚きのあまり缶ビールに目をやる。深紅の中を駆ける黄金の聖獣。きっと見た目の豪華さに見合うような、ゴージャスな味がするのだろう。わたしはこの年になってもまだビールの味がよくわからないけど。でも、わたしがお酒をまともに飲めないことを春秋さんは知ってるはずだ。それがビールだろうがワインだろうがリキュールだろうがカクテルだろうが同じことで、アルコールは等しくすぐ酔っぱらってしまう。それなのに何で勧めてくるんだろう。

「それビールですよね?」
「厳密に言うと発泡酒だけどな」
「ビールと発泡酒って違うの?」
「成分がちょっと違う。まあでも、似たようなものだよ」
「……苦い?」
にとってはそうかもしれないな」

わたしが顔をしかめると春秋さんはくすくす笑って缶を差し出してくる。この人面白がってるんじゃないか。そう思いながらそれを受け取って、発泡酒を顔に近づける。ほのかに漂ってくる香りは少し薄いけど、ビールそのものだ。視線だけで春秋さんをちらりと見上げる。春秋さんは相変わらず下着一枚で、後ろ髪をお団子の形にまとめて、数束の前髪を垂らして、口元は微笑んでいるけど深い瞳はわたしの一挙一動を観察するようにじっと見つめている。その雰囲気に押されてわたしは発泡酒に口をつけてしまった。ひやりと冷たいものが唇の間に入り込んで、口の中に冷気と一緒に液体が流れ込んでくる。

「んっ」
「どうだ?」
「苦い!」
「はは、やっぱりそうか」
「あとちょっと濃い……気がする……」
「ああ、ここが出してる発泡酒は全部そうなんだよ」
「……それが好きなんですか?」
「うん」

苦い味の後に、独特な麦の香りが鼻を抜けていく。缶を返すと春秋さんは口角を上げたまま涼しい顔をしてわたしよりも豪快に発泡酒を傾けた。早速アルコールがまわってきたようで、わたしよりも目立つ喉仏が上下に動いているのを眺めるうちに頭がぼーっとしてくる。春秋さんはそれを見逃さずに、目を細めてわたしを見下ろした。

「酔っぱらったか?」
「……多分……」
「はは、やっぱり」
「やっぱりって、」
「酔っぱらったら流されてくれないかなと思ってた」
「……は、?」

わたしが返事をするのと同時に、空になった缶が置かれた音がキッチンに響いた。