「春秋さん、あの、お誕生日なんですけど」

突然話題が変わったせいなのか、それともその単語を聞くなんて微塵も思ってもいなかったからなのか。どちらかはわからないがとにかく反応が遅れてしまった。
俺の返事が返ってこないことにも困惑したらしく、「もしもし?」と不安そうな声が聞こえてくる。
お誕生日?……ああ、お誕生日。「お」がついてるということはのではない。ということは俺の誕生日か?二ヶ月近くも先だが。

「すまん、聞こえてる。誕生日がどうかしたのか?」
「何か欲しいものあります?」
「えっ?」

まさかそんな質問をされるとは想像もしていなくて、咄嗟に聞き返してしまった。

「今までちゃんと聞いたことなかったから、聞いた上であげるのもいいかなと思って」

ほら、今までってわたしが一人で決めてたじゃないですか。それを喜んでもらえるのはもちろん嬉しいんですけど、春秋さんがどういうものが欲しいのか一度ちゃんと聞くのも大事かな、って。
まるで弁明をするかのような口調が可笑しくて笑うと、が電話の向こうで「笑わないでよ」と拗ねてしまった。
恋人を宥めながら脳みそのほんの一部分であれこれ考えてみたものの、これというものがまったく思い浮かばない。いや、欲しいものはあるにはあるが、それもこれも自分で買えるし、わざわざに貰うものではない。どうせ貰うなら、という浅ましい思考が考えれば考えるほど膨らんでいく。

「欲しいもの、ないんですか?」
「ないわけじゃないんだけどなあ」

気分を変えれば何か思いつくだろうか。立ち上がると今の今まで腰掛けていたベッドが軋んだ。思えばこのベッドは一人暮らしを始めた頃に買ったものだ。と付き合ってからというもの、本来の用途以上に負荷をかけることが増えてきたし、いい加減買い替えたほうがいいのだろう。もちろん、自分で。
ベランダに歩み寄ってカーテンを捲る。空に光はない。明日は曇りだろうか。今日以上に寒くなるということだったし、冬がすぐそこまで迫ってきているのがわかる。

「マフラーは春秋さん持ってますもんね」
「ああ、マフラーか。それもいいな」
「んー……」

自分で言ったくせに腑に落ちないようだ。あげる立場としては、誕生日のプレゼントはもっと別のものがいいのだろうか。さっき俺が「どうせ貰うなら」と思ったのと似ているのかもしれない。

「釣りとかキャンプとかで使う物とかは?」
「それも考えたんだけど、どうせなら違うのが良いんだよな」
「日常的に使う物とか?」
「うん」
「やっぱりそうですよねぇ……」

どうやらも体勢を変えたらしい。端末の向こうからもぞもぞと布が擦れる音が聞こえてきた。きっとベッドの上でごろごろ転がっているのだろう。……そういえば、自分が小さい頃は電話越しの生活音がこんなにはっきり聞こえてこなかった気がする。相手の一挙一動がこんなに手に取るようにわかるなんて、恋しさが募るからかえって良くない。

「考えておくよ」
「はい。待ってますね」
「……なあ、一つ聞きたいんだけど、何でもいいのか?」
「……高すぎるものはやめてくださいね」
「そんなものねだらないよ」

が遠くで笑う。もしどうしても思い浮かばなかったらお洋服とか靴とか考えてます、と言われて、それで十分じゃないかとも思ったが、まあ考えてみるだけ考えてみようと口を閉じた。
耳の近くでまたシーツが擦れる音がする。時計を見てみると、思っていたよりも時計の針が進んでいた。にとってはもう遅い時間だ。定期的に身体の一部を動かすことで必死に抗っているのだろう。微笑ましくもあり寂しくもある。が、そもそも俺が帰ってきて風呂やら飯やらを終えてから話し始めたのだから、そうなっても不思議ではない。


「……はい」
「眠いんだろ?もう寝よう」
「やだ」

素直なのかそうじゃないのか。いや、素直なのか?

「明日予定あるんだろ」
「……そう、だけど」

嫌だという意思表示はあんなに素早くてハッキリしていたのに、言い訳はスラスラ出てこないらしい。でもそれが何よりの証拠になってしまっている。ごにょごにょと何かを言い続けているをあやして、また電話するから、と告げるとはやっと電話を切ってくれた。
息を吐いて端末の画面を切ろうとした瞬間、突然手のひらが震えた。こんな時間に誰だと思ったのも束の間、表示された名前に気が抜ける。

「もしもし?」
「あ、春秋?起きてた?」
「うん」

キッチンに向かって、冷蔵庫を開ける。ビールか発泡酒か。数秒悩んでからビールを手に取った。

「電話出るの早かったね」
「まあな」
「彼女?電話してたの邪魔しちゃった?」

どうしてこうも親というのは勘が鋭いのか。特に母親。言葉も話せない時から世話をしているのだから少しのことくらいなら分かるものだと以前教授が話していたが、それを言われてしまうと子育ての経験がない俺は何も言えなくなってしまう。
缶のタブに指を引っ掛けてそのまま手前に引くと、軽い音が弾けた。電話の相手が今この場にいれば小言を向けられただろうなと思いながらそのまま缶に口をつける。ビールを喉に流しながら曖昧に返事をすると、ちょっと、こんな時間に飲んでるの?と小言が飛んできた。なんだ、結局こうなるのか。

「それで?何かあったのか?」
「それでって、もう。本当にそういうとこ変わらないわね。年末どうするの?帰ってこないなら蕎麦送るよ」
「あー……」

年末が近づくと父の友人から実家に送られてくる大量の蕎麦。幼い頃から毎年見てきた光景が蘇って、シンクに向かいながらしみじみとしてしまった。俺が一人暮らしを始めてから、帰省しない年は食べきれないからと送ってくれていたが、さて今年はどうするか。
しばらく考えて、少し多めに送ってもらえるかと尋ねると母は嬉しそうに答えた。少しでいいと念を押したが、きっといつもの三倍は送られてくるだろう。

「いいねえ、彼女と過ごすの?」
「揶揄うなって」

母がケタケタと笑い、そしてすぐに「あ」と声を上げた。何事かと思っていると微かに低い声が聞こえてきて、そのまま母は電話の向こうで会話をし始めた。何を話しているのかはわからないが、しかし、聞けば聞くほど自分の声にそっくりだ。遺伝というのはつくづく恐ろしい。
ビールを飲みながら母の会話が終わるのを待っていると、予告なく電話口の相手が変わった。少し面食らったが、母がしそうなことではある。

「年末帰ってこないのか」
「ああ、三日からボーダーの仕事が入ってるんだ。帰ってもゆっくりできないだろうから」
「そうか。あんまり母さんに心配かけないようにな。たまには顔見せろよ」

本当に、声も言うことも俺とそっくりな人だ。いや、俺がこの人に似てしまったのか。自分が父親だったらこう言うだろうという言葉をそのまま口にされて、苦笑いが漏れる。
体調を崩していないかとか、大学のほうはどうだとか、父からの質問に答えていると突然ごそごそと物音が聞こえてきた。話をしながら耳を立てて電話の向こうがどんな状況なのか想像してみたが、まったくわからない。

「なあ、何かしてるのか?」
「ん?ああ、明日釣りに行くから竿出してる」

父からの返答でやっと理解した。玄関の小さなスペースにある父の釣り道具を出しているのか、と。と電話をしていた時は簡単にわかったのに。どうやら音が聞こえただけで一挙一動がわかるというのは相手によるらしい。

「じゃあ切るぞ」
「うん。……来年は帰るよ、夏になると思うけど」
「……そうか。わかった」

聞こえてきた声は心なしかいつもより高くなっていた。