「お、東じゃん」
「げっ」

しまったと思った時にはもう声が出ていた。慌てて口を閉じたが、声が響きやすい廊下ではしっかり伝川さんの耳に届いてしまったらしい。鋭い視線と一緒に「何だよ今の」という声が向かってくるのをすんでのところで避けて、何でもないですと口早に返事をする。伝川さんにじろじろ見られるの、落ち着かないんだよな……。理由はよくわからないんだが変な緊張感があるというか。あと単純に容赦がないから。

「もう帰るの?早くない?」
「まあ、その……予定があって」
「ふーん。デート?」
「いや、違います」

伝川さんが大きな目をさらに丸くする。

「東ってデート以外に予定入ることあんの?」
「俺のこと何だと思ってるんですか」

とは言ったものの、思い返してみるとボーダーの帰りに予定がある時はいつもと会っている気がしてきた。……いや、数ヶ月に一回くらい大学に行くことはある。だから嘘ではない。
依然として疑惑を帯びた目で伝川さんに見つめられ、居心地が悪くなって息を吐く。

「買い物です」
「……あ、そっか。誕生日近いもんね」

くそ、気づかれた。この人本当に変なところで鋭いな。

「二十六日じゃなかった?」
「え?ああ……はい」
「選抜試験って明日から二十五までだよね?」
「……そうですけど」
「今日買わないと間に合わないんじゃないの?」
「……」

だんだん声が小さくなっていく。わかりきってることを突き付けられると余計に焦ってきて、心臓のあたりがざわざわし始めた。黙り込んだ俺を面白く思ったのか伝川さんは笑いながら俺の背をバシバシと叩き、身体が揺れる。

「まあ元気出しなよ。プレゼントが間に合わなくても東のこと嫌いになったりする子じゃないし」
「間に合わない前提で話さないでください」
「え、何買うか決まってんの?」
「……服かアクセサリーか……あと香水ですかね」
「服はやめときな。好みがあるし、それにセンスないと難しいから」

間接的に俺のセンスが悪いと言われた気がする。が、口にしたらまた居心地が悪くなりそうなので口を閉じた。

「香水も好き嫌い分かれやすいよね。アクセサリーならわたしも影浦くんからもらったけど」
「えっ」
「なにその顔」
「いや……影浦が一人で女物のアクセサリーを買ってるところが想像できなくて、」
「はあ?」

胸倉を掴まれるんじゃないかという勢いで睨まれる。想像できるし可愛いだろと同意を求められたが、さすがに「はい」とは答え難い。伝川さんは影浦のことを可愛いと常々言っていて、確かに後輩としては可愛いと思うことはあるものの、俺の「可愛い」と伝川さんの「可愛い」は意味合いがだいぶ違うはずだ。伝川さんの「可愛い」は正直わからなくて、たまに伝川さんは目がおかしいのではと思うことがある。こんなに大きい目をしているから俺には見えないものが見えるのだろうか。

「今なんか失礼なこと考えてたでしょ」
「そんなことないですよ。あ、アクセサリーって何もらったんですか?」

伝川さんの勘が再び唸り始めたので慌てて話題を逸らす。伝川さんは視線を鋭くしたまま「ピアス」とぶっきらぼうに答え、一緒に選んだのだと教えてくれた。そういえば伝川さんとボーダーの外、……というか影浦の店で会う時はよくピアスをつけている気がしてきた。やっぱり良くつけるアクセサリーのほうがいいのか……。

「東ってほんと可愛くない」
「そりゃどうも」
「一回フラれろ」
「それは嫌ですね」

言いながら時計を確認する。しまった、いい加減でないと見る時間がない。お先にと軽く頭を下げ、ばーかばーかと子どもじみた罵倒に見送られながらボーダーを出ると、視界に光が刺さった。反射的に眩しさに目を細める。瞼の隙間から赤くなり始めた空が見える。そういえば、この時間でまだこの明るさなのか。随分と日が長くなって、気温も春らしくなってくれた。しかし、明日からまた寒くなるらしい。しばらく外に出ない俺には無縁の話なのだが、は大丈夫だろうか。試験が終わる頃は暖かくなっているだろうか。試験が終わったら、俺をどう迎えてくれるのだろうか。
息を吐いてから歩き始めると、生温い風が身体を包む。仮初の春が、ほんの少しだけ優しかった。