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作品ID:351
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約4649文字 読了時間約3分 原稿用紙約6枚
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こちらの作品には、暴力的・グロテスクな表現・内容が含まれています。15歳以下の方、また苦手な方はお戻り下さい。
小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / R-15 /
Nostalgia
作品紹介
「ただいまパパ。おかえり真奈美」
別の小説を書いている途中に書き上げたものです。
最初はほのぼのとした話を書こうとしていたのに、途中から何を間違ったのか暗くなってしまった作品。狂った男を書くのはあまり好きではないのに……。
今度はちゃんとほのぼのとした作品を書きたいものです。
別の小説を書いている途中に書き上げたものです。
最初はほのぼのとした話を書こうとしていたのに、途中から何を間違ったのか暗くなってしまった作品。狂った男を書くのはあまり好きではないのに……。
今度はちゃんとほのぼのとした作品を書きたいものです。
わたしが妻と離婚したきっかけというものは、今から思えばほんの些細なことであった。
ぼんやりとした月の灯りが辺りを包み込む夜道、会社の同僚から飲みに行かないかと誘われたが、それをきっぱりと断ってまでして急がせた足。かなり疲れきっていたはずだが、何故か帰り道を急ぐ足取りが不気味なくらいに軽かった。それほどわたしは家を――否、家でわたしの帰りを待つ家族に「ただいま」と言うのが楽しみであったに違いない。
家に帰る途中にぶつかる一つの信号。わたしが渡ろうとした直後、チカチカ、と足を進めている人間が映った青信号が点滅し、やがて止まった人間の赤信号へと変わる。点滅している時が一番危険だから、青信号が点滅している時は絶対に渡るな。という妻の言いつけを律儀に守り、わたしは足を止めて腕時計に目を移してみた。
午後七時四分。いつもより、幾らか早い時間だ。
こりゃあ、妻も娘も驚くに違いない。わたしは込み上がってくる笑みを噛み殺しながら、脳裏に目を丸くさせる二人の姿を浮かばせた。今にも駆け足になりそうだ。
信号が青に変わった。
目の前を行き交っていた自動車の姿ははたりと消え、代わりにどっと大勢の人間がこちら側に押し寄せてくる。ぶつかってしまわぬよう、必死にその者たちの間に道を探しながら横断歩道を渡った。携帯で必死に何かを打ち続けている者も、ズボンのポケットに手を突っ込んで歩く者も。頑張ってぶつからないよう避けていたのだが、きゃっきゃ言っている若いカップルを避けた時、反対側を歩く男と肩がぶつかってしまった。ちょっとぶつかったくらいだというのに、男は地面に尻餅をついた。
「ああ、すみません」わたしは頭を下げながら、彼に手を差し出す。「お怪我は?」
「ああ、いえ。こっちもよく見ていなくて、すみませんでした」
男は愛想の良い笑顔で謝り、わたしの手を借りて立ち上がった。そして、隣に立つ女に「大丈夫」との合図のように両手を広げてみせる。わたしは彼女にも一応謝っておこうと顔を上げた時、作っておいた笑顔がわたしの中から消滅した。
彼女さえ見なければ、早く家に帰って、愛する家族の顔を見たいと思うわたしの思いは空気の抜かれた風船のように急激にしぼんでいくことはなかった。
もっと言えば、わたしたちは“普通”の家族として過ごすことができた。
「お前……、何でここに……?」
白いワンピースを着た女性は紛れもなくわたしの妻だった。
「ただいまー、パパ!」
わたしが重々しい玄関のドアを開け放った瞬間、胸元に飛び込んでくる小さな体。わたしはその体を胸に受け止めながら、笑顔で間違いを訂正する。
「ただいま、はパパの台詞だろう。真奈美はおかえり、だ」
娘の真奈美は首を横に傾げて必死にわたしの言葉を理解しようとしていたが、やがてにぱっと満面の笑みを浮かべる。ちゃんとわかってくれたのか、と思うわたしの期待は
「ただいまパパ。おかえり真奈美」
いとも簡単に打ち砕かれた。
真奈美は四歳。午前中はわたしが仕事のため、一人で留守番をすることになっている。一人でいるのは午前中は面倒を見てくれる人がいないからだ。
あの一件以来、妻とわたしは離婚した。
その時は直感的に不倫だと思ったのだが、違う選択肢だって有り得る、とわたしはその姿に憤怒しなかった。例えば会社の先輩とか、友達とか、出そうと思えば幾らだって出てくる。わたしはその確率を信じようと必死だったのだが、当の妻はあっさりと言ってきた。「さようなら」と。
その日までは一体何だったんだ。
何が危ないから点滅する時は渡るな、だ。それはわたしに言っている言葉ではなかったのだろう。所詮は別の男にもそう言っているのだろう。
おまけに真奈美を連れていくと言ったくせに、それから数週間後には「子供のいる女は嫌だと言われたから。邪魔だから」とわたしに真奈美を返してきた。ふざけるな。
別人のようになってしまった真奈美を元通りにするのにはかなりの時間が掛かった。あっちの家でどんな目に遭ったのかわからないが、邪魔だからと言われるくらいには相当なことをされたに違いない。ボロボロになった真奈美が何よりの証拠だ。
――可哀想に。真奈美は何も悪いことなんてしていないのになあ。
わたしは前よりも真奈美をよく可愛がった。それはもう異常ではないか、と周りから思われるくらいに。実際に会社の同僚から苦笑されたこともある。
その甲斐があってか、真奈美はこうして自然と笑顔を取り戻すようになった。
「そうそう、パパは明日仕事が休みなんだ」
八時ちょっと過ぎのいつもより早い夕食中。テーブルの上に並べられた魚や白米を箸で突きながらわたしがそう言うと、箸を右手に握り締めた真奈美が「本当?」と目を輝かせる。頭上の電気の光と真奈美の目とで、わたしは眩しくなった。
「本当。だから、明日は遊園地に行こうか」
「行く行く! 真奈美ね、お馬さんに乗るんだ!」
真奈美は箸を置いて、“お馬さん”に乗った素振りを見せる。胸の前に握りこぶしを構え、それを上下に動かす程度のもの。幼い仕草にわたしは目を細めた。
「でもね、真奈美。お馬さん、って牧場とかじゃないんだぞ」
「いるもん!」真奈美がぷぅと頬を膨らました。「真っ白いお馬さん、いるもん!」
わたしはキーボードを押すようにこめかみを指で叩き、記憶を辿ってみた。すると、脳裏に僅かに馬の像が浮かび上がった。回転しながらゆっくりと上下する、綺麗な飾りの施された白い馬。つぶらな瞳は真っ直ぐ前を射ており、凛々しいようで綺麗な印象を与える馬たち。真奈美はこのメリーゴーランドのことを言っているのだろうか。
「あれか? 馬がくるくる回っているやつ」
「うん、それ!」
真奈美は嬉しそうに笑った。
「お馬さんと……あとかんらんしゃにも乗るんだ」
「観覧車ねえ……」わたしは箸で魚を切り分けて口の中に放り込んだ。「高いぞ、お空まで行くんだからな。怖くないか?」
「怖くないもん。真奈美、大きいからっ」
真奈美は椅子の上に立ち上がり、胸を張ってみせた。わたしは「そうかそうか」と頷く。
ふいに真奈美の前に並べられた夕食の皿に目を移してみる。魚はわたしの皿の上のもののように骨が丸見えでないどころか、一度も箸を付けていない様子だ。魚だけではなく、ご飯も味噌汁も漬物だって少しも減っていない。
「腹が減っていないのか?」
わたしが訊ねると、真奈美は「おやつを食べ過ぎたからかな?」と言って舌を出した。まあ、正直で良い、と思う。うん。
「ご飯もちゃんと食べなくちゃ駄目なんだからな」
真奈美は「うん」と首を縦に頷かせたが、最後まで真奈美が夕食を一口も頬張ることはなかった。
夕食を食べなかったとはいえ、おやつを食べたのなら歯を磨かなくてはならない。わたしは夕食後、真奈美を洗面台まで連れていった。
「歯はしっかり磨けよ。虫歯にならないようにな」
真奈美はブラシにハブラシ粉を乗せるのに大分苦労した様子だった。眉を顰めて、慎重に乗せようとしている。わたしはブラシを咥えながら、声を殺して笑った。
「大丈夫か?」
わたしは真奈美の分までやろうと手を伸ばしたが、真奈美はそんなわたしの手からハブラシを遠ざけて舌を出した。
「真奈美がやるの」
「ハイハイ」
真奈美は一度は洗面台に落としてしまい、二度目は床に落とす。三度目になってやっとブラシの上にハブラシ粉を乗せるのに成功した。ブラシの上に乗ったハミガキ粉に感動した真奈美をそっとしておき、落ちたハブラシ粉の始末はわたしがやった。
三分間(真奈美は途中でリビングに帰ろうとしていたがそれを止めさせ)、しっかりと歯を磨いてうがいをすると、次は真奈美を抱きかかえながら浴室へ。風呂の時間だ。
どこで手に入れたのか、立派な水鉄砲の引き金をわたしの顔面めがけて引く真奈美の無邪気な姿。鼻に水が入り、鼻の奥の痛みが風呂から上がるまで取れなかった。しかし、水鉄砲なんて今まで見たことがなかったが、どこに隠していたのだろうか。
浴槽にアヒルの玩具を浮かべて、真奈美は嬉しそうだった。
「ちゃんと十数えてから上がれよ」
わたしはシャンプーを手に取りながら、真奈美を横目に言う。すると、浴室には真奈美が一から十を数える声が響き渡った。ただ、七から先の数字がわからずに、また一から戻ったりして、結局は三十秒くらい浴槽に浸かっていたが。
風呂を上がると、もう既に九時半は回っていた。真奈美が眠たそうに目を擦る。
わたしは二階の和室に布団を敷き、真奈美を布団の中に潜らせるとすぐ隣に横になった。
「ねえ、パパ」ふいに真奈美が声を掛けた。「明日はね、コーヒーカップにも乗りたいなあ」
「何でも良いよ。何なら全部乗ろうか?」
真奈美はふるふる、と首を横に振った。
「お化けの出る所は嫌」
真奈美はお化け屋敷のことを言っているようだった。わたしは両手を指先を下に向けた状態で胸の前に出し、「これが嫌なのか?」
「さっきは自分で大きいって言わなかったっけ?」
「お化けは嫌だもん」
真奈美はぷいっとそっぽを向いた。わたしは真奈美の頭をゆっくりと撫でながら笑う。
「それじゃ、お化け屋敷は止めよう。あとは……そうだなあ、空中ブランコはどう? ブランコに乗ってぐるぐる回るやつ。メリーゴーランドにコーヒーカップ、それと空中ブランコ。あと、夜にはパレードも見よう。それから――」
言葉の途中ですーすー、と安らかな寝息が聞こえ、口を閉じる。夢中に話し過ぎていたせいか、真奈美が寝ているのに気付かなかった。
本当、わたしは真奈美に対してどうかしている。
「おやすみ」
わたしはそう呟いて部屋の照明を消した。真奈美が良い夢を見られるよう、願いながら。
*
会社から帰ると、すぐに冷蔵庫へと足を進める。冷蔵庫の中には賞味期限切れの食べ物や期限切れではない食べ物と並んでいる。だが、中央の段には食べ物ではなく、ラップで何重に包まれた大きさの異なる六つの“物”が入っていた。わたしはその中でも、細長いものを一本取り出し、ラップを捲る。
ぺりぺりぺり。無機質な音が暗がりの部屋で響き、ラップが剥がされるのと同時に、次第に剥き出しになる中身。ラップで巻かれていたせいで白っぽかったそれは、どんどんと本体の色を明かし始めていく。
全てのラップを剥がし終えたわたしの瞳に映るのは、一本の幼い腕。
残りの五つのラップにも同様に手を掛けてみると、自然と口元が緩んでくる。
「可哀想に。真奈美は何も悪いことなんてしていないのになあ」
真奈美の不運を嘆く言葉とは対象的に、わたし自身は今すぐにでも声を上げて笑いそうだった。真奈美の二本目の腕に籠る手の力が強くなってくる。
可哀想になあ。本当に可哀想だよ。
可哀想。憐れ。不憫。痛々しい。無残。気の毒……。
「……ただいま、真奈美」
静かにそう呟くと、どこかで「ただいまパパ。おかえり真奈美」と返してくる声が聞こえた気がした。
ぼんやりとした月の灯りが辺りを包み込む夜道、会社の同僚から飲みに行かないかと誘われたが、それをきっぱりと断ってまでして急がせた足。かなり疲れきっていたはずだが、何故か帰り道を急ぐ足取りが不気味なくらいに軽かった。それほどわたしは家を――否、家でわたしの帰りを待つ家族に「ただいま」と言うのが楽しみであったに違いない。
家に帰る途中にぶつかる一つの信号。わたしが渡ろうとした直後、チカチカ、と足を進めている人間が映った青信号が点滅し、やがて止まった人間の赤信号へと変わる。点滅している時が一番危険だから、青信号が点滅している時は絶対に渡るな。という妻の言いつけを律儀に守り、わたしは足を止めて腕時計に目を移してみた。
午後七時四分。いつもより、幾らか早い時間だ。
こりゃあ、妻も娘も驚くに違いない。わたしは込み上がってくる笑みを噛み殺しながら、脳裏に目を丸くさせる二人の姿を浮かばせた。今にも駆け足になりそうだ。
信号が青に変わった。
目の前を行き交っていた自動車の姿ははたりと消え、代わりにどっと大勢の人間がこちら側に押し寄せてくる。ぶつかってしまわぬよう、必死にその者たちの間に道を探しながら横断歩道を渡った。携帯で必死に何かを打ち続けている者も、ズボンのポケットに手を突っ込んで歩く者も。頑張ってぶつからないよう避けていたのだが、きゃっきゃ言っている若いカップルを避けた時、反対側を歩く男と肩がぶつかってしまった。ちょっとぶつかったくらいだというのに、男は地面に尻餅をついた。
「ああ、すみません」わたしは頭を下げながら、彼に手を差し出す。「お怪我は?」
「ああ、いえ。こっちもよく見ていなくて、すみませんでした」
男は愛想の良い笑顔で謝り、わたしの手を借りて立ち上がった。そして、隣に立つ女に「大丈夫」との合図のように両手を広げてみせる。わたしは彼女にも一応謝っておこうと顔を上げた時、作っておいた笑顔がわたしの中から消滅した。
彼女さえ見なければ、早く家に帰って、愛する家族の顔を見たいと思うわたしの思いは空気の抜かれた風船のように急激にしぼんでいくことはなかった。
もっと言えば、わたしたちは“普通”の家族として過ごすことができた。
「お前……、何でここに……?」
白いワンピースを着た女性は紛れもなくわたしの妻だった。
「ただいまー、パパ!」
わたしが重々しい玄関のドアを開け放った瞬間、胸元に飛び込んでくる小さな体。わたしはその体を胸に受け止めながら、笑顔で間違いを訂正する。
「ただいま、はパパの台詞だろう。真奈美はおかえり、だ」
娘の真奈美は首を横に傾げて必死にわたしの言葉を理解しようとしていたが、やがてにぱっと満面の笑みを浮かべる。ちゃんとわかってくれたのか、と思うわたしの期待は
「ただいまパパ。おかえり真奈美」
いとも簡単に打ち砕かれた。
真奈美は四歳。午前中はわたしが仕事のため、一人で留守番をすることになっている。一人でいるのは午前中は面倒を見てくれる人がいないからだ。
あの一件以来、妻とわたしは離婚した。
その時は直感的に不倫だと思ったのだが、違う選択肢だって有り得る、とわたしはその姿に憤怒しなかった。例えば会社の先輩とか、友達とか、出そうと思えば幾らだって出てくる。わたしはその確率を信じようと必死だったのだが、当の妻はあっさりと言ってきた。「さようなら」と。
その日までは一体何だったんだ。
何が危ないから点滅する時は渡るな、だ。それはわたしに言っている言葉ではなかったのだろう。所詮は別の男にもそう言っているのだろう。
おまけに真奈美を連れていくと言ったくせに、それから数週間後には「子供のいる女は嫌だと言われたから。邪魔だから」とわたしに真奈美を返してきた。ふざけるな。
別人のようになってしまった真奈美を元通りにするのにはかなりの時間が掛かった。あっちの家でどんな目に遭ったのかわからないが、邪魔だからと言われるくらいには相当なことをされたに違いない。ボロボロになった真奈美が何よりの証拠だ。
――可哀想に。真奈美は何も悪いことなんてしていないのになあ。
わたしは前よりも真奈美をよく可愛がった。それはもう異常ではないか、と周りから思われるくらいに。実際に会社の同僚から苦笑されたこともある。
その甲斐があってか、真奈美はこうして自然と笑顔を取り戻すようになった。
「そうそう、パパは明日仕事が休みなんだ」
八時ちょっと過ぎのいつもより早い夕食中。テーブルの上に並べられた魚や白米を箸で突きながらわたしがそう言うと、箸を右手に握り締めた真奈美が「本当?」と目を輝かせる。頭上の電気の光と真奈美の目とで、わたしは眩しくなった。
「本当。だから、明日は遊園地に行こうか」
「行く行く! 真奈美ね、お馬さんに乗るんだ!」
真奈美は箸を置いて、“お馬さん”に乗った素振りを見せる。胸の前に握りこぶしを構え、それを上下に動かす程度のもの。幼い仕草にわたしは目を細めた。
「でもね、真奈美。お馬さん、って牧場とかじゃないんだぞ」
「いるもん!」真奈美がぷぅと頬を膨らました。「真っ白いお馬さん、いるもん!」
わたしはキーボードを押すようにこめかみを指で叩き、記憶を辿ってみた。すると、脳裏に僅かに馬の像が浮かび上がった。回転しながらゆっくりと上下する、綺麗な飾りの施された白い馬。つぶらな瞳は真っ直ぐ前を射ており、凛々しいようで綺麗な印象を与える馬たち。真奈美はこのメリーゴーランドのことを言っているのだろうか。
「あれか? 馬がくるくる回っているやつ」
「うん、それ!」
真奈美は嬉しそうに笑った。
「お馬さんと……あとかんらんしゃにも乗るんだ」
「観覧車ねえ……」わたしは箸で魚を切り分けて口の中に放り込んだ。「高いぞ、お空まで行くんだからな。怖くないか?」
「怖くないもん。真奈美、大きいからっ」
真奈美は椅子の上に立ち上がり、胸を張ってみせた。わたしは「そうかそうか」と頷く。
ふいに真奈美の前に並べられた夕食の皿に目を移してみる。魚はわたしの皿の上のもののように骨が丸見えでないどころか、一度も箸を付けていない様子だ。魚だけではなく、ご飯も味噌汁も漬物だって少しも減っていない。
「腹が減っていないのか?」
わたしが訊ねると、真奈美は「おやつを食べ過ぎたからかな?」と言って舌を出した。まあ、正直で良い、と思う。うん。
「ご飯もちゃんと食べなくちゃ駄目なんだからな」
真奈美は「うん」と首を縦に頷かせたが、最後まで真奈美が夕食を一口も頬張ることはなかった。
夕食を食べなかったとはいえ、おやつを食べたのなら歯を磨かなくてはならない。わたしは夕食後、真奈美を洗面台まで連れていった。
「歯はしっかり磨けよ。虫歯にならないようにな」
真奈美はブラシにハブラシ粉を乗せるのに大分苦労した様子だった。眉を顰めて、慎重に乗せようとしている。わたしはブラシを咥えながら、声を殺して笑った。
「大丈夫か?」
わたしは真奈美の分までやろうと手を伸ばしたが、真奈美はそんなわたしの手からハブラシを遠ざけて舌を出した。
「真奈美がやるの」
「ハイハイ」
真奈美は一度は洗面台に落としてしまい、二度目は床に落とす。三度目になってやっとブラシの上にハブラシ粉を乗せるのに成功した。ブラシの上に乗ったハミガキ粉に感動した真奈美をそっとしておき、落ちたハブラシ粉の始末はわたしがやった。
三分間(真奈美は途中でリビングに帰ろうとしていたがそれを止めさせ)、しっかりと歯を磨いてうがいをすると、次は真奈美を抱きかかえながら浴室へ。風呂の時間だ。
どこで手に入れたのか、立派な水鉄砲の引き金をわたしの顔面めがけて引く真奈美の無邪気な姿。鼻に水が入り、鼻の奥の痛みが風呂から上がるまで取れなかった。しかし、水鉄砲なんて今まで見たことがなかったが、どこに隠していたのだろうか。
浴槽にアヒルの玩具を浮かべて、真奈美は嬉しそうだった。
「ちゃんと十数えてから上がれよ」
わたしはシャンプーを手に取りながら、真奈美を横目に言う。すると、浴室には真奈美が一から十を数える声が響き渡った。ただ、七から先の数字がわからずに、また一から戻ったりして、結局は三十秒くらい浴槽に浸かっていたが。
風呂を上がると、もう既に九時半は回っていた。真奈美が眠たそうに目を擦る。
わたしは二階の和室に布団を敷き、真奈美を布団の中に潜らせるとすぐ隣に横になった。
「ねえ、パパ」ふいに真奈美が声を掛けた。「明日はね、コーヒーカップにも乗りたいなあ」
「何でも良いよ。何なら全部乗ろうか?」
真奈美はふるふる、と首を横に振った。
「お化けの出る所は嫌」
真奈美はお化け屋敷のことを言っているようだった。わたしは両手を指先を下に向けた状態で胸の前に出し、「これが嫌なのか?」
「さっきは自分で大きいって言わなかったっけ?」
「お化けは嫌だもん」
真奈美はぷいっとそっぽを向いた。わたしは真奈美の頭をゆっくりと撫でながら笑う。
「それじゃ、お化け屋敷は止めよう。あとは……そうだなあ、空中ブランコはどう? ブランコに乗ってぐるぐる回るやつ。メリーゴーランドにコーヒーカップ、それと空中ブランコ。あと、夜にはパレードも見よう。それから――」
言葉の途中ですーすー、と安らかな寝息が聞こえ、口を閉じる。夢中に話し過ぎていたせいか、真奈美が寝ているのに気付かなかった。
本当、わたしは真奈美に対してどうかしている。
「おやすみ」
わたしはそう呟いて部屋の照明を消した。真奈美が良い夢を見られるよう、願いながら。
*
会社から帰ると、すぐに冷蔵庫へと足を進める。冷蔵庫の中には賞味期限切れの食べ物や期限切れではない食べ物と並んでいる。だが、中央の段には食べ物ではなく、ラップで何重に包まれた大きさの異なる六つの“物”が入っていた。わたしはその中でも、細長いものを一本取り出し、ラップを捲る。
ぺりぺりぺり。無機質な音が暗がりの部屋で響き、ラップが剥がされるのと同時に、次第に剥き出しになる中身。ラップで巻かれていたせいで白っぽかったそれは、どんどんと本体の色を明かし始めていく。
全てのラップを剥がし終えたわたしの瞳に映るのは、一本の幼い腕。
残りの五つのラップにも同様に手を掛けてみると、自然と口元が緩んでくる。
「可哀想に。真奈美は何も悪いことなんてしていないのになあ」
真奈美の不運を嘆く言葉とは対象的に、わたし自身は今すぐにでも声を上げて笑いそうだった。真奈美の二本目の腕に籠る手の力が強くなってくる。
可哀想になあ。本当に可哀想だよ。
可哀想。憐れ。不憫。痛々しい。無残。気の毒……。
「……ただいま、真奈美」
静かにそう呟くと、どこかで「ただいまパパ。おかえり真奈美」と返してくる声が聞こえた気がした。
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