小説鍛錬室
小説投稿室へ運営方針(感想&評価について)
投稿室MENU | 小説一覧 |
住民票一覧 |
ログイン | 住民登録 |
作品ID:555
こちらの作品は、「お気軽感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約4230文字 読了時間約3分 原稿用紙約6枚
読了ボタン
button design:白銀さん Thanks!※β版(試用版)の機能のため、表示や動作が変更になる場合があります。
あなたの読了ステータス
(読了ボタン正常)一般ユーザと認識
「冬の怪物」を読み始めました。
読了ステータス(人数)
読了(490)・読中(13)・読止(1)・一般PV数(1517)
読了した住民(一般ユーザは含まれません)
■ある住民
小説の属性:一般小説 / 未選択 / お気軽感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし /
冬の怪物
作品紹介
冷え込む冬の朝、
あまりの寒さに目を覚ました『僕』。
眠い目をこすると、部屋の隅にうずくまっているものがいた。
それが、『冬の怪物』との出会いだった。
あまりの寒さに目を覚ました『僕』。
眠い目をこすると、部屋の隅にうずくまっているものがいた。
それが、『冬の怪物』との出会いだった。
雪の降る夜は、その冷たい冷気が時折、形を持ったように見える。そいつは枯れて縮こまった並木を飛び移りながら、街を駆け抜けていく。窓の僅かな隙間から、そいつは入ってきて、部屋は凍てついてしまう。外を見やればそいつたちは、家の窓を覗き込みながら、部屋へするりと入っていった。
そいつらのうちの一つは、ある家の中に忍び込んだ。口から凍える吐息を吐いて部屋を凍らせようとした。そのとき、ベッドの中で呻き声が聞こえた。毛布の繭がたわんで、その裂け目から顔を覗かせていた。彼が辛そうに体を震わせている姿見て、そいつは少しだけ、躊躇った。見なかったことにして、ここから去ることにした。そいつは、入り込んだときと同じように、窓の隙間から出ていくことにした。
僕は夜、うまく眠ることができないことがある。眠ろうとすると、色々な事を思い出してしまい、左の胸の奥の方がキュッっとなってしまうのだ。どうにか眠ることが出来たとしても、寝ぼけた起き抜けですら嫌悪したくなるような悪夢にうなされてしまう。だから難しい本を抱えてベッドに潜り込むけれど、もうそんなのは嫌だった。
目を閉じて、瞼の裏の真っ暗な視界越しに僕は別の世界を想像する。そうしているうちに、ぼんやりとした輪郭が像を結んでふにゃふにゃと形を変えていく。僅かな光が瞼を透過して僕の目が見せているものは、そんな曖昧なものばかりだ。
夜、窓からぼんやりとしたものが出ていこうとするのを見た。それも、僅かに入眠した時に見た夢のひとつかもしれない。
やがて閉じた目に入る光量が大きくなったことに気が付いて目を開けると、もう早朝になっていた。
ベッドから起き上がると、窓辺から橙の朝日が差していた。なかなか起き上がる気になれないが、踏ん切りをつけてスリッパを履いて立ち上がると、あまりの寒さに身震いがした。すぐさまベッドに戻ろうと思い顔を向けると、視界の端に何かが写り込んだ。
振り向くと、そこには朝日から逃げるようにして部屋の隅の方で座り込んでいるものがいた。まだ夢をみているのだろうか。夢に現れる怪物より、かなりひ弱そうに見えた。
そうか。夢ならいい。この夢は怖くない。良くわからないものに追われることはなさそうだった。縮こまっているそいつに声をかけてみた。
「この部屋、随分寒いね。そんなところで縮こまっていて寒くないのかい?」
「……うるさい。お前のせいだ。お前を見逃そうとしたから私は外に出られなくなったんだ」
嫌な夢だ。本当の僕はいまだにベッドの上から起きあがっていないに違いない。
起きた時にはほとんど忘れてしまうけれど、訳の分からない奴に、言われのないことで非難される夢は何度も見た。これもそれの一つだ。
「……僕が何をしたっていうんだ」
反論しても、こういう夢なら無駄だ。
「朝日が入ってきた。私がお前を見逃してやろうと思って出ようとしたら朝日がでてきたんだ」
「朝日が何だっていうんだよ」
変わった奴だ。こういう時は反論するとたくさん同じような奴が現れて物量で襲いかかって来るのに。
「私は夜の冷気だから。だから、朝日は天敵なんだ」
もう、おしまいだ。そいつは項垂れた顔でそう続けた。
「僕を見逃したってどういうことなのさ。それに、もうおしまいって……」
「お前のせいで私は死ぬんだ。朝日にあぶられて死ぬなんて、……一番惨たらしい死に様だ」
そいつは涙を零しながら言った。ぽろぽろ後からこぼれていって、零れるそばから涙は氷の粒になった。
「……それは、僕のせいなのか」
そいつはしゃくりあげながら、小さく首を振った。
「……すまない。やっぱりお前はあんまり関係がなかった。お前を見逃した私が悪い。いざ自分が死ぬ時になったら、なんだかやりきれなくって……。だから、思わずお前のせいにしてしまった」
いつもの夢とは少し違う。
蹂躙される役のはずの僕が、そいつのために何かをしてやりたくなったからだ。死ぬ間際に涙するそいつは、夢で現れる怪物共とは少し違っていた。あまりに人間味があったのだ。
「『冷気』って言ったけど、君は一体僕に何をしようとしたのさ」
「なんだ、お前は冷気が何をするのかしらないのか? そうだ、私の手を握ってみろ」
そいつは白くてやけにほっそりとした腕を差し出した。恐る恐る手を握る。
「うっ」
体が硬直して息が出来なくなった。あまりの冷たさに掌から血の気が失せていた。
驚いてそいつの顔を見ると、そいつは弱弱しく笑い返した。
「驚いただろう? 冷気の手を直に触ったのは後にも先にもお前だけだ。私はお前の部屋を凍えさせてやろうと忍び込んだんだ。あの時お前が眠っていたら、すぐにでもダイヤモンドダストでいっぱいにしてやったものを」
「なるほど。……僕は最近不眠症気味だから、昨日の夜は起きていたんだっけ。どうりで寒かったわけだ」
でもどうして、そいつは震えていた僕を見逃したのだろう。そいつに聞いてみた。
「でもどうして僕が起きているのと、君が僕を見逃すのが関係あるのさ」
「それは、……生きたまま凍らせるのが後味悪いからだ」
こいつはすごくいい奴だ。ただの冷気にしておくのはもったいない。
そいつは両腕で足を抱え込むと俯いた。朝日が少しだけ伸びてきた。避けるようにして、足を少し引いた。
僕は、とっさにカーテンを閉めた。それがそいつにとっていいような気がした。
薄暗い部屋の中で、僕はそいつを延命させる方法を考えた。苦しそうにして汗を流しはじめたそいつは、だんだんと輪郭がぼやけはじめていた。
「辛そうだけど、大丈夫かい」
「大丈夫なものか。この体を保ちにくくなってきた。もう溶け出しそうだ」
「氷があれば君は平気なのかな」
「……もしかして、お前は私を助けようと考えているのか?」
諦めきったそいつの声は、かすれて聞き取りづらかった。
「……そうだよ、まだ、間に合うんだろう?」
そいつは目を丸くした。それから、泣くのを我慢して歯を食いしばった。涙は目じりにすくすくと溜り、大粒の氷になって落っこちた。嗚咽を、唇をかみしめて必死にころしていた。それからややあって、震える声で言った。
「……ありがとう。私は少しお前を見くびっていたようだ。でも、もういいんだ。どうせそこの扉を開ければ外の暖かい空気が流れ込んできて、私の死期を早めるだろうからな」
そいつは頷いて、独り言ちるようにいった。
「今、お前を見逃してよかったと思うよ。あのときの判断は私としては正しかったようだ」
言い終えるころには、そいつは泣き笑いのような表情になっていた。そいつの潤んだ瞳に、僕が映り込んだ。
そいつの瞼は重そうに閉じられていく。
ついにそいつはまともに会話も出来なくなっていた。
そこらの人間よりもよっぽど豊かな感情を持つそいつは、いよいよそれさえも失いつつあった。
うずくまっていた小さな体がぐらりとよろめいて、僕は慌てて抱きとめた。震える手を握ろうとした。始めて会った朝ほど、室内の温度は寒くなくなっていた。そいつの小さな掌は、あの時触れたほど冷たさを感じなくなっていた。まるで、ただの冷え性のようにも思えた。
「もう、だめなのかな」
そいつは、真摯にも僕の問いに時間をかけて答えた。
「……生き延びることは今の私では無理だ。……もう限界だ」
そいつはゆっくりと目を閉じた。僕の腕の中で、そいつは消えようとしていた。
白く輝く肌が光を失い、徐々に瞬きはじめる。亀裂が走る。
「私は、……もし、死んで生まれ変わるのなら、……お前のような、……人間に、なりたい……」
「まてよ、待ってくれ!」
――パリン
硝子が粉々に砕け散るようにそいつは飛び散って、みるまに溶けて水になってしまった。
「あ、ああ」
水溜まりになったそいつを掻き集めるようにしてすくう。服に染み込み、手のひらから零れ落ちてしまう。
僕は涙を流していた。冷たい氷水に、涙がいくつも波紋をつくる。
「……これは、……夢なんだ。僕を、悲しくて、つらい気持ちにさせる、夢だ。夢なんだ!」
そいつは僕を凍らせようとした冬の怪物だ。消えてしまったという反照が、僕の心を悲愴が埋め尽くしていく。
僕が不眠を患ったのは、大切な女性を事故で亡くした記憶がいつまでたっても消えないからだ。トラウマのように、突然フラッシュバックする類とは少し異なる。その事故で亡くした人のことを、僕は折り合いを付けられないでいるのだ。
何度も事故の現場に足を運び、そこで亡くした彼女を悼み、その体温や息遣いを思い出そうとしている。ただ、寂しかっただけなのだ。
雪の道を、缶コーヒー二本ぶら下げて、あの人が好きだった花を持って。それも、温かい思い出に浸りたかったから。そのためだった。
僕が、あいつに話しかけたのは、本当に気まぐれだった。
それが、自分の孤独を埋めるために、すこしでも長引くように話をつなげていた。夢のなかですら満足に過ごせないようになってしまった僕にとって、いっときのあいつとの会話は救いになっていた。
――ひとりじゃない、みんな誰もがひとりぼっちなんだよ
そう言って抱きしめてくれた。
――大好き
そう言って、強く真っ直ぐな言葉で好意を伝えてくれた。こんな僕を死んでからもずっと愛してくれた。
あいつを、僕は彼女と重ねていたのかもしれない。あいつを助けてやることが、いつしかの事故で彼女を庇えなかったことの罪を清算するようにすら、僕は思っていたのだろう。
人は、誰もが孤独だ。だからだれかを好きになって、その人と共にありたいと願う。
ようやく、自分の気持ちに気が付いた。
僕は、あいつのことが好きだったのだ。
あいつが消えることが、僕に過去の折り合いをつけさせるためなのだとしたら。そう思うと、僕は泣きじゃくってばかりではいられないと感じるようになった。
それでも。
それでも、朝日があいつの残滓を大気に溶かしきるまで、せめて泣かせてほしい。
そいつらのうちの一つは、ある家の中に忍び込んだ。口から凍える吐息を吐いて部屋を凍らせようとした。そのとき、ベッドの中で呻き声が聞こえた。毛布の繭がたわんで、その裂け目から顔を覗かせていた。彼が辛そうに体を震わせている姿見て、そいつは少しだけ、躊躇った。見なかったことにして、ここから去ることにした。そいつは、入り込んだときと同じように、窓の隙間から出ていくことにした。
僕は夜、うまく眠ることができないことがある。眠ろうとすると、色々な事を思い出してしまい、左の胸の奥の方がキュッっとなってしまうのだ。どうにか眠ることが出来たとしても、寝ぼけた起き抜けですら嫌悪したくなるような悪夢にうなされてしまう。だから難しい本を抱えてベッドに潜り込むけれど、もうそんなのは嫌だった。
目を閉じて、瞼の裏の真っ暗な視界越しに僕は別の世界を想像する。そうしているうちに、ぼんやりとした輪郭が像を結んでふにゃふにゃと形を変えていく。僅かな光が瞼を透過して僕の目が見せているものは、そんな曖昧なものばかりだ。
夜、窓からぼんやりとしたものが出ていこうとするのを見た。それも、僅かに入眠した時に見た夢のひとつかもしれない。
やがて閉じた目に入る光量が大きくなったことに気が付いて目を開けると、もう早朝になっていた。
ベッドから起き上がると、窓辺から橙の朝日が差していた。なかなか起き上がる気になれないが、踏ん切りをつけてスリッパを履いて立ち上がると、あまりの寒さに身震いがした。すぐさまベッドに戻ろうと思い顔を向けると、視界の端に何かが写り込んだ。
振り向くと、そこには朝日から逃げるようにして部屋の隅の方で座り込んでいるものがいた。まだ夢をみているのだろうか。夢に現れる怪物より、かなりひ弱そうに見えた。
そうか。夢ならいい。この夢は怖くない。良くわからないものに追われることはなさそうだった。縮こまっているそいつに声をかけてみた。
「この部屋、随分寒いね。そんなところで縮こまっていて寒くないのかい?」
「……うるさい。お前のせいだ。お前を見逃そうとしたから私は外に出られなくなったんだ」
嫌な夢だ。本当の僕はいまだにベッドの上から起きあがっていないに違いない。
起きた時にはほとんど忘れてしまうけれど、訳の分からない奴に、言われのないことで非難される夢は何度も見た。これもそれの一つだ。
「……僕が何をしたっていうんだ」
反論しても、こういう夢なら無駄だ。
「朝日が入ってきた。私がお前を見逃してやろうと思って出ようとしたら朝日がでてきたんだ」
「朝日が何だっていうんだよ」
変わった奴だ。こういう時は反論するとたくさん同じような奴が現れて物量で襲いかかって来るのに。
「私は夜の冷気だから。だから、朝日は天敵なんだ」
もう、おしまいだ。そいつは項垂れた顔でそう続けた。
「僕を見逃したってどういうことなのさ。それに、もうおしまいって……」
「お前のせいで私は死ぬんだ。朝日にあぶられて死ぬなんて、……一番惨たらしい死に様だ」
そいつは涙を零しながら言った。ぽろぽろ後からこぼれていって、零れるそばから涙は氷の粒になった。
「……それは、僕のせいなのか」
そいつはしゃくりあげながら、小さく首を振った。
「……すまない。やっぱりお前はあんまり関係がなかった。お前を見逃した私が悪い。いざ自分が死ぬ時になったら、なんだかやりきれなくって……。だから、思わずお前のせいにしてしまった」
いつもの夢とは少し違う。
蹂躙される役のはずの僕が、そいつのために何かをしてやりたくなったからだ。死ぬ間際に涙するそいつは、夢で現れる怪物共とは少し違っていた。あまりに人間味があったのだ。
「『冷気』って言ったけど、君は一体僕に何をしようとしたのさ」
「なんだ、お前は冷気が何をするのかしらないのか? そうだ、私の手を握ってみろ」
そいつは白くてやけにほっそりとした腕を差し出した。恐る恐る手を握る。
「うっ」
体が硬直して息が出来なくなった。あまりの冷たさに掌から血の気が失せていた。
驚いてそいつの顔を見ると、そいつは弱弱しく笑い返した。
「驚いただろう? 冷気の手を直に触ったのは後にも先にもお前だけだ。私はお前の部屋を凍えさせてやろうと忍び込んだんだ。あの時お前が眠っていたら、すぐにでもダイヤモンドダストでいっぱいにしてやったものを」
「なるほど。……僕は最近不眠症気味だから、昨日の夜は起きていたんだっけ。どうりで寒かったわけだ」
でもどうして、そいつは震えていた僕を見逃したのだろう。そいつに聞いてみた。
「でもどうして僕が起きているのと、君が僕を見逃すのが関係あるのさ」
「それは、……生きたまま凍らせるのが後味悪いからだ」
こいつはすごくいい奴だ。ただの冷気にしておくのはもったいない。
そいつは両腕で足を抱え込むと俯いた。朝日が少しだけ伸びてきた。避けるようにして、足を少し引いた。
僕は、とっさにカーテンを閉めた。それがそいつにとっていいような気がした。
薄暗い部屋の中で、僕はそいつを延命させる方法を考えた。苦しそうにして汗を流しはじめたそいつは、だんだんと輪郭がぼやけはじめていた。
「辛そうだけど、大丈夫かい」
「大丈夫なものか。この体を保ちにくくなってきた。もう溶け出しそうだ」
「氷があれば君は平気なのかな」
「……もしかして、お前は私を助けようと考えているのか?」
諦めきったそいつの声は、かすれて聞き取りづらかった。
「……そうだよ、まだ、間に合うんだろう?」
そいつは目を丸くした。それから、泣くのを我慢して歯を食いしばった。涙は目じりにすくすくと溜り、大粒の氷になって落っこちた。嗚咽を、唇をかみしめて必死にころしていた。それからややあって、震える声で言った。
「……ありがとう。私は少しお前を見くびっていたようだ。でも、もういいんだ。どうせそこの扉を開ければ外の暖かい空気が流れ込んできて、私の死期を早めるだろうからな」
そいつは頷いて、独り言ちるようにいった。
「今、お前を見逃してよかったと思うよ。あのときの判断は私としては正しかったようだ」
言い終えるころには、そいつは泣き笑いのような表情になっていた。そいつの潤んだ瞳に、僕が映り込んだ。
そいつの瞼は重そうに閉じられていく。
ついにそいつはまともに会話も出来なくなっていた。
そこらの人間よりもよっぽど豊かな感情を持つそいつは、いよいよそれさえも失いつつあった。
うずくまっていた小さな体がぐらりとよろめいて、僕は慌てて抱きとめた。震える手を握ろうとした。始めて会った朝ほど、室内の温度は寒くなくなっていた。そいつの小さな掌は、あの時触れたほど冷たさを感じなくなっていた。まるで、ただの冷え性のようにも思えた。
「もう、だめなのかな」
そいつは、真摯にも僕の問いに時間をかけて答えた。
「……生き延びることは今の私では無理だ。……もう限界だ」
そいつはゆっくりと目を閉じた。僕の腕の中で、そいつは消えようとしていた。
白く輝く肌が光を失い、徐々に瞬きはじめる。亀裂が走る。
「私は、……もし、死んで生まれ変わるのなら、……お前のような、……人間に、なりたい……」
「まてよ、待ってくれ!」
――パリン
硝子が粉々に砕け散るようにそいつは飛び散って、みるまに溶けて水になってしまった。
「あ、ああ」
水溜まりになったそいつを掻き集めるようにしてすくう。服に染み込み、手のひらから零れ落ちてしまう。
僕は涙を流していた。冷たい氷水に、涙がいくつも波紋をつくる。
「……これは、……夢なんだ。僕を、悲しくて、つらい気持ちにさせる、夢だ。夢なんだ!」
そいつは僕を凍らせようとした冬の怪物だ。消えてしまったという反照が、僕の心を悲愴が埋め尽くしていく。
僕が不眠を患ったのは、大切な女性を事故で亡くした記憶がいつまでたっても消えないからだ。トラウマのように、突然フラッシュバックする類とは少し異なる。その事故で亡くした人のことを、僕は折り合いを付けられないでいるのだ。
何度も事故の現場に足を運び、そこで亡くした彼女を悼み、その体温や息遣いを思い出そうとしている。ただ、寂しかっただけなのだ。
雪の道を、缶コーヒー二本ぶら下げて、あの人が好きだった花を持って。それも、温かい思い出に浸りたかったから。そのためだった。
僕が、あいつに話しかけたのは、本当に気まぐれだった。
それが、自分の孤独を埋めるために、すこしでも長引くように話をつなげていた。夢のなかですら満足に過ごせないようになってしまった僕にとって、いっときのあいつとの会話は救いになっていた。
――ひとりじゃない、みんな誰もがひとりぼっちなんだよ
そう言って抱きしめてくれた。
――大好き
そう言って、強く真っ直ぐな言葉で好意を伝えてくれた。こんな僕を死んでからもずっと愛してくれた。
あいつを、僕は彼女と重ねていたのかもしれない。あいつを助けてやることが、いつしかの事故で彼女を庇えなかったことの罪を清算するようにすら、僕は思っていたのだろう。
人は、誰もが孤独だ。だからだれかを好きになって、その人と共にありたいと願う。
ようやく、自分の気持ちに気が付いた。
僕は、あいつのことが好きだったのだ。
あいつが消えることが、僕に過去の折り合いをつけさせるためなのだとしたら。そう思うと、僕は泣きじゃくってばかりではいられないと感じるようになった。
それでも。
それでも、朝日があいつの残滓を大気に溶かしきるまで、せめて泣かせてほしい。
後書き
未設定
|
読了ボタン
button design:白銀さん Thanks!読了:小説を読み終えた場合クリックしてください。
読中:小説を読んでいる途中の状態です。小説を開いた場合自動で設定されるため、誤って「読了」「読止」押してしまい、戻したい場合クリックしてください。
読止:小説を最後まで読むのを諦めた場合クリックしてください。
※β版(試用版)の機能のため、表示や動作が変更になる場合があります。
自己評価
感想&批評
作品ID:555投稿室MENU | 小説一覧 |
住民票一覧 |
ログイン | 住民登録 |