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作品ID:569
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約21371文字 読了時間約11分 原稿用紙約27枚
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作品紹介
ここに自由があるぞ。
※こちらも過去作です。二年ほど前に書きました。
⇒リブート版に変更しました。話の筋は変わっていません。よろしかったらどうぞです。
※こちらも過去作です。二年ほど前に書きました。
⇒リブート版に変更しました。話の筋は変わっていません。よろしかったらどうぞです。
舞台に立っている時が一番自由を感じるのだ、とノノカは言った。
スタジオでレッスンを受けている時よりも、気晴らしに散歩をしている時よりも、それはずっと自由な時間なのだと。
「登場する時、白いライトがすぅっと降りてくるの。同時に観客席側の照明は落ちて、最前列の人が見えるか見えないかくらいにまでなって、いつの間にか星のない夜空みたいに真っ暗になる。そうすると、頭上のライトが月明かりに思えてくる。音楽に合わせてステップを踏むうちに、空を飛んでいる気がしてくる。本当は審査員もお客さんもいるのに、まるで自分独りだけがそこに取り残されている気がして、群れから外れた渡り鳥みたいな気持ちになって、でも、全く淋しくないの。むしろ、嬉しくてしょうがない。わたしだけが飛んでいる、わたしだけが踊っている。そう考えたら、ますます体が軽くなって、本当に空を飛んでる気になってくる」
彼女の言うことが俺には理解できた。バレエの知識にはあまり明るくないが、水泳でも同じような感慨を覚える瞬間がある。その一瞬の為に、俺はプールへ飛び込むのだ。ノノカも、たぶん同じ理由でトゥシューズに脚を納め続けるのだろう。
しかし、空を飛んでいる気がするとは、どういうことか。
まるで空を飛んだことがあるかのような。
まるで空に自由があると知っているかのような。
その憧憬はきっと人間になる前の、遥か太古の記憶に起因するものだろう。
ドーム型の高い天井と、明かりの落ちた照明灯を見上げながら、俺はゆっくりとプールの中央まで漂った。仰向けの姿勢で耳まで水に沈めると、聞こえるのは自分の呼吸とたゆたう水の沈黙ばかりだ。その音に包まれていると、ひどくほっとする。たぶん、胎児だった頃の名残りだろう。目を閉じれば、そのまま眠れそうなほどに安らかだ。
ここに自由がある。
そう信じ込めるのが、人間の奇跡なのだと時々思う。
「ミツル」静かな空間に声が反響した。
姿勢を戻し、プールサイドへ振り向くと、ヨウイチが呆れた顔をして立っていた。
「まだ練習してたのかよ」
「いや」俺は首を振る。ただぼんやりしていただけだ。
「帰ろうぜ。焦る気持ちはわからんでもないが、勝手に自主練してたらコーチにどやされるぞ」
まだ明るい西側の窓を見上げた。磨り硝子の向こうに鈍い光があって、プールの水面をアルミのように輝かせている。
「外、雨か?」俺はプールサイドへ両腕を預けながら訊く。傘を持ってきていなかったのだ。
「まだ降ってるけど、だいぶ弱まった。今ならワンチャンあるから、さっさと帰ろうぜ」
水面は胸の下にあり、そこから下は水中の浮遊感に包まれている。俺は体を引き上げかけていたが、思い直して壁を蹴った。背面で飛ぶスーパーマンのような姿勢で、長さ二十五メートル、水深一・三五メートルの空へ再び戻っていく。
「おーい」うんざりした声でヨウイチが呼ぶ。
俺は瞑目し、水の流れを全身に感じ取った。
ここは空なのだと自分に言い聞かせる。
ミツル、お前は自由なのだ、と。
「あと五分」
そう答えてから、俺は体を捻じって潜水した。水が全ての音を遮断する。それでも、ヨウイチが肩を竦めて笑っているのは見なくてもわかった。
◇
「実際、気が楽だよ」
俺は無言でヨウイチへ振り返る。突然だったので、何の話かわからなかった。
彼は下駄箱を閉めてスニーカーを履いた。
「水泳辞めてさ」
「あぁ……」俺はやっと頷く。
「地に足つけて、進路の為にコツコツ勉強するのも悪くねぇよ」
「カッコいいな」
「馬鹿にしてんのか」ヨウイチが笑って肘打ちした。「まっとうな高校生だろ?」
「そうだな」俺も息を漏らして笑う。水の中では許されない空気の無駄遣いだ。
ヨウイチが言っていた通り、雨はもう気にならない程度にまで弱まっている。温かい雨だった。梅雨明けの近い証拠だ。
「志望校、決めたのか?」俺は訊いた。
「俺の頭じゃ国立は無理だけど、東京の大学でも受けようかなって考えてる」
「遠いな」
「家を出たいんだよ」ヨウイチの目に翳が差す。「家業の跡継ぎなんてクソ食らえだ」
どう答えるべきか迷っていると、校門に佇むノノカに俺は気付いた。こちらへ手を振っているのを見るに、彼女はどうやら俺達を待っていたようだ。珍しいことである。
「宮野さん」ヨウイチが破顔した。「一緒に帰ろうよ」
「レッスンは?」俺は訊ねる。
「お休み」彼女は言った。「ねぇ、三人でどこか行かない?」
ノノカの提案に、俺とヨウイチはぽかんと顔を見合わせた。
◇
繁華街の中心にある大型雑貨店へとやって来た。俺やヨウイチにはほとんど無縁の場所であるが、ノノカにとってはそうでもないらしい。保育園から彼女を知る身としては、少し意外な気がした。
彼女は俺達を召使いのように侍らせ、一階から七階まで縦横無尽に歩き回った。気苦労が多かったのはヨウイチの方だろう。彼はせっせとノノカの後について回っていたからだ。俺はというと、二人から少し離れて手持無沙汰に商品を眺め回していた。ファンシー・ショップではブリーフ下着を穿いたクマのストラップに触れながら、「誰がこんな悪趣味なものを買うのだろう」と独り毒づいていた。ノノカがそれをレジに通した時には呆気にとられもした。
「お前、ずいぶん節操のない買い物をするんだな」
「どういう意味?」じろっと睨まれた。
「これ、女の子の間で人気あるよね」ヨウイチが気を利かして言い、俺は世間の女子の正気を疑った。
買い物の後、雑貨店の隣にあるファストフード店に入った。いまいち用途が判然としない品物で溢れたビニール袋を脇に置き、ノノカはストレッチをするように腕を伸ばした。
「こんなにショッピングしたの、久しぶり」彼女は微笑む。「JKって感じだよね」
「ここ、よく来るの?」
ヨウイチが訊ねると、ノノカは首を振った。
「行く暇、あまり無いの。遊ぶ時間も無いし。おかげで流行もわからない」
「そうだよね。バレエの稽古とか大変そうだもんね」
俺は黙ってポテトを齧っていた。へなへなと萎んでいて、しかも油でべっとりしている。
「あ、そうそう、服も買いたいんだよね」ノノカが思い出したように言った。「二人とも、来週また付き合ってくれない? 色々試着するから、男子目線の意見を聞かせて」
「うん、全然いいよ」ヨウイチが嬉しそうに笑った。「な、ミツル。付き合ってあげようぜ」
「俺は無理だ」コーラを啜って首を振る。「二人で楽しんできてくれ」
ヨウイチが絶句して赤くなる。
ノノカはじっと俺を睨んだ。
「練習?」彼女の声が若干固くなっていた。どうやら無意識のことのようで、それに気付いているのは俺だけのようだった。
「ああ、たぶん……、来週は遅くまでやる。八月に大会だから」
「そう」ノノカは溜息を漏らすと、スイッチを切り換えるようにしてヨウイチに微笑みかけた。「じゃあ、ヨウイチくん、来週空けといてね」
「あ、うん、わかった」
ヨウイチがこわばった顔で小刻みに頷く。なんてわかりやすい奴なのだろう。心の中では雄叫びを上げてガッツポーズしているに違いない。
俺は萎びたポテトを齧り続けた。油っこくて、しかも塩辛い。それでもクマのストラップと同じで、世間では大層愛されている代物のようだった。
◇
ヨウイチと駅前で別れ、俺とノノカは下りの電車に乗った。陽はもう沈んでいる。繁華街から遠のくと街明かりはだんだん途切れがちになり、やがて田畑に挟まれた場所にまで差し掛かると、車窓は墨で塗り潰したかのように暗くなった。
ノノカと俺は家が隣り合っている。幼馴染という間柄だが、周囲が囃し立てるほど親密な関係ではないし、異性として意識したことは一度も無いと断言できる。これからも男女の関係にはならないはずだ。想像もできないのだ。たとえどちらかが血迷っても、どちらかが制止する、そんな信頼だけなら存在していた。
車内での会話は一切なかった。
俺は吊革に掴まり、ノノカは正面の席に座っている。彼女はずっとスマートフォンを操作し続け、俺は車窓の闇の濃淡を眺め続けた。傍目から見ても、俺達が幼馴染同士だとは窺い知れなかったはずだ。
俺がノノカに向かって口を利いたのは、電車を降り、もう家まで数分という距離まで歩いた時だった。
「バレエ、辞めるのか?」
彼女は弾かれたようにこちらを見て、足を止める。俺も数歩先で立ち止まって振り返った。
「母さんに聞いたの?」
「いや」俺は首を振った。「ただ、なんとなくそんな気がした」
「辞めないよ」
彼女は再び歩き始め、俺を追い抜いた。怒っているようだった。手に下げたビニール袋ががさがさ鳴る。言葉はない。俺も、何も言わずに彼女の後ろを歩いた。家に着くと、ノノカはこちらを見もせずに玄関の向こうに消えていった。
彼女が俺の部屋の窓をノックしたのは、夕食後のことである。俺は筋トレをしているところだった。窓を開けると、髪を結ったノノカが机越しに手を振っている。勉強をしていたらしい。机に問題集が広げてあった。
「何だよ」俺は呼吸を整えながら訊く。
「そっち行っていい?」
「は? いや、駄目だ」驚いて首を振る。中学に上がって、互いの肉体がいわゆる大人のそれへと形成され始めた頃から、それぞれの部屋への立ち入りを自主的に禁止していた。例外は無い。「込み入った話があるなら公園でいいだろ」
「じゃあ、ここでいい」ノノカは不貞腐れたように息を吐く。
バレエの話だな、と俺は直感した。
つまり、将来や進路といった類の話だろう。最近の彼女はそういった話を俺に振りたがるのだ。それぞれ練習や稽古の都合で顔を合わす機会が減っていたし、何よりその手の話が俺には億劫だったので、今まで躱し続けていた。しかし、今日はたぶん、いつもよりしつこいだろう。ノノカの目がいつもより真剣だったからだ。それならば、下手に逸らして長引かせるよりも、さっさと聞いてやったほうが早く終わると判断した。
「ミツルって、結局どこの大学に行くの?」
「まだ決めていない」俺は椅子に腰かけて答えた。ミネラルウォーターを一口飲む。「お前は?」
「わたしも決めてないんだよね。そんな偏差値高い所には行けないだろうけど」彼女は頬杖をついて、ちらっと問題集に目を落とす。「ミツル、前に水泳のスポーツ枠で行けるかもって話してたじゃん。あれはどうなったの?」
「どうもしていない。まだ返事を出していない」
「え、なんで? 三つくらいスカウト来てるんでしょ?」
「大会が終わったら考える。大会次第だ」
「大会次第って?」
「成績の更新ができるかどうか」
「ダントツって聞いてるけど。県予選で記録更新したって」
「これからもダントツとは限らない」俺は答える。「最近、伸び悩んでいる。大学に入ってチームの足を引っ張るようなことになったら申し訳ないからな。慎重に考える」
「もしかして、焦ってる?」
「いや」俺は正直に首を振る。「別に、焦ってはいない」
ノノカが口を噤んで目を伏せた。結った頭から前髪が一筋、白い額へはらりと垂れる。
横目でそれを見ながら、俺はわずかに苛立ちを感じた。なんて回りくどい奴なのだろう。こいつのそういう性格だけは昔から改善されないのだ。
「ノノカは、バレエはどうするんだ?」
譲歩してこちらから訊いてやった。その言葉を待っているのは明らかだったからだ。
「辞めた」彼女は軽い口ぶりで答えた。
「さっきと言っていることが違う」
「嘘、辞めはしない。趣味ではやる。八月のコンクールまではレッスンも通い続けるし。ただ、プロを目指すのは辞める」
「なんで?」
「さぁ、なんででしょうね」彼女は皮肉っぽく鼻を鳴らし、口角をぎこちなく曲げた。アヒルの真似でなければ作り笑いだろう。「なんでだと思う?」
俺は黙り込んだ。こちらはそれを訊いているのだし、そもそも本気で知りたくて投げた質問でもないのだ。
「まぁ、なんていうかさ」ノノカは笑みを絶やさず、しかしどこか言いづらそうに語った。「現実に負けたってことかもね。夢を追うリスクにビビったっていうかさ。お金だって馬鹿にならないし、プロのバレリーナなんて何千何万人分の内の一人しかなれないし。お母さんが毎日そうやって脅し続けてくるからさ。わかりましたよ、それなら諦めてまっとうな女子高生になって受験しますよって決めたわけ」
彼女は早口に言い終えると、何か言って欲しそうにこちらを見たが、俺は無言で頷くことしかしなかった。窓と窓、数十センチの空間を隔てた距離なら、これくらいの反応を示すだけでも充分親身に思われるはずだ。遠い地からやり取りする恋人同士の文通のように、距離は錯覚を引き起こしてくれる。実際、ノノカは俺の手を抜いた反応に機嫌を損ねなかった。ファストフード店のテーブルほどの近距離なら、不服そうに睨まれたに違いない。
「でもさ、強がりとかそういうのじゃないけど、わたし、よく考えたらそれほどプロになりたいわけでもないって気付いたんだよね」
彼女が意外な話を始めたので、俺は少しだけ興味をそそられた。
「小さい頃からやっていて、いつの間にか漠然とした目標にしていただけでさ、本当はバレエできればそれで良かったんだよね。楽しければ良かったし、今も割とそう思ってる。大学入って、それから社会人になったら、もう舞台には立てないかもしれないけど、でも、それでもバレエを続けていくことだけはできるからさ、それでいいかもって思ったのよ」
俺は無言で頷く。今度はどちらかと言えば真摯な態度だったろう。
「ミツルのとはちょっと違うね」彼女は微笑んだ。
「いや」俺は首を振る。「似たようなもんだ」
ノノカは少しだけ苦しそうに顔を歪めたが、すぐに笑みを取り繕った。その泣き笑いのような顔を、未練がましいとは思わない。自分の時間の大部分を充ててきた目標なのだ。視界から切り取るのは容易ではない。
「ねぇ、さっきさ、なんでわたしがバレエ辞めたってわかったの?」
彼女が気を取り直したように訊いた。帰宅間際の会話のことだ。
「辞めはしないんだろ?」
「ややこしいこと言わせないでよ」
「さっきも言った。なんとなく、だ」
「エスパーじゃん、ミツル」ノノカが可笑しそうに言った。
今日の節操のない買い物に付き合っていれば、何かしら察しが付きそうなものだ。明らかに彼女は散財でフラストレーションを発散していた。今までのノノカならクマのストラップなどには目も暮れなかったはずで、服も着られれば良いという無頓着な性格だったのだ。
それほど、彼女はバレエに熱中していたのだ。
「まぁ、今までレッスン漬けで、次のコンクールが終わったら時間も出来るし、いっちょ世俗に合わせたJKに変身しようと思ったわけなのよ」ノノカがおどけて言う。「どう? 悪くないアイデアでしょ? 髪もショート・ボブにしてみようかと思って」
「勉強しろ」俺は言った。「国立入って、学費浮かせて、親父さんお袋さんに楽させろ」
「おやすみ」
彼女は叩きつけるように窓を閉める。さっとカーテンを閉められた。
俺も溜息をこぼしてカーテンを閉め、筋トレを再開した。しかし、背筋運動をしているうちに、説明し難しいもやもやした感情が濃くなっていくのを感じた。
水中にいればこんな苦労をすることはない。
泳いでいる間は話すことなどできないし、話す必要も生じないからだ。
◇
浮力と重力。
弾ける気泡。
断ち切る水流。
全細胞が水と同化。
水温に意識が鋭くなり。
四肢が他の動物を目指す。
肺の中の空気が価値を増し。
手が切り裂き。
脚が蹴り上げる。
肌が空気を忘れ、水を信じる。
ここが本当の世界だと錯覚する。
ここだけに自由があると確信する。
透明な世界を弾丸のように突き進み。
顔を上げ、一瞬だけ空気を吸い込んだ。
こんなものに生かされているのかと思う。
萎びたポテトと悪趣味なクマが、ちらりと脳裏を過ぎった。
それでも肺は貪欲に、一定のリズムを刻んで酸素を取り込む。
さらに加速。
筋肉の収縮を感じる。
水中と水面の景色が次々に入れ替わる。
目に映るのはそれだけだ。
隣のレーンなんて見たこともない。
水中では他の人間なんて意識していられないのだ。
ゴールに触れ、顔を上げ、いつの間にか先頭になっているのがほとんど。
現実はいつでも遅れてやってくる。
これに比べれば、現実なんてまるで亀。
そんな些末なものに価値なんて見出していられない。
取るに足らない事柄。
なのに、どいつもこいつもそればかり気にして……。
順位やタイムの為に生きているのか、と問いたくなる。
弾みをつけ、息を吐きながら体を反転。
距離は熟知している。
視界が一転。
気泡の一つ一つまで見極められそうだ。
自分が笑っているのをちらりと自覚した。
壁を蹴って再加速。いつも、ここで発射されたロケットを連想する。
コースを戻っていく。
意識はもう肉体にはない。
泳ぎ方は体が知っている。あとはそれに委ねるだけ。
目は全く別の光景を見ていた。
小学校の夏休み。
早朝の、開放されたばかりの市民プール。夏休みになれば毎朝行っていた。友人と行くこともあったし、たまにノノカがついてきたこともあったが、たいていは独りだった。俺も独りのほうがよかったのだ。
いつも一番乗りで、人影のない広大な二十五メートルプールの縁に立つと、心が静かに震えたものだ。夏の暑さをだんだん増していく陽射しと空の下、水の箱庭は世界の神秘を封じ込めたように輝いていた。水底の青さが、この世で一番美しいものに感じられた。
底に胸が掠るほど潜ってから頭上へ振り返ると、水面の光が畝のように歪んで、音もなくたゆたっていた。他の利用客が訪れるまで、ずっとその景色を眺めて遊んでいた。浮遊感を切り離し、重力に支配された地上へ体を引き上げるまで、俺はずっと笑っていたように思う。
ここに自由があるぞ。
そう叫びたかった。
これが幸せじゃなかったら、何なのだ。
意識が急速に戻っていく。
焦点は現在へ。
遊びは終わりだ、と体が憶えている。
壁にタッチし、水面へ顔を出した。ストップウォッチを握ったコーチがこちらを見下ろしている。いつも不機嫌な顔をしている男だ。ガマガエルに似ている。
「うん、悪くない」コーチが無愛想に言う。「ペースは戻っているぞ。大会までには仕上がりそうだ」
そんな顔で言われると嫌味か皮肉に聞こえるが、たぶん褒めてくれているのだろう。自分でも手応えを感じたからだ。
プールサイドへ上がると、体が途端に重みを増した。その重力を心地よいと評した先輩が昔いたが、そんな馬鹿な話があるかと俺は思っている。
コーチのアドバイスに耳を傾けていると、「おうい」と顧問が呼びかけてきた。
「ミツル。ヨウイチ、来てるか?」
俺は周囲の部員達に目で尋ねるも、皆、首を捻っていた。
「さぁ、見ていません」
「遅刻かな」そう呟く顧問の顔は特に険しくもない。
噂をすればというやつで、「すんません」と更衣室の方からヨウイチが現れた。ワイシャツに黒ズボンの姿だ。いつもはジャージ姿なので俺は少し意外に思った。
ヨウイチは顧問となにやら一言二言交わすと、また外に消えていった。去り際に、こちらを見て微笑んだ気もする。あぁ、そうか、と俺はようやく納得した。今日はノノカの買い物に付き合う日だったか。
「家の予定があるから休むらしい」
俺の視線に気付いたのか、顧問がそう教えてくれた。俺は曖昧に頷いてみせた。
競泳の道を断念してからも、ヨウイチは部に籍を置き続けていた。今はマネージャーとして、部員達の練習を遅くまで手伝っている。内申の為だと本人は笑っているが、俺や他の部員達、それに顧問やコーチもその嘘を指摘しなかった。そこまで野暮な連中ではない。
怪我の完治までに三か月かかり、リハビリにはもっと掛かった。
この世界では数か月のブランクでも致命的になる。ただの水泳なら問題はないが、タイムを競う競泳となるとまるで話は別だ。部に戻ってきたヨウイチに、かつての輝きは無かった。それは本人も痛感していたことだろう。だからこそ、彼は潔くレギュラーの座を降り、選手枠からも自主的に外れたのだ。
色々と思うところはある。しかし、現役だった頃のヨウイチを思い出しても、俺はそれほど胸を痛めなかった。たとえ怪我を負わなかったとしても、いずれは自分の限界に苦悩するタイプの選手だと思っていたからだ。中学からの馴染みであるが、それは最初から感じていたことである。ひたすら努力し、苦心しながら泳ぐ彼の姿が、俺の目には痛々しいほどだった。ヨウイチの泳ぎに対する意識というのか、価値の置き所が俺とはあまりに違い過ぎていて、理解に苦しむことすらあった。
「気が楽だよ」と彼が口にしたのを思い出す。
それが本心であれ、凄まじい気迫で作り上げた建前であれ、結果的にはこれで良かったのだと俺は思う。それが俺の本音。ヨウイチは良い奴だ。それは間違いない。でも、才能はなかった。運も彼に味方しなかった。それだけのこと。たったそれだけの、小さな悲劇だ。
自分が冷淡だと思わないでもない。
だが、他にどう考えればいいのだろう?
そんな思考もとにかく煩わしい。二本の脚で地面に立っていると、そんなことまで考えなくてはいけなくなる。
珍しく憂鬱な気分になりながら、俺は再びタイムアタックの為に水へ飛び込んだ。
◇
「ねぇ、夏休みになったらさ、海に行かない?」
窓の向こうでノノカが言った。俺は思わず本から顔を上げた。
「俺の話、聞いてたか?」
「あんたの大会と、わたしのコンクールが終わったらの話。ヨウイチくんとわたしとミツルの三人で」
「遠慮する」俺は本に目を戻す。
「なんで」ノノカが不満げに膨れた。切ったばかりの短髪が、入り込む夜風に揺れている。
「大会でベスト入りすれば練習がある。というか、ベスト入りする前提で動いてる。引退はしない」
「最近、そればっか」
「ずっと前からだ」
「一日くらい休めるでしょ。練習したいなら海で泳げばいいじゃない」
それは絶対にごめんだ、と俺は顔で答える。
「海とプールの何がそんなに違うのよ」
「水が違う」
ノノカは呆気にとられてから、遅れて吹き出した。
「ミツルって結構、面白いよね」
一応、真面目に答えたのだが、どうやら冗談だと受け取られたらしい。海とプールではオフロードとオンロードくらいの差がある。ラリーレーサーとF1レーサーが走る道は全然違う。そういったニュアンスの返答だったのだが、上手く伝わらなかったようだ。
「二人で行けばいい」俺はむすっと答えた。「ヨウイチと楽しんでくればいい」
「それじゃ、デートになっちゃうじゃん」
「デートにすればいい」俺はページを捲る。
会話が途切れた。
不審に思って顔を上げると、彼女がこちらをきつく睨みつけていた。
「本気?」
「何が」
「馬鹿」
「は?」
「水泳馬鹿」
「何だよ」
「サメに食われちまえ」
「プールにサメはいない」
思わず笑ったが、叩きつけるように窓を閉められた。
最近のノノカは窓越しによく話しかけてくる。正直迷惑なのだが、きっとこれからの軌道修正に戸惑っているのだろうと思い、貴重な時間を削って相手をしてやっていた。それだけでも幼馴染として充分な務めを果たしている。それなのに毎回不機嫌そうに退散していくというのは、どういう了見なのだろう。
甘えている。
彼女に対して感じることを一言で表すなら、それだった。
ノノカはきっと、誰かに自分と同じ地平に立っていて欲しいのだろう。その思考に俺は共感できないが、理解はできた。学校にはそういう連中が腐るほどいる。でも、まさかノノカまでがそうだとは思わなかった。それが悲しいかと問われれば、たしかに嘆かわしいことのように思う。
誰もが昔はそうではなかったのに。
誰かが高い所に昇っていれば自分もそこへ昇りたがる。邪魔に思うことはあっても、自分と同じ場所に降りてきて欲しいなんて、これっぽっちも思わなかったはずだ。いったい、いつから、どこでそんなずるい考えを拾ってきたのだろう?
それとも……、それが大人になるということなのだろうか?
ずるくなるのが、大人になるということなのだろうか?
そういえば、と俺は思い出す。
舞台の上にこそ自由がある、とノノカが語ったのを思い出した。
まるで空を飛んでいる気分なのだ、と。
あれはいつのことだったか。
そうだ、たしか、中学生の時……、下校を共にした時のことだ。夕闇に染まり始めた頭上の空を、一羽の鳥が羽を広げて滑っていた。カラスかトンビかは憶えていない。ただ、それをぽかんと見上げながら、ノノカはあの話を語ったのだ。
俺にとっては水泳がそれだ。
タイムや順位以前に、その自由の予感が俺を惹きつける。
それが奪われたら、いったい俺はどうなるのだろう? 想像もつかない。苦しいのは間違いない。ちょうど水を飲んで窒息した時のような苦しみを伴うに違いない。つまり、今のノノカは、そんな想像を絶する苦しみを抱えているということなのか。
ふいにヨウイチの横顔が思い浮かんだ。
気が楽だよ。
その言葉が嘘なのか本音なのか、再び俺は考え始めたが、やはり答えは出なかった。どちらにしても、俺には俺の泳ぎ方があって、彼には彼の泳ぎ方がある。それと同じように考え方や生き方も人それぞれだ。俺にとっての至福のひと時が、誰かにとっては苦痛の時間であるかもしれないのだ。
「まったく」俺は舌打ちする。「どいつもこいつも……」
窓を閉める時、俺はふと気になって屋根の隙間から夜空を仰いでみた。そこに鳥の影が無いかを探したのだが、どこにもいなかった。きっと、もう巣に帰ったのだ。いつまでも飛び続けていられる鳥なんていやしないのだ。
◇
日曜日、朝練の為に学校へ向かっていると、道中のコンビニで私服姿のヨウイチに出くわした。今日はコーチが組んだ個人メニューの消化で、部員のほとんどは休みだ。ヨウイチもその一人であるから、彼と鉢合わせたのは全くの偶然だった。
ヨウイチはコンビニの灰皿脇で煙草を吸っていた。俺に気付くとこわばった顔をしたが、すぐに諦めたような暗い微笑を浮かべた。俺は時間の余裕を確認してから、ゆっくりと彼の隣、風上の方へ歩いた。
「本当に、わかりやすい奴だな」挨拶代わりに言ってやった。
「うっせぇ」ヨウイチは半ばまで燃えた煙草を捨てながら苦笑した。「ぐれてるわけじゃねぇよ」
「煙草は非行だろ、一応」
「興味があったから吸ってみたんだ。健全な知的好奇心さ。いまいち美味く思えないけど、なんか胸の辺りがスッとする。これは依存しそうな気がするな」
「やめとけ」俺は友人の立場で忠告した。「立派な犯罪だ」
「何だろうなぁ、この感じ」聞いているのかいないのか、彼はずるずると壁にもたれて蹲るようにした。眠たげにぼやく。「背徳感っていうのかな? 嵌めていたパズルをバラバラに崩すような感じ。肺が狭まっていくのがわかるよ。汚染されていくのがわかる。めちゃくちゃ焦るけど、なんか気分良くもあるって感じ。わかる?」
「いや」俺は首を振った。そんな感覚に覚えはない。
「だろうな。ミツルにはわかんねぇだろうな」彼は唄うように言う。「人生ってさ、パズルと同じだよな。こつこつやる奴、なんとなくやる奴、理想の模様とか形を目指して続ける奴、自分でぶっ壊す奴……、同じようなもんだよ。出来上がりがたいてい想像してた物と違う所も同じだしさ」
「人生とパズルは違う」俺は首を振った。「人生は人生、パズルはパズルだ。別物だろ。すり替えるな。人生は人生でしかない」
「カッコいいな」ミツルは悪戯っぽく笑った。
俺は黙って横を向く。なんて会話だろうか、と少し憤りを覚えた。
「これから練習?」
「ああ」
「頑張れよ」ヨウイチはゆっくり腰を上げた。「大会、応援してるから」
「努力はする」
「結果も出せるよ。今までだってそうだったし」彼は肩を竦めてにやりとする。
もう立ち去るべきだとわかっていたが、なぜか俺は立ち去る気になれなかった。今まで感じたことのない説明不能の怒りが喉の下にある。でも、不思議とそれは、ヨウイチ個人に向いている感情ではなかった。
コンビニの屋根の日蔭の下、黙り合ったまま、俺達は立ち尽くしていた。耳を澄ますと、どこかで蝉が鳴いている。もう七月だった。ヨウイチが選手を諦めて、半年が経つ。
「ミツルはさ、なんで水泳続けてんの?」
唐突にヨウイチが訊ねた。彼の視線は白い陽射しの降る車道のアスファルトへ向いている。
「お前はどうだったんだ?」質問で返す。
「残酷な質問するね」ヨウイチは目を細める。
「お前が言い出した質問だ」
「俺は」ヨウイチは笑みを浮かべたまま、一瞬だけ言葉を切った。逡巡するように唾を飲む。「俺は、他に人並み以上にできるものがなかったからさ……、これなら負けねぇっていうのが水泳ぐらいしかなかった。別にいじめられてたとかいうわけじゃないけど、何となく周囲を見返してやりたいと思ってた。だから、続けた。練習して、タイム縮めて、必死こいて一位目指してた」
「そうか」俺は頷く。予想していた通りだったので、溜息一つで受け流せた。
「ミツルは?」
「俺は、楽しいから続けている」俺は真っ青な夏の空を見上げる。「競泳が、というより、プールに入っているのが楽しいだけだ。水の中にいると何でも思い通りになってくる気がするんだ。自分が別の生物に思えてくる。自由を感じる。それが楽しいから、ガキの頃に水泳スクールに入って、部活に入って、言われるままに練習して大会に出ていただけだ。本当は、プールで泳げれば何でもいいんだ」
言葉にしてみると、なんて単純な奴なのだろうかと我ながら唖然とする。よくもまぁ今まで無事に生きてこれたものだとすら思った。
くつくつとヨウイチが笑い出した。噛み締めた歯の間から漏れ出てくるような笑いだった。
「参った、さすがだ」
「何が?」
「格が違う。動機から桁外れ」ヨウイチは下を向く。「前世、魚だったんじゃないの?」
「自分でも時々そう思う」俺は答えた。「でも、海が嫌いだから、たぶん淡水魚だ」
堪え切れなくなったようにヨウイチが噴き出した。仰け反って笑う様を見ていると、俺も少し気分が良くなる。もちろん、狙って言ったジョークだ。喉の下にあったはずの怒りもいつの間にか霧散していた。
「面白いよなぁ、ミツルって」
「よく言われる」
「この間、宮野さんとショッピングした時も、ずっとお前の話ばっかりだったよ」
「そうか」俺は無難な返事に留めた。
ヨウイチはぎこちなくこちらに顔を向けてから、俯いた。
「宮野さんと、付き合うことになったよ」彼は言った。「こっちから告ろうと思ったら、昨日いきなり告られた」
「そうか」俺はまた頷く。
奇妙な沈黙が下りた。遠くで車のクラクションが鳴る。
「そうかって」彼はあっけにとられた顔で振り向く。「そんだけ?」
「何が?」
「いや、何がって」彼は困ったように言う。「お前、あの子と幼馴染だし、なんか俺、罪悪感みたいなのあったんですけど」
「考えすぎの上に勘違いしている。ノノカとは近所同士というだけで、そういう関係じゃない」俺は少々うんざりしながら答える。その説明をこれまで何回繰り返したことだろう。
「宮野さんのこと、どうも思っていないってこと?」
「ああ」俺は頷いた。「最近、進路のことで悩んでいるみたいだから、ヨウイチが相談に乗ってやってくれないか」
俺の言葉に、ヨウイチが一瞬だけ悲しげに眉を伏せた。どうして彼がそんな顔をするのか不思議でしょうがない。諸手を挙げて喜ぶべきじゃないか。
「やっぱり、敵わない」
「は?」俺は聞き返す。
「超越しすぎだよ、お前」彼は俺の肩に手を置いた。固い感触だった。
「意味がわからん」
「欠点を上げるとすれば」ゆっくり手を離すと、ヨウイチはその手をズボンのポケットに納めて微笑んだ。「他人の気持ちに鈍感、無関心ってとこかな」
「ノノカのことか?」俺は反射的に口にしていた。その発言に自分で驚く。
「それもあるけど」彼は首を振る。「魚になれなかった奴のことも、少しは考えてくれよ」
そう言うと、白い陽射しの中へヨウイチは歩いて行った。俺は日陰に佇みながら、少し丸まったその背中を見送る。彼は一度も振り返らずに角を曲がって行ってしまった。
殴ってくれてもよかったのにな、と思う。
ポケットに納めるなんて真似はしなくてよかったのに。
俺も学校へ向けて歩き出す。歩いている間にヨウイチが言ったことの意味を考え、それからまた喉の下にわだかまる怒りの存在に気付いた。その矛先がどこへ向いているのか、もう悟っていた。俺は、俺に対して怒っているのだった。
「俺だって、魚にはなれないさ」
そっと呟いてみた。歩行を余儀なくされる哀れな二本の脚を見下ろしながら。
◇
その日の夕方、自宅前でノノカの母親に声を掛けられた。
玄関に入ろうとしたところで、偶然外に出てきた彼女に呼び止められたのだ。これから町内会に出かけるらしい。そういえば、俺の母親も出席する予定だと朝に言われていた気がする。
「ミツルくん、また背伸びた?」おばさんはにこにこして言った。
「さぁ」俺は肩を竦める。「どうでしょうか」
「伸びたわよ、絶対。すっかりのっぽさんじゃない。やっぱり、毎日運動している子って違うのよね」
もちろん、おばさんとは子供の頃から面識がある。よく昼食や夕食をご馳走になったし、逆にノノカが我が家の食卓に着くこともあった。気の良いおばさんで、ノノカと同じくかつてはバレエをやっていたらしい。そのせいか、歳の割にスタイルが良かった。
「どう? 水泳は」
「まぁまぁです」適当に濁す。
「県予選で一位だったんでしょう? 凄いわよ。昔から泳ぐの好きだったもんね。将来の夢はオリンピックとか?」
「まさか」思わず苦笑した。そんなことは考えもしていない。普通は意識するものなのだろうか。
「ミツルくんなら目指せるわよ。メダル獲ったらお父さんもお母さんも喜ぶよ。あたしなんて、皆に自慢しちゃうんだから」
「まずは大学があるので……、勉強もしないと」
「スポーツ推薦で行けるでしょう?」そう言ってから、おばさんは思案気に首を竦めた。「ノノカもねぇ……、やっと勉強始めたんだけど、どうにも心配で。あの子、要領悪いし、バレエで食べていくんだって夢みたいなことばかり言ってたし……、やっと勉強始めたのに、来月のコンクールには絶対出るんだって聞かなくて」
「はぁ」と俺は曖昧に頷く。もうあまり聞きたくなかった。
「早く現実を見て欲しいわよね。もう十八なんだから。ミツルくんと違って、いつまでも子供だから頭痛いわ」
「いや……」俺は首を振った。
突然、目の前の女をぶん殴りたい衝動に駆られた。
そんな自分の凶暴さに俺はとても驚いた。固く拳を握る右手の存在に戸惑い、気付かれないようそっと力を抜く。幸い、おばさんは俺の不穏な気配には気づいていないようだった。
「今度の大会も頑張ってね。おばさん、応援してるから」
そう言い残して、おばさんは行ってしまった。俺は会釈だけ返し、無言でその後ろ姿を見送る。
なんておめでたい……。
何が応援だ。
他人の子供は応援できて、自分の娘を応援できないとは、どういう神経なのだ?
俺は玄関で靴を脱ぎながら、おばさんの過去を想像してみた。白い衣装に身を包み、音楽に合わせて片脚を上げる女。それはそのまま、今のノノカの姿にぴったりと重なった。
おばさんもかつては同じだったのだろうか。自由を感じていたのだろうか。誰かにそれを剥奪され、何かを諦めて結婚し、ノノカを産んだのだろうか。もしかしてそれは、なんでもない、ごくありふれたことなのだろうか。
部屋に上がって窓を見る。ノノカはまだ帰ってきていないようだった。ヨウイチと一緒にいるのかもしれない。
あの二人はどんな会話をするのだろう?
家同士の壁の隙間から射し込む夕陽を見つめていると、なぜか自分独りだけがこの世界に取り残されている気がした。どうしてそう思ったのかはわからない。ただ、その感情は、ノノカに窓を閉められた時、そしてコンビニから歩き去っていくヨウイチを見送った時にも胸を過ぎった感情だった。
泳ぎたい、と切に思う。
それは、喉が渇いている時に水を飲みたくなるような、どこまでも自然な欲求だった。
◇
ノノカはどうやらレッスンスタジオに行っていたらしい。俺が彼女の帰宅に気付いたのは夜の十時前だった。閉められたカーテンの向こうから明かりが漏れていたのだ。
躊躇ったものの、俺は窓をノックしていた。応答はない。寝ているのか。もう一度試したが反応がなかったので、窓を引いてみる。鍵は掛かっておらず、すんなり開いた。不用心な奴だ。
ノノカはこちらに背を向ける形で床に座り、柔軟体操をしていた。ヘッドフォンを耳に当て、何かぼそぼそ呟いている。今日のレッスンの復習をしているらしい。
消しゴムを投げつけると、ぎょっと振り返った。
「ちょっと!」ヘッドフォンを外して彼女は怒鳴った。「なに勝手に開けてんのよ! ノックしろ!」
「した。鍵ぐらい掛けとけよ」
「変なことしてたらどうするつもりだったのよ!」
「元から変な奴だろ」
「変態! 阿呆! 死ね!」
ノノカは罵詈雑言を吐きまくる。俺は気勢に圧されて少し反省した。
「すまん……」
「なに、何の用?」ひとしきり罵倒を終えると、刺々しく彼女は訊ねた。
「コンクールの日程を教えてくれ」
ぽかんと彼女は俺を見返した。
「なにそれ?」
「何日だ?」
「八月の、二十五日だけど」彼女はおずおずと答える。
大会の三日後だ。ベスト入り後は練習スケジュールも過密化するだろうが、一日くらいなら都合をつけて休めるだろう。
「観に行くから、チケットをくれ」
「へ?」彼女は目を瞬く。「だって、そっちも練習とか」
「一日くらい休める。これで当分は見納めなんだろ。なら、観に行ってやる」俺はノノカの戸惑った顔を見据えた。「駄目か?」
「駄目じゃないけど」ノノカは頬を掻いて笑う。「なに、どしたの、急に? なんか変」
「ノノカ」俺は言った。「練習しろ」
「練習って……」彼女が困惑を深める。「なによ、急に」
「コンクールに向けて」
「言われなくてもやってる」彼女は口を尖らせた。
「もっとだ」俺は前のめりになって言った。「俺には、バレエの良し悪しはよくわからない。でも、今まで以上に良いものにしろ。全力でやれ。観に行って本当に良かった、と思えるようなバレエをしろ」
「ミツル?」ノノカは笑おうとする。「ねぇ、どうしたの? なんかあったの?」
「最後なんだろ」
俺が言うと、ノノカの表情から薄笑いが消えた。俺の目に宿っている意思を読み取ったのかもしれない。しばらくは黙って俺を見つめていたが、やがて真剣な表情で頷いた。
「わかった……、頑張るよ」
「期待してる」俺は頷き返し、窓に手を掛ける。「邪魔して悪かった。それだけだ」
「あ、待って」彼女が慌てて止めた。
俺は無言で手を下ろした。
「あのね、わたし、ミツルに言わなくちゃいけないことが……」
「ヨウイチのことか?」
え、と彼女の顔が固まった。
「知ってたの?」
「今朝、ヨウイチから聞いた」
「そう……」ノノカは目を伏せた。「なんだ……、知ってたのか」
「あいつは良い奴だ。恋人として申し分ない」
彼女が弾かれたように顔を上げる。尖った目に怒りが燃えていた。
「あんたのそういうとこ、本当に……」唇がわなわな震えている。
その様に俺は思わず微笑む。まだ鼻っ柱の強かった頃の幼馴染が戻ってきてくれたような気がしたからだ。
「お前にはもったいないくらい良い奴だよ」
「ふざけんな」彼女がヘッドフォンを振りかぶる。「人の気も知らないで」
「悪かったな」
俺の言葉に、ノノカの目から怒りが消えた。投げかけたヘッドフォンが所在無げに膝へ落ちる。
「悪かったって、何が?」
「他人の気持ちとかに鈍感だったよ、俺。興味もなかった」俺は答える。「今も、他人のことがよくわからない。水泳のことしか、泳ぐことしか考えられないんだ。だから、謝っとく。これから先も、俺はたぶん、誰の期待にも応えられないから」
「ミツル?」ノノカは動揺しているようだった。たぶん、優しい奴なのだと思う。
俺は混乱する彼女に構わず続けた。
「でも……、気持ちは嬉しい。それだけ、言っておく」俺は堪らず目を逸らした。「急に悪かったな。もう閉めるから」
ノノカが素早く立ち上がり、窓を引こうとした俺の手首を掴んだ。俺はびっくりしてしまい、体のバランスを崩しかけて慌てた。
「な、なんだよ、危ないな」
「ミツル」彼女は俺の目をまっすぐ見た。「わたし、頑張るから」
「ああ」思わず笑う。「頑張れ」
「ミツルも、大会頑張ってね」
「ああ」
「わたしも頑張るから」
「わかったよ」
「今までで最高の出来にする」ノノカの目に熱がこもった。「燃え尽きるくらい最高のバレエするから」
「わかったって」
「絶対、観に来て」
「行くって言ったろ。しつこいな」俺はとうとう噴き出してしまった。「頑張れよ、ノノカ」
「うん」彼女は紅潮した頬を上げて笑った。「おやすみ!」
「おやすみ」
窓を閉め、カーテンを閉めると、俺は椅子に深く沈み込んで深呼吸した。
これで良かったのだろうか?
最善を尽くしたつもりだが、自分が何をしたかったのか、何を言いたかったのか、いまいち判然としない。衝動に身を任せた結果である。しかし、またずいぶん慣れないことをしてしまった。まだ膝が少し震えている。さっきからずっと震えていたのだ。大会では怯えることなんて一度もなかったのに。
一、二分前の自分の言動を振り返ると、早くも顔から火が出そうだが、後悔はなかった。たぶん、素知らぬ顔をしてやり過ごしていたほうが、後々悔いる結果になっていただろう。その予感だけがはっきりしている。
目を閉じると、四方を澄んだ水底の景色に塗り替えられていく気がした。
ここで生きていけたらどれだけ良かったか。
自由に満ちた箱庭の中で。
でも、魚になれなかった我々は結局、地面に立って歩くしかないのだ。
言葉を交わすしかないのだ。
同じ地平で。
「甘えてる」泡の代わりに独り言が漏れた。「ちょっとは、あいつらを見習えよ」
それから、俺は筋トレを再開した。
自由に泳ぐ為に。
膝の震えは、もうなかった。
◇
クイックターン。
壁を蹴り、射出されたロケットのように加速。
さらに速く、もっと長く。
肉体を忘れ、水流の一部であるかのように。
空気と水。
飛沫と気泡。
筋肉が収縮を繰り返し、肺は独立した生命になる。
ゴーグル越しには何も映らない。
景色を忘れる。
ここが地球であることすら忘れる。
世界にはたった一人。
俺だけだ。
誰のことも見なくていい。
この青く透明な世界に俺だけがいる。
なんて素晴らしい。
なんて自由。
なんて楽しさ。
まだまだ行ける。
この一瞬をひたすら繰り返す。
それなのに……。
唯一の不満は、ここには壁があるということ。
底があるということ。
重力すらここでは感じないのに、限界が確かに存在する。終わりが確かに存在するのだ。
でも、だからこそ、価値があるのかもしれない。
死があるからこそ、生が光を放つように。
自由だって?
本当はそんなもの、どこにもないのだろう。
人間である限り。
そう、人間だからこそ見られる幻想だ。
魚も鳥も、自由なんて言葉を知りもしないのだ。
壁が近づいてくる。
肉体はけして現実を手放さない。
手を伸ばし、その固い壁に触れた。
「いいぞ」頭上からコーチのしわがれた声。「スランプは脱したな」
スランプだったのか、と思わず笑った。そこまでタイムに執着した覚えは無いのに、妙な話だ。
水から体を引き上げ、コーチに手伝われながらストレッチをした。この日の最後のタイムアタックだった。
「今週末は調整だけに留めておけよ。筋肉の疲労を取れ」
「はい」
「プレッシャーはあるか?」
「いいえ」
「その調子だ」コーチは仏頂面で頷いた。こんな時くらい笑えばいいのに。
他の部員達はもう引き上げていた。時計を見ると夜の八時に差し掛かっている。最近すっかり日が長くなっていたが、さすがに窓はもう暗かった。
「もう上がれ」
「いえ」俺は首を振る。「少し休憩してから、また入ります」
「俺の話、聞いてたか?」
「泳ぎません。気晴らしです。浮くだけです」
コーチはただでさえ不服そうな顔をさらに不満げに歪めたが、「鍵かけとけよ」とだけ言い残して出て行った。なんだかんだで信頼されているのだろう。ありがたい話だ。
俺は照明を幾つか消してから、俺はまた水面に足を浸けた。
◇
二十分ほど待っていると、やはりヨウイチが現れた。俺がプールの中央から手を挙げると、彼は驚いたように立ち尽くした。
「お前、まだやってんのか」
「浮いてるだけだ」俺は答える。
「クラゲかよ」ヨウイチもにやりとする。「他の連中は?」
「皆、上がった」
「そうか」
沈黙が下りた。小さな波のぶつかり合う音しか聞こえない。一つだけ点っている照明を反射し、水の波紋がプールサイドの薄暗い壁にたゆたっていた。
「泳がないのか?」
俺が訊くと、彼はぎくりと身じろぎした。
「時々最後まで残って、独りで泳いでただろ」
「知ってたの?」ヨウイチは目を丸める。顔に少し赤みが差していた。
「お前が泳ぎたがっている時は、俺も早めに上がっていた。他の連中もそれは知ってる。部を辞めずにマネージャーになったのもその為だろ」
「カッコ悪ぃだろ」彼は冴えない笑みで頭を掻く。「未練たらたらでさ」
「カッコ悪いかは知らん。が、未練がましいとは思う」
ヨウイチは溜息と一緒に肩を竦めた。自嘲の笑みがまだ顔に張り付いている。
「どうした」俺は訊ねる。
「いや、なんでも」
「ノノカと何かあったのか」
「エスパーかよ、お前」ヨウイチが驚いて言う。「あ、それとも、あの子になにか相談されたとか」
「いや」俺は首を振った。嘘ではないと思う。
「たいしたことじゃないよ。デートの予定が中止になっただけ。結構へこんでるけど、たいしたことじゃない」
「そうか」
「バレエの練習だってさ。コンクールの日まで、週末は先生のところに泊まり込んでみっちりやるらしい。本格的なお付き合いはその後にお願いします、だってよ」ヨウイチは首を横に倒して鳴らす。「だから、気分転換に泳ごうと思ったわけだけど」
「泳げばいい」俺は言ってやった。彼が立っているのは、まだ地上だったからだ。
ヨウイチがワイシャツのボタンを外していく。ベルトを緩めて黒ズボンを脱ぐと、その下に水着を穿いていた。俺はちょっと驚いてしまった。
「いつもその恰好なのか」
「独りで泳げるチャンスを逃さない為にな」
「気が小さいな。そこまで準備してるのに、のこのこ帰る日もあったのか」
「うっせぇ。お前がいたからだよ」ヨウイチは吐き捨てるように言う。「マネージャーが、エースの邪魔なんかできねぇだろうが」
その言い草に俺は思わず笑い、両腕を大きく広げてみせた。
「な、なんだよ」ヨウイチが怯む。
「俺は、ここから上がらないからな」
「あ?」
「泳ぎたいなら、そっちから飛び込んでこい」
ヨウイチはぽかんと俺を見つめ返したが、すぐに噴き出して下を向いた。
プールサイドで屈伸運動をすると、彼は水泳帽もゴーグルも無しにスタート台から綺麗なフォームで飛び込んだ。静かな水面に水柱が立つ。道具も不十分で入ったと顧問に知れたら、きっと怒鳴られることだろう。
ヨウイチがクロールで俺の傍までやってくる。濡れた前髪をかき上げ、水滴を垂らしながら笑った。
「皮肉だな」
「何が」
「現役だった頃はあんなにきつくて辛かったのにさ」彼は天井を仰いで言う。「今は、こうやってるだけでめちゃくちゃ楽しいんだ」
「わかるよ」俺は頷いた。
「ガキの頃、始めたての頃もこんな感じだったんだろうなぁ」
彼は瞑目し、緩い微笑を浮かべながら水を掻く。俺はしばらく、背泳ぎで漂うヨウイチを眺めた。
「ヨウイチ」
「なに?」彼は片目を開ける。
「お前、水泳、続けろ」
彼は泳ぐのを止めてこちらを見た。睨む目つきだったが、すぐに微笑した。
「とことん、他人の気持ちがわからない奴だな」
「わかるさ」俺は間髪入れずに答える。「わかった上で言ってる」
ヨウイチは吐き出しかけた言葉を呑んで目を逸らす。動揺しているのが手に取るようにわかった。
「競泳はもう無理だよ」彼は腰を落として肩まで沈む。声が震えていた。「シンクロでもしろってか?」
「何でもいい」俺は言った。「大学に入ってからも水泳をやれ。水から離れるな。干からびるぞ」
「俺は両生類かよ」彼はにやりとする。
「似たようなものだろう」
「うっせぇ、淡水魚野郎」
ヨウイチはゴール際まで得意の背泳ぎで向かい、ターンをしてからまたクロールでスタート台へ向かった。目に掛かる髪が鬱陶しそうだ。水泳帽を貸してやろうかと俺は思ったが、思い直してやめておいた。俺も泳ぎたい気分になったからだ。
スタート台まで辿り着くと、彼は振り返って叫んだ。
「大会、頑張れよな」彼は笑っていた。「俺、マジで応援するからさ」
「ああ」俺も微笑を浮かべて頷いた。「頑張るよ」
ヨウイチは再び壁を蹴ると、今度は勢いを乗せたままに潜水した。体を真っ直ぐに伸ばし、まるでスーパーマンのような姿勢だった。
俺もゴーグルを掛けて同じように潜ると、静寂に包まれた青く透明な世界に、ヨウイチの細い体が見えた。
綺麗だと思った。
自由だと思った。
それからなぜか、ジュゴンを人魚に見間違えた遠い時代の船乗りの話を思い出した。この連想を話したらヨウイチは怒るだろうか。きっと、「お前こそ河童じゃねぇか」などと言い返してくるに違いない。そのやり取りを想像すると、なんだか可笑しくなってきた。
――そういえば、ここで他人を意識したのは初めてだな。
親友の微笑を眺めているうちに俺は思い至り、ふっと小さな泡を吐いた。
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