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作品ID:573
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約4474文字 読了時間約3分 原稿用紙約6枚
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トワイライトコンサート
作品紹介
「すーがくのプリ くっそめんどい」
私と、「彼」との放課後は、
そんな他愛もない落書きが織り成す
小さな会話からはじまった。
私と、「彼」との放課後は、
そんな他愛もない落書きが織り成す
小さな会話からはじまった。
机の上に広げられた記号と数字の羅列。私は、それらを休む間もなく解き進めていた。簡単な方程式から、私の頭では理解不能な段階まで行けるところまで行かなくてはならない。
貴重な放課後を奪われてまで、机に縛り付けられながら数学の設問を解くのは疲れを超えて単純に指先が痛んでくる。私には、この数学のまとめプリント集が悪魔の契約書にしか見えない。私以外誰もいない放課後の図書室には、一人分の鉛筆の擦れる音が無機質に響いていた。
最後の応用例題に差し掛かる直前、私の右手が静止した。長い間使われ続けているこの学校の図書室は、机のいたるところに落書きが施されている。それこそ、ちょろっとした落書程度なら、生徒の机にも勝るほどだ。
それらの落書きも本当に他愛もないものばかりなのだが、しかし私の両目は落書きのなかにある一文のみ引き寄せられていた。
『すーがくのプリ くっそめんどい』
まだ真新しい落書きだ。書いてある状況も、寸分たがわずに今の私と同じだ。私はおかしくなってつい、気分転換の代わりに小さなコメントを書き込んでしまった。
『あたしもー さっさと帰えりてぇえ(泣)』
しばらくたって、ようやく悪魔の契約書(数学のプリント)が片付いた。
あの教科担任め、もしや悪魔の手先なのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、私はできるだけ手早く支度を済まし、帰り道を駆け足で帰った。
私が帰宅してから、あの落書きに自分が返信した事を思い出すことはなかった。
* * *
ある日の放課後、私はまた独り寂しく数学の課題を片付けていた。いつまでたっても一向にひらめく気配のない設問七。それは、父親から色濃く受け継がれた生粋の文系の血族にとって、まさにそりたつ壁だった。どう頭から絞りとたとして、まるで解ける気がしない。
きっと鉛筆だから解けないのだと思い、シャープペンシルに変えてみても何一つ変わらなかった。
真っ白い数学のプリントを眺めていると、黒ずんだ机の上に昨日のアホらしいやり取りの続きが見える。
そういえば昨日、自分があの落書きに返信を書いたことを思い出した。
『俺もまったくの同感 数Bベクトルの設問2(3)マジでいみふ』
なんと自分のコメントに同じ人からの返信が来ていた。もしかして同じ問題でも解いているのだろうか? そうなのだとしたら、本当に親近感がわく。あの教師は複数のクラスの数学を掛け持っているから、顔見知りではない可能性が高い。とりあえず解けていたの問題だったので、答えを返信の下に書き込んでから、残りの課題に取り掛かった。
* * *
いつしか、図書室の机の落書きに返信を残すのが日課となっていた。前回の私の書き込んだ答えは、出鱈目だったと怒られてしまった。
書き始めた当初の微かな罪悪感は溶けるように消え去っていて、この返信を書き込む数分間が今では楽しくてしかたがない。一日おきとか、二日おきに繰り返される、止めようと思えばいつでもやめることができた関係は、そんなこんなで二週間近くが過ぎていた。
何度もやり取りをして気がついてきたが、落書きの向こうにいる「彼」は、使っている一人称の通りにやはり男子生徒なのだ、という確信があった。彼の字面は、机の落書きとしては申し分のない汚さで、それでいて妙に角ばっていて読みやすい。性格なんかはきっと几帳面ではないんだろうけど、読み手である私のことをちゃんと意識してくれているのが分かる。
ついでに、向こうも私のことを女子生徒だと分かったみたいで、一応色々な人が使う図書館の机でもあるから、深く込み入った話はお互いに意図して避けるようになった。
落書きの発端の人と、気が付けば数学の話題以外でもくだらない雑談で盛り上がるようになっていた。お互い顔もおろか、名前すらも知らないはずなのに、まるで親しい友人と話しているように彼とは話が合うのだった。
そんな放課後に異様な盛り上がりを見せる図書室の机の上で、大好きな音楽の話とか、隣の奴がウザいとか、数学は相変わらず訳がわからないとか、本当に他愛もない話ばかりをした。ある日の雑談中に私の好きなロックバンドを勧めてみたことがあった。翌日、シューベルトとかショパンとかよく分からないクラシックを彼に熱心に勧められて、驚いたこともあった。
私はそんな、図書室での雑談に終わりが来るなんて思ってもみなかった。
* * *
私は数学の課題もないのに、自然と図書室に足を運ぶようになった。昨日書き込んだコメントに、彼からの返信が来ているか確かめたかったのだ。いつもの机の端を見ると、跡形もなく私たちの雑談、ではなくただの落書きは消されていた。
机の上にはいつもの「私語厳禁」のラミネートが乗っかっている。しかし、その上からは怒ったような殴り書きで、『落書き絶対禁止! 見つけ次第弁償して貰います!』と油性ペンで書き足されていた。
そんな、と口をついでため息のような声が漏れる。今まで自分たちでやってきたことは、ただの落書きだった。それを思い出すのと同時に、「彼」の名前とか、クラスとか、もっと踏み込んだことを聞くべきだったのだ。
彼との関係が断絶されてしまったことに対しての、悲しみが溢れ出してきた。「見つけ次第弁償」の一文で、今まで麻痺していた罪悪感が蘇ってくる。どうしようもない不安と、悲しみとがぐちゃぐちゃになって混ざり合う。
そして、彼とはもう話せなくなってしまったという、事実に一番胸が痛んだ。
私は、無意識に唇をかみ締めていた。
突然、私の鼓膜を揺らす、ピアノの旋律が聞こえる。途切れ途切れだが、確かに聞こえる。グラウンドの騒がしい喧騒も、吹奏楽部の下手な演奏も越えて、真っ直ぐに私の両耳を目掛けて聞こえてくるようだった。私は流れてきた旋律に身を任せているうちに、無意識に眼を閉じていた。
邪魔な視覚情報を遮断して、あの旋律をいっぱいに感じとる。透明な音が音響の軌跡を描く。私の脳が、その音だけを望んでいるようにはっきりと聞こえた。私はこのピアノの音をどこかで聞いたことがある! 私にはそれがわかったのだ。
なぜなら図書室の机の上で話す「彼」に勧められて、何度も何度も聞いていたピアノ曲だったからだ。
* * *
私は、ピアノの音が聞こえる先に向かって走り出していた。
もしかしたら、「彼」に会えるかもしれないという興奮。それだけが、今の私を突き動かしていた。考えるよりも先に足が動く。渡り廊下を駆け抜けて、ついにあの音の発信源をみつけた。
たどりついた第二音楽室前。もうドアにノックなんて要らなかった。引き戸の僅かに開いた隙間から、オレンジ色の光が漏れている。優しくてどこか寂しそうな旋律がドアの向こうから聞こえてきていた。立ちながらピアノを弾く、人影が見えた。左胸の奥底で、暴れ狂う心臓の鼓動を抑えつけて、ふるえる手を取っ手にかけた。
目をぎゅっとつぶり、開け放つ。おそるおそる目を開けると、そこには一人の男子生徒が立っていた。窓辺から差し込む夕日が、うまく逆光となってしまい彼の容姿がよくわからない。
彼はじっと私のことを見つめている。
「えと……もしかして君だったの?」
私は彼がなんのことを問うたのか、すぐに分かった。私は、緊張で乾いたを開いて言う。
「う、うん……、あなただったの? あの机の端っこ」
「ああそうなんだ、あの机の落書き。俺さ、もう今日には転校しちまうんだ。だからさ、落書きでもなんでも残しておきたかったんだ。どっちにしろ消されちまったけどな」
彼はこれまでを思い出して、笑った。
「俺さ、自慢じゃないけどこれから外国行くんだ。だから、返信くれたやつにお礼を言いたくって。数学の答えも聞けたしな。滅茶苦茶だったけど。……まさか、同じ数学のやつ解いてるだなんて思っても見なかったけどな」
少し区切りながら話す彼は、この会話をかみ締めているようだった。
ベクトルの設問に関しては、本当に私も思ってもみないことだったけれど。
「俺と仲良くしてくれて、ほんとありがとな。やっと青春らしい、音楽漬け以外の日が送れた」
私は、ただこんな別れの言葉なんて聞きたくなかった。それでも、お礼の言葉だけは言いたかった。
「こちらこそ、ありがとう。あなたのおかげで、ピアノも好きになれた。……あと数学も、少しだけ」
「それを言うなら、俺だってそうだぜ。お前のおすすめ、超クール」
そういって、また笑った。その彼の笑顔が、とても身近に感じる。そして、きゅっと真面目な顔をして私に告げた。
「わりぃ、……そろそろ迎えが来ちまう」
「外国、への?」
「……あぁ。もう会えないかもしんねぇけどさ、本っ当に楽しかったよ。お前、数学頑張れよ! おれも向こうで頑張るからさ!」
「ねえ、待ってよ!」
私は叫ぶ。
「あなたのこと、私何にも知らないの!」
彼は走りながら、ちょっとだけ振り向いて私に言う。
「俺だってそうだ! でも、俺が将来有名な音楽家になって、顔が売れればきっとわかるって! そうだろ!」
彼が、消えてしまう。そんな気がして、思わず手を伸ばそうとした。
「じゃあな!」
最後にそれだけ言うと彼は私のすぐ傍を走り抜けて、廊下の角を曲がっていった。
私はしばらく立ち尽くしていたが、あわてて追いかけるように彼の後を追った。しかし、そこには彼の姿はなくて、まるで夕景の校舎に溶けてしまったかのようだった。
「私は、あなたの顔もわからなかったの……」
それから、一度も彼には会っていない。
私は彼に別れの言葉も告げられないまま、彼は外国へいってしまったのだろう。
* * *
ただ今も耳に残る彼の弾いたピアノの旋律と、寂しそうな彼の笑顔が、私の父とよく似ているのは希望的観測過ぎるだろうか? 確かに私の父は中学、高校とまともな「青春」をピアノの訓練と、海外留学よって送ることができなかったと言う。
それも、高校生の時のある時期だけは別として。
その時に何があったのかを聞いたとしても、ニヤニヤしながら絶対に「俺の青春のたった一ページだけは絶対に教えん」とか言ってはぐらかすのに決まっていた。
私は、混み入った電車に揺られながら家に帰るまでの間、なぜか無性に父のピアノが聞きたくなっていた。
車窓から入る夕日は、いつまでもあの日と変わらない。
貴重な放課後を奪われてまで、机に縛り付けられながら数学の設問を解くのは疲れを超えて単純に指先が痛んでくる。私には、この数学のまとめプリント集が悪魔の契約書にしか見えない。私以外誰もいない放課後の図書室には、一人分の鉛筆の擦れる音が無機質に響いていた。
最後の応用例題に差し掛かる直前、私の右手が静止した。長い間使われ続けているこの学校の図書室は、机のいたるところに落書きが施されている。それこそ、ちょろっとした落書程度なら、生徒の机にも勝るほどだ。
それらの落書きも本当に他愛もないものばかりなのだが、しかし私の両目は落書きのなかにある一文のみ引き寄せられていた。
『すーがくのプリ くっそめんどい』
まだ真新しい落書きだ。書いてある状況も、寸分たがわずに今の私と同じだ。私はおかしくなってつい、気分転換の代わりに小さなコメントを書き込んでしまった。
『あたしもー さっさと帰えりてぇえ(泣)』
しばらくたって、ようやく悪魔の契約書(数学のプリント)が片付いた。
あの教科担任め、もしや悪魔の手先なのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、私はできるだけ手早く支度を済まし、帰り道を駆け足で帰った。
私が帰宅してから、あの落書きに自分が返信した事を思い出すことはなかった。
* * *
ある日の放課後、私はまた独り寂しく数学の課題を片付けていた。いつまでたっても一向にひらめく気配のない設問七。それは、父親から色濃く受け継がれた生粋の文系の血族にとって、まさにそりたつ壁だった。どう頭から絞りとたとして、まるで解ける気がしない。
きっと鉛筆だから解けないのだと思い、シャープペンシルに変えてみても何一つ変わらなかった。
真っ白い数学のプリントを眺めていると、黒ずんだ机の上に昨日のアホらしいやり取りの続きが見える。
そういえば昨日、自分があの落書きに返信を書いたことを思い出した。
『俺もまったくの同感 数Bベクトルの設問2(3)マジでいみふ』
なんと自分のコメントに同じ人からの返信が来ていた。もしかして同じ問題でも解いているのだろうか? そうなのだとしたら、本当に親近感がわく。あの教師は複数のクラスの数学を掛け持っているから、顔見知りではない可能性が高い。とりあえず解けていたの問題だったので、答えを返信の下に書き込んでから、残りの課題に取り掛かった。
* * *
いつしか、図書室の机の落書きに返信を残すのが日課となっていた。前回の私の書き込んだ答えは、出鱈目だったと怒られてしまった。
書き始めた当初の微かな罪悪感は溶けるように消え去っていて、この返信を書き込む数分間が今では楽しくてしかたがない。一日おきとか、二日おきに繰り返される、止めようと思えばいつでもやめることができた関係は、そんなこんなで二週間近くが過ぎていた。
何度もやり取りをして気がついてきたが、落書きの向こうにいる「彼」は、使っている一人称の通りにやはり男子生徒なのだ、という確信があった。彼の字面は、机の落書きとしては申し分のない汚さで、それでいて妙に角ばっていて読みやすい。性格なんかはきっと几帳面ではないんだろうけど、読み手である私のことをちゃんと意識してくれているのが分かる。
ついでに、向こうも私のことを女子生徒だと分かったみたいで、一応色々な人が使う図書館の机でもあるから、深く込み入った話はお互いに意図して避けるようになった。
落書きの発端の人と、気が付けば数学の話題以外でもくだらない雑談で盛り上がるようになっていた。お互い顔もおろか、名前すらも知らないはずなのに、まるで親しい友人と話しているように彼とは話が合うのだった。
そんな放課後に異様な盛り上がりを見せる図書室の机の上で、大好きな音楽の話とか、隣の奴がウザいとか、数学は相変わらず訳がわからないとか、本当に他愛もない話ばかりをした。ある日の雑談中に私の好きなロックバンドを勧めてみたことがあった。翌日、シューベルトとかショパンとかよく分からないクラシックを彼に熱心に勧められて、驚いたこともあった。
私はそんな、図書室での雑談に終わりが来るなんて思ってもみなかった。
* * *
私は数学の課題もないのに、自然と図書室に足を運ぶようになった。昨日書き込んだコメントに、彼からの返信が来ているか確かめたかったのだ。いつもの机の端を見ると、跡形もなく私たちの雑談、ではなくただの落書きは消されていた。
机の上にはいつもの「私語厳禁」のラミネートが乗っかっている。しかし、その上からは怒ったような殴り書きで、『落書き絶対禁止! 見つけ次第弁償して貰います!』と油性ペンで書き足されていた。
そんな、と口をついでため息のような声が漏れる。今まで自分たちでやってきたことは、ただの落書きだった。それを思い出すのと同時に、「彼」の名前とか、クラスとか、もっと踏み込んだことを聞くべきだったのだ。
彼との関係が断絶されてしまったことに対しての、悲しみが溢れ出してきた。「見つけ次第弁償」の一文で、今まで麻痺していた罪悪感が蘇ってくる。どうしようもない不安と、悲しみとがぐちゃぐちゃになって混ざり合う。
そして、彼とはもう話せなくなってしまったという、事実に一番胸が痛んだ。
私は、無意識に唇をかみ締めていた。
突然、私の鼓膜を揺らす、ピアノの旋律が聞こえる。途切れ途切れだが、確かに聞こえる。グラウンドの騒がしい喧騒も、吹奏楽部の下手な演奏も越えて、真っ直ぐに私の両耳を目掛けて聞こえてくるようだった。私は流れてきた旋律に身を任せているうちに、無意識に眼を閉じていた。
邪魔な視覚情報を遮断して、あの旋律をいっぱいに感じとる。透明な音が音響の軌跡を描く。私の脳が、その音だけを望んでいるようにはっきりと聞こえた。私はこのピアノの音をどこかで聞いたことがある! 私にはそれがわかったのだ。
なぜなら図書室の机の上で話す「彼」に勧められて、何度も何度も聞いていたピアノ曲だったからだ。
* * *
私は、ピアノの音が聞こえる先に向かって走り出していた。
もしかしたら、「彼」に会えるかもしれないという興奮。それだけが、今の私を突き動かしていた。考えるよりも先に足が動く。渡り廊下を駆け抜けて、ついにあの音の発信源をみつけた。
たどりついた第二音楽室前。もうドアにノックなんて要らなかった。引き戸の僅かに開いた隙間から、オレンジ色の光が漏れている。優しくてどこか寂しそうな旋律がドアの向こうから聞こえてきていた。立ちながらピアノを弾く、人影が見えた。左胸の奥底で、暴れ狂う心臓の鼓動を抑えつけて、ふるえる手を取っ手にかけた。
目をぎゅっとつぶり、開け放つ。おそるおそる目を開けると、そこには一人の男子生徒が立っていた。窓辺から差し込む夕日が、うまく逆光となってしまい彼の容姿がよくわからない。
彼はじっと私のことを見つめている。
「えと……もしかして君だったの?」
私は彼がなんのことを問うたのか、すぐに分かった。私は、緊張で乾いたを開いて言う。
「う、うん……、あなただったの? あの机の端っこ」
「ああそうなんだ、あの机の落書き。俺さ、もう今日には転校しちまうんだ。だからさ、落書きでもなんでも残しておきたかったんだ。どっちにしろ消されちまったけどな」
彼はこれまでを思い出して、笑った。
「俺さ、自慢じゃないけどこれから外国行くんだ。だから、返信くれたやつにお礼を言いたくって。数学の答えも聞けたしな。滅茶苦茶だったけど。……まさか、同じ数学のやつ解いてるだなんて思っても見なかったけどな」
少し区切りながら話す彼は、この会話をかみ締めているようだった。
ベクトルの設問に関しては、本当に私も思ってもみないことだったけれど。
「俺と仲良くしてくれて、ほんとありがとな。やっと青春らしい、音楽漬け以外の日が送れた」
私は、ただこんな別れの言葉なんて聞きたくなかった。それでも、お礼の言葉だけは言いたかった。
「こちらこそ、ありがとう。あなたのおかげで、ピアノも好きになれた。……あと数学も、少しだけ」
「それを言うなら、俺だってそうだぜ。お前のおすすめ、超クール」
そういって、また笑った。その彼の笑顔が、とても身近に感じる。そして、きゅっと真面目な顔をして私に告げた。
「わりぃ、……そろそろ迎えが来ちまう」
「外国、への?」
「……あぁ。もう会えないかもしんねぇけどさ、本っ当に楽しかったよ。お前、数学頑張れよ! おれも向こうで頑張るからさ!」
「ねえ、待ってよ!」
私は叫ぶ。
「あなたのこと、私何にも知らないの!」
彼は走りながら、ちょっとだけ振り向いて私に言う。
「俺だってそうだ! でも、俺が将来有名な音楽家になって、顔が売れればきっとわかるって! そうだろ!」
彼が、消えてしまう。そんな気がして、思わず手を伸ばそうとした。
「じゃあな!」
最後にそれだけ言うと彼は私のすぐ傍を走り抜けて、廊下の角を曲がっていった。
私はしばらく立ち尽くしていたが、あわてて追いかけるように彼の後を追った。しかし、そこには彼の姿はなくて、まるで夕景の校舎に溶けてしまったかのようだった。
「私は、あなたの顔もわからなかったの……」
それから、一度も彼には会っていない。
私は彼に別れの言葉も告げられないまま、彼は外国へいってしまったのだろう。
* * *
ただ今も耳に残る彼の弾いたピアノの旋律と、寂しそうな彼の笑顔が、私の父とよく似ているのは希望的観測過ぎるだろうか? 確かに私の父は中学、高校とまともな「青春」をピアノの訓練と、海外留学よって送ることができなかったと言う。
それも、高校生の時のある時期だけは別として。
その時に何があったのかを聞いたとしても、ニヤニヤしながら絶対に「俺の青春のたった一ページだけは絶対に教えん」とか言ってはぐらかすのに決まっていた。
私は、混み入った電車に揺られながら家に帰るまでの間、なぜか無性に父のピアノが聞きたくなっていた。
車窓から入る夕日は、いつまでもあの日と変わらない。
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