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作品ID:637
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約6589文字 読了時間約4分 原稿用紙約9枚
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黒猫とカップアイス
作品紹介
アイスは冷たいから好きじゃない、と。
買ってきた抹茶アイスを見て彼女は言った。
空想遊び。雨宿り。コーンスープ。毛むくじゃらの同居人。
僕と彼女は、雨音を聞き入る。
※「黒猫と難破船」の続編となります。
買ってきた抹茶アイスを見て彼女は言った。
空想遊び。雨宿り。コーンスープ。毛むくじゃらの同居人。
僕と彼女は、雨音を聞き入る。
※「黒猫と難破船」の続編となります。
アイスは冷たいから好きじゃない、と僕が買ってきたちょっといい抹茶アイスを見て彼女は言った。
雨降りにアイスを食べるのもおかしな話だ。彼女は好きじゃないと言いつつも、僕からプラスチックのスプーンを奪い取り、抹茶のカップアイスを掬い取った。
「むぐ」
アイスの乗ったスプーンを無理やり僕の口に押し込むと、口の中で引っくり返してから引っこ抜いた。彼女の自慢の黒髪が、些細な動作の度に揺れる。
外は、冷たいアイスに負けないくらいの雨粒を降らす雲と湿気がはしゃいでいた。曇天から差し込む申し訳なさそうな淡い光に照明を任せて、僕らは僕が来訪する前に片づけられてやたらと殺風景になった彼女の部屋の床に座り込んでいた。
「本当は食べたかったんじゃないの?」
「何が?」
「アイスだよ。抹茶の」
冷えきった部屋の空気でも、僕の手にしたアイスはゆるゆると弛緩していく。
「このままじゃスープか何かになっちゃうよ」
僕は、意地悪をする彼女のその手に握られている奪われたスプーンを見て、今にも見殺しにされそうなアイスの身を案じた。すでにアイスは薄い緑の個体の周囲を液状に変化したクリームが覆い始めていた。
「僕には買ってきた責任があるからさ。なんとしてもこの子を見殺しには出来ないんだよ」
「……そんなにこのスプーンが欲しいの?」
彼女は、まるで悪魔が取引を持ち掛けるように言う。
「半分くらい溶けて来たでしょ? 私に食べさせてくれたら人質を返してあげるよ」
「それくらいならお安い御用だよ」
彼女は、極端に冷たいものが苦手だった。どれもこれも、一度温まってきてから口に運ぶ。逆に、熱いものは一度冷ましてから食べる。
僕はスプーンを彼女から受け取ると、アイスを滑らかに削り取った。
「こうしないと食べられないんだよね。アイスって」
「君って、知覚過敏なんだっけ?」
僕のなんでもない問いに、彼女は少し不機嫌そうな顔をした。
「……違うよ。それに、もう温まってる」
僕の体温で溶けだしたアイス。彼女はそれを好んで食べる。彼女は、もう一口と僕に催促をした。それから口を大きく開ける。
雨の音が近づき、そしてまた遠ざかっていく。
部屋の隅に佇むキャットタワーの肩の上で、真っ黒い毛の塊が尻尾を振るった。相変わらず、あの猫は動作が気障りで生意気なやつだった。彼女が欲しがるのならアイス程度、いくらでもくれてやる。だが、あいつが欲しがっても僕はやらないだろう。
「はいよ」
アイスを掬ったスプーンを口元まで持っていくと、彼女はアイスを綺麗に舐めとって空っぽになったスプーンだけ僕に返す。
せっかく雨降りの日に食べるために買っておいたお高いアイスを、彼女にだけくれてやるのは釈然としなかったので僕も掬って口に運んだ。
「今度買ってくるならイチゴ味にしてよ」
「はいはい」
彼女の好きなイチゴ味と迷ったのだけど、やはりアイスは抹茶に限る。
抹茶はいい。クリームの甘みの中に、静かな苦みと香り高い抹茶の風味が実に好みだ。図らずも蓋のデザインまで褒めたくなってくる。
「なんか冷たいものを食べたら温かいのが飲みたくなってきた」
彼女がフローリングに寝転がると、湿気でウェーブがかった黒髪が床に広がった。
「……また僕に何か作らせるつもりかい?」
「そうそう。コーンスープの素をね、昨日たくさん買い込んだんだ。今から作ってほしいな」
僕は少しだけ、彼女に抵抗を試みた。
「僕は、もう少しだけ抹茶の余韻に浸りたいんだけど」
いつもは僕の部屋に遊びに来る彼女だが、今日は珍しく自分の城にいるために普段よりもお嬢様な気分らしい。
「へえ。そんなこというんだ。……じゃあ、あいつと遊んでやる」
僕が要請を突っぱねた腹いせか、彼女はタワーの上でしかめ面をしていた猫を抱え上げた。あいつは抵抗をせず、大人しく彼女に捕まった。
あいつと戯れる彼女を見ていると、ときおりどちらが本当に猫なのか判別がつかなくなる時がある。あいつは猫らしからぬ大人な対応をするため、遊んでほしそうにしてちょっかいをかける彼女の方が猫らしく見えるのだ。湿気で膨らんだ黒髪も、奇妙な毛皮に見えなくもない。あいつの、大人びたクールな所が気障ったくて、僕はいけすかない野郎だと思っていた。
目の前で彼女が揺さ振る猫じゃらしを興味なさげに眺めながら、あいつは僕の方を見た。
相手をしておいてやるから、さっさと彼女にスープをだせ。
僕はあいつの視線の意味を勝手にそう解釈すると、立ち上がった。
「……さてと」
「どっか行くの……?」
彼女は猫を抱えたまま、少しだけ不安そうな顔をして立った僕を見つめた。
「違う違う。君がご所望のコーンスープを作るんだよ」
「……そっか」
彼女は、抱え上げた猫の方に視線を戻した。
「キッチン、借りるね」
「どーぞ」
僕は、空になったアイスのカップとスプーンを片手に、扉を開けた。
***
だだっ広い彼女の自宅は、二階建てで赤い屋根の一軒家だ。彼女の両親は何かと不在がちで、彼女と長くつるむ僕ですら顔を合わせた回数は数えるほどしかない。
階下へ降りて、一階にあるあまり使われていないはずのキッチンは、思いのほか片付いていた。調味料や煤で汚されていない綺麗な壁紙、奇怪な形状の調理器具、余ったご飯をパンに変えるらしい不思議な箱、電気の発熱で加熱できるコンロ。
一人暮らしの僕には、願っても手に入れられない調度品の数々に、この家に招かれるたびに使わせてもらえることに感謝していた。といっても、やることは毎度のことながら、お湯を沸かしてコーンスープを作るだけだ。
小鍋に目分量で水を入れ、コンロの電源を入れた。鍋を置いて蓋をする。難しいのは、彼女は冷たいものよりも熱いものの方がずっと苦手だということだった。
目立つ棚の中に、見慣れたパッケージのロゴを見つけ、箱の開け口を剥がした。袋を裂いて、あらかじめ用意しておいた彼女が愛用するカップと、彼女が僕に使わせてくれる来客用のカップに黄色い粉末とクルトンをあけた。袋のゴミをゴミ箱に捨てる。
雨音はまだ続いていた。
「……今日はいい天気、か」
ほかの誰かが言えば出来の悪い皮肉に聞こえる言葉も、彼女の口が紡げばなんともおかしな言い回しに聞こえるというのは不思議だった。
僕の、この心という現象は、僕の脳や感覚器たちが一生懸命に働いたり、演じたりして、スクリーンに映し出された形のない映画のようなものだ。彼女や雨、生意気な猫といった確かな存在を身に感じることで、映し出される映画はとりどりに色めく。
僕はよく、雨を映画に例えることがある。それはたぶん、僕の心を雨に例えることが多いからだ。
これは、もはや願望だった。
彼女が愛す雨に、僕はなれない。だからこそ、この心だけは雨に近いなにかになりたいのだろう。
「あ」
考え事に没頭していたら、いつの間にかコンロにかけていた小鍋の注ぎ口からは、絶え間なく白霧が上がっていた。僕はあわててコンロの火を止め、かぶせてあった蓋を取る。
幸い熱湯は十分に残されていたので、こぼさないよう慎重にカップに注いだ。
それから、引き出しに行儀よく収められていた金属のスプーンを取り出して彼女のカップの中身をかき混ぜていく。きっちりと十五秒間、かき混ぜてから自分のものに手を付けた。
自分の分も混ぜ終えると、使ったスプーンを軽く水でゆすいでタオルで水分を拭ってから元の場所に戻した。
湯気が立ち上るマグカップをとると、僕はキッチンを後にした。
***
彼女の部屋に戻ると、彼女は体勢をそのままにフローリングから自分のベッドの上に移動していた。それまでいじっていた猫は、解放されたのかキャットタワーの上の定位置でうたた寝をしている。
「作って来たよ」
「ありがと」
彼女はむっくりと起き上がると、自分のカップを僕から受け取る。僕は、先ほどよりも雨音が弱まっていることに気づいて彼女に言った。
「……雨、そろそろ止んじゃいそうだね」
「そうだね。朝からずっと降り続いてたから、さすがにもうもたないと思う」
二人で今日一日の雨の健闘を称えると、マグカップを中身がこぼれないよう控えめにカチリと合わせて乾杯した。
彼女は、湯気の湧いたスープに懸命に息を吹きかけている。
「ごめん。ちょっと熱くし過ぎたかもしれない」
「大丈夫だよ。作ってくれてありがと」
「はいよ」
返事のあとで、僕はスープを一口すすった。
「……ねえ。空想遊びをしない?」
「……へえ。君からそんな提案をするなんて随分久しぶりな気がするな」
「ここは、深い山の中ね。……君と私は登山に来たけど道に迷っちゃうの。突然天候が変わって、降り出した雨は嵐になった。そして今は、二人っきりで、洞窟の中で雨宿りをしてる。……外は酷い悪天候で、洞窟の中からは出られない。その洞窟は奥へ行けなくって、その場からはどうあっても今は動けない。嵐を凌ぐあいだに、私たちの体力は尽きるかもしれないし、尽きないかもしれない」
「……なるほど」
僕はベッドの縁に背を預け、まだスープが入っているカップを抱きながら足を延ばした。目をつぶって、彼女の提示した状況を空想する。
吹き荒れる嵐。
雷鳴。
木々の揺れる音。
凍える手足。
肌に張り付く衣類。
洞窟で響く二人分の鼓動。
珍しく、不安そうな顔をする彼女。
僕は、虚勢を張って頼りがいのない笑顔を作る。
彼女の冷えた頬に触れる。
……。
「……うーむ。これはちょっと難しいね。雪山じゃないなら、焚火でも作って暖を取りたいところだけど、手元に使えそうな火種があるかもわからない。食糧があるかもわからない。……そうなって、もし僕が君と自分を天秤にかけるようなことになれば、僕はきっと迷わず君のために自分の食料を食べさせてでも、出来る最善を探すと思うよ」
「…………」
彼女はベッドにうつぶせになったまま押し黙ると、か細い声で言った。
「……そんなに私のことが大事なんだ」
「そりゃそうだよ。……こう見えても僕は、君のためならなんだってするつもりでいるんだよ」
自己犠牲ほど、熱烈に相手に尽くすことはない。自分をないがしろにしてでも、彼女のために出来ることをしたい。彼女がそんな僕のことを煩わしく思わないのであれば、僕は彼女が望む限りを尽くすだろう。
「…………」
これまでの様子と一変して、彼女は何も言わなくなってしまった。
僕は冷めたコーンスープを飲み乾して、カップを床の上に置く。少し遅れて混ぜたせいか、カップの底には溶けた粉末が塊になって残っていた。
「……君は、寂しがり屋だろう」
「…………」
もしかしたら、彼女は本当に眠っているのかもしれない。でも、こんな素敵な時間はきっともうこないだろうから、僕は今のうちにいいたいことを言ってしまおうと思った。
「……僕もそうだったから、君のことはよく分かっていたよ」
「…………」
「……君と会う前の僕にはね。胸の真ん中あたりに、凄く大きくて、もはや塞ぎようのないくらいの大穴が空いていたんだ」
あの時の自分は、今でも大嫌いだった。自分の身に起きた不幸を、まるで自慢でもするみたいに嘆いて悲しんで見せた。
同情が欲しかった。寂しくて寂しくて、その喪失感が渦巻く真っ黒い波に飲み込まれて、そのまま死んでしまうかと思った。
僕の胸には、孤独という、とてつもなく巨大で底が見えないほど深い大穴が空いていた。
「…………」
「あの時に出会った君にも、たぶん僕と同じで胸に穴が空いていると思ったよ」
ある雨の日に僕は、捨てられた猫みたいにずぶ濡れになってトボトボと歩いていた彼女に出会った。その時、きっと彼女も自分と同じ、穴の開いた人間なのだと直感的に感じた。
あのとき、僕は当時初対面の彼女をあの自宅に招き、コーンスープを振る舞った。同じ学校の制服と、同じ学年のネクタイを身に着けていなければ、僕はとても危ない男だと思われたことだろう。
「……だから、君がいなければ僕は、胸に空いた穴に殺されていたかもしれない」
「…………」
彼女はなにも言おうとはしないけれど、僕はそれでも構わなかった。聞かれているのなら、僕の心を受け止めてほしいとも思う。眠っているのであればそちらの方がありがたいようにも思う。
「……僕が君を大切に思うのはね。君が僕の命の恩人で、その借りは僕の一生をかけて返さなければならないものだと思っているからなんだ」
「…………」
僕が彼女にかいがいしく世話を焼くのには理由があった。単純に、献身的に彼女に色々としてあげる自分が好きだということと、彼女が僕にとっての全てであるということだった。
だから僕は、彼女が一緒に住んでる猫にすらみっともなく嫉妬をする。彼女にとって、僕が一番であってほしいと思うのは当然のことだ。
「君のおかげで、僕は生きながらえた」
あの雨の日に、彼女に出会っていなければ、僕は大雨で氾濫する近くの河にでも飛び込むつもりだった。大穴を抱えたままで生きていくのは、やはり無理があったのだ。
無駄に幅が大きく流れが急なその河ならば、死んだあとは海の一部になれるとも考えた。死んでも事故として扱い、処理される可能性を望んでいた。
僕は、自分のことを世界で一番孤独で可哀想な人間だと思い込んでいたから、僕が海の藻屑になることに関して悲しむ人間なんているはずがないと思っていた。
「…………」
「君が寂しがり屋で本当に良かった。……僕の傍にいてくれて。これで、心おきなく君の傍にいられる」
彼女と日々を過ごし、重ねていくうちに、壊死しかけた体組織に血が通って、少しずつ血の気を取り戻していくような感覚がした。これが、息を吹き返すということだと思った。
紛れもないことだが、僕がこうして生きる理由を抱くことが出来たのは他の誰でもない、彼女と出会えたからだった。
「…………ね」
枕に顔をうずめたまま、彼女は僕に問う。
「うん」
「私のこと、好きでしょ」
僕は彼女の言葉に笑ってしまった。
「僕は、何度も君のことを自分よりも大事な人だって公言したつもりだったんだけどな」
僕は頭を掻きながら言うと、
「……もっとちゃんと言って。私が満足する言い回しで言って」
有無を言わさない口調で返された。だけど、彼女の顔は枕にうずまったままだ。
「君が満足する言い回しってどういうこと?」
僕の間抜けな問いに、彼女は枕に顔をうずめながらも即答した。
「五十音で言うと、さ行の上から三番目と、か行の上から二番目」
彼女は切実だった。
僕が同居人の猫に嫉妬していることなんて露とも知らずに。
これ以上しらばっくれると後が怖い。なんて考えていると、
「アイスおいしかった! おやすみ!」
彼女は唐突にそれだけ言い放つと、それからぱったりと静かになってしまう。
「……まったく。……アイスなんて使わなくたって、僕はいいんだけどね」
僕は、空になった二つのカップを取ると、言った手前、込み上げる恥ずかしさを紛らわすためにキッチンに向かった。僕は自分なりに、彼女の告白に答えたつもりだった。
真っ暗な洞窟の中に、雨宿りをする者は僕と彼女の二人だけ。嵐の真っただ中にあるような未来も、穴の開いた過去も、きっと僕らは互いの孤独を分け合って、過酷な登山を楽しむのだろう。
「――好きだよ」
彼女が息を呑む気配を背に、僕は二人分のマグカップを提げて階下へと降りていく。
雨音が、少し遠ざかっていった。
雨降りにアイスを食べるのもおかしな話だ。彼女は好きじゃないと言いつつも、僕からプラスチックのスプーンを奪い取り、抹茶のカップアイスを掬い取った。
「むぐ」
アイスの乗ったスプーンを無理やり僕の口に押し込むと、口の中で引っくり返してから引っこ抜いた。彼女の自慢の黒髪が、些細な動作の度に揺れる。
外は、冷たいアイスに負けないくらいの雨粒を降らす雲と湿気がはしゃいでいた。曇天から差し込む申し訳なさそうな淡い光に照明を任せて、僕らは僕が来訪する前に片づけられてやたらと殺風景になった彼女の部屋の床に座り込んでいた。
「本当は食べたかったんじゃないの?」
「何が?」
「アイスだよ。抹茶の」
冷えきった部屋の空気でも、僕の手にしたアイスはゆるゆると弛緩していく。
「このままじゃスープか何かになっちゃうよ」
僕は、意地悪をする彼女のその手に握られている奪われたスプーンを見て、今にも見殺しにされそうなアイスの身を案じた。すでにアイスは薄い緑の個体の周囲を液状に変化したクリームが覆い始めていた。
「僕には買ってきた責任があるからさ。なんとしてもこの子を見殺しには出来ないんだよ」
「……そんなにこのスプーンが欲しいの?」
彼女は、まるで悪魔が取引を持ち掛けるように言う。
「半分くらい溶けて来たでしょ? 私に食べさせてくれたら人質を返してあげるよ」
「それくらいならお安い御用だよ」
彼女は、極端に冷たいものが苦手だった。どれもこれも、一度温まってきてから口に運ぶ。逆に、熱いものは一度冷ましてから食べる。
僕はスプーンを彼女から受け取ると、アイスを滑らかに削り取った。
「こうしないと食べられないんだよね。アイスって」
「君って、知覚過敏なんだっけ?」
僕のなんでもない問いに、彼女は少し不機嫌そうな顔をした。
「……違うよ。それに、もう温まってる」
僕の体温で溶けだしたアイス。彼女はそれを好んで食べる。彼女は、もう一口と僕に催促をした。それから口を大きく開ける。
雨の音が近づき、そしてまた遠ざかっていく。
部屋の隅に佇むキャットタワーの肩の上で、真っ黒い毛の塊が尻尾を振るった。相変わらず、あの猫は動作が気障りで生意気なやつだった。彼女が欲しがるのならアイス程度、いくらでもくれてやる。だが、あいつが欲しがっても僕はやらないだろう。
「はいよ」
アイスを掬ったスプーンを口元まで持っていくと、彼女はアイスを綺麗に舐めとって空っぽになったスプーンだけ僕に返す。
せっかく雨降りの日に食べるために買っておいたお高いアイスを、彼女にだけくれてやるのは釈然としなかったので僕も掬って口に運んだ。
「今度買ってくるならイチゴ味にしてよ」
「はいはい」
彼女の好きなイチゴ味と迷ったのだけど、やはりアイスは抹茶に限る。
抹茶はいい。クリームの甘みの中に、静かな苦みと香り高い抹茶の風味が実に好みだ。図らずも蓋のデザインまで褒めたくなってくる。
「なんか冷たいものを食べたら温かいのが飲みたくなってきた」
彼女がフローリングに寝転がると、湿気でウェーブがかった黒髪が床に広がった。
「……また僕に何か作らせるつもりかい?」
「そうそう。コーンスープの素をね、昨日たくさん買い込んだんだ。今から作ってほしいな」
僕は少しだけ、彼女に抵抗を試みた。
「僕は、もう少しだけ抹茶の余韻に浸りたいんだけど」
いつもは僕の部屋に遊びに来る彼女だが、今日は珍しく自分の城にいるために普段よりもお嬢様な気分らしい。
「へえ。そんなこというんだ。……じゃあ、あいつと遊んでやる」
僕が要請を突っぱねた腹いせか、彼女はタワーの上でしかめ面をしていた猫を抱え上げた。あいつは抵抗をせず、大人しく彼女に捕まった。
あいつと戯れる彼女を見ていると、ときおりどちらが本当に猫なのか判別がつかなくなる時がある。あいつは猫らしからぬ大人な対応をするため、遊んでほしそうにしてちょっかいをかける彼女の方が猫らしく見えるのだ。湿気で膨らんだ黒髪も、奇妙な毛皮に見えなくもない。あいつの、大人びたクールな所が気障ったくて、僕はいけすかない野郎だと思っていた。
目の前で彼女が揺さ振る猫じゃらしを興味なさげに眺めながら、あいつは僕の方を見た。
相手をしておいてやるから、さっさと彼女にスープをだせ。
僕はあいつの視線の意味を勝手にそう解釈すると、立ち上がった。
「……さてと」
「どっか行くの……?」
彼女は猫を抱えたまま、少しだけ不安そうな顔をして立った僕を見つめた。
「違う違う。君がご所望のコーンスープを作るんだよ」
「……そっか」
彼女は、抱え上げた猫の方に視線を戻した。
「キッチン、借りるね」
「どーぞ」
僕は、空になったアイスのカップとスプーンを片手に、扉を開けた。
***
だだっ広い彼女の自宅は、二階建てで赤い屋根の一軒家だ。彼女の両親は何かと不在がちで、彼女と長くつるむ僕ですら顔を合わせた回数は数えるほどしかない。
階下へ降りて、一階にあるあまり使われていないはずのキッチンは、思いのほか片付いていた。調味料や煤で汚されていない綺麗な壁紙、奇怪な形状の調理器具、余ったご飯をパンに変えるらしい不思議な箱、電気の発熱で加熱できるコンロ。
一人暮らしの僕には、願っても手に入れられない調度品の数々に、この家に招かれるたびに使わせてもらえることに感謝していた。といっても、やることは毎度のことながら、お湯を沸かしてコーンスープを作るだけだ。
小鍋に目分量で水を入れ、コンロの電源を入れた。鍋を置いて蓋をする。難しいのは、彼女は冷たいものよりも熱いものの方がずっと苦手だということだった。
目立つ棚の中に、見慣れたパッケージのロゴを見つけ、箱の開け口を剥がした。袋を裂いて、あらかじめ用意しておいた彼女が愛用するカップと、彼女が僕に使わせてくれる来客用のカップに黄色い粉末とクルトンをあけた。袋のゴミをゴミ箱に捨てる。
雨音はまだ続いていた。
「……今日はいい天気、か」
ほかの誰かが言えば出来の悪い皮肉に聞こえる言葉も、彼女の口が紡げばなんともおかしな言い回しに聞こえるというのは不思議だった。
僕の、この心という現象は、僕の脳や感覚器たちが一生懸命に働いたり、演じたりして、スクリーンに映し出された形のない映画のようなものだ。彼女や雨、生意気な猫といった確かな存在を身に感じることで、映し出される映画はとりどりに色めく。
僕はよく、雨を映画に例えることがある。それはたぶん、僕の心を雨に例えることが多いからだ。
これは、もはや願望だった。
彼女が愛す雨に、僕はなれない。だからこそ、この心だけは雨に近いなにかになりたいのだろう。
「あ」
考え事に没頭していたら、いつの間にかコンロにかけていた小鍋の注ぎ口からは、絶え間なく白霧が上がっていた。僕はあわててコンロの火を止め、かぶせてあった蓋を取る。
幸い熱湯は十分に残されていたので、こぼさないよう慎重にカップに注いだ。
それから、引き出しに行儀よく収められていた金属のスプーンを取り出して彼女のカップの中身をかき混ぜていく。きっちりと十五秒間、かき混ぜてから自分のものに手を付けた。
自分の分も混ぜ終えると、使ったスプーンを軽く水でゆすいでタオルで水分を拭ってから元の場所に戻した。
湯気が立ち上るマグカップをとると、僕はキッチンを後にした。
***
彼女の部屋に戻ると、彼女は体勢をそのままにフローリングから自分のベッドの上に移動していた。それまでいじっていた猫は、解放されたのかキャットタワーの上の定位置でうたた寝をしている。
「作って来たよ」
「ありがと」
彼女はむっくりと起き上がると、自分のカップを僕から受け取る。僕は、先ほどよりも雨音が弱まっていることに気づいて彼女に言った。
「……雨、そろそろ止んじゃいそうだね」
「そうだね。朝からずっと降り続いてたから、さすがにもうもたないと思う」
二人で今日一日の雨の健闘を称えると、マグカップを中身がこぼれないよう控えめにカチリと合わせて乾杯した。
彼女は、湯気の湧いたスープに懸命に息を吹きかけている。
「ごめん。ちょっと熱くし過ぎたかもしれない」
「大丈夫だよ。作ってくれてありがと」
「はいよ」
返事のあとで、僕はスープを一口すすった。
「……ねえ。空想遊びをしない?」
「……へえ。君からそんな提案をするなんて随分久しぶりな気がするな」
「ここは、深い山の中ね。……君と私は登山に来たけど道に迷っちゃうの。突然天候が変わって、降り出した雨は嵐になった。そして今は、二人っきりで、洞窟の中で雨宿りをしてる。……外は酷い悪天候で、洞窟の中からは出られない。その洞窟は奥へ行けなくって、その場からはどうあっても今は動けない。嵐を凌ぐあいだに、私たちの体力は尽きるかもしれないし、尽きないかもしれない」
「……なるほど」
僕はベッドの縁に背を預け、まだスープが入っているカップを抱きながら足を延ばした。目をつぶって、彼女の提示した状況を空想する。
吹き荒れる嵐。
雷鳴。
木々の揺れる音。
凍える手足。
肌に張り付く衣類。
洞窟で響く二人分の鼓動。
珍しく、不安そうな顔をする彼女。
僕は、虚勢を張って頼りがいのない笑顔を作る。
彼女の冷えた頬に触れる。
……。
「……うーむ。これはちょっと難しいね。雪山じゃないなら、焚火でも作って暖を取りたいところだけど、手元に使えそうな火種があるかもわからない。食糧があるかもわからない。……そうなって、もし僕が君と自分を天秤にかけるようなことになれば、僕はきっと迷わず君のために自分の食料を食べさせてでも、出来る最善を探すと思うよ」
「…………」
彼女はベッドにうつぶせになったまま押し黙ると、か細い声で言った。
「……そんなに私のことが大事なんだ」
「そりゃそうだよ。……こう見えても僕は、君のためならなんだってするつもりでいるんだよ」
自己犠牲ほど、熱烈に相手に尽くすことはない。自分をないがしろにしてでも、彼女のために出来ることをしたい。彼女がそんな僕のことを煩わしく思わないのであれば、僕は彼女が望む限りを尽くすだろう。
「…………」
これまでの様子と一変して、彼女は何も言わなくなってしまった。
僕は冷めたコーンスープを飲み乾して、カップを床の上に置く。少し遅れて混ぜたせいか、カップの底には溶けた粉末が塊になって残っていた。
「……君は、寂しがり屋だろう」
「…………」
もしかしたら、彼女は本当に眠っているのかもしれない。でも、こんな素敵な時間はきっともうこないだろうから、僕は今のうちにいいたいことを言ってしまおうと思った。
「……僕もそうだったから、君のことはよく分かっていたよ」
「…………」
「……君と会う前の僕にはね。胸の真ん中あたりに、凄く大きくて、もはや塞ぎようのないくらいの大穴が空いていたんだ」
あの時の自分は、今でも大嫌いだった。自分の身に起きた不幸を、まるで自慢でもするみたいに嘆いて悲しんで見せた。
同情が欲しかった。寂しくて寂しくて、その喪失感が渦巻く真っ黒い波に飲み込まれて、そのまま死んでしまうかと思った。
僕の胸には、孤独という、とてつもなく巨大で底が見えないほど深い大穴が空いていた。
「…………」
「あの時に出会った君にも、たぶん僕と同じで胸に穴が空いていると思ったよ」
ある雨の日に僕は、捨てられた猫みたいにずぶ濡れになってトボトボと歩いていた彼女に出会った。その時、きっと彼女も自分と同じ、穴の開いた人間なのだと直感的に感じた。
あのとき、僕は当時初対面の彼女をあの自宅に招き、コーンスープを振る舞った。同じ学校の制服と、同じ学年のネクタイを身に着けていなければ、僕はとても危ない男だと思われたことだろう。
「……だから、君がいなければ僕は、胸に空いた穴に殺されていたかもしれない」
「…………」
彼女はなにも言おうとはしないけれど、僕はそれでも構わなかった。聞かれているのなら、僕の心を受け止めてほしいとも思う。眠っているのであればそちらの方がありがたいようにも思う。
「……僕が君を大切に思うのはね。君が僕の命の恩人で、その借りは僕の一生をかけて返さなければならないものだと思っているからなんだ」
「…………」
僕が彼女にかいがいしく世話を焼くのには理由があった。単純に、献身的に彼女に色々としてあげる自分が好きだということと、彼女が僕にとっての全てであるということだった。
だから僕は、彼女が一緒に住んでる猫にすらみっともなく嫉妬をする。彼女にとって、僕が一番であってほしいと思うのは当然のことだ。
「君のおかげで、僕は生きながらえた」
あの雨の日に、彼女に出会っていなければ、僕は大雨で氾濫する近くの河にでも飛び込むつもりだった。大穴を抱えたままで生きていくのは、やはり無理があったのだ。
無駄に幅が大きく流れが急なその河ならば、死んだあとは海の一部になれるとも考えた。死んでも事故として扱い、処理される可能性を望んでいた。
僕は、自分のことを世界で一番孤独で可哀想な人間だと思い込んでいたから、僕が海の藻屑になることに関して悲しむ人間なんているはずがないと思っていた。
「…………」
「君が寂しがり屋で本当に良かった。……僕の傍にいてくれて。これで、心おきなく君の傍にいられる」
彼女と日々を過ごし、重ねていくうちに、壊死しかけた体組織に血が通って、少しずつ血の気を取り戻していくような感覚がした。これが、息を吹き返すということだと思った。
紛れもないことだが、僕がこうして生きる理由を抱くことが出来たのは他の誰でもない、彼女と出会えたからだった。
「…………ね」
枕に顔をうずめたまま、彼女は僕に問う。
「うん」
「私のこと、好きでしょ」
僕は彼女の言葉に笑ってしまった。
「僕は、何度も君のことを自分よりも大事な人だって公言したつもりだったんだけどな」
僕は頭を掻きながら言うと、
「……もっとちゃんと言って。私が満足する言い回しで言って」
有無を言わさない口調で返された。だけど、彼女の顔は枕にうずまったままだ。
「君が満足する言い回しってどういうこと?」
僕の間抜けな問いに、彼女は枕に顔をうずめながらも即答した。
「五十音で言うと、さ行の上から三番目と、か行の上から二番目」
彼女は切実だった。
僕が同居人の猫に嫉妬していることなんて露とも知らずに。
これ以上しらばっくれると後が怖い。なんて考えていると、
「アイスおいしかった! おやすみ!」
彼女は唐突にそれだけ言い放つと、それからぱったりと静かになってしまう。
「……まったく。……アイスなんて使わなくたって、僕はいいんだけどね」
僕は、空になった二つのカップを取ると、言った手前、込み上げる恥ずかしさを紛らわすためにキッチンに向かった。僕は自分なりに、彼女の告白に答えたつもりだった。
真っ暗な洞窟の中に、雨宿りをする者は僕と彼女の二人だけ。嵐の真っただ中にあるような未来も、穴の開いた過去も、きっと僕らは互いの孤独を分け合って、過酷な登山を楽しむのだろう。
「――好きだよ」
彼女が息を呑む気配を背に、僕は二人分のマグカップを提げて階下へと降りていく。
雨音が、少し遠ざかっていった。
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