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作品ID:1746
「鏖都アギュギテムの紅昏」へ

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鏖都アギュギテムの紅昏

小説の属性:ライトノベル / 異世界ファンタジー / 激辛批評希望 / 中級者 / R-15&18 / 連載中

こちらの作品には、暴力的・グロテスクおよび性的な表現・内容が含まれています。18歳未満の方、また苦手な方はお戻り下さい。

前書き・紹介


滅びしものたちの夜

前の話 目次 次の話

「恐らく、最初のじゃんけんで決着はついてたのでしょう。そのあとの爪の一撃は、苦し紛れの悪あがきでしかたなかった、と」
 青灰色の石畳で舗装された街路を颯爽と歩みながら、刈舞は言った。
「だが……ありゃ勝ったのか? 餓天使は四本の腕それぞれに違う手を出していたよな?」
 狼淵と維沙は、その後についていく。
 ここは――八つある《幇会》のひとつ、《藍爪幇》の領域であろう。よく整備された碁盤状の通路には、チリひとつ落ちてはいない。
「ふむ」
 刈舞は自らの顎を掴む。
「四本腕の存在によるじゃんけんには、果たしていかなる作用が働くのか? これは興味深い問題です。……おや、三つほどいただけますかな?」
 路地の片隅で構えていた小奇麗な屋台から、餅米を焼き固めて糖蜜を塗った団子を購う。ちらりと見えた刈舞の財布からは、目を疑うほど大量の獄中貨が覗いていた。アギュギテムの中でしか通用しない貨幣を、なぜ司法剣死官が持っているのかは謎だ。
「普通の人間が、両手を使ってじゃんけんするのは特に問題なかったよな」
 手渡された串団子を頬張りながら、狼淵は話を戻す。
「ええ。そして相手が片手一本でじゃんけんに応じた場合、そのひとつの手がこちらの両方の手と相対する形となります」
 たとえば、こちらが右手でグー、左手でパーを出したとする。
 相手はパー一本だったとしよう。
 この場合、相手が出したパーは、こちらのグーとパーの両方と相対し、それぞれ個別に勝敗が決まる。
 右手のグーは敵のパーに負ける。
 左手のパーは敵のパーと引き分ける。
 すると全体の勝負は一敗一分けとなり、こちらの頭が破裂することになる。
 同様に、相手の手がチョキ一本だったとすると、
 右手のグーは敵のチョキに勝つ。
 左手のパーは敵のチョキに負ける。
 全体の勝敗は一勝一敗であり、引き分けということになる。
「この法則が、四本腕の存在にも同様に適用されると仮定すると――」
 夜翅はパーを出した。
 餓天使はチョキとパーとグーとグーを出した。
 つまり、全体の勝敗は夜翅の二勝一敗一分けとなり、確かに現実の結果と合致する。
「……と、言うことは、四本も腕を持っていたとしても、純粋なじゃんけん勝負ではさして有利にはなりませんね。要するに最大多数派の手が全体としての手ということになり、勝率は腕一本で行った時とまったく変化がありません」
「ん? ……あぁ、そうか。理屈の上ではそうなる…………いや、ちょっと待て。実際にはそうとも限らねえぞ。四本もあったら予備動作から手を予測するなんざ無理だ。目が追い付かねえ」
 相手が二本腕ならば、その程度の見切りは参加者全員ができるだろう。
 しかし四つも手を出されて、その最大多数派の手を瞬時に判断するなどという芸当はどんな人類にも不可能なはずだ。
 あの化け物の本当に恐ろしい点はここである。常人同士のじゃんけんならば当然行われるべき「先読み」が、ほぼ通用しないのだ。
「不可解なのは、夜翅・アウスフォレスのあの落着きようです。彼は明らかに、今述べた事情をあらかじめ知っていたと考えられます。初めて餓天使の存在を目の当たりにして、眉ひとつ動かさないなどあり得ません。にもかかわらず当然のようにじゃんけんに応じ、当然のように勝った。これは……何を意味するのでしょうね?」
「もう、ひとつ……」
 口の端にたれをつけた維沙が、陰鬱に発言する。
「あの人……[手に包帯を巻いたままだった]」
 ――空気が、温度を下げた。
 狼淵と刈舞は立ち止まり、目を見開く。
「……なんだって?」
「確かに見た。指先も、手の甲も、手の平も、すべて赤茶色に汚れた包帯で覆い尽くされていた。素肌など少しも出ていなかった」
「んな馬鹿な。ありえねえよ」
「見間違い……ではないのでしょうね」
 罪燐と螺導の第二典礼で見せた、異常な眼力をもってすれば、確かにその程度を見分けるのは容易かろう。
 それは――
 つまりそれは――
「落ち着きましょう。とにかく落ち着きましょう。取り乱してもいいことは何もありません。いいですね?」
「あ、あぁ、わかってるよ」
「大前提として、手に何かを握っていたり、手袋などで覆っている状態では、じゃんけんを行っても殺傷の霊威が働かない。ここまではよろしいですね? 私の記憶に間違いはありませんね?」
「わざわざ確認することじゃねえだろ。あんたが落ち着けよ」
 そう、一般常識だ。これがわかっていない人間は、文字どおりの意味で生きていけない。
 それは人類のみならず、異律者(サテュロス)や餓天使をも絶対的に縛る、宇宙の摂理である。
 にもかかわらず夜翅は包帯に包まれた手でじゃんけんを行い、相手を殺している。
 つまりどういうことだ?
 どういう、ことだ?
「夜翅・アウスフォレス……彼は一体、何者なのか?」
「『彼は、何者か』なんて言い回しは、もう正しくない。『[アレは]、[なんだ]』と問うべきだ」
 うすら寒い沈黙が、三人にのしかかってきた。
 誰一人、答えられる者はいなかった。
 瞬間、維沙は真横に隻眼を向けた。

「ザーゲイド卿。約束の刻限が迫っております。お急ぎを」

 維沙の視線の先――家屋(ドムス)の陰から、ささやくような声がした。
 驚いて振り返った狼淵は、そこに金糸で縁取られた黒衣を見る。
 帝国法務院(プラエトリウム)の制式執行服だ。それを纏うのは――特徴のない顔の男。若いようにも、歳経ているようにも見える。
 ――こいつ、いつの間に……
「あ、あぁ、ご苦労様。君はそこで待機」
「御意」
 刈舞は鷹揚に手を振ると、狼淵と維沙に振り返る。
「さて、包帯怪人のことはひとまず置いておいて、我々は急ぐとしましょう。遅れるわけにはまいりません」
「ちょっと待てよ。そもそもどこに連れて行くつもりなんだ。いい加減教えてくれ」
 刈舞はにっこりと笑って、下を指差した。
「地下。アギュギテム最深部。至聖祭壇の真下に位置する積層庭園第七層、〈滅びしものたちの夜〉」
「……なんだって?」
「そこの四阿(あずまや)にて、とある御方と会食の約束を取り付けております。私がアギュギテムに来た目的のひとつですので」
「とある御方?」
「全人類の利益と尊厳を代表せし世俗権力の頂点にして、現世に顕現したる宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)の位格がひとつ。餓天法師を束ねし者。信仰の護り手。国家を形成する引力。アギュギテム領主。八鱗覇濤の主催者。パテル・パトリアエ。この世でただ一人、公王(ディクタトル)に最敬礼を強いる存在。〈救世主の器〉。すべての帝国臣民の生ける目的――」
 狼淵は、さすがに刈舞が誰のことを言っているのか理解した。
「おい、ちょっと待て……」
「皇帝、鏖我(オウガ)・ラドキュロク・アギュギテス・インペラトル・サルバドル・ギステニア陛下がお待ちです」
 その名を聞いた瞬間、全身の皮膚が凍えたように引き締まるのを感じた。
「……本気で言ってんのか」
「直接お会いすればわかりますよ。もう一目見ただけで、あぁ、この御方こそが人類の支配者なのだな、と厳かな確信がわきます。十年ほど前に一度だけ拝謁の栄を賜りましたが、あれはちょっと忘れがたい宗教体験でしたね」
「その皇帝陛下の前になんで俺たちを連れて行くんだよ。招待を受けたのはあんただけだろ」
「ご安心ください。そのようなことを気にされる御方ではありませんよ。むしろ八鱗覇濤参加者との個人的な対談を望まれています。狼淵どのに、維沙どの、あなたがたはまぁ、私の見たところ参加者の中では最も理性的です。いきなり陛下を弑し奉らんと襲い掛かるような凶暴性とは無縁。ならば、是非とも陛下に会っていただきたいのです。あなたがたとて、皇帝陛下に陳情奉りたいことのひとつやふたつはありましょう?」
「僕は、どっちでもいい。会ってほしいのなら、会うよ。特に断る理由もない」
 維沙が、ぽつぽつと言う。
「……わかった。俺も会うぜ。是非、会いたい」
 狼淵は、居住まいを正して言った。
「よろしい。ではまいりましょう」
 刈舞はにっこり笑って、歩みだした。
 狼淵はその背中を、うっそりと睨みつけた。
 ――言いたいことはあるか、だって?
 あるに決まっている。それも、ひとつやふたつではきかない。
 ――見込み違いだったな、刈舞のおっさん。
 狼淵は、込みあがってくる殺意を抑えるように両拳を握りしめる。
 腕の中で、三つの拷問具らが、流血の予感にうねるのを感じた。
 ――俺は、皇帝を殺すためにアギュギテムに来たんだよ。
「こちらです。足元にお気をつけて」
 刈舞は民家の中に入っていった。どうということもない、吹き抜け(アトリウム)を備えた普通の家屋だ。
 ぎしぎし鳴る板張りの床を進んでいくと、石釜のある台所めいた場所に出る。
 そこでは刈舞と同じく黒金の制式執行服を着た男が三人いた。
「やあ、お願いします」
「御意」
 男たちは床の合わせ目に梃を差し込むと、三人がかりで持ち上げ始めた。やがてごりごりという音とともに床が持ち上がると、反対側の床が下がり始める。三人のうちの一人がそちらに回り、体重をかけて踏み込んだ。
 がちり、とからくりが噛み合う音がした。四角形にくり抜かれた床が回転して垂直に立ち、地下への下り階段が現れた。
「ご苦労様。では二時間後に開けてください」
「御意」
 刈舞はさっさと下りてゆく。
 狼淵と維沙は慌てて後を追った。
 しばらく下ってゆくと、後ろで重い音がして、出入り口がしまった。

 ●

 水音が、チロチロと飛沫を上げていた。
 人工的に再現された山河から、蒼く輝く地下鉱水が流されているのだ。
 あたりはぼんやりと淡い光に包まれている。地の闇の底で、自ら発光する花々が、星空のように灯っていた。
 地面は青白い光を放つ苔に覆われ、石畳の道は闇の中に沈んでいる。庭園のあちこちで巨大な発光性多肉植物が立ち、異形の梢を伸ばしていた。
 それらのあわいから、巨大な甲冑魚や鸚鵡貝などが地下庭園の半球天蓋に埋まっているさまを見て取ることができた。長い長い時の中で、骨格の組成が特殊な鉱石と入れ替わり、草花の放つ妖光を浴びて、美しくも底知れぬ眺めを作り上げているのだ。
 地下積層庭園第七層――〈滅びしものたちの夜〉。
 太古の時をそのまま封じ込めたような空間だ。
 蓄光性の石材を組んで作られた荘厳な四阿が、庭園の中央にそそり立ち、燭台による明りを外に漏らしていた。
「なんつー場所だよ……」
 視界一面に広がる驚異に、狼淵は開いた口が塞がらない。アギュギテムの地下に、こんな場所があったとは。
 さすがの維沙も、隻眼をいっぱいに見開いていた。きょろきょろと落着きがない。
 その様子を横目で見て、なんとなく狼淵は安心する。こいつにもまだ、そういう感性が残ってはいたわけだ。
「皇帝陛下の私園ですね。アギュギテムの地下には全部で八つの庭園が広がっています。それぞれの出入り口は、陛下より詔を賜った《幇会》の歴代の指導者たちが、その責任において管理・秘匿しております」
「おいおい、《幇会》は皇帝と対立してんじゃねえのかよ」
「それは遥か過去、《幇会》による獄中秩序が成立したばかりの頃の話ですよ。現代では、《幇会》の長たちといえども不死なりし皇帝陛下の雄大な御心に触れ、おのずから頭を垂れているのです。もちろん、一般の囚人たちに対しては、いまだに皇帝陛下の抑圧に反抗しているということで通っていますが」
 失望が、狼淵の胸を満たした。
 狼淵にとり、皇帝は倒すべき敵である。八鱗覇濤に参加したのも、優勝者には皇帝自身の手で帝国騎士章が授与されると聞いたからだ。
 優勝して、隙をついて、殺す。そのために大人しく帝国法務院(プラエトリウム)に捕まり、アギュギテムに投獄されたのだ。
 この世界をもう少しでもマシな状態にもっていくには、それしかない。そう信じていたから。
「おや、先客ですね」
 見ると、四阿から少し離れたところに、誰かが立っていた。
 菌樹に背をあずけ、気怠い様子で杯を傾けている。
 長身の男だ。
「……ザーゲイドか」
 こちらに気づき、顔を向けてきた。
 貴公子、というのは、こういう男のことを言うのだろう。腰まで流れるぬばたまの黒髪が、周囲の青光を受けて艶めいている。骨のような色の肌との対比で、なにやら白黒の絵画から抜け出てきたような印象を受ける。
 歳は狼淵より一回り上だろうか。近づきがたい、を通り越して、冷酷なまでの美貌であった。
 最上位の諸侯のみが身に着ける、棘茨を象った細く繊細な装身具を、全身に絡み付かせている。
「これは、カナニアス卿。ご無沙汰でございますな」
 刈舞はにこやかに久闊を叙する。
「その胡散臭い笑みが相変わらずのようでなによりだ。貴様も陛下より招待を受けたと見えるな」
「はい、恐れながら。十年ぶりに拝謁の栄を賜ります。陛下にお変わりはありませんでしたか?」
「変わり、か。ふむ……」
 カナニアス卿と呼ばれた貴公子は、かすかに眉目を曇らせる。
「少々、面倒なことになっておる」
「というと?」
「いや、実際に見た方が早かろう。それよりも、なぜこの聖域に農奴と無産浮浪者がおるのか? 下賤な」
 鋭い目が、狼淵と維沙を刺し貫いた。
 それは路傍の石でも見るような目だった。貴族が一般臣民を見るときには、常にこういう目つきをする。
 維沙が息を呑んで、背後に隠れるのを感じた。無意識のうちか、狼淵の袖をぎゅっと掴んでいる。目の前の男の眼光には、確かにそうしたくなる力がある。
「あぁ? いちゃ悪いのかよ」
 だが、狼淵は睨み返す。
 相手はため息交じりに首を振った。
「余は誇り高きカザフ公なれば、臣民の無礼は二度までは許すことにしておる。跪いて、名乗れ。本来ならば同じ場所に立つことすら許されぬ身分差である。手討ちにされても文句の言えぬところ、慈悲を垂れてやろうというのだ。己の良心に恥じぬ対応をせよ」
「ごちゃごちゃうるせえんだよ。人の名を聞くときはまず……」
 そこへ刈舞が体ごと割り込んできた。
「ま、ま、カナニアス卿。ここはどうかご寛恕を賜りたく存じます。この者らは狼淵・ザラガと維沙・ライビシュナッハ。いずれも少年ながら並々ならぬ武威を持ち、八鱗覇濤への参加資格を勝ち取りました。大変見どころのある若者たちですので、陛下の詔に従い、宴席に導いた次第でございます」
「おい! あんたは引っ込んでてくれよ。俺はそこのなまっちろい野郎と話してんだ」
「ふん、参加者か。陛下の求めとあらば止めるわけにもいかんが……嘆かわしいことよ。このような人か猿かもわからんような生物を、帝国建築学の粋たる聖域に入れねばならんなどと……」
「ああん!? 誰が猿だコラこっち向け!」
 狼淵がさらにいきり立ち、食って掛かろうとしたその瞬間、
 地鳴りのごとき大音声が轟き渡った。
 狼淵は最初、象のいびきか何かかと思った。よもや人がこんな声を出すとは信じられなかった。
 だが、あっけにとられながら聞いていると、どうやらそれは野太い男の泣き声のようであった。
「やれやれ、またか」
 貴公子が顔をしかめながら首を振る。
 凄まじい泣き声は恥も外聞もなくひしり上げられ、思わず耳を塞ぎたくなるほどだ。
「あの男の泣き上戸にも困ったものだ」
「いったい何が起こっているのですか!?」
 刈舞が騒音に負けぬよう声を上げる。
「中に入れ! 一目でわかる! そして黙らせよ!」
 貴公子は苛立たしげに手を振った。

 ●

 四阿に足を踏み入れた瞬間、むっとした異臭が鼻を突いた。
 圧力すら伴う泣き声の中で、目を剥くような光景が広がっていた。
 四阿の形状は正八角形であり、床から天井までのうち下半分のみが美麗な意匠の柵に覆われている。一般臣民の平均的な家屋を優に超える面積だ。
「うおおおおおぉぉぉぉぉん、うおおおおおおおおぉぉぉぉぉん」
 中央には、全体の形と相似を成す正八角形の卓が据えつけられ、その上には豪勢な食事の用意が整えられている。
 だが、注目すべきはそこではない。
「陛下あああぁぁぁ!! うおおおおおぉぉぉぉぉぉん」
 四阿の片隅において、二つの人影があった。
 ひとりは床に倒れ、いまひとりはその傍にくずおれて泣き腫らしていた。
「……っ」
 倒れている人物を確認したのか、刈舞は眼を剥き、息を呑んだ。
「どうじでええええええ、どうじでこんなあああぁぁぁ」
 つられて刈舞と同じ方を見やり――倒れた人物を視界の中央に収めたとき、何の根拠も迷いもなく、これが全人類の支配者たる皇帝であることを狼淵は悟った。
 人間離れした、いっそ理不尽なほどの威厳を湛えた肉体であった。耳をつんざく泣き声すら一瞬意識から消え失せたほどの、それは途轍もない衝撃に満ちた感動であった。
 あたかも、眼球を直接叩かれたような視覚体験。
 それは峨峨たる山々が大気に霞むさまを見た時の気持ちに似ていた。
 巨大な雲が逆巻いて雷撃を帯びながら街の上空を覆い尽くすさまを見た時の気持ちにも似ていた。
 古い時代に餓天法師たちが築いた壮麗な寺院を目にした時にも似ていた。
 だがそれらのどれよりも圧倒的に強烈な神性が、その肉体には宿っていた。
 もはや「美しい」という言葉で括ることすら不敬にあたる。自らとは比較にならぬほど大いなる存在を目の当たりにした時の、畏れが入り混じった、厳かな悟りが、狼淵の胸を満たした。
 この玉体に比べれば、餓天使の異形ですら印象が薄いと言わざるを得ない。
 特にどこが変わっている、というわけでもない。頭があり、四肢があり、胴がある。輪郭も骨格も肉付きも、完全に人間のものである。
 [しかし、完璧であった。]
 全身の筋肉の流れる線が、黄金に輝く豊かな大河を思わせる。その均整美は、男性原理の擬人化とも言うべき力強さを感じさせたが、戦士の肉体ではありえなかった。戦いというたった一つの目的のために体を作り上げることは、つまり人体が本来持つ万能性を意図的に崩す行いでもある。皇帝の肉体にそれはない。
 人類がさまざまな風土に適合して人種が分かれるより以前の、宇宙蛇に創造されたままの姿をとどめているかのようだ。人の持つ可能性を全肯定した、その遥かな延長線上にある至美であった。
 この世に生きるすべての人類は、彼の不完全な模倣に過ぎぬのだという確信。
 皇帝、鏖我(オウガ)・ラドキュロク・アギュギテス・インペラトル・サルバドル・ギステニア。
 支配して当然。君臨して当然。崇められて当然。神格化されて当然。今すぐ跪きたい衝動を抑えるのに苦労するほどであった。
 その完璧なる存在は――どう見ても明らかに死んでいた。
 右肩から左の脇腹にかけて、袈裟懸けに一刀両断にされていたのだ。
 異臭の原因はこれである。血臭に加え、胃袋が切り裂かれたために消化中の内容物が飛び散っているのだ。
 完璧な存在の、唯一にして致命的な瑕疵であった。
 皇帝は、殺されていたのだ。
「どうずればああああぁぁぁぁ、ごれがらどうずればあああぁぁぁぁぁ」
 眩暈すら覚えるほどの神々しさに、心身の危険すら感じた狼淵は、死体から強引に目をそらした。
 死体の傍らで泣き崩れている人物が目に入る。
 剛健な偉丈夫だ。少なくとも、そういう言葉に落とし込むことができる程度に人間らしい。
 縦にも横にもでかい。人間の頭一つが容易く収まるほど太く逞しい両腕。要塞の屋台骨を思わせる肩幅。その間にちょこんと乗っかっている、小さな頭。顔の外周を囲むように、真っ赤なたてがみが豊かに繁茂していた。
 彫りの深い顔容は、今は涙と洟と涎で目も当てられぬ惨状であったが、普段は英傑というべき威厳を湛えているのだろう。
 ころりと太く丸い指で、おもちゃのように小さな杯を傾けている。一息で酒を飲み干すと、横に置いてある徳利から手酌で杯に注ぐ。
「ひっく、うううぅぅぅ、どうずればあああぁぁぁ、ひっく」
 どういうわけかこの大男は、皇帝の死体を前に酒盛りをしているのだった。
「……あの、もし、よろしいでしょうか」
 刈舞が、恐る恐るといった体で声をかける。
「ふあ?」
 きょとんとした様子で、大男は刈舞を見やる。
 あどけない目つきでひとしきり刈舞を観察した後、こてんと首をかしげた。
「だあれ?」
 むっと酒臭い息がこちらに漂ってきた。
「私、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドと申しまして、帝国法務院(プラエトリウム)にて司法剣死官などを拝命しております。見たところ、帝国の根幹を揺るがす極めて重大な犯罪が起きたように思われるのですが、あなた様のお名前をお聞かせ願えませんか?」
「ふあ、えっとねー、みどもはねー、えっとねー、……なんだっけー? だーははは!!」
 刈舞の肩をばしばし叩きながら哄笑。
「はははははははぁ……ぁぁぁぁあああああ陛下しんじゃっだよおおおおおおぉぉぉぉぉぉうおおおおおぉぉぉぉぉん!!」
 次の瞬間には唐突に号泣。刈舞に抱きつく。
「うんうん、そうですね、大変ですね。それで、陛下が殺められてしまう所をあなたは見たのですか?」
 洟まみれの顔が擦り付けられてくるのを巧みにかわしながら、刈舞は尋ねた。
「みでないよおおおぉぉぉぉぉよばれでここにきたらしんじゃってたよおおおぉぉぉぉぉ」
「……ふむ」
 するりと大男の腕から抜け出ると、刈舞は皇帝の遺体へと歩み寄った。
 皇帝は手足を広げて横たわっている。
 刈舞は手を伸ばし、皇帝の指先をつまんだ。そして細かく動かす。
 その後立ち上がって、四阿の内部を仔細に観察。
 やがて得心がいったのか、こちらに歩み寄ってくる。
「表に出ましょう。これはカナニアス卿にも話を伺う必要がありそうです」
「お、おう。そういやさ、ひとつ疑問があるんだが」
「なんでしょう?」
「……なんで皇帝は素っ裸なんだ?」
 荘重で輝くばかりの均整が宿る肉体は、脚絆も下着もつけていない。男性の象徴が、微睡む神(ヘビ)のごとくゆったりと身を横たえていた。
「あぁ、不思議なことなど何もありませんよ。陛下はいかなる時も生まれたままの姿で過ごされる御方でした」
「え?」

 ●

 四阿から出ると、さっきの貴公子が待ち構えていた。
「見たか」
「見ました。どういうことなのか、お聞かせ願えますか、カナニアス卿」
「ふん、どうもこうもないわ。招待を受け、ここに馳せ参じたら、陛下は一刀両断されていた。下手人の姿は見ていない」
「それを証明できる方はいらっしゃいますか?」
 くく、と忍び笑いをもらす貴公子。
「なんだ? これは尋問か? とりあえず中で飲んだくれているあのうつけ……霊燼(レイジ)・ウヴァ・ガラクが先に来ていた。奴の酔いが醒めたら話を聞いてみよ」
「おぉ、なんと。あの偉丈夫は護国の英雄どのでしたか」
「……英雄?」
 維沙が小声で聞いてきた。
「狼淵は、知っている?」
「あぁ。霊燼っつったら、異律者との戦争の中ですげえ強さでバケモノどもをブッ殺しまくり、戦線の崩壊を何度も阻止してきた英雄の中の英雄さ」
 確か、臆病風に吹かれて退却を命じ始めた上官をブン殴って黙らせ、指揮権を簒奪して戦闘を大勝利に導いたまでは良かったが、その上官は公王より直々に封土を下賜された高貴極まる等族の一人であったため、霊燼は大逆罪の汚名を着せられ、あえなくアギュギテム送りになっていたと聞いている。
 そして――参加者の一人だ。まぁ人類史上最も異律者を殺した大英雄が、アギュギテムに居ながら神聖八鱗拷問具に選ばれないなどということはあり得ないので、これは当然だろう。
「酔っぱらうと幼児退行することまでは知らなかったけどな」
「……すごかった。お酒は、怖いものだ」
「まぁ……うん」
 微妙な気分になっている二人を尻目に、刈舞と貴公子は丁々発止の議論を交わす。
「これは〈帝国〉の、ひいては全人類の生存にかかわる重大な犯罪です。民族主義の風が吹き荒れ、いつ激発してもおかしくない国情において、皇帝陛下はなくてはならぬ箍でした。あの御方の存在自体が〈帝国〉の分裂を未然に阻止してきたのです。是が非でも下手人の正体を掴み、然るべき罰を与えねばなりません」
「……そんな必要がどこにある? もはや終わったことだ。下手人が誰で、何を思ってことに及んだのかは知らぬが、それを今更解明して何か意味があるのか? 陛下は弑し奉られた。つまり〈帝国〉防衛の礎たる〈環兵制〉はその根拠と強制力を失ったのだ。遠からず、人類は異律者に各個撃破され、敗北する。これは確定事項である。〈環兵制〉の仮借なき遵守なくして人類が異律者の襲撃に対抗することなど不可能ゆえに。人類は家畜化され、あらゆる教養も技術も奪い去られ、気ままに殺され犯されるだけの存在に成り果てるだろう」
「まだ終わってはいません。我々が口をつぐみ、陛下はご病気であらせられると口裏を合わせれば、あと数か月はことが公になることはないでしょう」
「だから、なんだ? たかが数か月ほど〈環兵制〉が存続したから何だというのだ?」
「このまま〈帝国〉と人類の尊厳が見る影もなく貶められるのを大人しく待っているなど、私は絶対に御免こうむります。数か月の時を稼ぎ、その間に公王(ディクタトル)の……聡羅(ザトラ)閣下にでもお願いし、公王会議を招集していただきます。そこで〈環兵制〉に代わる新たな軍制を構築していただく!」
「はっ! 民族主義者どもが公王の言うことなど聞くものか! 引き裂かれ、虐げられたる彼らの怨みをあまり軽く見ない方がいい。公王とロムレス人(びと)を殺せるなら[死んでもいい]と本気で考えている連中だ」
「……つまり、皇帝陛下に代わる権威が存在すれば良いのですな」
「なに?」
「ひとつ、腹案がございます。皇帝陛下は底知れぬご威光と、広大無辺なる懐の持ち主であらせられましたが、実は武勇においても人類最強の一角に名を連ねる勇者でございました」
「知っている。それゆえに君臨の祭具たる起源槍「イニティウム」に選ばれていた、とも」
「そのイニティウムこそが帝権の象徴である、と、言って言い張れないことはないと思われます。なにしろイニティウムはその御力の特殊性ゆえに、神聖八鱗拷問具の頂点に立つ存在とされており、しかも有史以来一度たりとも皇帝陛下以外の者に柄を預けたためしなどありませぬゆえに。そこで問題です。イニティウムは[現在どこにありますか?]」
「むっ……それは、まぁ、ほぼ間違いなく陛下を弑し奉った下手人の肉体であろうな。神聖八鱗拷問具は、宿主を殺めたる者を新たな宿主に選ぶゆえ」
「ならば、次代の皇帝を担いうる英雄を一人選び、陛下の仇を討っていただきます。そしてその英雄が起源槍イニティウムを身に宿し、我らは彼を担ぎ上げて言うのです。『皇帝陛下は一足先に宇宙蛇(アンギス・カエレスティス)との合一を果たされた。今後の帝権は、陛下より君臨の祭具を禅譲されたるこの御方に一任されるであろう』と」
「……そううまくいくか? 少なくとも餓天宗は黙ってはおるまい」
「餓天法師らに文句は言えませんよ。あれらは人間ではなくからくりの一種と考えた方が良いでしょう。特定の条件を満たさない限り、餓天法師は無害な存在です。少なくとも、彼らが普段吹聴する教理と矛盾するようなことはしていないし、言ってもいない」
「その『したこと』と『言ったこと』が食い違っているのが問題だと思うが……確かに第七炎生礼賛経典義(テスタメントゥム・デュエリウム)には虚言を弄すなとは書かれていないな……ふむ」
「新たな秩序の導き手となるその英雄は、少なくともロムレス人であってはなりません。公王(ディクタトル)の誰かであってもなりません。現在虐げられている諸民族の下層階級出身者であることが望ましいでしょう。そして見た目の神々しさはどうしようもないにせよ、それ以外の点では皇帝陛下を上回っている必要が……少なくとも公にはそう信じさせる必要があります」
「陛下よりイニティウムを下賜され、八鱗覇濤で優勝し、餓天宗から承認されれば……少なくとも民衆に対しては十分な箔付けだな。あとは公王と高位諸侯らが認めるかが問題だが……」
「認めざるを得ません。公王のお歴々は、自らが臣民に好かれていないことを知っています。皇帝陛下によって承認されたからこそ自らの権威がありうるということを理解しているのです。ならば皇帝陛下ほどの絶対的権威は持たぬが、建前の上では同等の存在が帝位に就き、自らを承認する展開はむしろ望むべきもの。この事実を利用しない手はありません。まず臣民らを味方につけ、その圧力を背景に、異律者の脅威と理を説けば……混乱は最小限で済むと考えます。というか、済ませます。我が一命に替えても」
「ふん、いささか強引にすぎるが、なかなか面白い案ではないか。それで? 次代を担う英雄どのの人選はどうする?」
「英雄と言えばなんといっても霊燼どのですが……あの御方はどう見てもロムレス人ですね」
「くく、英雄ならば刃蘭・アイオリアもいたな」
「御戯れを。あのような怪物に〈帝国〉を任せるなど悪夢そのものです。……ふむ」
 ふいに、刈舞はこっちを見た。
 狼淵は、何か途轍もなく嫌な予感がした。
「狼淵どの。あなたちょっと人類の頂点に立ってみる気はありませんか?」
「あんたらがさっきから何を言っているのかさっぱりわからんっ!!」
「なるほど……農奴出身の少年が、苦闘の末に神の加護と皇帝の禅譲を受け、新たな時代への道標となる、か。使い古された題材だが、賤民どもには好まれような。見た目もまぁ、どうにか英雄的と言って差し支えなかろう」
「てめえ……俺を偶像にする気かよ」
「そうだが、何か? 貴様の人格や意志など問題ではない。人類を滅びの淵より救うためだ。貴様ごときの矜持など尊重されるはずがなかろうが」
「狼淵どの、カナニアス卿の仰りようは少々極端なれど、あなたとて〈帝国〉の現状に満足しているわけではないはずです。それを変えられるかもしれない。少なくともそれを成しうる権威が手に入るかもしれない。そう考えてみてはいかがでしょう」
「だが、そんな、できるわけねえだろ! 俺はただの農奴の子で、政治のことなんざわかんねえよ!」
「僕も……賛成だ」
 隣で維沙が言った。
「狼淵。あなたがてっぺんに立ってくれたら、きっと……世の中よくなると思う」
「お前……」
 つづく言葉は、出てこなかった。
「ま、英雄の人選についてはひとまず保留しておくとして、是が非でも下手人を特定し、補殺せねばなりません」
「ふむ。で? 目星はついておるのか?」
「まず大前提として、陛下のお命を奪ったのは、あの玉体を斜めに両断したる太刀傷です。毒など、別の手段で弑し奉ったのちに遺体を斬ったわけではありません」
「なぜそう言い切れる?」
「血痕ですよ。陛下の尊き血潮は、四阿の天井にまで付着しておりました。すでに血流の停止せし遺体を損壊したのなら、あそこまで派手に吹きあがることなどありえません。陛下は生きおられるところで、凄まじい斬撃を浴びて一閃のもとにお命を奪われたのです」
「なるほど」
「この事実が意味するところはただひとつ。下手人は人類最高峰の武人たる皇帝陛下の隙を完璧に突き、一撃のもとに玉体を両断してのけるだけの、途轍もない武錬の持ち主ということです。これだけでも容疑者はかなり絞られます」
「八鱗覇濤の参加者、か……」
「そして参加者十六名のうち、第一、第二典礼で亡くなった淆鵺・ホーデドリウスと寂紅・ウルクスは死亡推定時刻との兼ね合いで真っ先に除外されます」
「死亡推定時刻?」
「陛下のご遺体は、いまだに腐敗も死後硬直も始まってはおりません。つまり亡くなられたのは今から二時間以内ということです」
「あぁ、死ぬと硬くなるのだったな」
「また、至聖祭壇からここ〈滅びしものたちの夜〉に至るまでには一時間半程度はかかります。往復せねばならないので、三時間強ほどは至聖祭壇を離れていなくてはなりません。となると第三、第四典礼の参加者はすべて容疑から外れます」
 つまり罪燐・ルシリウス、螺導・ソーンドリス、夜翅・アウスフォレス、餓天使《罪業の惨禍》らも犯人ではない。
 結果、狼淵・ザラガと刃蘭・アイオリアが残る。
「さらに狼淵どのの無実は、私と維沙どのが証明できます。私ども三人は第二典礼以降ずっと行動を共にしておりました」
 維沙がこくこくとうなずく。
「つまり――下手人は、刃蘭・アイオリアと、これから典礼を行う面々を合わせた九名の中のいずれかであろうと考えられます」
 実際にはさらに絞れるな――と狼淵は思う。刈舞と維沙の無実は狼淵が証明できるし、あの殺され方はどう見ても異律者の仕業ではない。
「クク、最も怪しいのは、そこで号泣している霊燼と、この余であるということか」
 貴公子は、亀裂のような笑みを浮かべる。
「まぁ、今のところはそうなりますかね」
「余は自分が下手人でないことを知っているが、それを貴様に対して証明する手段はない。しかし、それは逆もしかりだ」
「逆?」
「余からすれば、貴様がそこの賤民どもと口裏を合わせて余を陥れようとしているようにしか思えんわ」
「なるほど。確かに私は自分が下手人でないことを知っていますが、それをカナニアス卿に対して証明する手段はありませんね」
「さて、仮に貴様が下手人であったとした場合、貴様は今しがたクドクドと述べた推理の中に重大な嘘を紛れ込ませている可能性もある。否定できるか?」
「仰る通りです。では……どうなさいますか?」
「ふふん。そう困った顔をするな。完璧な証明などと言い出したらきりがない。少々釘を刺しておきたかっただけだ。確かに貴様の推理はもっともらしい。ひとまずはその線で当たってみるより他になかろう」
「恐縮です」
「起源槍イニティウムの現宿主が犯人とすると、識別は容易ですらあるな。典礼の決着を見届ければ自ずと明らかになる。イニティウムは紅の拷問具なれば、死体より紅き奔流が流れ出でて勝者の肉体に入る現象が確認されれば、その敗者が下手人だ。とはいえ、下手人が典礼前に行方をくらませる可能性もあるので、あまり悠長なことは言っておれんが」
「いえ、その危険はほぼありません。八鱗覇濤は神聖なる祭礼です。一旦参加を表明した以上、逃亡は決して許されません。典礼の権威を穢した臆病者は、餓天法師に集団で狩り殺されます。無論、下手人がこの事情を理解していない恐れはあるので、私の派遣執行官たちを参加者全員につけておきましょう。……まぁ、地上への出入り口が開くのは二時間後なのですが」
「おい、そのことなんだがよ」
 狼淵はさっきから脳裏をよぎっていた考えを話す。
「さっき俺ら三人が通った出入り口は、中からは開かないのか?」
「いえ、厳密に一方通行を強いるような構造になっているわけではありません。ただ、秘匿性のため、そして陛下の私園たるこの聖域に胡乱なる者が侵入するのを防ぐため、大の男が数人がかりでなければ開かないようになっているのです。地上側から開けるのなら、梃が活用できますので三人程度で済みますが、地下側から開けるとなると、まぁ最低でも五人は必要になるでしょう」
 つまりこの地下庭園は必ずしも密室というわけではないらしい。五人以上の仲間がいれば、自由に庭園に入れるし、ことを成した後にいつでも出ていける。
「ふむ、地下庭園の出入り口は全部で八つ。それらひとつひとつを、八つの《幇会》が厳重に秘匿・管理しています。つまり下手人は《幇会》のいずれかと繋がりがあった可能性が極めて高い」
「……たとえば余のように、か?」
 貴公子が冷淡な笑みを浮かべている。
 刈舞はため息をつく。
「魔月(マガツ)・ディプロア・カザフィテス・カナニアス卿。あなたが獄中では《紫禮幇》の賓客として遇されていることはすでに調査済みですが、ご自分を下手人であるかのごとく言い立てて逆に疑いの目をかわそうなどと考えておられるのだとすれば、賢明とは言いかねますね」
「おやおや変に勘ぐるな。ただ貴様の捜査に協力するために事実を自己申告しただけではないか」
「おい、ちょっと待てよ」
 狼淵は、拳を握りしめた。
「刈舞。あんた今なんつった?」
「何、とは」
「このなまっちろい野郎の名前だ! 聞き違いかもしんねえから確認しとくが、魔月っつったか!?」
「いかにも。余は誇り高きカザフ公なれば、正体を秘するつもりは一切ない。『カナニアス家当主にして光都カザフに封ぜられし執政官たる魔月(魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアス)』とは余の誉むべき名なり」
 歯が、軋る。
 その名は、刃蘭・アイオリアと並んで、〈帝国〉全臣民の間に知れ渡っている。
 いや、成したことの悪逆さにかけては刃蘭すら比較にならぬ。間違いなく〈帝国〉史上に空前絶後の汚点として残るであろう、最悪の大逆。
「人類への、裏切り者……!」
「さようさよう。余は余の封土たるカザフを異律者どもに売り渡し、彼奴らの〈帝国〉侵攻の橋頭保を作ってやったとも。おぉ、余の行いのせいで無辜の臣民が山のように死んだのう!」
 からからと笑う魔月。
 かつてこの男は、辺境の都市カザフにて異律者の襲撃を幾度も撃退し、不敗の霊将として声望を集めていた。が、何をとち狂ったか突如として変節。
 異律者の軍勢に対して都市ぐるみで恭順の意を示し、人類の絶対敵を素通りさせ、〈帝国〉内部に招き入れたのだ。
 その結果起こった果てしない虐殺の猛威は、現在に至るまで鎮められていない。
「お前……お前が……!?」
「なぜそのような大逆を成したのか? 無論勿論、理由はあるとも。極めて合理的な判断の結果である。が、それが何だ? 余がここでくどくどと言い訳を並べ立てれば貴様は余を赦すのか? 何かやむにやまれぬ哀しき事情でもあれば、余の裏切りによってすべてを奪われ殺され犯され孕まされ内側から異律者の幼生どもに食い破られて狂死し〈魂〉も〈魄〉も穢し尽くされた百万の老若男女は納得するか? するわけがないわなァ……!」
 頭の中で、何かが切れた。
 反射的に、狼淵は左腕を魔月に向ける。
「――〈信頼〉の八鱗よッ! 無垢なる白を纏い、凝固せよッ!」
 閃光が、走り抜けた。
 潤みを帯びた光沢が、清冽に周囲の者たちの眼を射る。
 鏡面のごとく周囲の光景を反射する冷たい白刃が、狼淵の手に出現していた。鍔元から伸び、官能的なまでになよやかな曲線を描き、切っ先で集束する。
 それは言葉であった。神について語る言葉だ。古より権威と武威の象徴として、人々の胸に輝き続けてきた「剣」という虚構。その遥かな延長線上で、透き通った結晶の形をとり、内部で星を呼吸する、雄弁なる無言の賛歌。
 号して「追憶剣」。銘を「カリテス」。
 狼淵を選び、狼淵に八鱗覇濤の参加資格を与えた白の拷問具。
 その至高の刃が、魔月の鼻先に突き付けられていた。
「……良いぞ。実に良い。ここで余の罪を赦すような腑抜けのためにこれまで戦ってきたわけではないし、背いたわけでもない。余が憎いのならば構うことはない。殺せ。帝国臣民のすべてに余を誅殺する資格あり! もっとも、ただでは死なんがな……」
 悪鬼のごとき笑みを浮かべ、カリテスの切っ先を睨みつける魔月。
「あぁそうかい!」
 体重移動。踏み込み。裂帛。カリテスが狼淵の頭上で翻り、落雷のごとき一撃を叩き込む。
 すべての過程が滑らかに連結した、基本にして奥義の型。
 硬質の悲鳴。そして火花が散り、〈滅びしものたちの夜〉を一瞬照らす。
 魔月が腰の剣を抜き、受け止めたのだ。
 ――瞬間。
 全身を、瀑布が打ちのめした。
 狼淵にはそう感じられた。
 全身の肉の一片、血の一滴が、驚愕と畏れに打ち震える。
 流れ込んでくるものがある。
 それは記憶であった。それは怨念であった。それは嫌悪であった。それは矜持であった。
 魔月・ディプロア・カザフィテス・カナニアスの二十六年に及ぶ生涯のすべてが、この瞬間、狼淵の脳髄に叩き込まれた。
「……く、あ……ッ!」
 一歩二歩と下がり、頭を抱える。視界が歪み、脳が破裂しそうな感覚に陥る。
 ――さすがに、一撃で生涯のすべてを読み取るのは無理があったか……!
 追憶剣カリテスの御力。忘却剣オブリヴィオと対を成すそれ。
 荒い息をつきながら、ともかく得られた情報を今ここで咀嚼することを諦め、脳裏の隅にやった。
 魔月は、鋭く目を細めていた。
「刃ではなく平を打ち込むとは、殺す気があるとも思えんな。一体何のつもりか?」
「く……人殺しは、クソだ。生きている資格がない。俺はすでにクソだが、だからといってこれ以上クソになる気はねえ」
 ――刃蘭の野郎以外に関しては、な。
 皇帝と刃蘭以外の人間を殺す気はなかった。
 そして、皇帝はすでに死んだ。
 あとは寂紅の仇を討ち、彼女の〈魂〉を取り戻す。もうそれだけで良い。
 刈舞は皇帝の後釜になれなどと言うが、冗談ではなかった。
「おい、誇り高きカザフ公。あんたはその誇りに嘘はついてないのかよ」
「微塵の悔いなし。余は余を規定し、その法(のり)に忠実であったまで」
 事情は、わからない。だがこいつは、今はもう人類に仇なすつもりはなく、やりかたは強引にしろ償う方法を探しているようだった。
 ひとつ、息をつく。体から力を抜く。
「……けっ、何言っても無駄だなこりゃ。裁かれたいんなら俺以外のやつに頼めよ」
「腑抜けめ」
「殺したり殺されたりするくらいなら腑抜けでかまわねえよ」
 カリテスを仕舞う。魔月も剣を収めた。和解、というには殺伐としているが、ここで殺し合ったところで何の意味もない。
 瞬間、刈舞が音高く掌を打ち鳴らした。
「はい、というわけでですね、なにやら悶着もありましたが、ともかく外への出入り口が開くのは二時間後です。それまでに陛下の聖骸を洗い清めて、溶鋼葬の支度でも整えておきましょう」
「無礼者。現人神たる陛下の御葬儀がそのような一山いくらの貴族と変わらんような程度のもので済むはずがなかろう。余と、余の家臣五百名が殉死するとしよう。手配しておけ」
「は!? いや、それはなんと申しますか……」
 くいくいと袖が引っ張られた。維沙が隻眼でこっちを見ている。
「狼淵。じゅんしとは何だ?」
「臣下が皇帝と一緒に死ぬことで、皇帝の偉さみたいなものを演出すんだよ」
「……意味がわからない」
「そーだな。まったく同感だ」

 ●

 二時間後。
「だーはははははは! いやー面目ない面目ない! 陛下の崩御に動揺して醜態をさらしてしまったわい! みどもったらうっかりさん!」
「あぁ、おう……」
 地上への階段を上りながら、狼淵は半眼でその偉丈夫を見ていた。
 霊燼・ウヴァ・ガラク。
 酔いが覚めてもうるさい男だった。
「しかしそれも致し方なしと言えよう! みどもにとりあの御方は永遠の憧憬の対象なれば!! 初めて陛下の御前に罷り越したのは、そう、この坊主くらいちまっこかった頃だのぅ!!」
 維沙の頭をわしわしと撫でながら、霊燼はしみじみとうなずく。
「その頃も、いまと全く変わらず皇帝陛下は光輝に溢れんばかりであった!! こう、このようにみどもを抱き上げてな!!」
 維沙の両脇に手を差し込んで持ち上げる。維沙は困ったように眉を寄せていたが、霊燼は一向に気にしない。
「この子は良き〈魂魄〉を持っている。並ぶ者なき英雄となるであろう――と!! もったいなくもそのようなお言葉をかけていただいたのだ!! 泣いたわ!! 陛下のご期待にお応えすることこそわが生涯の指針!! そう思い定め精進してきたわけであるが――うぅっ」
 ぶわっ、と霊燼のつぶらな瞳から滝のような涙が溢れだす。
「どぼじでじんじゃっだんだよおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!」
 抱きつ――こうとして一瞬早く突き出された維沙の小さな手の平に阻まれた。
「僕、ぐらいってことは……二十年くらい前?」
「ぐすっ。そうだぞ!! みどもも坊主ぐらいの頃は赤毛の美少年で通っとったわ!!」
 それが今ではこの体たらくか。
「その時から、皇帝は今と同じ姿だった……?」
 維沙は首をかしげる。
「なんだ知らんのか? 〈不死なりし皇帝陛下〉という祝詞くらいは聞いたことがあろう。あれは比喩でも誇張でもないのだ。陛下は〈帝国〉成立以前の時代に突如として現世に降臨され、諸民族を次々と併合して人類を完全統一なされ、それ以来老いることも病に侵されることもなく、千五百年の悠久を過ごされてきたのだ。まさに陛下は〈帝国〉であり、〈帝国〉とは陛下のことである」
 維沙を肩に座らせ、霊燼はふと遠くを見つめる。
「しかし、〈帝国〉の化身は崩御なされた。陛下の加護を失った我ら定命の者は、これからどうなるのであろうな」
「……この世に神なんざいらねえ。この世は人のものだ。ようやく正常に戻ったんだよ」
 反射的に、狼淵は口走る。
 霊燼は一瞬目を丸くして狼淵を見つめ、それから苦笑した。
「強いな、おぬし」
 その言葉には、どういうわけか、友人と久方ぶりに再会したかのような、懐かしげな響きがあった。
「考えが甘いというのだ、農奴風情が」
 横から魔月が毒を吐く。
「これから貴様は思い知るであろう。皇帝陛下が人類にとってどれほど大いなる存在であったかをな。さあ、虐殺の嵐が吹き荒れるぞ。異律者の春が訪れるのだ。人類がこの苦境を乗り越えられるか否かは、これからの我々の動き如何にかかっている」
「さよう。ことは人類社会の存亡にかかわる問題です。もはや八鱗覇濤の優勝などという些事にこだわっている場合ではありません。各々方、私利私欲を捨て、軽挙妄動を慎んでいただくよう、重ねてお願い申し上げます」
「具体的にどうすんだよ?」
「我々が地上に出て成すべきことは三つ。ひとつ、陛下が崩御された事実を決して口外しないこと。ふたつ、陛下を弑し奉った下手人を特定し、捕縛すること。みっつ、狼淵どのをいかなる手段を用いてでも八鱗覇濤に優勝させ、陛下の名代としての地位を確立させること」
 さらっと既成事実にされている。
「おい! 俺はやるなんて一言も……」
「誰が貴様の意志など聞いた? 人類の存亡がかかっておるのだ。貴様の尊厳や幸福など踏みにじられて当然であろうが。身の程をわきまえよ」
「狼淵どの。我らに情けをかけると思ってどうかお引き受けください。あなたに見捨てられたら、人類の敗北と家畜化は不可避となります。どうか、なにとぞ」
「その言い方は卑怯だ!」
 大喝する。
「言っただろ。この世に神なんざいらねえ。この世は人間のものだ。見返りのないご利益を垂れてくれる神なんてものにすがってるから、いつまでたっても人は前に進めねえ。人の上にあるものを認めているから、人の下に人を置くことに違和感を抱かねえ。うんざりなんだよてめえらのその差別と秩序の混同っぷり!」
 拳を握りしめ、壁を殴りつける。
「俺はな! 皇帝を殺すつもりだったんだよ! 八鱗覇濤に優勝すれば皇帝から手渡しで帝国騎士章を貰えるって聞いたからな! その場でぶっ殺すつもりで参加したんだよ! へっ、どこの誰だか知らねえが、手間が省けたってもんだぜ! あんな存在、あんな地位、あんな制度があるからなにもかもおかしくなるんだ! 礼を言ってもいい気分だ! そんな俺が皇帝の後釜に座るだぁ? 笑えねえんだよ……!」
 歯を食いしばりながら、狼淵は刈舞、魔月、霊燼の三人を睨みつける。
 この三人。一致協力すれば一つの戦役を終わらせることすら容易いほどの絶大な知名度、発言力、行動力を持つ、等身大の巨人たち。
 だが――知るか。
 権威には反発する。支配の構造に組み込まれるなど考えただけで嫌な気分になる。
「狼淵」
 維沙の声。霊燼の肩から飛び降りると、こちらに歩み寄ってくる。
「あん?」
「今晩、あなたのねぐらに泊めてくれないか」
「……なんだって?」
「僕は家がないんだ。最期の一晩くらい、屋根のあるところで寝りたい」
「今言うことか! 部屋余ってるから好きにしろ!」
「ありがとう」
 その時、ごりごりと音を立てて、地上への出入り口が開き始めた。
 ひそやかな月の光が、五人のもとへと降り注いでくる。

 狼淵は維沙の手を引くと、憤然と大人たちの元から歩み去って行った。

 ●

 鳥の視点からアギュギテムを俯瞰すると、ひとつの巨大なすり鉢状の構造物であることがわかる。
 遥かな太古、宇宙蛇が八つの鱗を地上に落とした際、それぞれが世界の各所に激しく衝突し、周囲の地形を一変させたと言う。
 アギュギテムがあるのは、その中の一つ、紅の鱗が墜落してきた地点だ。もともとそこには極めて大規模な鉄鉱脈が広がっていたらしく、衝突時の想像を絶する熱と圧力によって組成に変化が起こり、まるで水面に水滴が落ちた瞬間を封じ込めたような奇怪な地形が残ったのだ。昼に日の光を吸収し、夜間に薄ぼんやりと光るさまは、見慣れぬうちは眩暈がしそうになる。
 外周部の高さは、人が築きうるいかなる建造物よりも天に近く、加速度的に険しくなってゆく傾斜によって脱獄を試みる者すべてを拒む。楔と縄を用いてゆっくり登攀しようとする者もいたが、異様につるつるとした硬い材質ゆえに人の力では楔を打ち込むこと自体が不可能に近く、しかもアギュギテムのどこからでもその様子が丸見えなので、即座に餓天法師が飛んできて引き戻される。
 刃蘭・アイオリアがどうやって脱獄を成功させたのかは、今もって謎のままだ。
 狼淵の家は、椀の底の水たまりのような円形都市の南西部、《黒肋幇》の支配領域にあった。
 黒い切妻屋根と白く塗られた漆壁の木造二階建ての一軒家(ドムス)。アギュギテムの基準では、豪邸の範疇に入る。
「……狼淵。浴場(テルマエ)を使わせてくれたのはうれしいが、この服は僕には大きすぎる」
 ほかほかと湯気を立てる維沙は、とりあえず狼淵の短衣を身に着けていたが、体格が違いすぎた。襟首が斜めにずり落ちている。
「我慢しろ。それしかねえ」
「僕の服はどこに?」
「明日洗濯するよ。明後日にゃ返す」
「こんなぶかぶかでは明日の典礼で不利になる。それにあの服には大事なものが入っているんだ」
「……しゃーねーな」
 籠の中に適当に放り込んでいた維沙の服(というか襤褸切れ)を掴んで差し出す。
「すまない。ありがとう」
 受け取った維沙は、内側のかくしから何かを取り出した。
 鼠色の頭髪を結わえてまとめたものだった。
「……それは?」
「維來(イクル)の……妹の、遺髪だ」
「そう、なのか」
「外界の、父さんと母さんに、この子の死を、伝えないと。維來のことは、かわいがってたから……せめて、届けてあげないと。この子も、ずっと帰りたがっていたと思うから、故郷の土に葬ってあげたい」
 維沙が八鱗覇濤に参加した理由……か。優勝すれば、外に出られる。外に出れば、両親に会える。
 しかし、妙だ。両親はシャバにいるのに、子供だけが投獄された……?
 どういう状況だ? こいつは、何をした?
「貨幣偽造幇助」
「え?」
「それが、僕の罪状だ」
 貨幣は社会の礎である。この信用を貶める行いは、すなわち〈帝国〉への害意ありと見なされ、殺人を上回る厳罰をもって処される。
「だが、ガキだけでできるような犯罪じゃないだろ。何があったんだ」
「それは……」
 一瞬、言葉をつづけようとして――維沙は胸に生じた苦悶に耐えるように、うつむいた。
「……悪い。無神経なことを聞いた」
「いや。いいんだ。僕はたぶん明日死ぬ。明日生き残っても明後日確実に死ぬ。だから、聞いてくれ。大事なことだ。今言わなかったら、きっともう言う機会はないんだ。僕の生きる理由と意味……誰かに伝えておきたい。それぐらいの甘えは、自分に許してあげたい」
「……っ」
 維沙は深呼吸したあと、勤めて冷静に語り始めた。
「僕と、妹は……農奴の家に生まれた。暮らしは貧しかったけど、異律者の襲撃もない地方だったし、領主もそんなに悪い人じゃなかったから、まぁ、少なくとも妹の方はそこそこ幸せだった、気がする。でも、五歳くらいの頃だったかな……僕らが寝台でウトウトしていると、いきなり口に布を押し込まれてね。驚いて目を開けると、知らない人たちが何人か部屋に入ってきて、こわい目でこちらを睨んでいた。僕と妹は、そのまま声を上げることもできずにどこかへさらわれた」
「お前、それは……」
 十中八九、両親はその場で殺されている。家の中にまで押し入って狼藉を働くような連中が、後の禍根になる要素を排除しないはずがない。両親に妹の死を伝えるなんて、もう無理なのだ。
 だが、狼淵は黙った。こいつは、それでも歯を食いしばって必死に生きようとしている。それなのに、生きる理由を奪うようなことは、したくなかった。
「そこから、どこか知らない遠いところに連れて行かれてね。僕らと同じようにさらわれた子供たちがたくさんいて、それぞれ働かされていたよ。妹は両親に会いたいと泣きつづけていたけれど、何度も殴られるうちに涙も出なくなっていってね。何も言わずに働くよう躾けられていったな。僕たちの担当は、銅を型に流し込んで贋金を作る仕事だった」
「それから……どうなった」
「溶けた銅を一日中見つめていないといけないから、みんなあっという間に目を悪くしてね。見えなくなった子からどんどん入れ替わっていった。僕は片目を閉じて仕事をしたからまぁなんとかなったけど、妹はダメだった。目玉が白く濁って、まるで焼かれた魚の目みたいだった。だから連れて行かれて、それから、それから……」
 維沙は、妹の遺髪を握りしめ、身を震わせた。
 もうそれだけで、維來・ライビシュナッハがどのような末路を辿ったのか、想像できた。
 現世の穢れに染まり切っていない幼児を、乾燥させて粉末状にすり潰した物体は、万病に効く霊薬の材料となる。そんな胸糞悪くなる民間信仰を、狼淵は知っていた。食い詰めた錬金術師たちの流した嘘っぱちだが、迷信深い上に口減らしの必要に迫られがちな農奴階級の間では一定の需要があった。
「あの時点で、泣いたり笑ったりする心は壊れていたから、きっとあの子は、怖がったり苦しんだりせずに済んだはずだ。それは、ともかく、救いだ。それだけは、良かった」
「お前は、そんな……」
 自分でも信じていない慰めを呟いて、逆に自分を傷つけて。
 そうでもしないと、生きている自分を許せないのか。
「それからほどなくして帝国法務院(プラエトリウム)の強制捜査があった。悪い人たちはみんなアギュギテム送りになって、他の子たちは保護されたけど、それを指揮していた司法剣死官は刈舞さんほど甘い人じゃなかったから、贋金づくりに関わっていた上に変異者である僕だけは許してもらえなかった。まとめてアギュギテム送りになって――現在に至る」
 一息つくと、維沙は口元を皮肉げに歪めた。
「……聞いてくれてありがとう。話は終わりだ。僕はあなたの同情を買いたいだけなんだから、そんなに深刻に取り合わなくていいんだよ」
「家族の死を、そんな風に言うんじゃねえ。苦しいなら苦しいって言え、バカ」
 維沙は一瞬、隻眼を丸くして、それから困ったように苦笑いした。すぐに目は伏せられる。まるで眩しくて見ていられぬというように。
「そうだね。ほんと、その通りだ……」
 いたたまれぬ沈黙が、降り積もった。
 やがて、維沙は顔を上げると、居住まいを正してこちらを向いた。
「狼淵。刈舞さんの話、本当に乗る気はないのか?」
「おいおい、その話はもう終わったろ」
「寂紅・ウルクスの死にざまに、何も感じなかったわけではないだろう」
「それとこれとは、話が別だろうが……」
 言葉は、尻すぼみになってゆく。
「狼淵。あなたは他人の痛みがわかる人だ。『気になる女の子を喪った可哀そうな自分』ではなく、寂紅・ウルクス本人のために泣いてあげられる人だ。だから、きっと、大丈夫。狼淵なら、できる」
 狼淵は、やはり言い返せない。ほんのガキだと思った次の瞬間には、妙に老成したようなことを言う。掴めない奴だ。
「それに……僕は刈舞さんの話を聞いたとき、生まれてはじめて、少し、わくわくした。新しい時代。今よりもう少しマシな社会。維來・ライビシュナッハや寂紅・ウルクスみたいな女の子たちが、ちゃんと生きて幸せな恋ができる世界。そんなものが本当にあるのなら……それを実現させる手助けがもしできたとしたら……」
 大きく開かれた隻眼が、優しくこちらを見つめている。
 しかし瞳の奥底には、もはやいかなる手だてをもってしても癒しえぬ、底なしの虚無と絶望があった。
「きっと僕は、新たな時代を見届けられないだろうけれども……でも、だから、その……こんな命でも、生まれてきた意味はあったって、最期の瞬間に、そう自分を騙せるかもしれないんだ」
「お前……」
「ごめん。きっとこれは、自分の願望をあなたに投影しているだけなんだ。だけど、僕にはこれしかできないから……あなたに託すことしか、もうできないから……あなたのように生きられたらって、何度も思ったけど、それはやっぱり無理だから……その……」
 ――なんだよ、それ。
 なんでそんな、もうすぐ死ぬみたいな顔をしているんだよ。なにやら、八鱗覇濤で対戦相手に殺される以外の、もっと根本的なところで自らの死を受け入れてしまったような、穏やかだが正視に堪えない顔だった。
 否応もなく、思い出す。
 死ぬ間際、寂紅はこちらを見て、ふわりと微笑んだ。
 その顔に、惨いほどよく似ていた。
「狼淵。あなたがなるのは、神じゃないんだ。どんな地位がついたって、あなたはあなただ。人のままで、人を照らしてほしいんだ。僕は、そのためならなんだってできる。初めてわかったんだ。誰かのために生きるってことは、こんなにも誇らしいと……」
「俺は」
 狼淵はぎゅっと眼を閉じて首を振った。
「俺は、人を殺した。[人を殺したんだよ]」
 かつて、人は誰でも幸福になれると疑いもせずに信じていたころの記憶。
 それを強引に意識から締め出すと、維沙を見た。
「俺の何に希望を見出しているのかわからねえが、俺は人殺しがでかいツラをするような世の中なんざクソ喰らえと思っている」
 維沙の顔が歪み、うつむきかける。
「それは、俺に残された最後の誇りだから。ほんと、クソみてえな人生だったが、せめて自分の罪ぐらい、ちゃんと受け止めて、残る一生のすべてを罪悪感で塗りつぶし、あらゆる幸福を遠ざけ続けたかったから。でなきゃ、あんまり、自分が惨めだから」
 狼淵は両の拳を血も滲まんばかりに握りしめると、立ち上がって維沙のそばへと歩いて行った。
「だから!」
 あまりにか細く、骨ばった肩を掴む。
「俺の、最後の誇りすら曲げさせようって言うんなら!」
 前後に揺する。
「お前も付き合えよ! 最後まで! 責任もって! なに自分だけ澄まし顔で死を受け入れてんだよ! ふざけてんじゃねえぞてめえ! 許さねえからな! 俺が皇帝だか大王だか人類大明神だかになったら、おめーも隣にいるんだよ! 手伝えよ! なんか、わかんねえけど副官みたいなのになれよ!!」
「狼淵……痛い……」
「……わり」
 知らず、力を込めて握りしめていた肩を離した。
 維沙はゆっくりと両手を伸ばし、狼淵に掴まれていた場所を自ら抱いた。
 痛みと、温もりを確かめるように。
「本当に、そう思っている? 本当に、僕が必要?」
「たりめえだろ、維沙。おめーは年の割にはしっかりしてるし、人を見抜く眼力だってすげえもんじゃねえか。十年もすりゃえらい大物になるぜ」
 隻眼が、じっとこちらを見つめている。
「だ、だからよ、やろうぜ、一緒に。あとはあのおっさんども……刈舞と霊燼もきっと手を貸してくれるさ。魔月の野郎だって、まぁ性根は腐ってやがるが、とりあえず話は通じるんだ。せいぜい利用してやろうぜ。それから……」
 くす、と維沙は小さく笑った。
「うぉーい、笑うこたねえだろ」
「いや、ごめん。でも最初は僕がやろうって言ってたのに、なんだか立場が逆になってるから……」
 そういえばそうだった。頭をかく。
「……誓おう」
「あん?」
「僕の気持ちは決まっている。狼淵、あなたの国作りを手伝うよ。生まれてはじめて、人から必要とされたから。その人のために、命を懸けるよ」
 生真面目にこちらを見つめてくる。
 思わず苦笑が漏れた。
「また思いつめたなオイ。それじゃあ神(ヘビ)……はやめとくか。俺たちの誇りにかけて誓おうぜ」
 狼淵は右手を握りしめ、手の甲を維沙に押し出した。
 維沙はおずおずとそれに応え、同じように手の甲を出した。
 二人の拳骨が触れ合う。
「俺、狼淵・ザラガは維沙・ライビシュナッハを生涯の朋友とし、富も栄光も挫折も苦難もすべて共に分かち合うことを誓う!」
「僕、維沙・ライビシュナッハは狼淵・ザラガを生涯の朋友とし、富も栄光も挫折も苦難もすべて共に分かち合うことを誓う」
 拳を開き、互いに手を握り合う。
 永遠の一瞬が、二人の胸を吹き抜けた。
 灯籠の炎が揺れ、霊感を帯びた高揚が二人の瞳を輝かせる。
 ――忘れない。
 この時を。この眼を。この手の硬さと温もりを。この希望と、不安と、勇気を。
 ――俺は、決して、忘れない。

 いったい、この世でどれほどの絆が生まれ、どれほどの誓いが交わされたことだろう。
 そして、その中のどれほどが、当人の死の瞬間まで果たされ続けたことだろう。
 かつて天啓のごとく胸を燃え上がらせた誓いが、現実の悲惨と絶望の前にどれだけ屈し、どれだけ穢されてきたことだろう。
 だが、しかし。
 この瞬間、世界の中心は、間違いなく狼淵・ザラガと維沙・ライビシュナッハの間にあった。
 まるで呪いのように、宿命のように。
 確かにここにあったのだ。
 そして――誓いは完璧に果たされる。
 二人は生涯にわたってこの絆を胸に戴き続けることになるのだから。決して、忘れることはなかったのだから。
 今はまだ、誰もそのことは知らないけれども。
 のちに世界の様相を一変させる、歴史的な一瞬が、この時まさに過ぎ去ろうとしていたのだ。

「さて、と……」
 どちらからともなく、二人は手を離した。
 夢が覚めるように、時間の流れが元に戻る。
「んじゃまぁ手始めに、刈舞のおっさんに頭下げるかね。気が進まねえけど」
「……うん、そうだね」
「その必要はありません!!」
 派手な音を立てて、扉が開け放たれた。
 月明かりとともに、黒金の執行服を纏った長身の人物が入ってきた。
 単眼鏡(モノクル)を煌めかせ、その男はにんまりとした。
「言質は取りましたよ狼淵どの。いやぁ、ありがとうございます。見事な英断です!」
「て、てめえ、張ってたな! 張り込んでやがったな!!」
「それでは早速詰めた話をいたしましょう。維沙どの、あなたもこちらに」
「聞けよ人の話!」

 そして、夜は更けていった。

後書き


作者:バール
投稿日:2016/06/27 20:36
更新日:2016/06/27 20:36
『鏖都アギュギテムの紅昏』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。

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作品ID:1746
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