作品ID:2348
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『鉄鎖のメデューサ』
小説の属性:一般小説 / 異世界ファンタジー / お気軽感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし / 完結
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第40章
前の話 | 目次 |
「そうか、ロビンには気づかれていたのか……」
焚き火を囲んでの歓待が一区切りしたところで座を離れ赴いた建物の陰で、ラルダが応えた。その沈痛な声に、ロビンは言葉を続けられなくなった。
少年にとって果てしなく思えた時を経て、ようやく口を開いた黒髪の尼僧の声は、もはや呻きにも似たものだった。
「私たちはなんとかセイレーンを助け出すことができた。幻惑の魔力の秘密を暴き、それをもとに戦に応用できる大規模な術式を編み出そうとする魔術師に捕らわれていたんだ。ゲオルクの助けがなければ救出は到底おぼつかなかった。
いよいよ翼の癒えた妖鳥を放すことになったとき、セイレーンが私にいったんだ。おまえは誰かを苦しめたことがあると思っているはず。自分には、その相手かもしれぬ者の思いが微かに感じ取れる。おそらくその者は自分の同族を身近に置いていると」
「どういうこと? それは」
「人魚と同じくセイレーンも精神の領域に働きかける力を持っている。違うのは人魚の力は相手に作用する力が大きく発達しているが、セイレーンの力はむしろ感受する力、感応する力に秀でている点だ。そして同族同士の力が感応しあうとき、その範囲は優に世界を覆うほどのものになるという。
だが、そのセイレーンは告げた。その者はどうやらこの世界の者ではなさそうだと」
「……それはなぜ?」
「同族の力を介した場合、この世界の者であればその者の存在の形を感じ取れるが、それが全く見えないというんだ。男か女か、若い者か老いた者かさえわからない。あまりにも微かに、なのに深く強い思いが私に向けられているのだけが感じられるのだと。しかも、それは……」
ラルダの言葉が途切れ、その顔が俯いた。
「明らかにその者は苦しみのさなかにあるという。ならばと私は思ったんだ。その強い思いは私への恨み、憎しみに違いないと。けれど、あのセイレーンはおそらくそうではないといったんだ。そういう負の感情は感じられない。はっきりしているのは、その思いがそれほど魂の深いところから出たものでなければ、そして同族がそばにいるのでなければ、その思いを自分が感じることはできなかったはずだということだと。同じ世界にいるのならば、こんなことは考えられないと」
ラルダが顔を上げた。その緑の目に光る涙にロビンは胸を突かれた。
「なぜ、そんなことになるんだ? 私はいったいなにをした? しかもその者が今も苦しみのさなかにあるというのに、会うことさえもできないのか? ならば、私には永遠に罪を償うことなどできるはずが……っ」
叫びとなるはずの声が抑えつけられ、苦しげによじれていた。その痛切さに、少年の目からも涙がこぼれた。
だが、ロビンはかつてのロビンではなかった。この二年の間に体験したことが、以前ならいえなかった言葉を紡いだ。
「……あれから僕はスラムで薬を作ってる。たくさんの人に遠くから薬草を届けてもらって、それで薬を調合している。それで助けられた人ももちろんいた。
けれど、だめだった人もいた。そんなとき、やはり無力だって思ってしまう。でも、そんなに一人の力で何でもできるわけじゃない。薬一つ作るのだって、皆に助けてもらってやっと作れるんだし……」
かつてハンスに語りかけたときのような不安のただ中にありながらも、ロビンは自分の体験から確かだと感じたことを頼りに、懸命に話しかけた。それでもその耳には、その語り口はかつてと変わらぬたどたどしいものとしか聞こえなかった。だから少年は気づけなかった。そんな己の言葉にも、体験ゆえの重みは確かに宿っていることに。
「クルルだって皆の力で森に帰れたんだ。誰かが一人欠けていたら、帰れなかったと思うんだ。セイレーンだってゲオルクさんがいたから助けられたんでしょう? セシリアだって。だったら、自分の力で、自分だけでって思いつめなくていいと思う……」
相手がまた俯いた。いっそう不安にかられたロビンは、必死でぎこちない言葉を続けた。
「たとえその人に手が届かなかったとしても、直接その人に償うことができなくても、その人のそばには誰かがいて、その苦しみをやわらげているかもしれない。他の人に救われることのほうがきっと多いと僕は思うから、あなたがこの世界で誰かを助けるのだってやっぱり償いだと思う。絶対に無駄なんかじゃないんだ。それに……」
自分の思いを見失うまいとの一心で、少年は続けた。
「その人の思いがそうして届いたのなら、あなたの思いもいつかきっと届く。だから、」
突然、腕を掴まれ引き寄せられた。気がつくと、膝を落としたラルダがすがりついていた。肩に埋められた顔から、くぐもった涙声が聞こえた。
「すまない。でも、少しだけ。少しでいい、から……っ」
まだ自分より背も高く、常に硬質なものに覆われているような黒髪の尼僧の内なる魂の震えをじかに感じながら、ロビンはただ立ちつくしていた。
「……子供でないといえたもんじゃないセリフだな」
建物の角を折れたところで呟くホワイトクリフ卿の憮然とした顔に、ゲオルクがじろりと視線を向けた。
「あれはロビンだからさ。小僧なら誰でもというもんじゃない。十年前の自分がどんなだったか、まあ思い出してみるんだな」
「み、見てきたふうな口を! どこまで私を愚弄するかっ!」
「声が大きいですじゃ。ロッドの若」
老執事グレゴリーの口調をまね、ごま塩頭の曲者は笑った。
誰に請われたものか、いつしかセシリアの笛の音が穏やかに、深まるしじまに寄り添うかのような風情で流れていた。
----------
空の高みへと登りゆく太陽に照らされて、澄んだ流れが涼しげなせせらぎの音をたてつつ色鮮やかな水草を洗っていた。樹々に覆われた山裾から流れ出た小川が、わずかに傾斜した平原をゆるやかにうねりながら、はるか彼方に消えてゆくのが一望された。きらめく流れの上に腕のような枝を伸ばすしなやかな若木の根元を、黒髪の尼僧は指し示した。
「人魚はそこに眠っている。川の流れゆく先がいちばん遠くまで望める場所だったから。ああ、その水草! あの人魚の髪の色とそっくりだ」
ロビンはあたりを見回した。蒼穹に輝く太陽の下、ゆるやかにうねる草原も豊かな樹々の連なる森もたとえようもなく美しく、その豊かな緑の色彩を白銀のようにきらめく川が縫っていた。
これほど美しい世界の中、けれど人魚は命を落とした。海からこんなに引き離されて。ロビンはそれが悲しかった。「あるべき場所で、あるべき姿で」とラルダに告げた神の声の谺を聞く思いだった。その意味が深く胸に迫り、ロビンは自ずと頭を垂れた。誰もが同じだった。
一同が黙祷を捧げたあと、里の若者たちはここに建てる墓標についての相談を始めた。ハンスがロビンのそばにやってきた。
「ここから行くなら小川に沿ってしばらく下るのが、あの岩への近道だ。行こう、クルルが待っている。やっこさんもよほど待ち遠しいらしい。もうここ数日、昼どきになるとあいつは岩の上にいるんだ」
思わず目をうるませたロビンを見たハンスが、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「会ったらきっと驚くぞ」
----------
遠い海の方角へ大きく曲がる小川と別れて草原を渡った一行の目に、あの大岩がついに見えてきた。ちょうど天頂に登りつめた太陽から降りそそぐ光を浴びて、岩の上にうずくまるものの姿がつややかな緑のきらめきを放った。草原ではゆっくりとしか進めない馬車がもどかしく、ロビンは跳び降りると岩にむかって駆け出した!
「クルルーっ!」
ロビンが叫ぶときらめく姿が立ち上がり、細身のすらりとしたシルエットが青空を切り取った。
「え?」
ロビンの足が止まった瞬間、それが岩の頂から跳躍した。一直線に駆けてくる姿が視界の中でみるみる大きくなるのを、少年はあっけにとられて見ていた。ついに目の前へやってきた相手を、彼は呆然と見上げた。
もう小柄とはいえなかった。ラルダやメアリと背丈はほとんど違わなかった。緑と赤の鱗もかつてなかった色艶で、人とはまた異なる均整美を備えた姿を鮮やかに包んでいた。
けれど外せなかった金属製の首輪からは、いくらか錆びた鎖の切れ端が胸元の真っ白な毛に垂れていた。そして色鮮やかな妖魔は、見覚えのある仕草で首を傾げてまばたきした。舌足らずな、あの懐かしい声が呼びかけた。
「ろびん……」
そして小さな三本指の両手に持つ赤くて丸いものを、クルルはロビンに差し出した。
河舟で売っていたものとは全然違った。大きく、信じられないほど香り豊かだった。出会ったあの日に自分が差し出したのとはまるっきり別物だったけれど、それでもそれは林檎だった。
その見事な果物のイメージが背の伸びた妖魔の姿と重なった。あるべき場所で生きるということの意味が、海に戻れずに死んだ人魚の運命に感じたばかりのものを背景に浮かびあがった。目がうるみ、クルルの姿と大きな林檎がにじんで溶けあった。ぐいと涙を袖で拭い、ロビンは林檎を一口かじった。このうえなく豊潤な果汁が口を満たすと、本当によかったという気持ちも胸一杯に広がった。
背後で歓声が上がった。見ると人々の囲みの中で、セシリアがノースグリーン卿にすがりながらも立ち上がっていた。父親は高すぎる背をかがめて娘を支えながら、顔をくしゃくしゃにしていた。思わず足を踏み出しかけたロビンに、いつの間にか隣にいたラルダが声をかけた。
「待ってあげて。ここまで来ようとしているんだから」
常よりも柔らかいその声を耳にしたとたん、ロビンはまた胸が一杯になった。それはもう、言葉になりようのない思いだった。だから少年は全ての思いと願いを込めて、幸せの味がする大きな果実を黒髪の尼僧に差し出した。
終
焚き火を囲んでの歓待が一区切りしたところで座を離れ赴いた建物の陰で、ラルダが応えた。その沈痛な声に、ロビンは言葉を続けられなくなった。
少年にとって果てしなく思えた時を経て、ようやく口を開いた黒髪の尼僧の声は、もはや呻きにも似たものだった。
「私たちはなんとかセイレーンを助け出すことができた。幻惑の魔力の秘密を暴き、それをもとに戦に応用できる大規模な術式を編み出そうとする魔術師に捕らわれていたんだ。ゲオルクの助けがなければ救出は到底おぼつかなかった。
いよいよ翼の癒えた妖鳥を放すことになったとき、セイレーンが私にいったんだ。おまえは誰かを苦しめたことがあると思っているはず。自分には、その相手かもしれぬ者の思いが微かに感じ取れる。おそらくその者は自分の同族を身近に置いていると」
「どういうこと? それは」
「人魚と同じくセイレーンも精神の領域に働きかける力を持っている。違うのは人魚の力は相手に作用する力が大きく発達しているが、セイレーンの力はむしろ感受する力、感応する力に秀でている点だ。そして同族同士の力が感応しあうとき、その範囲は優に世界を覆うほどのものになるという。
だが、そのセイレーンは告げた。その者はどうやらこの世界の者ではなさそうだと」
「……それはなぜ?」
「同族の力を介した場合、この世界の者であればその者の存在の形を感じ取れるが、それが全く見えないというんだ。男か女か、若い者か老いた者かさえわからない。あまりにも微かに、なのに深く強い思いが私に向けられているのだけが感じられるのだと。しかも、それは……」
ラルダの言葉が途切れ、その顔が俯いた。
「明らかにその者は苦しみのさなかにあるという。ならばと私は思ったんだ。その強い思いは私への恨み、憎しみに違いないと。けれど、あのセイレーンはおそらくそうではないといったんだ。そういう負の感情は感じられない。はっきりしているのは、その思いがそれほど魂の深いところから出たものでなければ、そして同族がそばにいるのでなければ、その思いを自分が感じることはできなかったはずだということだと。同じ世界にいるのならば、こんなことは考えられないと」
ラルダが顔を上げた。その緑の目に光る涙にロビンは胸を突かれた。
「なぜ、そんなことになるんだ? 私はいったいなにをした? しかもその者が今も苦しみのさなかにあるというのに、会うことさえもできないのか? ならば、私には永遠に罪を償うことなどできるはずが……っ」
叫びとなるはずの声が抑えつけられ、苦しげによじれていた。その痛切さに、少年の目からも涙がこぼれた。
だが、ロビンはかつてのロビンではなかった。この二年の間に体験したことが、以前ならいえなかった言葉を紡いだ。
「……あれから僕はスラムで薬を作ってる。たくさんの人に遠くから薬草を届けてもらって、それで薬を調合している。それで助けられた人ももちろんいた。
けれど、だめだった人もいた。そんなとき、やはり無力だって思ってしまう。でも、そんなに一人の力で何でもできるわけじゃない。薬一つ作るのだって、皆に助けてもらってやっと作れるんだし……」
かつてハンスに語りかけたときのような不安のただ中にありながらも、ロビンは自分の体験から確かだと感じたことを頼りに、懸命に話しかけた。それでもその耳には、その語り口はかつてと変わらぬたどたどしいものとしか聞こえなかった。だから少年は気づけなかった。そんな己の言葉にも、体験ゆえの重みは確かに宿っていることに。
「クルルだって皆の力で森に帰れたんだ。誰かが一人欠けていたら、帰れなかったと思うんだ。セイレーンだってゲオルクさんがいたから助けられたんでしょう? セシリアだって。だったら、自分の力で、自分だけでって思いつめなくていいと思う……」
相手がまた俯いた。いっそう不安にかられたロビンは、必死でぎこちない言葉を続けた。
「たとえその人に手が届かなかったとしても、直接その人に償うことができなくても、その人のそばには誰かがいて、その苦しみをやわらげているかもしれない。他の人に救われることのほうがきっと多いと僕は思うから、あなたがこの世界で誰かを助けるのだってやっぱり償いだと思う。絶対に無駄なんかじゃないんだ。それに……」
自分の思いを見失うまいとの一心で、少年は続けた。
「その人の思いがそうして届いたのなら、あなたの思いもいつかきっと届く。だから、」
突然、腕を掴まれ引き寄せられた。気がつくと、膝を落としたラルダがすがりついていた。肩に埋められた顔から、くぐもった涙声が聞こえた。
「すまない。でも、少しだけ。少しでいい、から……っ」
まだ自分より背も高く、常に硬質なものに覆われているような黒髪の尼僧の内なる魂の震えをじかに感じながら、ロビンはただ立ちつくしていた。
「……子供でないといえたもんじゃないセリフだな」
建物の角を折れたところで呟くホワイトクリフ卿の憮然とした顔に、ゲオルクがじろりと視線を向けた。
「あれはロビンだからさ。小僧なら誰でもというもんじゃない。十年前の自分がどんなだったか、まあ思い出してみるんだな」
「み、見てきたふうな口を! どこまで私を愚弄するかっ!」
「声が大きいですじゃ。ロッドの若」
老執事グレゴリーの口調をまね、ごま塩頭の曲者は笑った。
誰に請われたものか、いつしかセシリアの笛の音が穏やかに、深まるしじまに寄り添うかのような風情で流れていた。
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空の高みへと登りゆく太陽に照らされて、澄んだ流れが涼しげなせせらぎの音をたてつつ色鮮やかな水草を洗っていた。樹々に覆われた山裾から流れ出た小川が、わずかに傾斜した平原をゆるやかにうねりながら、はるか彼方に消えてゆくのが一望された。きらめく流れの上に腕のような枝を伸ばすしなやかな若木の根元を、黒髪の尼僧は指し示した。
「人魚はそこに眠っている。川の流れゆく先がいちばん遠くまで望める場所だったから。ああ、その水草! あの人魚の髪の色とそっくりだ」
ロビンはあたりを見回した。蒼穹に輝く太陽の下、ゆるやかにうねる草原も豊かな樹々の連なる森もたとえようもなく美しく、その豊かな緑の色彩を白銀のようにきらめく川が縫っていた。
これほど美しい世界の中、けれど人魚は命を落とした。海からこんなに引き離されて。ロビンはそれが悲しかった。「あるべき場所で、あるべき姿で」とラルダに告げた神の声の谺を聞く思いだった。その意味が深く胸に迫り、ロビンは自ずと頭を垂れた。誰もが同じだった。
一同が黙祷を捧げたあと、里の若者たちはここに建てる墓標についての相談を始めた。ハンスがロビンのそばにやってきた。
「ここから行くなら小川に沿ってしばらく下るのが、あの岩への近道だ。行こう、クルルが待っている。やっこさんもよほど待ち遠しいらしい。もうここ数日、昼どきになるとあいつは岩の上にいるんだ」
思わず目をうるませたロビンを見たハンスが、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「会ったらきっと驚くぞ」
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遠い海の方角へ大きく曲がる小川と別れて草原を渡った一行の目に、あの大岩がついに見えてきた。ちょうど天頂に登りつめた太陽から降りそそぐ光を浴びて、岩の上にうずくまるものの姿がつややかな緑のきらめきを放った。草原ではゆっくりとしか進めない馬車がもどかしく、ロビンは跳び降りると岩にむかって駆け出した!
「クルルーっ!」
ロビンが叫ぶときらめく姿が立ち上がり、細身のすらりとしたシルエットが青空を切り取った。
「え?」
ロビンの足が止まった瞬間、それが岩の頂から跳躍した。一直線に駆けてくる姿が視界の中でみるみる大きくなるのを、少年はあっけにとられて見ていた。ついに目の前へやってきた相手を、彼は呆然と見上げた。
もう小柄とはいえなかった。ラルダやメアリと背丈はほとんど違わなかった。緑と赤の鱗もかつてなかった色艶で、人とはまた異なる均整美を備えた姿を鮮やかに包んでいた。
けれど外せなかった金属製の首輪からは、いくらか錆びた鎖の切れ端が胸元の真っ白な毛に垂れていた。そして色鮮やかな妖魔は、見覚えのある仕草で首を傾げてまばたきした。舌足らずな、あの懐かしい声が呼びかけた。
「ろびん……」
そして小さな三本指の両手に持つ赤くて丸いものを、クルルはロビンに差し出した。
河舟で売っていたものとは全然違った。大きく、信じられないほど香り豊かだった。出会ったあの日に自分が差し出したのとはまるっきり別物だったけれど、それでもそれは林檎だった。
その見事な果物のイメージが背の伸びた妖魔の姿と重なった。あるべき場所で生きるということの意味が、海に戻れずに死んだ人魚の運命に感じたばかりのものを背景に浮かびあがった。目がうるみ、クルルの姿と大きな林檎がにじんで溶けあった。ぐいと涙を袖で拭い、ロビンは林檎を一口かじった。このうえなく豊潤な果汁が口を満たすと、本当によかったという気持ちも胸一杯に広がった。
背後で歓声が上がった。見ると人々の囲みの中で、セシリアがノースグリーン卿にすがりながらも立ち上がっていた。父親は高すぎる背をかがめて娘を支えながら、顔をくしゃくしゃにしていた。思わず足を踏み出しかけたロビンに、いつの間にか隣にいたラルダが声をかけた。
「待ってあげて。ここまで来ようとしているんだから」
常よりも柔らかいその声を耳にしたとたん、ロビンはまた胸が一杯になった。それはもう、言葉になりようのない思いだった。だから少年は全ての思いと願いを込めて、幸せの味がする大きな果実を黒髪の尼僧に差し出した。
終
後書き
未設定
作者:ふしじろ もひと |
投稿日:2021/11/28 02:06 更新日:2022/07/02 20:29 『『鉄鎖のメデューサ』』の著作権は、すべて作者 ふしじろ もひと様に属します。 |
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