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作品ID:889
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a10 ワーディルト 


フルスイングでバス停を。

小説の属性:ライトノベル / コメディー / 激辛批評希望 / 中級者 / 年齢制限なし / 連載中

前書き・紹介


第三部『かいぶつのうまれたひ』

前の話 目次 次の話

 ダンボール箱に入っていた。

 ひろってください、などと紙が張ってあった。

 あまつさえ、「みゅう、みゅう」と保護欲を刺激されること甚だしい鳴き声を上げていた。

 ……つまるところ。

 霧沙希藍浬は登校中に二匹の小動物を発見したのである。

 時刻は、早朝。いまだに太陽の熱気が押し寄せる前。大半の人間はまだ眠っているか、目をこすりながら朝食を用意している時間帯。今日は期末試験の日なので、いつもよりさらに早めに教室に入って試験範囲をひととおりおさらいしておこうかと思ったのだが――

 思わぬものに遭遇した。

「……」

 藍浬は無言でしゃがみ込み、二匹を間近で見つめる。

 それらは、同じ種族の二匹ではなかった。

 一匹は子猫。さっきからしきりに鳴いているのはこちらである。白と黒の縞模様が目に鮮やかな、アメリカンショートヘアーであった。タレ目がちな目つきが何とも哀愁を誘う。

 一匹は子兎。真っ白い体毛と、澄んだ紅玉の瞳が、印象的なコントラストを奏でている。「ちぃ」とも「みぃ」とも「ひでぶ」とも鳴かず、じっと藍浬を見据えている。

 二匹は寄り添うようにして体を丸くしていた。早朝とはいえ七月の中ごろだ。寒いということではないだろう。

 心細さゆえか。

 世界という名の茫漠たる荒野を前に、途方に暮れているのか。

 そして何より――

 彼らは愛くるしかった。可愛い盛りであった。おそらく毛が生え揃ったばかりの赤ん坊なのだろう。手足は短くぶっとく、目はつぶらで、毛並みは綿菓子のようだった。

 大抵のことには動じない広大な精神を持つ藍浬だが、この二匹を前にするとさすがに頬がほんのり桜色に染まる。

「うーん、凶悪……」

 二匹を驚かさないよう、ゆっくりと手を伸ばした。

 右手に子猫を。左手に子兎を。お腹の下にそっと手を差し込んで、持ち上げた。

 掌に胴体が収まってしまう小ささを、実感する。

「うわぁ……うわぁ」

 思わず華やいだ声も出てしまう。

「……っと、いけない」

 我にかえって首をふるふるふる。漆黒のセミロングが滑らかに波打つ。

 可愛いからと言って深く考えもせずに拾うのは無責任と言わざるを得ない。

 藍浬は自分の家庭環境を思い出す。

 ――住居。

 山奥の一戸建て。広さは十二分。しかも持家だからペットに関する規制は特にない。

 ――経済状況。

 出所は藍浬にも不明だが資産家。猫と兎ごとき楽勝で養育可能。

 ――家族。

 姉が一人だけ。別段動物嫌いではないしアレルギーも持っていない。

 ――そして、自分。

 わたしは、この子たちのお母さんに、なれるだろうか?

 正直わからないが、とりあえず学校が終わったら本屋に寄って兎と猫の飼い方について調べてみよう。

 藍浬はひとつ頷くと、目の前に二匹の顔を持ってくる。

「……ね、わたしの家族になってくれる?」



 子猫は「たーくん」、子兎は「あっくん」と名づけられた。



 ●



 ある朝、諏訪原篤が異様なる夢より目覚めると、彼は己の頭からウサ耳が生えていることを発見した。

「ふむ……?」

 鏡の前で己の姿をしげしげと眺めながら、彼はしばし黙考する。

 ――これは何だろう?

 頭の上でピョコピョコと可愛らしく動く、白くて細長い耳。

「んんー……」

 寝ぼけた頭で昨日のことを思い出してみるも、特に変わったことはなかったような気がする。

 ――はて、なぜこんなものが?

 おもむろにウサ耳を掴んでみる。驚いたことに、掴まれた感触があった。

 引っ張ってみる。

 けっこう痛い。

 少なくとも髪の毛を引っ張られるのよりは痛い。

 つまり、これは付け耳でもなんでもなく、本当に己の頭から生えているのだ。

「不思議なこともあるものだ」

 ぽつりと呟くと、篤はいつものように歯磨きと洗顔を済ませ、制服に着替えた。

 今日から一学期の期末試験が始まる。

 気を引き締めねばなるまい。一ヶ月の入院生活が得点に響かなければよいが。

 洗面所から出ると、ちょうど霧華が寝ぼけ眼を擦りながら階段を下りてくるところに出くわした。

「ふぁ……おはよ~、兄、き……!?」

 足を止める霧華。

「うむ、おはよう」

 その前を悠々と横切る篤。歩行に合わせてウサ耳がピョコピョコ揺れるので大変かわいらしい。

「えっ、ちょっ……えぇ!?」

 階段を三段飛ばしで下り、篤の背後へ駆けつける霧華。

「あ、兄貴!? ちょっ、それ、何の冗談よ!?」

「うむ、眼が覚めたら生えていた。原因は不明だが、日ごろの行いが良かったためだろう」

「兄貴的にはうれしいことなわけ!?」

「やらんぞ?」

「いらんわ! 何の罰ゲームよ!」

 篤は目を伏せて、ほんのわずかに微笑んだ。

「フ……霧華にはまだちょっとわからない世界かもな」

「いやいや! 何その大人になればわかるよみたいな言い方! わかんないよ! いくつになってもわかんないよ!」

 そこで霧華は何かに気づいたのか、さっと顔色を青くさせる。

「……っていうか、あのー、兄貴? まさかその格好で学校に行くつもりじゃあ……?」

「何を言っている。行くに決まっておろう」

「やめて! お願いだからやめて!」

 なぜか涙目で腰にしがみついてくる霧華をとりあえずスルーしつつ、篤は朝食を作るために台所に向かった。



 ●



 ある朝、タグトゥマダークが異様なる夢より目覚めると、彼は己の頭からネコ耳が生えていることを発見した。

「ひぎぃっ!」

 彼は鏡を見た瞬間、変な叫びを上げてひっくり返った。

 風呂場のタイルに頭を打ちつけ、のたうち回る。

「お、お、おおお落ち着け僕! おち、おちおちつくんだゴハァッ!」

 言ってる間に足を滑らせ、泡を吹いて尻餅をつく。

「寝ぼけてるんだ! 僕は寝ぼけてるんだッ!」

 寝ぼけてる、寝ぼけてる、と自己暗示を幾度もかけてから、恐る恐る起き上がり、再び鏡を覗き込む。

 若干タレ眼気味なものの、整った青年の顔。

 ――いつも通り。

 色素の薄いブラウンの髪。

 ――今日も決まってる。

 髪の毛の中から生えている、ピンと伸びた縞々のネコ耳。

 ――超ラブリー。

「こ、こ、こ、コアアアアアアァァァァァっ!」

 鶏の断末魔みたいな叫びを上げながら泡を吹いてぶっ倒れた。風呂場のタイルに頭をぶつけてのたうち回った。

「お兄さま? どうかなさいましたか? 自分が実はハゲだったことにようやく気づかれたんですか?」

 風呂場の外から、小さな鈴のような声が聞こえてくる。

 っていうかいきなりひどいな。

「ななななんでもないよ夢月(むつき)ちゃん! ホント心配ないから! あと僕ハゲてないよ! 生えてるよ! 豊作だよ!」

 むしろ余計なものが生えちゃったから困っている。

「ならいいのですけれど……もうちょっとで皆様が起きてこられます。朝ごはんの支度を急いだほうが良いかと。お兄さまの存在価値なんてそれだけなんですから、きちんとしませんと」

 それにしてもひどいことを言う。

 タグトゥマダークは、自分の妹がいつからこんなマルキ・ド・サドな性格になってしまったのかよくわからない。

 人形のようにちんまい女の子で、御歳は十歳。常に赤い着物姿で生活するという古風な趣味を持ち、それがまた抜群に似合う。座敷わらし的な可愛らしさとでも言えばいいか。タグトゥマダークは控えめに言ってシスコンじみた愛情を注いできた。

 ……のだが、どこで何をどう間違えてしまったのだろうか。

 しかし、今はそんなことを思い煩っている場合ではない。

「わ、わ、わわわわかってるよ夢月ちゃん! もうちょっと待ってもうちょっと! 冷蔵庫からタマゴ五つ出してボウルに割っといて!」

「あらあら……この私を使おうなんて、お兄さまは何さまかしら? 神?」

「どれだけ自分を高く見てるんだキミは!」

 しずしずと歩み去ってゆく足音を尻目に、タグトゥマダークは青ざめた顔で鏡に向き直った。

 相変わらず、そこには「猫耳の生えた男」という存在価値が微塵も見出せない生き物が映っていた。

「……どうしよう……!」

 ……数分後、タグトゥマダークはターバンのごとく頭にタオルを巻き、恐る恐る風呂場から出てきた。

 歩くたびにギシギシ言うボロ借家の廊下をなんとなく抜き足差し足で通過しつつ、必死に思考を巡らせる。

 ――どうなってるんだ……! 昨日なんかあったっけ!?

 しかし、別に肉体を変異させるケミカルX的なものを飲んだ覚えはなく、悪の組織に拉致られて脳改造の直前で脱出した覚えもない。

 というか客観的に言って悪の組織は自分たちである。

 では《ブレーズ・パスカルの使徒》にこのような肉体改造を施す技術があったのかと言うと…………正直あったかもしれないが、少なくとも男をネコ耳化させて喜ぶような特殊すぎる趣味の輩はいない。

「…………はずだけど」

 十二傑の濃すぎる面々を一人一人思い出すうちに、だんだん自信がなくなってゆくタグトゥマダーク。

 現在、このボロ借家で寝泊りしている人間は、五名。

 ヴェステルダーク、ディルギスダーク、セラキトハートこと鋼原射美、タグトゥマダークこと自分、それから夢月だ。

 ――それにしたってなぜ僕なんだ! どうせやるなら夢月ちゃんと射美ちゃんだろ!

 射美と自分の妹がネコ耳化した姿を思い浮かべてみる。

 思い浮かべてみる。

「……うわあエヘヘ」

 頬がニヤついた。

「うんうん、いいよそれ、問題ないよ何の問題もない、むしろイエスだね! 超イエスだよそれ!! 本人も喜びそうだし!!」

「タグっち~! 朝ごはんま~だ~?」

 突如響いてきた射美の声にビクゥゥッ! と体を強張らせる。

 ――もう起きていたのか!

 その衝撃で乱れたタオルを神経質に直すと、

「あ、うん! すぐいくから待ってて!」

 ――とりあえず、料理をして落ち着こう。

 そう心に決めると、タオルの端をしっかりと結び固め、台所に急いだ。



 ●



 どうあってもそりの合わない奴というのはいるもので、そういう輩は分かり合おうという努力を嘲笑うかのように背格好や立ち振る舞いのことごとくがこちらの神経を逆撫でしてくる。

 しかもその者が半端に自分と似ていたりするともう最悪で、なにやらこの世のすべての対立概念を自分と相手が背負って立ち、対峙しているかのような錯覚にすら陥ってしまう。

 似ているけれど違う。

 違うけれど似ている。

 自分の醜悪なパロディを見ているかのような気分。



 やがて――

 運命は、彼らを引き寄せる。



 ●



 ――あーだりー。

 ハイパーミニマム高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、その日いつにも増して沈鬱な気持ちを抱えて登校していた。別段、いくら牛乳を痛☆飲しようが一向に成長する気配のない我が身を儚んでいたわけではなく、もっと別の事情であった。

 ――期末試験!

 それはあらゆる高校生の身の上へ平等に降りかかる、審判の儀式!

 夏休みに補習などという懲役を食らわないためにも、死力を尽くして闘いに臨まねばならない!

 のだが!

 ――ボクの夏休みは正直終わった。

 攻牙は肩を落とす。

 実はちっとも勉強してなかった。攻牙的にはやむにやまれぬ事情というやつで勉強の暇が取れなかっただけなのだが、学校側に認められるような理由ではなかった。

 そこまでして攻牙を邁進させた用事にしても、意味があるかどうかはまったくの不明である。

 ――まさか戦闘準備にここまで手間取るとは思わなかったぜ。

 攻牙は、来るべき悪の組織との戦いに向けて、とある作業を進めていたのであった。しかしその作業は想像以上に難航し、謦司郎を強引に手伝わせることでようやく完成の目処が立ったわけだが――

 その時、日付はすでに試験の前日になっていた。

 そりゃ気も重くなります。

 ――あー米軍が飛んできて学校を誤爆しねえかなー。

 いくらアメリキャンが大雑把だからってそれはない。

 とたたたたっ、と軽快な足音が聞こえてきたのは、その時である。

 なんとなーく、嫌な予感がする攻牙。

 ――この知性のカケラも感じられない足取りッ! 覚えがあるぜッ!

 足取りに知性なんて宿るんだろうか。

「攻ちゃ~ん! おっはよーうでごわす~!」

「ぐぎゃああ!」

 ……普通の女子高生はいくら登校中に知り合いを見かけたからといっていきなり背後から飛びついて圧し掛かるようなことはしないのである。

 つまり、そいつは普通ではなかった。

 端的に言うとアホの女子高生だった。

 背後から突如として抱きつかれた攻牙は、勢いに押されてorzの形に倒れ込んだ。

 掌をちょっと擦り剥く。

「うふふ~攻ちゃんは今日もぷにぷにでごわす~」

「うっぜぇぇぇぇぇッ! 果てしなくうっぜぇぇぇぇッ!」

 ほっぺつんつんしてくる指を振り払い、彼女の下から脱出すると、振り返って睨み付けた。

 活発そうな少女が地べたに座り込んでいる。茶色のボブガットが、朝日を受けてきらきらと光を反射していた。

「あぁもう! 毎回毎回会うたびに飛びつくのやめろって言ってんだろうがァ! 明かりに群がる虫ですかお前は!」

「どちらかというと『エイリアン』のフェイスハガーでごわす~飛びつかずにはいられないでごわす~」

「ボクに寄生する気だったのかーッ!」

「そして数時間後チェストバスターに進化して攻ちゃんの可愛いハートはいただきでごわす♪」

「何も上手いこと言えてねえからなお前……」

「末端価格で八万ドルでごわす!」

「臓器的な意味かよ! 生々しいなオイ!」

 セラキトハートこと鋼原射美。

 約三週間ほど前に学校へ襲来したバス停使い。

 こいつが悪の組織の尖兵らしいということは、攻牙自身嫌というほど思い知らされてはいるのだが、ここ最近はまったく敵意めいたものが感じられないので、正直扱いに困る。

 自分ではスパイとか言ってるが、本当にこちらのことを偵察する気があるのかは果てしなく謎である。

 勘違いするな、貴様を殺すのはこの俺だ! 系のポジションでも狙っているのだろうか。

「……プッ」

「なんでごわすかーっ! そのインケンな失笑はーっ!」

「いやいや別に無理とか言ってねえよ。諦めんなよ」

「なんかわかんないけどすごくムカつくでごわすーっ!」

 そんなこんなで取っ組み合いの喧嘩をしつつ歩いていると、やがて学校前の坂道に到達する。

 攻牙たちと同じく登校中の高校生および小学生の姿が、前にも後ろにも見られるようになってきた。

「……なんか騒がしいな」

 前方の学生どもが、みな一様に同じ方向を見ている。

 その上、瞠目している。

 隣の奴と顔を合わせてヒソヒソ言ってる奴もいたが、すぐにまた視線が戻る。

 中には泡を吹いて倒れている者までいる。

 彼らの見る先には――なんかいた。

 変なものがいた。

「……おい」

「……なんでごわすか」

 気を落ち着かせるために射美に話しかけるが、こいつも同じものを見て動揺していることが確認できただけだった。

「ボクの眼には、頭からウサギの耳を生やした奇妙な生き物が歩いているように見えるんだが」

「いやいや、それは夢でごわすよ。攻ちゃんは今頃まだベッドの中でお眠でごわすよ。この射美も夢の産物でごわすよ」

 あの光景を否定するためなら、自分の存在すら夢ということにしたいらしい。

「ハハハそうかぁ夢かぁそりゃそうだよなぁー常識的に考えてあんな光景があるわけが[何やってんだコラァー篤ーッ!]」

「あああ、攻ちゃん! 自分を騙すのあきらめちゃダメでごわすよ~!」

 後ろから射美が追いかけてくるのを感じ取りながら、攻牙は全速力で走った。

「む……」

 そいつが振り返る。篤に似た背格好と篤に似た顔をしていた。

 ていうか篤だった。

 しかし振り向くのに合わせて頭のウサ耳が可愛らしく揺れるのは頂けなかった。

 近くで見ると余計にヤバい。

 いつも通り無表情の篤! しかしその頭にはウサ耳! 時空が歪むレベルの異様さだった。

 攻牙と射美の背後にいた通行人たちは、その顔を正面から見るなり、一斉に叫びをあげた。

 それはもはや殺傷力すら伴う違和感だった。謦司郎と並ぶ超イケメンとして定評のある二年三組の星殴(せいおう)惟平(ただひら)は衝撃を受けるあまりエレガントな気絶して地面へと芸術的に倒れ付し、彼をストーキングしていた一年二組の景山(かげやま)翔子(しょうこ)は口に含んでいたウィダーインゼリーを吹き出す勢いで下顎の親知らずのパージに成功。そのそばを歩いていた『謦司郎様親衛隊三大幹部』などという忌み名で知られる菱川(ひしかわ)涼音(すずね)、火楽(ほのぐら)火輪(かりん)、剛闘(ごとう)厳蔵(げんぞう)ら三人は爆笑を抑えようとするあまりミオクローヌス発作のごとき痙攣症状を引き起こして呼吸困難に陥っていた。

「篤……お前……ちょっ……それ……お前っ! なんという……なんという!」

 わなわなと全身を震わせる攻牙。

 篤はその頭をつかんでぐりぐりする。

「攻牙か。相変わらずお前は小さいな。第一胃の食物をよく反芻してから第二胃に放り込めとあれほど言ったではないか」

「なんでいきなり家畜扱いなんだよ! 自分の発言がおかしいことに気づけ!」

「そして牛乳を体内で生成できるようになれば、さすがにその図体も改善されるだろう」

「なんなのお前! なんなの!」

 後ろから追いついてカワイイを連呼しまくる射美と一緒に、ウサ耳の事情を問い詰める。

「いったいどんなピタゴラスイッチ的事件連鎖が降りかかればそんな状態になるんだよ! むしろどこの国の刑罰だよ!」

「三行以内で説明するでごわす~♪」

「うむ、起きたら生えていた」

「一行もいらなかったーッ!」

 射美は目を輝かせながら、前後左右あらゆる角度からウサ耳を眺めまわした。

「でもかわいいでごわす~ラブリーでごわす~ギャップ萌えでごわす~」

「むっ!」

 なぜか脂汗を滲ませながらウサ耳を手で隠す篤。

「や、やらんぞ……これはやらんぞ……やるものか! も、ものか!」

「全力でいらんわ!」「えぇ~、ケチ!」

 頬を膨らませる射美に、攻牙は唖然と振り返る。

「お前欲しいの!?」



 攻牙が吠え、篤が思索に沈み、射美が妙なことを言い出す。

 約一名の頭部および周囲の惨状を除けば、いつも通りの登校風景となっていた。



 ●



「……いいねえ……友達……いいねえ……」

 カリカリカリカリカリ。

 電柱の陰から、篤たちの姿を眺める者がいた。

 タグトゥマダークである。

「……イジられキャラって楽だよねぇ……」

 カリカリカリカリカリ。

 親指の爪をかじっていた。

 篤が、攻牙と射美に囲まれて問い詰められているさまを見ている。

「……自分は何もしなくていいんだもんねぇ……」

 カリカリカリガギィッ!

 噛み千切った。

「って、痛ぁーーー!?」

 のたうち回って電柱に頭をぶつけた。

 頭のネコ耳が、ぴくぴくと痙攣する。

 しかし、そのさまは深々と被ったニット帽によって隠されていた。



 ●



 そいつが物陰から現れた時、篤は何か異様な感覚に囚われた。

 例えるならば、歪んだ鏡を目の当たりにしているかのような。

 妙な、気分だった。

「あいたたた……」

 そいつが呻く。

 道路に転がりながら、後頭部を押さえつけている。長い手足が絡まっていた。可動式フィギュアの頭を掴んで思いっきり振り回したのち地面に放り投げればこんな姿勢になるのかもしれない。

 なぜかこの暑い中、黒のスーツに黒のニット帽を被っている。着こなしは、かなりだらしない。スーツはだぶつきまくりだし、ネクタイは結び目が歪んでいる。

 年の頃は篤たちよりも少し上といったところ。容姿は爽やかイケメン。しかしタレ目な上に挙動が間抜けすぎるので、カッコイイという印象からは程遠かった。

 周りの学生たちも、新たに現れたこの不審者を訝しそうに眺めては、しかしもう関わり合いになりたくないのが見え見えな態度で歩み去ってゆく。

「あっ、タグっち」

 射美がそいつを見て声を上げた。

「うぅ……ぅ……」

 青年は呻きながら篤たちのほうを見た。

 射美、攻牙、篤の順に視線を巡らせる。

 三人もまた、なんとも形容のしようがない視線で青年を見返す。

 しばしの沈黙。

 微妙なる沈黙。

 痛々しい沈黙。

 青年の顔が歪んだ。

「――死にたい! 死のう!」

「あぁ! ダメでごわすよタグっち! まだ何も言ってない! 何も言ってないでごわすよ~!」

「いいもんいいもん! 言われなくてもわかってるもん! みんなどうせ僕のことをアホで間抜けで空気が読めない天才のイケメンだと思ってるんだ! それほどでもないよ!」

「……あ、あれ? 途中から言ってることが違う……?」

 攻牙が頭をかきながら射美を見た。

「あーつまりなんだ? あの生き物はお前の仲間か?」

「ふっふっふ、そーでごわすよ? コードネームはタグトゥマダーク! 愛称はタグっち! めっさぽん強いでごわすよ~?」

 篤にはとてもそうは見えない。

 ――動作は隙だらけ、殺気も闘志も感じ取れない、体はなよなよしている、しかもタレ目。

 タレ目は関係ない。

 だが、それでも篤はタグトゥマダークから目を離すことができなかった。

 何か――既視感を刺激された。

 自分は毎日あの姿を見ていたのではないかという、錯覚。

 もちろん錯覚は錯覚だ。あの男には今日はじめて会う。

 そのはずだ。

「そのタグトゥマダークが何の用だ」

 篤は静かに問いかける。

 声に反応し、タグトゥマダークがこっちを見る。

 眼が、合う。

 なにか濁ったものが流れ込んでくる気がした。

「わくわく☆尋問タイム、はっじまっるよぉー!」

 なんかいきなり叫びだした。

 タグトゥマダークはずんずんとこちらに向かってくる。

「むっ」

 篤は身構える。

 タグトゥマダークは明らかに篤ひとりを見据えていた。

「問い1:あなたの名前はなんですか?」

 頭にタンポポ咲いていそうな微笑みを浮かべつつ、そんなことを言った。

 ――問われたならば、応えるか。

 第一印象はともかく、礼儀として。

「応えて曰く:諏訪原篤である」

「問い2:そのウサ耳はなんですか?」

「応えて曰く:俺にもわからぬ」

「問い3:心当たりもない?」

「応えて曰く:日ごろの鍛錬の成果だと考えている」

「問い4:どうして世界から争いはなくならないの?」

「応えて曰く:人には平和を求める心が確かにある。未開の時代に比べれば、確実に悲惨な出来事は少なくなった。俺たちはもっとそのことを誇ってよい」

「問い5:愛って何?」

「応えて曰く:この世を形作る引力のようなものだと俺は考える」

「問い6:今日のおパンツ何色?」

「応えて曰く:紺色のトランクスである」

「問い7:まさか答えるとは思わなかったよ」

「応えて曰く:そうか」

「問い8:ていうか黙秘してよ。この世の誰もそんな情報知りたくないよ」

「応えて曰く:そうか」

「問い9:まぁそれはそれとして死ね」

「応えて曰く:受けて立とう」

 篤とタグトゥマダークは弾かれたように互いから間合いを取った。

「何なのこいつら!」

 攻牙が頭を抱える。

「す、諏訪原センパイはトランクス派でごわすか……フンドシかと思ってたでごわす……」

「お前も何を赤くなってんだ!」

 攻牙の叫びを背に、篤は右手を横に突き出した。

 見えざる空間に突き込まれ、肘から先が切り落とされたかのように見えなくなっている。

「顎門を開け――『姫川病……!?」

 バス停を取り出そうとする腕が、掴まれた。

 制服の、袖口あたりを。

「なんていうかさぁ、バカみたいなんだよねぇ」

 タグトゥマダークは溜息をついた。

 篤の間近であった。息がかかりそうなほどの、至近距離。

 瞠目する。

 ――いつの間に……

「ひゅーん、ばりばりばり~、どっかーん! やめない? そういうの。カッコよくもなんともないっていうかぁ、ぶっちゃけうっとおしいんだよね」

 やれやれ、と。

 肩をすくめながら。

「こういうのは華々しかったり派手だったりしちゃダメなんだよ。もっとこう、静かで、惨めで、陰湿であるべきだ」

 タグトゥマダークは、相変わらず虫も殺さない笑顔で。

 そんな笑顔のままで。

「――殺し合いって、そういうものだろ?」

 ささやかな風が吹いた。

 髪をわずかに揺らす程度の、どうということもない空気の流れ。

 だが――

 ずぶり、と、異音。

 篤だけが、その音を聴いた。思い知った。

 [喉に指がめり込んでいる]。

 二本の指が、三センチほどの間隔を置いて、篤の喉に突き入れられている。それはまるで、喉仏を掴み取ろうとしているような位置だった。

「いっ」

 気道が圧迫される。呼吸不可能。

「簡単だよね。人間はこうすればすぐ死ぬんだ。バス停なんか非効率的だよ」

 篤はバス停を引き抜いて振り払おうとしたが、界面下に突っ込んだ腕を掴まれて一切動かせない。

 刀に例えるなら、柄頭を押さえられてしまったようなものだ。

「このまま喉を握り潰そうか? それとも窒息するまで待つ? 好きなほうを選びなよ。どうせしゃべれないだろうけど」

 視界が黒く塗り潰されてゆく。肺の中に残った空気が、外に出ようと暴れまわる。

 ――どちらも断る。

 篤は自由になっている左手を握り締め、敵の顔面に向けて打ち込んだ。

「ま、そうなるよね」

 喉にめり込んでいた指が引き抜かれ、ほぼ同時に篤の拳が受け止められた。

 咳き込みながら、その事実を識る。

「左手が自由なら、普通そうするよね。正しい判断だ」

 退屈そうに、タグトゥマダークは呟いた。

「――じゃあ死ね」

 左腕が、捻られる。

 手首、肘、肩の関節が異様な方向へ捩じられ、みしみしと軋んだ。

「んっ」

 たまらず、篤はつんのめるように体を曲げ、捩じれを逃がした。

 頭が前に出る。

 前に出る。

 その先には、この世ならざる空間への出入り口がある。

 見えないが、確かに存在する。

 今しがた自分で開いたものだ。バス停『姫川病院前』を引き抜くために右腕を突っ込み、しかしタグトゥマダークに腕を掴まれて動かせなくなっているため、今も開きっぱなしだ。

 次の瞬間、篤の頭部は、異空間へと没入した。させられた。

 まるで、水中へ顔を浸したかのように。

 視界一面に、混沌とした世界が広がった。無数の色彩が乱舞する万華鏡のごとき眺めだ。

 無限の広がりを持つ空間に、さまざまな色や形が見え隠れしている。

 それらは時に炎のようであり、時に水の流れのようであり、時に散りばめられた星屑のようでもあった。魚のような蒼い煌めきが群れを作って泳いだかと思えば、捻じくれた樹上組織が早回しで形作られ、その背景には山のような巨大な影が一瞬現れてはすぐに消えた。紫の炎が海草のように揺らめき、蛍光色の花火が乱れ飛んで次々と散華していた。

 視覚化された〈BUS〉の流動。

 バス停使いたちによって「界面下」と名づけられたこの空間は、通常の世界とは少しずれた位相に存在し、基本的に交わることはない。そこでは、すべてのバス停がエネルギーの波となって溶け合い、あらゆる場所に遍在している。熱と光のコーラスを奏でている。

 物質世界に存在するバス停などは、この奔放な本質のごく一部の側面が現出しているに過ぎないのだ。

 だが、篤はこの雄大な無秩序をゆっくり鑑賞する暇などなかった。

 体が、動かない。

 界面下空間の外で、右腕を掴まれ、左腕を捩じ上げられている。

「虚停流外殺――」

 くぐもった声が、かすかに聞こえてくる。タグトゥマダークの声が、その振動が、篤の体を伝って耳まで届いたのだ。

「――〈次元断頭〉」

 何をするつもりなのかは、なんとなく、わかった。

 恐らくは――次元の出入り口を何らかの方法で閉じるつもりなのだ。

 二つの世界に分かたれた頭と体は、これ以上ないほどきれいな断面を残して切断されることだろう。

 篤は、敵の冷徹な戦闘感覚に皮膚を粟立たせた。

 ――恐るべき、技だ。

 しかも技名を言い終わったということは、もうこの瞬間にでも界面は閉じられるということだ。

 ――実に、恐るべき、技だ。

 それが不可能であるという点を除けば、である。

「――前』!」

 篤は、叫んだ。それだけを聞いたらまるきり意味不明の言葉を。

 瞬間、周囲の光彩が篤のそばへと集まり、収束し、バス停『姫川病院前』を形作った。

 ただし、それは篤の手元にではない。

 足元に出現したのだ。

 腕を捩じられ、無理やり界面下へ顔を突っ込まされると同時に、篤は自分の足元にも異空間への出入り口を開いていたのだ。

 左足を界面下へ突き入れ、出現した『姫川病院前』に引っ掛けると、前方に思い切り蹴り飛ばした。

 物質界に吹っ飛ばされたバス停は、篤の体を天秤のように支えていた右足に当たって回転する運動を与えられ、タグトゥマダークの足元を薙ぎ払った。

「おっと」

 篤の両腕に絡み付いていた拘束が解ける。

 即座に頭と右手を界面下から引き抜き、敵へと向き直った。

 タグトゥマダークは不審そうな顔でそこに立っていた。やや離れた間合いだ。

 とっさにバック宙返りを決めて、足元への攻撃は回避したようだ。呆れた反射神経である。

「妙だね……どう考えても君の召喚文句が終わる前に、僕の〈次元断頭〉は完成していたはずだ」

「注意力の問題だな。解説などする気はない」

 篤は足元の『姫川病院前』を蹴り上げた。空中で掴み取り、構える。

「さぁ、貴君もバス停を抜かれよ」

「ふぅん……」

 タグトゥマダークは、バス停を召喚するそぶりも見せず、しげしげと篤を見ている。

「めずらしい扱い方をするね、キミ。普通、バス停使いって想定外の逆境には弱かったりするものなんだけどな。なまじ強すぎるから、苦戦という経験が不足しがちなんだね」

「……何が言いたい?」

「キミはそうじゃないってことさ。両手が使えないから、じゃあ足で――って、言葉にすれば簡単だけどさ、普通そんなことをあの一瞬では思いつかないよ。お兄さん感心しちゃったなぁ」

 自らの顎に手を当て、不敵な微笑を湛えながら、

「ちょっと、苦手なタイプかもしれないニャン」

「…………」

 空気が、なんか、微妙な雰囲気になった。

「ニャ、ニャン!?」

 タグトゥマダークは口に手を当ててあたふたしていた。

 篤は興味深そうに、己の顎を掴んだ。

 ――今度は「ニャン」か……

「《ブレーズ・パスカルの使徒》には、珍妙な語尾でしゃべらなければならない掟でもあるのか?」

「か、か、勘違いしニャいでくれ! 僕はこんな語尾ニャんか……あああ! 付けたくニャいのに! 付けたくニャいのに付けてしまうニャンッ!」

 タグトゥマダークは、ニット帽に包まれた頭を抱えて天を仰いだ。

「タグっち……そんな人だったでごわすか……」

 後ろで射美が半眼になって呆れていた。

「ちょっと頭が不自由だけど、優しくてカッコイイ人だと思ってたのに……」

「あああっ! ち、違うニャン! これはおかしいニャン! 僕の意思とは無関係に語尾がついてしまうニャン! っていうかさり気に前半部分ひどいニャン!」

「あー中学生の時こういう奴いたぜ。腕に危険なパワーが宿っているってな設定で授業中によく『ぐぁ…っ! 静まれっ!』とか言い出すんだ」

 攻牙が耳の穴をほじりながらどーでもよさそうに言った。

「いくら目立ちたいからってそれはねえよ。みんなドン引きだったぜ」

「設定とかじゃないニャン! マジで止まらないニャン! あと思春期の想像力をバカにする奴は心が貧しいとお兄さんは思うニャン!」

 三人の、そして周囲の通行人の冷めた視線が、タグトゥマダークを追い立てた。

「うっ、ううっ」

 その顔が引き歪む。

「うにゃあぁぁぁぁぁんッ!」

 泣きながら走り去っていった。

 ナイーヴにもほどがあった。



 ●



 ――どこまでも、まっすぐな眼をしていたな。

 タグトゥマダークは、泣きながら朱鷺沢町を駆け抜ける。

 ――諏訪原篤。一切の迷いもない信念に寄り添う、この上なく安定した佇まい。

 泣きながら、駆け抜ける。心はズタボロに揺れ動く。

 だが、その根底には、鏡面のようにさざ波一つない場所がある。

 タグトゥマダークは、そこで思考する。

 ――諏訪原篤。直接相対してはじめてわかる、その存在の堅牢さ。

 冷酷に、思考する。泣きながら、思考する。

 ――死に囚われているがために成立しうる魂。

 泣きべそをかき、同時に心の根底で嗤う。

 ――僕とおんなじだ。そして、僕とは全然違う。

 大声で咽びつつ、泣き叫びつつ、必死に走りつつ、タグトゥマダークは嗤う。

 魂で、嗤う。



 やがて、敷地面積だけは立派なボロ借家に帰り着いた。

 すぐさま妹の部屋に続く襖をズガンと開ける。

 そこでは、切りそろえた髪型の小さな女の子が、机に向かって勉強していた。

 ゆっくりと椅子が回り、高級ピアノのような輝きをもつ瞳が、こちらを向く。

「うにゃあああぁぁぁぁん! 夢月ちゃあああぁぁぁぁぁん!」

 タグトゥマダークは咽びながら自らの妹に泣きついた。

「あらあら、どこの不潔な変質者が入ってきたかと思ったらお兄さまではありませんか。どうかなさいましたか? またディルギスダークさまに苛められましたか? 後で文句を言っておかなければなりませんね。『手ぬる過ぎます。やる気あるんですか?』って」

 相変わらずひどいことを言う。

 しかし言葉とは裏腹に、突然乱入してきた自分をちゃんと受け止めてそっと撫でてくれるので、本当は優しい子なんだなぁ、こんな可愛い妹がいて僕は幸せだなぁ、と思う。

 彼女は、赤い着物を着ている。今時珍しいことこの上ないが、夢月の普段着は着物である。そしてそんなチョイスが恐ろしく良く似合う容姿をしていた。

「それで? どうなさったんです? その頭の肉ヒダはなんですの?」

 ――肉ヒダって……

 いやまぁそうなんだけど。

「あのね、あのね、僕ね、朝起きたらネコ耳が生えてたんだニャン」

「……」

 夢月の表情が、急激に冷めてゆく。

「そんでね、そんでね、さっき諏訪原篤をブッ殺しに行ったらね、なんかね、語尾まで変になっちゃったんだニャン」

 夢月は無言でタグトゥマダークに背を向ける。

 そして机の引き出しに手を入れると、大きなハサミを取り出した。

「切り落としましょう」

「やめてえええぇぇぇぇっ! なんでそうなるニャ!? なんでそうなるニャ!?」

「あら、明白じゃありませんか。その世の中ナメてるとしか思えない軽薄な語尾は、明らかにお兄さまの貧相な頭についている汚らわしい肉ヒダが原因ですわ。ちゃっちゃと切除しちゃいましょう」

「夢月ちゃん! 夢月ちゃん落ち着いて! 落ち着くニャン! 気軽に切除とか切り落とすとか言わないでニャン! 怖いニャン!」

 夢月はかすかにため息をついた。

「……わかりました。お兄さまの気持ちも考えず過激な言動に走ってしまいましたわ。反省します」

「う、うん! うん!」

「去勢しましょう」

「言い方の問題じゃニャいんだよ!? しかもさらにひどい言い方だニャン! 最悪のチョイスだニャン!」

 重くため息をつく夢月。憂いを秘めた白皙の美貌が、遠くを見る。

「……どうしましょう。どこに埋めましょう」

「夢月ちゃん何を言ってるニャ!?」

「いえ、あまりにわがままでヘタレな身内を持ってしまった我が身を哀れんでちょっとした非合法的計画が頭をよぎっただけですわ。お兄さまにはまったく関係のない事柄ですの」

「明らかに僕に関係あるよね! むしろ僕は中心人物だよねその計画! やめて! 僕そこまでひどいこと言ってないニャン!」

「どうせこんなド田舎ですから天狗の仕業にでもしてしまえば万事解決ですわ」

「とんでもない偏見だニャン!」

 その後、わりかしシャレにならない言葉責めを二、三回応酬させたのち、夢月はタグトゥマダークのネコ耳をいじりながら言った。

「ヴェステルダークさまに相談してみましょう」

「え!? あ、うん……えっと……え? なんでだニャ?」

「あの方は最強を誇る《王》の一人。〈BUS〉の特殊な作用については知悉しておられますわ。きっと良い知恵を貸してくださるはず」

「この耳と語尾は〈BUS〉の影響なのかニャ?」

「それ以外になにかありまして?」

「ふむーん」



 というわけで、夢月の部屋を出る。

 タグトゥマダーク一人で。

 ついて来てはくれないのである。

「冷たいニャ~ン……」

 夢月はあまり自分の部屋から出てこない。そういうところは奥ゆかしくて超かわいいと思うが、兄の一大事の時ぐらい付き添ってくれてもいいと思う。

「ニャ?」

 ふと、自分がハサミを持っていることに気づく。

 夢月がネコ耳を切除しようと取り出したハサミだ。

「なんで僕が持ってるんだニャ?」

 よくわからなかったが、多分無意識のうちに奪い取っていたのだろう。

 夢月に持たせておくとなんか怖いし。

 タグトゥマダークはハサミをとりあえずポケットに突っ込むと、ボロ借家の中心部に位置する居間へと足を運んだ。ヴェステルダークは普段そこで仕事をしている。

「……差し入れでも用意するかニャン」

 途中で思い直し、台所へと立ち寄ることにした。



 ●



「ブリリアント☆おやつタイム、はっじまっるニャ~ン!」

 緑茶と大福をお盆に載せて、タグトゥマダークは居間に入っていった。

 ……とりあえず、ご機嫌を取っておけば相談しやすくなるかと思ったのであるが、内心ドキドキである。

 居間には、ボロっちいちゃぶ台と丸みを帯びたテレビが置かれていた。黒のスーツをきっちりと着こなした男が、ちゃぶ台に肘を突きながら唸っている。

 ヴェステルダーク。

 この町に滞在する十二傑たちのリーダー。

 いつもは自信と機知にあふれた数学教師っぽい風貌だが、今は何やらお疲れのご様子だった。ちゃぶ台の上には、ここ朱鷺沢町と近郊の地図が広げられており、縦横に赤い線が書き込まれている。その周りには、何らかのデータと計算式が書き込まれたノートが数冊ほど散乱していた。

 ヴェステルダークは一瞬こちらに視線をめぐらせたのち、特に何事もなかったかのよう眼を戻した。

「《楔》が、見つからないのかもな……」

 ――うわノーリアクションだよこの人!

 明らかにネコ耳も見えていたはずなのに。

 なんか、人間としての格の違いを感じる。

「お、お疲れですニャン? 《楔》の探索はやっぱ難しいですかニャン?」

「〈BUS〉の流れが読めないのかもな。二ヶ月ぶっ続けで地脈を走査したにも関わらず《楔》の位置を特定できないのかもな……」

 そして、憂いに満ちた表情で天井を仰ぎ、

「もらうのかもな」

 ぽつりとつぶやいた。

「あ、は、はい」

 慌てて大福と緑茶をちゃぶ台に並べる。



 ●



 ――あらゆるバス停は、その身に漲る〈BUS〉の強さによって、九つの階級に分けられる。

 第九級バス停が最弱で、その基準は「コンクリートの壁を一撃で粉々にする程度の力」。

 数字が小さくなるほど、その身に漲る〈BUS〉の出力は高くなる。

 バス停ごとに固有の性質を持っている場合もあるので一概には言えないが、階級の高いバス停ほど強いのだ。

 そして――

「天と地を斬り裂き、歴史を創るほどの力」

 そんな冗談のような基準で語られるバス停が存在する。

 第一級バス停――通称、《楔》。

 最高位の神樹。

 ひとつの国が収まるほどの範囲で、〈BUS〉の流動を制御し、管理し、自然や文明の(言い換えればあらゆる熱的活動の)守護者となるバス停。

 そういうものが、全国に八柱ほど点在している。

 淵停、枢停、殲停、聖停、終停、龍停、極停、皇停。

 このうち四つは『神樹災害基金』が保有し、二つは《ブレーズ・パスカルの使徒》が確保、ひとつは所在不明で、最後のひとつはここ朱鷺沢町のどこかにあるという。

 ――皇停、『禁龍峡』。

 ヴェステルダークほか四名の十二傑たちは、この最後のひとつを入手するべく動いているわけだが……

 何故か、見つからなかった。



 ●



「やっぱり『基金』の連中が何らかの妨害をしているんじゃないですかニャン?」

「そう思って、ディルギスダークにはポートガーディアンどもを締め上げるよう言っておいたのかもな」

「うわぁ……さすがに同情しますニャン、それ……」

 ヴェステルダークは緑茶を一口飲んでから、刃物のような切れ長の目をタグトゥマダークの頭部に突きつけた。

「……で、頭のそれはなんなのかもな。いわゆるアキバ系という奴なのかもな?」

 微妙に違う。

「ニャ、ニャはは……」

 タグトゥマダークは頭をかきながら事情を話した。夢月に対して一度しゃべっているので、さすがにもう落ち着いている。

「……と、いうわけなんですニャン」

「ふむ」

 ヴェステルダークは緑茶をもう一口すすった。

「前例が、ないわけではない、かもしれない、のかもな」

「ほ、ほんとですかニャン!?」

 できれば二重否定の上に疑問系を二つも重ねないでほしいと思った。

「私が生まれる前の記録なのだが……今から五十年ほど前、この地域で起きたことかもな」

 ヴェステルダークは、ぽつぽつと語り始めた。

「当時からここらへんはどうしようもないド田舎だったのだが……ある時、まったく突然に、極めて局地的な地震が発生したのかもな。建物はほぼ全壊し、絨毯爆撃でも受けたかのような有様だったという。火災や地すべりなどの二次災害も頻発し、多くの人々が致命的な被害を受けたのかもな。恐ろしい災禍だったのかもな」

 持っていたペンを弄びながら、言葉を続ける。

「だが、本当に恐ろしかったのは、その後なのかもな……」

 なんで怪談みたいな語り口なんですかと突っ込みたかったが、空気を読んで黙るタグトゥマダーク。

「人間がな、歪んだのかもな」

 その言葉の響きに、寒気を感じた。

「……歪んだ? どゆことですニャン?」

「比喩ではないのかもな。精神ではなく、肉体が、本当に歪んだとしか思えない有様に変異したのかもな。生き残った人々は、変わり果てた自分の姿に悲鳴を上げたという」

「い、一体、どんな姿に……?」

「直立二足歩行のタヌキになった」

「超かわいいーー!?」

「もっさもっさの毛皮に包まれた住民たちは、そのお陰で家がなくとも冬を乗り切ることができたらしいのかもな」

 えらくメルヒェンな光景がタグトゥマダークの脳内に広がった。

「よ、よかったじゃないですかニャン」

「だが、本当に恐ろしいのはそこからだったのかもな……」

「まさか元に戻らなかったんですかニャン!?」

「『神樹災害基金』の前身である軍属研究機関が、事態の解明を期してこの地域を数カ月にわたって封鎖し、調査部隊を派遣したのかもな」

「そ、それで……?」

「タヌキとなった住民たちに身体検査および質疑応答を行い、さらに一帯の地質を調査した結果、さまざまな事実が浮かび上がってきたのかもな」

 そこで緑茶を飲み干すと、ヴェステルダークは声を低くした。

「局地地震とタヌキ化が起こった範囲が完全に一致していたのかもな。つまり、この二つの現象は同じ原因によるものだったらしいのかもな。さらに、タヌキ化した住民たちの話によると、地震の直前に『山の向こうで巨大な光の柱が見えた』というのかもな」

 光の、柱。

 バス停使いたちにとっては、何らかの攻撃にしろ、召喚時の余波にしろ、そういった現象は見慣れた存在だ。

「バス停、ですかニャン?」

 しかし、山の向こうからも見えるほどの光とは、ちょっと尋常ではない。

「結論から先に言おうか。この地のどこかに《楔》が安置されている、と仮定すれば、辻褄が合うのかもな。事実、被災範囲は、当時すでに存在が確認されていた他の《楔》の管理面積とほぼ等しく、さらにこの異変において地中の〈BUS〉が一切流動しなくなっていたことも確認されているのかもな」

 ヴェステルダークは息を吐き、こちらを見た。

「この『地脈の流れが消失する』という性質から、推定上の存在である《楔》には皇停『禁龍峡』という名が与えられたのかもな。一連の事件の原因は、この《楔》が暴走を起こしたことにあったのかもな」

 皇停『禁龍峡』。すべての原因と目される、仮定上のバス停――

 それからの顛末は、極めて意味不明なものであった。

 皇停『禁龍峡』の位置を特定すべく、調査部隊とタヌキ住民たちは山々を虱潰しに探し回ったのだが、二週間が経過しても手がかりは一切見つけられなかった。

「そして、本当に恐ろしいのはここからかもな……」

 気に入ったんですかその言い回し。



 ●



 その後のヴェステルダークの話を要約すると、二点に絞られる。

 ・探索途中で隊員数名が行方不明になるという事件が発生したこと。

 ・その直後、タヌキ化した住民が一斉に元の体に戻ってしまったこと。

 以上、事件はそれで終わり。皇停『禁龍峡』の正確な位置はつかめぬまま、調査部隊は撤収し、その後政府主導の復興支援が始まったのであった。

 結局、何一つ確かなことは判明しないうちに、この『昭和タヌキ騒動ぽんぽこ事件』は終結を迎えたのである。



 行方不明になった隊員たちは、二度と戻ってはこなかったという。



 ●



「……つまりその、僕のネコ耳も、皇停『禁龍峡』が原因ニャのだと?」

「少なくとも関連を疑うには十分なのかもな」

「ううう……」

「イレギュラーはもうひとつあるのかもな」

「なんですニャン?」

「《楔》とは別に、奇妙なバス停が見つかったのかもな」

 タグトゥマダークは肩をすくめて笑った。

「奇妙じゃないバス停なんてあるんですかニャ?」

「なんかうねうねしていた」

「奇妙すぎる!」

「しかも、この地域の〈BUS〉流動網から孤立しているのかもな」

 ……正確には、完全に孤立しているわけではなく、地脈のネットワークからエネルギーをもらうばかりで、自身からは一切エネルギーを吐き出さないという凄まじい寄生虫ぶりらしい。

 当然バスなど通っていない。

 バス停なのに。

「あの、それ、本当にバス停なんですかニャン? なんか聞く限りでは〈BUS〉を食べる宇宙怪獣みたいな感じがするんですが……」

「あながち間違ってないのかもな。少なくとも、そのバス停のせいで朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相は秩序だったサイクルを維持しにくくなっているのかもな。《楔》を擁する土地であるにも関わらずド田舎なのはそのせいなのかもな」

 〈BUS〉は単なる破滅的なエネルギー流というだけではない。淀みなく循環していたなら、その地域の自然や文明を活性化させる霊的な作用が働くのだ。《楔》のお膝元の地域ともなれば、超サイバーな未来都市トキサワシティーになっていてもおかしくなかったはずなのである。透明なチューブがうねりまくりである。

 だが、現実にはそうではない。

 謎のバス停によって〈BUS〉を吸い取られ、循環の流れをかき乱され、朱鷺沢町はド田舎との誹りを免れぬほどの過疎ぶりとなっているのである。

「……そのバス停の名は」

「第三級バス停、『腐りゆく唇』」

「なんです、それ? 地名じゃないですニャン?」

「不明かもな。丸看板にそう書いてあったのかもな」

「確かに奇妙なバス停ですニャー」

「うねうねしてるしな」

「だから奇妙すぎる!」



 ●



 いや、さて。

 ここで、篤サイドに目を向ける。

 タグトゥマダークを撃退した後も、篤は自らのウサ耳を誇らしげに揺らしながら学校への道を急いでいた。

 攻牙と射美は、篤の周りをぐるぐる歩きながら、ウサ耳を仔細に観察している。

「射美が思うに、諏訪原センパイはきっとウサ耳たちが平和に暮らす国『ウサミニア』のウサミミ王子なんでごわすよ!」

「そんな国は見たことも聞いたこともないがどうせ城はウサミミ城で王様はウサミミ王で大臣はウサミミ大臣なんだろ!」

「ウサミニア……それはウサ耳たちが平和に暮らす国……国民は全員ウサ耳で、シルバニアファミリーばりのキュートでメルヒェンな騒動が毎日起こってるカンジでごわす♪ そんで三十分枠のラストはいつも『もう○○はこりごりだよぉ~!』『はははは、こいつぅ!』みたいなカンジでみんな笑顔でエンディング突入でごわすよー♪」

「いやに具体的だなオイ」

「末端価格で八万ドルでごわす♪」

「何が!?」

「犠牲もなしにユートピアが築かれるとでも思ってたでごわすかーッ!」

「繁栄の陰で何が行われてるんだウサミニアッ!」

 ――お前たち勝手なことを言っているな。

 篤は二人の応酬を適当に聞き流す。

 それはいいのだが、道中で知り合いに会うたびに、

「ちょっ……諏訪原! 何それ!」

「うむ、起きたら生えていた」

 というやり取りを繰り返すものだから、五回目ぐらいでなんか飽きてきた。



 突然の生徒会長。

「す、諏訪原君……何の冗談だいそれは?」

「うむ、起きたら生えていた」



 突然の不良。

「諏訪原てめえ、気でも違ったか!?」

「うむ、起きたら生えていた」



 突然の風紀委員長。

「こ、こら諏訪原ー! なんなんだ貴様その格好は!」

「うむ、起きたら生えていた」



 突然の後輩。

「あ、あの、諏訪原先輩……よくお似合いだと思いますよ……?」

「うむ、起きたら生えていた」



 突然の変態。

「やあ篤! みんなの股間のソムリエ、闇灯謦司郎だよ! 今日の朝立ち具合はどうかナ?」

「うむ、起きたら生えていた」

「!?」



「ぎゃああ! ヘンタイさん!」

 射美が怯えきった様子で距離を取った。学校襲撃時の体験からか、こいつは謦司郎をやたらと恐れている。

「ウサ耳には目もくれずに開口一番シモネタを言えるお前はある意味すげえよ……」

 攻牙が呆然と呟く。

「はっはっは、三人ともおはよう。なんか凄いことになってるみたいだね」

 謦司郎はいつもにこやかだ。

 相変わらず背後から出てこないので確認できないが、間違いなくいい笑顔だ。

「まぁ要するにこの耳が朝起きたら生えていたってことらしいんだがよ」

「えっ、『生えていた』ってそっちのことだったのか……」

「急にどうでもよさそうな顔をするなよ! ……それで獣耳萌え~とか言ってそうな世界にも精通している汎用ヒト型決戦変態であるところのお前はこの有様になんか心当たりはねえか?」

「あぁ、これはあれだよ、何かの願望のメタファーなんじゃないかな。こう、体のある部分をもっと多く生やしたい的な。一本じゃ足りない的な」

「誰もお前の願望は聞いてねえ!」

 射美は「フーケーツーでーごーわーす~!」耳をふさぎながら走り去っていた。



 結局、教室でもクラスメートに騒がれてもみくちゃにされる。

 彼らの感想を総合すると、「かわいい」が一割、「シュール」が二割、「病院行け」が七割といったところだ。

 そんな中、霧沙希藍浬の感想だけは篤を瞠目せしめた。

「す、諏訪原くん……」

 彼女は白い繊手を二つとも口に当て、目を丸くしていた。

「む、霧沙希か」

 篤は誇らしげな足取りで、藍浬に歩み寄った。

「どうだ、俺の頭蓋より生じたる二本の誉れ……は……っ?」

 言葉が乱れる。

 なぜなら、その誉れ高きウサ耳を、藍浬が無造作に掴んだからだ。

 掴んだっていうか、握り締めた。

「き、霧沙希……!?」

「うーん……」

 自らの頤(おとがい)に人差し指を当てながら、藍浬はすっきりとした眉を寄せて思案する。

 その間も、ウサ耳を掴んでニギニギ。

 強い力が加わるたびに、篤の眉はピクピクと動いた。

「んん~……」

 数秒経っても、藍浬は思案顔。

 だんだん汗を流しはじめる篤。なんか、尻尾を掴まれたトカゲの気分。

 トカゲと違うのは、切り離して逃げることができないという点である。

 藍浬は、親指の腹でウサ耳の毛並みをさすりつつ、人差し指と中指で挟んだり、先っぽの方を小指で弾いたりする。

 その手つきに淫猥な妄想を膨らませた謦司郎が息を荒げすぎて過呼吸に陥ると言うハプニングがあったものの、二人の間には何の影響ももたらさなかった。

 やがて、考えがまとまったのか、藍浬は燦々と微笑んだ。

「かわいいっていうのはもちろんだけど、どちらかというと綺麗、かな? アサンブラージュ的な何かを感じます」

「おぉ……」

 篤は思わず藍浬に手を差し出した。

「この、かそけき曲線と無垢なる白皙が織り成す秘めやかな美を認識してくれたのは、お前だけだ」

「う、うん、どういたしまして」

 藍浬はびっくりしたように篤の手を見ていたが、やがて躊躇いがちに握り返した。

 つつましやかな、シェイクハンド。

 触れ合った藍浬の手は、篤のそれよりも少し熱を持っていた。

 チャイムが鳴った。



 ●



 かくしてようやく期末試験一日目は始まり、終わった。

 席を立つ生徒たちの喧騒で、にわかに慌ただしくなる教室。

「うむ、死力は尽くした。たとえ今死ぬとしても、悔いは残るまい」

「死んだ! ボクの夏休みは死んだ! 蘇生不能!」

「うーん、わたしはちょっと地理があぶないかも?」

「ところで、税務署の地図記号って卑猥だよね……」

 篤、攻牙、藍浬、謦司郎の四人は、それぞれの思いを胸に、顔を突き合わせた。

「……忘れていたことがあるんだぜ」

 攻牙が神妙な顔で口を開く。

「何だ。トイレは廊下に出て右に曲ったところだぞ」

「誰がそんなことを忘れたっつったよ!」

 短い腕を振り回す攻牙。

「今朝学校に行く時に襲い掛かってきたイケメン変態がいただろ! あいつのことだ!」

「いやいや、イケメンなんて、そんな……」

 謦司郎が照れくさそうに言った。

「確かにお前もイケメンで変態で学校行く時襲い掛かってきたけど違う! 今言いたいのはお前のことじゃない!」

「……ひょっとして、鋼原さんのお友達が来ちゃったの?」

 うまい具合に藍浬が話を戻した。

「あぁ、あのタレ目の男か」

 篤がぽんと手を打った。

「そいつに関してなんか対策とか立てなくていいのか? 見た感じ鋼原~リバースブラッド~射美よりやっかいそうな感じがしたが」

「ふぅむ……そうだな」

 ――実際のところ。

 やっかい、どころの騒ぎではない気がした。

 登校中の交戦において、篤は敵にバス停を抜かせることすらできなかったのだ。

 それよりなにより、あの男には今までの相手にない凄みがある。

 呼吸をするように人を殺める気配。今日の天気の話をする片手間に人を殺める気配。

 ゾンネルダークもしきりに殺す殺すと叫んでいたが、あれはもう逆上したチンピラが吼えているのと大差はない。

 タグトゥマダークの挙動からは、おぞましいほどの「慣れ」と「倦怠」が漂っていた。殺す、という現実を、どうということのない日常として捉えている、生物として壊れてしまった存在――

 だが、それよりなにより。

 ――死にたい! 死のう!

 その言葉。

 どこか、ひどく、心をかき乱すセンテンス。

 自分の切腹にも通ずる、自害の宣言。

 だが、何かが違う。その言葉は、意図する行為が自分と同じでありながら、それを成そうとする理由に致命的な捻じれがあるように思う。自分の肺腑に、粘い石油を流しこまれるような気分にさせる、異様な捻じれ。

 篤は小さく首を振る。

 ――考えすぎだな。

 息を吐いた。

「確かに、解明しておく必要はあるかもしれない――」

 篤は重々しい光を瞳に宿した。

「――なぜあの男は途中から突然珍妙な語尾を使い始めたのかということを」

「いやそっちじゃねえよ! 気になるけど! 確かに気になるけどそっちじゃねえよ!」

「へえ、今度の敵はどんな語尾だったんだい?」

 謦司郎が面白そうに聞いてくる。

 ――そういえば、謦司郎と霧沙希は、まだタグトゥマダークを知らなかったな。

 篤は謦司郎に目を向けた(が、すぐに謦司郎はその場を移動した)。

「うむ、『ニャン』だ」

「『ニャン』?」

 背後で謦司郎が聞き返す。

「そう、『ニャン』だ」

「『娘』を中国読みした時の『ニャン』?」

 なぜ例えがそれなのか。

「否、『ニャンがニャンだーニャンダーかめん』の『ニャン』だ」

「あぁ、なるほど」

「違いがわからねえよ!」

 叫ぶ攻牙。

 そこへ、躊躇いがちな声が被さった。

「あの、ね……ちょっといい?」

 藍浬だった。

 なぜかしきりに篤のウサ耳を見ている。

「そのかわいい語尾の人、さ……ひょっとしてネコの耳なんて生えてなかった……?」

「!?」

 篤と攻牙は黙り込んだ。

 互いに目を配りあう。

 ――もちろん、ネコ耳を確認したわけではない、のだが……

 タグトゥマダークは、頭にニット帽をかぶっていた。今にして思えば、あれはかなり不自然だ。すでに汗ばむような季節である。だいたいスーツ姿にニット帽は似合わない。

 篤が腕を組む。

「ネコの耳かどうかはわからんが、頭を隠している感じはあったな」

 攻牙は胡乱げに眉を寄せる。

「だけどよー霧沙希。なんでネコ耳なんだ? いくら語尾が『ニャン』だからってそんな突拍子もないことが……」

 攻牙は篤の頭を見る。

「……いやまぁあるけどさ」

「うん、わたしも半信半疑っていうか……正直関係があるのかどうかわからないんだけど……」

「何のことだ?」

「ちょっと、ついてきてくれる?」

 藍浬が席を立つ。

「?」

 篤、攻牙、謦司郎は、何だかわからないながらも彼女の後に続いた。



 校舎の裏側、体育倉庫の陰に隠れて、ダンボールがひとつ置いてあった。

 近づいてくる気配を察したのか、中から「みゅぅ、みゅぅ」とか細い鳴き声が漂ってくる。

「あっくん、たーくん、いい子にしてた?」

 藍浬はダンボールの前にしゃがみ込み、小声で呼びかけながら蓋を開けた。

「おお~」

 攻牙が覗き込んで声を上げる。

 中には、ひどく小さな毛玉が二つ入っていた。いや、毛玉というか、小さな哺乳類のようだ。

 藍浬の顔を見ると、二足で立ち上がってダンボール箱の壁に前足をつけた。「みゅう!」

「ふふ、ちょっと凶悪よね、このかわいさは」

 藍浬が両手を伸ばして二匹をやさしく掴む。

 こちらに向き直り、自分の頬に押し付けるように抱き上げた。

「今朝、拾いました」

 左手の子兎を持ち上げた。

「こっちが『あっくん』」

 右手の子猫を持ち上げた。

「こっちが『たーくん』です」

 謦司郎がしみじみと頷く。

「なるほど、二匹あわせて『肉色の花園』というわけだね」

「なんでだよ!」

 何も関係がない。

 篤はおもむろに歩み寄り、あっくんとたーくんを観察する。

「ふむ……」

 顎に手を当て、まじまじと見つめる。

 子兎――あっくんと、目が合った。

「……似ている」

「えっ?」

「あっくんに触ってもよいか?」

「う、うん」

 藍浬からあっくんを受け取ると、顔の前に持ち上げた。

 いきなり見知らぬ者に触れられたにも関わらず、子兎のあっくんはまったく動じる気配がない。みじろきひとつせず、篤の瞳を見つめている。

 篤の眠そうな眼。あっくんのつぶらな眼。

 視線を介して、何かがつながった気がした。

 行き交う精神。静謐なそれ。

 自分と同じ存在に出会ったという実感。出会えたという奇跡。

 突き動かされるままに、あっくんを自分の頭の上に乗せた。ウサ耳の間に、ちょこんと稚い生命が乗っかる。

 あっくんは、鼻をフンフンと動かして、ウサ耳の匂いを嗅ぐ。すぐにその場にうずくまり、ぶっとい前脚に頭を乗せながら、リラックスした様子で眼を細めた。

「おぉ――浮世を編み出す縁の、なんと趣き深きことよ」

 篤は眼を閉じて、裡より生じた感動を味わう。

 あっくんの落ち着き払った物腰に、自分と同じ『常住死身』の在り方を感ずる。

 篤は眼を開き、あっけにとられている級友たちを見た。

「どうやら、アドバイザーを呼ぶ必要がありそうだ」

「ど、どういうこと?」

「尋常ならざる事態が発生している」

「まぁお前にウサ耳が生えた時点ですでに尋常じゃないけどな」

 耳をほじる攻牙に向き直ると、篤は言った。

「攻牙よ」

「なんだ?」

「ケタイデンワの操縦方法を教えてくれ」

「お前が何を言いたいのかはわかるが伸ばし棒が足らねえよ!」

「ケーターイデーンワーの操縦方ほ……」

「番号だけ言え! ボクがかけてやるから!」

「む、すまんな」



 ●



 集合場所は、以前鋼原射美の介抱をした公園に決定した。

「きーりさーきセーンパーイ! こんにちはでごわす~♪」

「はいこんにちは。……あら、ふふっ」

 電話で呼び出された鋼原射美は、真っ先に藍浬に飛びつくと、頬と頬を擦り合わせた。

「うに~」

「もう、くすぐったいわ、鋼原さん」

「霧沙希センパイのお肌はヒンヤリしてて気持ちいいでごわす♪」

 射美と藍浬が会うなりユリシーズ空間を形成しだしたのを尻目に、(ついでに血走った目でその様を凝視している謦司郎も尻目に)篤と攻牙はさっき立ち寄ったコンビニの紙袋を漁って中身を取り出していた。

「……それでどういうつもりなんだ篤この野郎。まさかみんなでお茶しましょうってだけじゃねえよな?」

「正直ただそれだけというのも悪くはないとは思うが、まぁもう一人のアドバイザーが到着するまでは普通に昼食を楽しもうではないか」

 篤が攻牙の携帯で呼び出した人物は、二人。

 一人は敵方の尖兵であるところの鋼原射美。

 そしてもう一人は、

「いったい誰を呼び出したんだよ?」

「お前たちの知らない男だ」

「ふふん?」

「わっ! なにこれ超カワイイでごわす~!」

 射美があっくんとたーくんを見つけたようだった。

「みゅう!?」

「あっ、逃げないでほしいでごわす~!」



 ●



「やあ篤くん。お待たせしたね」

 声がした。

 振り返ると、青年が一人、立っていた。

「お久しぶりです勤さん。お怪我はすっかり良くなったようですね」

「いやまぁ、半分は君にやられた怪我なんだけどね。もう万全だよ」

 それは、篤に普段から兄貴分(笑)として慕われている『亀山前』のポートガーディアン(笑)、布藤勤の変わり果てた姿だった(笑)。

 篤は沈痛そうに目を伏せる。

「あぁ、こんな変わり果てた姿になって……」

「いやいや、もう万全だって。どこも怪我はないよ」

「ボロボロに薄汚れてないなんて、まるで人間みたいだ……」

「あたかも僕の正体がボロ雑巾みたいな言い方やめてくんない!?」

 勤は一同を見渡しはじめた。

「……いやそんなことより」

 攻牙と藍浬はコンビニ弁当のパセリをあっくんの前で誘うように振っている。射美は指をわきわきさせながらたーくんを追い掛け回していた。かすかに聞こえてくる「……フフ……ヘヘ……」という忍び笑いは、どうせホットドッグを目の前にした謦司郎が卑猥な妄想をたくましくさせているのだろう。

「彼らは? 友達かい?」

「えぇ、そのようなところです」

 篤は四人に向き直ると、

「皆、本題に入るとしよう」

 浪々とした声で宣言した。

 藍浬があっくんを胸に抱きながら勤を見た。

「ふふ、はじめまして。諏訪原くんの級友の霧沙希と言います」

「あ、あぁ、どうも」

 勤は頭を掻く。篤はそのさまを見ながら、うなずいた。

「この人は俺の村に唯一存在するバス停『亀山前』のポートガーディアン、布藤勤さんである。ほれ、みんな拍手で出迎えるのだ」

「「わー」」

 ぱちぱちぱち。

 勤は照れくさそうな笑みを浮かべた。

「やあやあ、どうも、ご紹介にあずかりました布藤勤です。あぁ、どうもどうも。本日はこのような催しにお招きいただきありがとうございます。布藤勤、布藤勤でございます。盛大な拍手ありがとうございます、ありがとうございます」

 そして咳払いをひとつ。

「それでは歌います」

「皆、勤さんがお帰りだ。拍手でお送りしろ」

「「わー」」

 ぱちぱちぱち。

「ちょっ、やめて! 調子こいてすいませんでした! 拍手やめて!」

 と、いうわけで、全員が席に着いた。

 射美が面白そうに眼を輝かせる。

「ほへー、ポートガーディアンの方でごわしたかー。政府の犬さんおつかれさまでごわす♪」

「うむ、この人は一級地脈鑑定士の資格を持っている、わりかしエリートな方のポートガーディアンだ。色々と謎を解き明かすヒントをくれることだろう」

「ちょ、ちょちょちょちょっと待ってくれ篤くーん! ななななんで《ブレーズ・パスカルの使徒》の一員がこんなところにいるんだい!?」

 勤が明らかな引け腰で叫ぶ。両腕で顔を隠すように庇い、射美から五歩くらい距離をとった。その上全身から脂汗が出る始末。

 ビビり過ぎである。

「うふふ~、射美は絶賛スパイ活動中でごわすよ~♪」

「……ということらしいので、こちらとしても彼女を利用することにしました。まぁ希望的観測としては恐らく近づいても基本的には噛み付かないと思われるので安心です」

「がう~」

 曲げた指を威圧的に掲げて猛獣っぽいポーズをとる射美。

「安……心……?」

 勤は頭を抱えた。

 篤は構わず話を進める。

「それで、鋼原よ」

「はいはい~♪」

 射美が両手を挙げて、屈託ない笑顔で答える。

「この町にいる《ブレーズ・パスカルの使徒》は……つまり、当面俺たちと事を構えそうな十二傑は、あと何人いる?」

「射美を含めて四人でごわす~」

「各自の詳細を教えてくれ」

「んん~っと~……」

 顎に人差し指を当てて、射美が語る。

 一人目、タグトゥマダーク。

「いつもみんなのごはんを作ってくれるイケメンなお兄さんでごわす♪ 地方征圧軍での序列は第八位。超・めっさぽん強いでごわす♪」

 二人目、ディルギスダーク。

「いつも独り言をブツブツ言ってる変テコなおっちゃんでごわす♪ 地方征圧軍での序列は第六位。超・めっさぽん・ファンタスティック強いでごわす♪」

 三人目、ヴェステルダーク。

「いつも決断がやたら早い射美たちのリーダーでごわす♪ 地方征圧軍での序列は第三位。超絶・めっさぽん・ファンタスティック・エクセレント・ロマンティック強すぎワロタでごわす♪」

「篤くん! 逃げよう!!」

「いきなり何ですか勤さん」

「ヤバいよ! ヴェステルダークって! ちょっとシャレにならないよ! 逃げよう! 今逃げようすぐ逃げようナウ逃げよう!」

「落ち着いてください敗北主義者」

「言い切った!? いやいや、ホントにまずいんだって! 彼は《王》の一人だ! 僕たちとは存在の次元が違う!」

「何ですか《王》とは……いや、だいたいわかります。強いバス停使いなんですね」

「そんなレベルじゃないんだよぉ~!」

 言い争う篤と勤を尻目に、攻牙が射美に問いかける。

「そういやお前の序列は何位なんだ?」

「……な、なんと上から数えて十一番目でごわす!」

「……」

 嫌な笑みを浮かべる攻牙。

「ムキィーッ! その顔やめてでごわす~! 地方征圧軍十二傑がその名のとおり十二人しかいないなんてことは攻ちゃんは知らなくていいでごわす~!」

「その四人は、現在どう動いている?」

 篤が、逃げようとする勤を組み伏せながら言った。

「えっと、確か~」

 タグトゥマダーク:ヴェステルダークが借りたボロ借家で料理洗濯掃除に邁進するついでに、篤を抹殺しようと動いている。

 ディルギスダーク:あちこち飛び回ってなんかしてる。あんまり家には帰ってこない。なにしてんのか不明。

 ヴェステルダーク:ボロ借家の居間で地図とノートを広げてなんかしてる。《楔》がどうとか言ってたけどなんのことかわかんないでごわす~。

「つ、使えねえ……」

 攻牙が目頭を押さえながら呟いた。

「えっと、それで射美は~」

「いや、もういい。お前はスパイ活動なのだろう。わかっている」

 篤も目頭を押さえながら言った。

 というか、味方の行動をあっさりバラすあたり、組織における射美の立ち位置がわかった気がした。

「……ええと、つまり」

 篤に普段から兄貴分(笑)として慕われている『亀山前』のポートガーディアン(笑)、布藤勤は腕を組んでシリアス顔(笑)を取り繕った。逃走は諦めたらしい。

「やっぱり、彼らの目的は《楔》なのか……」

「知っているのか勤ーッ!?」

 篤が叫んだ。

「なんでいきなりタメ口なの!? ……いやそれはともかく、篤くんはポートガーディアンじゃないから《楔》については知らないんだったね」

 ……と、いうわけで、ここから布藤勤の《楔》講座が始まるわけだが、すでにヴェステルダークの話の中で説明してしまったのであり、読者的には不要極まりないシーンである。

 よって省略。

 布藤勤、空気の読めない男である。

「……と、いうわけでこの地域のどこかに、皇停と呼ばれる《楔》が隠されているのさ!」(すごく得意げ)

「ふむ、所在不明のバス停、『禁龍峡』か……」

「あーあー、なんかヴェっさんがそんなこと言ってたような気がするでごわす~」

「どーも話が見えねえな」

 攻牙がログテーブルに頬杖を突きながら言った。

「それと篤のウサ耳と何の関係があるんだ?」

「あぁ、それについては、似たような例が五十年ほど前にあったらしいよ」

 ……と、いうわけで、ここから布藤勤の『昭和タヌキ騒動ぽんぽこ事件』講座が始まるわけだが、すでにヴェステルダークが説明してしまったのであり、読者的には不要極まりないシーンである。

 よって省略。

 布藤勤、空気の読めない男である(笑)。

「……と、いうわけで、大地震とそれに伴うタヌキ化現象は、皇停『禁龍峡』の暴走が引き起こしたことであると考えられているんだ!」(超得意げ)

「超かわゆい~!」

「ぐぎゃあ!」

 なぜか攻牙の頭を抱えて一緒にクルクル回りだす射美。

「離せバカヤロウ! 何なんだよ一体!」

「攻ちゃんがタヌキさんになったトコ想像してうっかり萌えたでごわす~♪」

「ボクをネタに腐った妄想すんな!」

 篤が勤に向き直る。

「つまり、この誉れ高きウサ耳も、『禁龍峡』が暴走した結果であるということですか?」

「そうだね、それ以外はちょっと考えづらい。何らかの特殊操作系バス停使いによる攻撃かとも考えたけど……」

「あ、それはないでごわすよ~」

 もがく攻牙の頬をムニムニしながら射美は言った。

「タグっちとディルさんは内力操作系だし、ヴェっさんは外力操作系でごわす。射美の能力もそーゆーのじゃないでごわすし」

「いい加減離せコラーッ!」

「あだっ! か、噛むなんてひどいでごわす~!」

 向かい合ってふしゅぅ~ッ! と威嚇しあう射美と攻牙。

「ふむ、では『禁龍峡』の暴走で決まりだな。恐らく、タグトゥマダークにも俺と同様の症状が現れているのだろう」

 篤はそう締めくくると、あっくんの耳にたーくんが猫パンチでじゃれかかっているさまを見た。

 おもむろに、そこへ手を伸ばす。

 たーくんは篤の手に驚いて「みゅ!?」飛び退ったが、あっくんは落ち着き払った様子で身を起こした。

 申し合わせたかのように掌へとよじ登ってきたあっくんを、今度は頭の上へ運ぶ。

 すると命じられたわけでもないのに、あっくんは頭を移動してウサ耳の間へちょこんと身を落ち着けた。

「ふ……」

 安らいだ微笑みを宿す篤。

 その様子を、全員が微妙な表情で眺めていた。

「……なんでお前は兎を頭に乗っけてご満悦なんだ……」

「美しく、気高い生き物だ。月の住民と呼ばれるのも頷ける」

「お前はもう語尾に『ぴょん』とでもつけてろよ!」

「わかったぴょん」

「やっぱいい! やめろ!」

「冗談だぴょん」

「……」

「……ぴょ、ぴょん」

 周囲を、重苦しい空気が包み込んだ。

「お……い……? 篤くん? ま、まさか……」

 やや青い顔をする勤。

「……付けるつもりはないのだが付けてしまうぴょん」

 腕を組んで眼を閉じる篤。

「ちょっ! これ……もうこれ! 病院! 救急車!」

 攻牙は頭を抱えた。

「まずいな……これはどんどんウサギ化が進行する流れだよ絶対」

 汗をかく勤。

「どうやら見つけ出すしかねえようだな……『禁龍峡』をよ」

「えぇ~! いいじゃないでごわすか。諏訪原センパイ、カワイイでごわすよ~」

 射美の不満げな声に、篤もうなずく。

「うむ、俺も特に不都合は感じていないぴょん」

「いや良くねえだろ! どーすんだよこのままウサギになっちまったら!」

「むしろ功徳(くどく)というものだぴょん。俺はその運命を安らぎと共に受け入れるぴょん」

 仏像みたいなアルカイック・スマイルを浮かべる篤。

「もう多分バス停は使えなくなるぞ!?」

「大事なのは力ではないぴょん。決意と、覚悟だぴょん」

「まっとうな生活を送れなくなるんだぞ!?」

「営みがどのように変わろうと、俺の魂は変わらないぴょん」

「手の構造もウサギ化したらドスが持てなくなるぞ!」

「む……それは困るぴょん」

「なんでそこで引っかかるんだよお前は……」

 疲れた声を出す攻牙。

「切腹は己の魂を純化するのに必要不可欠な儀式だぴょん」

 篤は、哀愁が染み込んだ溜息をつく。

「……ままならぬものだぴょん。致し方がないぴょん。ウサギ化するにせよ、人間にとどまるにせよ、『禁龍峡』は見つけ出さねばならないようだぴょん」

 とりあえず、そういうことになった。



 ●



 帰りのバスに揺られながら、篤は物憂げな様子で外の景色を眺めている。

 脳裏には、ふつふつと取り留めのない思考が去来している。

 今までのこと、これからのこと、自分がウサギになると知ったら霧華はどんな顔をするだろうかということ、あとウサ耳だと頭が洗いにくくなるなぁということ。

 そして、タグトゥマダークのこと。

 あの男も、自らの運命を知っているのだろうか?

 数多くの人間がひしめくこの世界で、自分と彼だけが獣化しつつあるということに、何か意味があるのだろうか?

 どこか、対比のような構図を感ずる。

 そして、想像する。タグトゥマダークが、ネコ耳を生やしたところを。

「うグッ……」

 なんかこう、こみあげてきた。グラシャラボラス的衝動が。

 ――想像以上に、不愉快な心象だ。

 別段ネコ耳そのものが醜いわけではない。子猫のたーくんは大変かわいらしい生き物だと篤も思う。しかし、その耳がよりにもよってあの男についているという事実には、冒涜的なものを感じる。この世の美なるものへの冒涜だ。

 ――死にたい! 死のう!

 フラッシュバックのように、その声が蘇る。

 つばを飲み込んで、吐き気を押し戻す。

「篤くん」

 隣の席にいた勤が、声をかけてきた。

「ぴょん?」

「いや、『ぴょん?』って……」

 気を取り直すように咳払い。

「実は、みんなの前では言っていなかったことなんだけど……」

「なんですぴょん?」

 どことなく躊躇うような勤の口調に、篤は振り返る。

 なんとも言いがたい苦みばしった表情だった。

「霧沙希藍浬という子のことだ」

「霧沙希がどうかしたんですかぴょん?」

「彼女は、その、《楔》の場所を知っているんじゃないのかい?」

「……おっしゃっている意味がよくわからないのですぴょん」

「いや、ただの憶測なんだけどさ。話を総合すると、彼女があの猫と兎を拾った瞬間、君とタグトゥマダークという人に獣耳が生え出したんだろう?」

「正確な時刻はわかりませんが、その可能性は高いと思いますぴょん」

 篤は、思い出す。

 ――そういえば、《楔》についての話が出てから、藍浬は妙に口数が少なかった。

「じゃあ……もう、答えは出てるんじゃないかな」

 沈黙が、二人を包み込んだ。

 電信柱の影が、断続的に通り過ぎてゆく。

 バスは、開けた田園地帯に差し掛かっていた。

 篤は、窓の外に眼を向けた。

「勤さん」

「う、うん」

「夕陽が綺麗ですぴょん」

「……そ、そうだね」

「夜になれば、月明かりが闇の底を青く浮かび上がらせますぴょん」

「うん」

「……俺は、美しいものが好きですぴょん」

「うん、知っている」

「友誼や、信頼といったものも、美しいと思いますぴょん」

「うんうん」

「勤さんは、どう思われますかぴょん?」

 篤は、再び勤に眼を向けた。透徹した眼差しだった。

 両手を挙げながら、ため息をつく勤。

「……わかったよ。君の好きなようにするといい。上へはひとまず報告しないでおく」

「ありがとう、ございますぴょん」

 バスが、『亀山前』に到着した。



 ●



 翌日、いつもよりかなり早く(具体的には朝の四時)家を出た篤は、校門前で腕を組んで佇んでいた。

 すでに二時間近く立ちっぱなしである。

 この時間に登校してくるのは、運動部の朝練に参加する生徒のみなので、ほとんど人気はない。

 ――霧沙希は、毎日かなり早い時間に登校してくる。

 彼女曰く、誰もいない教室に差し込む朝陽はとても詩的……とのこと。

 確かに、なかなか、悪くない。

 涼しく澄んだ空気と、その中に溶け込む陽光。反射して煌めく草木。こんな時間でも、どこかでニイニイゼミが鳴いていた。

 まだ損なわれてはいない、夏の日の匂い。

 ――おぉ、その素朴なる花鳥風月よ。

 これからは、毎日この時間に登校するつもりである。趣深いこの光景は、早起きのモチベーションという点で重要だ。

 とにもかくにも、確認はしなければならない。霧沙希が今回のウサ耳事件に関与しているのかどうか、篤は確かめるために早起きをしたのである。

 やがて。

「あら? 諏訪原くん、どうしたの?」

 桜吹雪に揺れる鈴――その音色のような声がした。

「霧沙希か」

 すでにかなり前から、涼しげな気配が歩み寄ってくるのは察知していた。

 艶やかに揺れる黒髪。ふくふくとした笑み。

 盛夏だというのに、彼女の周囲だけ春の薫風が吹いている気がする。

「お前を待っていたぴょん」

 事実、彼女が具体的に何時に登校してくるのかわからなかったので、篤は実に朝の四時半からここで立ちっぱなしであった。

 藍浬の足が、止まった。

 軽く眼を見開いている。

「え……っと……」

 声に、多少の困惑が見て取れた。霧沙希にしては非常に珍しい反応である。

 ――これは、やはりそうなのか?

 篤としては、今回のウサ耳騒動の原因を、即藍浬のせいだとは考えていなかった。が、この反応を見る限り、何らかの関係はあるのかもしれない。

「どうして?」

 困ったように微笑みながら、そう探りを入れてくる。

「お前が知る必要はないぴょん」

「ええ……? ふふ、なにかしら。気になるなぁ」

 これは韜晦しているのか、それとも本当にわからないだけか。

 どちらとも取れる表情である。

「お前はすでに、心当たりがあるのではないかぴょん?」

「よく、わからないけど……」

 頬に手を当てる。心なしか、目が伏せられている。

 隠し事のある人間は、他人と目を合わせたがらないものだ。これはやはり黒なのか。

 ――勤さんの言う通りに。

 だが、それだけでは彼女が犯人だと断定するには弱い。

 嘘をついている眼には、形而上の濁りがある。篤は、そういうものを見抜く動物的な感覚が優れていた。あっくんのように、種族も違えば言葉も通じぬ存在とすら分かり合えたのだ。霧沙希藍浬相手にそれができぬはずもない。眼は口ほどにものを言う――実際にはそれ以上だと篤は考える。

 ――もしも俺が、攻牙や鋼原ほども天才であれば、言葉から真実にたどり着くこともできたかも知れぬ。

 だが、自分にはそんなことはできない。

 ――ならば致し方あるまい。

「霧沙希、俺を見るぴょん。眼を見るぴょん」

「ぇ……?」

「さすればお前が成すべきことは自ずと知れるぴょん」

「諏訪原くんを……見ればいいの?」

「うむ。俺の眼を見るのだぴょん」

「よくわからないけど、了解です」

 大きな黒曜の瞳が、篤の眼にぴたりと合わされた。まっすぐで、清澄な視線。人の心の邪念を見透かして、その上で許すような、静かだが力強い眼力だ。

「うぅむ」

 篤は思わず唸る。

 いつか辿り着きたいと願う境地を、藍浬はごく自然に体現している。

「美しい……」

「えっ」

 藍浬の頬に、さっと朱が差した。

 その瞬間、

 ――むむっ、瞳に邪念が入った……!?

 篤の気配センサーは、彼女の中に「動揺」と「秘密」の匂いを感じ取った。

「ふっ……馬脚をあらわしたな、霧沙希よ」

「えぇー……?」

「これからずっと、お前の近くにいることしたぴょん」

「す、諏訪原くん……っ? えっと、あの、本当に、どうしたの……?」

「そして毎日こうしてお前を見ることにしたぴょん」

「ま、毎日……?」

「うむ、毎日だぴょん」

 ざわり、と。

 周囲の空気が一変した。

 喧しいニイニイゼミの鳴き声が、フッと消え去った。

 花の香りが、涼しい風に乗って漂い始める。

 早朝とはいえ汗ばむほどの気温だったのが、なぜか今は心地よい適温だ。

 辺りの草木が、その枝葉の先で一斉に蕾を膨らませ、母を求める赤ん坊の手のように開花し始めた。早回しの映像じみた光景であった。

 空を染める桜の並木。

 地を彩る菜の花の絨毯。

 ぽつぽつと控えめに灯る、タンポポやカタクリ、雪割草。

 霧沙希藍浬を中心に、色彩豊かな世界が広がってゆく。温かく、ぼやけて、にじんだ世界。

 奇妙なことに、遠くの山々や隣の小学校などは、夏の風景のままだ。異変は、彼女の周りに限定されている。

 まるで、彼女の中で折りたたまれ静止していた春の時間が、一気に展開したかのように。

 ――これは……どうしたことだ……?

「からかわないでよ、もう……」

 藍浬は、自分の両頬に手を当てて、拗ねたような、怒っているような、輝いているような、微妙な眼を向けてきた。

 それから、藍浬は逃げるように駈け出した。

「あ、こら、待つぴょん」

 遠ざかってゆく足音。

 ともなって、急激に春の世界が閉じていった。

 気温が上がり、セミの声が響き渡り、花々は最初からなかったかのように閉じていった。

 幻惑的な春の色彩は、強い日差しを吸い込んだ深緑へと戻ってゆく。

 夏の時間が、戻ってくる。

「ふぅむ」

 篤は顎に手を当てて考える。

 しかし約十秒の熟考の末わかったことといえば「考えてもわからない」ということだけだった。

 と、その時。

「むっ……!?」

 地面が、揺れ始めた。視界が軽くかき混ぜられる。草木がざわめき、ちらほらと葉が落ちてゆく。

 不安を煽る、その律動。

 だが、持続したのはほんの五秒ほどだった。ほどなく地震は収まり、常態を取り戻す。

「……うーむ」

 とりあえず、藍浬を追いかけることにした。



 ●



「にゃふー、それじゃあ今度こそ諏訪原クンをブッ殺しにいってきますニャン」

 タグトゥマダークは、相変わらず頭にタンポポ咲いていそうな笑顔で言った。

「いってらっしゃいませお兄さま。せいぜい失敗しないようにお気をつけ下さいね」

 夢月が玄関先まで見送りに出てきてくれた。なかなかに珍しいことである。

「うん、がんばるニャン!」

 ――結局、ネコ耳について出来ることは、現時点では存在しないらしい。

 ヴェステルダークが『禁龍峡』を見つけてどうにかするまでは、このまま語尾に「ニャン」をつけるという死にたくなるような生活を強いられるようだ。

 タグトゥマダークは、息を吐きながら昨晩のことを思い出す。

 帰ってきた射美には笑われるし撫でられるしプラスチックの猫じゃらしで遊ばれるし、ディルギスダークには「現代医学の敗北」とか「オタ文化への主体なき追従」とか「フィギュア萌え族」とかひどい言葉を散りばめた陰鬱なマシンガントークで精神的に追い詰められるしで、何度死のうと思ったことか。

 しかしそれでも、最終的には気分が落ち着いた。

 なんつってもヴェステルダークに任せておけばいずれ解決する問題なのだ。わりかし気は軽い。

「あぁ、でも私は正直心配ですわ……」

「ははは、夢月ちゃんは心配性だニャア。でもうれしいニャン」

 夢月は頬に手を当てて、憂いに満ちた目を伏せる。

「お兄さまは道中でシオカメウズムシに捕食されないかしら……」

「どうしてそこでゾウリムシ扱いされなきゃならないのか全然わかんないニャン!」

「捕食されればいいのに……」

「願望になった!?」

 夢月はそこで小さな肩をすくめた。

「はぁ、それでは戦に臨むにあたっての重要なアドバイスをひとつ」

「うん! うん!」

「首級が見苦しくなるので口は閉じておきなさい」

「うわぁい! 夢月ちゃんは本当に心づかいが細やかだニャア! 死にたい! 死のう!」

「それから……」

 不意に、夢月は歩み寄ってくる。

「ん?」

「はい、これ」

 手渡されたのは、神社で売ってそうなお守りであった。

「買いましたわ。安物ですが、身につけておいてくださいませ」

「あの、うれしいんだけど、これ交通安全のお守りだよね……?」

「あら、安産祈願のほうが良かったかしら?」

「何を生ませるつもりなの!?」

 ひしっと。

 唐突に、夢月はタグトゥマダークの胸元にしがみついた。

「ちゃんと、帰ってきてくださいね」

「……うん」

「夢月を一人にしないでくださいね」

「うん、大丈夫だニャ」

 両腕で、そのあまりに小さな肩を包み込んだ。

 温かかった。



 ●



 ハイパーミニマム高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、その日いつにも増して沈鬱な気持ちを抱えて登校していた。別段、いくら牛乳を痛☆飲しようが一向に成長する気配のない我が身を儚んでいたわけではなく、もっと別の事情であった。

「いやこれもうヤベーよこれマジやべーよ勉強してねえよ昨日も全然!」

「昨日の今日ですべきことを忘れるなんて、攻ちゃんはほんとうにオロカな生き物でごわすね♪」

「そういうお前はやったのかと言いたい!」

 射美は目をそらした。

「……そーいえば昨日家に帰ったら、タグっちやっぱりネコ耳生えてたでごわすよ~。指でつっつくとパタパタ暴れて超キュートでごわした♪」

「ネコ耳で遊ぶあまりやってなかったんだな! すっかり忘れてやがったんだな!」

「……夏休みなんて……無意味な慣習でごわす……」

「すでに夏を諦めてたーッ!」

 校門をくぐり、下駄箱へ向かう。

 と、その時。

 こちらに向けて駆け寄ってくる足音がひとつ。

「あっ、霧沙希センパーイ♪」

 射美が声を弾ませる。

 黒髪を大きく揺らして駆け寄ってきたのは霧沙希藍浬だった。

 珍しく息を乱し、胸元を押さえている。

「はぁっ、はぁっ」

 二人の前にたどりつくと、膝に手をつきながら息も絶え絶えに言った。

「攻牙くん、鋼原さん、た、たすけてくれない……?」

 攻牙と射美は顔を見合わせる。

「な、何があったでごわすか?」

「ついに敵襲かー!」

「ち、違うの……諏訪原くんが……」

「?」

 ――だっ、だっ、だっ、だっ……

 異様なほど規則正しい足音が、近づいてくる。

「あ……追いつかれちゃう……」

 さっと二人の後ろに隠れる藍浬。

「――ようやく追いついたぴょん。観念するぴょん」

 落ち着いた声。

 白いウサ耳をまぶしく揺らしながら、諏訪原篤がターミネーターT-1000のごとく突進してくる。

 そして唖然としている攻牙と射美の前で立ち止まり、二人の背後にいる標的を冷静な視線で貫いた。

「さあ、出てくるぴょん。そして大人しく俺の眼を見るぴょん」

「いやお前はいきなり何を言ってるんだよ!」

 篤は攻牙に眼を向け、鼻を鳴らした。

「攻牙、そこをどいてほしいぴょん。俺は常に霧沙希を視界に納めていなければならぬぴょん」

「な、なんでだよ」

「一言で言うと、眼と眼で通じ合うためだぴょん」

 攻牙は頭を抱えた。

「病院! もうこれ病院行こう! いいから! 病院!」

「落ち着くぴょん。俺は乱心してはおらぬぴょん」

「今のお前じゃ何を言っても説得力ねえんだよ!」

 と、そこで攻牙は肩をちょいちょいと引っ張られた。

 振り向くと、射美が眼を輝かせている。

「まぁまぁ攻ちゃん。これはアレでごわすよ、スウィートな青春イベントという奴でごわすよ」

 にゅふふ、と口に握った手を当ててほくそ笑む射美。

「いっやー、まさか諏訪原センパイがこんなセッキョク的なアプローチをするとは、いっやー、この海のイルミの目をもってしても見抜けなんだわーでごわすー!」

 ――リハクなめんなよコラー!

 と攻牙は突っかかりたかったが、

「~~~~っ!」

 背後から聞こえてくる変な声に気をとられた。

 首を絞められたハムスターの悲鳴じみた声だった。

「え?」「う?」

 射美と同時に背後を見る。

 ……藍浬が両手で顔を覆っていた。

「わ、わ、わた、わたっ」

 うつむきながら、か細い声で。

「わたし、困る……かも……そんな……急に……」

「うむ、お前にも負担をかけるかもしれぬが、どうしても成さねばならぬのだぴょん」

 篤はずいずいと歩み寄る。

 その気迫に圧されて、攻牙と射美は思わず後ずさる。

「さあ、その顔を見せてくれぴょん。俺は霧沙希の心を知りたいのだぴょん」

 篤は手を伸ばし、藍浬の細い手首を包み込んだ。

 藍浬はぴくんと身を震わせ、ゆっくりと手を顔から離してゆく。

 徐々にあらわになる顔(かんばせ)。紅潮した頬。リスのように引き結ばれた口。指の隙間から覗く潤んだ瞳。

「や、やっぱり無理~っ」

 篤の手を振り払うと、脱兎の勢いで走り去る。

「待つぴょん」

 素早く腕を伸ばし、逃げようとする藍浬の肩をつかむ。

 そのままぐいと引き寄せ、自分のほうへと向かせた。

 両手が藍浬の両肩を捕らえる。

 藍浬の背中が、下駄箱に押し付けられた。

「ま、待って諏訪原くん! これはちょっとおかしいわ。何がともいいがたいんだけど、何かがすごくおかしいと思います……!」

「もはやお前を放さないぴょん」

「勘違いしちゃう……そんなこと言われるとわたし勘違いしちゃうから……落ち着いて! きっとどこかですれ違いがあるんだと思うっ!」

「その通りだぴょん。だからこそこうやって、誤解や欺瞞なき関係を築く儀式を行うのだぴょん」

「……きゅう」



 ●



 ――この瞬間、紳相高校を中心とする半径一キロの範囲で、気候や植生その他の環境が一時的に春になるという不可解な超常現象が観測された。

 超法規的秘密財団法人『神樹災害基金』の中枢機関は、この事実を厳粛に受け止め、大規模なお花見大会を決行することにした。



 ●



「アブソリュート☆斬殺タイム、はっじまっるニャーン!」

 ……その一撃をかわせたのは、ひとえに篤の『常住死身』たる信条ゆえであった。「生きるため、常に命を賭け続ける」ということ。それはすなわち二十四時間臨戦態勢を維持するということに他ならない。

「むぅ!」

 瞬間的に藍浬を抱きしめると、横っ飛びにその場を離脱した。

 閃光。

 動体視力の限界を超える、フェムト時間単位での斬撃が、凄艶な弧月を描いた。

「は~ん? やっぱり思った通りだニャン! 諏訪原篤……キミは不意打ちが通用しないタイプの使い手みたいだニャン!」

 ――いずこか……?

 篤は、今何らかの攻撃を受けたことは理解していた。だが、敵がどこからどんな攻撃を仕掛けてきたのか、まるで理解できなかった。何もない空間に、突如として斬撃だけが迸ったのだ。

「ああっ! タグっち! も~おダメでごわすよ~今いいところだったのに~!」

 射美が上を見上げ、手を振り回しながら抗議する。

「やあ射美ちゃん! 諜報活動御苦労さまだニャン! だけどサムライ少年の首は僕がいただくニャ~ン!」

 どこからともなく響いてくる、タグトゥマダークの声。

 気配は、ある。すぐそばにいるのがわかる。だが位置は特定できない。

「さぁて、こんにちは諏訪原クン! 相変わらずウサ耳と仏頂面が合わなさ過ぎて精神的ブラクラだニャン! 前回は見苦しいところを見せちゃったニャン! リベンジマッチといきたいんだけど、僕の挑戦、受けてくれるかニャン!?」

 躊躇いもなく「よかろう」と答えるには、あまりに危険な匂いのする相手であったが……

 ――異存はない。

 篤は無言のまま重々しくうなずいた。

「グッド! そんじゃあ屋上にご招待だニャン! 最高のおもてなしを用意してるニャ~ン!」

 そう言い残し、気配は遠ざかっていった。

 しばしの沈黙。

 やがて、攻牙が鼻を鳴らした。

「明らかに罠だな。悪役をやりなれてやがるぜあのイケメン野郎……」

 そして楽しそ~ぉに笑った。

「『グッド!』に『ご招待』に『おもてなし』だと? 上等じゃねーかよオイ!」

 いきりたつ攻牙の目前に、篤の腕が伸ばされる。通せんぼの形だった。

「……なんだよ」

 篤はゆっくりと首を振った。ウサ耳が頭の上で揺れた。

「そ、そーでごわすよ。タグっちはマジで強いでごわすよ~攻ちゃんは下がってた方がいいでごわすよ~」

 射美が横から攻牙の腕を掴む。眉尻は下がり、ちょっぴりマジな顔である。

 攻牙は舌うちした。

「――超人的怪力。クレーターを作るほどの近接攻撃。エネルギー操作による遠隔攻撃。車に轢かれても傷一つ負わないバリアー。そしてそれらの原則にも当てはまらない超常能力――」

「こ、攻ちゃん……?」

「ナメてんじゃねーぞコラ。お前らバス停使いのスペックなんざとっくに学習済みだぜ」

 頬を歪め、尖った歯を見せる。

「ボクが何のために試験勉強ほっぽりだして駆けずり回ったと思ってんだ!」

 クックック……と含み笑いをする攻牙。

「学校中に仕掛けまくった対バス停使い用即死トラップの数々……火を噴く時がきたようだなあ……!」

「そ、そんなものをー!? ウソ、気付かなかったでごわす!」

「気付かれたら罠になんねーだろうがよ! ボクも屋上に行くぞ! 無力な一般市民扱いなんかお断りだぜ!」

「ううぅ!」

「篤! 文句はねーよな?」

 返事はなかった。

「……あれ? 篤?」

 篤はいなかった。

 しゃがみ込んでプスプスと湯気を上げている藍浬がいただけだった。



 ●



 ――ずっと。

 篤は階段を上りながら、自嘲していた。

 ――ずっと目を背けてきたのだ。

 避け得ぬ宿命。絶対の敵対者。

 そういうものは、存在する。

 ――愚かなことだ。

 本質の是非ではなく、篤自身のエゴによって、否定せざるを得ない敵。

 何が起ころうと、許してはならぬ敵。

 ――認めたくは、なかった。

 悪は倒さねばならぬ……篤のシンプルな倫理観は、そう告げている。

 だが、この胸の底から沸き上がってくる、冷たく引き攣れるような闘志は、それ以外の理由によるものだ。

 ――かの敵は、俺のありようを否定する。

 [だから]、討とうとしているのだ。篤が殉じようとする「道」ではなく、さらに言うなら「正義」ですらなく、[自分が否定されたくないがために]、篤はタグトゥマダークと相対するのだ。

 ――嗚呼、本当に、認めたくはなかった。

 自分を守るために、戦いたくはなかった。霧沙希藍浬のように、温かい微笑みですべてを受け入れたかった。本当の強者とは、何かを否定する必要がない者のことなのだ。

 ――だが、それは無理だ。

 タグトゥマダークは、恐らく、生涯をかけて否定せねばならない相手なのだ。

 ――霧沙希よ、どうやら俺は、お前のようにはなれない。

 その事実が、喩えようもなく、哀しかった。

 やがて、屋上へと通ずるドアが、目の前に出現した。

 力を込めて歩みを進める。

 ――俺は、ネコ耳を、許せない。

 扉を、開ける。



 ――やはり、似ている。

 夏の空の下、フェンスの上に悠然と立つタグトゥマダークの姿を見た瞬間、篤はそう思った。

 しなやかな痩身。長い手足。色素の薄い髪。そしてネコ耳。

 顔立ちも背格好も特に共通点はなかったが、その佇まいにはどこか、死への意思を感ずる。

 何らかの理由で、死に魅入られた者の立ち振る舞い。

 まるで鏡を見ているかのような、親近感と嫌悪感。

 そう、似ているのだ。篤とあっくんが似ているのと同じ程度に、篤とタグトゥマダークは似ている。

 だからこそ、許せない。

「うぇええるか~む! 待って~たニャ~ン!」

 タグトゥマダークは、ゆくりと振り向いた。満面の笑み。

 眼が合う。空気が、ドロリと濁る。

「一人で来るとは感心だニャン! 武士道ってやつかニャン!? 超シブいニャーン!」

 足首だけの力で軽く跳躍し、宙返りしながら床に降り立つ。

 着地の際に音も立てない、羽毛のような動き。

 同時に、頭のネコ耳がぴょこんとお辞儀する。

 篤は、奥歯をかみ締める。

「――おぞましきかな、猫の化生。俺は何故か自分でもわからぬが、そのネコ耳をどうしても許せなくなったぴょん」

「へえ、そうニャン? 僕はキミの耳は嫌いじゃないけど、君自身は大嫌いだニャン」

 亀裂のような笑みを浮かべるタグトゥマダーク。

「先にバス停を抜くといいニャン」

 片足に体重をかけ、顔を傾ける。隙だらけの姿態。

「予言しておくニャン。戦いが始まったら、五秒以内にキミは地に膝をつくニャン」

 ――五秒、か。

 篤はどっしりと腰を落とし、右腕をゆっくりと横に伸ばした。前回のように、バス停を引き抜く手を押さえられることがないよう、間合いを確保している。

 ――充分だ。

「顎門を開け――『姫川病院前』!」

 腕が界面下に潜り込み、強壮に唸る鋼の巨鎚を握り締めた。

 青白く迸る電撃とともに、バス停を一気に引き抜く。荒れ狂う大気に、髪や衣服が暴れまわった。心地よい重量感が、腕に宿る。

 篤はタグトゥマダークを正面から睨み付ける。

「――我流、諏訪原篤だぴょん」

 口の端を吊り上げ、タグトゥマダークは応える。

「虚停流皆伝、タグトゥマダークだニャン」

 名乗りを終えて。

 ――いざ、尋常に。



「ニャァァァァァァンッ!」

「ぴょぉぉぉぉぉぉんッ!」



 かくて、ウサ耳とネコ耳の死闘が、はじまった。



 ――直後、篤の胸から、血煙が吹き上がった。

「がッ……!?」

 よろめきながら一歩二歩と後退り、片膝をつく。

「――あはは、一秒で片付いちゃったニャン」

 [背後から]、タグトゥマダークの笑い声が聞こえた。

 まるで、子供の失敗シーン満載なホームビデオを見ているような笑いだった。



 ●



「無音即時召喚……?」

「タグっちは、射美やゾンちゃんやディルさんとはちがうでごわす。ちゃんとしたおシショーさんについてって、キチッとしたバス停のあつかい方を習った人でごわす」

「だったらなんだってんだよ」

「バス停を呼び出すのに、いちいち召還文句なんか言う必要がないのでごわす。出ろと念じたときにはもう出ているでごわす」

「それは……」

 攻牙は一瞬で、無音即時召喚という特質がもたらす戦闘への利便性を考える。

「……ヤバいな」

「そう、ヤバいんでごわす。ヤバヤバでごわす。たぶん諏訪原センパイは何もできないでごわす」

「ボクにそんなことを言ってお前はどうしてほしいんだよ」

「タグっちに掛けあって、諏訪原センパイを死なせない方向で決着をつけてもらうつもりでごわす。だから攻ちゃんはその間に逃げて欲しいでごわす」

「お断りだな」

 躊躇なく即答。

「……どーあっても諏訪原センパイを助けに行くつもりでごわすか」

「ボクには思想も信念もねえけどな……それでも死の危険くらいじゃ止まってやらねえよ」

 攻牙は踵を返し、駆け出す。

 ……駆け出そうとして、後ろから肩を掴まれた。

「どーも忘れられてるみたいでごわすけど、射美はタグっちの味方でごわす。それに攻ちゃんは一見ただのショタっ子だけど、実はそうじゃないカンジでごわす。常識で考えてタグっちほどのバス停使いに一般人がなんかできるとは思えないけど、攻ちゃんはなんかやりそうでごわす」

 攻牙は、ゆっくりと、振り返った。

「ふふん。それで? 止めるのか? 力ずくで?」

「口で言ってもどーしよーもないカンジでごわす。しょうがないでごわす」

 射美は口を引き結んでいる。

 細い腕を頭上に伸ばし、叫んだ。

「接続(アクセス)! 第七級バス停『夢塵原公園』、使用権限登録者(プロヴィデンスユーザー)セラキトハートが命ず! 界面下召喚!」

 眩い光が降り注ぐ。

「いいぜ来いよ! リターンマッチと行こうじゃねえか!」

 肉食性の笑みを宿す攻牙。

 この場に仕掛けた罠の数々を、脳内で瞬時にリストアップする。



 ●



 ――いかん。

 胸を走る、重い痺れ。触れてみると、赤くて熱い液体がべっとりと掌を汚した。

 横一文字に、掻っ捌かれている。

 すぐに後ろを向き、敵を視界に収めた。

「さて……」

 タグトゥマダークの踵は、アウトボクサーのようにゆるやかなステップを踏み始める。その手には、バス停などない。完全に手ぶらだ。

 バス停もなしにどうやってこの傷をつけたのか。どうやって背後に回ったのか。

 いや――

 そんなことはどうでもよい。

 今の攻撃に、殺気どころか[攻撃の意志すら]感じ取れなかったのは、何故か。

 篤は、殺気を読める。意図的に死(せっぷく)と隣り合わせの日常を送っていれば、死の匂いに対する予知能力とでもいうべき、特殊な嗅覚が発達してゆくのだ。だからこそ、下駄箱で藍浬を追い詰めていた時には、どこからともなく発せられてきた殺気を読んでいち早く回避行動にうつることができた。

 にも関わらず。

 今の一撃には、またく何の意志も感情もなかった。……読めなかったのだ。

「今の一瞬で、キミの脳裏にはいくつかの疑問が芽生えたかと思うニャン」

「むぅっ」

 タグトゥマダークは悠々としたフットワークで間合いを詰め始める。

 まっすぐではなく、横に回りこむような動きだ。時折自身も回転しながら、ゆったりとした動作で――その実不気味なまでに素早く――篤の周りを巡る。まるで、さまざまな角度から隙を探すように。

「普通は何も言わずに瞬殺するトコなんだけど……キミは何だかボクと似た匂いがするニャ。もうちょっと遊びたくなったんだニャン」

 円を描くように、篤の周囲を舞い進む。

「悠長だぴょん。それは油断と余裕を取り違えて破滅する者の言説だぴょん」

「ハハ、そうかもしれないニャン。でも諏訪原くん、キミを見ていると、それもいいかななんて考えてしまうんだニャン」

 子供のように、無垢な笑みを浮かべて。

「まるではじめて会った気がしないニャン。鏡を見ているような気分だニャン。最高に最悪な気分だニャン」

 それはいつしか、冷たい嘲笑と化す。

「きっと僕たちは、生まれた時から殺しあう運命だったんだニャン」

 ぎょるっ、と音を立てて、眼が見開かれた。

 ……その瞳孔は、縦に鋭く裂けていた。

 猫の妖眼。

 捕食者の眼差し。

「さあ、いい加減反撃のアイディアは閃いたかニャン? 僕をガッカリさせないでほしいニャン」

 身を低くして、彼は床を蹴る。地を這うような低姿勢で突進する。

 轟音は立たない。コンクリートが砕けもしない。

 だがそれは、内力操作系バス停使いの驚異的脚力が、損耗なく推進力に変換されているということだけを意味する。

 その証拠に、瞬きほどの間隙もなく、間合いがゼロとなる。

「むっ――」

 来るべき攻撃に備え、篤は『姫川病院前』を構える。

 構えようとするその腕が――唐突に血を吹き上げる。

「むむっ!?」

 ――まただ!

 殺意なき、斬撃。

 読めない太刀筋。

 明らかにおかしい。攻撃をする瞬間にすら何の殺意も漏出しないなど、この男が人形でもない限りありえない。

「ははッ! 混乱してるニャン!?」

 ――ッ!?

 その瞬間、まったく唐突に、殺意が迸った。篤の意識に、はっきりと加害の意志が感じ取られた。

 滅紫の斬閃が迸る。

 火花が咲き散る。

 反射的に掲げた『姫川病院前』が、一撃を打ち払ったのだ。

 防御、成功。

 しかしギリギリだ。今の一撃は殺意の漏洩があったおかげで先んじて対応できたが、かつて闘ったどの相手よりも速く、鋭く、精確な一撃だった。もう一度同じように防げと言われても、確実にできるとはとても思えない。

 だが、そんなことよりも――

 タグトゥマダークは軽やかに宙転し、間合いを取る。薄笑いが、消えていない。

 バス停も、持っていない。

 ――どういう、ことだ……?



 ●



「むぎゅ!」

「あうぅ?」

 特に速い動きだったわけではない。

 特に強い力だったわけではない。

 だけど、攻牙と射美は、その腕を振り払うことができなかった。

 ひんやりとした感触が、二人を柔らかく包み込んでいる。

「き、霧沙希センパイ……」

 射美が狼狽した声を上げる。二の腕と鎖骨に挟まれて、借りてきた猫のように縮こまっている。

「むぎゅっ! むぎゅっ!」

 攻牙に至っては神話的弾力の側面に顔を押し付けられて呼吸困難に陥っていた。

「あのね、二人とも。聞いて?」

 藍浬はゆっくり寝物語を語るように、言葉を紡いだ。

「二人は、諏訪原くんのことは好き?」

 攻牙がもがくのをやめた。

 射美はバツが悪そうに眉尻を下げる。

「そ、それは……」

「むぎゅう……」

「わたしは、好き」

 大切にしまっていた宝物を取り出すように、藍浬は言った。

 穏やかに、口元が綻ぶ。

「だから、これはお願い。ケンカはやめて、諏訪原くんを助けるのに手を貸して、くれない?」

「ううぅ……」

 射美は口をにゃむにゃむと波線の形にし、悩んでいるようだった。

「タグっちを裏切るわけには……」

「ふふ、鋼原さん、そうじゃないわ。誰も怪我をしないような落としどころを決めましょうってこと」

 藍浬は破顔して、射美に頬擦りをした。

「うにぃ~」

 眼を細めながら、射美は潤んだ瞳で藍浬を見た。

「……なまえ」

「うん?」

「なまえ、射美は射美って呼んでほしいでごわす」

「いいわ……射美ちゃん。手を貸してくれる?」

「んにゅふぅ~、よろこんで♪」

「むぎゅう!」

 そんな簡単でいいのかよ、と攻牙は思った。



 ●



 わかったことがある。

 第一に、タグトゥマダークはやはりバス停を使って攻撃してきているということ。どういう仕組みなのかはわからないが、普段は素手だというのに、攻撃の瞬間だけバス停の刃が出現するのだ。

 第二に、タグトゥマダークの攻撃には、殺意があるものとないものの二種類あるということ。

 殺意があるほうの斬撃は、スピード、精度ともに凄まじく、敵の圧倒的実力を感じさせるものだった。殺意があるおかげで先読みの防御がどうにか間に合うのだが、連続で来られると恐らく防ぎきれまい。

 殺意がないほうの斬撃は、一変して質が落ちる。急所を狙ってくるわけでも、神速を誇るわけでもないお粗末なものである。しかし、殺意がないというのはただそれだけで脅威だ。ほとんど何のリアクションもできずに食らってしまう。

 ――遊ばれているな。

 そう思う。

 恐らく、息もつかせぬ連撃で畳み掛けられると、篤は瞬時に細切れになっていることだろう。タグトゥマダークは、一撃入れるごとに間合いを取り、こちらが体勢を立て直すのを待ってから次の行動に移っているのだ。

「第二次わくわく☆尋問タイム、はっじまっるニャーン!」

 またなんか言い出した。

「問い10:キミと僕は似てる感じがするニャン。けどそれは何故だと思うニャン?」

 迸る殺意。反応して、篤は得物を横に構える。

 瞬速の踏み込みと、彗星のごとき一撃が、滅紫の軌跡を描いた。

「応えて曰く:死。絶対なる終わり。それを見ざるを得ぬ者。最大の共通項はそれだぴょん」

 激突。散華。輝く粒子が舞い散る。篤は足を踏みしめて耐える。

 タグトゥマダークは追撃をかけようとせず、飛び退った。

「問い11:キミと僕は違う感じがするニャン。けどそれは何故だと思うニャン?」

 矢のごとき殺意。反応して、篤は体を半身にする。

 一息に、三回。三条の刺突が閃光の形を取って篤の姿を貫いた。

「応えて曰く:死に対する姿勢の違い。生を苦とし、死に向かう者。生を美とし、死を利用する者。その差異だぴょん」

 貫かれた篤の姿は残像。本物は一歩ずれた脇でバス停を振りかぶる。

 その瞬間、前触れなくこめかみが血を吹き出した。篤は弾かれたようにのけぞる。鋭利な傷跡が残った。殺意なき斬撃だ。

「問い12:似ていながら違う人を目の当たりにすると、なぜこうも殺意が沸いてくるんだニャン?」

 滲み出る殺意。篤は――防御も回避も期さず、ただ無造作に踏み込む。

 旋回とステップを駆使した、円舞のごとき横薙ぎが来た。冥い紫の平面が、視界を二分した。

「応えて曰く:己の悪意ある模倣を見ている気分になるのだぴょん……ッ!」

 最初の二撃を肩から背中にかけて受け、斬り裂かれるのにも構わず猛然と突進。

 何の脈絡もなく脇腹と太腿から血が噴出するが、無視。

「問うて曰く!」

 下手に避けようとせず、逆に前進したのが功を奏した。斬閃の内側にもぐりこむ。踏み込んだ足を軸に旋回し、旋回し、旋回。『姫川病院前』に遠心力を乗せる。強烈な横G。両腕が引っこ抜かれるような感覚。

 そして――慣性を解放。

 下からすくい上げるように、総身の力をひとつにして、『姫川病院前』をブチかました。

「貴様はなぜ死を希求するぴょん!」

「ッ!?」

 着弾。

 吹き荒れる〈BUS〉の狂風。爆音が世界を軋ませる。

 芯を捉えた打撃の反動が、篤の全身を駆け抜けてゆく。

 空が、広がる。タグトゥマダークの体は天高く浮き上がった。

 きっちりとバス停で防御しているようだが、体全体にかかる衝撃はどうしようもない。望まぬ滞空を強いられているようだ。

 その間、篤はバス停を振り抜いた姿勢から、流れるようにコンクリート塊を後方に向けた。そしてギターを持つように支柱を両手で握り締め、空中の宿敵を睨み付ける。

「応えよ! タグトゥマダーク!」

 瞬間、地面に向けられたコンクリート塊が爆裂。〈BUS〉をガスバーナーのように噴射し、篤の体を上空へ射出した。押し広げられた大気が白い輪を形作り、噴進する篤の軌跡を強調する。

 空中のタグトゥマダークへと。

 一直線に突貫する。

 腹の底から、必殺の気合が迸り出る。

 ここから放つ重撃は、回避不能の空中において、確実に敵手を粉砕することだろう。

 腕に力を込め、接触の機を待つ。

 瞬間、タグトゥマダークの体が空中でくねり――消えた。

「っ!?」

「――吠えれば」

 かすかな声。

 背後から、声。

「勝てるとでも?」

 三日月が、嘲笑いながら走り抜けた。

 優美な軌跡の踵落としが、篤の脳天を捉え、叩き落した。

「ごッ、が……!」

 頭の中で超新星爆発。

 受身も取れず、屋上に叩きつけられる。一瞬遅れて、業火に焼かれるような痛みが全身を舐め始める。

 篤は意識が暗くなってゆくのを自覚した。

 が――篤は目を見開いた。

 白く、長く、ふわふわしたものが、視界に垂れさがってきていた。

 ――おぉ。

 それは、美なるもの。

 ――おぉ……!

 侵されざるもの。侵されてはならぬもの。

「お、お、おぉ、ぉぉぉ、おおおおおおおおおぉ……!」

 叩き潰され、薄汚れ、赤く染まり、力なく。

 もはや、ぴんと伸びることもなく。

 本来ならば汚れもなく純白であったはずのそれは。

 ウサ耳は。

 篤の、誉れは。



 ●



 屋上に足を踏み入れたその瞬間に、攻牙は状況を看破した。

 血まみれの篤。なぜか膝立ちで天を見上げている。その頭から生えるウサ耳は、片方が折れて顔面に垂れ下がっていた。白毛の中から、おびただしい内出血の様子が透けて見えた。

 タグトゥマダークは笑っている。嘲っている。

 要するに、頭に何らかの攻撃を受けて大切なウサ耳が折れちゃった、の図らしい。

「左耳……左耳よ……! あぁ――なぜ! なぜお前がかくも無残な仕打ちを受けなければならないぴょん! こんな俺ごときに気高く美しい輪郭を授けてくれたお前が、なぜ……! この世には、神も仏もないのかぴょん……!」

 血涙でも流さんばかりの無念を滲ませ、篤は唸った。

 ――ホントになんなのコイツ!

 攻牙は頭を抱えた。

「おぉ、耳左衛門(みみざえもん)よ……お前の無念は哀切となり、我が胸の裡に涙の花を灯すぴょん……」

 ――ウサ耳に名前をつけだした!?

 どこまでも理解を拒む男、諏訪原篤。

「はっは! 折れちゃったニャン! 潰れて血を流して折れちゃったニャン! もうどうしようもないニャン! ウサ耳人間としてのキミは今死んだニャン!」

 タグトゥマダークは嗜虐に満ちた笑顔で篤を睨み付けている。

「まだ僕の踵には感触が残っているニャン! 命中の瞬間、耳左衛門くんが苦しみ悶え肉が潰れ血を吐き散らし絶望のうちに息絶えるその感触が! 踏みにじり、穢し尽くした感触が! 僕の頭の耳音(みみね)ちゃんと耳美(みみみ)ちゃんも悦び震えているニャン!」

 お前もか!

 センスの欠片も感じられない命名である。

「まだだ――」

 篤が、低く呟く。

 立ち上がる。

「まだ俺には、耳右衛門(みみえもん)がいるぴょん……!」

「笑止だニャン! 僕には耳音ちゃんと耳美ちゃんがいるニャン! 相方を喪った手負いごときに勝てる道理はないニャン!」

 タグトゥマダークは、姿勢を極限まで屈め、猫科の捕食者じみた構えを取る。

 その手にバス停はない。

 ――無音即時召喚ってやつか。

 普段は界面下にバス停を隠し、攻撃の瞬間だけ実体化させるのだ。

「その綺麗なウサ耳を、造作もなく刈り取ってやるニャン!」

 そして――消えた。

 超スピードで掻き消える……という感じではなく、本当にその場で消え失せたのだ。

 攻牙は直感する。

 ――ははぁ、なるほどね。

「篤! 後ろだ!」

 そうして、初めて攻牙は声を上げた。

「むう!?」

 篤はその言葉通り、旋回しつつ振り向きざまに『姫川病院前』を叩き込んだ。

 閃光の炸裂。そして轟音。

「ニャにッ!?」

 タグトゥマダークの狼狽した声。篤の打撃を、自らのバス停で防御している。

 彼の下半身は、何もない空間にぱっくりと開いた次元の裂け目の中にあり、見ることができない。上半身だけがニョキッと生えている状態だ。

 ――見た瞬間わかったぜ。

 自ら界面下に潜り込み、死角から襲い掛かる。

 ――それが虚停流ってわけだ。

 わかってしまえばなんてことはない。奴が界面下に潜航している間、こちらからは見えもせず攻撃もできないが、[それは奴とて同じこと]。対処法さえわかっていれば決して慌てるような代物じゃない。

「篤! 奴が唐突に消えた時は十中八九背後から襲い掛かってくる! 気をつけとけ!」

「むう、そうであったか……ぴょん」

「無理に語尾つけんな!」

 どんだけ気に入ってるんだよ。

「ふぅん、ずいぶん鋭い観察眼を持ってるじゃニャいか」

 タグトゥマダークは音もなく地面に降り立ち、冷徹な視線を攻牙に向けてきた。縦に裂けた猫の妖眼が、冷たい殺意を宿す。

「邪魔だニャ、キミ」

 一瞬身を屈め、跳躍。一瞬で十五メートル以上の高みに至ったタグトゥマダークは、右腕を界面下に突っ込んでいた。上空からの急襲をかけるつもりか。

 攻牙は緊張に身を強張らせた。

 と同時に、違和感を覚える。

 ――なんだ?

 なぜ奴は跳躍している?

 普通に駆け寄って斬り捨てればいいだけの話ではないか。飛び込み攻撃が強いのは格闘ゲームの中だけの話だ。途中で止まることのできないジャンプアタックは、現実では死に技である。動きが読まれまくるから。

 にもかかわらず、なぜ?

 ――まるで、そこに障害物でもあるかのように。

「虚停流初殺――」

 空中で身をよじり、刃を抜き降ろしてくる。

 攻牙は飛び退る――が。

 雷光より眩く鋭い、垂直の軌跡。

「くあ……!」

 頬から腹にかけて、赤い線が刻まれる。痛みではなく熱を発する。

 間に合わなかった。だが浅い。致命傷には程遠い。

 見ると、タグトゥマダークはバス停を振り下ろした勢いのまま界面下にしまい込み、その姿勢のままさらに踏み込んできていた。

「――〈燕天地〉」

 吹き上がる、斬光。

 初撃から第二撃までの間に当然あるべきタイムラグは、すべてキャンセルされていた。体感的には、ほとんど同時に振り下ろしと振り上げが来たように感じられる。

 回避不可。

 防御不可。

 ――おい! こんな序盤で負傷イベントかよ!

 などとメタ思考で現実逃避してみるも、いやいやこれは負傷どころか確実に死ぬ感じの攻撃ですぞと脳内執事(元傭兵)が上申してくるのを聞き流しつつこれちょっとマジやばくねえかよオイこれどうすんだよオイ!

 攻牙はこういう時、脳内に第二第三の自分を作り、一瞬でそいつらと相談するという癖があった。

 ――脳内有象無象ども! てめーらの意見を聞こう!

 即座に脳のあちこちから意見が上げられた。「受け入れろ。ここはそういう世界だ」と大脳辺縁系在住の脳内暗殺者が吐き捨て、「死とは一種の相転移に過ぎない。恐れるなかれ」などと海馬在住の脳内武術家が嘯き、「君の死は作戦の範疇だ」と脳幹における本能のうねりを監視していた脳内陸軍士官は冷徹に丸眼鏡をクイッとやり、「お前の死を乗り越え、俺は必ず世界を救う!」と脳下垂体に巣食う脳内魔王と対峙していた脳内勇者は涙の決意を固め、「あの、あれだから、いわゆるその、あれ、なんていうかなぁ、バッドエンド? デッドエンド? とにかくそういう感じでな、もうあれだな、せっかく女の子が二人もいるのにフラグの一つも立てないからこんなことになるんだぞバカだなぁアッハッハ」と視床下部の狭間で寝そべっていた脳内親父が爽やかに笑った。なんでここにいるんだ穀潰し。

 鋼鉄のひしりあげる悲鳴が、攻牙の益体もない思考を中断させた。

「……!?」

「くうっ!」

 同時に、前から何かがぶつかってきた。

「わぶっ」

 誰かの背中だ。

「攻ちゃん! 怪我は!?」

 ――え。

 背中ごしに聞いてくるその甘ったるい声は。

「……お前」

 鋼原射美!

 バス停『夢塵原公園』を構え、タグトゥマダークの斬り上げを受け止めている。

 なんか身を挺して庇われてしまったようだった。

 ――くそっ! ちょっとカッコいいじゃねえか!

 射美のくせに! ちょっとこれ弱すぎだろ(笑)などと第二部で嘲笑されたであろう鋼原射美のくせに!

「不愉快な空気を感じるでごわすー!」

「気のせいだ! それよりお前いいのかよ! 明らかに裏切り行為だぞ!?」

「うっ、それは……」

「何も考えてなかったのかーッ!」

 ――瞬間、気温が急激に下がった。

 攻牙と射美は、はっと前を見る。

 タグトゥマダークがバス停を界面下にしまい、軽く首を傾げて射美を見下していた。

「えっと……何なのかニャ? 射美ちゃん。ちょっと僕混乱してるんだニャン。君のその行為がどういうつもりなのか、よくわからないんだニャン」

「た、タグっち……」

「あ、うん、わかってるニャ。射美ちゃんのことだからきっと何か事情があるんだニャン。悩みがあるならお兄さんに言ってみるニャン?」

 頬が引き攣れ、笑みを刻む。しかし、眼は笑っていない。

「あ、あのぅ……」

「うん」

「実は……」

「うんうん」

「す、諏訪原センパイと攻ちゃん、殺さないような方向で済ませられないかなぁ~、なんて……思ったり?」

「え?」

「だ、だから、誰も殺さなくても、いいんじゃないかなぁ、って思ったんでごわす」

「え???」

「うぅ~! 殺すのやめてくださいって頼んでるんでごわすぅ!」

「え?????????」

「ううううううぅぅぅぅぅぅぅ~!」

「死ね」

 界面下より抜停し、おもむろに斬撃。

 微塵の躊躇いもなく。

 恐らくは、射美がどう応えようが仕掛けるつもりだったのだろう。それほどまでに太刀筋は冷たく、耽美なまでに残虐だった。

 射美は、眼を見開き、凍り付いていた。

 が――

「ぴょんッ!」

 横合いから、凄まじい力で突き飛ばされる。「わっ!」「きゃんっ!」攻牙と射美は宙を舞い、倒れ伏した。

 見れば、今度は篤が『姫川病院前』で処刑の一撃を受け止めていた。硬質の激突音と同時に、異なる意志に統御される二振りのバス停が反発して光の粒子を撒き散らした。

「二人とも、無事かぴょん」

「無事じゃねー!」

「うむ、何よりだ。急いで立つぴょん。油断は禁物ぴょん」

「てんめえ……」

 攻牙は跳ね起きる。

 そして競り合う二人を見る。

 タグトゥマダークのバス停が、今ようやく、姿を現していた。その看板部位には、タグトゥマダークの得物の真名が、克明に刻み込まれている。

 『こぶた幼稚園前』。

 攻牙は思わず脱力して倒れ伏した。

 いいけどさ!

 別にどのバス停を使おうがいいけどさ!

 次に目に入ったのは、敵のバス停の握り方である。

 基部のコンクリート塊を先端に据えて振り回す握り方を「逆持ち」と言うらしいが、タグトゥマダークの握り方は「逆手持ち」とも言うべきものだ。コンクリート塊のすぐ近くを持ち、小指側から刃となる看板が伸びている。

 バス停を持つ拳が地面に向く形で、振り下ろしていた。

「せいッ!」

 〈BUS〉の光が激発する。

 篤が力任せにバス停を押し込み、相手を突き飛ばしたのだ。

 しかし、

「ふむ……やっぱり力比べじゃかなわないニャン」

 体制を微塵も崩すことなく、タグトゥマダークは着地する。

 血塗れの篤は、据わった眼でそれを見ている。

「今……何をしようとした……」

 重い声で、篤は問いかける。

「え? はぁ? 僕なんかやったかニャン? 気のせいじゃないかニャン?」

 瞬間、その双眸がカッと引き剥かれた。

「何をしようとしたのかと聞いている!!」

 一喝。

 空気が帯電したように震えた。

「……不愉快だニャン」

 タグトゥマダークは眉間に皺を寄せた。

「下位者の裏切りを処断するのになんでキミごときの了解を得なけりゃならないんだニャン? 弁えろよ学生クン」

「よくわかったぴょん」

「へえ、そりゃ何よりだニャン」

「……貴様が恐るに足らん匹夫であるということがな」

 二人は険悪などというレベルを超えた視線を交し合う。

「あんまりナメた口聞いてると楽に死ねないニャン?」

「問題ないぴょん」

 篤はバス停を構えた。

「部下の諫言を裏切りとしか認識できない卑小な男に、負ける気はしないぴょん」



 ●



 ――憎悪とは。

 タグトゥマダークは、第九級バス停『こぶた幼稚園前』を握り締めながら、思った。

 ――憎悪とは、変革の力だ。

 己の体が、内側から作り変えられてゆくかのような錯覚を味わう。

 まったく身に覚えのない、強力にして清爽な意志の奔流だ。

 それが、タグトゥマダークの四肢に常ならぬ力を与えていた。

 だが、当の本人は、その恩恵に違和感と不快感しか抱けなかった。

 ――僕を支えてきたのは、憎悪の力だ。

 ――いつだって、憎しみの力で、夢月ちゃんを守ってきた。

 組織に入る前から。バス停使いになるより前から。

 ただの無力な子供であったころから。

 貧乏とか賠償金とか酒浸りとか節くれだった拳とかなぜか消えてる上履きとかヒステリックな悲鳴とか学校の便器の味とか陰口とか、その他いろいろな醜いものから、妹を守るために。

 ――僕は、憎悪を選んだ。

 いやいや。不幸自慢は趣味じゃない。

 ただ、絶望ではダメだった。うまく利用すれば凄まじくえげつないマネができたのかもしれないが――恐らく、自分は、絶望を御せる器ではない。手首に残る無数の傷が、それを証明している。

 ――で、あるわけだから。

 タグトゥマダークは、いつしか憎悪にどっぷりと依存していたのだ。頭から爪先まで、ことごとく。自分と夢月へ陰惨な悪意を浴びせてきたカスどもに、生まれてきたことを後悔させるために。

 だからこそ、今の自分の状態には違和感を感じていた。

 この、腹の底から湧き上がってくる、なんだかよくわからない力。

 勇壮な活力。

 これは、憎悪なのか?

 タグトゥマダークの本能は、この問いに否と応える。

 この力は、憎悪にしてはあまりにも澄み渡っている。

 勇気などという唾棄すべきものが、体の中に漲ってゆく。血液の中に熱く溶けた鉄を流し込まれたような、この感覚。

 総身に、迷いのない力が宿る。まったく身に覚えのない力が。

 ――クソくらえだ。

 タグトゥマダークは、体の中に残る憎悪を奮い立たせた。

 ――僕が力を得たのは、自分が高みに至るためじゃない。

 心なしか尖ってきた歯を軋らせ、目の前の少年を睨みつける。

 諏訪原篤。存在自体がタグトゥマダークを否定しつくす、人の形をした覚悟。

 ――自分以外の全てを、自分より下に引きずりおろすためだ。

 こんな、綺麗で健全な力はいらない。全てを壊し、汚し、貶め、そして最後には自分も一緒に沈んでゆくのだ。後に残るのは夢月だけで良い。

 ――あぁ……夢月ちゃん。

 ――僕は勝つよ。君のためじゃない。君を守りたいという、僕の滴る欲望のために。

 体中の、殺戮の螺子が、きりきりと巻き上げられる。雄々しい精神の力を、ぎちぎちと締め上げる。

 そして、思う。

 ――いつからだ?

 いつから自分は、こんな愚にもつかない鮮烈でまっすぐな精神に汚染されてしまったのだ?



 ●



 手を出すべからざる闘いがあるということを、攻牙はよく理解している。(今まで読み漁った無数の少年漫画から)

 人は皆、その生涯の中でただ一度、己のためだけの敵と出会うのだ。

 社会にとっての共通敵ではもちろんなく、他の誰かと協力して倒すべき敵でもなく、ただ自分だけが狙い、自分だけを狙ってくる敵。

 自分のためだけに、宿命が用意した敵。

 そういう奴はやっぱり居て、お互いに血色の糸で結ばれているものらしい。

 だから――攻牙は迷う。

 篤に手を貸すことは、果たして正解なのか?

 介入は、できる。やろうと思えば。

 驚異的身体能力と、ダンプカーに撥ねられても無傷でいるであろう防御能力、謎のエネルギーを用いた多彩な攻撃能力。バス停使いの驚異的なスペックは、確かに普通の人間が手出しできるものではないかのように見える。おまけに攻牙の戦闘能力は、体格の問題で常人以下だ。

 普通なら勝負にもならない。

 だが、攻牙は知っている。

 篤や射美から口先三寸で聞き出した情報と、自分の目で見た実感が、頭の中で理論を形作り、正解を導き出す。

 攻牙は、バス停を使わずしてバス停使いを倒す方法を知っている。

 そしてそのための罠は、屋上にも仕掛けられている。

 というか、屋上にこそ重点的に仕掛けられている。どうやらバス停使いたちは、自分たちの存在が公になるのを恐れているらしい。であるならば、普段人目につきにくい屋上が戦場となるであろうことは、簡単に予測ができた。それ以外にも、体育館の裏とかトイレの個室とか学校の裏山とか、とにかく人気のない場所はすでにトラップ地獄と化している。さすがに学校以外の場所にまでは手が回らなかった。その点については運がよかったと言えよう。

 だから、罠はいつでも発動できる。各所に設置した防犯用赤外線センサーのスイッチを入れれば、今この瞬間にでも対バス停使い用即死トラップの数々は牙を剥く。

 だが――それは果たしてやっても良いことなのか?

 攻牙は眼の前の闘いを見る。

 蒼い稲妻を体中に纏わりつかせる篤と、冥い紫の妖炎を立ち上らせるタグトゥマダーク。

 二人は対峙しながら、ゆっくりと間合いを詰めていた。

 ――なんかすごく宿命っぽいぞ! 絵面的に!

 この闘いに、立ち入ってもいいものなのか!? 少年漫画的ケレン味は、攻牙の行動原理の根幹を成すファクターであるからして、「認めた宿敵には自分以外の誰にも倒されてほしくない」という戦士のわがままに対しては物凄く理解がある。つもりだ。

 このまま手出しは控え、見届けるべきだと思う。

 だが、介入すべき理由も、ある。

 第一に、タグトゥマダークがいまだに無傷であるという点。スピードやテクニックという要素では、篤はまったくついていけてない。

 もちろん、篤がこのまま成すすべもなくやられるようなタマではないことはよく知っている。追い詰められてからが本番と言っても良い。常時死に身の精神力は、ここぞというところで爆発し、小賢しい理屈を吹き飛ばすことだろう。しかし――果たしてそれだけで、この圧倒的力量差を覆せるものなのか? 攻牙はそこが読みきれない。さすがにそれは、どんな頭脳の持ち主でも読みきれない。

 第二に、攻牙自身の問題。

 攻牙は、ちらりと横を見る。

 鋼原射美。悪の組織の尖兵。轢殺系吐血美(?)少女。

 地べたにへたり込んで、俯いている。

 ――あぁクソッ! こいつが凹んでるとこはじめて見たよ畜生!

 攻牙は苛立たしげに頭を掻く。

 まぁ、なんというか、タグトゥマダークとは気安い間柄だったのだろう。毎日の弁当もタグトゥマダークが作ってたらしいし、射美の中では兄貴的なポジションだったのではないかと思う。相手も自分を妹のように考えていると、そう思っていたとしても不思議はない。それが、たった一度敵をかばっただけで即座に見切られ、「死ね」の一言と共に仮借なき一撃を浴びせられれば、普通はショックを受ける。

 動転して、虚脱する。

 ――あぁもう! こういう雰囲気苦手なんだよなぁ!

 その時、脳内暗殺者が「自業自得だな」と吐き捨てた。「思慮に欠け、自分の行動に責任を持たない女だ」……その通りだ。

 正論だ。

 返す言葉もない。

 だが――それで実際どうするんだ?

 こいつがアホだってことはわかったよ。それで? ボクが聞きたいのはその後だ。[その後どうするんだ?] 見捨てるのか? このまま放置しとくのか?

 そういう判断で、何か意味のある結末を手繰り寄せられるのか?

 攻牙は、思う。

 ――ヒーローは……こういう甘ったれを見捨てない……んだろうなぁ。

 具体的に何がしてやれると言うわけでもないけれど。

 でもまぁ、タグトゥマダークをふんじばって、もう一度、面と向かわせるくらいのことは、してやれるかもしれない。

 そうしたいと思っている、自分が居る。

「攻牙よ!」

 篤の、声。

 タグトゥマダークに険しい視線を注いだまま、こちらに声をかけてくる。

「なんだ!」

「手は、出さないでほしいぴょん」

「……」

 むぅ。

 やっぱりか。

「だが、口は出してほしいぴょん」

「……は?」

「この男の技を読んでほしいぴょん」

「つまりセコンド役か」

「ウイグル語で言えばそうなるぴょん」

「違うぞ!? 英語だぞ!?」

「それから鋼原よ!」

 隣で、射美がビクッと身を震わせた。

「[タグトゥマダークは、決して無謬の存在ではない!]」

「え……」

「奴の言に飲まれるな。お前自身が判断しろ」

 そう言うと、『姫川病院前』をタグトゥマダークに向けた。

 剄烈なる眼差し。

「さぁ、ゆくぴょん。次の交差で、必ず貴様を打ち倒すぴょん」

「へえ、状況はわかってるのかニャン? 何か反撃のアイディアでも?」

 タグトゥマダークは妖眼をすがめ、頬を歪めていた。

「そんなものはない!」

 ないのかよ。

「だが、部下への対応ひとつで、貴様が恐るに足りぬ輩であることはわかったぴょん」

「……面白いことをホザく人だニャン。そんだけズタボロじゃなかったらかっこよかったかもニャン」

 異様に肥大化した牙が覗いた。

「別にかまわないニャン? そんなに自信があるんならかかってくるニャン?」

 構えを解き、傲然と胸をそらす。

「言われずともそうするぴょん。ただし、その時貴様は地面に倒れ伏しているぴょん」

 静かに壮言を呟くと、篤は『姫川病院前』を大きく後ろに振りかぶり、腰を落とした。

「――渾身せよ、我が全霊!」

 ゴォッ――と音をたてて、蒼く輝く〈BUS〉の雷光が荒れ狂った。篤を中心に大気が押し広げられ、悲鳴を上げながら逆巻いている。

 その、無闇にドラゴンボールじみた光景を前に、

「あれ?」

 ……攻牙は、妙なものを見た気がした。

 いや、具体的に何を見たとも言いがたいのだが……篤の闘気が広範囲に放射された瞬間、~模様~のようなものが空間に浮かび上がったのだ。

 丁度、鉄粉が磁場の形を浮かび上がらせるように、何かの~形~が微かに姿を現した。

 ほんのわずかな歪み。目の錯覚として斬り捨てられるレベルの、異変と言うほどのこともない違和感。

 しかし、攻牙は看過しなかった。逆転勝利の秘訣は、伏線を見逃さないことである。

 ……それは、ゆるやかな弧を描く曲線、のように見えた。曲線の周囲の光景は、微妙に歪んでいる。

 わずかに体を傾けて視点を移動させてみると、それに合わせて歪みの位置もずれてゆく。

 要するに、可視光線を歪ませるような[何か]が空中に存在し、浮いているのだ。

 謎の曲線は、戦場の至るところで浮遊静止していた。その数は二十個を軽く超えている。

 ――はは~ん? こいつは……

 気配を察したのか、篤が視線だけをこっちに向け、

「ハラショーロシア?」(意訳:何か気づいたのか?)

 別にいきなりロシアの赤い竜巻と化したわけではない。

「ハラショーロシア! ハラショーロシア!」(意訳:なんだか知らねえが変なものが浮いてやがるぜ!)

 半年ほど前、超高校生級武闘派不良集団『衛愚臓巣徒』との壮絶な暗闘を繰り広げた際、攻牙が考案した暗号言語である。

 独特の文法と千以上に渡る豊富な語彙を誇り、敵に悟られずに作戦会議をすることができる優れものであった。

 ……そうか?

「ハラショーロシア……? ロシアハラショー?」(意訳:浮いている……? どういうことだ?)

「ハラショーロシア? ロシロシア?」(意訳:闘ってる間に前触れもなく傷を負ったなんてことはなかったか?)

「ハラショー、ハラショー、ハラショーロシア」(意訳:むむ、殺意なき斬撃を受けたことはある)

「ハーラショ~ゥ!」(意訳:SO☆RE☆DA!)

 その後、「ロシア最高ロシア最高ロシアロシア最最高最高ロシア」と手早く作戦会議を交わし、

「ハラショーロシア!」(意訳:よしこれで行くぜ!)

「ハラショーロシア!」(意訳:心得た。合図は頼む)

「ディス・イズ・ア・ペン!」(意訳:勝利を我が手に!)

「ディス・イズ・アン・アッポォ!」(意訳:勝利を我が手に!)

 何なのこいつら。



 ●



 はじめて彼の姿を見たときから、わかっていた。

 すぐに思い出せた。

 まさか、という思いと、やっぱり、という思いが胸の中で溶け合っていた。

 昇降口で、立ちすくむ。

 足が、震えていた。

 ――あぁ、わたしのせいなんだ。

 それが、今、はっきりとした。

 怖かった。



 ●



「おおおおおおおおおおおおぴょーん!」

 無理やりすぎる雄叫びを上げ、篤は突進する。

 タグトゥマダークは冷たい嗤笑を浮かべてそれを待ち受ける。

 構えるでもなく、悠然と。

 ――よーしそのまま進め!

 攻牙は、篤が語るところの「殺意なき斬撃」の正体について思考を巡らせていた。

 巡らせていたというか、まぁ、ほとんど自明なのだが。

 殺意がないということは、それは「攻撃」ではないということだ。すでにタグトゥマダークの意志を離れた「現象」なのだ。

 つまりどういうことか?

「篤!」

「応ぴょん!」

 攻牙の呼びかけに応じ、篤はバス停を振りかぶった。

 そこにタグトゥマダークはいない。間合いはいまだ遠い。

「発振する――」

 だが問題ない。

「――雷気なりッ!」

 渾身の力を込めて打ち込まれた『姫川病院前』は、何もないはずの空中で、何かと激突した。

 雷光が爆発的に迸る。

 すると、同時に――

「ニャニャ!?」

 ――屋上の至るところで、何の前触れもなく、青白い雷気を纏った熱風が吹き出した。

 まるで、空中に間欠泉でも出現したかのような勢いだった。

 その数、二十数条。

 それぞれデタラメな方向に、〈BUS〉の奔流を吐き出している。

 ――虚停流っつったっけ?

 奔流の直撃を受けて体勢を崩すタグトゥマダークに、攻牙は不敵な笑みを投げかける。

 ――裏目に出たな!

 つまるところ、開戦直後から篤を苦しめていた「殺意なき斬撃」とは。

 その正体とは。

 ――いわゆる設置技だぁ!

 空中に浮遊静止する、空間の裂け目。

 普段、自分やバス停を通過させるために開かれる次元の出入り口を、非常に狭く細くするにより、どんな刀剣よりも鋭利な刃を作り出していたのだ。

 不可視の刃が、空中で無数に存在しているという状況。

 その位置を知っているのはタグトゥマダークのみ。

 篤は、攻撃を受けていたわけではない。浮遊静止している次元の刃に、自ら突っ込んでいただけだったのだ。

 ただそこに浮いているだけのモノに、殺意などあるはずもない。

 そして、タグトゥマダークの動きが妙に曲線軌道というか、まっすぐこちらに向かってこなかった理由もこれで判然とする。

 ――自分が仕掛けた地雷に自分で突っ込むバカはいねえからな。

 以上を踏まえて、攻牙が考案した作戦はこうである。

 ――次元の出入り口に全力の一撃を叩き込め!

 その一撃に内在していた〈BUS〉流動は、衝撃波の形となって界面下に流し込まれるだろう。そして界面下の空間を伝って、この場に存在するすべての出入り口から勢い良く噴き出すだろう。

 タグトゥマダークが次元の門を狭く細くしていたのも、こうなっては裏目であった。

 流体力学の基本、「出口が狭いほど、流出の勢いは増す」。

 ホースの口を潰してブシャー! と同じ理屈である。

 ……まったく予想だにしない不意打ちを受けたタグトゥマダークは、衝撃波に煽られて倒れかかった。

 そこへ、蒼い稲妻を纏った飛影が突撃する。

 バス停を振りかぶり、鋭絶な眼光を閃かせながら。

「是威ッ!」

 雷蹄の一撃。

 爆裂する。

 炸裂する。

「ごギァッ!」

 床に敵を打ち付ける。

 叩き潰す。

 円形に拡がる打震。

「ぐ……ぎ……」

 胸板に重撃を受け、タグトゥマダークは口から血塊を吐き出した。

 直撃。

 初めての、ダメージ。

 それも、甚大な。

「てめえは次に『馬鹿ニャ、こんなことが……』と言う!」

「馬鹿ニャ、こんなことが…………ハッ!?」

 攻牙、地団太を伴うガッツポーズ。

 ――我ながら冴えまくりだぜ!

 作戦の成就には、件の暗号言語によるところも大きい。あの言語を解読できるのは、攻牙と篤と謦司郎の三人の他には、『衛愚臓巣徒』との戦いで渋々手を組んだ風紀委員長の歌守(かもり)朱希奈(あきな)がいるのみである。

 そこまで考えて、攻牙はふと、違和感を覚える。

 ――あれ? 謦司郎……?

 こういう致命的なゴタゴタにおいて、喜々として首を突っ込んでくるであろう変態トリックスター。

 闇灯謦司郎。

 いつも、いるのかいないのかよくわからない奴だが……

 キョロキョロと周囲を見回すが、奴の姿はおろか、その出現を示す黒い風すらどこにも見当たらない。

 初めてここで、攻牙は事態の異常性に気づく。

 ――ボクは……いつから奴のシモネタを聞いていない……!?

 愕然とする。

 思い出せないのだ。

 今までも、二三日ほど謦司郎の無意味なイケメンボイスを聞かないということはあった。

 だが、それは何事もない平穏な期間だったからこそだ。悪の組織の襲来という超弩級の厄介ごとが発生しているにもかかわらず奴が姿を現さないなど、おおよそありえないはずである。

 何か、尋常ならざることが起きている。その予感。

 篤にこのことを伝えようと、意識を現実に戻す。



 その時、篤はすでに倒れていた。



 ●



 つまさき。

 鳩尾にめり込むものの正体は、それだった。

 篤は自らの体を見下ろし、血の混じった胃液をグラシャラボラス。

 不意に手足が言うことを聞かなくなり、尻餅をつくように崩れ落ちた。

 ……超反応クロスカウンター。

 タグトゥマダークは、突進してくる篤の鳩尾へ、神速の前蹴りを叩き込んでいた。

 バス停による斬撃ではないとはいえ、内力操作によって強化された脚力と、篤の踏み込みの勢いが合わされば、致命的な威力となる。

 ――天才的。

 篤の破城鎚じみた一撃もしっかり決まっているので、相打ちではあるが……

 ――天才的、戦闘感覚。

 パニックを起こし、痙攣するばかりの呼吸器系。酸素を取り込まない肺を早々に見限り、篤は敵へと視線を向けた。

 ただそれだけの動作にも、体中が軋みを上げた。

 タグトゥマダークもまた、言うことを聞かない手足を奮い立たせ、体を起こそうとしている。

「ぎ、ハ、はは……くき……キキケけケ……」

 喉を鳴らして、タグトゥマダークが呻く。

「苦手……なんだよニャア……キミみたいな……タイプ……くキッ」

 口の端から深紅の筋を垂らしながら、笑う。

 ホームビデオを見て笑っているようにも、恋人の惨殺死体を見て笑っているようにも見えた。

「常識的な反応、してくれニャいんだよニャア……」

 ゆっくりと、立ち上がる。

 生ける屍のごとく立ち上がる。

 黒紫の〈BUS〉波動が、周囲の空間を揺らめかせる。

「だから一撃もらっちゃったニャン……ふ、ひ……ひはっ」

 天を振り仰ぎ、断末魔の震えにも似た哄笑をあげた。聞いただけで気分の滅入るような、虚無的な笑いだった。

 攻撃を受けた胸板がブスブスと煙を上げ、スーツが裂けている。

 そして、首からは紐がぶら下がっていた。恐らく、お守りか何かを首から下げていたのだろう。しかし紐は途中から炭化しており、何が下げられていたのかはもうわからない。

「ひはは……もらっちゃった……もらっちゃったニャン……ははっ……は……」

 ひとしきり笑うと、篤を見る。

 何の感情も感じ取れない、石のような眼差しだった。

「……血ゲロ吐き散らして死ね、タンカス野郎」

 特に声を荒げることもなく。

 当然の決定事項であるかのように、そう呟いた。

「――ご、ガッ!?」

 喉が、塞がれた。

 馬蹄のように踏み下ろされたタグトゥマダークの踵が、篤の喉笛を踏みにじった。

「死ね。悶えて死ね。死に腐れ」

 英単語を暗唱する時のような抑揚のない口調。

 足が振り下ろされるたびに、篤の全身が痙攣する。

 豹変。

 危ういまでに激しい、感情の起伏。

 ――あぁ。

 篤は眼を見開く。

 ――似ているな。

 自分の中にも、このような激しい気性の渦がある。

 かつて、ゾンネルダークとの闘いで、その片鱗を表に出してしまったことがある。

 妹の霧華が大きな怪我を負い、その犯人がゾンネルダークだと知った時、篤は自分の中の獣を御しきれなくなったものだ。

 ――恥ずべきことだ。

 真に憎むべきは、そうした事態を許した、己の不甲斐なさだというのに。

 だからこそ。

 ――強く、なりたかった。

 この裡なる修羅を、永遠に飼い殺していられるほどに強く。

 タグトゥマダークを見る。

 ひときわ高く足を振り上げ、全体重を乗せて踏み下ろそうとしていた。

 ――この男もまた、裡なる修羅を持て余しているのか……

 このとき懐いた想いは、あるいは共感であったかもしれない。

 篤の喉が踏み砕かれる、その瞬間。

「――夢月ちゃんは」

 涼しげな声。

 しかし、同時に痛ましげな声。

 こつ、こつ、と快い足音が、やけに殷々と響いてきた。

 桜の香りが肌を撫でていった。

「元気、なのかな……?」

 そう言って、ふわりと微笑む。

 目尻に悲しみを織り込ませながら。

「ッ!?」

 タグトゥマダークの反応は、劇的だった。

 一足で五メートルは飛び退り、闖入者を見やった。

 霧沙希藍浬。

 春の世界を纏う少女。

 一瞬だけ、彼女は傷だらけで横たわる篤を見やる。

 何かに耐えるように目を伏せ、唇の動きで「ごめんなさい」と呟いた。

「なんで……その名を知ってるニャン……」

 警戒に満ちた眼差しで、タグトゥマダークは藍浬を睨む。

 彼女は胸に手を当て、哀切に満ちた微笑を浮かべた。そこに仕舞われる記憶を、いとおしむように。

「忘れないわ。大事なお友達だもの」

「何を……!」

 藍浬は微かに首をかしげた。眉尻が、困ったように下げられている。

「覚えてない、かな? あのころはちっちゃかったし、髪の色も違ったもんね」

 何秒かの凝視ののち、タグトゥマダークの顔に理解の色が広がってゆく。息を呑む。

「……まさか……いや、そんな馬鹿ニャ……」

 明らかに、何かを思い出していた。

 藍浬は顔をほんのり寂しげに綻ばせる。

「ひさしぶり。辰お兄ちゃん」

「う、うぅ……」

 ――知己の仲であったか。

 数奇な偶然である。いや、果たして本当に偶然であったか。

「どうして……こんな、どうして……」

 一歩二歩と後退り、余裕のない顔で藍浬を見やる。

 旧知と再会しただけにしては、いささか動揺しすぎである。

「キミは……そんな……キミが[そう]なのなら……僕は……」

「長いこと見ないうちに、ずいぶんカッコよくなったね」

 藍浬はタグトゥマダークを追うように悠然と歩み出した。

「ふふ、あんなに泣き虫さんだったのに」

「……昔のことは、言わないでほしいニャン……」

 悄然とうなだれるタグトゥマダーク。

「そう? じゃあ今のこと。夢月ちゃんはどうしてるの?」

「その……元気だニャン。一緒に住んでるニャン」

 藍浬は眼をを輝かせた。

「会いたいなぁ、[今頃はわたしと同じ高校生よね?]」

 何気ないその一言が、タグトゥマダークの顔から一切の表情を奪った。

 気温が、低下する。

「断る」

 一言で、藍浬の願いを斬り捨てる。

 顔を伏せ、垂れ下がった前髪の間から、藍浬を睨みつける。

 それは、藍浬個人というよりも、もっと大きな、漠然とした何かを睨んでいるように見えた。

 踏みにじられてなお反骨を失わぬ奴隷の眼だった。

「……どうして……?」

「黙れ」

 流れる水のように踏み込んだタグトゥマダークは、右手を毒蛇じみた動きで伸ばし、藍浬の頤を掴んだ。

「――っ!」

「誰にも夢月ちゃんは会わせないニャン。誰一人、夢月ちゃんと言葉を交わす資格はないニャン」

 猫の妖眼を威圧的に見開き、噛み付くように言った。

「それでももし、夢月ちゃんに近づこうなんて下らないことを考えるマヌケがいるのならば、僕は……」

 左手を抜き手の形に構え、その切っ先を藍浬の喉笛に向けた。

 弓を引き絞るように、捻りを加えながら左腕を後ろに引いた。

「僕は……ッ!」



 身を起こす。

 跳ね起きる。

 一気に間合いへ踏み込む。

 そうして、篤は。



「貴様――」

 掴んだ腕を捩じりながら、篤は低く言った。

「ぐっ!」

「どこまでも尊敬を拒む輩だぴょん……!」

 同時にタグトゥマダークの足を払い、大きく一回転させたのち、床に叩き付けた。

「かはッ!」

 肺から空気を押し出され、うめくタグトゥマダーク。

 しかし、すぐにその口は笑みに歪む。

「ぐくく……ほんの冗談だニャ、彼女は《絶楔計画》の要となる人だニャン? こんなところで殺したりするワケないニャン」

 ――瞬間、殺意の匂いが、篤の頭上から流れてきた。

 即座に飛び退ると、直前まで篤がいた場所へ、『こぶた幼稚園前』の切っ先が刺さった。コンクリートの破片など飛び散らない。鋭利極まりない一撃である。タグトゥマダークは逆立ちするように両脚を振り上げて界面下に突っ込み、バス停を振り下ろしたのだ。

「よっと」

 全身のバネを撓らせ、一瞬にして跳ね起きる。同時にバス停を両脚で放り投げ、回転しながら落下してきたところを片手でキャッチ。

 曲芸じみた体捌きだが、まったく無理が感じられない。

 篤は、己の胸の中に生じた粘い炎を、言葉にした。

「虚言だぴょん。今の動きには確かな殺意が宿っていたぴょん」

「ははん、仮に本気だったとしても、どーせこの町は近々消滅するんだから、ここでひとり余計に死んだって別にどうってことはないニャン」

 あまりにこともなげな、終末の宣言。

「なん……だ、と……?」

 呻く。

「それは……どういう意味だぴょん」

「どうもこうも……ねえ? 《絶楔計画》は、その第五段階において朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相を根本から書き換えるニャン。その影響は……ははっ! こんな山間にこびりついたカビにも等しい人里なんて一瞬で蒸発しちゃうニャン」

 ぎり……と、篤は自分の歯が軋む音を聞いた。

「答えろ……《絶楔計画》とは何だ……何を目的にしているぴょん!」

「……ある装置(システム)、その完成への布石だニャン」

「装置……?」

 タグトゥマダークは肩をすくめると、自嘲するように鼻を鳴らした。

「ちょっとしゃべりすぎたニャン」

 亀裂のような笑みを浮かべる。

「続きを聞きたいなら、力ずくで来るニャン」

「……よかろうぴょん。貴様らはどうあっても看過しておけぬ存在だということがよくわかったぴょん」

 鮮烈な怒りを込めた視線と、禍々しく屈折した憎悪。

 二人の中間でぶつかり合い、反発と炸裂を繰り返した。

 ――大義を、得た。

 激突を前にして、篤の心は複雑な思いに満たされていた。

 ――俺は、この男を、討っても良い。

 なぜなら、彼はここ朱鷺沢町を滅ぼさんと画策する巨悪の尖兵であるからだ。

 ――「俺のエゴを侵す存在だから」ではなく、「悪であるから」、それゆえに討っても良い。

 そういう大義を得たことに晴れやかさを感じてしまう自分が、あまりに情けなかった。

 ――ここでこの男を討ち取っても、俺は傷つかない。

 歯を食いしばって、晴れやかさの陰に潜む、自らの醜悪さに耐えた。

 ――何一つ、失わない! 自らの矛盾に直面しない!

 タグトゥマダークの存在自体が許容できないという、生理的で身勝手な動機から、目をそらすことができる。

 ――卑小……あまりにも卑小……!

 だが、それでも。

 ――それでも!

「討たねばならぬ! この一命に代えてでも……!」

 篤の眼光が、均衡を押し流した。

「っ!」

「貴様の歪みし認識、ここで断つ!」

 大気が、弾けとんだ。

 脚が地面を蹴り込んだ。閃光のごとき〈BUS〉が吹き上がり、篤の体を一瞬で急加速させる。

 床が砕けはしない。その分のエネルギーはすべて推進力に転化されている。ただ数分の血闘の中で、篤はより巧みな〈BUS〉の運用をマスターしつつあった。

 咆哮。

 一条の雷撃と化し、一人の修羅が突貫する。



 ●



 タグトゥマダークは、篤のあまりの愚かしさに憎悪を抱いていた。

 ――真っ向勝負だと? 愚鈍がァ……

 鼻面を中心に広がる憎悪の皺が、タグトゥマダークの麗貌を鬼神のごとく変容させる。

 ――まだわからないのか、クズが。雑魚は雑魚らしく奇策で来いよ間抜け。

 墓から手を伸ばす亡者のような手つきで、界面下のバス停を掴んだ。

 全身に、憎悪が滾る。

 憎悪を呼吸し、憎悪を代謝する。

 憎悪で、思考する。

 眼が眩むほどの甘い甘い憎悪を感じ、タグトゥマダークは一転、頬をだらしなく緩ませた。

 ――あぁ、夢のようだ。

 ――これからこのクズ野郎を八つ裂きにできるなんてな。

 腕に異様な力が込もる。カッターナイフの傷跡が無数に残る腕が、その筋肉が、芋虫のように蠕動する。

 ――放つか、禁殺。

 蠕動に呼応して、腕に宿る〈BUS〉が特殊な間隔で律動しはじめる。

 一生に一度、どうしても存在を許せぬ相手にしか用いてはならない。師からそう厳命されていた、絶招。

 それは、虚停流の中では特に難度の高い技法ではない。

 それは、戦術的な意味では特に強力な奥義ではない。

 にも関わらず、禁忌。

 ……その技は、痛みを与える。

 特殊な波形の〈BUS〉流動がバス停の刃に漲り、相手の肉体をわずかでも斬り裂くことで発動する。

 刃から敵の肉体へと流し込まれた〈BUS〉波動は、全身の末端神経に存在する侵害受容器において電気シグナルのように振る舞い、過剰な――あまりにも過剰な痛みを誘発させる。

 薄皮一枚裂けるだけで、臓腑を喰いちぎられるような苦痛が襲いかかる。

 ただ掠っただけで、歴戦の強者が泣き叫ぶ斬撃。

「虚停流禁殺――」

 迫りくる雷撃の塊を前に、タグトゥマダークはもはや莞爾とした笑みを浮かべていた。

「――〈惨聖頌〉」

 あぁ、凄なるかな。

 この苦痛に祝福を。

 諏訪原篤の無意味な矜持は、いま最も醜悪な形で砕け散る。

 ――この僕の手で……ェ……!

 停が、鞘走る。

 どす黒い斬閃が、世界に消えようのない汚点を刻む。

 横ばいの弧月。

 肉体のすべての可動部分が一挙に駆動し、単一のベクトルに加速する。

 それは、あまりにも醜く、それゆえに美しい。

 完璧な軌跡。

 空間を穢し尽くし、そこに地獄を顕現せしめる。

 タグトゥマダークが初めて繰り出した、本気の斬撃。

 彼は敵の技量を正確に見抜いていた。この一閃は、かわせない。絶対に。

 ――泣いて死ね、叫んで死ね、悶えて死ね漏らして死ね垂れ流して死ね。

 死に、腐れ。



 裂。



 振り、

 抜く。



 ●



 ――いや、さて。

 闇灯謦司郎は、分析する。

 彼の敗因は、何だったのだろうか――と。

 ……いやいや、考えるまでもない。

 一目瞭然だ。

 片方は、何の迷いもなく相手を殺そうとしていた。

 片方は、自分の卑小さに苦しみ、それでも相手を討たねばならない状況に迷っていた。

 ――要するに、ただそれだけの違いだったんだろうね。

 動機の、差。

 迷いの、差。

 ――勝てるわけ、ないよねえ……そりゃ。

 つまりはそういうことだったのだ、と。



 ●



 タグトゥマダークは〈惨聖頌〉を振りぬき、怖気のように襲いかかるであろう快楽を待った。

 はたして諏訪原篤は、どんな声で哭いてくれるのだろう。

 どんな音色で狂ってくれるんだろう。

 どんな匂いのクソを垂らすんだろう。

 あぁ――早く。

「――覚悟とは」

 ――早く。

「捨て身の玉砕にあらず」

 ――早……く……・?

 タグトゥマダークは、左の後方から聞こえてくる不愉快な声を、ようやく認識した。

 瞳孔が、収縮する。

「それは現世での責任を逃れるための方便に過ぎない」

 弾かれたように左を向く。

「――覚悟とは」

 自分の振りぬいたバス停。

 その先に。

「たとえ天地の理を覆そうとも目的を達する決意である」

 ――佇んでいた。

 刃の上で。

 悠然と。

「死ぬ気で生き残る。生きて責任を果たす。その心こそが、魂に咲く華である」

 その脚は、奇妙に曲がっていた。

 人間の脚には、本来一つしか間接がないはずである。

 だが、今、篤の脚には二つの間接が存在していた。

 尋常な膝関節と、その下にある逆向きの間接。

 そこまで見て取った瞬間、タグトゥマダークは、自分がいま敗北を突き付けられていることを悟った。

 ――僕と、同じか――!

「たとえこの身がどう変わろうと」

 タグトゥマダークが猫化していったように。

 諏訪原篤もまた変異を果たした。

 ただし、変化する部位を、篤は自分の意志で決定したという点で、自分とは果てしなく食い違っていた。

「ただひとすじの美しき道」

 ゆっくりと――現実には恐ろしいまでの速度で――篤は己の得物を振り上げた。

「……ぎ……!」

「見失わぬ限り俺は俺……!」

 紅く凄愴な眼が、タグトゥマダークの胸を射抜いた。

 裂帛が大気を引き毟り、純粋な衝撃となって顔面を叩く。

「滅却せよ! 彼我なりし怯懦!」

 振り下ろす。

 打ち下ろす。



「覇停・神裂!!」



 白く、淡く、穏やかな光が、タグトゥマダークの眼球を侵した。



 ●



 それは、爆発ではなかった。

 エネルギーのベクトルとしてはむしろ逆――収縮である。

 周囲の地脈に内在する〈BUS〉が、着弾の瞬間、打撃点に向けて一斉に殺到。

 そこで、物理的な熱量としての振る舞いをやめ、ちょうど特殊操作系能力のように、概念的な意味へと姿を変える。

「貴様の歪みし絆、断ち切らせてもらった」

 その意味とは。

「あ……」

 タグトゥマダークが、呆然と声を漏らす。

 消えゆく己のバス停を前に、成すすべもなく声を漏らす。

 『こぶた幼稚園前』は、黒い〈BUS〉を脱ぎ去り、溶けるように消えてゆく。

 本来存在しているであろう、こぶた幼稚園の前へと戻ってゆく。

 ――契約の、破却。

 バス停使いとバス停の絆を、完全になかったことにする。

 それこそが、「覇停・神裂」の威力。

「あ……あ……」

「もはやお前の得物はお前の手を離れた。二度とお前の呼び掛けには応じない」

「な、に……ぃ……?」

 愕然と、バス停の消え去った己の手を見るタグトゥマダーク。

 その前に、篤は膝をついた。

 眼の高さが等しくなる。

「これは、即興だ」

 タグトゥマダークは答えない。こちらを見もしない。

「脚に兎の力を宿らしむる方法も、神裂という技も、俺には直前までまったく思いもよらない事柄であった」

 かまわず篤は、言葉を続ける。

「お前の死閃を間近まで感じた時、俺の心はかつてないほど研ぎ澄まされ、考えるまでもなく『道』が見えた」

 タグトゥマダークの顔が、ゆっくりと持ちあがる。

「『常住死身』とはそういうことだ。死を以て生を鍛える『道』だ」

 視線が、合わさる。

 兎の紅眼と、猫の妖眼。

「――これが俺だ。俺の生き方だ」

 静かに、そう言う。

 タグトゥマダークの顔が、一瞬引き歪んだ。

「黙れ……っ」

 瞬時に立ちあがり、そのまま五メートルほど飛び退る。

「認めるよ……あぁ認めるさ! 僕の負けだ」

 食いしばった歯が、軋んだ。

「だけど……これはキミの力と判断に負けたんだ」

 その妖眼にかつての余裕はなく、ただ不安定に揺れていた。

「キミの生き方に負けたんじゃ、ない……!」

 瞬間、タグトゥマダークの背後の空間に、裂け目が現れた。

「……! 待て!」

 届かぬとわかっていながら手を伸ばす。

 青年の体が、裂け目の中へと飛び込んだ。

 即座に界面下への入り口は閉じる。

 捨て台詞すら残さずに、タグトゥマダークは目の前から消えて失せた。

「逃がしたか……」

 忸怩たる思いが、篤の眉をひそませる。

「まあしょうがねーわな。あんな能力があるんじゃふんじばっとくわけにもいかねえだろーし」

 攻牙が横に立った。

「……それでも、どうにかして捕えたかった」

 重い石を吐き出すように、篤は息をついた。

 攻牙は軽く目を見開いて篤を見た。

「っておい篤お前語尾はどうした」

「む……」

 篤は、初めてそのことに思い当った。そういえば自分はさっきから「ぴょん」と言っていない。

「戻っているな。原因は不明だが……」

 自らの顎を掴み、目を伏せる。

「そうか、戻ったか……」

「何を寂しそうな眼をしてるんだよお前は!」

「寂しくは、ないさ。俺の胸の中で生きている」

「やめろその誰か死んだみたいな言い方!」

 篤は肩をすくめる。

「諏訪原くん!」

 呼びかけに振り返ると、藍浬がこちらに駆け寄ってきていた。

「霧沙希か……怪我はないか?」

「それはこっちの台詞! 血まみれじゃない!」

 言われて篤は、自らの四肢を見下ろす。

「むむ……」

 結構な深手を全身に負っていた。よくもまあ今まで体が動いたものである。

 ゾンネルダークの時よりも、さらにひどい。

「まあ、あの男に勝利するためには必要最小限の犠牲と言え……よう……」

 ぐらりと体が傾ぐ。

「あっ」

 藍浬が慌てて篤の腕を掴む。

「む、すまん……」

「諏訪原くん……聞いて……」

 目尻に透明な雫を湛えながら、藍浬は篤の脇に体を入れ、その姿勢を支えた。

「血で汚れるぞ霧沙希。大丈夫だ、一人で立て……る」

 彼女は大きく首を振った。

「聞いて、諏訪原くん。タグトゥマダークさんとわたしは、小さいころに近所に住んでいたの。辰お兄ちゃんって呼んでてね、すごく、仲が良かったわ」

「……そのようだな」

「それから、わたしはね、あっくんとたーくんを拾った時に、思ったわ」

「……?」

「あぁ、可愛いな……って。この子たちは誰かに似ているな……って」

 穏やかに世界を見続ける子兎と、泣き虫で寂しがりやな子猫。

 それらは、彼女の記憶にある二人の人間を思い起こさせたのか。

「この子たちが、諏訪原くんや、辰お兄ちゃんだったらな……そうならば、ずっと毎日一緒にいられるのにな……なんて。そんな勝手なことを、思ったの……思って、しまったの」

 それは、つまり、どういうことか?

「ごめん、なさい……こうなったのは全部わたしのせいです……」

 ぎゅっと篤の腕を抱きしめ、額を押し付けた。

「もう、大丈夫だから。わたし、もう揺らがないから。こんなことは、もう起こさないから」

「霧沙希」

「……だから、戻って諏訪原くん……!」

 藍浬がそう言った瞬間、にゅるんっ! という妙な音がした。

「うぉっ!」

 空気を読んで黙っていた攻牙が、思わず声を上げる。

 篤のウサ耳やウサ脚やウサ眼が、一斉に変化したのだ。

「おおう……」

 唐突に変異した脚の構造ゆえ、バランスを崩しかける篤。

 藍浬に支えられながら、篤は自分の体を眺める。

 五体全てが人間に戻っていた。

 頭に手をやると、ウサ耳も消えていた。

「むむむ、消えてしまったか……」

 同時に、全身の傷が、かすり傷程度にまで小さく浅くなっていた。

 さすがに失った血までは元に戻らなかったせいか、頭はボ~っとするものの、さっきまで体を責め苛んでいた痛みは嘘のように鳴りを潜めている。

 不思議な力で傷が癒えたというよりは、全身の肉体変異によって傷が掻き消された、と言ったほうが正確だ。

「神秘、だな」

 しみじみと、篤は呟いた。



 ●



 敗北感。

 それは乗り越えるか否かによって、意味合いが大きく変わってくる感情だ。

 乗り越えれば成長をもたらし、乗り越えなければ腐敗をもたらす。

 ――乗り越えてなど、やるものか……!

 タグトゥマダークは界面下空間を泳ぎながら、そう決意した。

 鋭く尖った牙を軋らせ、妖眼をすがめながら。

 まったく、今日はとんでもない厄日だった。

 ――何が『常住死身』だ。死ねばいい。

 生きるために死ぬという意味不明な信条は、どうしようもなくタグトゥマダークをイラつかせる。

 そんなに死にたきゃ死ねと言いたい。どうせ死ぬ気なんかないんだろ! 目立ちたいだけだろ!

 胸の中で、思いつく限りの罵倒を諏訪原篤へと浴びせかける。

 負けた自分をも貶める行いではあったが、タグトゥマダークはその自傷行為をむしろ嬉々として敢行した。

 だが。

 同時に、自らの腹の底で、闘志が滾っていることに気づく。

 危ういまでに薄く鋭い己のありようが、何か力強いエネルギーによって補強されてゆくかのようだ。

 ――まただ!

 闘いの最中にも感じた、この不愉快な高揚感。

 自分の心に宿るはずのない感情。

 ――何なんだよ!

 おかしい。今日の僕はおかしい。自分の心すら、思い通りにならない。

 まるで、自分の心ではないかのように。

 ……思い当たることは、ある。

 諏訪原篤。

 彼の生き様に影響を受けているという可能性。

 ――ッ!!

 その考えが浮かんだ瞬間、タグトゥマダークの体内を、黒紫色の憎悪が駆け巡った。

 体中の臓腑を焼け爛らせながら、この清澄な熱意を追い出そうと、荒れ狂った。

 ――負けるものか。

 鼻面に皺を寄せ、牙を剥きだして。

 ――負ける、ものか!



 ボロ借家にたどりつくと、タグトゥマダークは息をついた。

 憎しみに強張った顔を揉み解し、「優しい爽やかお兄さん」の仮面を取り繕う。

 ――もういい。どうでもいい。そんな精神的葛藤なんかどうでもいい。

 今大切なのは、夢月に泣きついて甘えることだけである。

 ――夢月ちゃんは、優しくて可愛いものだけ見ていればいい。僕の腐った本性なんか知らなくていい。

 ただひとりの肉親に、本音をさらけ出す勇気すらないのだ。その事実は、タグトゥマダークの魂に屈折と腐敗と快楽をもたらしていた。

 ――あぁ、夢月ちゃん、夢月ちゃん、夢月ちゃん!

 玄関を開け、靴を脱ぐ。

 ぎしぎし言う板張りの床を、足早に通過する。

 ――夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん……ッ!!

 甘えよう。ひたすらに甘えよう。甘えてダメになろう。優しいあの子はダメなお兄ちゃんでも受け入れてくれるに違いない。

 そうに違いない。

 ――夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃんむ夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃんむむ夢月ちゃん夢むつき月つきちゃん夢月つきつきちゃんむ、むむ夢月ちゃん夢月ちゃぁんッッ!

 そうでなければ、ならない。

 部屋の前に、たどり着く。

 襖に手を掛ける。

「夢月ちゃああああああああん!」

 叫びながら、中へと飛び込んだ。

 ――今行くよ! キミの胸の中へ!



 埃が、もうもうと吹き上がった。



 窓から差し込む日差しが、それを浮かび上がらせていた。

「……あ……?」

 《ブレーズ・パスカルの使徒》が支給した、さまざまな装備品が、雑然と積み重なっている。

 薄く、埃をかぶっている。

「……あ、あれ……?」

 天井の隅には蜘蛛の巣が張っていた。

 壁紙は所々破れ、木材が剥きだしになっている。

「……部屋……間違えた、かな……はは」

 耳鳴りがする。

 それは、心の奥底に封印されていた、恐るべき記憶(かいぶつ)が、胎動する音に思えた。

「……ひ……」

 ひゃっくりのような声が出た。

 我知らず、後ずさっていた。

 耳鳴りが、強くなった。

「……ひ、ひ……」

 何かが、間違っていた。

 どこかで、間違っていた。

「……ひひ、ひひひっ……」

 ――それは、いつからだったのだろうか。

「ひひっ、ひはは、ひはっ……」

 ――いつから、僕は間違えていたのだろうか。

 歪んでゆく世界の中で、タグトゥマダークは口元を戦慄かせた。

「ひはっ、ひははははっ、はは、ひ、ひはっ」

 ――諏訪原篤と戦った時だろうか。

 ――彼を始めて眼にした時だったろうか。

「ははははははっははっははははははははっ」

 ――あるいは、《ブレーズ・パスカルの使徒》に入った時だろうか。

 ――それとも、師匠に拾われた時だったろうか。

 タグトゥマダークは乾いた声を上げ続けた。

 笑いというには何かが欠け、何かが余分だった。

「はは、ははは、はひっ、ひひっ! ひひは!」

 ――それとも。

「ひはははは! ひはは! ははぁはっはははっははっ!」

 ――もっと前。

 視界に、罅が入った。

 割れ目から、毒々しい血液が流れ出てきた。

「あははははははあっはハハっはっははっはっはははぁはぁはぁはひぃひひひっ!」



 ――夢月ちゃんが、死んだ時からだろうか。



「あっははっはっはははっひははひはひはひはぁーッあっひひひひッ!」

 砕けた。

 深紅の汚流が、襲い掛かってきた。

 獣のような声が、彼の喉を引き裂いた。

 世界は原型も留めぬまでに歪み切った。

 腕に異様な力が滾った。蛆虫のように蠢く指が、獲物を見つけたかのように突発的に動き、頭の肉ヒダに喰らい付いた。

 そのまま、床にくずおれ、うずくまった。

「……ひぃ……ひぃ……」

 体を丸め、頭を抱え、怯えきっていた。

 ぬるい汗が、肌を伝い落ちた。そろそろ日が昇りきる頃合だった。すでに真夏だった。外は晴れていた。強い光が窓から差し込んでいていた。耳鳴りがやかましかった。ここは薄暗かった。埃っぽかった。涙と涎が粘っこかった。耳鳴りがやかましかった。尻に当たる床が少し痛かった。寒かった。暑かった。どうしようもなく寒かった。ぬるい汗が全身を濡らした。手が震えていた。脚が震えていた。臓腑が震えていた。耳鳴りがやかましかった。

 独りだった。



 ●



 鋼原射美は、決断の岐路に立たされていた。

 ボロ借家への道を、とぼとぼと歩きながら、眉尻は垂れ下がっていた。

 もしもネコ耳が生えていたら、しゅんと力なく伏せられていることだろう。

 ――射美もケモノ耳ほしかったなぁ~……

 なんて。

 思考を関係ない方向に遊ばせてみるけれど。

「ふみ……」

 胸がひくついて、喉が熱くなって。

 やっぱりこらえきれなくなって。

「ふみぃ……っ」

 やっぱりすごくショックで。

 普段あんなに優しかったのにって思うと、ひたすらに悲しくて。

 ――ホントに、怒ってたんだなぁ。

「みいぃぃぃ~っ!」

 涙が止まらない。

 射美は、生まれた時からすでに《ブレーズ・パスカルの使徒》にいた。彼女の両親は組織の構成員だったようだが、一度も会わせてもらったことはない。

 大人ばかりの組織で、最初に優しくしてくれたのがタグトゥマダークで。

 だからこそ、甘えすぎていたのかもしれない。

 無限の好意なんて、あるはずがないのに。

 ――射美はダメな子でごわす……

 あぁ、だけど。

 誰かにこの悲しみを聞いてほしかった。

 無理して藍浬や篤や攻牙の前から逃げ出すべきではなかった。

 自分は誰かに泣きつく資格なんかない、なんて。

 変に格好つけて。

「ひっ……ひぅ……」

 嗚咽をこらえるくらいしか、できないなんて。

「――どうして泣いているんだい? お嬢さん」

 そう、こんな風に。

「君に泣き顔なんて似合わないよ、鋼原さん」

 優しく話を聞いてくれる誰かがいれば。

「君に似合うのは、頬を赤らめながら唇を噛んで未知なる快楽と羞恥に耐え続ける表情だよ!!!!」

「ぎゃああ! ヘンタイさん!」

 黒い風が吹き抜けた。

 射美は恐怖に突き動かされ、全力ダッシュ。十メートルも進んだところで振り返った。

 均整の取れた長身痩躯。わきわきとイヤらしく動く両手の指。ダークグリーンの前髪が、その眼を覆い隠しているが、口の端は吊り上っていた。

 超高機動型変態、闇灯謦司郎。

 いくらなんでも神出鬼没すぎる。

「はっはっは、君みたいなかわいい女の子に変態なんて言われると、僕のパトリシアが神に反逆しちゃうよ!」

 何の隠喩だ。

「どっ、どっ、どどど、どうしてここに!?」

 もう五分も歩けば、射美たちが隠れ住むボロ借家にたどり着いてしまうような場所である。それはつまり、謦司郎には隠れ家の位置がバレているということではないだろうか?

「ノンノン、そんなことはまったく重要じゃないさ」

 背後から優雅なテノール。

「ひぃぃぃぃぃ!」

 いつ移動したのか全然わからない。怖い。単純に怖い。自分が何をしようが彼の行動を止められないという恐怖。

「今重要なのは、鋼原さん、君が悲しんでいるってこと」

「……ひ……!?」

 ふっと風が吹いて、射美の目尻に何かが触れた。

 謦司郎の親指だ。溜まった涙を拭い去り、引っ込んでいく。

「あ……」

「君に言っておきたいことがあるんだ」

 謦司郎は腰に手をあて、あさっての空を見上げた。そんな何気ない所作が、凄まじく絵になる奴だった。

「……ありがとう」

「え……?」

 意味をつかみかねて謦司郎の顔を見やると、彼の頬は緩やかに綻んでいた。

「攻牙を助けてくれて、ね」

 射美は眼を見開いた。

「君がいなかったら、攻牙は間違いなく真っ二つになっていたと思う。だから、ありがとう。本当に」

 そして、決まりが悪そうに頭を掻いた。

「これでも親友って奴だからね。ふひひっ、本人はムキになって否定しそうだけど」

 射美は、言葉が出なかった。

「だからね、お願いだ。自分の行いを、否定しないでほしい。君のしたことに感謝している人間が、ここに間違いなく一人いる。それに、篤やおっぱ……霧沙希さんも同じくらい感謝してると思う」

 今なんて言いそうになった?

「あ……う……」

 だけど、突っ込みの言葉は出て来ない。

 胸の中で、熱い何かが詰まっていたから。

 こみ上げてくるものがある。

 それは熱を伴って、圧力を高めてゆく。

 やがて、

「ウぐっ!?」

 OK、久々だ。



「ごふぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」



 グラシャ! ラボラス!

 深紅の! 奔流!

 びちゃびちゃと道端に叩きつけられ、ホラーな領域を広げてゆく。

「けほっ……けほっ……」

 身を折って咳き込む射美。

「あー……えっと……大丈夫かな……?」

「うぃ~、感極まってやっちゃったでごわすぅ~」

 咳き込みながら、にひひと笑いはじめた。

 なんとなく、この変態紳士をたじろかせたことに、愉快な思いを抱く。

「しまった……頭から浴びれば良かった……! あぁっ! 美少女の体液が! 体液が! 無駄に地面に染み込んでゆく!」

「…………」

 そうでもなかった。

 変態すぎる。

「あー、こほん」

 気を取り直して。

「あの……ありがとうでごわす。ちょっと気が楽になったでごわす」

 ぐしぐしと口をこすりながら、自然に笑みを浮かべることができた。

「おかげで、決心がついたでごわす♪」

 変態紳士が、わずかに眼を見開いたような気がした。

「決心……そうか」

 そう微笑んで、歩き出す。

 すれ違いざま、射美の肩に手が置かれた。

「無理はしないで、命を大事にね」

「はい♪ ヘンタイさんは、実はいいヘンタイさんでごわすね♪」

「はっはっは、君みたいなかわいい女の子にそこまで言われたら、僕のパトリシアのみならずエリザベスまで凄いことになってしまうよ!!」

「えっ……それ何!? どゆことでごわすか!?」

 別個のナニカらしい。



 ●



 地方征圧軍十二傑の序列第三位であるところのヴェステルダークは、ボロ借家の居間で、ひとつの結論に到達していた。

 皇停『禁龍峡』の位置に関する、重大なパラダイムシフト。

「……私は今までとんでもない勘違いをしていたらしいのかもな……」

 眉間を軽く摘みながら、斬れ味鋭い笑みを浮かべるヴェステルダーク。

 ここ朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相が不安定に揺らいでいる理由。

 どれだけ〈BUS〉の流れを辿ろうが、まったく《楔》に辿りつかなかった理由。

 ようやくそれが、判然とした。

 今までは、謎の寄生バス停(うねうねしてる)が、正常な〈BUS〉の流動を阻害しているせいかと考えてきたが――

 どうやらそうではないらしい。

 むしろ、逆――

「……ん」

 どこかで、絶叫が、上がった。

 まるで、獣のような慟哭であった。

 生きながら喰われる猫のような喘鳴であった。

 あるいはそれは、笑い声にも似ていたかもしれない。だが、そう断じるには何かが欠け、何かが余分だった。

 軽く眉をひそめるヴェステルダーク。

 叫びは、すぐにやんだ。

 不気味なまでの、静寂。

 やがて、襖が蹴破られる音が微かにした。

 足音が響いてきた。

 規則的で、異常に緩慢な、人がましさを感じられない足音だった。

 どうやら廊下を歩いているようだ。

 板張りの床が、軋む。

 だんだんと、近づいてくる。

 ゆっくりと、近づいてくる。

 ヴェステルダークは、鋭く目を細め、自らの顎を掴んだ。

 ……ある予感があった。

 確信していたわけではないが、ひょっとしたらこうなるのではないかと。

 無数にある可能性の一つとして、予測はしていた。

 やがて、ヴェステルダークのいる居間へと通じる襖の前で、足音は止まった。

 がたり、と。

 襖が震える。

 がき、がぎっ、と。

 襖が引っ掻かれる音がする。

 乱暴というよりは、襖の開け方がわかっていない獣のような所作だった。

「――入りたまえ」

 ヴェステルダークがそう声をかけると、わずかに開いた隙間から、派手な音をたてて指が突っ込んできた。

 細かく痙攣しながら、指は爪を立てて襖の端を握り締める。

 瞬間――

「……ァ……」

 襖を力任せに引き毟って、ひとつの影が姿を現した。

 ソレは、人間に似た姿をしていた。

 ヴェステルダークがよく知る部下のような顔をしていたが、まるで死人のように表情がなかった。

 大量に流れ出た血が、その整った顔を禍々しく染めていた。

 ソレは、手に残った襖の残骸を無造作に投げ捨てると、異様に緩慢な動作で歩み寄ってきた。

 そして、ちゃぶ台の上に広げられていた朱鷺沢町の地図に、血まみれの何かを叩きつけた。

 ――縞の獣毛が生えた、二つの肉片だった。

 見ようによっては、耳のようにも見えた。

 くす、と、ヴェステルダークはかすかな失笑を漏らした。

 それはまぎれもなく嘲笑ではあったが、出来の悪い生徒がようやく及第点を出してきた時の教師の笑みにも似ていた。

「[おはよう]、[バケモノ]」

 ソレは、無言であった。

 ただ、ブラウンの前髪の狭間から、底光りする眼でヴェステルダークを見下していた。

 ヴェステルダークは、亀裂のような笑みを頬に刻む。

「私が、憎いのかもな?」

 ソレは、何も言わず、何もせず、ただ見下してくる。

 ただの人間であれば、それだけで絶息しかねないほどの視線だった。

「――知って、いたのか」

 ようやく、ソレは口を開いた。

 鈍い光沢を持った声だった。低く、動かず、ただ黒々と蟠る声だった。

「ああ。一部始終、知っていたのかもな」

 重圧を伴った沈黙が、二人の間を覆った。

 何ら友好的な空気などなかったが、不可思議な調和が保たれていた。

「あんたは」

 ソレは、やや躊躇うような仕草を見せてから、

「[俺]、が、飛びかかってきて首を絞めてくるような展開を期待しているんだろうが――」

 禍々しくも剄烈な力を込めた眼で、ヴェステルダークを睨む。

 その瞳は、ひとかけらの温かみもなかったが、どこまでもまっすぐで、澄み渡っていた。

「《王》たるあんたの力を俺は見誤らない。俺が一生涯をかけようが、到達できない高みに、あんたはいる」

 ヴェステルダークは、その言葉を卑屈とは受け取らなかった。

 眼が、力を失っていない。

 状況を正しく理解し、絶望的な力の差を知り、それでもなお成すべきことを見据え続ける。冷たく研ぎ澄まされた覚悟に燃える眼だった。

 ――いい貌を、するようになった。

 ヴェステルダークは笑みを深くした。

 この、欠落を抱えた青年は、今ようやく、生き始めたのだ。

「それに、あんたたちのことを、そこまで怨んではいない」

「……ほう、意外かもな」

 ソレは、血にまみれた自らの手を凝視した。

 細かく、震えていた。

 だか病的な震えではなく、内部より溢れ出る力の扱い方に、まだ慣れていないだけという印象を受けた。

「こんな、強さなど、欲しくはなかった。ずっと、たったひとりの妹を守っていたかった。たとえそれが幻覚であっても、俺はそれでも良かった」

 言いながら、眼を閉じた。眉間に、苦悩の皺が寄った。

「欲しくは……なかったんだ……現実を見据える強さなど……」

 それは、己の身にかつてあった弱さへの郷愁だった。

 すでに失われてしまった、弱さへの。

 その弱さは、致命的な隙となって、とある特殊操作系バス停使いの精神介入を許した。

 序列第五位、エイリオハート。

 ある意味、目の前の青年にとっては恩人であり、憎むべき詐欺師でもあったが――

 この様子では、彼の眼はすでに別の方を向いていそうだった。

「貴様が諏訪原篤と停を交えた時、恐らくはバス停同士での感応が発生したのだろう。そして、彼と貴様の間で精神的な共震現象が発生した」

 共に強烈な感情をぶつけ合いながら死闘を演じたバス停使いの間には、稀にそういった現象が発生することがあった。

「すなわち、貴様のその強さは、すべて諏訪原篤に起因するということだ」

「あぁ……わかっている……わかっているさ……」

 震える五指を握りしめ、ソレは――かつてタグトゥマダークという名で呼ばれていた怪物は、呻いた。

 ふいにこちらへと視線を戻し、鋼のような声で言った。

「今日は、決別を伝えに来た」

「ふむ」

「もはや《絶楔計画》などどうでもいい。あんたたちで勝手にやってくれ。俺は、俺の生を闘う。生きた証を、自分の手でつかみ取る」

 ヴェステルダークは、目を細めた。

「つまり……裏切ると?」

「そう取ってもらって構わない」

「今この瞬間にでも貴様を消し炭に変えることができるが、それでも撤回する気はないのかもな?」

「くどい」

 ヴェステルダークは、呆れたように息を吐いた。

「……思い人は、あの少年かもな」

 彼は、答えない。

 それが何よりも雄弁な答えだった。

「諏訪原篤は、ディルギスダークが――あの『狂鴉』が、一片の間違いもなくすっきり爽やかに抹殺することだろう」

 酷薄な嘲笑を、口の端に乗せる。

「貴様の出番は、恐らくないのかもな」

「かまわない。俺は――」

 一瞬、青年の顔が嫌悪に歪んだ。

「――奴を、信じている」

 まるで、昨日喰い残した残飯の話でもするかのように、そう吐き捨てた。

 ……腹の底から、笑いの衝動が込み上げてきた。

 くつくつと、低い忍び笑いを漏らしながら、ヴェステルダークは言った。

「よかろう。悔いのないよう、独りで生き、独りで死ね」

「……ありがとう」

 青年は、踵を返すと、振り返りもせずに居間を出ていった。

 後には、血にまみれた獣の耳だけが残された。



 ●



 しばらくしてから、居間にもうひとりの人物が入ってきた。

 大きな瞳を不安そうに揺らしながら、おどおどと。

「あ、あの、今、家の前で、タグっちが……」

 セラキトハート。

 ――いや、もはや鋼原射美と呼ぶべきか。

 彼女のおかげで、この家は明るさを失わなかったものだが。

 そう懐かしむ自分の気の早さに、ヴェステルダークは肩をすくめた。

「ほう、会ったのか。それで、襲われれもしたのかもな?」

 ぶんぶんと、射美は大げさに首を振り、困惑まじりの笑みを浮かべた。

「な、なんか、落ち着いてたっていうか……ブッキラボーだけど、優しかったでごわす」

 ――そうか、そういう見方もあるのか。

 少女の牧歌的な感性に、多少の驚きを覚えた。

「『ひどいことを言った』って。それから、『すまなかった』って……」

 思い出して照れたのか、両頬を手で押さえてくねくねした。

「ひさびさにナデナデされたでごわす~♪」

 頭が血に濡れているのはそのせいか。

 思わず、苦笑が漏れた。

 青年を相手にしていた時とは対照的に、どうにも毒気を抜かれる。

「それに、なんかネコ耳がなくなってたでごわす」

「……あぁ、耳ならそこにあるのかもな」

 ヴェステルダークがちゃぶ台の上を指し示すと、「ぎにゃあああ!」射美はそこから後じさって尻餅をついた。

「ち、ち、ちぎ、ちぎった……!?」

「そのようなのかもな」

 ヴェステルダークは、血まみれのネコ耳を見つめた。

「……不意に、干し肉が食いたくなる時がある。ちょうど今のように」

「いやいやいやいやいや! イキナリ何を言っちゃってるでごわすか! せめてぼかして! 『かもな』を付けて!」

 ヴェステルダークは低く笑った。

 そして眼を細める。

「それで……貴様も私に用があるのではないのかもな?」

 答えの分かっている問いを、発した。

「あ……ぅ」

 一瞬、射美は息をのみ、やがて観念したように息を吐いた。

 ちゃぶ台ごしに、射美は座り込んだ。

「その……」

 何かを言いかけて、射美は口をつぐむ。その眼は下を向き、怯え、揺れていた。

 ヴェステルダークは、声をかけて続きを促すようなことはしなかった。

「大事な人たちが……この町にいるでごわす」

 相槌すら打たず、ヴェステルダークは目を細めてじっと射美を見る。

「射美は……その人たちが、大好きでごわす」

 彼女は下を向いたまま、肩を細かく震わせた。

「だから……その、射美は……だから……」

 さっ、と顔を上げ、正面からヴェステルダークの視線を押し返しにかかる。

「こ、この町を、ま、ま、ま守るつもりでごわす!!」

 額に汗を浮かべ、どもりながら、ヴェステルダークの眼光に抵抗する。

「……つまり、《絶楔計画》を阻止するつもりである、と?」

「は、はい!」

「要するに、裏切る、と?」

「は、はぃぃ……」

 ヴェステルダークは、軽く吐息をつくと、わずかに眼を見開いた。

 その身に宿る、あまりにも強大な〈BUS〉を、ほんの少しだけ視線に込めた。

「ひっ……ぐ……っ!」

 反応は劇的だった。射美は全身を硬直させ、呼吸困難に陥ったかのように口をパクパクと開閉させ、眼にはありありと恐怖の色を宿した。

「今この瞬間にでも貴様を消し炭に変えることができるが、それでも撤回する気はないのかもな?」

 青年にかけたのとまったく同じ言葉をかける。

 射美はカチカチと歯を鳴らし、眼尻に涙をためていた。

 しかし――視線が、ヴェステルダークから逸らされることはなかった。

「な、な、ないでごわすぅ~!」

 涙は決壊し、滂沱と流れ落ちる。彼女はわかっているのだ。自分が死地にあるということを。どうやっても逃れることはできないのだと。

 だが――視線は。

 涙に曇っているはずの、その視線は。

「――逸らさないな。一瞬たりとも」

 ヴェステルダークは微笑を浮かべ、根負けしたようにあさっての方向に眼をやった。

「あ……」

 唐突に解けた呪縛に、射美は放心したような声を上げる。

「行け。行きて愛せ。貴様が守りたいと思うすべてのものを」

 視線を戻さぬまま、投げ付けるように、ヴェステルダークは言った。

「う……あ……はいっ!」

 その声は、恐怖によるものとはまったく別種の涙で揺らいでいた。

 彼女が立ち上がる音がする。

「あのっ! ありがとうごわしますっ! それから、今までありがとうごわした! 次会うとき、射美は敵でごわすっ!」

 ヴェステルダークは答えない。射美の方を向きもしない。

「その、ま、まっ、負けません!」

 脱兎のごとく、走り去る足音。

 遠ざかってゆく、足音。

 ヴェステルダークは、穏やかに目を細めた。



 ●



「――かくして、二人の裏切り者が、《王》のもとを去っていった」

「ディルギスダーク……いたのかもな」

「――ヴェステルダークはそう虚空に向けて呟くと、なにやら似合いもしない温かな笑みをあわてて消した」

「余計なお世話なのかもな」

「――だが、ヴェステルダークのこの寛恕は、彼ら二人の若者に、不幸な未来しかもたらさないであろうことは確実だった」

「……ふん」

「――タグトゥマダークは、怪物となった。もはや彼は腹の底で燃え盛る絶望を糧に、温もりも救いもない修羅道を歩むことだろう」

「だろうな」

「――セラキトハートは、明確に《王》の敵対者となった。この時点で彼女の死は決定づけられたのだ。もはや早いか遅いかの違いを除いて、彼女の余生に意味はないだろう」

「それでもな、ディルギスダーク。彼らが自らの意志を貫いて、自らの立場に否やを唱えたことが、私はなぜか、嬉しいのかもな……」

「――ヴェステルダークはそう言うと、遠くを見るような眼差しで、二人が去っていった方向を眺めた」

「本当に……どの子も知らぬ間に大きくなる」

「――彼はおもむろに立ち上がった。その眼には、もはや冷徹な《王》としての威厳以外、何も見出すことはできなくなっていた」

「そして、古い目的にしがみつく古い人間ばかりが、この借家に残ったというわけなのかもな」

「――酷薄に、鋭利な笑みを刻む」

「《楔》の位置については、見当がついたのかもな。《絶楔計画》を第四段階にシフトする――『俺たちの戦いはこれからだ! 第三部・完!』というやつかもな!」

「――そうして、《王》は歩み出した。巨大な時計のごとき歩みだった」



「彼らのゆく手に、断想(パンセ)の導きがあらんことを」



 完

後書き


作者:バール
投稿日:2011/10/22 18:10
更新日:2017/08/23 19:40
『フルスイングでバス停を。』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。

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作品ID:889
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