檸檬殺人事件の続編です




 下宿しているボロアパートの扉を開けると、そこは修羅場に繋がる空間と化していた。

「またお前か」

 わたしの手には簿記の分厚い参考書、男の手には控えめのフリルが可愛らしいパンツ。わたしのベッドのシーツはぐしゃぐしゃ、横たわる女の子はすっぽんぽん。
 こんなにピッキングされやすいアパートで大丈夫か、いや問題しかない。
 季節は秋。紅葉が美しく舞い、日中は過ごしやすいこの時期に、わたしの怒りとそれに付随するこの男の夏の反省は何処へやら、鉢屋三郎はまた罪を犯した。
 いや、犯したの女の子だけど、とか、いらんことは言わない。話がこれ以上にめんどくさくなるのは御免である。わたしの選択肢はいつだって一つ。

「なっ、! それは流石に!!」
「死んで詫びろ」

 ピッチャー、大きく振りかぶってきちんと参考書の角が当たるように回転を加えて投げた。




 見事に米神で参考書を受け止めた鉢屋三郎は、情けないことにレモンイエローのパンツを片手に伸びてしまった。レースのあしらいが繊細で一目見てわたしの下着より高価であることが分かった。下着に金をかけるのは社会人になってからで良いだろうと思っているので、わたしの下着が安物であろうと今は特に問題ない。見せる相手もいないことだし。うるせえ。
 またしても素っ裸の女の子は気絶してしまっている。夏の事件から暫く大人しくしているなと感心していた矢先にこれだ。この男は本当にどうしようもない。下半身から生まれてきたんじゃなかろうか。
 お前ほどゲスの極みという言葉が似合う知り合いもいないだろうよ、と思いながらスマートフォンを曖昧にタップする。トーク画面を開いて不破に悲しき現状報告をすると、数秒で既読が付いた。

『気絶するまで殴って良いよ』

 一言目に許可をくれる不破雷蔵さん。決して敵に回してはいけないと誓わせるには十分すぎる人である。

『参考書一発で伸びちゃった』
『ごめんね、部屋汚れてない? きちんと三郎に掃除させてね』
『だいじょうぶ』

 ああ、不破はなんて良い人なんだろう。画面越しにも不破の困ったような笑顔が浮かび上がるようだ。その笑顔に一切の容赦がなく、目には温度がなく、歯向かえば死を意識するしかないと分かっていて尚、拝みたくなる。彼の仏の顔はきちんと三度しかない。鉢屋三郎は既に使い切ってしまっていると断言できる。
 背負っていたリュックを椅子に下ろし、わたしは凝り固まった肩を回した。バイト明けに嫌なものを見た。間違いなく呪われている。日頃の行いはそれほど悪くはないと自負しているが、鉢屋が関わると己の身に碌なことがない。
 歩き回る不運製造機の善法寺先輩だって、その不運の被害を周囲に無差別に与える訳ではない。善法寺先輩とよく一緒にいる食満先輩は昨年から交通事故でバイクがおじゃんになったりテストの日を間違えたり財布を盗まれたりと日々散々な目に遭っていらっしゃるが、善法寺先輩の同学年でそこまで不運な人は他にはいらっしゃらない。
 つまり特定の人物に影響を与え続ける哀れな才能がこの世には一定数存在するということだ。誰か偉い人が立証してそうなものであるが、バイト明けの頭では疲労が溜まって上手く思考が回転しない。諦める。
 さて、このまま放置すると女の子が風邪をお召しになってしまう。窓から差し込む夕焼けがものすごく綺麗な肌を艶やかに見せるので、非情に目の毒だ。女の子を起こさないように慎重に、フローリングの上で彼女が着ていたであろうギンガムチェックのシャツワンピを丁寧に再装着させ、やっぱり仕方が無いのでわたしのベッドに寝かせた。少し湿ったシーツを鉢屋に投げ付けるのも忘れない。
 あ、この子学生会の一回生だ。ぼやぼやした記憶の中の人物と顔が一致、今年で五本の指に入る程度に気まずい。
 まだあどけない顔立ちの一回生。そりゃそうだ、少し前まで女子高生だぞ。犯罪だ。きっとこの薄い目蓋が持ち上がれば、丁寧にカールされた睫毛と濁り一つない瞳が見られるはずだ。これからのキャンパスライフを夢見る、うつくしい色。
 三回生にもなると目は死んだ魚の如く。キャンパスライフは幻想である。目前にはゲス。周囲の友人は優しく面白く、日常を退屈させない技量を持つ人々ばかりだが、わたしの心が潤っているかというと、毎度こういった攻撃によって磨耗しているのは明確である。大体が鉢屋三郎のせいである。
 バイト先で貰ったまかないの残りが入ったタッパーをリュックから出し、勉強机の椅子を引いて腰掛ける。先程お昼のまかないを貰ったところだったので、夕飯は暫く時間を開けたいところだった。十五時のお昼ご飯だから仕方無い。
 代償はどうしてくれようか。何度参考書で殴り付けても、鉢屋三郎は何度だって間違いを重ねてくる。こちらが飽きるか根負けするのを待っているのだろうか。許せば卒業するまで無法地帯が続くことになるのは明確だ。避けたい。絶対嫌である。修羅場とは無縁で生きていたいしあわよくばこいつら両成敗にならねえかなあとすら思う。
 だが、鉢屋三郎を回避する能力は、生憎今のところわたしには備わっていない。残念ながらこの男の偏差値はわたしより遥かに高く、頭脳戦では一度も勝つことができていない。物理的攻撃で勝つしかないのである。ひょろっと薄い身体でよくいるバンドマンみたいな男なので、力技で何とかするのが最も簡単なのだ。
 先程まかないを食べたところだったのに、このどうしようもない現状に腹を立てたことで神経が刺激されたのか、胃に容量が空いてしまった。遺憾の意である。タッパーの蓋を外し、時間が経ってもまだ美味しいカボチャの天ぷらを摘む。齧る。流石に衣はもうさくっとはしていないけれど、べたべたもしていないので随分優秀だ。鉢屋もわたしにべたべたすることはないのだけれど、何故わたしの家での行為に拘るのだろうか。変態なのかそうか。

「……いっ……て、」

 床からのろのろと起き上がった男は米神を押さえて呻く。一生呻いていろ。ズッキーニの天ぷらに齧り付く。ナス系の天ぷらの美味しさは成人してからようやく分かった。美味である。
 ぐぅ、と何か音が鳴った。腹の虫である。わたしのではない。米神に手を当てたまま硬直した鉢屋の頬と薄い耳が、じわじわと赤味を帯びていく。
 下半身剥き出しでも動揺する素振りすら見せない男が、ちゃんちゃらおかしい。お前の羞恥心の基準がさっぱりわからないよ。昼ごはんも食べずに行為に耽っていたのだろうか。想像もしたくないが。

「…………」

 おっと鉢屋選手、俯いた。情けない男である。あくまでもこちらに弱った顔を見せないつもりなのだ、往生際が悪いにもがある。そんなしょーもない男に対する報復は、目の前で美味しそうなまかないのエビフライに噛り付く、で十分である。
 窓の外から烏の間延びした鳴き声が聞こえる。あほう。己の所業を深く反省しろ。毎度女の子のアフターケアをするのは役得かもしれんがが痛むことに変わりはない。わたしは容易く摩耗する生き物なんだぞ。
 天ぷらの残りは晩ごはんに回すとして、タッパーの隅の温野菜を堪能しているわたしを見上げて恨めしそうな顔をしてくるが、悪いのは全てお前である。心から反省しやがれ。

「……最近お前、冷たいよな」
「優しくする道理がない」

 正論を返したのに鉢屋が捨てられた子犬のような表情を取り繕う。見慣れたものなのでもう何とも思わないが。

「仕方ないだろ、あっちが誘ってきたし、お前の家近いし」
「よし友達辞めよう、今期の単位全部落とせ」

 男の瞳には絶望の色。何度も見ているはずだが、いつどこで見たのかを思い出すことができない。素顔を晒せないこの男は、定期的に不安定になって一等面倒くさい。傷付いた自覚もないまま、わたしに構ってもらいたいがために阿呆なことを、何度も何度も。

「……ん?」

 素顔を晒せない? いや、そんなマスクをずっとしている訳でもあるまいし。何かが引っかかっているが、思い出せない。違和感は残っている。しかし正体は掴めない。指先についた天ぷらの油が拭い切れないのと同じように、何かがおかしいと脳が警鐘を鳴らしている。

「……腹が減るんだ。お前の部屋まで来れば、気を紛らわすことぐらいはできたんだ、いつも」

 鉢屋のことばはいつも意図が読めない。変だ、妙だと思うのにその要因は霞に消える。この会話を、吐露を、わたしはどこかで聞いたことがなかったか。触れたはずのないそのおとがいに指を突っ込んで、何かを引き剥がそうとしたのではなかったか。

「お前はいつも思い出さないもんな。何回目だと思う? 百年を何度数えたか知ってるか?」

 今にも目玉を覆う水の膜から滴を零す手前で笑う男を、見るのは初めてのはずだった。既視感が襲ってくる。覚束ない足元は冷やりとしたフローリングの感触を捉えているはずなのに、瞬きをすれば、そこには井草のにおいがする気がしてくる。
 全てが推測で、おぼろげで、さっき食べた温野菜の甘さだけが口の中に残っている。己が何者で、鉢屋が何のためにこんな阿呆な言動を繰り返すのか。原因があったはずだ。しかし分からない。もやもやとした翳りが脳裏に貼り付いていて、もどかしい。
 わたしはどうしたらいい。身動ぎすらしない女の子を起こしてから家に返す方法の考察? バイト着の洗濯? お風呂を沸かす? 鉢屋を殴る? 泣いて許す? 全部が間違いで、全部正解に思えてくる。誰も教えてくれないことだけは分かっている。
 だって、今までずっとそうだった。

「なあ、“私”をきちんと見てくれ」

 先程まで空腹を訴えていたとは思えない、ただ苦いものを噛んでしまった顔を崩さず、男の手はわたしの首の後ろに伸びた。いつだって自分の都合しか考えていない男の体温が頬に移る。滑らかな肌の感触は、確かに覚えがあるのだ。
 わたしはわたしのためにいま拒絶しなければならない。反射的にそう思って引き剥がそうとした瞬間に目頭から熱が零れた。わたしは一体、何を懐かしいと思っているのだろう?

チョコミントを讃えよ

160430|ちよさん、リクエストありがとうございました