「ユキちゃん~は早々と~子供が~できて結婚~」
目の前にいた奥村さんが大袈裟なほど肩を跳ね上がらせたのが視界に入った。
しまった、これから祓魔任務であるというのに浮かれポンチであることが露見してしまった。大して歌が上手いわけでもないのに迷惑行為である。いやわたしも祓魔師であることを除けば善良なる一般市民と何ら変わりはないただの音楽好きの人間であるので、多少の行いには目を瞑っていただけたらありがたいのである。しかし奥村さんはあまり冗談が通じなさそうというか、真面目が服を着て悪魔を倒しているようなお人なので、ちょっと難しそうである。
言い訳をさせていただくと、本日で十連勤目でここ五日は自宅に帰宅すら叶わなかった社畜であり、簡単に言えばあらゆる判断能力が小学二年生並みに退化しているという脳味噌の蕩けっぷりの状態で、好きなバンドのライブチケット当選の知らせを先程メール通知にて確認、高揚した気持ちを抑えきれず、ついうっかりそのバンドの歌詞の一部を零してしまったという次第である。駐車場へ向かう最中だったので、奥村さん以外に被害者がいなかったことだけが幸か不幸か。
随分と背の高い彼は確かまだ高校一年生だったはずで、いくつ年下なんだっけ、と考えようとして中断した。恐ろしいことを考えるべきではない。若いのに本当に立派だよなあと感心しつつ、先程の失態をどう詫びようか頭の片隅で考えていると、何ともいえない顔をした奥村さんが立ち止まってこちらを振り返った。
「あの……」
上手過ぎる具合に眼鏡が夕日を浴びて光って表情が読み切れない。困惑していることだけはいくら愚鈍なわたしでも分かる。
「すみません、お見苦しいところを」
「あ、いえそんな……」
「十連勤目なんでちょっと許していただけるとありがたいです」
「お、お疲れさまです……」
「いやもうほんとスミマセン……」
若干引き気味の奥村さん、こんな大人にはなってはいけないよ、と思うものの、随分低姿勢で人当たりも良さそうに見えるので、きっと将来こちら側の人間になるだろうなと思う。可哀想に。仕事は断れる時には断らないと駄目ですよ、と付け加えると苦笑いが返ってきた。くいっと中指で眼鏡を押し上げる奥村さんの動揺は、どうすればチャラになるのだろうか。本当に申し訳ない、こんなんで任務大丈夫だろうか。
まあやらかしてしまったものは仕方ないと半ば開き直ったわたしは、己の車のキーをくるくる指で回して現実逃避である。これから向かう祓魔任務の目的地は山奥で、加えて別の出張所の人間を途中で拾っていかなければならない。恐らく解散が夜中になるので終電など存在しない。
目的の出張所まで車で一時間半。奥村さんとはそこまで親しい仲でもないので、道中の気まずい沈黙が心配である。彼は心優しそうな青年であるから世間話などはしてくれるだろうが、一時間半もノンストップでお喋りできるほど饒舌には見えない。寝ててもらっても構わないのだが、礼儀とかを気にして起きてるタイプにも見えるのであまり期待できない。
「じゃ、助手席にお願いします。荷物はトランクで」
「はい」
ドアとトランクのロックを解除して運転席に乗り込む。奥村さんは諸々の荷物と厚手のコートをトランクに手早く押し込むと、お邪魔します、よろしくお願いしますとわざわざ丁寧なご挨拶を添えて助手席に滑り込み、そっとドアを閉じる。わたしよりも礼儀正しい、間違いない。助手席が狭そうだったので座席の位置を下げるレバーの場所を指摘する。おみ足が長いのう。
目玉を焼く強さの色濃い夕焼けが視界を覆って死にそうである。目をしょぼしょぼさせながらブラックガムを口に放り込み、シートベルトをしてエンジンをかける。
カーナビで出張所の住所を打ち込んでいると、奥村さんが小さくくしゃみをした。
「暖房もう少し上げますね」
「すみません、お気遣いいただいて」
鼻をすんと小さく鳴らした奥村さんは恥ずかしそうに目蓋を伏せた。こうして見ると本当に高校生で、一気に犯罪臭が漂い始めた。道中で逮捕されないことを願う。
確かにここ数日の冷え込みは恐ろしい。地球温暖化とは何だったのかと疑わずにはいられないくらいである。ちなみに最悪のタイミングで自分の部屋のエアコンが壊れたので、わたしは毎日を生き延びることだけで精一杯であったことを供述しておく。平均室温三度はかなり辛い。まあ、真冬になれば朝方の室温は氷点下になるのだけど。
「暑くなったら言ってくださいね」
「ありがとうございます。助かります」
狭い車内なので、すぐにあたたかい空気が肌を撫でる。ほっとしたように息を吐いた奥村さんも、もしかしたら緊張していたのかもしれない。彼は優秀な祓魔師なので色んな現場を経験してるかとは思うが、だからと言って全く緊張しないということはないだろう。先にあたたかい飲み物でも買っておくんだったと後悔しながらハンドルを回す。
早速想像通りに会話が途切れ、エンジン音だけが社内に響く。ここは音楽でもかけて誤魔化すのが最適だろう。誤魔化すのはわたしのコミュニケーション能力の低さである。最初の信号待ちの状況で、わたしは静かに姿勢良く座っている奥村さんに見えるよう、既に繋いであるウォークマンに手を伸ばす。
「道中長いので、音楽でもかけましょうか」
「ありがとうございます」
ロックバンドでも大丈夫ですか、と奥村さんの趣味も聞かずに問いかけてしまったにも関わらず、彼の愛想笑いはとても自然で、尚且つ大丈夫ですよ、と優しい声音が返ってきてわたしはぼけっと感心してしまう。なんて良い子なんだろう。ちなみに、音楽はわたしが運転中に睡魔に負けないようにするための手段の一つでもあることを供述しておく。
信号が変わる前に操作を終えなければならないので、急いでウォークマンを起動させると、自動的に音楽が流れ始める。最後に聞いてた曲何だっけなと思った矢先、後部座席の上部につけてあるスピーカーから響くゲイリーの歌声。
『パンティ泥棒自転車で走る~』
あ、奥村さんの目が死んだ。
なんてことだ、このタイミングでパンティ泥棒の歌だと? まだ任務は始まってもないというのに既に大惨事である。目も覚めたわ。己を疑うしか最早することがないがどこかで納得してしまう自分がいる。そうだ、さっきモールルのライブチケットを手に入れたからだ。嬉しかったのだ。だから今の再生範囲は恐らくアーティスト選択でモールル、アルバム全てをシャッフル再生にしてあるのだ。アアア。
いやまあ確かに歌詞はアレなんだけど、曲自体はドラムもベースもキーボードもそれぞれが主役でかっこいいのだ。歌詞はやっぱりアレだけど。とりあえず別の曲に変えようと再生ボタンに触れると、誤って再生範囲を変えずに次の曲に移ってしまった。
あっヤバい、このイントロはサイケな恋人だ。このままではいずれまた奥村さんの目が死んだ魚のようになってしまう。いや歌詞が始まるまでは、というか始まっても曲はずっとかっこいいんだけど。途中のパンティー乱舞が始まるまではとりあえず大丈夫だ。簡単にパニックに陥ったわたしは、ウォークマンの電源を落とすという原始的な解決方法を忘却の彼方へ飛ばしてしまった。挙げ句、ふと今の状態が信号待ちであることを思い出し、無情にもライトが青に変わった。後続車両に大きなトラック。
ユコちゃんの歌声が可愛いことだけが救いである。先程の失態を謝る余裕もどこかに捨ててしまい、色々なものを諦める他はなく、わたしはそれ自体に罪はないウォークマンを手放してアクセルを踏んでじっとり汗ばんだ手でハンドルを回す。高速道路に入るまでに何とかしなければ。
奥村さんにウォークマンを操作してもらうという選択肢すら十連勤目でふわふわした頭では思い浮かばず、わたしはカーナビの一定の温度を保ったアナウンスの指示通りにただ車体を運ぶ。
「……さんは遠距離射撃型の竜騎士でしたよね」
年下の子に気遣われて話題を提供されてしまった。完全に謝るタイミングを逃したが、恐らく彼は根っこから良い子で水に流そうとしてくれているのだろう。なんて出来た高校生なんだ、今度塾長に色々進言しとこう。カーブを曲がりながら何とか言葉を返す準備をする。
わたしがもっと話上手なリア充であったならばこんな苦労を強いることもなかったというのに。非常に申し訳ないがコミュ障は一日では治らないのである。
「奥村さんは接近型ですよね。しかも医工騎士もでしたっけ」
「ええ。でもまだ中一級なので、今回の任務では色々とお世話になるかと思いますが、よろしくお願いします」
「いやいやとんでもない、こちらこそお世話になります」
何なんだ全ての返答が優等生かよ。すごいな。十五歳にはとても見えない穏やかな笑顔は、恐らくその裏側に死ぬような思いで培われてきた努力の軌跡があって、わたしはぼけっと間抜け面で感心する。
正十字学園にも主席で入学したとの噂も聞いているので、将来が有望すぎて恐ろしさすら感じる。後から同じ任務に当たったせいで女性に後ろから刺されることがないか心配である。
膝の上で奥村さんの指が裏打ちのリズムを取っている。お、本当にロックは好きなのかも、と少し嬉しく思った、その時だった。
『パンチラ~大好き~あなたはゴミ~消えればいい~』
ユコちゃんの可愛い声が辛辣な言葉を紡ぐ。ミラー越しに奥村さんの眉が動いたのが見えた。ここのリムショットとベースがかっこいいんだけど恐らく彼はそれどころじゃない。ああ、すっかりBGMとして楽しんでしまっていた弊害が。
ええい誤魔化せ、誤魔化すんだ! 何か、何か話題を!
「……そういや、塾講師もされてるんですよね? 塾生と年齢も変わらないのに本当にすごいです」
「いえ、まだまだ勉強不足で……」
『見えないものを見ようとして~鏡を覗き込んだ~』
ヤバい始まった。何とか会話を続けようと思ったが無謀だった。奥村さんが少し首を傾げたのを空気で感じる。不穏な予感は正解ですよと言えた口ではないのでわたしは謝るタイミングも逃し、もうただアクセルを踏む。運転中によそ見が出来るほどの技量がないので、これから先の不幸を避ける術がない。
『パン! ティー! セイッパン! ティー!』
苦虫を噛んだ顔で運転をし続けるわたしを助けてくれる神は当然現れず、無残にもパンティー乱舞が始まってしまった。変わらず曲だけはかっこいいのがむしろ酷さを煽る。
先程までの些細な会話は夢だったかのように、わたしも奥村さんも黙り込む。
『パンティーって言え~!!』
無茶苦茶である。
眼鏡の真ん中を押し上げる奥村さんの長い指が震えている。わたしは申し訳なさの余りに震えている。いやまさか、こんなことになるとは。まだ車に乗って十分ちょいである。もう一時間くらい経った気持ちだった。
居た堪れなさに途中で道の端に車を寄せることも考えたが、生憎狭い車道が続いていて叶わなかった。ついでに信号にも上手過ぎる位に引っ掛からず、奥村さんの顔色も窺う間もなく、ウォークマンは無情にも次の曲を流し始める。
『ズキュンバキュンドキュン胸がドキドキする~』
ゲイリーの歌声は正しく現状そのままである。
安全運転を命懸けで遂行することと下手糞な笑顔を浮かべる以外にわたしができることはなかった。奥村さんの反応が怖すぎて全く確認できない。残り一時間と少し、わたしはどう足掻いても彼と二人で密室にいなければならないというのにこれは酷い。
『ズキュンバキュンドキュンあそこピクピクする~』
ゲイリー頼むから今だけ黙ってドラムだけ叩いてくれないか。無理だな。もうわたしには言い訳をするだけの気力もない。奥村さんからのわたしの評価はマリアナ海溝に沈む程度にはなっていることだろう。もう二度と同じ任務に当たりませんように。
いや無理だけど。遠距離射撃型の竜騎士が不足してて任務に引っ張りだこ状態なので、きっとまた近いうちに同じ任務で顔合わせするに違いない。終わった。わたしの祓魔師人生は終わった。
『どうしてユキちゃん~君は~こうもキュートで~素敵なの~』
車内にむなしく響くゲイリーの歌声は、わたし一人だったら思わず口ずさんでしまうくらいに楽しいのに、今だけはそれが恨めしい。音楽流して失敗したのなんて初めてだよ。でもモールルはやっぱり好き。
まともな思考回路を展開できない脳味噌でうだうだ考えている場合ではない。ゲイリーの歌にしっかり負けているカーナビのアナウンスが左折を促している。奥村さんに何と声掛けすれば良いのか、判断は無事にゲヘナ入りである。物言わぬ貝になりたい。
あ~せめてポルノとかアジカンとかをシャッフル再生にしとけば良かった~と後悔したとて遅い。奥村さんには後日美味しい茶菓子をお渡しすることで目を瞑っていただけるだろうか。
『ユキちゃんかわいい~ユキちゃん大好き~ユキちゃんお洒落~ユキちゃん愛してる~』
左折の巻き込みを確認するために左側の窓に視線を投げると、どうしたって奥村さんの精悍な横顔が入ってくる。肌の白い奥村さんの顎元のほくろが色っぽい。巻き込みの恐れがないことが分かったのでハンドルを切る。すっかり温もってしまった車内は暑いくらいになっていた。背中に嫌な汗が流れている。
閉鎖空間の酸素が薄くなり始めた頃、胸ポケットに入れていたマナーモードのスマホが振動した。正面を見据えたまま取り出すも、振動が止まないので電話着信だ。車内が地獄と化している中、わたしはもう失うものなど何もないのでとりあえず奥村さんの方へスマホを差し出す。
「すみません、スピーカーモードになってるんで、通話出てもらっていいですか」
「あ、はい」
素直に指示に従ってくださる奥村さんの指先がスマホを攫う。すぐに聞き慣れた声が飛び出してきた。
〔やっふ~今晩空いてるかにゃ~?〕
「これから仕事だよおおおおおおお」
半泣きのわたし、隣に奥村さんがいるのも忘れて断末魔。
〔ありゃ……い~居酒屋見っけたのに残念だな~〕
「くそおおおおおお花金に十連勤目だぞ今すぐそっち行きたいごめん来週は必ずアアアアアア」
スピーカーの向こうで笑う友人の声が恨めしい。すっかりお酒に思いを馳せるわたしは勝手に出てきた鼻水をどうやって処理するか悩みながらハンドルを切る。ああ、お酒飲みたい。キンキンに冷えたビールでも日本酒でも良い。出来れば温泉に入ってから飲みたい。
「その声……シュラさん?」
意外にも、奥村さんから反応があった。シュラと知り合いだったのか。驚く暇もなく、シュラの楽しそうな声に被さるよう、キノコもタケノコも嫌いと主張する歌声にも反射的に耳を傾けてしまって大混乱。
〔え? ビビリメガネ?〕
「やめてください」
おおお、なんか奥村さんが不機嫌そうだ。結構仲良しなのかね、と少し冷静になりながら、合間合間に飛び込んでくる音楽にダメージを受け続ける。いや、彼女との通話で結構誤魔化せたかも。
〔はは、ビリーの子守もっても大変じゃねーか。しゃーないし電話切るにゃ。また来週~〕
「誰がビリーだ」
お、口調まで砕けた、シュラすごい。ぼやっとしていて返答をする前に通話が終了してしまい、流れる曲調は哀愁を帯び、歌詞もちょっと落ち着いた。誤魔化せなくなった。
モールルの良さは温度差である。下品な歌詞のオンパレードにひとさじ混ぜられた、現実を的確に刺す言葉の並びは、確かに人を魅了する力を持っているのだ。言い訳終了。
「……あの」
左側から、囁くような小ささの振動数が鼓膜を揺らす。
「シュラさんとお知り合いだったんですね」
「……酒飲み友達で……」
「ああ……」
シュラの酒癖の悪さは奥村さんもよく知るところなのだろう。ちゃんと見てないけど遠い目をしながらの発言であることが予測できるような、無味乾燥の声音だった。子どもが出すような声ではない。
『それでも追い続けてしまう~バカな大人になってしまう~』
赤信号。
静かにブレーキを踏み終える。荒野に成り果てた肌に刺さる視線を感じて、目だけを隣に向けると、奥村さんがこちらを静かに見据えていた。ばちりと視線がぶつかると、それはふいと斜め下に逸らされる。彼の眉間にはぎゅっと力が込められていて、目尻がほんのり色付いている。半開きになってしまっている口許が、全く着崩されていない彼の姿の中での唯一の綻びのようだった。
はあ、と小さく零れた奥村さんの吐息が、何故かエンジン音に紛れずに耳まで届く。空気はいつの間にか張り詰めた風船のようになっていて、わたしは無意識に生唾を飲み込む。
そろりと、奥村さんの視線が戻ってくる。恥ずかしそうに少し肩を竦めて、背が高いにも関わらず僅かな上目遣いで。
見ているこちらの心臓が驚いて派手な音を立てた。暖房を調整するツマミに慌てて手を伸ばす。
『ユキちゃん! かわいい! ユキちゃん! 大好き!』
普段落ち着いた表情ばかり見せている奥村さんの頬が、かっと夕焼けの色に染まった。
もうすぐ太陽も沈み切る。何、何だ、これは何だ? この空気は一体どこから? いつの間に?
「あ、あの」
黒縁の眼鏡の奥の瞳が潤み、服の胸元をぎゅっと握った彼の声は震えている。最後のサビに入った曲は最高潮の盛り上がりを見せ、上手い具合に歌詞も終わって後奏へ。信号は未だ林檎の色を保っている。
暖房を切ったわたしの手の上に、白く大きな手が覆い被さった。火傷をしそうな熱が指に絡み、ブレーキを踏んだままわたしは硬直する。視界には赤と青。信号は進めない。眼鏡の奥には波打つ海。
『愛と! 青春と! ユキちゃんだ~!!!!』
「は~奥村さんめっちゃ良い子だった~何食べたらあんな良い子になるんだ……」
「あァ、そういや雪男と一緒の任務って言ってたっけ?」
任務は無事に終わり、シュラと一緒に二件目の居酒屋に入った時だった。美味しいお酒をたらふく飲んで気持ちよくなりつつあったわたしは、先の任務で大活躍をしてくれた若き竜騎士の彼のことをべらぼうに褒め称えて己の失態を隠そうとしていた。
あの後奥村さんは「いえ、すみません」と簡潔な言葉を発したのちに本当に貝のように黙りこくってしまって、開き直ったわたしはウォークマンの操作も忘れて出張所へ直行。悪魔は夜明けと共に撃退、山奥の旅館の温泉に入ってから仮眠をとって、また車で正十字学園に戻った。今度はきちんとアジカンとバンプのアルバムシャッフルで乗り越えたので特別大きな問題はなかった。はず。
奥村さんは本当に良い子だった。夜中の任務のため、終了後は宿で半日休めると前々から決まっていたが、十連勤のわたしを気遣って温泉でゆっくりしてから帰りましょうと提案してくれたのだ。気遣いの天才だった。山奥で娯楽もないだろうに、その後わたしは仮眠五時間まで確保することができたし(一日ここでゆっくりしても大丈夫ですよ、と彼は言ったが流石にそこまで甘えることは出来ないので五時間で切り上げた)、帰路では武器の専門的な話で盛り上がれる程度には打ち解けたのだ。歩み寄ってくれる若者は財産である。
今度は蜂蜜梅酒のロックにしようかとドリンクメニューを見ていたわたしの頬をシュラの指先が突く。痛いぞ。
「ま、の銃火器の腕前が近くで見れたなら、雪男にとっても儲けモンだろうな~」
生ビールを豪快に飲み干したシュラは、わたしの可哀想な肌から指を離し、豚トロに舌鼓を打ちつつ注文のベルを押す。
んん?
「……ユキオくん?」
「お~、本名はビビリメガネだからビリーで、仮の名前が奥村雪男だな、にゃっはっは」
すぐにやってきた店員さんに「ビールと~蜂蜜梅酒ロックと~、あと明太ダシ巻き、もろきゅうと枝豆も追加で~」ご機嫌なシュラは注文を終えるとアツアツの餃子に噛り付く。
下の名前を任務前にきちんと確認していなかった。何せ十連勤目、標的をいかに計画的に的確に倒すかを最優先としなければならない状況下、それ以外の事項に全く思考が及んでいなかったと言えばそれまでである。だがそれは、社会人としてどうなのか。
くるりとカールした睫毛を瞬かせて、シュラはグラスを抱えて固まったわたしを楽しそうに覗き込む。溶けた氷が動いた軽い音が、異様に遠く聞こえた。
「お~い~? 顔色悪いぞ~?」
どこか遠くへ逃げたかった。