悲しいお知らせがある。
 予想が容易な範囲ではあったが悲しみの度合いは目減りする訳でもない。免れない事項であった。乾いた笑い声が喉にへばりついて咽せそうである。自然な愛想笑いってどうやるんだっけ。
 それでも前に進むしかない。己に課せられた任務は、どう足掻いたとて目の前にふんぞり返っている。

「よろしくお願いします」

 礼儀正しいご挨拶は二回目。柔らかな笑顔があまりにも眩しい高校生の奥村さんと、今度は二人で祓魔任務なのであった。




 前回の車内モールル事件から僅か二週間である。心の傷はそう簡単に癒えるものじゃないぞと言えた立場ではないので無難な挨拶を返すことしかできない。しかも任務中は二人なので本当に誰も助けてくれない。ついでに指摘すると十連勤は免れたが、本日で記念すべき六連勤目である。まあ明日はお休みをもぎ取ってきたので今日の任務をいかに手早く終わらせて自宅に直帰できるかが勝負である。
 集合時間のきっちり十分前に現れた奥村さんに任務内容をぼちぼちな感じでまとめた書類を手渡し、重い胃を誤魔化すように腹を押さえる。前回の無礼を忘却していただくには期間が圧倒的に足りていない。だが仕事は仕事である。ワガママ言ってられるのは大学生までなのだ。徹夜も然り。

「今回は火に弱い悪魔ですので、薬莢の調整はそんな感じでお願いします。この経路で奥村さんに時間稼ぎをしていただいて、遠方からわたしが射撃します」

 任務内容以外に余計なことは口にしない。これは生き残るすべである。
 しかし今更、わたしが失うものはほぼ何もない。社会的信頼は地の底へ落ちた。あえて残ったと言っても怒られないとすれば祓魔師として今まで培った技術のみである。せめてその部分だけでも守りたいと考えることぐらいはお許しいただきたい。
 とりあえず即刻、迅速に、可及的速やかに竜騎士(後方支援型)を増員してくれ。動く死体が腐った死体になっても使い物になると思うか? 社畜はクリーンでホワイトで福利厚生がしっかりとした職場で適度に働きたいのだ。こんにちは動く死体です。特技はモッシュとダイブです。残業代が出るだけありがたいが、わたしは早く家に帰りたいのだ。南無。
 と、上記の内容を何も考えずにペラペラつらつら零すことは大変容易であるが、これからの未来を担う青少年に社会の薄暗い部分を見せつけるのは本意ではない。とりあえず口の端っこ吊り上げとけば良いだろ。
 書類上の文字をなぞる奥村さんの頭脳が明晰であるのは言わずと知れたことなので、その視線が書類の最後に到達するのを待つ。最後の一枚は図面で、端っこに入れておいた縮尺地図を見て、奥村さんが眉を顰めた。

「市街地に意外と近いですね……遠方射撃はリスクが高いのでは?」
「高所から狙撃しますので、特別な邪魔が入らない限りは大丈夫ですよ」

 それだけが取り柄なんで、とは口にしないでおく。これも言わずと知れた事実である。大振りの銃火器を肩に担いだわたしを見て、奥村さんは分かりましたと素直なお返事。よしいいぞ、前回の気まずさが鮮明に蘇る前に任務に向かおうではないか。
 今回は集合場所から歩いて行ける距離なのだが、徒歩五分とはいかないのが現実である。市街地からほんの少し離れた、悪魔に占領されて空き家の集合地となってしまった薄汚いところまでの道中、黙り込んだままというのも難しい。
 よし、銃火器の話でお茶を濁そう。決意を固めて一歩を踏み出したわたしの横に並んだ奥村さんは、またもや持ち前のいい子オーラを隠すことなく穏やかに言葉を紡ぎ始めた。

「シュラさんとは長いんですか?」

 はいはい己のちっぽけな決意などどうでもよい。提供していただいた話題に乗っからない手はない。

「塾生の頃からですかね。あっちがヴァチカンにいる間は疎遠になってましたけど」

 その頃はシュラもわたしも今以上に社畜だった、という事実は胸の奥底へ格納しておいた。語らぬ方が良い事実はごまんとあるのだ。

「じゃあ結構長いんですね。竜騎士には最初からなろうと思ってたんですか?」
「まあ、そんな感じです」

 シューティングゲーム感覚で、なんて言える訳がない。ゲームで培った特技がまさかそのまま仕事になるなんて誰が想像できるだろう。そんな夢のない話はなかったことにするのである。
 わたしばかり喋らされるとどんどんボロが出てしまう。奥村さんの話にシフトチェンジしよう。

「奥村さんも、シュラとは長いんですよね」
「ええ、まあ……」

 苦笑いをする奥村さんは、一体彼女に何を強いられてきたのだろうか。ちょっと詮索してみたい気持ちが芽生えてしまっているのだが、果たして答えてくれるものか。シュラは美人でおっぱいも大きくて太ももがむちむちで素晴らしいおなごであるが、その傍若無人さには目を瞑らなければならない時もある。タイミングが悪いと最高の酒乱と化すのだ。
 冬の始まりの風が顔に強く吹き付けて辛い。早く終えてあたたかい炬燵に入って惰眠を貪りたい。ちなみに忙しすぎてエアコンを買いに行けていないので室内は極寒を保っているという至極どうでもよい情報をここに述べておく。
 奥村さんはその図体の割にくしゃみが可愛らしかったなどと犯罪紛いのことを頭に浮かべていると、あの、と控えめな声が耳に触れた。

「……さんに、個人的に修業を見ていただくことはできますか」
「んえ?」

 突然のことに間抜けな声が喉から飛び出したが、奥村さんが気に留めた様子はない。むしろ真剣な眼差しがまっすぐにわたしの目玉を射貫いてくる。彼は不意打ちの天才なのか? その才能は大事にした方が良いが、悪魔相手に使用していただけないだろうか。あまりにも攻撃力が高いので、脳味噌のとろけた社畜にはダメージが大きすぎる。
 任務に向かわなければいけないというのに、わたしも奥村さんも足をその場に縫い付けてしまった。手に馴染んだ銃火器が、急に重たくなったような気がする。

「な、なぜ?」

 何とか言葉を発することに成功したわたしは、地面に貼り付いた足を必死に剥がして前へ歩を進める。割と朗らかな表情を浮かべてばかりいた奥村さんが真剣な顔をしていると、やはりその破壊力に戦慄するしかない。美形はこわいなあ。

「どうしてもやらなければならないことがあって」

 何かを堪えているような声だった。十五歳の少年が出すにはあまりにも重い。訳も分からないわたしはただ目的地に向かうために足を動かすしかなく、奥村さんも任務を蔑ろにする意思はないのか、その苦しげな空気を纏ったまま、わたしの隣に沿う。
 そういえば、彼には双子の兄がいて、今年入塾したとシュラから聞いた。その特別な事情もそれとなく耳にしたので、弟の奥村さんが今まで色々と辛い思いをしながら頑張ってきたのであろうことは明確である。
 利用できるものは何でも、という魂胆なのだろうか。十代の少年にこんな顔をさせる世の中なんてふぁっきん、と零さなかっただけわたしはまだ理性を保っていると言えた。

さんがお忙しいことは分かってるので……たまにで良いんです」

 そう言って俯いてしまった奥村さんがあまりにも健気なので、頭の回らない社畜のわたしは断る理由を創作できず、はあとかへえとか間抜けな返事をいつも通りに零し、ふらふらと目的地へと辿り着いた。
 確かにわたしは忙しい。祓魔任務に引っ張りだこの今時人気の竜騎士(長距離型)だからである。薬莢の調合を変えれば大体の悪魔に対応可能であるし、接近戦を好む竜騎士や他の祓魔師の支援必須の詠唱騎士との相性が良いことも理由のひとつである。
 いやでも、銃火器扱えるなら大体の人は竜騎士になれるのだ。祓魔師の人口の中ではそれなりに多いはずなのに、何故わたしはここまで忙しいのだろう。苛められているんだろうか。
 ……。本当は分かっている。シューティングゲームで鍛えた集中力と技術のせいで、ぼちぼち実力が認められたのだ。だがそれを理由に十連勤だの六連勤だのを強いて良い訳がない。労基に訴えてやりたいところだが、正直そんなことをする余裕があるなら速攻帰宅して寝たい。
 そうだ、シュラがいるじゃないか。奥村さんとも顔見知り以上の仲だろうし、彼女に任せておけば大体は問題ないのではないか?

「シュラじゃ駄目なんですか? あのこも多少は銃火器の心得ありますよ?」
「いえ、シュラさんは竜騎士の称号は持ってないので」

 一応そこは気にするのか……。奥村さんの返答が真面目なので、こちらがおちゃらけて誤魔化すことができる雰囲気ではなくなってしまった。何ということだろう。

「……とりあえず、任務終わらせましょうか」
「はい」

 わたしの力ない声にもきちんと返事をくれる奥村さんの目は、穏やかな海と表現するには荒れていた。




「「「「「「「かんぱーい!!」」」」」」」

 中ジョッキのぶつかる音、隣の個室の合コンらしき男女の奏でる賑やかな声、奥村さんはジンジャエールに口を付けている。わたしの隣で。
 花の金曜日であったことが災いした。辛気くさい空気のまま無事に速やかに任務を終え(今度は何度も墓穴を掘らずに済んだ)、本部で報告を済ませた後、今から飲みに行くという同僚集団に出くわしてしまったのである。まるで部下みたいに奥村さんがわたしの少し後ろに佇んでいたのが面白かったのか、彼も連れてこいとのお達しであった。
 六連勤を終えた体は確かにアルコールと美味しいご飯を欲していたのだが、奥村さんは未成年である。寮の門限だってあるだろう。せめて奥村さんを寮の近くまで送ってから、と言いかけたわたしの声を遮ったのは、あろうことか奥村さんだった。

「是非僕も連れていってください」

 少し照れたように視線を外した奥村さんが、自分の武器が何であるかをきちんと理解していることは分かった。わたしは罪悪感とその他諸々の事情により死んだ。
 まあ、高校生の彼に飲み代を出してもらう訳にはいかない。どうぞたらふく食べてくれ、社畜が君の分も出してあげようね。
 六連勤でも脳はふわふわである。完全週休二日制の導入を強く希望します。
 言われるがままに居酒屋へ向かい、出口に一番近い端っこに座ったわたしの隣に奥村さんは腰を落ち着けた。他の同僚達とは顔見知りというような程度らしい。わたしが差し出したメニューを受け取ると、挨拶もそこそこに真っ先にメイン料理のページを開いている。
 任務前の、奥村さんの真剣な表情でのお願いを思い出す。彼が焦って闇雲に、親しい訳でもない同僚にお願いをしなければならない事情とは何か。のっぴきならん事情なのだろうか。
 そもそも中短距離での戦闘を好む奥村さんに対し、わたしは長距離型である。銃火器も重けりゃ玉も重い。戦法が全く違うので、わたしの助言がそのまま参考になるかは怪しいところである。
 でも、奥村さんがなりふり構わずわたしに修業を見てほしいなどと言うのは、それだけ事態が深刻なのかもしれない。全て憶測の域である。シュラを問い質さなければ本質が何も分からないだろうなあと思いながら、梅酒を一口。
 というか、こんな顔の整った少年に懇願されて断れる輩がいるなら見てみたいね。もう何がなんだかよく分からなかったわたしだが、それでも何とか任務をきっちり遂行できたのは奇跡である。
 暖房の効きすぎた室内の空気が、奥村さんの白い肌を赤くさせていた。分厚いコートの下に着ていたニットが暑かったらしく、奥村さんは腕まくりをしてさっき届いたサーモンとマグロのマリネに箸を伸ばしている。
 わたしが大皿に残っているサラダの葉野菜を全て自分の小皿へ移していると、隣からくすりと笑う声が聞こえた。奥村さんだった。

「あ、すみません。あまりにも真剣な顔をしていらっしゃったので」
「いえ……」

 食事は戦争である。飲み屋でいかに単価の高くて美味しいものをたくさん食べるか、そして美味しいお酒を飲むか。確かにこういう場でのコミュニケーションは大事である。親睦はないよりあった方が任務中の連携が円滑に進むし。だがしかし空腹の前では些末な問題である。このシーザーサラダは全てわたしのものだ。
 奥村さんの箸さばきは美しい。マリネの皿が空になっていたので、わたしが空にしたサラダの大皿の上に重ねてテーブルの隅へ置く。居酒屋では店員さんへの心配りも忘れずに。そうすりゃきっと良いことがある。
 隣の個室の合コン組の賑やかな声が突然鼓膜を揺らすのにも慣れた頃、メインのしゃぶしゃぶの肉が届いた。白と赤のコントラストに目を奪われながら、胡麻ダレを準備してまずは野菜を沸騰間際の出汁に潜らせる。

「ね~さん、奥村君と任務だったんでしょ? 詳しく聞かせてよ~」

 にこにこと尋ねてくる同僚の言葉には「奥村君と一緒に任務なんて羨ましい、抜け駆けしたら殺してやる」という真意が見え隠れしていて背筋が寒い。お前の想像するような出来事は何一つないのでお許しください。めっちゃ怖い。
 何を話せというのだろう。わたしが奥村さんの前でやらかした惨劇をもう一度再現しないといけないのか? それって誰が得するの? 少なくともわたしが死ぬことだけは明確だな?

さんとは二回目の任務だったんですが、毎回とても勉強させていただいてます」

 どうやって話を逸らそうかと考えながら梅酒を飲んでいた矢先、奥村さんがにこりと微笑んで同僚に答えている。危うく口に含んだ梅酒を同僚の顔面に吹きかけてしまうところだった。

「ええ~それ本当?」
「薬莢の調合も遠方射撃の技術も、見習わないといけない部分がたくさんあって……」

 揶揄する同僚の言葉に対し、奥村さんの声音は素直だ。高校一年生なんだよな? 本当に? 社交辞令だと分かっているが、営業マン並の褒めちぎり具合がその後も続く。わたしは同僚にいつ殺されるかとびくびく怯えるばかりであったが、彼女は奥村さんと対面でお話できたことで機嫌が直ったのか、わたしなど視界には入っていないようだった。生き長らえた。
 今のうちにきちんと腹拵えをしておこうと、自分の小皿に乗った料理を腹に収め、お喋りに夢中の同僚達が手付かずにしているしゃぶしゃぶの肉の皿を引き寄せる。奥村さんのお話を片耳に梅酒を煽り、薄切りの肉を菜箸で摘まみ上げる。

「そう言えば奥村君って雪男って名前なんだよね? 冬生まれ?」
「あ、はい」

 ユキちゃん。
 唐突に脳裏に浮かぶ車内の惨劇、顔を真っ赤にした奥村さん、ハンドルを握るわたしの手に覆い被さったそれ。

「! ゲホッ」

 少し濃かった梅酒が喉の変なところに入って盛大に咽せた。そうだ、僅か二週間前のことである。いくら阿呆でも忘却にはもう少し時間が欲しかったところなのだ。
 だがしかし、今はしゃぶしゃぶの肉が出汁の入った鍋に沈んでしまったことが一番の気がかりである。このままでは肉が固くなってしまう。

「大丈夫ですか!?」

 心優しい奥村さんがわたしのお冷やのグラスを引き寄せてくれる。ただただ必死に頷いてゲホゲホやっていると、その大きな手がわたしの背中をそっと擦り始めたので更に咽せた。単純に驚いたのである。

「気管に入っちゃいましたか?」

 その通りなので頷くも、奥村さんの手は止まらない。もういいんだ奥村さん、十分だから手を離してくれ。目の前に座っている同僚から射殺すような視線を感じるんだ。と、咽せているので主張できないわたしである。何とか呼吸を落ち着けると、奥村さんが心配そうにこちらの顔を覗き込んできた。

「すみません、もう、大丈夫、ですので」

 思った以上に距離が近くて思わず仰け反りそうになったが、そんな反応を示すのも失礼なので、極めて冷静な顔を取り繕ってお冷やを口に含む。死ぬかと思った。傷は深かったようである。
 誰かが頼んだカレーライスの香ばしいにおいに我に返る。なぜ居酒屋でカレーが出てくるのかはよく分からないが助かった。ここに来た本来の目的はご飯と酒である。胃袋を満たさずして帰路に立つことだけは避けねばなるまい。無論、成長期の奥村さんの胃袋も同様である。

「ほら、ご飯なくなっちゃいますよ」

 わたしなんぞに構わず、ここは美味しいご飯をたらふく食べるのがあなたの任務ですよ、と言うと、奥村さんがふふっと頬と目元を緩めた。わあかわいい。
 ……これは、まずい。
 ご飯とお酒に集中せねば。邪心を絶たねば。誰に言い訳しているのかは自分でもよく分かっていない。疲れているので思考がまともじゃないのだ、端から見てもそんなことは明確だろう。とりあえず肉と一緒に出汁に潜らせた白菜を口内へ放り込む。あまくておいしい。
 気を取り直してわたしは菜箸を握り直し、鍋の底で静かにしていた肉を己の小皿へ救出する。そのまま胡麻ダレにさっと潜らせてお米と共に頬張る。おいしい。
 ハイボールを片手にわたしを睨み付けていた同僚も、ようやくわたしへの牽制に飽きたのか、標的を奥村さんに絞ってあらゆる情報を引き出そうと矢継ぎ早に質問を繰り出している。奥村さんも当たり障りのない返答で、時々ちらりとわたしに視線を投げて寄越す。なぜ。もう咽せません、心配しなくても大丈夫です。と、言うタイミングがどこに紛れてしまったのか分からず、わたしはまた梅酒を一口。グラスの中の氷がごちんと前歯に当たって顔を顰めた。
 ドリンクのラストオーダーがくるまでにおかわりしておこうと、卓上のドリンクメニューを取った時だった。左肩にとん、と軽い衝撃があったので顔を上げると、同じく驚いた表情の奥村さんの顔が近くにあった。テーブル席がそもそも狭いので、肩がぶつかってしまったらしい。

「あ、すみません、僕もドリンク見て良いですか?」
「ああはい、どうぞ」
「ユキちゃんそんな奴に気を遣わなくても良いよ~」

 ふざけてユキちゃん呼ばわりをする同僚に対し、奥村さんは嫌そうな顔一つ見せない。うるせえ分かってるわ、と同僚に返したその瞬間、メニューを持つわたしの手に熱が覆い被さる。
 車内の惨劇が繰り返される。凪いでいるはずの海は深く、効き過ぎた暖房のせいで頬には夕焼けが浮かんでいる。

『か~わいい~君を~この手で抱きしめる~』

 聞こえるはずのないゲイリーの歌声、これは事故、きっとそう、空気中に漂うアルコール成分に化かされているのだ。
 ユキちゃん。ああ、そうだ、君はかわいいユキちゃんだった。




 本当に事故だった。
 へにゃりと笑った奥村さんの手には、隣の席の同僚が頼んだと思しきジンジャーハイボール。間違えて飲んでしまったのだろう、奥村さんが笑い上戸であることが判明したものの、未成年がこんなことになってしまっては責任問題である。二次会など言語道断、わたしはおかわりの梅酒ロックをぐいっと飲み干し、奥村さんにもお冷やをぐいっと飲ませ、すぐさま彼をきちんと寮まで送り届ける任務に就いた。

「僕は、本気、ですから」

 はい修業の件ですね! 勝手に吹き溢れる冷や汗が米神を伝う。冬の始まりだというのにおかしなことである。少しよろめきながらも自分の足で歩こうとする奥村さんの肩を支えながら、とんでもないことになったと現実逃避である。
 十代の青少年の情操教育にモールルは駄目だ、思ったより刺激が強かったらしい。悔い改めるは己の愚行である。でもやっぱりモールルは好き。でもクセになってからでは手遅れである。
 任務中、時々ぞっとするほど暗い目をする奥村さんが、一体何を抱えて悩んでいるかまでを詮索することはできない。そうだ、シュラに相談しようそうしよう。ほぼ赤の他人のわたしが心配したところで解決方法の糸口は掴めない。例え奥村さんの長い腕がわたしの腹に緩く巻き付いてしまっていてもだ。これは事故なのである。

「ユキちゃん」

 愚かなわたしは試してしまう。奥村さんの持つ海に波を作ることができると知ってしまえば追い続けてしまう、バカな大人なのだ。

02|ワンダーワンダー

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