「裸族になれば~やさしくなれる~のかもね~」
視界の端で奥村さんがギョッとした表情を作ったのが見えた。
連勤は通常運営の五日に戻ったが、その代わり残業が増えた社畜のわたしは、睡眠不足が祟って脊髄反射で言葉を零してしまう体たらくである。不意に脳裏に浮かんだモールルの旋律が悪い。ちなみにわたしは裸族ではない。
もういちいち弁明する精神の余力もない。ガタガタとキーボードを叩きながら、翼を授けるふしぎなくすりを飲み干して、報告書その一からその五までを一気に片付ける。懸念事項だけしっかり書いておけば、あとは概要だけで良いのである。わたしが決めた。どうせ口頭説明時に補足せねばならんのだし。書類は簡潔に。
現場に出て体力を消耗し、とんぼ返りでデスクに貼り付き、自宅には風呂と睡眠のためだけに戻る日々である。睡眠不足はまともな思考回路を奪うのである。解決方法は寝ることだけだ。布団に転がっておやすみ三秒。日常に潤いが欲しい。シュラも最近忙しそうで飲みに行くこともままならない。悲しい。しかし溜め息を吐くばかりではこの淀んだ精神状態がどん底に向かうだけである。前向きに生きねば。
時計は丁度二十時を主張している。今日も晩ご飯はインスタントのお世話になることが確定してしまった。悲しみ。急に現場に長期間行かなければならないことがあるので、作り置きをしても冷蔵庫で可哀想な状態になってこんばんはする可能性が捨てきれない。辛すぎ。食費だって馬鹿にならないんだぞ。あまりにも勿体なくてまだ大丈夫だろうと食べた古い作り置きのおかずのせいで、一週間トイレと仲良くなったのは先日の話である。食中毒は、今はウイルス性胃腸炎と呼ぶらしい。わたしは一つ賢くなった。
つまり、レトルト食品の類が発明されていなかったとしたら、わたしは今頃お空の上である。
既に空腹のピークは過ぎた。自宅から持参している水出しの玄米茶をタンブラーから煽り、深呼吸などしてみる。業務に熱中するあまり、呼吸が浅くなって脳に酸素が回っていないことがよくあるのだ。脳が酸欠になると途端に業務の進捗に影響が出る。皆さんもお気を付けて。社畜からの実体験に基づく些細なアドバイスでした。
「さん、良かったら」
勝手に脳内で完結させていたところ、耳に入ってきた呼びかけにパソコンから顔を上げる。奥村さんの手がこちらに伸びていた。コンビニ限定で発売しているチョコレートがその白い手に乗っかっている。
高校生に気を遣われる社畜、情けなさと喜びの狭間で反復横跳び。
「い、良いんですか……」
思わず声が震える社畜。幸い、現在この部屋にはわたしと奥村さんしかいないので、この美味しそうなチョコレートを受け取っても誰かにやいやい言われることはない。ああでも、今日は手元に非常食が一切ない。すぐにお返しができないが受け取っても良いものか、あああ……
「はい。結構美味しいですよ」
にこりと笑む奥村さんにあっさり負け、わたしは己の立場を忘れて一粒のチョコレートに飛び付いた。おかげで体力が三割回復した。残り一割になっていた体力ゲージからの三割回復である、かなり大きい。
「うあ~甘さが沁みる~!」
「はは」
そうして残りの体力を振り絞り、ようやく上司から課せられていた報告書の諸々を、後は推敲するだけの状態にまで持っていくことができた。時間にして約四十分。今日はもうこれまでにしておこう。朝一の方が頭が回るし仕事も早く終わる。これ以上は時間の浪費である。
決め込んだわたしはノートパソコンを閉じるべく、開いていたウィンドウの数々を消していく。帰る、わたしは帰るぞ! もう誰も残ってないし最終の戸締まりもさくっとして電車に飛び乗るぞ! まだ終電じゃないから今日は本当にマシだなあ、と思ってノートパソコンを折り畳んだ瞬間だった。
「あ、もう帰られますか?」
じゃあ僕もそろそろ、と付け加えた奥村さん。業務にのみ熱意を注いでいたわたしは彼の気配を全く読めていなかった。遺憾の意。恐らく彼もわたしと同じくウィンドウを閉じているところなのだろう、カチカチとクリック音だけが響く。
彼が高校一年生だとかいう真実が嘘くさくてたまらない。君、もう大学を出て社会人n年目の雰囲気だよ。と、指摘すると落ち込みそうだと勝手に想像して、心の内の呟きに留める。すっかり社畜予備軍というか、君の未来は八割方社畜に傾きかけていると自覚した方が良い。わたしのようになっちゃいけないよ。
そんな思いを吐露するには至らず、わたしの口からは、まだ残っていらっしゃったんですか、というぼやけた声が零れた。可愛くない口である。奥村さんは眼鏡の奥でぱちぱちと何度か瞬きをした後、ふいっと視線を逸らしてしまう。
「……調べ物を、ちょっと」
何か含みのある言い方だな、と思いはしたが、わざわざ指摘するほどでもなかろう。宣言通り、奥村さんもぱたんと軽い音を立ててノートパソコンに本日の業務終了を言い聞かせている。わたしはもう文字通りへろへろなので、オーバーヒート状態の脳味噌で精一杯の返事をする。ソウデスカ、タイヘンデスネ。
さて、最終退勤者は部屋の戸締まり確認をしなければならない。稼働していたエアコンと空気清浄機を黙らせ、給湯室のポットから伸びるコードをコンセントから引っこ抜き、コピーのしすぎで熱を帯びている複合機もおねんねだ。お疲れさま。
ぐぐっと腕と背筋を伸ばしていると、コートとマフラーに包まれた奥村さんが鞄を持って扉の前で待機している。わたしも慌てて自分の椅子にかけていたコートと鞄を引っ掴み、扉の前に戻ると同時に部屋の電気もお休みモードに突入した。
ホームに着くと同時に走ってきた電車に滑り込むと、車内は疲労度最高潮の社畜がちらほらと席に沈んでいた。我々も大差ない。座席に腰を落ち着かせると、わたしの口からは重い溜め息が意図せずして零れ出た。うっかりうっかり。
「これから晩ご飯作るんですか?」
車内の暖房で少しだけ頬を赤くした奥村さんが、マフラーを取りながら質問を述べる。社畜の返答は明確である。
「いやー無理です。冷凍しておいたご飯と温野菜とレトルトカレーとインスタントの味噌汁ですね」
社畜、聞かれてもいないのに悲しい晩ご飯のメニューもついでに答えてしまう痛恨のミス。最近のレトルトのカレーは種類が多く、美味しくて飽きないという点だけが救いである。
背もたれに預けた身体はぐったりと重く、気を抜けば一瞬でお休みできそうで恐ろしい。布団で寝ないと疲れが取れないので社畜には死活問題なのである。まあ、晩ご飯を食べてお風呂に入ってスマホを触っている間に寝落ちするのだが。
「奥村さんは料理が得意なお兄さんがいらっしゃるから安泰ですね」
うらやましいなあ、と心の声が実際に飛び出たところで、奥村さんは手元のマフラーの端っこをにぎにぎしながら、じゃあ、と切り出した。
「うちで食べて行きますか?」
「ファッ」
社畜は飛び上がり、にこにこと営業スマイルを浮かべている奥村さんを凝視する。正気ではない。そうだ、彼は正気じゃない時ほど笑顔が三割増しである。偶然知ったその法則が脳裏に浮かぶと同時、先日の恐ろしい出来事も鮮やかに蘇る。
あの金曜日の夜、間違って飲んでしまったジンジャーハイボールによりふにゃふにゃになってしまった奥村さんを無事に寮まで届ける任務中のことである。いま職質されたらわたしの首は遠く彼方へ飛んでいくナアという、最早諦めにも近い現実逃避をしながら、何とか奥村さんの肩を支えながら前に進む。
高校一年生と言えど、百八十センチもある男だ。ずしりと重い。
「奥村さん、しっかりしてください」
「だいじょうぶれすよ、ごしんぱいなく~」
「アー駄目だ駄目だ……アアア……」
未成年の飲酒に加え、夜半の連れ回しは法にも触れるに違いない。この地域の条例の中身は詳しく知らないが、恐らくそんなものは全国共通である。ふわふわとした笑い声を上げる奥村さんは、普段の姿が嘘のようにあどけない。
己のコートの右側にはコンビニのビニール袋を折り畳んで入れてあるので、仮に奥村さんがゲロゲロしてしまいそうになっても速やかに対処できるだろう。彼の鞄はわたしの鞄とまとめて左肩で持っているので問題ない。どちらも書類がぎっしり入っているのでなかなかの重さであるが、これを今の状態の奥村さんに持たせるのは危険すぎる。わたしの肩が悲鳴を上げていることなど話題にする必要もない。
とりあえず、寮だ。奥村さんは猫のように背を丸めて、最早何が楽しいのか分からないがずっと笑っている。わたしの細くない腰にその長い腕が回っていることには目を瞑る。とりあえず寮に辿り着けば何とかなるのだ。多分。
足取りが覚束ない奥村さんの重心をわたしの方へ少しばかり傾くように調整しながら歩くのは、なかなか体力のいることだった。半ばわたしにへばりつくような形だが、ふらふらして怪我をされるよりは良いと割り切ることにした。無事に寮に辿り着けば、あとは彼のお兄さんとかが何とかしてくれるに違いない。
そうして這々の体で到着したご立派な男子寮の入り口で、奥村さんはきょとんとした顔でわたしに死刑宣告をした後、ふにゃりと笑う。
「ここじゃないです」
わたしは死んだ。
しかし、社畜は容易く死ぬが何度でも蘇る不思議な能力を持っているので、ギエーと奇声を上げた後に正気に戻り、ふにゃふにゃの奥村さんが男子寮旧館にお住まいであることを何度も確かめた。その寮って使われてないんじゃ、と返すも奥村さんは合ってますの一点張り。わたしの認識が間違っていたということだろう。
とりあえず双子のお兄さんに電話でもメールでもいいから連絡を入れてもらうよう頼んだが、そこは頑なに嫌ですと繰り返す奥村さん。こんなところで普段全く見えない反抗期を発揮されるなど、誰に予想できただろうか。
「喧嘩でもしてるんですか」
「もうおなかいっぱいですよ」
うーん噛み合わない。
職質されませんようにと祈りながら、何とか男子寮旧館の入り口へ到着する。すると、丁度その玄関であろう広間の蛍光灯がぱっと点いて、偶然にも中から人が出てきた。一瞬幽霊かと思って身構えたが、出てきた人はアッという顔をして、すごい勢いでこちらに向かって走ってくる。
「雪男! お前晩ご飯!」
「にいさん」
にこにこしたままの奥村さんが返した言葉から察するに、この人が奥村燐さんだろう。ものすごい笑顔の奥村さんを訝しんでいらっしゃる。顔はあんまり似ていない。
「あの、奥村さんのお兄さんですか。職場の飲み会で、」
「あーそっか! じゃあ晩ご飯はちゃんと食べてきたのか! お前すぐカロリーバーとかで済ませるからさー」
お兄さん、こちらの話を最後までまともに聞いてくれない。
奥村さんと違って快活な空気を纏ったお兄さんは、きちんと年相応の男子高校生の風体で少し安心する。手に持った財布とエコバッグから察するに、コンビニにでも行くところだったのだろうか。
ふうと一息吐いたところで、お兄さんはわたしを見やるとぺこりと頭を下げた。
「えーっと、弟が世話になった! ありがとな!」
「いえ、こちらこそ奥村さんには日頃からお世話になってますので」
「へー……うわっ雪男お前カバンまで持たせてたのかよ!? なんかスンマセン!」
この鞄の重さを知っているのだろうか、ぎょっとした顔でお兄さんがわたしの左肩から鞄を回収していった。ついでに奥村さんも回収してほしいのだが、全くそういう素振りが見えない。冬の始まりの空気は冷たいはずなのに、背筋に変な汗が出てきた。
「あの、お兄さん」
「え?」
「とりあえず、奥村さんをお願いしても大丈夫でしょうか」
お兄さんはふわふわとお花を飛ばしている奥村さんを見て、唸った。
「こんなに機嫌の良い雪男なんて、何年振りだ……!?」
感心してないで回収してほしい。
「あの、階段上らないといけないならお手伝いしますので、このままだと風邪を引いてしまいますし……」
「あっ、そうだな! わりい! じゃあカバンは俺が持つから、そのまま雪男を引っ張ってくれるか?」
その役割はとっても逆が良かったが、奥村さんの腕がしっかりわたしの身体に巻き付いているので仕方ないのだ。またふらふらしながら歩き始め、お兄さんの案内でお二人の部屋の入り口まで、それはもう這々の体で辿り着いた。社畜は息切れしている。酔っ払いの身体は重い。
「ふふふ」
奥村さんはよく分からないが楽しそうだ。目はとろんとして眠たそうで、アルコールがかなり回ってしまっているのだろう。成人してないという点がわたしに言い逃れのできない罪悪感を植え付けてくる。
「よし、じゃあ後は適当に放り込んどく! コイツ重いだろ、悪かった!」
あっけらかんと言い放つお兄さん、悪い人ではない。では、とヒイヒイ上がった吐息を零しながら失礼しようとすると、「さん」奥村さんからの呼び声である。何というタイミングか。
「えへへ」
奥村さんは邪気のない笑みを浮かべただけだった。もうこれ以上この場にいて何か問題が発生でもしたら恐ろしいので、わたしはとりあえずへこへこ頭を下げて超特急で旧男子寮を脱出した。
いやあ恐ろしい記憶だった。何も間違いを犯さなかったことだけが唯一の救いである。線路を滑っていく車輪の金属音に耳を澄ませながら、はてわたしは何故にこんな途方もない回想シーンを挟んだのだったか、と唐突に我に返ってしまう。
「兄さん、構わないと」
人の良い笑顔の奥村さんが隣にいる。そうだ、晩ご飯だ。正直言って一人暮らしの社畜にはめちゃくちゃ有り難いが、高校生にそんな負担を強いるのは社会人としてどうよ、と僅かに残ったまともな精神がちくちくと己を刺してくる。そりゃあ自宅に戻ってもレトルト食品のお世話になるだけである。誰かの手料理のあたたかさに勝るものがあるか、否。
「ええ……でも食費もタダじゃないんですから」
「元々多めに作ってるので大丈夫って言ってます」
何で唐突に頑固になるの?
この男子高校生は随分と頭の回転が良いらしく、へろへろの社畜の言い訳を斬っては捨て、千切っては投げ、甘い誘惑を目前に振りかざしてくる。凶悪だ。もう考えることを放棄したい。
そして考えることを放棄した結果、わたしの足は再び旧男子寮に吸い込まれてしまったのであった。おまわりさん許して。
「ただいま」
「おかえり!」
旧男子寮の厨房から元気に飛び出してきたお兄さんの笑顔が眩しい。部屋に足を踏み入れて早々に、めちゃくちゃ美味しそうな匂いが鼻を擽った。胃が刺激されて産声を上げるところだったので、咄嗟に腹を押さえた。
「すみません、お邪魔します」
「おう! えーっと、名前なんだっけ……雪男と一緒に仕事してる……?」
「と申します、あの、ほんとすみません」
「いーって! そこ座ってくれ」
「荷物お預かりしますよ」
奥村さんの手が伸びてきて、あっさりとわたしの鞄を奪っていく。シンクに誘導されて手洗いうがいをした後、そのまま自然に椅子に案内され、抵抗することも出来ずに腰を落ち着けてしまった。不覚である。晩ご飯をご馳走になるというのに何もしない訳にはいかない。何度も言うが、わたしは社会人である。男子高校生の厚意に甘えてだらだらして良い身分ではない。
お兄さんは慣れた手付きでピーマンとパプリカと人参を刻んでいる。トントンと包丁がまな板に当たる均一な音色が、実家の母親を連想させて少し胸が痛むが、気のせいである。
「さん、疲れてるんですしじっとしてください」
「いや疲れてるのはわたしだけじゃ」
「な~ケチャップライスとバターライスどっちが良い?」
「食器出すのだけでもお手伝いしますので」
「良いですから、今日はお客さんなんですし座っててください」
「な~~~ケチャップとバターどっちが良いんだよ~~~」
混沌とした会話である。
奥村さんに肩を押さえつけられて椅子から離れられなくなったわたしは、ケチャップライスとバターライスの選択肢から本日のご馳走の正体を知ってしまい、動けなくなった。一人暮らしの晩ご飯では久しく食べていないアレである。
「僕はバターライスで。さんはどうします?」
「えっあっえっ」
完全に挙動不審通報待ったなしの己の口を封じたい。混乱する脳は反射で「バターライスで……」という決断を下していた。お気遣いなく、とか言うはずだったのに自分のことが全く信じられない。何て図々しいんだ。
全ては残業が悪い。長時間労働は思考を溶かす。人間としての尊厳を保つためには、まともな判断が出来る内に帰宅しなければならない。
わたしは己のポンコツ具合を労働形態のせいにして、諦めて椅子の上で大人しくすることにした。無駄口を叩けば叩くほど、色々と駄目な部分が剥き出しになってしまう。大人として情けないのは山々だが、同じ職場にいる奥村さんとの付き合いもあるので許して欲しい。
懺悔していると、野菜を刻み終わったらしいお兄さんがフライパンで手際良くお米を炒めている。うわっミックスベジタブルだけじゃなくてエビとイカまで投入されてる。あまりにも美味しそうな匂いにわたしの胃は忘れたはずの限界値を思い出して死にそうである。いつの間にかネクタイを緩めた奥村さんはテーブルを布巾で拭いた上、湯飲みにお茶を注いでくださっている。
ヤバイ。男子高校生が健気に家事をしてくれているというのに、わたしは家主でもないのにただ椅子に座ってぼーっとしているだけである。訴えられたら負ける。
何か、何かお手伝いを。立ち上がろうとしたわたしに対し、奥村さんは冷静だった。クロ、と誰かを呼びかけると、奥村さんは長い足を折り畳んでその場にしゃがみ込む。そして立ち上がった彼が抱えていたのは、ゆらゆらと二本の尾を揺らしてこちらを見つめる生き物だった。
「ふお……猫又さん……!」
元々低い偏差値が五十位下がったのを感じながら、きょとんとこちらを見上げている黒の猫又さんに熱い視線を送ってしまう。まじで。ちょうかわいい。
「クロ、雪男の先輩だぞ」
皿にバターライスの山を作りながら、お兄さんは猫又さんに話しかける。猫又さんはぱちぱちと瞬きをして、お兄さんとわたしの顔を交互に見やった。
「にゃう」
「ああっ神さま仏さま!!」
外聞などどうでもよい。手を伸ばせば、猫又さんは奥村さんの腕の中に身体を預けたまま、すりすりと頭をわたしの手のひらに擦りつけてくださった。神。癒やし。もう死んでも良い。
「猫、お好きなんですか?」
「動物全般好きですが猫さまは別格ですアアアアアア可愛いありがとうございますアアアアアアアアア煩くてすみません許して」
ゴロゴロ喉を鳴らしてくれる猫又さんの愛らしさに世間体は死んだ。おみ足が白いのも可愛いし何より表情も柔らかくって良い。こんな見ず知らずの人間に対して心を開いてくれている猫又さんは非常に貴重である。
「にゃあ」
気持ちよさそうに一鳴きした後、猫又さんはわたしの膝の上に飛び乗るサービスまで追加してくれた。生憎猫又さんの言葉は分からないが、分からなくとも良いこともあるのだ。
何かお手伝いを、と思っていたわたしはもう死んだ。嫌がられるギリギリ手前まで猫又さんをもふもふさせていただいていると、お兄さんが熱々のフライパンを持って近付いてくる。気付くとテーブルにはサラダとコンソメスープが並んでいた。
あったかい晩ご飯、それも手作り、外食以外で食べるの何ヶ月振りだっけ。
「よっし出来たぞ~! スーパーイエロー奥村燐スペシャルだ!」
「……今日が最後の晩餐だった……?」
「さん混乱しすぎですよ」
混乱するなと言うのが無理な話である。目の前で包丁を入れられてとろけたタンポポオムライスだけでも破壊力抜群なのに、お兄さんは贅沢にもデミグラスソースを追加する鬼畜であった。これに屈服しない社畜はいない。無理である。これが最後の晩餐だと言われても何の違和感もない。
猫又さんはわたしの膝を蹴って、今度はお兄さんの肩へ飛び乗った。流石、身軽である。どうやら猫又さん用のオムライスも準備されていたようで、にゃあにゃあと催促の鳴き声が耳を撫でる。
ここが天国か。
「さ! 冷めない内に食べようぜ!」
笑顔の眩しいお兄さんに促されるまま、震える手で合掌し、黄色の山に恐る恐る匙を差し込む。ふわふわとろとろの卵、香ばしい匂いに包まれたバターライス、山の断面には既にエビが顔を出している。ごくり、と生唾を飲み込んでから、わたしは掬ったそれを口に含む。
言葉を失う。
噛み締める。舌の上でとろりととろけた卵は優しく、バターライスと良く絡まってああもう美味い。堪えきれず二口目。涙が出そう。三口目、罪深きデミグラスソースは濃厚で、市販のものではないことが分かった。美味い。嗚呼美味い。オムライス最高。
こんな美味しいご飯を作れる男子高校生が実在するのか。
やはりとんでもない兄弟である。わたしはぐずぐず鼻を鳴らしながら一口一口を味わう。美味しい。労働の後のご飯は美味しい。誰かが作ってくれたご飯は、こんなにも。
「ご馳走さまでした、めちゃくちゃ美味しかったです!」
力強く合掌し、緩みきった表情筋を放置して膨れた腹を撫でる。とんでもないご馳走であった。ここ暫く仕事を頑張っていて良かったなと、辛かった現実を全て忘却出来た心地である。ご馳走さまという言葉だけでは到底感謝の意を表しきれないが、語彙力の下がった社畜の口から飛び出すのは蛇足ばかりで、やはり残業は悪だという真実のみが明らかになっただけであった。
「おう! 喜んでもらえて良かったぜ!」
「兄さんの唯一の特技が役に立って良かったね」
「おう! 唯一で悪かったな!」
お兄さんの眩しい笑顔で、社畜の精神はもう一段階浄化された。お兄さんに対しては少々厳しい物言いをする奥村さんだが、まあ兄弟とはそういうものだろう。やっと年相応だなあと思いつつ、洗い物をしようと席を立ったお兄さんの肩を鷲掴みにする。
「せめて洗い物だけでもさせてください」
必死の形相の社畜はお兄さんの手からスポンジを奪い、皿洗いの職を手に入れた。大人として、タダ飯喰らいになる訳にはいかないのだ。奥村さんが背後で苦笑しているのが分かるが、譲ることは出来ない。いや、何度も財布を取り出そうとしたが、彼らは頑なに受け取ってくれなかったので、こうするしかなかったのである。
スポンジに洗剤を垂らし、くしゅくしゅ揉み込んで皿洗いの儀を開始する。古いシンクも綺麗に掃除されていて、わたしは自宅のそれを思い出して、なかったことにした。記憶から排除である。男子高校生に負けている現実なんて。
「兄さん、宿題はしたの」
「あーハイハイ、今からやりますよー」
「明日の授業で当てるからね」
「ゲッ」
微笑ましい兄弟の会話と表現するよりは、母と息子の会話である。奥村さんは随分しっかりした弟さんだ。自然と緩む頬を見せびらかさないよう、わたしは手の動きを早めた。
「本当にありがとうございました、生き返りました」
「良かったです。顔色も戻ったみたいですし」
奥村さんから荷物を受け取り、部屋を出る。駅まで送りますと言って譲らない奥村さんに、今度はわたしが折れることになった。ずしりと肩に食い込む鞄の持ち手が、ふわふわとした夢のような空間から現実へと一気に引き戻してくれた。悲しい。
「……死人みたいな色でもしてました?」
「そうですね」
眼鏡をくいっと指先で持ち上げて苦笑する奥村さんは、わたしの歩幅に合わせてその長い足を動かしてくれている。酔っ払っていた時の傍若無人な歩みが嘘のようだ。いや、あれは異常事態だったが。
「お兄さん、本当に料理上手ですね。お店持てるレベルですよアレは」
「小さい頃から、料理は兄さんの担当だったので」
アスファルトをヒールがコツコツと叩く音が、夜の帳で目立った。時折重い鞄を持つ手を変えて、寒さに身を竦ませて駅まで急ぐ。
奥村さんの家庭事情を深く聞く気になれず、そうですか、と当たり障りのない返事になってしまったが、彼は凪いだ表情のままだった。やっぱり十代の若者には見えない。
「それで、さん」
唐突に、奥村さんが歩みを止めた。釣られて足を静止させると、恐ろしいまでに隙のない笑みを浮かべた奥村さんがスマホを取り出し、こちらを見下ろしている。
「連絡先、教えてください」
こっわ。
「修業の件、真剣に検討していただけませんか」
落差が激しい。さっきまでの和やかな日常会話が恋しくて震えそうである。
ずっと避けていた話題であった。忘れたことに、聞かなかったことにしておきたかったのに、どうやら許してくれそうにない。暗がりの中、はっきりと光るスマホの画面にはメッセージアプリが起動するところが写っていた。最近の高校生の強かさ、社畜はついて行けない。
「……何が知りたいんですか」
「強くなりたいんです。手段は選んでいられない」
眼鏡の奥の瞳の温度の低さに、僅かに背筋が震えた。寒さのせいにしておこう。嫌な世の中だ、十代の子どもが「手段は選んでいられない」だと? 冗談ではない。まだ、守られるべき立場で良いはずである。
以前、彼はシュラでは駄目だと言った。あくまでも竜騎士の称号を持つわたしが良いのだと言って聞かず、結局わたしは仕事を言い訳に有耶無耶にしたが、奥村さんの選択肢の中に諦めるという行動は存在していないようだ。
「つまり?」
「さんの普段の鍛錬内容を教えてください」
「いや、わたし実践派なので……」
「それでも下地がありますよね? トレーニング方法だけでも良いんです」
「長距離型はまたちょっと特殊ですんで」
「銃火器の色んな戦闘方法を勉強したいんです」
奥村さんが立ち止まったままなので、わたしは帰れそうにない。しかし電車の本数は減っていく。流石にそろそろ、と思って足を動かすと、鞄を持っていない方の腕を掴まれる。やべ、お腹が満たされて眠くなっていたせいで反応スピードがカタツムリである。
その場に縫い止められたわたしの敗北は決定した。意思の強い瞳がこちらの返答を待っている。知っていた。だって彼はユキちゃんだから。