「決して別れ話のせいじゃない~目が痛いだけ~」
ブルーライトカットの眼鏡を掛けていようが、長時間労働による疲労から涙は勝手に滲み出てくるものなのである。業務量の偏りをなくしてほしい。一刻も早く組織内の増員を希望します。頼む。社畜はゆっくり晩ご飯食べてお風呂に入って八時間寝たいのである。頼む。
ライブに行きたいのに行けないこの悲しみは歌詞に変わって口からまろび出てしまう。六百ミリのペットボトルに入った無糖コーヒーを喉に流し込んで、切り崩せど切り崩せど新たに湧いて連なってしまう書類の山脈に白目を剥きそうなわたしである。こんばんは。時刻は二十一時三十分、正十字騎士團日本支部執行局祓魔課祓魔一係のデスクに残っているのはわたしだけ。虚無の夜である。
正十字騎士団の人手不足は深刻である。残業時間の月上限を遙か昔に突破しても仕事はどんどこ増え続ける始末だ。わたしは一応祓魔の現場部隊であるはずなのに、何故か防衛課査察係の調査関係の業務までしなければならなくなり、この二週間は晩ご飯の概念が消失した。可笑しかろう。任務中の怪我で入院してしまって欠員が出たのは分かるが、補充要員にわたしを宛がう根拠を示しやがれである。
過労死は嫌だ。一刻も早く岩盤浴に行って美味しいお酒とおつまみで極楽に旅立ちたい。「ええ~んシュラちゃ~ん岩盤浴行きたいよう~」しょーもないメールを送り付けても返信はない。彼女も勤務中の予感がする。なんて世の中だ。
奥村さんが夕方に授けてくださったチョコレートを噛み締めながら、へろへろになった脳に鞭打ち、コピー用紙の裏紙にゴリゴリと調査で把握した事項を書き殴る。大まかな情報整理は紙に書き出した方が結果的に早いのである。
帰りたい。しかし調査報告書を仕上げて明日の朝には上司の顔面に叩き付けなければ、祓魔二係の奥村さんにご迷惑が掛かってしまうのである。帰れなかった。
「まだ慣れ~ない~こんな夜に涙止まらない~」
チョコレートで腹が膨れることはないが、疲労度マックス状態の宿主に遠慮してか、腹の虫も控え目にくるくる鳴いている。美味しいもの食べて温泉入って二度寝したい。休日が待ち遠しくて震える。
二週間前に奥村さん宅でご馳走になった最強のふわとろタンポポデミグラスオムライスが正しく最後の晩餐になってしまっていることに気付いてしまい、わたしは遂に白目を剥いてデスクに顔を伏せた。
「決して別れ話のせいじゃない~目が痛いだけ~」
「さん?」
「ンッフ」
無闇に鼻歌を零していた社畜は、突然名を呼ばれて無様に呻いた。欠片残った羞恥心が弱った胃を刺激してくる。自業自得である。いつの間にか現れた奥村さんが、執務室の入り口からこちらに向かってくるのが見えた。
「大丈夫ですか?」
全く大丈夫ではないのだが、虚勢は得意である。わたしは使い捨ての笑顔を貼り付けて背筋を伸ばした。
「忘れ物ですか?」
質問に質問で返す狡い大人の姿勢に対して、奥村さんは格段に優しいので、こちらの手のひらの上でわざわざ踊ってくださるのである。彼に返さないといけない恩を指折り数えて返答を待っていると、奥村さんはわたしの座るデスクの隣の島、彼のデスクの方に長い足を向けた。
「ええ。明日の任務の資料を……」
「あ~~~すみません、それ追加分あって、今作成中なんです」
「え、今ですか?」
奥村さんは心底驚いた顔で目を見開いて、慌ててこちらのデスクに大股で近付いてくる。懺悔の姿勢を維持している場合ではなさそうだ。裏紙に再度ゴリゴリとボールペンを走らせながら、わたしは口を開いた。
「今日、別件で通報があって事前調査に行かされまして。とりあえずヤバそうなとこは潰しておきましたんで、明日は後始末中心になるとは思うんですけど」
「それって査察係の業務ですよね……?」
「うふふ」
濁った目で返答すると、彼の喉から引き攣った笑いが零れた。健全な青少年に見せるには厳しい現実である。
書き殴り終えた裏紙に視線を滑らせてから、キーボードに指を乗せる。後はひたすら文字を打ち込めば良い。
「そーゆー訳なんで、無駄足を踏ませてしまって申し訳ない……」
「いえ、そんな」
「いやほんとに」
わたわたと慌てて胸の前で手を振る奥村さんは年相応で可愛いなあと働かない脳で考えていると、彼は急に周囲をきょろきょろと見回してから、わたしの隣の席に徐ろに座った。心配しなくとも今日の最終居残り組は我々だけですよ、という真実は自分の臓腑に傷を付けることになるので唾液と一緒に飲み込んでおく。
ぎい、と椅子の軋む音は、社畜の絶え間ないタイピングの霰に紛れてしまった。
「…………」
「…………」
奥村さんは顔を伏せたまま、沈黙を守っている。膝の上に置いた指を曲げたり伸ばしたりと、普段の彼からすると落ち着きのない仕草だ。珍しく十代の青少年らしい動作が続くなと少し感動していると、はて、わたしは何か忘れているのではないかと思い至る。
処理速度が格段に落ちた脳裏をごそごそと探れば、二週間前の最後の晩餐、その後の情景が浮かび上がった。
『修業の件、真剣に検討していただけませんか』
こちらに有無を言わせない、意思の強い瞳だった。終電を逃したくなかったわたしは結局のところ敗北を刻むことになり、メッセージアプリには奥村さんの連絡先が強引に追加されたのである。
まあその後、わたしの担当業務と担当以外の業務が山のように膨れ上がり、兎にも角にもこの二週間は目の前の業務をこなすことで精一杯だったため、修業の件は闇に葬って自然消滅、時間が解決してくれるだろうと高を括っていた結果がこの有様である。
ゲロゲロ言いながら何とかギリギリのレベルで生きて仕事している社畜に対し、気遣いの鬼のような彼が無理強いをするとは考えにくい。
しかし、毎日のようにチョコやらクッキーやらの細やかな差し入れがあったのは、奥村さんの善性の動かぬ証拠であり、加えてわたしが逃げ出さないようにするための賄賂だったのだ。
彼の言いたいことは分かる。社畜が命を削りながらヒイコラ働いているのに、言わば更に仕事を増やすことになるのである。罪悪感もあるだろう。だが、それで簡単に諦められるのなら、そもそも最初からわたしなんぞに頼る必要はなかったはずだ。どう足掻いても反語構文に辿り着くだけの結末に、喉がぎゅっと締まってしまう。
「……あの、何かお手伝いできることはありますか」
忙しそうな先輩社員を気遣う新入社員の出で立ちである。彼にそんなことを言わせてしまった己の不甲斐なさに涙が出そうだ。ついでに仕事を増やし続ける課長には自動的に憎しみが募る。懸案事項を潰すのは重要だが、全体的なスケジュールを俯瞰してから発言していただきたいものである。感情に任せて突然の思い付きで仕事をドンドコ作るんじゃない。それが許されるのは忍術学園と魔法士養成学校の学園長だけである。勘弁しやがれください。
丁重にお断り申し上げると、彼の視線が狼狽えた。親切心を踏み躙るような真似をしてしまっているせいで胃が痛い。だが、良い年の大人が少年によって甘やかされ続けるのも如何なものか、と常識の皮を被った己が囁いてくる。
混乱している時に結論を急ぐのは得策ではない。一通り文面を見直し、誤字脱字を見付けられなかったのでそのまま印刷ボタンを押す。暫くおねんねしていた複合機が慌てて紙を吐き出した。
「とりあえず資料完成したので、どうぞ」
「ありがとうございます!」
というか、最初からわたしには荷が重過ぎる案件である。将来有望な奥村さんの修業なんて、もっと相応しい適任者がその辺にごろごろ転がっていて然るべきだ。やっぱシュラを説得しよ、そうしよ。一番まともな手段である。
なんてことを傍らで考えながら、手渡した資料の説明に入る。
「現場の発端は二十代男性の自殺事件ですね。一般人の負傷者は幸い出てませんが、時間の問題なので明日中には片付けてください。悪霊(イビルゴースト)一体と擬態霊(シェイプシフター)の集合体はこちらで討伐済みですが、まだ魍魎(コールタール)がどんどん湧いているので、擬態霊がもう一体潜んでいる可能性があるかと」
「既に悪霊を倒しているのに、ですか?」
怪訝そうな顔をする奥村さんに、やっと素直な十代の少年の面影を見出すことができて勝手に安堵の息を吐く。もうちょっと年相応の表情を増やしていただいても何の問題もないと思うので検討願いたい。わたしは何を言っているんだろう。
「生前に執着があった物品等がまだ現場に残っているからだと思います。ついさっき個人データを貰ったので、候補をリスト化しました」
エンターキーを押して、複合機からぺろりと出てきた一枚の紙を摘まみ上げ、奥村さんの手元の資料に重ねてやる。
「こちらのリストの上から順に建物内を捜索していただければ時短になるかと」
「分かりました」
「お手数おかけしますが」
「いえ、助かります」
端的な返答で有難い限りだ。わたしはようやく肺で縮こまっていた二酸化炭素を吐き出して、就業管理システムに残業申請の追記を叩き付け、ウィンドウを閉じた。他にも資料作成がまだ残っているのだが、明日の朝の方が絶対に効率が良い。もう帰る。
端末の電源をさっくり落として、椅子の背もたれに体重を預けてぐぐっと身体を伸ばすと、肩甲骨の辺りからおぞましい音が鳴り響く。そろそろ整体行かないとなあと考えながら机の上を片付けていると、あの、と控え目な声が掛かった。
「仕事以外でも構いません」
何の話だ? と惚けるよりも先に、虚空に投げ出して筋肉を伸ばしていたわたしの腕を、奥村さんが握り込んできた。
「何でも、お手伝いします」
焦れたような視線が真っ直ぐにこちらの瞳孔を射抜いてくる。腕から手首に移動してきた拘束はそれなりの強さで、容易く退路が封じられていることを知る。片腕で万歳したままの間抜けな格好なので辛い。
疲労に塗れた脳は思考を拒否していて、ただ呆然と、彼の形の良い唇が紡ぎ出す言葉を反芻するばかりで、理解が追い付いていないことだけが分かった。
何でも? 何が?
「さんが本当にお忙しいのは分かっています……でも、僕も譲れないんです。どうか、お願いします」
奥村さんの手の動きに従って、宙に浮いていたわたしの腕は緩やかに重力に従って下ろされたが、彼の手枷が外れる素振りがない。
椅子に腰掛けたまま深々と頭を下げる少年と、困惑して固まる社畜の女の図の完成である。いや何これ。どういう展開だっけ。
阿呆か、修業の話である。妙な強硬手段を取られて脳がバグったが、冷静に対処すれば抜け道はあるはずだ。わたしはワハハと乾いた笑い声を上げ、捨てられた子犬の顔で待っている奥村さんを見て、いや簡単に揺らぐ訳にはいかないのだと見えぬ手で己の頬を引っ張叩いた。
「いやあでも、シュラに聞きましたよ、奥村さんの射撃の腕前。トレーニングルームの特別無限モードこなせる人に教えることなんかないですナイナイ」
「経験の差があります!」
吠える奥村さん、ぐう、正論。
「……つまり、実戦に限りなく近い形で腕を磨きたいと」
「はい」
「でも奥村さんって幼少期から前・聖騎士の藤本神父の下で訓練されてたんですよね?」
「さんが毎日こなされている任務の難易度と比べないでください」
「……高校生活に加えて祓魔塾の講師やりながら祓魔師の仕事もして、まだやるんですか?」
「業務量ならさんの方が上ですよね?」
「うぐう」
満面の笑みで返され、社畜、何も反論できない。何なら今日の従事現場は上の命令で三ヶ所ハシゴさせられた。それからへとへとの状態でデスクに戻ってきて事務処理その他諸々の残業である。コメントを差し控えたい気持ちでいっぱいである。
社畜予備軍なんて言葉では温い、彼はもう立派な社畜そのものだったのだ。嘆かわしいことである。こんな世の中に誰がした。
「さん」
「うぐう」
詰め寄る奥村さん、唸るわたし。
いやでも、負けてはならぬ。己のキャパを超える業務量を抱える訳にはいかんのだ。もう限界スレスレの自分に、奥村さんの面倒を見るだけの余力は残っていない。
すみませんが、と口を開きかけたのに、目の前には満面の笑みを浮かべた奥村さんがいてわたしの脳は容易く処理落ちする。無念。
「夜食の配達もできますよ」
「は」
悪魔のような囁きに、声が引っ繰り返った。
夜食。それ即ち、奥村さんのお兄さんの素晴らしい手料理のことを指す。
あまりにも卑怯である。蛮行が過ぎる。抗える訳がなかろうこんな判断能力の衰えた社畜によお。無理無理無理。もう胃が求めているのが分かる、舌鼓を打ちたいと本能が告げている。辛くて鼻水が出てきた。
「さん、最近ちゃんとした食事を摂れてないんじゃないですか?」
君はいつ拷問尋問のスペシャリストになったの?
そりゃ家には風呂と寝に帰っているだけだもの、と言ってしまえばオシマイである。ギリギリと奥歯を噛み締めながら、わたしは耐えた。眼鏡の奥の心配そうな瞳に騙されるな。甘言に耳を傾けるな。祓魔の基本である。
「明日、午後休ですよね? 明後日は土曜日ですから、心待ちにされていた連休に申し訳ないですが……」
職場のスケジューラーにうきうきとして入力した休みまで把握されている。だって休暇を先に申請しておかないとどんどん仕事が降ってくるんだもの。おおう。
君は本当に男子高校生なのか? 下がった眉尻から放たれている庇護欲を刺激する空気が、彼の身長とあまりに釣り合わないのでやはり脳が盛大にバグる。
「部屋の掃除もお手伝いできますよ」
「いや流石にそれは……」
とんでもない提案に自宅の散らかり具合を思い出して白目を剥く。何人たりとも通す訳にはいかない。紛うことなき恥である。
「……じゃあ、相談だけでも、乗っていただけませんか」
───それが本題か。
最初に無理難題を吹っ掛けておいて、その後に本命の条件を提示する手法をよく心得ているらしい。本当に彼は十五歳なんだろうか。交渉術をここまで巧みに操る高校生って最早存在がフィクションなのでは?
「もう、さんしか頼れる人がいないんです」
再び落とされた視線も作戦の内なのだろう。語尾が僅かに震えているのもそうだ。そうだと言ってほしい。
「駄目ですか……?」
顔の良い青少年が少し背中を丸めて上目遣いでこちらを見やる。分かっていてやっている。あまりにも殺意が強い。
頭を抱えて逃亡したいが、逃げ道は虚しくも封鎖されていた。
「奥村さん」
「はい」
ええい、わたしの負けである。
「分かりました。ひとまず相談だけなら」
「本当ですか!」
ウワーやめてめちゃくちゃ嬉しそうな顔しないで! 手を握り込まないで! 死を覚悟する! 青少年保護条例違反! ブタ箱にぶち込まれたくない!
と、叫び出したいところをぐっと死ぬ気で飲み込んで、そっと長い指を引き剥がす。色が白いせいで、彼の頬は赤くなるとすぐに分かる。直視すると勝手に呻き声が出てしまう可能性があるので、自分のデスクの上に転がったままのボールペンやら付箋やらを片付けながら話を進めることにする。
「ちなみに、この件について今まで誰かにご相談されたことは?」
「……いえ。さんが初めてです」
「……他言無用系ですか」
「お願いします」
マジかよ、シュラにも相談してない案件を何故わたしに持ってくるのか。一気に胃が痛み始めたぞ。かと言って今更無下にもできそうにない。大人しく腹を括れということなのだろう。いやあキツイ。
インクを使い果たした蛍光マーカーをゴミ箱に放りながら、とりあえず真面目な方向に思考を切り替える。
「……あの、相談って、解決策の模索か、思考整理か、愚痴とかの聞き流しか、どれに合致しますか」
「え?」
「悩みごともそれぞれじゃないですか。現状打破のために祓魔師の先輩として具体的な解決策を助言すれば良いのか、他人に話すことで奥村さんの頭の中を整理するのが目的なのか、ただ相槌を打って聞いてほしいだけなのか」
「…………」
返答がないなと思って隣を見れば、彼は青の瞳を真ん丸にして、固まってしまっていた。わたしが真剣なことを言うのが予想外だったのだろう。無理もない、業務以外のわたしと言えば日々駄目な人間であるところしかお見せできていないので。
言っていて虚しさが半端ないのだがどうすれば良いのだろうか。答えをくれる神さまがいる訳もなく、わたしは曖昧に笑いつつ、慌てて付け加えた。
「あ、いや、別にひとつだけに絞る必要はないので」
こちらの心の準備に活用させていただくだけなので強制するつもりもないのだ、と伝えようとした矢先、奥村さんが、それこそ花が綻ぶように、嬉しそうにはにかんだ。
「……ありがとう、ございます」
社畜はいとも簡単に息絶えた。
わたしは馬鹿な大人であるので、結局奥村さんの言いなりになっている。
「お先に失礼しまあす」
「お疲れー」
課長に頭を下げ、隣の席の同僚にひらひら手を振って、端末の電源を落とす。何人たりともわたしの午後休を邪魔することは許さぬという強い決意を胸に、早朝からどんどこ書類を作っては投げ作っては投げした成果である。盛大に褒めてほしい。
まだ外が存分に明るい中で退勤できることの喜びは計り知れない。わたしは今、無敵だ。最高。語彙力は溶けて消えた。
本当に久し振りにウィンドウショッピングでもして、帰りに食料品を買い込んでおこうと決め、駅に向かって歩き始める。ニットが一枚買い替え時なんだよなあ。あと化粧下地とアイライナーとリップもそろそろ新しいのを買わないといけない。最近の買い物といえば祓魔用品と残業のお供のお菓子か飲み物ばかりで、人間としてどうなのと思うがこれが現実である。悲しいことは考えてはいけない。
改札機にICカードをタッチさせたその時、ポケットに入れていたスマホが震えた。職場からの連絡だったら無視してやりたいが、現実的にそうもいかないので仕方なく画面を確認する。
『お疲れさまです、今日はよろしくお願いします』
簡潔なメッセージは、奥村さんからだった。安堵の息を吐いてホームの椅子に腰掛け、ぬいぬいとフリック操作を始める。
『お疲れさまです。任務が終わったら連絡ください。お迎えに上がります』
『ありがとうございます。多分十九時頃になると思います』
「……強気だなあ」
後始末だけとは言え、一時間強で片付ける気でいる奥村さんはやっぱり若いなあと思いながら、了解のスタンプをタップする。
正十字学園駅から二駅先の駅ビルで買い物を済ませ、一度自宅へ荷物を置いて、近所のスーパーに食料品を買いに行き、ちょっとお洒落なパン屋さんで売っていたカヌレなる魅惑の菓子も手に入れ万々歳。そこから部屋の掃除に着手したわたしはとても偉いと思うので誰か褒めてほしい。誰もいないので自分で褒める。偉い偉い。
掃除機をかけてついでに洗濯物も干した。当たり前のことを当たり前にできたというだけだが、ここ数週間の社畜振りから考えれば目覚ましい進歩なのである。褒美にコーヒーとカヌレで舌鼓を打ち、食べ終わってごろりとラグの上に転がった。
残業により累積した疲労感がそう簡単に抜けるはずもなく、気分は最高だが肉体の機敏は最低だった。一瞬でも油断すればすぐに目蓋が下りてきてしまう。流石に寝落ちてしまう訳にはいくまいと何とか上体を起こしたところで、十九時ぴったり、奥村さんからの連絡が入った。
『今、終わりました』
『ではそのまま東十字通りに向かっていただけますか、入り口で合流しましょう』
『分かりました、ありがとうございます』
『イエイエ』
コートを羽織ってショルダーバッグを引っ掛け、ブーティに足を突っ込む。タートルネックのニットを着ているのでマフラーは不要だろう。徒歩五分の道のりを辿り、最寄り駅の改札に滑り込む。今お帰りらしきホワイト企業の戦士達がにこやかに車両を降りてくるのと逆のホームで、わたしは羨望の眼差しを隠し切れずにいる。
定時退社、夢のような素敵な響き。
やって来た電車の椅子に腰掛けると、一気に重力が肩にのし掛かってきたので白目を剥く。削られた体力は生半可な娯楽では回復しないという現実に打ちのめされながら、正十字学園駅へ再びどんぶらこっこ運ばれた。
正十字学園駅から徒歩七分、南十字通りほど賑やかではないが、この東十字通りにも飲食店が建ち並んでいる。入り口の横断歩道付近に、奥村さんの姿がありぎょっとした。彼の任務現場から徒歩二十分はかかるはずで、わたしの方が先に着くと思っていたのだが。
「すみません、お待たせしてしまいましたか」
「いえ、今到着したところですよ」
コンパスの差が織り成す技なのかもしれない。完璧な愛想笑いを浮かべている奥村さんにぺこぺこ頭を下げながら、目的の店に向かうことにする。
「晩ご飯がてら、という感じで思ってましたが、大丈夫ですか?」
ものすごく今更な前提条件を提示すると、奥村さんはにこりと笑んで「そのつもりでした」と言う。やっぱり人生二回目とかそんな感じに違いない。
大袈裟にヒールが鳴らないように気を配りながら歩を進め、東十字通りをずんずん進む。古びた木製の看板を見付け、重たいドアに手を掛ける。
「こんばんはあ」
扉の正面に構えたカウンターの奥、スツールに腰掛けて分厚い文庫本を片手にコーヒーを啜っている壮年のマスターの姿を確認する。普段からあまり表情筋が仕事しないマスターは、わたしとその後ろに立っている奥村さんを見るや、豆鉄砲を喰らった鳩の顔で慌ててカップをソーサーに置いた。大変失礼である。
「は、何、どうした、悪魔の幻視か?」
「現実です。同僚です」
「はあ、脅かすなよ」
一瞬で理解したマスターが、やれやれと肩を竦めて文庫本を机に眠らせ、スツールから下りた。奥村さんが身に纏っている團服を見て、わたしの証言に嘘がないことをようやく理解したのか、大袈裟な溜め息を吐いてみせる。失礼の上塗りである。
差し出されたメニューを受け取って、部屋の隅っこのテーブルまでずんずん歩く。奥村さんは目を白黒させながら大人しく着いてきた。
「口の悪いマスターですみません。これでも優秀な祓魔用具店を兼ね備えたカフェバーの店主なので」
「え、祓魔用具店なんですか?」
店内には香ばしいコーヒーの香りが漂うばかりなので、彼が気付かないのも無理はない。
年季の入った木製の椅子に腰掛け、メニューを開いて晩ご飯を物色していると、早速労働を放棄した表情筋を携えたマスターが、お冷やの入ったグラスを持って足音もなく近付いてくる。祓魔師は引退しただのとぐだぐだ言う割に、足運びは現役の時から全く変わらないから嫌味なものである。
「こいつの魔除け薬の調合はクソ面倒な比率ばっかりでな。普通の用具店なら嫌な顔されるだろうよ」
本日のオススメは牛タンのビーフシチューだ、と指さして口許だけ笑ってみせるマスターであった。奥村さんは眼鏡の奥でしぱしぱと瞬きをしている。
わたしはぐびりとお冷やを飲んで、分厚めの透明カバーに包まれたメニューをぱらぱらと捲る。マスターの作るご飯はどれも味付けがわたし好みなのだが、奥村さんの口には合うだろうか。
「ちゃんと対価はお支払いしてるじゃないですか」
「おうおう、今後ともご贔屓に」
嫌そうに眉を跳ねさせたマスターが背を向ける。注文する品を定めながら、僅かな緊張で背筋を伸ばしている奥村さんを横目で見る。
作戦決行、今夜は空騒ぎ。