静寂に包まれた空間に足を下ろすと、七センチヒールのパンプスの踵がざっくりと音を立てて砂利に埋まった。毎度この着地の瞬間になると踵の低い靴を履いてくれば良かったと後悔するのだが、職場に戻る頃にはすっかり忘れてしまって、次に来た時にまた同じ後悔をする。
着地の勢いがもう少しふわっとしたものになれば問題は解決するのだが、転送門からぺいっと放り出される方式のため、なかなか勢いを殺すのは難しい。最初の頃は顔面から着地していたのだ、十分成長したと褒めてもらいたいくらいである。戻ったら転送門開発課の人に相談しようかと思い付くも、常に残業でピリピリしている部署であることも思い出してしまったので、思惑は胸の奥底に沈めておくことにする。余計な仕事は増やさないに限る。スニーカーに履き替えてから転送門を潜れば良いのだ。そうしよ。
華奢なヒールではないので折れる心配はないが、ぬ、と足に力を入れて砂利から引っこ抜く様子はやはり間抜けである。
「ふっ」
「あっ今鼻で笑いましたね!? お顔よく見せてください!」
「笑ってない」
貴重な笑顔を拝見しようと躍起になるも、同僚はこちらを振り返ることなく赤い腰布をふわりと靡かせ、大股で先に行ってしまう。完璧な塩対応である。慌てて仕事道具を抱え直し、また踵が砂利に吸い込まれないように慎重に小走りする。とりあえず玄関まで辿り着けば靴を脱ぐので、お間抜けさんの出番はおしまいである。
同僚がうっかりドジっ子なミスをしてくれるならウフフ可愛いナアとこちらがにやけるだけで済むが、しがない社畜がドジをするところを見せつけるなど何の得もない。共感性羞恥により胃に致命傷を負わせる可能性すらある。ちなみに共感性羞恥とは、ドラマとかで主人公が恥をかくシーンを見ると地球の果てまで逃げ出したくなるような気持ちになるアレである。分からない人は幸せだと思うので、分かってしまった人だけ頷いてほしい。
玄関に近付くにつれ、目の前を薄紅色の花弁がひらひらと横切るようになる。空には穏やかな青が悠々と広がり、日差しは柔らかい。紫外線のことを考えるとしっかり日焼け止めを塗っておいて良かったなと思う。ここはわたしにはさっぱり分からない座標軸の中の疑似空間ではあるが、物質は現世のものと同質なのだ(と聞いている)。もう少しご都合主義の世の中にならないものか。
一般的と表現するには大きい日本家屋の玄関の前で、同僚は静かにわたしの手元へ視線を落とす。はよセキュリティ解除しろとの仰せである。仕事はちゃっちゃと終わらせるに限るので、手持ちの端末に職員証を翳し、職場から印刷して持ってきた紙束の中に紛れている十八桁の初期パスコードを入力した。
『コード認証:正常 セキュリティを解除します』
端末の画面に現れた文字をわたしの頭越しに確認すると、同僚は大きな引き戸に手をかけ、颯爽と中に入り込む。ついついその膝あたりでふわっと風を纏う布に視線を向けてしまうが、最早不可抗力なのである。女子高生の短いスカートの裾が揺れているのを見てしまったような気持ちになるのはわたしだけじゃないはずだ。
ただの布が揺れているだけなのに、この危うさは何だろう。考えて気付く。危ういのは己の思考回路である。完。
中は無人の屋敷である。生き物の気配はない。ただ庭にどっしりと構えている大きな桜の木が、穏やかな風に吹かれて満開の花々を宙に舞わせている。玄関の戸を閉めると、薄く埃のにおいがした。
すっかり履き慣れたパンプスから足を抜き、三和土の端っこに揃えると、同僚もその素っ気ない常の態度とは裏腹に、割と丁寧な手付きで己の革靴をわたしの靴の横に並べた。明らかなその大きさの違いに、ふ、と喉から息が零れた。
「……何だ」
見た目は素行が悪くて留年した高校三年生みたいな空気で固めているのに、こういう何気ない瞬間に実は育ちが良いような雰囲気を匂わすものだから、まあ。と、素直な感想を述べようものなら、間違いなく臍を曲げてしまうだろう。折角築き上げた同僚とのほんわかぱっぱな関係性を崩すことは容易である。
阿呆ではあるが愚かではないつもりなので、この運命の糸(生成り色)を断ち切ってしまう訳にはいかない。わたしに用意された模範解答は一つ、ぼろぼろと本心を喋くり散らかさないことである。
「いえ。男の人だなあと」
加えてわたしには学習能力があるので無駄口は叩かない。本当である。不躾に眺めていたことと適当に答えていることはお見通しなので、同僚は眉を顰めて何度か瞬きをした後、小さく息を吐いた。
「刀剣男士に向かって何を言っている」
「まあまあ、仕事はちゃんとしますんで、どーかお気になさらず」
同僚は更に大きな溜め息を吐きたそうな顔をしていたが、時間の無駄だと判断したのだろう。それ以上やいやい言及することもなく、静かに廊下を進んでいく。今までやいやい言及されたことなんてない、というのは余談である。初期に比べれば随分まともに会話が成立するようになって実に感慨深い。
ストッキングに包まれた足裏が、木張りのひやりとした温度を感じ取る。ぺたぺたと足音が鳴るわたしとは違い、同僚は音もなく、やはり大股でずんずん進む。彼の足は長いのですぐに距離が開くが、たまにちらっと後ろに視線をくださるのでもうわたしは満足です。
「…………」
こがね色の瞳は雄弁である。可哀想なものを見るような目で見ないでほしい。真実は時として人間の心を深く傷付けるのですよ。
目指していた屋敷のど真ん中の一室、審神者の執務室に入る。至って普通の六畳の和室である。審神者が仕事をするための机と肌触りの良い座布団が二組と、壁沿いに木製の背の低い資料棚が設置されている。これらは初期設備で、本丸での生活が長くなるにつれ、それぞれの審神者好みにカスタマイズされていくのだ。要課金ではあるが。
少しだけ日に焼けた畳に足を崩して座り込み、抱えていた仕事道具を机の上に広げる。多色ボールペン、蛍光マーカー、備品のチェックリストその他諸々の書類を挟み込んでぼちぼちな厚さになっているファイル、お隣の課から貰ってきたお札数種類(予備含む)、職員用端末。過不足なし。
同僚の腕が伸びてきて、紙ファイルの一番上に挟んでいた書類を抜き取っていく。腕時計に視線を落とし、針の動きが正常であることを確認。よし、正座。
「えー、現在十三時七分、本丸識別番号め二六九七三一三六」
ボールペンを握る同僚の手がさらさらと動く。彼の書く字は僅かに右肩上がりで読みやすい。
この書類は備品確認作業完了証明書というもので、全ての備品を確認後、この本丸に置いていくものである。何でも電子化が進む世の中だが、結局のところ、諸々の事情によって紙の書類を無くすことはできないのがお役所仕事というものである。
お昼ご飯を食べたばかりなので、油断するとあっさり睡魔に飲み込まれる時間帯であるが、手と口を動かす業務は眠気覚ましにぴったりだ。そんな訳で、わたしは今の担当業務を割と悪くないと思っている。庁舎に戻ってからの膨大な事務処理と残業は除く。
今一度、部屋の中をぐるりと見渡す。目に見えるような異変なし。
異変が分かる時があるのかって? 生憎、とっても、非常に残念だが、ないとは言えないんだなあこれが。わはは。
「では、本日二件目もご安全に。よろしくお願いします」
同僚からの返答の声はなく、視線だけが返ってくる。促されるままに端末を手に取って指先で画面をタップする。よし、端末の動きも正常だ。一安心。
端末の挙動が不審だったり、そもそも電源が入らなかったりという現象に出くわせば、逃れられぬ悪夢の展開が始まってしまうのである。正直めちゃくちゃほっとしている。
「じゃ、リスト上から確認いきます」
同僚は資料棚に収まっていたファイルを全て畳の上に取り出して、こちらを一瞥した。これは了解の返答である。アイコンタクトで仕事を進めるのにも大分慣れたものだ。
その眦が意外にも穏やかなのに気付くまで結構な時間がかかったのは、まあ、初対面の時の視線の鋭さを言い訳にさせていただきたい。
「『はじめての審神者業務セット』からお願いします。……基本業務マニュアル、刀剣男士取り扱い説明書、審神者防衛必携、文書事務の手引き、文書雛形集、歴史保安庁例規集、端末操作マニュアル、本丸管理規則」
「……審神者防衛必携が改訂前だ。それ以外は問題ない」
彼は特別無口という訳ではないが、必要がなければ喋らないし、端折れるものはどんどん端折っていってしまう。最初はびくびくと怯えていたわたしであるが、この静寂に身体が慣れれば、それはそれで快適なのであった。何せ延々と鳴り続ける電話の前にずっと座っていなくても良い。静かな方が仕事は捗る。
端末のメールボックスの下書きに、審神者防衛必携改訂版、と打ち込んで保存しておく。庁舎に戻って書類の手配をしなければならないので、こうして一つ一つチェックして、漏れがないように記録しておくのだ。
「次、新しくここに置いてく分です。審神者労働組合定期連絡便、本丸給食センター来月の献立表、万屋カタログ、歴史保安庁広報活動へのご協力のお願い、来月の審神者業務セミナー一覧、審神者婚活サイトのご案内……ん?」
ふと、読み上げと同時に机の上にどんどん積み上げられていく書類を見て、首を傾げた。わたしの読み上げが止まったので、同僚が不思議そうにこちらを見やる。こうやって見ると、普段は驚くほど穏やかな顔をしていらっしゃる。怒るとすぐに顔に出るけど。
元々この本丸の資料棚で大人しくしていた書類の山を見やれば、背表紙のテプラが剥がれかかっているものや、角が折れてしまっているファイルが目立った。よくよく目を凝らして周囲を確認すると、部屋の柱には細かな傷が刻まれており、机の脚も僅かに削れている箇所がある。一部の障子紙だけが真新しい。つまり。
「……今回の本丸、新品じゃないんですね」
「別に珍しくもない」
いつもどおりの短いお返事である。解説を請うと、同僚は律儀なので静かに答えてくれる。いつ聞いても良い声だなあと呟いてしまったら最後なので、真剣に聞く必要はあるが。
「本丸構築費は安くない。多少の改修はせざるを得ないだろうが、備品はそのまま、本丸の座標だけをずらせば足りる」
「へえー」
座標の設定にはこれまたどえらいセキュリティ対策が仕込まれていて、用地整備課の技術職員さんが頑張って構築しているのだ。再利用出来るならそうするに越したことはない。ちなみに景趣変更システムの開発も、用地整備課が担当していると聞く。いつもお疲れさまです。
配属されてから一ヶ月半の間、偶然にもわたしは新品の本丸ばかりを見てきたらしい。
そう言えば、初期設定の景趣に桜の木は含まれていなかったな。そこで気付くべきだったのか。ちらっと同僚を見やると、呆れたような視線が跳ね返ってきた。この同僚、驚くほどこちらの心情を読み解くのが上手である。
ちなみに本丸にも色々あって、今回のように政府が準備する初期設定の本丸は純日本家屋だが、改築して洋室中心の本丸やマンション型なども少なからずある。これは就任する審神者の好みである。ただし、どの本丸も予想外の襲撃などに備えて構造は少し入り組んだものになっており、部屋の配置も微妙に異なっている。
「次」
「はーい……城下町グルメウォーカー、こんのすけの好きな油揚げ十選……」
容赦なく業務へ引き戻す同僚の声はやはり素っ気ないが、冷たいという訳でもない。何だかんだ優しいのである。襟足の髪を時々首の前へ流す仕草をしながら、同僚はわたしの読み上げを待っている。グルーミングですか、と聞いて首を傾げられたのは最近の話だ。
執務室の備品チェックが終われば、次は鍛刀部屋、手入部屋、馬小屋、道場、台所、浴場、畑、蔵を順に確認し、本丸の空気中に含まれる神気濃度を分析し、電気ガス水道が問題なく通っているかを見て終了である。ぼんやりしているとまた刀で尻を叩かれる羽目になるので、業務はきびきび遂行せねばならぬ。
女の尻を刀で叩いても許されるのは、組織の中でもこの同僚くらいなものである。多分叩かれてるのわたしだけだが。
「マニュアル類、お知らせ系統の書類は以上です。不備は審神者防衛必携だけですかね」
「基本業務マニュアルが数ページ破れている。丸ごと差し替えたほうが良いだろう」
「分かりました」
よし、一つ目のタスクは無事完了だ。鍛刀部屋に向かうために広げた道具をさっとまとめて立ち上がろうとすると、同僚が何かを手にしたまま動きを止めた。
「どうかしましたか」
わたしの疑問符は受け取られもせず、同僚はファイルの山から何かを取り出したまま、石のように固まっている。
その手の中は、マニュアルの類にはほぼ見られない鮮やかな色彩、どちらかと言えばけばけばしいコントラストが踊っている。ゴシック体で見え隠れしているお姉さんの肉体は美しく、どっちかって言うとこのお姉さんには水色じゃなくて淡いパステルカラーの方が似合うな、と思った。
冷静に考察している場合ではない。いつもの無愛想さの中にはっきりと困惑の色が紛れ込んでいる。助けてやらねば。
「いやー前任の審神者さんの置き土産ですかね?」
資料棚に隠すとは、近侍がうっかり発見する可能性が高くないだろうか。逆に発見されなかったからこの場に残ってしまっているのかもしれないが。同僚はわたしの声で我に返ったのか、何度か瞬きをすると、興味なさそうにそれを卓上に手放した。その勢いでぱらぱらとページが捲れる。何だ、そんなもの見慣れているとでも言うのか。羨ましいことである。
契約課配属の眼帯を付けた豊満わがままボディな職員さんが脳裏に浮かんだが、言及するとまた同僚さんがゴミを見るような目でわたしを無言で批難するに違いないので、お口はチャックである。沈黙は金。
捲れるページから、意図せずして際どいポージングの水着のお姉さん複数と目が合った。
「あっ待って一瞬めっちゃ可愛い子が」
「何故食いつく……」
心の底から嫌そうな顔をされた。心外である。
「いや、あどけない顔に似合わずものすごいおっぱいで世の不条理を感じました」
「聞いた俺が悪かった」
「何でですか。白の水着で清楚系、しかも谷間に黒子ですよ。セクシーとキュートを兼ね備える最強の布陣ですよ。どこの未来人さんかと思った」
「何を言っている」
「おっと、禁則事項です」
「分かった、もう喋るな」
眉を顰めてそっぽを向いてしまわれたが、わたしは知っている。実はこの同僚、涼しい顔しておっぱい星人である。
「事実無根のナレーションは止めろ」
「じゃあ無意識に見てらっしゃったと」
「違う」
「でも好きでしょ?」
「斬り捨てるぞ」
「すいませんでした」
絶対零度の眼差しを向けてくる同僚であるが、耳が真っ赤になっていたのはばっちり確認済みである。そういう可愛らしい反応をするから色んな人が味を占めていらんことをしてしまうのだが、と指摘しようものなら、わたしは宣言通り切り刻まれて鯉の餌にされてしまうだろう。あまりからかって寿命を削るのは得策ではない。
が、実はわたし、ちょけていても仕事はちゃんとする人間である。嘘ではない。本当である。本当に嘘ではないのである。
さっきのグラビア雑誌に“挟まれていた何か”を確認するために、机の上で大人しくなっているそれを手に取った。
「おい……」
本当に心の底から嫌そうな顔をする同僚であったが、わたしが至って真面目な顔でページを捲り続ける様子を見て勘付いたらしい。腰元の刀に伸ばされていた右手はそのままに、次々と現れる水着のお姉さんを睨み付けている。いやいや、お姉さん達に罪はない。多分。
がさり、とした手触りと共に、それは表舞台へ引き摺り出されてしまう。
「……三件目は延期ですね」
本日のノルマであった備品確認の予定が代わりに切り刻まれてしまったのを実感し、同僚と全く同じタイミングで悲しみの息を吐く。今回の本丸は大丈夫だろうと油断したらすぐこうだ。やはり我々はどこまでも貧乏くじに愛されている巻き込まれ体質なのだ。間違いない。前世は忍者の学園に通って保健委員会にでも所属していたのかもしれない。
本丸の外の空気は陽気で、備品は部分的に少し古いだけで、庭の桜は美しく、池の水は澄んでいて、背筋の悪寒もなければ頭痛や耳鳴りもなく、端末は正常に作動していた。そりゃ油断もする。
書き殴られた文字列は記号を含み、重なり合って解読が難しい。ぐしゃぐしゃに塗り潰されている箇所もあり、正常な精神状態で書かれたものとは思えなかった。ボールペンであろうその筆圧は強く、紙そのものに皺が寄っている。加えてその紙面には、枯れ葉色の飛沫が踊っていた。触るとぱりぱりと乾いた何かが指の腹に付着する。きっと乾く前は赤かったのだろうな、と想像して胃が痛む。
辛うじて読み取れた部分には「たすけて」とある。
端末のカメラで悲しみの原因を撮影し、肩を落としながら文字入力に勤しむ。今日は残業せずに早く帰って美味しい日本酒でも飲もうと思っていたのに、金曜日になんたる仕打ちだ。山のように重なる事務処理の書類を想像して気が遠くなる。
「……連絡を」
同僚の声音はいつだって冷静だ。低体温を維持しながら、的確な業務指示をくれる。予め用意しておいた緊急応援要請の連絡メールに必要事項を追記して、さくっと送信ボタンをタップする。こんなメールの雛形を予め用意しておいた自分偉いわーと己を褒めちぎってでもいないと気が狂いそうだ。
「企画業務課、用地整備課、転送門開発課にメール送信しました。サーバに弾かれてる様子はないですね」
「うちには」
「厚補佐、イトー総括、鶯総括、カトー主査をCCに入れてますんで、向こうが修羅場でなければ気付いてくださるかと。お、転送門開発課さん返信はやー、転送門監視設定の強化完了とのことです」
「応援には誰が来る」
「……返信来ました。企画業務課の石切丸総括とヤマダ主査が準備してくださってます。このお二人ってことは残業確定案件ですね~悲しい~泣きたい~」
へらへら笑いながら端末の画面を突いて悲しみを誤魔化すわたしとは対照的に、彼の表情には一切の柔らかさがなかった。
「生きて帰ることだけ考えていろ」
淡々と零される声は死刑宣告の如く。反射で乾いた笑いを貼り付けるわたしを真っ直ぐに射貫くと、同僚は腰元の得物に触れながら立ち上がった。
「またそういう笑えない冗談を……」
「本気だ」
本日の業務目標、生きて帰ることに決定しました。おめでとうございました。