フロントガラスの向こう側、街灯を浴びてひかめく雨粒が見え始めた。左の指先でレバーを押し下げ、少し遠くで点滅している信号をワイパー越しに眺めながら、張った首筋の後ろを揉む。
次で今日最後のお客さんやろな。酒に溺れた会社員達をお家に導く任務は無事に終了し、今頃は健やかにおねんねの最中であろう。わたしもはよ帰って泥のように寝たい。
エンジン音が緩く鼓膜を揺らがしている。雨音は次第に輪郭をはっきりと見せ始めた。まだ太陽も分厚い雲の奥で眠ったままの午前四時三十分、カーステレオにノイズが乗る。コールセンターの眠たげな入社一年目の女の子の声に従って、わたしは緩やかにハンドルを切った。
自分が入社した時も、夜勤に慣れるまでは睡魔との戦争やったなあ。頑張るんやで後輩ちゃん。夜勤手当は美味しいし、身体もじきに慣れるからな。
何度も走った道路から横道に逸れ、住宅街へと誘われる。地面からずんずん生えているマンションの群れの中でじわっとブレーキペダルを踏んだ。コールセンター嬢によると、ご指名の主が現れるのは午前四時四十五分とのことである。残り三分。
路傍で停止し、ハンドルから手を放して膝の上で大人しくさせる。白の手袋をした指を組んで背筋を伸ばしている間に、マンションのエントランスのガラス越し、黒のキャップにだぼっとしたパーカーに身を包んだ男がひょっこり姿を見せた。こちらの車体を見るや否や、ぱたぱたとネイビーのスニーカーで駆けてくる。
別に急がんでもうちは待機料金発生せんのに、律儀な人やなあと思いながら、後部座席のドアを開ける。
「朝早うから堪忍な。チャヤマチまでよろしゅう」
まだ眠っている街に引き摺られてか、囁くような、しかし明るい声だった。
滑らかに車内に乗り込み、大きな黒のキャンバス地のリュックを膝の上に置いて、きちんとシートベルトを締めて、こちらがアクセルを踏むのを大人しく待っている。さっきまで乗せとったへべれけ野郎共とは天地の差、あまりにお行儀の良いお客さんなので、感心してついバックミラーに視線を投げて、息を飲んだ。
黒のキャップから覗く、浅葱色。
ぬるちゃんや。
喉の奥から音が溢れ出しそうになるのを懸命に押し留め、わたしはそっと足先に力を入れる。向こうが気付いているとは限らない状況下で、口に出すのは憚られた。
それよりも仕事である。さくっと安全に送り届けて、何ならもうひとりくらい何処かで彷徨っているお客さんを拾ってあげるのも悪くない。道路を走る車の数は知れているし、チャヤマチまでなら大して時間はかからないだろう。
最短ルートを脳内に描く。この時間帯でチャヤマチとなると、テレビかラジオか。雨降ってるし、B館にせよM館にせよ、玄関までお送りしたらんと。
まあ、近付いてきたらどっちか言うてくれはるやろ。
「肌寒うないですか、暖房上げれますんで言うてくださいね」
「おおきに」
定型文に対し澱みない返事だったが、パーカーの袖は手の甲までしっかり伸ばされている。さっさとスイッチを入れて、直接温風が当たらんように風向きを調整し、再度ペダルを踏み込む。
まだ真っ暗な空の下でも、街路に聳える銀杏の黄色は鮮やかに見える。学生の頃、雨上がりの銀杏並木をだらだら歩いて、濡れた葉に見事足を掬われた思い出が蘇る。いらんこと思い出してもたわ。
「うわ、雨強なってきてもた」
男の独り言のとおり、窓ガラスに打ち付ける粒は段々と大きくなってきていた。
そういや、グローブボックスに折り畳み傘入れっぱやったわ。全く可愛げのない真っ黒の無地な奴。こないだ、急にゲリラ豪雨に出会した時にコンビニで命からがら手に入れた代物だが、自宅には雑貨店で買った丈夫な折り畳み傘がある。
「……傘ありますんで、ご心配いらんですよ」
天秤を思い描くまでもない。運転中なのでバックミラーにちらと視線を投げる程度に留めたが、男が一瞬で破顔したのが見えて動揺する。
いや、こういう奴やて知ってたはずや。普段は人懐っこそうな顔してきちんとATフィールド張り巡らしてんのに、思わんところでお腹見せてくんねんもんこの犬っころ。
「いやあ、それめっちゃ助かりますけど、借りたら返さなあかんですやん?」
舌の根のところまで顔を出した「傘、そのまま差し上げますよ」を反射的に飲み込んでしまい、わたしは己の甘さを思い知る。
何を今更、と嘲笑う自分を轢き殺して、丁寧に営業用の顔を貼り付ける。愛想笑いも慣れれば苦ではない。
「次、うちんとこのタクシー乗ってくれはる時でええですよ」
「はあ、商売上手でんな!」
「そらおおきに」
上辺だけの褒め言葉を有難く頂戴して、赤信号に備えてゆっくりとブレーキを踏み始める。消化不良を訴える胃を無視し、コンソールボックスに片手を伸ばした。
「ガム要りますか」
「貰います」
貰えるモンは有難く頂戴する主義なんで、と笑う彼は、教室でしょーもない会話を交わしていた頃と全く変わらない。時折声が掠れているところなんかは、流石に疲労が滲んでいるように見えて、大人になったんやなあと思うけど。
板状のブラックガムを後部座席に向けて差し出すと、そっと指先から抜き取られた。そういや、辛いガム食べれるようになったんかな。完全な赤信号の真っ只中なので、さっきよりも気持ちしっかりめにバックミラーを覗く。
「あ、あかん、これめっちゃ辛い奴やん」
息吸うと余計辛なるんにぃ、と男が見事に顔をくちゃくちゃにする瞬間を見てしまい、慌てて正面に目を向けなおす。ここ、赤信号長いから助かったっちゅうか、逆に追い詰められたとも言えるんやけども。
あかん、気ぃ抜いたら笑うてまうわ。下唇の裏側に薄く前歯を食い込ませ、あと十秒くらいで切り替わるはずのそれを睨み付ける。
「ぷ、」
車内の空気は呆気なく破かれた。わたしとちゃう。リュック抱えて丸まって肩震わせてる後ろの男や。
「もー、いつまで知らん人の振りしてんねや! 腹筋割れるわ!」
こっちの気遣いなんて最初からなかったかのようにきゃんきゃん吠えてくる。やっとこ青に切り替わったのでアクセルを踏み込んだ。
何て返すんがええんやろ、と思春期の学生みたいな思考を鼻で笑い、恐らく一番正しいであろう回答を口にする。
「朝から筋トレ偉いなあ」
「せやろもっと褒めてええで」
「まだ営業前やろに、そない飛ばして平気ですのん?」
「俺の素ゥ知っとるくせにけったいなこと言うて!」
ああ、人の周囲をぐるぐる回るポメラニアンみたいな、愛くるしい同級生その人に違いない。卒業して何年経っても、纏っている空気が不思議と色褪せないのは、芸人という職業のせいか。
道路には少しずつ車の数が増えていく。同じような早朝勤務の方々の出勤ラッシュ────まあ、言うても両手で数えられる程度の台数だが、まるで世界で唯一この車だけが延々と道を走っているような錯覚から抜け出せたことを大いに喜んでいる故の表現である。
早朝から逃避行とか、阿呆みたいな妄想をしとる場合ではない。現実にちゃんと戻らな。ハンドルを握り直して右折。
投げられたボールはとりあえず返しとかんと、後々がめんどい。
「やって、ぬるちゃん全然変わってへんねんもん」
「そっちは立派な社会人サンで最初分からんかったで」
「んな訳ないやろ」
返した声の成分に嘲りの色が強く、自分でもちょっと引いた。
時折本当に辛そうに薄く呼吸をしているぬるちゃんを見ると、悪いことしたなあという気持ち半分、ざまあみぃという気持ちが半分。社会人には適さない感情に蓋をして、法定速度の等速直線運動を続ける。
「なあ」
「んー?」
一度壊れた空気を修復するには高度な集中力が必要である。運転は人の命を預かる仕事なので、つまり返事は生半可にならざるを得なかった。遺憾の意。
「傘、ほんまに借りてええんやな?」
「ええよ」
「助かるわ。収録終わったらまた移動せなあかんねん」
「コンビニの折り畳み傘やから、強度は微妙やで」
「丁寧に扱えっちゅーことやな」
「話が早い」
「せやろ?」
この会話のテンポ、懐かしなあ、なんて、絶対に言うてやらん。
ぬるちゃんのしたり顔をテレビ以外で拝むのは、果たして何年振りか。数えるのは難しくないが、月日の流れに虚しさを覚えて今日の業務を終えるのは癪である。
どんどん強まる雨脚にワイパーが抗う様を視界の隅に、結局わたしは諦めて肩の力を抜いた。ぬるちゃんは将棋やっとる人みたいによう頭回るから、抵抗するだけ無駄とも言える。
「なあ」
「んー?」
友人やった頃の、テレビで見るのとは微妙にちゃう、わたしのよく知っとるぬるちゃんの、すっかり警戒心の砕けた姿は怖いくらいに蠱惑的であった。あまりに恐ろしいので、ハンドルを掴む指先に妙な力が入る。
懐に入れたら持っていかれてまうねん、嘘やない。真理の扉を開く覚悟なんか、わたし全くあらへんので。
「運転手って指名できるん?」
「は? どないしたん」
「ここで惚けるんかい」
単純に頭が回ってないだけなのだが、わざわざ挙手して言うようなことでもない。
「……朝のお勤めのお迎えか、終電逃した時とか頼りにしてくれてええで」
「夜勤ばっかなん?」
「まあ。少なくとも芸人さんよりはちゃんと寝とる」
「手厳しなあ」
「せやろ」
今をときめくぬるちゃんは、恐らく分刻みのスケジュールの海を泳いでいるに違いない。この仕事柄、芸人さんをテレビ局や花月までお送りしたりお迎えしたりするのは珍しいことではない。大体の生活リズムは推測できる。
くだらん応酬の果て、目的地が見えてきた。なあ、B館とM館どっち。今日はB館、てよお分かったな、怖あ。
あんたに言われたないわ、という言葉をまたしても飲み込んで、正面玄関にぴったりと車を寄せてやる。
代金を受け取って、お釣りと一緒に折り畳み傘を贈呈。ほんまはもう返さんでええよって言うのが正しいはずだが、諦めの悪いわたしは結局抵抗している。
「ほな、おおきに」
車体からするんと猫のように抜け出たぬるちゃんは、車内がぬくすぎたのか、外気に少し身体を震わせた。元々細こい方やとは思てたけど、やっぱ痩せよったな。
運転席から見上げれば、見慣れたポメラニアンではなく柴犬の佇まいが目に入る。きっちり社会人の顔をする彼に、返すべき言葉が上手く描けない。何も言わんとドアを閉めたってええねんけど、やっぱ勿体なくて、わたしは下手くそな笑顔を装う。
頑張りや、なんて言う資格はない。ただの営業用の挨拶で締めくくるのが相応しいと思いつつ、口からは別の言葉が飛び出ていた。
「本日もご安全に」
「ええ? 何なん?」
「建設会社に勤めとる友達が教えてくれてん」
「現場仕事っちゅー意味なら、当たらずといえども遠からずやな」
ほな、お互い本日もご安全に。家に帰るまでが仕事やで!
それだけ言うてさっさと背を向けたらええのに、この男は。
「またなあ」
元カノに雨上がりの太陽みたいな笑顔向けてくる奴があるかいな。