頼りにしてくれてええで等と阿呆な言葉をうっかり吐いてしまった先日の自分を淀川に沈めたい。
コールセンターの入社一年目の女子がやたらと興奮して配車指示を出してきた時点でもっと疑問に思うべきだったのだが、今更後悔しても遅い。
『先輩、ぬるさらと同級生やなんて、もっとはよ言うてくださいよ!』
吠えた彼女は花が咲いたような声色で、アルコール臭に塗れた薄汚い都会の夜の空気を少し浄化してくれた。気がする。知らんけど。
車のハンドルに腕を突っ張って、悲しみの二酸化炭素を垂れ流す。ギラギラと眩しい夜の街は、わたしの溜め息なんぞではビクともしない。
『酔っ払い支え切れんので助けてくださいて言うてはりました』
「えっ嫌やねんけど」
『分かりました言うときました』
「えっ嫌やねんけど」
『先輩、社会人て諦めも肝心やって私も入社して学びましたよ!』
「嬉しそうにすな、もう」
後輩、たった一年で社会に揉まれて立派にふてこくなってもうて。先輩は嬉しいやら悲しいやら、複雑な感情が渋滞中である。
『ねー先輩、ぬるさらの写真とか! サインとか! 何卒! お願いします! 私仕事頑張るんで!』
「はいはいはい、期待せんと待っとき」
『いやー! 先輩頼みますから! ほんまに!』
テンション爆上げの後輩をとりあえず宥めて通話を終え、タクシー乗り場の最後尾に一旦駐車する。辺りは今夜の稼ぎを待ち構えているタクシーの海である。
乗客を捕獲した他社の運転手が、フロントガラス越しにこちらに片手を挙げて去って行く。わたしも同じように挙げ返す。他社と言えど見知った顔だ。夜勤固定で働く運転手は多いのである。
前方に伸びる群れのうち、予約車は三分の一程度、残りは空車表示を掲げていた。争奪戦は既に始まっている。わたしは望まぬ予約車のため、今回の戦闘は棄権である。
憂鬱のあまり勝手に零れ出た溜め息もそのまま、白の手袋をしっかり指先に密着させ、南海ナンバ駅の北出口近くを眺める。どんどこ改札口から吐き出されてくる人の波は、車内にいてもその喧しさを想像するに容易い。オオサカは老若男女問わず口から生まれてきた輩で溢れているのだ。知らんけど。
人間観察を始めて数分、時刻表掲示板の辺りで力尽きて団子になっていた男三人組をあっさりと発見する。中心に白膠木簓、その両脇にしゃがみ込んでにこにこしとるのは恐らく芸人仲間であろう。紛うことなき酔っ払い集団である。地面に転がる寸前の男達の手首を必死に引っ張って支えているぬるちゃんの姿は健気に見えた。
助手席側の窓を開けると、喧噪が一気に鼓膜を叩いてくる。容赦なく浴びせられるアルコールと埃のにおいをあまり吸い込まないよう、呼吸は浅く保つ。シートベルトを外して助手席側へと身体を乗り出し、声を掛けるタイミングを見計らう。
「あーもう、寝たらあかんて! 頼むからもーちょい頑張ってやあ!」
運動会みたいに声を張り上げていた、黒のキャップを被っただけの彼が、たまたま顔を上げた。
いや変装杜撰過ぎるやろ。マスクか眼鏡ぐらいしときいやと思ったものの、差し迫った終電に気を取られているのか、意外にも一般人が気に停めた様子はない。どうしようもない団子三人組を華麗に避けて、次の店を目指す者、空車のタクシー目掛けて突撃していく者と、総じてこの夜中に元気が有り余っている奴が多い。
わたし? そないな元気のご用意、サービス対象外ですけど。と、言い切りたいのは山々だが、仕事は仕事である。
「……お客さん、こっち」
周囲の会話に掻き消されてまうかもとの危惧に反して、声はきちんと届いたらしく、ぬるちゃんの肩が僅かに跳ねた。
ほ、とわたしの顔を見て安堵の息を容易く吐くこの男、ほんまにずっこい奴である。眉尻下がっとんねん、あざとい顔すな。
「すまんなあ、助かった!」
男二人引っ張ってここまで来るんめっちゃ大変やってんで等と大声で言う割に、ぬるちゃんの表情に苛立ちの色は見えんのが不思議と言うか、納得するしかないと言うか。何やかんや善良の塊みたいな生き物である。ええ加減眩しい。
ところで、彼の脇を陣取るぺろんぺろんの男二人は、地面に熱い接吻をぶちかます一歩手前の状態である。ぬるちゃんの腕力も限界なのか、その細い腕がぷるぷると震えている。
恩を売るのではない。これは仕事である。運転席を離れ、団子三兄弟の元へ歩を進める。しゃーなしやでほんま。
「はあい、肩貸してくださいねえ」
こちらの声に素直に従って腕を伸ばしてくる男は、多分後輩の芸人さんと思われる。何や顔がめちゃくちゃ若い。成人したてぐらいかもしれん。肌がぴちぴちしとるわ。
舌足らずにお礼を言う後輩君は、酔っ払いの名に恥じぬ千鳥足を披露してくれたので、わたしも道連れでたたらを踏むことになった。辛うじて意識があるだけマシなのだが、ものごっつ危ない。恐らく一度も染められたことのない猫っ毛の黒髪が目尻を掠める。わたしの頭に頬擦りしても何も出ませんよ。
「あっええな俺も!」
「何がや。あんたはもう一人ちゃんと連れてきいや」
「はあい……」
一瞬だけしょげたものの、すぐに機嫌を取り戻すところは評価に値する。車両までずるずる戻ると、ぬるちゃんは男二人を後部座席にさくさく押し込めた。随分と手際が良いので慣れているのだろう。大変ですなあ、という言葉はきちんと飲み込んでおく。
時刻は二十四時、地下鉄の終電は早い。加えて今日は金曜日である。果たしてお笑い芸人に土日の休みがあるのかは不明だが、ここまで飲んでいるのなら、彼らは明日休みなのかもしれない。これで明日も仕事するんなら尊敬に値する。若気の至りでそこまで考えてない可能性も高いが。
車内のシートに身体を沈めた男達は、実に気持ち良さそうな寝息を立てていた。一瞬で爆睡である。逆に、ぬるちゃんは割かししゃんとしとる。スマホの画面をぺとぺとタッチして、どうやら行き先の住所を出してくれているらしかった。
「先にこん二人をサカイの方まで送ったってくれるか」
うわ、まともな社会人っぽい発言。大人になったんやな、と余計なことを考えながら運転席のドアを閉める。
大人になり損ねたわたしなんか、ハリセンで適当にどついてくれてええんやけどな。言わんけど。
「そっから引き返したら高(たこ)付くで」
「ええねんええねん」
遠回しに別のタクシーに乗れという念を送ってみるも、ぬるちゃんはこちらの抵抗も虚しく後部座席のドアをやはり勝手に閉め、あっさりと助手席に乗り込んでくる。後ろ三人乗りなんやけど、と零しても何処吹く風である。お客さんの前で盛大な溜め息を披露する訳にもいかんので、喉の奥をもやもやさせたままシートベルトに手を伸ばす。
助手席に深深と腰掛けて、黒のリュックを膝の上に鎮座させ、ぬるちゃんは満足気に息を吐いた。
「はー、自分の車の助手席落ち着くわあ……」
「いや、あんたそこ乗るん初めてやろ」
「そんなことあらへんもん!」
「ぶりっこすな」
「何でや、俺との思い出忘れてもうたんか……?」
「はいはいはよ寝えや」
「まだ寝えへんもん!」
「喧しわ。後ろの子ぉら起きてまうやろ」
一応ちらと後部座席をミラー越しに覗くと、うんともすんとも言わずに健やかに眠っている二人の男の姿があった。杞憂であったが、ぬるちゃんのよく回る口に釘を刺しておくことが重要なのだ。こちらの意図に従って、彼の声音はワントーンしっかりと下がった。
「あかんあかん、後輩をちゃあんと送り届けるんは先輩の役目やからな!」
「送り届けるんわたしやけどな」
そしてわたしははよ口閉じなあかん。ぬるちゃんの声が飛んでくると、つい反射で言葉が飛び出てしまうのである。意識して貝みたいにじっと黙っておくのが唯一の正解である。
それがまあ、人間とは大変に厄介な生き物で、正しいと分かっていても己の身体が言うことを聞くかは別の問題なのである。遺憾の意。
「安全運転で頼むで!」
「寝言は寝て言い」
「ほなお願いしますう」
シートベルトの装着完了を報告してくるぬるちゃんを横目に、仮にも客の前なので溜め息を零さないよう気を引き締めて、ハンドルを握った。
応酬は学生の頃と変わらない。小気味良いテンポはいっそ憎いくらいである。数年も顔を合わせていなかったというのに、まるで昨日会ったみたいな雰囲気を作るのが上手すぎるのだ。仕事中なので悪態は胃の中で待機してもらう。
いやまあ、先週わたしは確かにこの男を乗せたんやけど。
信号待ちの前方には先程と変わらず同業者の列が伸びているが、日中の走行量に比べれば屁でもない。第一の目的地には二十分ちょいもあれば着くだろう。
走り出して暫く、ぬるちゃんの口はきちんと引き結ばれていた。交通情報を吐き出すラジオとエンジン音だけが響く室内、ここまで静かやと逆に不気味やな、と思った瞬間、なあ、といつもの呼び掛けがある。予想を裏切るのが好きなやっちゃな。生まれた時からか。
「何ですか」
「電話したらほんまに来てくれるん、嬉しなあ思て」
「そら仕事やねんから来るやろ」
「厳しいお言葉やね」
隣で肩を竦めるものの、ぬるちゃんの顔はずっと楽しそうである。酒に強いのか弱いのか知らないが、ご機嫌なのは良いことである。そういうことにしておく。
また信号に引っかかったので、横目で隣を眺めてみる。
ケーブルニットにフード付きのダッフルコートを纏っているからか、いつもテレビで拝む姿より幾分幼く見えた。助手席で窮屈そうに折り畳まれた足は、暗がりでもほっそりとしているのがよく分かる。わたしの肉あげよか、と半ば本気で言っていた学生時代が懐かしい。
あんまり人の足ばっか見るもんやないな、と我に返り、間違えてぬるちゃんに顔を向けてしまった。不意に飛び込んできたその横顔の、トラガスに刺さっているピアスが、夜光を浴びてきらりと瞬く。
黙っとったら彫刻みたいなんにな。
「……水飲む?」
正気を取り戻した自分の声は見事に掠れていた。暖房のせいにしておく。
酔っ払いへの水のサービスは通常営業の範囲である。後輩君達に比べれば大して酔っているようには見えないが、一応飲ませておく方が良いだろう。コンソールボックスにビニール袋ごと突っ込んでいたペットボトルをガサガサと取り出してやると、ぬるちゃんが小首を傾げた。
「……飲みかけ?」
「客に飲みかけ渡すかいなあほんだら、新品(さらぴん)や」
くそっ、おちょくりよって。思わず飛び出た言葉は息継ぎもなく、わたしの心があまりにも容易く揺らがされている事実を認めたくない。平常心を取り戻すために深呼吸。
ふは、とぬるちゃんが笑った。
「何やしょーもな」
や、お前回し飲みとか気にせんやん。
幻聴である。確かに学生の頃は回し飲みなど茶飯事で、授業の合間にわたしが飲んでいたペットボトルを奪って飲んでいたような男なので、違和感は遠く旅立ってしまっているのだが。
「ほんならいただきます……いや、簓ピン芸人に新品(さらぴん)か!」
「飲んではよ寝え」
「そない勿体ないことせえへんわ!」
こいつ、こん言葉選び、わざとやな。
思わせ振り大魔神は隣席でにこにこと、わたしをオモチャにして大変楽しそうで何よりである。ただの水を美味しそうに飲んでくれはってどうもおおきに、えらい賑やかでよろしおすなと言ってやると、似非キョウト人は滅されるぞと脅される。
「喧し、死ねどす」
「そのネタずっこいわ! あかん許さん」
「はいはい悪うござんした、水飲んで目ぇ閉じなはれ。ちゃんと後で起こしたるから」
いや、もう目ぇ閉じとるか、と無意識に言ってしまい、どちゃくそ加減された肩パンを食らう。
阿呆みたいな言葉のドッジボールを続けようとも、安全運転に微塵も影響が出ない自分の腕を褒めてやりたい。誰も褒めてくれへんし。
助手席で腹筋を鍛えていたぬるちゃんが、目尻に浮かんだ涙を拭っている。笑い過ぎて泣くとかほんまもう、こん男は。
「はー……学生の頃思い出すなあ」
せやな、と相槌を打ってやれば良いのだろうが、はしゃぎすぎた自分を客観視出来るようになったわたしは、今度こそ貝になった。
ぬるちゃんの距離の詰め方は波のようである。近付いたと見せかけてすぐ遠ざかる。大して間もなくまた傍に来て、こちらが手を伸ばすと逃げていく。鼬ごっこに興じている場合ではない。お互いのためにならないと分かっていて、愚行を繰り返す訳にもいくまい。仕事に戻るんや自分。
「自分の運転めっちゃええな」
「……そら商売なんで」
「安心感がちゃうねんって」
いや、あんたが褒めてくれるんかい。
ただ運転技術を褒められているだけなのに、動揺する自分があまりにも滑稽で、もう仕事なんざほっぽってさっさと気絶したい。
幹線沿いに二十四時間営業の店舗の群れが見える。ぬるちゃんに見せられた住所を思い出しながらハンドルを切る。煌々と輝くドライブスルーの文字。安っぽいイルミネーションの並木道。
「……懐かしなあ、ようマクドで勉強したなあ」
「自分は青チャートも持ってこんくせに、わたしのばっか見てなあ」
わたしは病気なんか? 言うてる矢先に話しかけられてするする返事しとる場合ちゃうぞ阿呆か。自分に絶望する。何も信じられん。
高校の近くのマクドの、最奥の二人席を占領して勉強してたあの頃が一番幸せやったんやろなあ、と思う。少し先の未来のため、ただ我武者羅に勉強していれば良かったあの頃が。
「何やかんや見してくれたん感謝してるで」
「あんたはいつも調子のええことばっか……」
容易く語尾にハート飛ばすんやめえや、死人出るねんぞ。と、言わないわたしは賢明である。自ら墓穴を掘り進めて、未来が明るい訳がない。
車体は無事に第一の目的地、指定されたコンビニの駐車場へと到着した。ぬるちゃんと共に後部座席の彼らの肩を揺すってやる。ぽやぽやと覚醒した後輩君達は、揃って寝惚け眼を擦りながらリュックを抱え、ふらふらよろよろと地面に降り立った。
めちゃくちゃ不安である。ちゃんとお家まで帰れるんやろか。
「水買うてくるからちょっと待っててや!」
ぬるちゃんは長い足でアスファルトを蹴り出して、颯爽とコンビニに飛び込んでしまった。ほんまに酔っ払いやったんか?
ふわふわ黒髪のA君の背中にきちんとリュックを装備してやり、わたしの肩を枕に首が折れるギリギリの瀬戸際で耐えて立っている黒髪おかっぱのB君には、脱げかけていたダウンをきちんと羽織らせてやる。
わたしが召使いに勤しんでいると、天下のお笑い芸人がビニール袋をガサガサ鳴らしてコンビニから飛び出してきた。野生のポケモンか。
「あーもう! 甘やかしたらあかん! ずっこい!」
鬼の形相(当社比)である。
「あんたの思考はどないなっとんねん……」
「しゃんしゃん起きる! 水飲んでさっさと帰れや!」
「あんたのその変わり様は一体何なん……」
「譲れへんもんがあるねや!」
「ほおか……」
もう好きにせい。
ぬるちゃんの控え目な怒声を浴びても夢現の後輩君達はサカイの出身らしく、風呂もないおんぼろの格安アパートを二人で借りているそうだ。下積み時代の芸人あるあるやなあと思いながら、へろへろの彼らが古びた扉の向こうに吸い込まれるまでを見送る。その先で倒れていないことを祈るばかりである。
「ほな、次俺ん家までよろしゅう」
「……どーぞお乗りください」
満足げに口の端を吊り上げているぬるちゃんは、リュックだけを後部座席に乗せて、自分は当然のように再び助手席に座った。ペットボトルの水をぐいぐい飲んで、わたしがアクセルを踏むのを待っている。
無邪気な振る舞いをさせたら天下一品のこの男と、同じ空間に留まり続けるのは賢明ではない。一刻も早く送り届けなければわたしの寿命はどんどん縮むので、早速右足のペダルに力を入れる。
「何やむしょーに食いたくなる時あるよな」
マクドのポテト。カリカリでしょっぱくて、身体に悪いんやろなあと思うんやけど、たまーにこう、身体がジャンクフードを欲するやんか? 分かるやろ?
せやな、と思う。口には出さない。アクセルは踏み込み過ぎないように加減して、ただ真っ直ぐ伸びる道路を見据える。わたしが返答しなくとも、ぬるちゃんにとっては大した問題ではない。一人遊びも上手な男なので、勝手に喋らせておけば良い。
我々はもう、マクドのバリューセットで何時間も粘って一つの机で勉強することはないのだ。
「なあ、おてて貸して。左」
やっぱり酔っ払いや。意味が分からん。
なあなあなあなあと発情期の猫みたいに鳴き続ける男の意図が読めるはずもなく、結局わたしが折れた。意味が分からん。唐突に何やねん。信号待ちで止まったところで、仕方なく、大人であるわたしは千歩譲って左手を横に差し出した。
「ちゃんと返してや」
「当たり前田の?」
「はいはいクラッカーな」
するりと白手袋が脱がされる。何なん、と言うと、しげしげと手を眺められてむず痒い。薄暗い車内ではよう見えんやろに、一体何を観察しとんのやろか。ぬるちゃんはマイペースにわたしの手をにぎにぎ揉み込んで、ほへーっと阿呆みたいな声を上げた。
「何なん、おててぬくぬくやん」
「は? 何、寒いんやったら暖房上げたろか」
「分かってへんなあ、これがええねんやんか」
ロショーもなあ、手えあったかいねん。
ぽつりと零された言葉には、温もりに縋るような悲痛の色が見え隠れしていた。わたしの左の指先は長い指に無理矢理に握り込まれ、手の甲はぬるちゃんの滑らかな頬に押し付けられた。頬の表面はさっき外に出たせいかひやりとしていたが、ぬるちゃんが強く押し付けるので、その奥の体温がじわじわと染みてくる。
ロショーとは、元芸人の相方の躑躅森さんのことだろう。二人の解散がワイドショーを賑わしたのは、随分前の話である。ただ、ぬるちゃんが負った傷が治っているかどうかなんて、わたしには分からない。
傷が癒えてへんから人肌恋しいんやろうか。はよ恋人作るなり風俗行くなりしたらええのに。
「信号変わるから手え返して」
「もーちょい」
「こら」
「頼むわ」
急に真面目な声出すなや。
わたしの手の甲で器用に表情を隠したぬるちゃんは、ほんまにずっこい男である。この先は暫く道なりに進むだけだと知っての暴挙だ。こいつとは絶対に将棋指したくない。
握り込まれていた指は、いつの間にか絡め取られて本格的に抜け出せない。酔っ払いに譲歩したわたしが悪いのだ。状況は最悪である。客に手荒な真似をする訳にもいかない。道が塞がってしまっていて鬱。
堪え切れずに遂に溜め息が出た。隣からも出た。何であんたが溜め息吐くんや、と言いかけたその時、僅かな振動音を鼓膜が拾う。
「んー……」
継続する振動の源は、ダッフルコートのポケットからのそのそと現れた。左手で画面を操作しているのを横目に、青信号を認めてアクセルを踏む。そういや左利きやったな。
左にスマホ、右にわたしの手を掲げ、両手で虫歯ポーズのようになっているのだが、それで良いのか白膠木簓。あまりにもぶりっこが過ぎるのでは?
「もしもし? ……あーうん、今タクシーやよ。もうちょいやわ」
真綿で包むような、柔らかい声。
「もう日付も変わってるしな、先寝とき。風邪引いたらかなんわ」
なあ、ぬるちゃん。
「寝不足は肌にも悪いで、な、もう帰るから」
わたしの手え返してくれ。ぬくぬくなんてとんでもない、この急激に冷えた指を、はよ。
「うん、おやすみい」
通話はあっさり切れた。どくどくと嫌な音を立てる心臓に、何でもない顔で酸素を送り込んでアクセルを踏む。左手はまだぬるちゃんの頬にくっついたままで、手首に力を込めても離れる気配が全くない。こいつは気が狂っとる。
最終目的地の住所が頭から吹っ飛ばなかったのは幸いだった。強張りそうな表情筋を押さえ付け、残り五分程度の旅路を営業用の笑顔を貼り付けて乗り切るだけである。
せやな、さっきまでのわたし、営業用やない笑顔やったんやな。
すぐ考えれば分かる可能性に蓋をして、見えない振りをしていただけのことである。涙腺が緩まなかったのは幸いだった。間抜けやなあ、今更傷付いてもなあと笑う己と、呆然としているだけの自分と、にこにこと仕事に励むわたしが脳内で大乱闘していようとも、ぬるちゃんに褒められた運転技能には微塵も影響が出ていないので、これは褒められても良いと思う。流石に。
何とか手を振り解こうと藻掻いたが、酔っ払いの力加減に敗北を味わう。無念。もうどうでもええ。仕方ないので車体を進めることに専念すれば、マンションの群れはすぐそこである。エントランスの傍で停止して、わたしは自分のためにあからさまな敵意を示さなければならない。
「お客さん、終点」
「えっ嫌やあ」
「知らんがな。お代はこちらにお願いします」
「はあい……」
会計盆を差し出すと、ぬるちゃんは漸くわたしの手を解放した。後部座席でじっとしていたリュックを引っ張り、ごそごそ引っかき回して革の長財布を取り出す姿を、回収した手袋を装着しながらただ眺める。
「ほい、おおきに」
会計盆ではなくわたしの手に直接諭吉をねじ込んでくる。無心でお釣りを返す。
ああ、何か見覚えのある財布やなと思ったら、遙か昔にわたしが誕生日プレゼントで渡した品である。黒の革に艶が増しているから、きちんと手入れされていたのだろう。
もう感情はグチャグチャや。早く気を失ってそのまま永眠したい。無理矢理に吊り上げた口の端はきっと引き攣っている。
なあ、わたしそんな悪いことしたんやろか。
「あーあ、デート終わってもた……」
「お客さん」
もう嫌や。阿呆みたいな言葉遊びを繰り返すぬるちゃんも自分も、何もかも。
「情緒の欠片くらい残しといてやもう!」
「お客さん……」
「いやちゃう、色っぽく言え言うとんちゃうねん」
「ちゃうの?」
「ちゃうよ?」
「何でちゃうん?」
「ほんま簓さん帰るの辞めるぞ」
「諦めんな、はよ帰れ」
無駄な抵抗の維持に努めている己を笑えもせん。
お札をなおして、ポケットに入れていた社用端末を取り出す。次の配車予約に視線を落とし、画面をオフにする。華の金曜日の夜は忙しい。こっからキタまで戻るのは大して時間もかからんから余裕はあるのだが、一刻も早くこの場を切り上げなければ、致命傷になるのは目に見えている。
見えとんのに。
「何でそない塩なん? もうちょい砂糖入れて……」
「ぬるちゃん」
「はい」
一縷の望みも残さんよう、終わりを告げてほしい。
「ほら砂糖入れたったで。お家帰り」
「か、帰るゥ……」
「うん、ええ子やな」
「やめてや好きになってまうやろ!」
悪手を打ち続けるわたしは、ここでおしまいや。
「はよ帰れ」
「余韻消さんで!」
わざわざ鼻声で縋ってくる姿も、自分にとって都合のええ夢みたいなもんや。
やっとシートベルトを外したぬるちゃんが、助手席からするりと抜け出る。わたしはずっと前を見ていた。それ以外に選択肢がなかった。負け犬は吠えるしかない。社会人は愛想良く笑顔を浮かべて、苦虫を噛み潰した現実なんか無視して、ただご利用の感謝の意を述べるだけである。
ドアの外から入ってくる空気はきんと冷たいが、残念ながら氷付けになるには足りない。
きっと、扉の向こうで腰を屈めてひらひらと手を振っている。顔なんか絶対見たらへん。歯を食いしばって、サイドブレーキに手を伸ばす。
太陽は直視出来へんのやから。
「ほな、またね」
二度と会えへんわ。