『せんぱあい、ぬるさらのサインか写真まだですかあ』

 午前三時、コールセンター嬢の不貞腐れた声で肩身が狭い。針で延々に臓腑を刺されている気分である。聞きたあないと耳を塞ごうが、この狭い車内に逃げ場などない。次の配車予約まで僅かに与えられた休憩時間が、まだ十五分も残っているのが恐ろしい。
 前回、不本意ながら乗客となったあの酔っ払いをさっさと丸め込んで、写真の一枚や二枚でも撮っといたら良かった。スマホを向ければピースサインぐらい作ってくれたかもしれん。あ、いや芸能人やからそない簡単に写真は撮らせへんのか? 知らんけど。
 兎に角、もう二度と会ってなるものか。自分で傷口を広げに特攻する愚か者ではない。

「サインの代替受領及び写真撮影のサービスに係る受付は現在行っておりません」
『ほほーん? 先輩、約束破りはるんですかあ?』

 誰や、可愛い後輩に恫喝技術仕込みよって。まあ仕込んだんわたしやけど。こわーいお客さんに負けへんようにと全力で指導したんが間違いやった。許してほしい。

「期待しないようにと念押しいたしました」
『めちゃくちゃ仕事頑張ったんにい! 先輩のいけずう!』

 後輩は地の底を這うような溜め息を落とし、わたしへの怨念の意をつらつらと並べ立て始める。こんなに根に持つ子やったんか、知りたあなかった。ギリギリと振り絞るように痛み始めた胃を手で押さえる。
 そう、非常に情けないことに、わたしは一丁前に傷付いているらしかった。油断しとったら抜き身の剃刀を思い切り握り締めてしもたような有様である。薄皮一枚の犠牲なんか全くの夢物語で、ざっくりと裂けた肉を改めて見て自分でもドン引くような。割かし血塗れ。中傷。撤退します。
 お笑いの相方失って傷が癒えてへんくて人肌恋しいなんざ戯れ言も甚だしい。あの男は自分が生きていくのに必要なものをきちんと理解している。ほんのちょこっとだけ体重を預けられるような、そういう存在を上手いこと見付けるのが頗る得意な奴やから。
 中毒性がございます、用法用量お守りください。
 そんなキャッチフレーズがここまでどんぴしゃに当て嵌まるのも末恐ろしい。学生の時に散々ラッド聴かせたわたしが悪いんか? こちとらちゃんとアジカンもバンプもエルレもベボベも聴かせとったわ。時をかけてあの頃のわたしを殺しに行ったらそれで済むのんか?

『ねえねえ先輩? ええこと教えてあげましょか』

 悪魔か魔女の囁きか、呪詛を吐き終えた途端に芝居がかりな明るい声を出し始めた後輩に、ただただ怯えて震える先輩の図である。温度差で鼻水が出た。グローブボックスに入れっぱにしていた箱ティッシュから一枚むんずと引き抜き、垂れ流す前に処置しておく。
 勝手に他人のウォークマンで音楽を聴いていた学ラン姿のぬるちゃんを脳裏に思い浮かべて現実逃避している場合ではない。あの頃のぬるちゃんはただ純粋に可愛かったのになあ。
 思い出は美化されるものである。頭を振って幻想を蹴散らす。

「ええことやった試しがない、却下」
『おっほん、では発表しまーす!』
「無視かい」

 間違いなく報復されている。

『なんと! 天下のお笑い芸人白膠木簓さんから! 一週間分の配車予約いただきましたあ! 運転手はぜーんぶ! 先輩をご指名です!』

 何て?

「……今まで楽しい職場でしたドウモアリガトウ」
『退職届は私が破り捨てますんで! ぬるさらのサインか写真お待ちしてます!』
「いや嘘やろ……」

 わたしの育てた後輩があまりにも強かで、どん底に叩き付けられたことによる嘆きを零したと同時、ポケットに入れていた社用端末が震えた。メッセージアプリに新着一件。
 嫌な予感は背中をひたすら走り回っているが、無視する訳にもいかない。通知をタップすれば、見慣れたシフト表が出現した。
 シフト表の最上部にでかでかとゴシック体が踊っている。『白膠木簓様専属運転手ご契約おめでとうございます』見透かしたような後輩の読み上げに更に白目を剥いた。
 いや本人了承してへんのに弊社も勝手に契約すんなや。

『事務所通して予約してはるんで断られへんですよお』

 顔を見なくとも分かる、コールセンターで満面の笑みを浮かべる嬢。
 死刑宣告である。
 しかも予約は本日の早朝からである。指定された時刻は午前四時四十五分。なあんの面白みもない冗談を奥歯で擂り潰して、それから三件の送迎を終え、最終目標地点まで健気に車を走らせている。胃が痛い。
 泣けど喚けど、車体は問題なく白膠木簓在住のどでかいマンションの前に到着してしまった。腕時計に視線を落とす。予約時刻五分前。わたしがまた刺されるまで三百秒。儚い命である。
 あいつほんま正気なんか、と悪態が舌に纏わり付いた辺りで、予約時刻に到達するまでもなく、車の窓ガラスを軽くノックする音を耳が拾った。
 窓の外、曲げた指の節を助手席の窓に当て、一見無害そうな人懐っこい笑みを浮かべている。
 猶予もクソもない。視線で後部座席を指し示すも、男は勝手に助手席の扉を開けて乗り込んできた。

「おはようさん!」

 太陽も昇り切らぬ夜更けに全くそぐわない、ウルトラハッピーご機嫌丸のご登場である。
 こいつこないだのこと何も覚えてへんサイコパスなんか? 犯罪係数測定したろか? まあわたしは係数オーバー三百の執行対象、銃口を向けられたらしまいには血溜まりしか残らん代物やろけどな。
 颯爽と後部座席のシートに黒のリュックとダッフルコートを投げ込んで、にこにこにこにことまあ飽きもせず元気そうなぬるちゃんは、遠足の送迎中の小学生みたいな忙しない手付きでシートベルトを締め、被っていたニット帽を膝の上に乗せ、車が動き出すのを待っている。

「お客さん、助手席やなくて後ろ乗って」
「えー? 簓さんこっちがええなあ」

 振り回される方が阿呆なんや。その台詞を言ったのは、はていつの自分だったか。
 アラサーの駄々っ子を宥めようとするだけ時間の無駄である。わたしは潔く諦めて、タクシードライバーの皮を念入りに被り直した。作戦変更。

「……分かりました。それではロケ先に到着するまでどーぞごゆっくりお眠りください」
「はあ何? 急にビジネスっぽい振る舞いやん」
「お気になさらず」

 あんたもビジネスで利用してんねんから大人しくしとれや、とビジネス故に口にできない。皮肉なことである。
 大人であるので言葉は慎み、問答無用でアクセルを踏み込み、地獄の旅路が始まった。ロケ地までは車で約一時間、関西の奥屋敷の温泉街である。正月の特番用の撮影だろう。
 この時間に高速バスは走っていないものの、電車の始発でもギリギリ間に合うのにわざわざタクシーを使うということは、乗り換えで寝過ごす可能性を考慮してか。それとも金の有効活用か。経済回して偉いなあ。

「せんせー、寝ろ言うたかてー、眠ないのに寝られませーん」

 誰が先生や。やっぱこいつ小学生やわ。はよお母さんが遠足先に連れてったるからな。寝とけ。目的地まで今後一切喋んな。
 を、めちゃくちゃ丁寧に過重にオブラートに包み、わたしは愛想良く口の端を吊り上げる。この歳で感情に振り回されて仕事ができん輩に見られるのは流石にキツいし。これ仕事やし。

「目え閉じとくだけでも十分ですから。疲れてはるでしょ」
「労わってくれてるんは分かったけどなあ、今更敬語て」

 可笑しいてかなんわ、と言う割に彼の声は笑っていない。
 ───何や、怒っとる?
 しかし、ただの勘である。運転に集中したいので、わざわざその表情を窺う真似はしない。
 別にお客さんを不機嫌にさせたい訳ではない。なんせこれから一週間も彼の送迎の任務を賜っている身だ、なるべく当たり障りなく、今後のご利用は別の運転手に引き継げるように、しかし会社の売上を減らすような真似はするまい。どのみち腹を括るしかない。

「……分かった、敬語はやめたるから、とりあえずはよ寝え」
「ええっおもんな!」
「ええから寝え」

 頬をぷっくり膨らませて抗議するアラサーの男という字面では結構キツい現状だが、ぬるちゃんの振る舞いには全く違和感がなく、それが白膠木簓という人間であるからこそ成立する事象なのか、わたしの感覚が麻痺しているのか、考えても結論が出なかった。
 まだ外は暗く、街灯と信号機の色がよく目立つ。いつやったか、ちょっとでも明るいと眠れへんとぼやいていたのをぼんやりと思い出す。せや、仮眠用のアイマスク、車に入れっぱやわ。これは使えるんとちゃうか。
 ハンドルを操作したまま、片手をグローブボックスに伸ばすと、ぬるちゃんの膝が跳ねた。別に足触ろうとか微塵も思ってへんから。自意識過剰か。
 ……いや、芸能人というだけで、無闇矢鱈と一般人にべたべた触られることもあるんかもしれん。配慮が足らんかった。一言何か言うといたら良かったと思えどもう遅い。胸の内だけで謝っておく。
 しゃーないのでそのままボックスを開けて、巾着袋を取り出す。中身は至って普通の黒のアイマスクである。

「洗ったばっかで使うてへん奴。好きにしい」

 あとの判断はお任せや。ぬるちゃんの膝に横たわっているニット帽の上にそれをぽとりと落として、わたしは両手でハンドルを握り直す。信号がもうじき変わりそうだったので、緩やかにブレーキに足を掛ける。
 彼はそっと巾着の口を指先で開いてアイマスクの姿を認めると、固まってしもうた。意外に潔癖っぽいところがあるから、例え洗ってあると言えども他人のアイマスクなんか嫌なんかもしれん。まあ嫌ならニット帽を目深に被って寝たらええだけのことである。こっちは強制してへんし。
 要らんねやったら邪魔やろからなおすけど、と言いかけた時だった。

「…………ありがとお」

 囁くような声が零された。思わず横目で見るも、俯いていたので表情は知り得ない。ぬるちゃんはそのままいそいそと座席を緩やかに倒して、アイマスクを装着し、はあ、と溜め息を吐いた。
 ほれみい、やっぱ疲れとるんやん。喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、わたしはただアクセルを静かに踏む。
 やっと素直になったんやから、そっとしといたろ。それが正解やろ。




 そうして滞りなく目的地の駐車場に到着した。同時刻に数台のタクシーが敷地内に入ってくる。中には見知った顔の運転手もいて、片手を上げて無言の挨拶を返しておく。
 さて、隣の男は寝た振りか、熟睡か。どっちでもええけど。
 喋ってへん時のぬるちゃんは普段の姿からは信じられんほど静穏で、ちゃんと息してるんか時々心配になった。狭い車内で寝返りを打つ訳でもなく、仰向けに腕を組んでぴくりともせんのやから、顔色の良い死体を運んでいるような錯覚があった。
 ほんで、どう起こそか。
 エンジンを切りながら選択肢を数え上げる。普通に声掛け、肩を叩く、アイマスクを剥ぎ取る、スマホのアラームを鳴らす……よし、無難にアラームにしたろ。私用のスマホを取り出して、一分後に鳴るように設定する。音はめんどくさいから普段使っているオルゴール系の初期プリセットである。何しか音が出たらそれでええやろ。
 支払いは最終日に一括で請求することになっているので、今日は会計盆の出番はない。わたしはこっから帰宅して一日休み、次の夜にはまたぬるちゃんのお迎えに戻ってくる予定である。帰って何食べよかな、とぼやぼや思考を飛ばしていると、手にしたスマホから軽やかな旋律が流れ出る。
 ちゃんと起きるんやろか、音量じわじわ上げた方がええんかな、と横目で見た瞬間だった。

「んへっ遅刻!? グエッ」

 予想に反して飛び起きたぬるちゃんが、シートベルトに阻まれて死にそうになっていた。いやそんなベタな、と零れ出そうな笑いを慌てて噛み殺す。寝起きまで完璧に芸人さんとは、売れっ子は流石やで。
 いや、笑っとる場合ではなかった。先に外しといたったら良かったと流石に罪悪感を覚えながら、座席に全体重を預けたまま瀕死の彼には触れず、腰元のシートベルトのバックルに手を伸ばす。

「ごめん、そない飛び上がると思てへんかった」
「え、ああ、うん……」

 珍しく歯切れの悪い返事である。ベルトから解放されたぬるちゃんは、座席をゆっくり元の位置に戻して、胸元に手を当てている。

「ほんまめっちゃビックリしたあ、俺の目覚ましとおんなじ音鳴るから……」

 ほんまに二度寝して遅刻したんか思た、心臓に悪いわあ。アイマスクを握り締めて窓に頭をゴンとぶつけて、彼は細く長く息を吐いた。アラーム音がおんなじやとは、こっちも驚いた。全くの偶然である。ちょっと可哀想なことしてもたなと反省しながら、スマホをポケットに仕舞う。

「シートベルトで首とか擦ってへん? 大丈夫?」
「ん、ああ、平気や……」

 はっとしてアイマスクを返却してきたぬるちゃんは、暫くぽけっと間抜けに口を開けていたが、それにも飽きたのか、大袈裟に首を捻った。

「……何や、心配してくれたん」
「阿呆か当たり前やろ。怪我さしたらえらいことやんか」

 同級生とは言え、世間が認める芸能人である。「温泉ロケやろ? ほんまに怪我ない?」むくむくと膨らんでくる罪悪感から、わたしの口は余計に回った。対してぬるちゃんの口許は引き結ばれ、唐突に沈黙が落ちてきた。

「……ずっこいなあ」
「は? 兎に角ごめんな。ほら、はよせな間に合わんくなるで」
「うん」

 後部座席に投げ込まれたリュックとコートを回収したらんと。のそのそと助手席から這い出るぬるちゃんよりも早く後ろのドアを開け、荷物を取り出す。まだ寝惚けとんのか、彼のニット帽を被る動きも緩慢なままである。
 こんなんでロケに挑んで大丈夫なんか、と少々不安になるが、オンオフの切り替えはきちんとするタイプであることは知っている。彼の肩にコートを引っ掛けてやると、もぞもぞと袖に腕を通した。続いてリュックの肩紐を差し出すと、長い指がそれをしっかり掴んだ。

「本日もご安全に」
「……んー……」

 まだスイッチが入らんらしい。車酔いでもしたか、体調悪いんかといよいよ心配になって、思わずニット帽の下を覗き込もうとすると、リュックをきちんと背負ったぬるちゃんの両手が、わたしの肩を鷲掴みにした。
 顔を上げると、そこには見慣れた白膠木簓が立っていた。

「ほな! 行ってきます!」
「はあ、行ってらっしゃい」
「ウエッ」

 芸人・白膠木簓の営業用の笑顔は一瞬で崩れた。
 両肩の手が離れる気配がない。それどころか力が強まっているような気すらする。更にハムスターみたいに震え始めた。こない力の強い小動物は詐欺や。
 何やねん呻きよって。反射で返してしもたわたしが悪いんやろけど。気に食わん返答やったなら、聞かんかったことにしてさっさと集合場所に向かえばええのに、ネイビーのニューバランスは駐車場の砂利に縫い付けられているのか、一歩も動く様子がない。
 いや何? そんでその真顔も何? しかも震えとるけど何なん、どないしたん。冷えたんやったらはよお手洗い行ってきいや。
 脳内ではなんぼでも口が回るのに、現実の肉体は混乱したまま、ぬるちゃんの反応をぼけっと待っている。

「も、もっかい言うて……」

 三十秒も待ってやっとこ出てきた言葉に、脱力した。
 阿呆ちゃうか。誰が? わたしが。

「ほんま遅刻するで」
「頼むからあ!」
「はいはい行ってらっしゃい気ぃ付けて」
「おん! 簓さん頑張ってくるで!」

 急激にいつもの調子を取り戻した白膠木簓は、遠足に向かっているのを思い出した小学生みたいに嬉しそうに、軽やかな足取りで去っていった。
 わたしは運転席に戻り、ハンドルに額をくっつけて脱力した。
 ほんまに阿呆や。傷口化膿しとるがな。消毒液で何とかなるんか? はよ病院行った方がええわ。素人の治療なんて目も当てられん。
 ぬるま湯やと思ったら温泉も超えて熱湯に向かってアクセルを踏み込んでいた事実に、鉛色の息を吐く。残りの一週間、わたしは無事に生き残れるんやろか。太陽に近付きすぎてどろどろに溶けた己が想像できてまう。あかんわ。
 今更逃げる道もなく、血の気が引いた顔のまま帰路を辿る。僅かでも残り香を掻き消すために窓を全開にして走ったら、寒さでくしゃみが止まらんくなった。不本意ながら窓を閉める。
 クソ、ほんま許さん。

03|方円の害毒

200726
prevnext