なんぼ間違えてもどうにかなると信じてた学生の頃の自分は、無謀やけど今より確かに防御力はあった。
 今となっては紙のような防御力しか残っていないわたしは、溜め息交じりに職場から支給されている端末に指を滑らせるしかなかった。何度見返したところで今週のシフトが更新されることはなく、本人の意思を蔑ろにしたスケジュールが、でかでかとこれ見よがしに座り込んでいるばかりである。
 ロケの終了は十七時と聞いていた。シフト表に刻まれた数字もそうだ。共演者さんやスタッフさんと番組の打ち上げに行くのであれば、そのお迎えの時間帯を教えてくれたらええのに。

「やー、あんま集団で店行くんもな」

 送迎対象者からは曖昧な答えを返されて終わった。多分、仕事に絡む有益な話が出そうな打ち上げであれば顔を出すのだろう。今回はそれほどでもないか、単に忙しいから体力の温存を考えているのかもしれん。知らんけど。
 十七時十分。真冬の夕方に既に夕焼けの色はなく、ぽつぽつと現れた外灯が、駐車場に敷き詰められた砂利を鈍く照らしている。周囲を歩く人の顔をはっきりと識別できる時間帯は既に過ぎていた。
 車のナンバーを伝えてはいたものの、周囲にタクシーがわんさか駐在している状況である。果たしてあの男は無事にこの車を見付け出せるのか、と思ったところで、本契約相手方の甲・白膠木簓氏は、両手に何やら大きな紙袋を提げて颯爽とわたしの目の前に現れた。
 反射で助手席の扉を開けてしまい、内心舌打ちする。完璧に毒されとるやんけ。

「ほい、お土産!」

 歯噛みするこちらの内情など一切勘ぐろうとしない男は、助手席に乗り込んでくるなり、ずいと目の前に一つの紙袋を突き付けてくる。
 どうやら運転手への労いの品だったようだ。つい受け取ってしまったそれは、土産物にしては随分と重さがあった。

「気ぃ遣わんでええのに」
「やーめっちゃええ湯やったで! 美味しいもんもいっぱいあったし! 食べ歩きロケもサイコーやった!」

 人の話全然聞かんやんけ。
 行きしなと同じようにダッフルコートと黒のリュックを後部座席に軽やかに投げ込んで、もう一つの紙袋を膝に、今にも花が舞いそうな笑みを浮かべている。百点満点の愛嬌が逆に怖い。今カメラ回ってへんで。

「それな、炭酸せんべいやろ、サイダーやろ、クッキーやろ、あと最近流行っとるらしいロールケーキもあるからな!」
「またぎょうさん……」
「全部ちゃーんと食べてきたからな! 味は簓さんの保証済みや!」

 どや! 簓さんの専属運転手はこないええこともあるねんぞ!
 指折り数えて羅列された手土産と、取って付けたような売り文句といつものドヤ顔に、自然と毒気を抜かれてしまった。不可抗力である。
 色んなもんを有耶無耶にするんがめっちゃ上手やから、この男。

「まあ、貰えるもんは貰とくわ。ありがとう」
「んへへ」

 学生の頃から食べ歩きが好きな奴やったけど、今でも全然変わっとらんらしい。
 しかしまあ、その細こい身体によくもまあぎょうさん入ったなあ、と思わず零せば「自分が言うと何で下ネタみたく聞こえるんやろ……」「あんたの穢れた耳をわたしのせいにせんといてくれる」「えっ暴言」飛び交うしょーもない会話も、学生の頃と寸分違わずで始末に負えん。
 ひとまず、事務所に着いたらロールケーキは冷蔵庫に入れといたろ。事務の姉さん達は甘い物なんか見たら一目散に飛び付くやろし、運転手の先輩も甘党が多い。残りは給湯室の机に置いといたらええ。
 お客さんが気を遣って差し入れをくれはるんは、珍しくない。これもその一種や。特別な要素なんていっこもあらへん。

「シートベルト締めや」
「はーい」

 遠足帰りでご機嫌な小学生に釘を忘れずに刺して、わたしは一度車を降りた。後部座席の扉を開け、運転座席のヘッドレストフックに紙袋の持ち手をそっと引っ掛ける。紙袋のマチが後部座席との空間に絶妙にハマったので、これならロールケーキが崩れる可能性は低いだろう。
 ぬるちゃんはお行儀の良い子犬の佇まいのまま、わたしが運転座席に戻ってくるのをしっぽを振って待っている。膝の上の紙袋を手放す様子は、ない。

「そっちの紙袋、割れもんとか生もん入ってんの?」
「や、常温でいける奴ばっかや。……何や、気ィ遣わせたか?」

 自分用か、自宅で待つ恋人に渡すものなのか。問い詰めて傷を負うのはわたしだけや。

「別に、ずっと膝の上やと重いんちゃうかと思ただけ。引っ掛けるとこ、そっちの座席の後ろにもあるけど」
「ほんま? ほんなら、掛けさしてもらおかな」

 座ったままのぬるちゃんが、にゅっと腕を伸ばしてくる。紙袋を受け取ると、さっきのそれより断然軽い。難なくフックに紙袋の持ち手を引っ掛けてやると「ありがとお」彼が小さく頭を下げた。
 些細なことでも、彼はきちんと感謝の言葉を述べる。ほんまに全然変わらんなあ、と学生時代の自分が感慨深げに脳内で喋り始めてしまったのを無視して、座席に戻ってハンドルを握った。

「……ええよ、これくらい」

 通常サービスの範囲やのに、わたしの喉から出たのは営業用のそれとは似ても似つかん生ぬるい温度に寄っていて、早速全てが嫌になる。お礼言われただけで何なん。
 顔を顰めそうになるわたしとは反対に、ぬるちゃんは暖房でぬくもった車内で満足げな吐息を零した。
 もしかしたら、寒空の下でタクシーを探し回って冷えたんかもしれん。泊まりのロケで温泉に入ったと言えども、それなりに疲れてるやろ。さっさと高速道路に乗って帰したらんと。
 緩やかにアクセルを踏み、砂利道を抜け出す。僅かに生まれた沈黙を破ったのは、やはり彼だった。

「なあ、帰りどっかで晩ご飯食べたいねんけど」
「どの辺で?」

 暫くは下道を走ることになるが、高速道路に乗ってしまってから引き返すのはご遠慮願いたい。こっち方面の土地勘はないので、ぬるちゃんがいそいそと操作しているスマホが頼りである。
 丁度赤信号に引っ掛かったところで、彼はずいずいと発光する画面をこちらに差し出してきた。

「目星付けといてん! 候補三つ!」
「いや一つに絞ってくれるか」
「自分に決めてもらお思て」

 いや何で。

「何でて。奢りやで? 簓さんの」
「マジで?」

 ぬるちゃんが不思議そうに首を傾げよるので、更に思考が混線する。

「ほれ、はよ選んで! 信号変わってまう!」

 急かされて渋々覗き込んだ画面の中、スワイプして出てくる候補はどれも温泉街からは離れていた────というか、全部オオサカのお好み焼き屋である。
 ナンバの老舗、フクシマの飲み屋街の中、あと一軒はテンマバシ……わたしの職場の事務所から歩いて行ける距離にあるけど、知らん店や。ナンバとフクシマの店は行ったことがある。新規開拓の意図が透けて見えていたが、素直に乗っかってやるのも何か癪に障る。
 と思いつつも、わたしはいつも己の好奇心を殺し切れない。
 悪癖の自覚はあった。治らんから悪癖なのである。

「ほなテンマバシ……いや、そもそもなんでわたしが同席せなあかんの」
「ええやん、いっぺん車置いてからでもじゅーぶん時間あるし、な?」

 冷静になった喉の出口まで、もう言葉が迫り上がってきている。
 ────なあ、あんた他に恋人おるんに、他所の女と一緒にご飯行ってええんか。
 それ以前に、一応テレビに出てるような芸人さんやぞ。わざわざ番組の共演者やスタッフとのご飯を蹴って、わたしと一緒に食卓を囲むだけの理由がどないやっても見当たらん。
 困惑する顔を見せれば付け込まれる。妖怪か。

「……ほんまにあかん?」

 ほれみい、一瞬でも時間与えたらこうや。叱られた子犬みたいな顔でこちらの顔色を窺ってくるから質が悪い。勘弁せい。その顔に勝てる奴、多分世界中回らんと見付からん。
 耐えきれずに視線を信号機へと戻す。遊んでいる場合ではない。フロントミラーの中の自分の顔は見事に引き攣っていたが、ぬるちゃんが気にした様子はない。都合の悪いもんは何も見えん振り、ほんま昔から変わっとらん。

「ひとりで飯食べるより一緒に食べた方が美味しいやん! なあ~頼むわ~お願いやって~」

 くそ、先に退路へ回り込まれた。一般人に対して必死に拝むなや。
 しゃーないので渋々アクセルを踏む。流されていることを自覚しているだけマシということにしといてほしい。

「……今回だけやで」

 返答は掠れた。苦虫を数十匹噛み潰しているので当然である。
 てっきりはしゃいだ声が湧き上がるかと思ったが、意外にも隣の反応は薄い。横目で見やると、ぽけっと口を開けて固まっているぬるちゃんの姿があった。
 意味分からん反応や。無視。運転に集中しよ。
 決意を胸にハンドルを捌いていると、うや~だかふや~だか、よう分からん呻き声を上げてぬるちゃんが俯いてもじもじしていた。

「……なんや急に優しくされたら心臓に悪いな……」
「今すぐ急ブレーキ踏んだろか?」
「俺の蚤の心臓が死んでまうやろ!」

 喧しわ。こんなんで簡単に心底嬉しそうな顔すな。




 事務所に戻るんやったら、後輩のコールセンター嬢に会わせたったらええんや。気付いたわたしは天才か。
 後々から取り付けた交換条件にも関わらず、ぬるちゃんは満面の笑みで「そんなん断る訳あらへんやん!」即答した。ここ数日の間で初めて彼に感謝した。
 これで後輩ちゃんから課せられた任務は無事に完遂である。ファンを大事にする芸人でほんまに良かった。
 事務所のフロントの自動扉を潜り、ぬるちゃんはわたしの後ろに待機させておく。お口チャックもちゃんと遵守しとる。やればできるんやんけ。最初からそうしといてくれんか。

「戻りましたァ」
「先輩! お疲れさまで、」

 いつものように後輩がコールセンター室からひょこっと顔を出した。彼女は戻ってきた社員ひとりひとりに労いの声をかける素晴らしい後輩で、その屈託のない笑顔に浄化されている運転手は数多存在する。
 嬢は何となしにわたしの後ろを見て、言葉どおりキュウリを見た猫のようにその場で飛び上がった。

「え、え、な、なん! ぬ!? うええ!?」

 混乱は上々、まともな言葉も出てこんらしい。推しを目の前にすれば人類みなそんなもんである。
 予想どおりの反応に頬が緩みそうになった途端、嬢は秒速五キロでこちらに飛びかかってきた。華奢な指十本がわたしの肩に容赦なく食い込む。

「痛い痛い血ぃ出るやめて」
「む、むり! なに! せんぱい! これなんですか!」
「ご所望の品や」
「やって! ぬ! ぬ!」
「言うてた後輩ちゃん?」

 こちらの応酬に割り込んで小首を傾げてみせた白膠木簓の姿に、荒ぶっていた後輩がひっと短く息を呑んで固まった。
 営業用のぶりっこマシマシやんけ。テレビ越しの芸人・白膠木簓像より随分とあざとい。多分。
 まあ仮にもファンの前で不躾な指摘をする必要はない。わたしは骨を圧迫してくる細い指を丁寧に引き剥がし、任務を淡々と遂行するのみである。

「折角やからサインしたってえや」

 デスクのペン立てに刺さっていた油性マーカーを引き抜く。この子ずーっと心待ちにしとったんやと報告すると、後輩ちゃんのほっぺたはもう真っ赤っかで、大きな目は真ん丸で、訳も分からず呻きながらわたしを殴ってくる。
 二の腕が痛い。理不尽や。割と本気で殴られている。

「ええよォ、どこ書こ?」
「アワワワワ」

 混乱の極みに立たされた嬢は、慌ててわたしを殴るのを中止し、手元のメモ帳────あかんもう残りページないしぬるさらのサインを貰うにはお粗末過ぎる────を机に放り投げ、コールセンターの制服のポケットに手を突っ込み、出てきたスマホケース────あかん傷だらけでそろそろ買い替えよと思てた奴や────を悲しそうにポケットに戻し、やっと思い至ったか自分のデスクに飛んでいき、引き出しの中を引っ掻き回し始めた。
 青痣になっていないか心配になる二の腕を擦りながら、わたしは後輩からそっと距離を取り、紙袋を手に給湯室に向かう。こちらに意識が向く前にやることはやっとかんと。
 冷蔵庫の中には十分な空席があったので、ロールケーキ殿を刺激しないようにそっと鎮座させた。付箋でも貼っとくか、と事務の姉さんから拝領し、ペンを走らせる。「白膠木簓様からの差し入れです。ご自由にどうぞ」過不足なし。ケーキの外箱の正面にぺとりと貼り付けて、冷蔵庫の扉を閉める。
 ぬるちゃんのフルネームをきちんと漢字で書けてしもたので、何か負けた気分になった。
 執務室に戻ると、後輩が途方に暮れた様子でわたしを見上げてくる。初めてのおつかいに失敗した幼子がそこにおった。

「せんぱぁい……」

 震える声が同情を誘う。サインを享受する媒体が見付からんのでこの世の終わりや、という顔をしている。

「色紙あったんちゃうの」

 事務の姉さんに視線を投げれば、心得たと言わんばかりに机の引き出しから目的物を掲げてくれはった。嬢はぴょんぴょこ飛び上がりながら「ウワー!」半泣きで姉さんに抱き着いた後、こちらに突進してくる。
 それがまた手加減を知らぬ速度であったため、わたしは後輩を受け止めたものの、下半身を机に強打する羽目になった。腰が死んだ。

「先輩、神!」
「ほな、シフト、融通してな……」
「私そないな権限ないんで!」

 痛みに呻く先輩など目に入らない嬢、めっちゃ強か。わたしが育てました。

「サイン! 何卒よろしくお願いいたします!」
「そない畏まらんでええよお」

 後輩ちゃんは緊張に震える手でぬるちゃんに色紙を手渡し、深々とお辞儀を披露した。最敬礼やんけ。うちの社長にもそない丁寧なお辞儀したことあるか?
 小さく笑いながら手馴れた様子で色紙にさらさらとマーカーを走らせる白膠木簓に、嬢の大きな瞳は釘付けになっている。
 こうして見ると彼は不思議と芸能人のようだ。いやそうなんやけど。

「ウワ~近くで見たら思たより背ぇ高いよぉ、シュッとしてはる、ホンモノやあ」
「ホンモノやよ~」
「アワワワワ」

 全部口からまろび出てることを失念している後輩である。
 瞬く間にサインを書き終えたぬるちゃんが嬢の顔を覗き込んだせいで、彼女は失神しそうになっていた。

「そない苛めたらんとって」
「かわええ子は苛めたなるやん。ほい、どーぞ!」

 踊るような声音のファンサービスに、色紙を受け取った彼女は完全に骨抜きになっている。果たしてわたしは善行を積んだのか悪徳を重ねたのか。いまいち判断に欠ける。
 なんやむかつく、と思ってから、何にむかついてんねやろ、と自問自答した。疲れてるんかもしらん。ここ暫くずっと夜勤やったのに、急に日勤というか白膠木簓専属運転手に任命されて、肉体が勤務時間に戸惑っているに違いない。
 後輩とぬるちゃんの応酬は楽しそうに跳ね上がり、小気味良いキャッチボールの姿をしていた。常にドッジボールなわたしとは大違いである。

「あんま喋るとおもんないのバレるで」
「あっ大丈夫です、ラジオで知ってます!」
「がーん! ファンの子にそんなん言われるとか!」
「ファンなので! 板の上ではサイッコーにキレキレやのに、不思議ですねえ」

 嬢が正気を取り戻した。白膠木簓に五百のダメージ。クリティカルヒット。

「ディスられた……」
「もっと言うたれ」
「オイコラ」

 あかん、本音が出た。
 しかし、ここで即座に「でもナマで白膠木さんの親父ギャグ聞けて嬉しいです!」と笑う嬢。飴と鞭。わたしが育てました。
 デスクの姉さん達がなまあたたかい目で後輩を見守っている。最年少の彼女の挙動はいつでも真綿で包んで大事にしておきたくなる性質のものなので。
 ぬるちゃんは朗らかな表情で「ええ職場やな」としみじみ呟いた。独り言の音量に返事をする必要もないかと思っていると、デスクの姉さんから追加の色紙を渡される。ああ、そういうことですか。
 サインの手練れである彼は、片眉を吊り上げた。左手でくるくるとマーカーを器用に回して、こちらのオーダーを待っている。

「着替えてくるわ。うちの事務所用にもサインしといて」
「合点承知の助~」

 ぬるちゃんのサインってなんぼで売れるんやろ、という疑問は飲み込んで、ロッカーへと向かった。




 事務所から徒歩十五分程度で辿り着いた店の前。一枚の貼り紙の端っこが、北風に吹かれてぺらぺらと捲れ上がっていた。

「待って、臨時休業やん!」
「ほんまや」

 二人してとんだ間抜けである。お好み焼きやとにおいが付くので、わざわざ仕事着のスーツから私服に着替えたというのに。
 今から電車に乗って移動するのはめんどくさいし、今日に限って大した変装もしてへんぬるちゃんが地下鉄なんか乗ってたら騒ぎになってまう。かと言って、今更こないしょーもないことで弊社のタクシーを呼び付けるのもどないやねんと思う。そもそも先に目的地を決めやな。
 店主さんの手書きと思しき貼り紙をあらゆる角度から覗き込むアラサー男は「ええんそない殺生なことあるう?」どうにも諦められんのか、その場を彷徨くばかりである。

「どないしよお、俺のお口はもうお好みしか受け付けんのやけど!」
「臨時休業はしゃーないやろ。その辺のお好み屋さん探そや」
「いやまあそうなんやけどな? お好みでハズレの店探す方が難しいもんな」

 それはほんまにそう。
 私物のスマホを取り出し、マップアプリでお好み焼き屋の探索に入る。該当店舗のピンはひとつだけ、目前の店舗のことである。

「待って、この辺珍しく他にお好み屋さんないわ」
「嘘やん……ここオオサカやで……」

 打ちひしがれる彼の姿は哀れだが、どない頑張っても臨時休業は臨時休業である。先に電話かけといたら良かったなあと思いつつ、この辺の店で今から入れるとこ、と脳内で検索をかけた。

「……ぬるちゃん、ハンバーグ好き?」
「え、うん」
「丁度この辺、美味しいお店あるねんけど」
「よし、お好みは今度や。行こ」

 迷いのない声である。今度があるかは知らん。少なくともわたしは求めてない。
 嬉しそうに近寄ってくるのを手で制した。こうでもせんと、帰宅した飼い主を全力で出迎える子犬みたいに飛び付いてくる。彼もわたしの手で進みすぎた足を止めることには慣れていて、気にした素振りもない。いや、ちょっとは気にした方がええ。成人男子の自覚はあるんか。
 オススメ何、と聞かれ、わたしは迷うことなく声を返す。

「チーズハンバーグ」
「抗えへん単語が出てきてもた……」

 まあ、抗えんわな。肉汁滴るハンバーグの上に、どでかくバッテンを描く分厚めの、蕩けるチーズに勝てるというなら「急に食レポせんとって? 耐えられへんくなるやん」「知らん。頑張れ」「適当過ぎん?」随分と強い精神力の持ち主である証明になるだろう。知らんけど。
 吹き付ける風は随分冷たく、隣のぬるちゃんは見事に背中を丸めていた。何せもう十二月、冬真っ盛りである。肉付きの悪い身体には特に堪えるに違いない。

「こっからすぐなん?」
「そこのどんつき右、んでガッと行って次左曲がって……」
「真面目な顔して自分もちゃんと関西人やんなあ……」
「最近よう喧嘩売ってくるけど何なん」
「ちゃうもん! 学生の頃と全然変わらん自分ずっこいねんもん!」

 懲りずにタックルを仕掛けてくる白膠木簓、単純に危険である。慌てて避けると「何で避けるん!」意味の分からん怒りのアピールが待っていた。
 そんなん言うんやったら道聞かんとってくれるか。別にぬるちゃんを喜ばしたろうと思って言うた訳ではない。一ミリも。絶対ちゃう。
 とりあえず喧しい彼をいなしながらさくさく歩く。ビジネス街のど真ん中から、ほんの少し住宅街に寄った場所に目的地はあった。

「狭い店やから多分混んでると思う」
「ほな、ちゃっちゃと食べて帰らなあかん奴やな」

 明日は朝早いし丁度ええわ、とぬるちゃんが破顔する。どんな状況でも前向きな姿勢を失わないよう努めるところは、彼の眩しさであり良いところだと思う。本人には言わんけど。
 所謂パブバーに分類されるこの店は、店内が薄暗いせいでぱっと見ただけではどんな店なのかよく分からず、一歩踏み入れるには勇気が要るが、一度中に入ってしまえば何のことはない。
 店主さん手描きの看板の中央は、どどんと美味しそうなハンバーガーのイラストが陣取っている。ハンバーグの店やと勝手に思ってたけど、ハンバーガーがメインやったらしい。昼間に来た時は看板をちゃんと見やんと、空腹に任せて中に突撃していたせいで気付くのが遅れた。店長ごめん。
 重厚な扉を押すと、「いらっしゃあい」間延びした店長の緩い歓迎が降ってくる。大きな鉄板の上で他の客のハンバーグを焼いている最中で、じゅうじゅうと肉汁が跳ねる音が、サッカーのテレビ中継に混じって鼓膜を刺激する。
 一番奥、目立たない二人席に腰掛ける。壁に貼られた紙のメニューには、ハンバーグのトッピングが所狭しと書き込まれている。そうそう、お昼に来た時もどれにするかめっちゃ迷ったなあ。

「待って、チーズだけやなくてめちゃくちゃ色々あるやん……」

 こーゆーとこのハンバーガーって絶対美味しいやんか、と彼は怒濤のメニュー数を見て困った子犬のような顔をしていた。

「誘惑すんごいけど、自分のオススメやし俺はチーズにすんで!」
「ハンバーガー? ライスプレートにすんの?」
「あああまだその悩ましい選択肢が残っとったか……!」
「自分の胃袋に聞いてみ」
「ハンバーガーにする言うとるわ」
「すいませーん」
「塩対応!」

 他の客に皿をサーブする店長を呼び付け、注文を唱える。
 こーゆーしょーもない日々が永遠に続いたらええ。一番の望みは何でもない顔でお冷やと一緒に飲み込んだ。

04|可燃の痛点

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