今回だけ、と宣言していた自分は赤子の手を捻るように殺された。

「いざ! お好みリベンジや!」
「…………」

 朝のお迎え時に念入りに刺された釘は、本日全ての収録が終わった彼によって更に車内で執拗に刺しまくられ、最早頭も見えんくらいに深々と埋まっている。
 ぬるちゃんの好物がお好み焼きであることは昔から知っているが、ここまでしつこいのも珍しい。何の執念かと探ってしまえばうっかり別の釘も刺してきそうなので、わたしは大人しく白旗を掲げておくことにした。

「今日はな、もうお好みのためだけに仕事頑張っとってん! 自分へのご褒美っちゅーやつなんや!」

 その理屈を翳されると、反論する気持ちが木っ端微塵に砕かれてしまう。大変よく分かる。仕事を頑張った後に美味しいものを食べたいのは当然の欲望である。
 本日も走行距離を伸ばしまくった相棒を職場に戻し、更衣室でスーツを脱ぎ、私服に着替える。その間、ぬるちゃんはコールセンター嬢と暇潰しをしてくれているので、特に焦る必要もない。すぽんとニットを頭から被って乱れた髪を手櫛で整え、コートを羽織る。

「あっ先輩準備終わりはったみたいですよ」
「おー、ほな行こかあ」

 あれだけテンパっていた後輩がすっかりいつもの調子を取り戻していて、ぬるちゃんににこやかに手を振っている。妙に感慨深い。やっぱめっちゃ強か。わたしが育てました。
 後輩に妙になまあたかかい目で見送られ、外に出るやいなや、ぬるちゃんがくしゃみをぶちかました。と言っても、音量は引き絞られていたので大袈裟なのは動作だけである。
 十分稼いどるやろに、マフラーのひとつも持ってへんのか。そういや昔から首の装甲は薄かった気がする。しゃあないなあと口の中だけで悪態を吐いて、鞄の中に突っ込んでいたストールを首に巻いてやった。

「わ、めっちゃぬくい、ありがとお」
「寒がりのくせに、他人ばっかアテにしとったらあかんで」
「はあい」

 不要な反論が返ってくるかと思ったのに、意外にも素直な返事で驚かされた。
 ぬるちゃんは一度で覚えたらしき道順を迷うことなく辿った。今度こそ目的の店に臨時休業の紙が貼り付けられていないことを確認し、彼はがろがろと扉を横に滑らせ、颯爽と暖簾を潜る。
 足を踏み入れれば、鉄板の上を生地が跳ねる音と、嗅ぎ慣れたお好みソースのにおいが鼻腔を擽った。年季の入った小板のメニューが壁のあちこちにぶら下がっている。
 店の最奥、革張りのソファー席が空いていたので店員のおばちゃんに案内されるがままに腰を下ろす。彼はコートを脱ぎながら「よっこいしょういちまるのすけざえもん~」わざとらしい掛け声と共に、向かい側に座った。ストールはそのまま、ぬるちゃんのコートと一緒にハンガーに吊されている。
 しょーもないギャグ言うてもたらキャップとマスクの意味ないやろ。文句を言いたいのは山々だが、無駄な応酬はより目立つ。沈黙は金。物言わぬ貝は己を救う。
 すぐにお冷やの入ったグラスとおしぼりが卓上に置かれた。店員さんがしゃがみ込んで「飲みモンどないしましょ」とメニューを差し出してくれはった。
 檸檬サワー、カシオレ、ハイボール、あらごしみかん、鍛高譚と、特に脈絡なく彼の指が這う。

「そういや自分、お酒いけるんやっけ?」
「まあ普通やと思うけど」

 聞かれて、強いわけでもないが弱いわけでもないので、無難な返事に留める。
 ぬるちゃんと別れた時はギリギリ成人してなかったので、お互いに酒の強さは分からんのが、妙に可笑しい。
 言うて一緒におったのは、たったの三年間である。

「普通言う奴は、弱くはないわな」
「ぬるちゃんはどないなん」
「ぼちぼち!」

 弱くはない、という情報だけが入った。何となくそんな気はしていた。いつぞやも後輩の芸人くん達を介抱する側に回っとったし。
 明日のぬるちゃんの仕事は昼からのスケジュールだ。要は飲み過ぎんかったらええだけの話である。いつまでもおばちゃんを待たせる訳にはいかんので、わたしから口火を切ることにする。

「あらごし梅酒、ロックで」
「俺、角ハイ!」
「はいよお」

 彼女は伝票を素早く書き込み、腰を上げて厨房へ戻っていった。
 卓上には飲み物のメニューしか置いてなかったので、料理は壁に書かれたメニューを見なあかんらしい。視線を右往左往していると、海鮮ミックスの文字が飛び込んでくる。美味しそう。

「おばちゃーん! 注文ええ?」
「はあい、ちょい待ってねえ」

 こちらが何を注文しようと思っていたのか、ぬるちゃんにはお見通しらしかった。彼は厨房へ声を投げて店員さんを呼びつけ、さくさくとオーダーを告げる。人の視線辿るのが上手いのは昔からや。
 豚玉、海鮮ミックス、ねぎ焼き、焼きそば。ガッツリめやから白ご飯はなし。
 すぐに飲み物と小鉢に入ったサラダが各々の目の前に現れたので、ひとまず乾杯。合掌。箸を割って和風ドレッシングがかけられたレタスとトマトを食む。
 ぐいぐいと角ハイを呷ったぬるちゃんが、頬を緩めながらジョッキを卓に座らせた。

「いやー、ほんま送迎ありがとうな! 移動で爆睡できるん最高やわァ」
「なに、不眠症?」
「んや、ちょいと仕事詰め込み過ぎた」

 少し眉尻を下げた彼の目元には、よくよく見やれば薄らと隈が滲んでいる。今まで正面から彼の顔をしっかり見ようとしてこなかったので、気付かなかった。
 正月特番は確かに稼ぎ時に値するだろう。事前に聞いている予定では、明日を境に分刻みの怒濤のスケジュールが待っている。
 わたしが専属運転手に指名されるまでは、マネージャーさんが運転するかロケ車やったらしい。安眠には程遠い運転でなあ、とぬるちゃんが顔をしおしおにして言う。少し憐れである。

「マネージャーもいけるいける言うから、油断してスケジュール任せたらこれやわ……」
「まあたんとお食べや」
「おおきに、て俺の奢りやし!」

 いっぱい食べるでえ、と彼は得意の小学生男児の笑みを浮かべて待っている。
 カウンターの大きな鉄板で、おばちゃんが早速お好み焼きの生成に入っているのが見える。ある程度焼けてから客席の鉄板に運んでくれる方式だ。
 小鉢に沈んでいたキュウリをパリポリ齧っていると、ぬるちゃんが徐ろにスマホを取り出した。飾り気のない、剥き身の林檎マークが見える。

「せや、連絡先教えといてくれへん?」

 そこの醤油取ってくれ、と同じ温度感で言うことか。
 思わず口許を引き攣らせたわたしを見て、ぬるちゃんは分かりやすく吹き出した。

「悪用なんてせえへんよお」
「マルチとか宗教勧誘とかないよな?」
「えっ簓さんへの信頼度そこまで落ちてんの? 嘘やろ?」

 返答に窮し、情けなくもグラスを傾ける。すると目前の鉄板の上を乗り出して「えっ嘘やんな? じょーだんやんな?」こちらの真意を探ろうとしてくるので「鉄板危ないやろ」慌てて手を突っ張る。
 傷付いた、てわざわざ顔に書かんでええねん。言わんでも分かるやろって無言で主張すな。
 わたしの内心も言わずとも通じてしもたのか、彼は珍しく苦めの笑みを零し、「いや、真面目な話な」と言いながらメッセージアプリを開いた画面を見せてくる。表示されていたのは彼のプロフィールコードだった。

「送迎の時に直前で待ち合わせ場所変えなあかんくなる場合もあるかもしれへんやん? そしたらお互い難儀するやろ。いつでも電話できるとは限らんし」
「まあ……」

 想像していたより正論を振りかざされたので、大人しく従うことにする。仕事に支障が出るのは本意ではない。確かに、出待ちのファンの前とか、電話が難しい場面がないとも言い切れんし。他の芸人さんの送迎を受け持った時にも、そういった具合の経験はあった。
 せやから、これは言い訳ではない。
 コードを読み込んで、友達登録を済ませる。実に呆気ない動作で、画面には実に数年振りの「白膠木簓」の文字列が出現した。
 何処かの喫茶店のクリームソーダらしき写真のアイコンをタップし、トーク画面に移って適当なスタンプを押す。即座にぬるちゃんから友達登録の通知と共にスタンプが「いや連打すな」「嬉しいねんもん」送られてきたせいで、怒濤のスクロールバーが出現した。

「ほんまぬるちゃん挙動が小学生やな」
「んん? こんなシュッとした小学生おるかァ?」
「最近の子はませとるよ」
「それは俺がシュッとしとるて認めてるっちゅうこっちゃな?」
「仕事の時はな」
「はー、冷たいわあ……」

 叱られた子犬の顔のまま、器用に角ハイを一口飲み込んでみせる。ぬるちゃんの左手、長い人差し指がスマホの画面の上で踊った。

「あ、こら連打すな言うたやろ」
「俺の悲しみを代弁してもろてるねや、ぐすん」
「もうええ、通知切っとこ」
「いやいやいや! 連絡先交換した意味!」
「ブロックもしといた方がええ?」
「いややあ許してえ~」

 サラダに入っていたキュウリをバリバリ噛んで返事を殺せば、眉毛をへにょへにょにさせてぬるちゃんが謝罪を始める。
 とんだ茶番や。わたしもそろそろ飽きるべきやのに。

「や、ほんまにブロックは勘弁してな? 音信不通になった時、普通にショックやってんで!」
「それは、……まあ、ごめん……」

 今度はわたしの方が口をもにょもにょさせる番だった。何せその点に関しては、悪いのはわたしの方なのである。
 別れてから機種変するのと同時に電話番号もメルアドも一新したのに、この体たらくだ。斬り捨てたはずの未練が足元にべったり纏わり付いているのを自覚し、誤魔化すようにもう一度アルコールを舐める。
 やり直せる訳あらへん。不可逆の時間軸を生きているからには、飲み込んだまま消化できていない間違いを抱えて歩くしかない。
 そのくせ、こうしてふたりで一緒にご飯食べてるねんから始末に負えん。備わっているはずの理性が怠惰を決め込んでいるのを、見て見ぬ振りばかり上手くなる。
 溜め息を吐きそうになった瞬間、運良く美味しそうなソースのにおいが鼻腔を擽った。

「はいお待ちどお、豚玉、海鮮ミックス、ねぎ焼きね。焼きそばはもうちょい待ったってね」
「おっ、美味しそう! おおきに!」

 店員のおばちゃんが手際良く我々のテーブルの鉄板へ、どどんとお好み焼き達をサーブしていく。ふわふわ揺れる鰹節と青のり、たっぷりと掛けられたソースとマヨネーズに彩られた豚玉と海鮮ミックス。何も掛かっていないねぎ焼きは、添えられた小鉢のポン酢で食べるのが正解だ。
 ぐだぐだ考えてもしゃーない。美味しいものに集中するのが一番の礼儀である。

「ねぎ焼きてな、東の人は『焼きねぎ』やと思うてはるやん。こないだロケであんじゃっしゅごっこしてもたわ」
「あー、それはしゃーない」
「やんなあ?」

 ねぎを丸ごと焼いたやつが焼きねぎで、ねぎ焼きはキャベツの代わりにねぎを入れた、お好み焼きに近いものだ。わたし自身も大学の友人と同じような会話を繰り広げた経験があった。今、目の前でじゅうじゅうと音を立てているのは、ねぎ焼きである。

「海鮮、半分こする?」
「ええの? ほな他のも各々つつこか!」

 折角外でお好み焼きを食べるなら、色んな味を楽しみたいというのはぬるちゃんも同じやったようである。関西のお好み焼きは庶民の味、そして家庭の味なので、わざわざ外食までするのは実はレアケースなのだ。閑話休題。
 彼はコテを手に取ると、鉄板の上でお好み焼きを手際良く格子切りにした。

「生地やらかめやわ、気ぃ付けて」
「うん」

 お皿ちょーだい、と言われる前に卓の隅に重ねられた小皿を配ると「ありがとお」ぬるちゃんは自分の席に近い生地をコテで掬って、律儀に破顔した。
 彼の指摘どおり、箸の先を沈めた生地はふわふわで柔らかい。美味しい。

「キャベツだけやなくて山芋もぎょーさん入っとる! 今度真似しよお」
「豚肉カリカリやな」
「ほんまや! な、ねぎ焼きも出汁効いててめっちゃ美味いで!」
「うん」

 二人して美味しい美味しい言いながら食べ進めるのも、十代の頃のまんまや。美味しいご飯に美味しい言うて何が悪いねんと言ったわたしに、うんうん頷いていたぬるちゃんの嬉しそうな顔が勝手に脳裏に出現する。恐ろしい。
 他人を肯定するのが上手や。自分のことは蔑ろにするくせに。
 わたしのグラスが空になりつつあるのを認めた彼が、飲み物のメニューをすっと差し出してくる。ほんま人のことよお見とるわ。

「俺も次、何飲もかなあ」

 ぬるちゃんの角ハイは残り一口まで減っていた。結構飲むペース速い気ぃするけど、大丈夫なんやろか。

「あっこれ! めっちゃええで!」

 豪語するぬるちゃんが指し示していたのは、本日のおすすめ日本酒と手書きで存在感をアピールしてくる、萩の鶴、特別純米酒である。

「そんなん絶対美味しいやん……」

 反射で口からまろび出た。思わず額を手で押さえるわたしに、ぬるちゃんがぱあっと花を咲かせて、こちらを覗き込んでくる。想定外のお小遣い与えられた小学生みたいな顔すな。

「ポン酒好きなん?」
「ウン……」
「そうなん! ほな今度フクシマのポン酒飲み放題のとこ行こ!」
「ウン……」

 全く抗えない。次の飲みの予約まで取り付けられてしまったが、こんなん断れるわけがなかった。わたしの精神など豆腐と同じだ。美味しい日本酒を目の前にすれば、理性など紙に等しい。
 タイミング良く店員のおばちゃんがこちらに歩いてくるのが見えた。ソースの香ばしいにおいが胃袋を念入りに刺激する。

「遅なってごめんねえ、焼きそばです!」 
「ありがとお、飲みもんの注文ええですか?」
「はいどうぞ」
「萩の鶴、グラスふたつ!」
「はいよお」

 川の水が流れるように淀みなく、笑顔でオーダーは真っ直ぐ通った。
 そうして出てきた薄いグラスにとっぷりと注がれた、特別純米酒。よく冷やされたそれをくぴりと一口、思わず溜め息が出た。ええ方の意味で。

「めっちゃするする飲めてまうねんけど……最高か……」
「せやろ!」

 ぬるちゃんは飽きもせずこちらを嬉しそうに見やる。あまりに美味しいのでぐいぐい杯が進んでしまう。なんてきけんなおさけ。さいこう。

「芸人さんて、お酒強いか弱いの両極端しかおらんイメージあるな」
「うーん、否定できひんなあ!」

 独り言のつもりが、つい口に出してしもた。後悔ばかり上手くなる。
 彼の指はグラスに浮かんだ水滴をなぞっていた。板の上で扇子を握っているそれは細く長く、そういやこんな手やったっけ、と脳裏の残像と間違い探しをしようとして、慌てて止めた。何の生産性もない。
 ぬるちゃんはずっとご機嫌なまま───これが接待モードなのかは判断に迷うところだが────海鮮ミックスに舌鼓を打っている。やっぱ粉モンは最高やあ、とか何とか言いながら。
 すいすい飲めてしまう萩の鶴が余りにも恐ろしくて戦きながら、少し冷静になろうと飲み物のメニューに改めて視線を滑らせる。メニューの裏面が全部日本酒で頭がくらくらした。嬉しい誤算である。
 美味しいお酒は素晴らしい。豚玉の濃い味付けにも、ねぎ焼きの出汁の風味にもよく合う。嬉しくてもう一口舐める。

「待って、秋鹿に風の森もあるやん……」
「わ、ええなあ。でも自分、ペース速ない?」
「ぬるちゃんこそ、水もちゃんと飲みや」
「飲んどるよお」

 返す彼の声音はまるくなってきている。へへ、と思わずと言った塩梅で零される小さな笑い声が、柔く耳朶を打った。
 店員さんに次の日本酒をオーダーして、お冷を一口。彼のグラスにはまだ三分の一ほど残っている。さっきの角ハイの飲みっぷりからすると、日本酒はそこまで強くないんかもしれん。
 すぐに出てきた秋鹿のグラスに喜んで口を付けた。言うて、お酒は美味しく楽しくが基本だ。己の限界も知らずに強い酒を飲み続けるような危ない橋は、そもそも渡らない。
 ほんまに?

「あ! 白膠木さん!」

 唐突に、カウンター席から男の声が飛んできた。

「ん? おお! お疲れさん!」

 あ、今、「芸人の白膠木簓」に戻った。
 芸人仲間らしき男性陣三人組が席を立ち、わらわらとこちらのテーブルを覗き込んでくる。全員、若手に分類されそうな出で立ちである。見知った顔はなく、わたしは気配を消して酒とお好み焼きに集中することにした。

「こないだ温泉ロケて言うてはったですやん! どないでしたか?」
「めっちゃええ湯やったで!」
「いやそれもなんすけど! 収録は!」
「やー楽しかったで! 年明けのオンエア楽しみに待っとき!」
「打ち上げはどないでしたか?」
「あー、俺行けへんかってん。次の日も早くてなあ」

 打ち上げ断ったくせに、結局わたしとハンバーグ食べてた口でよお言うわ、と危うくツッコミを入れそうになったが、賢明なわたしはねぎ焼きを頬張ることで口を噤んだ。

「あ、俺知ってますよ。あの番組のディレクター、ものすんごい梯子酒するらしいやないですか。朝日が昇るまで飲んでなんぼやー、ていう」

 成程、ぬるちゃんが渋ったのにはちゃんと理由があったらしい。年末進行の身体に無闇に鞭打って、仕事に穴を開けるわけにはいかんからて、あの時そう素直に言うとったらええのに。
 海鮮ミックスの中に入っていたエビがぷりぷりで最高。酒はすいすい喉を通り過ぎる。黙々と箸を動かす。

「真冬の朝日拝もう思たら、七時ぐらいですかね?」
「やー、もーそないな体力あらへんよお」
「白膠木さんまだ二十代やのに何言うてはるんすか」
「ええか、人はな、二十五を境に一気に体力落ちてくんや」
「怖いこと言うんやめてください!」
「いやほんま。身体は大事にせなあかんで」

 こないだ二十五歳になったばかりの白膠木簓の発言に震え上がっている後輩君達であった。

「ところで、そちらの方は?」

 急にこちらに矛先が向いて、危うく飲みかけた酒を吹き出すところだった。勿体ない。わざわざこちらに興味関心を抱く必要は皆無である。ご遠慮ください。

「暫く移動しっぱなしやからな、運転手雇ってん! めっちゃ運転上手いから車内で爆睡やで! ええやろ!」
「へー! すごいですねえ!」
「めっちゃ羨ましいんすけど!」
「白膠木さんレベルになったら専属の運転手付けてもらえるんや……」

 やめろ紹介すんなや、と声を荒げることもできず、わたしはただ人畜無害を装って「どうも……」膝の上で手を握り、ぺこりと頭を下げるしかなかった。忘れてくれ、頼む。海馬に一瞬たりとも記憶を残してくれるな。

「あ、そっちお好み来たで! 熱いうちに食べや!」
「はい! ではまた現場で!」

 お好み焼きのおかげで何とか嵐は去った。安堵の息を吐きたいのを誤魔化すようにグラスを傾けると、テーブルに置いていたスマホが震えた。着信の通知が画面にぱっと広がる。

「ごめん、電話やわ」
「あーええよ、ここで」

 わざわざ私物のスマホに連絡が来たということは、急ぎの案件だ。腰を上げようとしたわたしを、ぬるちゃんは手だけを上下にぱたぱたさせて押し留めた。
 わざわざ店の外で電話するんも寒いしめんどくさいので、有難くそのまま通話に出る。

「もしもし、……はい、十六時までなら対応できます。いえ、大丈夫です……承知しました。はい、お疲れさまです。失礼します」

 コールセンター嬢ではなく、上司からだった。明日のぬるちゃんの行動圏と被っているお客さんで、効率良く回すためにわたしへ白羽の矢が立ったようだ。
 通話を切ってグラスを手に取ると、何やら視線が顔に刺さる。

「……なに」
「なんか、ほんまに社会人やなあて思た」

 随分と今更ながら、しみじみと彼が言う。
 そんなん、ぬるちゃんがテレビ出てる時からずっと思とったよ。
 言わんでもええことは、胃の中で静かにしとってもらうのがええ。鉄板の上で温められている豚玉をコテで引き寄せる。

「冷めてまうで、はよ食べよ」
「せやな! しっかし自分、お酒強いなあ」
「普通やて」

 言いながら次の酒を注文したわたしを見て、ぬるちゃんは引き笑いしていた。ええやん、あんたの奢りやから飲むだけやもん。
 今度は卓上に置いていたぬるちゃんのスマホが、短く震えた。

「あ、ごめんメッセ返してええ?」
「どーぞ」

 彼の指は淀みなく動く。画面を覗き見るような真似はしない。ぺろりと豚玉を平らげてしまうと、鉄板に残っているのは焼きそばだけである。
 学生の頃のぬるちゃんは、割とわたしのケータイの画面を覗き見るタイプだった。「誰?」「おとん。今日の晩ご飯の買い出しの連絡」「ほへー、そうなん」そんな会話を重ねるうちに、段々と彼も見んようになっていったが。

「ぬあっ」

 無意識にだろうか零された言葉に、今度はぬるちゃんが申し訳なさそうにこちらを見やった。

「ごめん、電話掛かってきてもた」
「気にせんでええよ」
「ありがとお。……もしもし」

 仕事の電話か。こんな時間まで大変やなあと思いながら、焼きそばと一緒にキャベツを食む。

「うん、お好み」

 仕事?

「えっ、俺言うてたよ? うっそ、ほんま? すまん!」

 いや、仕事な訳あるかい。
 急に味がせえへんくなった焼きそばを飲み込む。折角美味しかったはずやのに、ずしりと胃が重たく感じられて悔しい。せめて顔には出すまいと、グラスに口を付けた。

「埋め合わせするからあ……うん、うん、ごめん、ありがとお」

 ほなね、と締め括った語尾でさえ、しゅんと項垂れた子犬の様子である。
 ぬるちゃんは鉄板の上の残りの焼きそばを箸で集めてから「あ、最後貰てええ?」「ええよ」「ほな」眉毛を八の字にしたまま、勢い良く頬張った。

「……約束すっぽかした?」
「いや、約束はしてへんかってんけどなあ……」

 悪いことしたわ、としょぼくれている。
 恋人との逢瀬を邪魔してもうたことを肌で感じ、グラスに残っていたアルコールを喉に流し込む。ひりつくような熱さだけが、食道を通り抜けて臓腑に落ちていく。
 愚行を繰り返すわたしには、いつかそれ相応の因果が巡ってくるに違いない。
 ぬるちゃんが食べ終わるのを待ってから、何食わぬ顔でご馳走さまと合掌する。伝票に指を引っ掛けると、彼の指がそれを掻っ攫った。

「奢る言うてたんに、忘れとった?」

 相変わらず律儀やなあ、とぬるちゃんが喉の奥で笑う。
 どっちが。言い返したかった言葉は声にならず、お会計を済ます彼を見るのが精一杯で情けない。
 店を出たぬるちゃんが当然のようにわたしのストールを首に巻き付けているので、指摘するタイミングを失った。まあええか、と一歩踏み出した時だった。

「ほな、帰ろか」

 絡められた指、いつもの笑顔、警鐘は耳の奥でガンガン鳴り響いている。
 いや何これ。

「寒いねんもん」
「うわ……」
「ガチで引くんやめてや」

 他所の女やったら喜んだやろとも。相手が悪い。
 こいつ、わたしと別れた記憶はきちんと残ってんのやろか。過去が捏造されている気がしてならん。不安の芽が腰を抜かす速度で育っている。
 必死にその長い指を引き剥がそうとするも、本気で握り込まれていて敵わない。こんの酔っ払いめ。

「あんた、ほんまに、いつか! 刺されるで!」
「簓さんに刺さらん奴はおらんもん!」
「いやあんたが刺されるねんて! 自覚せんかい!」
「何で? 俺のファンはみーんなええ子や。過激派もおらん訳やないけど」
「おるんやんけ!」
「自分の手がぬくぬくなんが悪いんやあ」

 鮮やかな責任転嫁。そんなん、アルコール摂取したからやし。
 子どもみたいににぎにぎと指先に力が込められる。指の股が圧迫され、抜け出す術がない。
 信じられん、頭おかしいんちゃうか。はよ病院行ってこい。元カノの手え握る理由なんか、何処にも転がってへんやろ!
 今すぐ叫び出したかったわたしは、酔っ払ったぬるちゃんの横顔が雪解けみたいに綻んでいるのを見て、もうどうにもならんくて、結局諦めるに至った。

「……そういや、帰りどないすんの」
「来る前にコールセンターの後輩ちゃんに声掛けしといてん。もうすぐ着くんちゃうかな」

 弊社、稼ぎを逃さない姿勢は流石である。数分もせず、見慣れた車体が近付いてくる。ああ、運転手はベテランのおいちゃん上司。
 指先をどないかするのは諦めて、ぬるちゃんの手首に手刀を打つ。「あでっ」流石に力が弱まったので、急いでその手から逃れ、後部座席に彼を押し込む。

「本日はご馳走さまでした。気ぃ付けて帰りや」
「ええっ乗らんの?」
「終電まだあるからな」

 ドライバーの上司になまあたたかい視線を送られるも、わたしは首を縦に振るつもりは毛頭ない。これ以上の失態を演じたら、次は目覚められん。

「えっ一緒に帰ろやあ」
「嫌や。はよ帰れ」
「冷たいなあ……ま、ええわ。明日もよろしゅうな」

 酔っ払いの甘えた声を両断して、車扉を閉める。彼は肩を竦めて「ほなねえ」ガラス越しに手を振るので、わたしも適当に手をぴらぴらさせて、地下鉄の階段へ向かう。後ろを向いた途端、鼻の奥がつんと痛んだ。
 自分で自分の首絞めて、ほんま何やってんねやろ。

05|感電する流砂

210620
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