でまちのおねーちゃんがたおされへん。
時間になっても姿を現さない白膠木簓からやっと届いたメッセージは、普通に読み解けば助け船の要請と捉えるしかなかった。喧しわ。さっさと倒さんかい。
まあそうは言うても、ぬるちゃんの送迎さえクリアすれば本日の業務は終了である。さっさと帰りたいという自分の欲望を優先することにして、やれやれと重い腰を上げた。
性懲りもなく、白膠木簓のお抱え運転手を続けているわたしである。わたしには契約解除の権限がない故である。心身のためには専属運転手の肩書きなど宇宙に放り投げて然るべきだが、弊社の利益をものごっつい角度で右肩上がりにさせる上客をむざむざ逃すという手段もまた、存在しないのである。
つまり、わたしは最初から詰んでいる。
劇場の近くまで車で行きたいのは山々だが、道は細いし通行人も多いし、あと駐禁切られる可能性も高いので、近くのパーキングに車を置いた。貴重品を身に着け、今のうちかと思って溜め息をひとつ零す。コートをわざわざ羽織るのは面倒で、膝を暖めていたタータンチェックのストールを引っ掛けた。お好み焼き屋でぬるちゃんに借りパクされたので、今日は別の私物を持参した次第である。
外で吐く息は真っ白に煙った。夜は流石に冷え込みがきつい。車扉を閉めてから、やっぱコート着といた方が良かったかもと薄ら思ったが、さっさと連れ戻す口実には丁度ええので、そのまま劇場へ向かうことにする。
道すがら、駅へ向かう若い女性二人組をやたらと見かける。ほくほくとした表情は、劇場で元気を貰ってきたことの何よりの証明だ。
『簓さんに刺さらん奴はおらんもん!』
勝手に脳内に登場して自動再生せんとってくれるか、と幻影に悪態を吐く。まあ、彼の芸は確かに面白いし、思いっきし笑った後は晴れやかな気持ちになるのは嘘ではない。
せやから、わたしは間違え続けている距離感をそろそろ正しとかなあかんのである。
とりあえず今後一切、ぬるちゃんと共に酒を飲むのは何とかして避けねばならん。間違いなくわたしの身が滅ぶ。酔っ払ったぬるちゃんはぶりっこマシマシできゃるきゃるしよるし、すぐに手え繋いできよるし、しかも力加減は割と本気やし、極めて危険である。
未練で心臓をデコレーションしたところで、週刊誌の餌程度にしかならん。何もおもろない。
次の飲みの約束として、フクシマの日本酒飲み放題の店を掲げられてはいたものの、泣く泣く自分のために諦めておくことにする。保身が一番。酒はひとりでも飲める。誰かと飲んだ方が美味しいのはほんまやけど。
出待ちは比較的、楽屋口の方が多いと聞いていた。今日は最初から体力的な意味でお客さんを避けるべく、正面玄関から出ると聞いていたが、どうやら裏目に出たらしい。
ネオンライトが眩しいドウトンボリでは、夜空は燻っていて星は遠い。寒さが本格的に骨身に染みる前に、ぬるちゃんを回収したらなあかん。
「あ、お姉さーん! 今から飲み屋どないですか!」
「仕事中なんで、また今度考えときます」
「そら失礼しました! お仕事頑張ってー!」
「どーもー」
突如道端から野生の動物みたいに飛び出してきたキャッチの兄ちゃんには適当にお辞儀しといて、せこせこ歩調を速める。
劇場の正面玄関まで残り三十メートル。ど派手な千鳥格子のスーツにダッフルコートを羽織った男と、オフホワイトのロングコートの女性が見えた。ストールを首許に寄せ集め、慎重に距離を縮める。
「私は今日の居酒屋の店員ネタが一番面白かったです! あのスピード感も最高でした!」
「せやろ~? 今日のはとっておきのネタやったからな!」
「シンジュクの劇場で見たネタからすっごい進化してて、ビックリしました!」
「おっ、君、遠征組やったんかあ! 遠いとこ追っ掛けてもろておおきに!」
「えへへ、好きで追っ掛けてるので! 氷筋師匠のリスペクトネタ、いつもより多めでしたよね?」
「あんまやると師匠に怒られるねんけどな、今日のネタ、どーしても入れたあてなあ」
「わかります! 簓くん本当に板の上でも劇場の外でもかっこよくて、こうしてお喋りできて私は幸せ者です!」
「おお、そおかあ? 何や照れるなあ!」
聞き慣れた契約相手方の営業話術に覆い被さるような勢いで、鈴の転がるような声が流れ込んできた。真面目にネタの感想言うてはるし、しかもめちゃくちゃ楽しそうで嬉しそうで、芸人にとっては有り難いファンのひとりやと思われる。ひたすらええ子では。
しかし、彼女の言葉の波が、あのぬるちゃんを圧倒する怒濤のマシンガントークの様相をしているのも事実である。そんで割り込むタイミングが全く分からん。もうちょい近付いて様子見た方がええかもしれん。
「そうだ、差し入れ持ってきてたんですよ! マドレーヌなんですけど、良かったら」
「わあ、おおきに!」
可愛らしいギフトボックスをトートバッグから取り出し、彼女はぬるちゃんの胸にそれを押し付けた。箱に巻かれたリボンは緑のグラデーションで、ぬるちゃんの髪色に合わせられているようだ。徹底してはるなあ。
箱やリボンに店名が入っていないのを見るに、どうやら手作りか。お菓子作れるんはひとつの才能である。すごいなあと思いながら、声掛けする好機がどっか行ってしもて久しい。
いや無理やない? このテンション爆アゲの空間に突撃すんの? しがないタクシードライバーのわたしが?
「次の現場も楽しみです! とか言いながら、明日も来ちゃうんですけどねー」
「嬉しいこと言うてくれるやん! 簓さん頑張るで!」
一人のお客さんの相手をずっと続けていたのか、彼女以外にも何人かお喋りしていたのかは曖昧だが、ぬるちゃんの鼻の先はすっかり赤くなっていた。
「ごめんなあ、そろそろ移動しやんと……」
「そっか、そうですよね、あっ、手紙書いてきたんです! 忘れちゃうとこだった!」
成る程、手強い。切り上げようとした瞬間に別の話題でぶん殴ってくる手法である。腐ってもファンなので無碍にはできん。なかなかの強敵に違いない。
手のひらにねじ込まれた手紙に喜ぶ一方で、いつもは吊り上がって勝ち気に見える彼の眉毛が、段々と力を失い始めているのが分かる。
「ほんま? 手紙、返事はできてへんねんけど、ちゃんと読むからな! ……な、かなり冷えてきたし、風邪引く前に帰りや。遅い時間に出歩くの危ないで」
「あの、もうちょっとだけ、駄目ですか?」
「いやあ、気持ちは嬉しいねんけどなあ……」
ぬるちゃんの眉毛がどんどんハの字を描き始めた。
たすけて、と聞こえる。幻聴である。だが、いつまで待っても出待ちの姉ちゃんは会話を切り上げる素振りがなく、運の悪いことに他のスタッフも通りかかる気配がない。名ばかりの正面出口である。言い方は悪いが、他のスタッフが撤収してもなお、それだけ長時間拘束されていたということか。
様子見はおしまいや。このまんまやとわたしも風邪を引きそうなので、無理矢理特攻するしか道はなさそうである。わざと足音を立て、小走りで向かう。
スーツ姿だけやと「お前何者や」的な視線を食らうことがままあるが、白手袋をはめていると「ああタクシーの運ちゃんな」とご納得いただける展開が多いので、わざわざ片手を挙げ、営業用の愛想笑いを顔面に貼り付ける。
「白膠木さん、もうお時間ですけど」
「やば! ほな、今日はほんまおおきに! 気ぃ付けて帰るんやで!」
ほんまに慌てたような表情を作るのが上手い。そういや彼はドラマもいくつか出演しとったことを思い出す。
わたわたと走ってくるぬるちゃん越しに、出待ちの姉ちゃんの恨みがましい目が、いつまでもこちらを真っ直ぐに射貫いていた。
彼の送迎を繰り返すうちに分かったのは、行きしなは体力温存のためにアイマスクを装着して爆睡、帰りしなは寝るより喋りたい雰囲気を醸し出してくることである。やいやい言われる前にラジオを切っておくことが重要なのである。
車の暖房を入れ直して、社用端末をタップする。追加の業務もなさそうなので、安心してハンドルを切った。
最早定位置ですという顔で助手席に乗り込むようになったぬるちゃんは、強めの暖房を浴びながら、シートベルトを付けた途端にぐてんぐてんの軟体動物になっていた。脱いだダッフルコートは膝だけでなく、彼の上半身を覆うように広げられている。芯まで冷えてしもたのか、鼻先も未だ赤らんだままだ。
「結構頻繁にあるん」
「んえ?」
「出待ち」
自販機で買ったった、あったかいミルクティーのペットボトルを手渡してやると、彼は大喜びで両手でにぎにぎしていた。小動物じみた動作がほんまによお似合う。キツネ顔やけど身振り手振りはポメラニアン……と思っとったけど、やっぱハムスターやな。
「まあなあ。別に出待ち自体はええねんけどな。今日の子は粘り強かったわァ……」
「常連さんっぽい感じやったけど」
「うん。最初は一言二言て感じやってんけどな、最近はどーも話が長なるんよなあ」
はよ帰りたあて着替えるん横着したから、寒うて寒うて、とほほ。
熱を求めてペットボトルに頬擦りして、ぬるちゃんは窓の外を見ている。俺の顔より俺の芸を見て笑ってほしいねんけどなあ、というぼやきすら聞こえてくる。余程疲れたらしい。
「ほんま刺されへんようにな」
「俺、ファンの子には絶対に手ェ出さへんもん!」
「反語か」
「あーイヤ、やめて、ごめんて」
「…………」
うっかりツッコミしてもうた。返す言葉もない。これ以上はわたしの墓穴を晒すことになる。大変危険である。
すぐ絆されるチョロいわたしは丁寧に轢き殺しておかんと、僅かな弾みでうっかり生き返ってしまう。今日も失敗しとるけど。単純にビジネス対応に切り替えれば良いだけの話だが、ぬるちゃんの駄々捏ねを宥める労力を考えると、現状が最もマシな気がしてならない。ぼちぼち適当にやるしかないのである。
いや難易度高いわ。いつぞや付き合うてた頃かてほぼほぼ友達みたいなもんやったのに、十分な差異をどないして示せと?
漫才コンビを解散してから、暫くテレビに出てへん時期があったのは知っているが、その頃のぬるちゃんが何をしていたのかはよお分からん。察するに結構遊んどったと思われるが、今ほじくり返したところでわたしにとって有益なことはいっこもない。
こちらが内心でぎゃいぎゃい葛藤していることなんざ露知らず────いや知られとったら気分悪いどころの話やないけど────ようやく暖も取れたのか、ミルクティーを喉に流し込んだ彼は「はー、甘ァ……」ぼんやりと呟いている。嫌がっているのではなく感嘆の響きだったので、受け流してアクセルを踏む。
「あっせや、今日は直帰で頼んます!」
「珍しな」
「簓さんかてな、そういう日もあるねん」
久々に部屋の掃除でもしよかなあ、とぬるちゃんは助手席でにこにこと喋り始める。疲れとるはずやのに。
逆か、疲れとるけどもやもやしとるから、喋ってスッキリしたいんかもしれん。知らんけど。
くぴくぴミルクティーを飲みながら、彼はいつものように今日の仕事の出来映えや、他の芸人のハプニング集なんかをテンポ良くこちらに投げてくる。適度に打ち返し受け止めてやると、ぬるちゃんはくふくふと笑った。
ご機嫌の虚勢を指摘するには、まだ早い。
「……芸人として売れてくると、板の上よりテレビの方が出番多いねんよなあ」
段々トウキョウの仕事も増えてくるし、毎回移動も大変やし。
今日は珍しく愚痴っぽい。比較的久し振りのお笑いライブ出演で、本業の仕事ができたからか。ようやく剥がれ始めた壁を肌で感じ取りながら、わたしは法定速度に従って、左折。
彼は勝手にコンソールボックスをごそごそ弄り、お目当ての飴ちゃんのセロファンを剥がして口に放り込んでいた。しゅわしゅわする炭酸系が気に入っているらしい。彼のせいで色んな種類の飴ちゃんを常備するようになってしもたが、他の乗客さんにも好評なので別に問題はない。
いや別に、眠気覚ましの辛口のガムやとぬるちゃん食べられへんくて可哀想やからとか、そんなんではない。断じて。
「おっ、ピーチソーダ味や!」
暗闇の中では包装に踊る文字は読み取れていなかったのか、一人で飴ちゃんの闇鍋を楽しんでいたらしい。今度ジンギスカンキャラメルでも仕込んどくか。
彼が禁煙に挑んで失敗し続けているということは、送迎を何度か繰り返すうちに自然と分かってしもた。肺が煙を求め出すと、足元がそわそわし始めるのでめちゃくちゃ分かりやすい。しかも飴ちゃんを食べる頻度がえぐいので、結構なヘビースモーカーと思われる。
ぬるちゃん以外の元彼に喫煙者がおったという事実は、言わん方が自分のためなので黙っておく。
「テレビ嫌なん?」
「まっさか! 貰える仕事は何でもやるで! まあ、人を笑かす仕事っちゅー意味ではおんなじやけど、漫才やってるとな、こっちばっかできたらなあて思う時も、たまーにあるねん」
「……別に、思うのは自由やろ」
赤信号に備えてブレーキを踏む。変なとこで誠実で不器用やなあと思っていると、突然に沈黙が訪れた。
何か変なこと言うたかな、と横目で確認すると、窓の外を向いていたはずのぬるちゃんが、餌を待つ雛のようにぽけーっと口を開けてこちらを見ていた。
「……自分、いっつも思てたんやけど、読心術の使い手なん?」
「何それ忍者か。そんな便利な術ないわ」
「やって、毎回ぴったし欲しい言葉くれるやんか」
ラジオも流していなかった車内では、消え入りそうな声音にも関わらず、少し俯いて零されたそれは誤魔化されることなくわたしの耳に滑り込む。綿飴みたいにべたりと張り付いて、触れたことを後悔するしかない。
欲しい言葉て。そんなもん、都合のええことしか言わんと、無責任な言動で過去をやり直したいだけのわたしを賞賛する必要なんか、いっこもあらへん。
もうぬるくなっているはずのペットボトルを手放そうともせず、長い指がラベルの上を遊んでいる。対岸の歩行者専用信号が、ちかちかと寂しげに点滅していた。
「……思い込みの激しいやっちゃな。深読みも大概にしときや」
「いやほんまに!」
噛み付くような声に、思わずそちらに顔を向けてしまった。
フロントガラス越しにオレンジの外灯を浴びて、彼の虹彩はきらきらと星を瞬かせている。
────読心術なんか嘘っぱちや。現に、わたしはその瞳が語る言葉をいっこも上手く読み解けてへん。
ばちりと火花さえ散りそうな眼光に、先に視線を逸らしたのはわたしの方だった。信号が切り替わったら、否が応でも安全運転第一のドライバーに戻らなければならない。事故る訳にはいかんし。
社会人のわたしは取り繕った営業用の顔で、なるべく平坦な温度を保って、跳ねた心臓を必死に宥める。
「……何か凹むことでもあったん」
「んや? 絶好調やで」
ぬるちゃんはごく自然に、小首を傾げてみせた。少しだけ顎を上に向けて、無垢の振り。
あー、何か隠しとるな。
ただの勘なので深追いはできない。こーゆー時のぬるちゃんのATフィールドは完璧で、加えて何重にも張り巡らされていることを知っている。 頑固な膜を噛みちぎる気力がないなら、手出しするだけ体力の無駄である。
ただ、何となく想像はできる。ぬるちゃんがやりたいお笑いと事務所や番組の方針やら色んな思惑の間には、やはり温度差があるだろう。普段はええ子ちゃんの顔して折り合いつけて頑張っとるんやろけど、全部が全部納得できるもんでもない。人間やし。人間関係は操られへんから、その辺の気苦労もあるやろし。
しゃーないのでちょけとくか。話逸らしてほしい魂胆が丸見えや。
「……使えるんやったら影分身の術がええな」
適当なボケにも関わらず、彼は破顔して中身の残りが少なくなったペットボトルを握り締めている。
ほんま、愛想笑いがお上手で何よりや。
「術解いた時に疲労も跳ね返ってくるやん! 俺はやっぱアレやな、千鳥!」
「敵陣突っ込んでって自分の腕も吹っ飛ばしそうやな」
「夢も希望もないこと言わんと! ここは螺旋丸で対抗するとこやで?」
「お互い腕吹っ飛ばさなあかんやんけ」
「お手々繋いで仲直りもな!」
「はいはい」
窓の外は、ぱらぱらと小雨が降り始めていた。天気予報の降水確率はゼロやったはずやのにな、と思いながらハンドルを切る。直帰ならぬるちゃん宅のエントランスに直付けできるし、特段の支障はない。
そういや、折り畳み傘返してもらってへんな。今言うてもまた忘れよるやろから、言わんけど。
身体に染み付いた疲労がようやく全身に回り切ったのか、彼は無意識の溜め息をひとつ落としてから、静かに口許を引き結んだ。フロントガラス越しのワイパーの稼働音と足元に響くエンジン音に紛れて、口の中で飴玉を転がす、からころと軽やかな音だけが車内を漂っている。
沈黙の共有は今更苦にならん。それは学生の頃の日常風景やったから。
いつまでも過去にしがみついている己のみっともなさは理解している。対処方法も頭の中にはきっちり入っているのに、実行には程遠い。
目的地のタワーマンションの正面で、緩やかにブレーキを踏む。
「着いたで」
隣からの返事はない。暫く静かやったから寝てるんかもしれん。
ルームライトを点灯させ、その横顔を覗き見る。煌々とした光の下にも関わらずぴくりとも動かんので、本格的に寝入ってしもたんやろか。目ぇ開いてるかよお分からんと呟けば、いつもならわざとらしく怒り始めるのに、彼の口は一文字を描いたままである。
アイマスクもしてへんかったから、多分本格的に寝てる訳ではないと思うが。
「ぬるちゃん?」
少し声量を上げて、試しに肩を軽く揺さぶってやると、薄い唇が酸素を取り込むために僅かに開いた。
「……ごめん」
「なに?」
起きとるやん、はよ帰って寝えや、と言いかけたその時だった。
「手え貸して」
あまりに鮮やかに、瞬く間に、わたしのなけなしの鎧は爆破された。
ハンドルを握っていたわたしの左手は、勝手に掴まれて身動きが取れない。暗闇に紛れて手袋がどっか行った。手の甲を覆うように彼の手のひらが重なって、そのまま身体ごと引っ張られる。
わたしはそろそろ護身術とか習うべきなのでは。
「ちょ、」
シートベルトに守られながらも崩れた姿勢に、わたしはコンソールボックスにもう片方の手を突っ込む形で、辛うじて踏みとどまった。飴玉の海に溺れた手に下敷きになって、包装のセロファンがかしゃかしゃと鳴き声を上げる。
「急に何なん……」
ぬるちゃんはただ強引な手を携えたまま、沈黙を守っていた。空気がずんと重く背中にのし掛かってくる。
混乱の渦の中、わたしの指は導かれるまま、彼の浅葱の髪にくしゃりと擦れ、押し付けられた。逃げ出せそうにもない。頭皮の熱を指先が拾う。生きている温度である。
「……て、言うて」
「何て?」
「頑張ったなあて、言うて」
芸人・白膠木簓の装甲は、気付けば跡形もなく完璧に剥がれ落ちていた。
俯いているせいで、こちらからぬるちゃんの表情は伺い知れない。覗き込む必要性もないほどに、掠れて沈んだ声が、たのむわ、と震えている。
いつもは無理矢理踏み込んでくるくせに、いっぺん弱るとこうや。不器用を極めてもええことなんかいっこもない。
どないしたんと原因を聞き出すだけなら、限界迎える前に何とかせんかいと説教するだけなら、別にいっこも難しくない。だからこそ、身綺麗な言葉でコーティングして投げ付けたところで、何の意味もないことを知っている。
撥ね除けるには腕力が足りない。拒絶しようにも覚悟も足りない。
結局わたしは特大級の溜め息を落っとこして、迷子の少年を包み込むように、実家で飼っていた柴犬を撫で回すように、青緑をくしゃくしゃに掻き混ぜた。
あーあ、阿呆や。いっちゃん悪い選択肢に縋って、自分から手のひらの上に踊りに行ってもて、なんて滑稽な。
「……はいはい、お疲れさん。ぬるちゃんはいっつも頑張っとるよ」
まだ顔を上げられへん彼には、右手もサービスしたることにした。辛うじて残っていたもう片っぽの手袋はしたまんま、乱れた髪を整えてやる。
こーゆーことするからあかんのやで、と脳内でもうひとりの自分が呟く。学生の頃を懐かしんでも、現実は程遠い酷い有様である。大事故や。明日の朝のニュース独り占めしてまうわ。
でも、そろそろこの愚行を終わりにしとく必要があった。受け止めた傷を数えるのには飽きとるし、これ以上摩耗してもうたら、それこそ楽しかった思い出すら憎悪の対象になって、後戻りもできんくなる。
ぬるちゃんがそうするつもりがないんやったら、こっちから正しく線引いたるだけや。
「まあ、友達やからな。手えくらい貸したるわ」
びくりと彼の肩が跳ねた。母親に縋る子犬みたいに、ぐいぐいと頭を手のひらに押し付けてくる。言葉はない。
振り回した刃物は、自分の臓腑に改めてざっくりと傷を付けた。だくだくと溢れる血流を見て見ぬ振りするのは、そろそろ卒業せなあかん。これはただの模範解答に過ぎない。
痛い目見やんと学習せえへんのは、わたしもぬるちゃんもおんなじやから。