駅前で拾った老齢のご夫婦を病院までお送りし、車内でコンビニのおにぎりに齧り付く。セールの恩恵に与り、ちょっと奮発して二百円の贅沢おにぎりを選んだった。たらこがたっぷりで最高。ペットボトルのほうじ茶で口を潤す。
 コンビニの小さなビニール袋におにぎりの包装の残骸をくしゃくしゃと放り込んで、口を縛って足下のプラスチック製のゴミ箱に葬った。先客の飴ちゃんの包装の亡骸と衝突し、交通情報を吐き出すラジオ音声の合間、乾いた音が鳴る。

『頑張ったなあて、言うて』

 昨日の夜あんだけ弱っとったぬるちゃんは、今朝には完全復活を遂げていた。ように見えた。少なくとも朝一の「おはようさん!」挨拶は普段と何ら変わらん喧しさで、助手席で今日の予定を再確認した後は、アイマスクでしっかり目蓋を覆って微塵も動かず爆睡していた。
 深く突っ込めば火傷をするのはこちら側だ。わたしは努めていつもどおり、安全運転のみに意識を集中させて朝を乗り切ったわけである。
 本日のぬるちゃんはテレビ局で収録、出版社でインタビュー取材、劇場で本業と相変わらず目まぐるしい。朝から車内で栄養ドリンクを飲み干していたので、肉体の疲労度はぼちぼちなものだろう。
 指定された送迎回数は八時、十七時前、二十一時の計三回だが、空いている時間はできる限りでお客さんを拾い、売上を伸ばしておく必要があった。専属運転手と言えども、日勤のドライバーと同様、出来高がそのまま給与に反映されるのである。稼げる内に稼いでおきたい。
 この地区やとわざわざ配車予約まで入らんようで、恐らく夕方まで流しのお客さんのリレーになる。ひとまず病院の出入り口から少し離れたところで待機しておく。下手に駅前まで戻るより、お見舞いに来た家族を捕まえる方が手っ取り早い。
 膝の上で指を組んで出入り口の自動ドアをぼんやり眺めていると、眼鏡を掛けた背の高い男性が何やら慌てて飛び出してきた。腕時計に忙しなく視線を落としたかと思えば、周囲を不安げに見回している。
 こちらとしては幸運である。営業再開。

「お客さん、どうぞ」

 窓を開け、彼の後頭部に向かって呼び掛ける。彼はすぐにこちらに気付いて、開いた後部座席の扉を目掛けて長い足で駆け込んできた。
 いや、ほんまに足長いな。

「助かったァ! ありがとうございます!」

 彼が飛び込んできた勢いで、車体が耐え切れず横に揺れた。思ったより体格が良かったらしい。バックミラー越しの乗客は、米神を伝っていた汗を手の甲で乱雑に拭い、畳んだ黒のコートを隣の座席に置いた。粗めのオールバックを指の背で一撫でし、上擦った呼吸を宥めている。
 鞄からは研修の案内らしき資料が顔を出していた。並んだタイトルから察するに、どうやら学校の先生である。えらいしゅっとした見た目の先生やな。顔整い過ぎちゃう? もうちょい散らかっとかんと生徒がガチ恋しまくるやろ。知らんけど。
 ひとまず彼の慌てた様子からして、大体の検討は付いた。最短ルートを脳内で検索し、彼がシートベルトに手を伸ばしたところで、わたしは早速ハンドルを切り始める。

「タニマチで研修ですか?」
「え、すご、何も言うてへんのに」

 丸眼鏡の奥、切れ長の瞳を真ん丸に見開いて感心したような声を出されてしまい、こしょばい気持ちを抱えながら、アクセルを踏む。
 何かこのひと、どっかで見たことあるような、と少し頭がもやつく。どこやっけ。

「資料、鞄から見えてはりましたんで。失礼ながら」
「……ほんまや、さっき慌てて確認してたんで」

 ふう、とやっと息を整えた先生は、今度は恥ずかしそうに額に浮いた汗をハンカチで丁寧に拭っている。病院内からダッシュをキメたのかもしれない。看護師さんに怒られてへんかったらええけど。
 元々肌の色が白いのか、真冬の休憩時間に外で走り回った小学生みたいに頬が真っ赤になっている。すぐに信号に引っ掛かってしまったので、ついでにコンソールボックスに置いていた新品のペットボトルの水を「無料サービスなんで、良かったらどうぞ」差し出すと、彼はぺこぺこと頭を下げて「すんません、ありがとうございます」恭しく受け取った。
 こちらの白手袋を掠めた手は、随分と大きい。

「研修、何時からですか」
「あの、十三時半からなんですけど、間に合いますか……?」

 バックミラーにはペットボトルの蓋を開けたまま、居心地悪そうに少し俯いた先生が映っている。
 そない申し訳なさそうな顔せんでも、急ぎの客がタクシーに飛び込んでくることは茶飯事である。こっちも商売なんで気にせんでええですよ、と言うた方が余計気にしそうな雰囲気が出ていたので、無駄口を叩くのは止めることにする。

「ちょい飛ばせば下道でも大丈夫ですよ」
「ほんま助かります!」

 今度こそ勢い良く頭を下げられて、流石に「いえいえお気になさらず」と返した。
 ぬるちゃんを送り届けてから付けっぱにしていたラジオは、いつの間にか年末の流行大賞候補として名を馳せているロックバンドの曲に切り替わっている。
 師走、ほんまに文字どおり先生は走りっぱなしで大変なんやなと思ったが、何度も言われているであろう言葉を投げ掛けることに有益性を見出せない。適当な世間話振っておしまいにしとこ。

「学校はもうじき冬休みですか?」
「来週の期末考査と二者面談が終わったら、そうですね……テスト作って通知表の準備して、やっと解放されたと思ったら、次はガンガン研修詰め込まれとって」
「息吐く間もないのは難儀ですねえ」
「特に冬休みは短いから、やることも多くて……」

 若手の先生は雑用を押し付けられてしまうことも多いと聞く。言葉以上に大変なのだろう。米神を指でぐりぐり押して、疲労を誤魔化しているようだ。
 第一印象は硬派であまり喋らなさそうな風に見えたのに、意外とお喋りな気質なのか、溜め息の次にはするすると言葉が飛んでくる。それでも教師だけあって、落ち着いた声音だった。

「ほんで今日、授業は午前中だけやったんですけど、うちのクラスの生徒がホームルーム中に急に倒れてもうて。救護の先生が運悪く外出しとって、とりあえず自分が付き添いしたんですけど、研修のことすっかり忘れとって……たまたま鞄持っとったんで、命拾いしたんです」
「それで病院にいてはったんですね。生徒さん大丈夫でした?」
「はい。親御さんも来てくれはったから、問題あらへんと思います」

 心の底から安堵した時の優しい温度が乗っていて、ええ先生なんやなとひしひし伝わってくる。わたしとそない歳も変わらんやろに、立派な人や。

『どーもー! 皆さんこんにちはァ、泣く子も笑っかす! お笑い芸人の白膠木簓です!』

 ほっこりした空気を味わっている最中、ラジオから突然出てきた声に思わず吹き出しそうになった。必死に堪えた。不意打ちにも程がある。
 今日のぬるちゃんはラジオ出演ではない────となると、収録された宣伝か。ぬるちゃんがラジオパーソナリティーに当たっとるのは夜ばっかやからと油断したわたしが悪いんか。昼間は大丈夫やと思ったんに盛大に裏切られた。もう嫌や。
 一介のリスナーの嘆きが届く訳もなく、聞き慣れてもうた声が周波数に乗って迫ってくる。

『次の四月からワイ、白膠木簓のお笑いライブ! なんですけどね、なんとなんと! 全国ツアー! 開催が! 決定しました~! ほんまおおきに~! チケットは明日から受付開始でっせ! どっかんどっかん笑えるツアーにしますんで、一緒に楽しんでなあ!』

 全国の劇場でお待ちしてますんでよろしゅうに、ほなねーと締め括るぬるちゃんの声が緩やかに遠のいていく。
 ラジオは交通情報に切り替わった。ナゴヤ方面の国道で事故が起きたらしいが、こちらの地域まで影響は出ないだろう。緊張がどっと解けて思わず溜め息を吐くと、それは二重に鼓膜を刺激した。二重?

「あ、すんません」

 溜め息なんて、失礼でしたね。ぼそりと零した先生は、眉尻を下げて視線を窓の外へ逃避させている。
 硝子玉のような瞳には、確かに寂寥の気配が混じっていた。バックミラー越しにそれを眺めて、お気になさらずと再度言いかけた辺りで、頭の中の欠けていたパズルが急にぴたりと埋まった。
 テレビの画面越し、白膠木簓に鋭角のツッコミを入れとったひと。何で今まで気付かんかったんやろ、とすら思えてくる。
 次の瞬間には、わたしの口は勝手に動き出していた。

「あの、もしかして躑躅森さん、ですか。どついたれ本舗の」
「え、ア、ハイ」

 彼はきょとんと目を丸くして、それから恥ずかしそうに視線を逸らした。
 あー、間違いあらへん躑躅森さんや。漫才やってはった時も、恐らく台本にないネタ振りをぬるちゃんにされて、ツッコミ終わった後にたまーにこうして恥ずかしそうにしてはった。見たことある。

「すいません、思わず。失礼しました。学校の先生してはるとは思わんくて」
「いえ」

 抱えていた疑問が晴れ、勝手に穏やかな気持ちになってすいすいと車を走らせていると、あ! と突然後部座席で声が上がる。流石元芸人で現在教師、声が大きい。めちゃくちゃ心臓に悪い。病院に忘れもんでもしはったんやろか。

「もしかして、簓の元カノさん?」

 いや心臓に悪いて。
 タイミングも爆裂に悪く、まさかの赤信号である。しらばっくれようにも先生の視線がヘッドレストを越え、光線銃の如く後頭部を焼き払うように突き刺さってくる。毛根が死ぬ熱視線である。
 最早ハゲそうな圧力に耐えられず、やめとけばええのに「何でそう思いはったんですか」と結局聞いてまう愚かな自分である。自分で墓穴掘るのは確かに特技ですけども。開き直りも肝要である。

「昔コンビ組んでた時、写真見してもろたことあって」
「そうでしたか」
「いやでもほんま、すごい偶然もあるもんなんやな……」
「そうですねえ」

 あんのあほんだら、何してくれとんねん。要らんやろ元カノの写真とか。世界一不要や。
 平然とした顔を作って返事しつつ、脳内でぬるちゃんをボコボコに殴っておき、何とか溜飲を下げる。
 こちらがきちんと肯定した訳ではないのに、躑躅森さんはそうかそうかあと勝手に納得している様子である。この先生、めちゃくちゃ詐欺とか引っ掛かりそうやな。大丈夫か。
 ぼやぼやしている間に信号ももうじき変わる。ハンドルを握り直し、色んなものを諦めて肩から力を抜いた。白膠木簓がラジオに登場したのは宣伝の一瞬だけで、その後は最近デビューしたばかりのロックバンドのナンバーが流れ続けている。油断したらまた刺されそうで怖い。何でこっちが怯えなあかんねん。
 しかしまあ、白膠木簓の元相方と元彼女が同じ車内にいる現状は、極めて奇妙なものである。何とも言えん空気の中、研修会場までの最短距離をなぞっていく。

「……あいつとは、会うてますか」

 ラジオやなくて後部座席から刺されるとは思いたなかった。ほんまに。
 それでも一定の力でアクセルを踏みながら、何でもないように返すのが正解である。無駄な情報を与えてもしゃーない。営業用の笑みを崩さないように細心の注意を払って、世間話の温度感を保つよう努める。

「残念ながら、偶然何度かこのタクシーに乗せました」

 一週間も予約があったことなど、わざわざ言及する価値のない真実は伏せておくに限る。
 そうなんや、と零した躑躅森さんの表情には僅かに翳りがあった。彼の美しい顔ばかり見ているとうっかり交通事故を引き起こしかねないので、きちんと正面を見据える。
 後ろから迫っていたバイクがぶおんと大きなエンジン音を立てて、横を擦り抜けていった。そうそう、こーゆー輩がおるから十分に気ぃ付けなあかん。ナゴヤ程やないけど、オオサカも運転荒い輩いっぱいおるし。

「……あいつ、元気にやってますか?」

 何で元相方には会うとらんと、元カノのタクシーに乗っとるんやあの男は。
 寂しげに響いた声に、眉間の皺を気合いで解いてウインカーを指先で押す。お客さんの前で感情的になるのはよろしくない。

「テレビ観る限りは元気そうですけど」
「あ、まあ、それは……」

 淡々と述べたそれに、彼はバックミラー越しにしゅんと叱られた良いとこの猫ちゃんみたいな顔をした。わたしは慌てて笑顔を取り繕った。この人冗談通じへんのか。ほんまに芸人さんやったんか?

「すんません意地の悪いこと言うて、本気にせんとってください」
「何や、嫌味も言うんや」

 ぱちぱちと瞬きをした躑躅森さんの声は、今度は可笑しそうに震えていた。嫌な汗かいたわ。こめかみを白手袋の指先で押さえる。
 滑らかに右折し、アクセルを踏んだ。思ってたより車の数も少ないので、このペースであれば余裕で間に合うな。運が良かった。わたしの運はどっちか言うたら下から数えた方が早そうやけど。

「……ほんまに白膠木と会うてはらへんのですか?」

 あんだけ相方を求めて彷徨い続けていたぬるちゃんが、解散したからと言って彼に粘着していないものなのかがめちゃくちゃ不思議に思われ、わたしは気付くとまた不要な質問をぶつけていた。

「いやほんまに、解散してから全然会うてへんですよ。……あ、俺ら同い年ですよね? 敬語要らんですよ」

 あいつ、ほんまどこまで喋っとんねん。脳内でコブラツイストをキメて再び溜飲を下げる。

「ほな、お互い敬語なしで。……実は、ここんとこ一週間、白膠木の専属運転手やらされとって」
「へえ? あいつ、気まずいとか思うたりせえへんのかな」
「何も考えとらんのやろ、と言いたいとこやけど、あいつの脳内意味分からんから何とも……」

 素直に悪口を告げると、躑躅森さんは腕を組んでうんうんと深く頷いていた。いやでも、ほんまは元相方の悪口なんか聞きたくないやろにごめんな、と反省の意を示そうと思った瞬間だった。

「確かに意味分からんよな。簓の中では理屈通ってるんか知らんけど」

 悪口言うても全然問題なさそうやった。
 ふて腐れたように窓の外に視線を投げて、躑躅森さんはわたしの言葉を否定するどころか全肯定である。そんなことある? お笑い芸人のコンビってほんまは仲悪いのがデフォルトなんか?
 この機会を逃せば愚痴を零すタイミングもないだろうと判断した後、わたしの口は勝手に回った。

「……人の話全然聞かへんし」
「それな」
「緻密にやっとった思たら、急に適当になるし」
「ほんまそれ。板の上とそれ以外の時、絶対違う人間やろあんなん。あいつのしょーもない親父ギャグと、本番での切り回しの差は何なんや」
「めっちゃ分かる。あと、貸したもん返ってこおへんし」
「俺もや。あいつ誰にでもそうなんか?」

 え、どないしよめっちゃ会話盛り上がってまうねんけど。この場におらん人間の悪口で。良くないとは思いつつ、滑り出した声は止まらず、やいのやいのと想像以上にラリーが弾む。
 躑躅森さんもだいぶ鬱憤が溜まってはったようで、時折眉間を指でぐりぐりしながら過去の碌でもない思い出を投げては溜め息を漏らしていた。

「……お互い、あいつに会わへん方が自分のためやて気ぃしてしゃーないなあ」
「何も反論できへん」

 二人とも苦笑いを零して、揃って遠い目をするしかない。言うだけならなんぼでも言える。

「てか、元カノの車乗る男て精神状態どないなん? やっぱ病院連れてった方がええんちゃうか思てるんやけど」
「普通気まずいわ。最初は偶然やとしても、何べんもよう乗らん思うけどなあ」
「やっぱそうよな、わたしだけが胃ぃ痛いん可笑しいよな。ありがとお躑躅森さん、今日にでもぬるちゃん説得して別のタクシー乗ってもらうようにするわ」

 元相方に対する盛大な悪口を止められる素振りもなく、わたしは最近ずっと考えていた言葉をぼろぼろと明け透けに喋ってしまうが、躑躅森さんはうんうんと首を縦に振るばかりである。
 心強い言葉に胸を打たれ、わたしは決意を新たに、前向きな気持ちでアクセルを踏んだ。
 盛り上がった後の微妙な静寂の中、次の口火を切ったのは躑躅森さんだった。

「……簓がタクシーずっと乗ってるのて、そおか、いま年末進行か」
「スケジュールカツカツみたいで。朝は車内で爆睡」
「簓でもしんどい仕事量か。あいつ頑張っとるんやな……待って、車内で爆睡? ほんまに?」

 後部座席から乗り出すような勢いで、躑躅森さんがこちらを凝視してくる。目力がすごすぎて夢に出てきそうなので止めてほしい。イケメン怖い。

「……いつもアイマスク着けて、ぐーぐー寝とるけど……」

 怯えるあまりにこちらの供述の声から力が抜けていく。躑躅森さんは訝しげな眼差しのまま、顎に手を当てて深刻な顔付きである。

「俺、コンビ組んでた時、あいつがロケ車で寝とるの見たことないねん」

 おもんない冗談も言うんや、と半笑いで返すと、今いっこもふざけてへんでと突き返され、わたしの顔は虚無になった。
 一度もないですか、と思わず敬語で尋ねると、一度もありません、と素直な返答がある。
 元相方の言葉の重みに肩が悲鳴を上げていた。わたしは断末魔のようなものを必死に堪え、急に乗せられた何十個の重石を振り払うこともできず、赤信号に備えてブレーキを踏み始めるしかない。
 前方にこちらの横をイキッて通り過ぎていったやんちゃなバイクの姿を発見し、これは信号で追いつくなあと微妙な気持ちになったがしゃーない。煽り運転さえされへんかったらええわ。タクシーが煽りに乗っかるわけないやろに、おつむの足らんことで……と嫌味モードの自分が出てきた辺りで思考を遮断する。

「簓、昔からちょっとでも運転荒いと寝られへんねんて言うとったわ。そーゆー意味やと自分めちゃくちゃ運転上手いから、あー成る程」
「いや勝手に納得せんとってくれはる?」
「せやから諦めた方がええと言うか……年末進行終わるまでは我慢するしかないかもしれへん」
「嘘やん」

 地獄の開幕宣言に白目を剥きそうになりながら、赤信号に従って車体を停止させた。ラジオから流れ出ている昔流行ったアイドルソングが、より虚しさを引き立ててくる。

「今かて法定速度ギリギリでめっちゃ安定しとるし。俺が乗ったことある人ん中で一番運転上手いで」
「そらどうも……」

 褒められているのに嬉しさがどんどん泡のように消えていく。こんなのはじめて。やったね嘘やろ。

「爆睡できる貴重なタクシーと元カノを天秤に掛けて、タクシーが勝ってもうたんやな」
「冗談キツイな……」

 いや、ほんまに冗談キツイな……
 ハンドルを握るわたしの顔から生気が失われていくのを後部座席から見守っていた躑躅森さんだったが、彼はこちらを慰めるような言葉はひとつとして出さないので、ただ褒めているつもりなのだろう。

「これで一本ネタ書けてまうな」
「勘弁して……」

 項垂れつつも、彼を送り届けるまで運転は続けるしかない。
 そうこうしている内に先生がわんさか集まっているであろう研修会場の姿も、肉眼ではっきりと捉えられる距離になってきた。僥倖である。

「あー、もう着きますんで。降りる準備始めとってな」
「分かった。今日はほんまありがとうな!」

 自分のタクシーに拾ってもらえへんかったら、俺は研修間に合わずに上司にドヤされとったわ。ほんまありがとお。
 夏の炭酸飲料の宣伝に出演していても可笑しくないような、爽やかな笑顔だった。改めて表情の振れ幅の大きな人やなあと思いながら、干涸らびた表情筋で躑躅森さんを見送る。
 暗雲が垂れ込み始めた進路には気付かない振りをして、わたしは流しのお客さんを引っ捕まえに道路に戻った。




 冬の日暮れは早く、既に夕焼けの色が網膜を焼く頃合いだった。何人かのお客さんをどんぶらこと運び、あと一人くらい乗せたらぬるちゃんのとこに向かわなあかんなあと思いながら、のんびり車体を走らせる。
 次の乗客を見繕いがてら歩道の辺りを眺めていると、自分の中ですっかり知人の分類になってしまった躑躅森さんの姿が飛び込んできた。手でも振っとくかと思った矢先、何やら様子が妙である。眉間にごっつい皺。その両脇を色付き眼鏡の厳つい兄さん達が固めている。
 先生の研修って暴対訓練やったんか? 研修会場の外で実技も行うとか、随分とまあ熱心なことで。
 ……ふざけたところで誰もツッコミしてくれへんので、しょーもない予想は切って捨てておく。この辺りは特別治安も悪くないのに、引かんでもええ貧乏くじを引きはったに違いない。あーあーあー、胸倉まで掴まれてもうて。仕立ての良さそうな黒のトレンチコートに皺が。
 ハンドルを切ってすぐ傍まで車を近付けて一時停止し、運転席の窓を開けてわたしは声を張り上げた。

「躑躅森さん!」
「え?」

 彼は急ぎこちらを振り返って、わたしの顔を認めて一瞬で破顔した。良かった、声は通ったらしい。

「弟くん事故ったんやて! 病院まで送るからはよ乗って!」
「な、わ、分かった!」

 躑躅森さんは厳つい兄さん達の手を難なく振り払って(兄さん達はその衝撃で新喜劇のお約束をきっちり守って歩道にすっ転んでいた)、ガードレールを長い足で跨いでタクシーまで駆け込んできた。
 予想どおりに車体は横に揺れる。怒号を放つ兄さん達に追いつかれる前に車扉を急いで閉め、わたしはアクセルを踏んだ。
 さっきまで折角涼しそうな顔をしてはったのに、躑躅森さんの額にはぶわりと汗が浮かんでいる。シートベルトお願いしますね、と言うと、彼ははっとした顔でストラップを鷲掴みにした。

「なあ、事故て、詳細は!?」

 お、音量が凄まじい。鼓膜が破れるかと少しひやりとしたが、あまりにも真剣な表情に茶化すのも躊躇われる。「はよ教えてくれ、俺の弟は無事なんか!?」張り上げられる声に、わたしはでっち上げて呼び止めるにしても、もうちょいマシな理由にしておけば良かったと深く後悔するしかなかった。

「……いや、一瞬で騙されるやん……」
「は?」

 漏れ出た声があまりにも厳ついので、間違えてさっきの兄さん達も乗せてもたか? と不安になるが、後部座席には躑躅森さんひとりである。
 やっぱえらい人と関わってしもたんちゃうか、と何度目かの後悔を奥歯で噛み砕きながら、とりあえず近くの駅に向かって車を走らせることにする。

「躑躅森さん、今更やけど一応先生なんやんな?」
「そ、そおやけど、それが何やねん」
「いや、さっきの明らかカツアゲやったやんか……」
「カツアゲェ?」

 跳ね上がった語尾と眉毛に反射で脱力しかける。危惧したとおり気付いてなかったようである。純粋培養なんかこの人は。ぬるちゃんは相方として今まで何しとったんや。社会人基礎力の育成はどないなっとんねん。
 いや逆か、ぬるちゃんが何でもかんでも全部面倒見とって、躑躅森さんが成長する機会がなかった気がしてならん。

「ほんで、俺の弟は!」
「ごめん、その場凌ぎの出任せやってん。不快にさせて申し訳ない。……勘やったけど、ほんまに弟さんおるんや」
「出任せ……」
「あの兄さん達の間に入ってく勇気はなかってん。これで許したって」

 苦し紛れにコンソールボックスの飴ちゃんを彼の大きな手に押し付ける。現状把握のためか、長い睫毛がばしばしと瞬いていた。

「……いや、大声出してすまん。俺のこと助けてくれたんやろ。ありがとう」

 ようやく躑躅森さんの沸騰していた体温が平熱に戻ってきたようである。今日だけで二回も助けられたわ、と彼は頭を掻いて気恥ずかしそうな様子だ。

「無理矢理乗せたようなもんやわ。……近くの駅まででええ?」
「あ、実は学校戻りたいねん。電車の乗り継ぎしてたら結構時間かかるから、逆に助かったわ」
「今から戻るん? 先生は大変やな」
「まあ、ぼちぼち。ええと、住所これな。あ、料金はちゃんと払うからな」

 お金のことはちゃんとしときたいねん、と頑なな躑躅森さんが、早速飴ちゃんのセロファンを剥いて口に放り込んでいる。了解、と返してアクセルを踏んだ。
 今更ながら、随分と話しやすい人やと思った。精神が開かれているというか、良い意味で裏表がなくて実直で。ぬるちゃんという共通話題を引っこ抜いても、躑躅森さんとの会話は和やかなものだ。
 何で彼らは解散してもたんやろ、と野次馬根性で問い掛ければ、そのまんま自分に跳ね返ってくることは火を見るより明らかなので、余計な口は叩かない。
 帰宅ラッシュの寸前であったことが幸いし、彼の勤務校へはあっさりと辿り着いた。

「今度こそお帰り気ぃ付けて」
「はは、ほんまやな。ありがとお。ほな、またどこかで」

 にこやかに手を振って、躑躅森さんは学校の正門へ吸い込まれていった。辺りはすっかり暗く、その背はすぐに見えなくなる。
 またどこかで。確かに、オオサカ言うても狭いもんやから、またどっかでひょっこり出会すかもしれん。
 肺の内側からぶわりと二酸化炭素が漏れ出ていった。何やめちゃくちゃ疲れたけど、ぬるちゃん迎えに行かな。わたしの業務はまだまだこれからなのである。

07|常しえのブルームーン

210803
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