背骨がぐにゃんぐにゃんする程度の疲労感とエコバッグ片手に、ようやく玄関に辿り着く。本日もお疲れさまでした、と自分で自分を労る言葉でも吐かないとやってられん。
 すっかり鼻の先も耳も冷たい。今日はよお働いた。ぬるちゃん、でかい会議に向かう企業戦士、靴連れで半泣きになってた女子学生、中略一、病院にお送りした老夫婦、躑躅森さん、議員さん、お店に出勤するお姉さん、どっかの企業の社長さん、中略二、躑躅森さん、ぬるちゃん、お店に出勤するお姉さんと客の兄ちゃん、買い物帰りのおばあちゃん、中略三、ぬるちゃん。
 いや、ほんまよお稼いだ。疲れるわけである。さっさとご飯食べて風呂入って寝よ。
 鍵を回して、一人暮らしの女が防犯対策の体裁を保つだけの「ただいま」を零し靴を脱ぐ。体温を失った鼻先を擦ると同時、リビングに繋がる扉が勝手に開いた。

「おかえり!」

 は?
 聞こえるはずのない返答があり、脱いだはずの靴に咄嗟にもう一度足を突っ込む羽目になった。金属の扉に背をぶつけて、大袈裟な音が鳴る。不審者が自宅の中にいた場合の正しい対処法て何? まずは警察に通報?

「お疲れちゃんやでー」

 身構えるこちらに向かって、明るい部屋の中からひらひら手を振る私服の白膠木簓の、季節外れの向日葵みたいな笑顔のお出迎えである。
 顔見知りの不審者やったので、絶句しながらも観念して靴を脱ぐ。まだ脳は混乱している。よくよく見やれば、玄関の隅に紺色のニューバランスが我が物顔で鎮座していた。

「……いや、何、なんでおんの」
「炬燵あっためといたで!」

 秀吉みたいな言い方しよるけど、要は勝手にわたしの家の光熱費を上昇させているだけである。今月の電気代全額請求したろか。
 てかどないやって家ん中入ってん。そもそも住所教えてへんし。疑問符は山のように積み上がって雪崩れ、わたしはひとまずエコバッグと腹立たしさを台所に置き、コートを脱いだ。手が塞がっていては危険である。この男はいつも何をやらかすか全く予想が付かん。頭痛なってきた。すくすく芽生えてしまう苛立ちで語尾も震える。

「不法侵入て言葉知っとるかしらね……」
「まあまあそうカタイこと言わんと! 手洗いうがいしてはよ座りぃや」
「家主ムーブやめえ」

 違法行為がカタイことやと? どういう神経しとんねん、今すぐ警察に突き出したろか。あと折角自宅まで送ったったのにガソリンの無駄やんけ。

「もー、しゃーないなあ、簓さんがお茶いれたろ」
「帰れ」

 何もしゃーなくない。勝手に己の行いを正当化すな。
 勝手知ったる様子で電気ケトルをごそごそしている様子に寒気がする。炬燵の天板の上にはわたしが日頃使っている急須とマグカップが鎮座していて、湯気まで立ち上っている始末である。
 こいつ、既にお茶飲んで全力で寛いどるやないか。しかも蜜柑まで食うとる。二個も。がめつい。
 台所に鎮座している膨らんだエコバッグを見て、お、とぬるちゃんが腰を上げた。

「買い物してきたん? 冷蔵庫入れるん手伝おか?」
「自分でやるわ」

 いや、ちゃう、この返しはちゃう。ほんまにちゃう。
 本気で居座るつもりか。卵やら野菜やらを冷蔵庫に突っ込んでいると、なあなあと声掛けがある。

「俺今ほうじ茶飲んでるねんけど、同じでええ?」
「いやほんまにお茶いれようとせんでええ。座っとれ」
「えっ優しい」
「いやちゃうねん帰れ」
「おこたに帰らせてもらうわア」

 水を入れたケトルのコードをコンセントにぶっ刺し、コタツムリ~とふざけた言葉と共にカタツムリの如く炬燵に潜り込んだ彼は、誠に遺憾だがほんまに帰る気はなさそうである。

「せや、晩ご飯は? これから?」
「…………」
「あ、俺は楽屋で弁当食べたから、気にせんと食べてや」
「そらどうも」

 七割引きになっていたスーパーのお総菜を皿に移し替え、電子レンジに突っ込む。ぬるちゃんのペースに踊らされると体力を一気に消耗するので、なるべく距離を保って干渉しないことが重要である。
 なお、ぬるちゃんは策士であるので難易度は言及するまでもない。絶望はすぐそこに迫っていた。

「……いつまでおる気なん」
「は~い、こちら検索結果で~す」

 乗換案内を表示したスマホの画面を見せ付けられ、覗き込む。ぬるちゃんの自宅の最寄り駅に辿り着くのは朝の五時を示していた。即ち鉄道で帰るのであれば始発に乗れという指示である。

「こーゆー時のためのタクシーやろ。弊社電話したろか」
「いや、実は泊めてほしなあて」

 あっという間に仕事を終えてしまった電気ケトルの鳴き声を聞いて、ぬるちゃんが炬燵から飛び出した。沸騰した湯を急須に注ぎ、廊下に置いていた段ボールから追加の蜜柑も拝借していく有様である。いや自分の家ちゃうぞ。
 ────現実逃避に失敗している。「泊めてほしなあて」?

「…………はあ?」

 疲れた脳味噌で必死に言葉を咀嚼して、喉から飛び出たのは随分とドスの利いた声だった。

「いや恋人んとこ行けや頭湧いとんのか真面目に意味分からへん人のことを恋愛劇のスパイスにすな」
「暴言の嵐やんけ! たっ頼む! 見捨てんとってえ!」

 あまりに腹立たしい。炬燵の傍に置いてあったぬるちゃんのリュックを鷲掴みにして玄関に向かおうとすると、コタツムリが悲鳴を上げながら軟体動物とは思えぬとんでもないスピードで這い出てきた。素早すぎてキショい。
 リュックを必死に回収するぬるちゃんに対し、エコバッグを畳みながら「ほな理由あるんやったら言うてみ」一応弁明の機会を与えてみることにする。

「…………」
「…………」

 電子レンジの前でふたり、滑稽な棒立ちである。彼は真剣な表情で、そろりと目線を合わせてきた。
 何や、ほんまに犯罪にでも巻き込まれたんか。一応腐っても芸能界に身を置く男なので、全く有り得ない話ではない。
 唾を飲み込んで喉を鳴らした彼は、恐る恐る口を開く。

「……名を言うたらあかんアレが出た」
「へえ、帰れ」

 めちゃくちゃ冷たい声が出た。しょーもな。心配してめちゃくちゃ損した。

「いやや無理! 俺退治できひんもん!」
「はいはいお家帰ろねえ」
「無理なんやってえ!」
「うわっ」

 再びリュックを手に玄関へ誘導しようと試みたところ、想像以上に必死な様子のぬるちゃんの腕に絡め取られた。急に縋られて硬直するわたしを逃がさぬよう、器用に炬燵の中へ引き摺り込んでくるから始末が悪い。手加減という単語を知らんのか、容赦のない力である。ほんまにパニクっとんのか。

「痛い痛い手え掴むんやめてや」
「いやほんま無理やねんて……アイツ飛ぶねんで? めっちゃ飛ぶねんで?」

 ガクガク震えるぬるちゃんの情けなさに溜め息が出る。せやった、学生の頃から虫全般得意やなかったもんな。学校の中庭で見かける虫にも震えとったもんな。

「そんなんスリッパとかで叩いたら終いやろ」
「無理やあ! 触覚ぴこぴこしよるし、動く時カサカサ言いよるし、狙ったようにこっちに飛んでくるしい!」
「殺虫剤は?」
「いやまさか、あの階で出るとは思わんくて……」
「食器用洗剤でもいけるで。あとお湯」
「いやちゃう、具体的に何が効くとか言われてもな、アイツの目の前では俺の足は竦んでしまうんや」
「何堂々と言っとんねん」

 無駄なキメ顔が腹立たしい。
 電子レンジが温め終了の合図を鳴り響かせる。べたべたまとわりつくぬるちゃんの手を払って炬燵から脱出すると、見捨てんとってくれえと半泣きの声が更にしがみついてきた。今日の粘着性の強さは何なん。

「頼むて~~~~~夜アレがおる中で寝られへんもん~~~~~明日も仕事やし流石に寝やな困るんやって~~~~~お願いや~~~~~俺ら友達やろ~~~~~」
「鼻水出とるぞ」
「ティッシュちょーだい」

 降って湧いた友達アピールは鬱陶しい。
 差し出したちり紙で豪快に鼻をかむかと思いきや、所作は至って大人しいものである。ぬるちゃんの大きな身振り手振りはお仕事用で、それに引き摺られて日常でもオーバーアクション気味な部分はあるが、それ以外の所作は驚くほど音が少ない。
 やけどこの男は魂が芸人なので、ティッシュでこよりを作って鼻の穴に突っ込む動作をせずにはいられないのだ。構うとどんどんちょけよるのでスルーが大事である。

「てか冬やのにゴ「ウワー!」……出るのて、大概ヤバい思うで。そんなん一匹で済まへんやろ」
「こっわ! やめて! ほんまに帰られへん!」

 繁殖しやすい夏場ならまだしも、今は冬の真っ盛り十二月である。どんな住環境か知らんけど、事態としては深刻な方に分類されるだろう。
 チンした筑前煮を奥歯で噛み締め、インスタントの味噌汁を一口。この時間なので白米は我慢した。フリーズドライの茄子の味噌汁めっちゃ美味しい。自炊をする元気がない時は大変お世話になっている。

「あんたそんなんで今までどないしてたん」
「相方が退治してくれとったから……あと彼女……」
「ほんましょーもない男やわ」

 こんなんで傷付く自分も、大概しょーもない女である。あほくさ。

「あんた、今付き合うてる人おるんやろ。その人んとこ行ったらええやん」

 何でもないように言うことができたので、誰かわたしを盛大に褒めてほしい。
 正論を述べたにも関わらず、ぬるちゃんの表情は翳ったまま、今更気まずそうに頬を掻いている。

「いやあ、向こうも仕事で疲れてるとこに、この時間やんか……起こすの可哀想やし……」

 時計を見やれば、確かにもうじき日付も変わる時間帯になりつつあった。恋人(いま社会人であることが判明した)を労る姿はまあ健気なものである。
 いや、わたしはええんかこの野郎。ふざけとんのか。友達に対しても最低限は気ぃ遣えや。
 引き攣りそうになる口許は味噌汁で有耶無耶にして、筑前煮の鶏肉とゴボウを噛み締める。ぬるちゃんがわざわざ顔を覗き込んでくるので、思わず背を反らせて距離を取った。八の字眉毛を披露され、嫌な予感がする。

「……ごめん、嘘やねん。昨日別れた」
「あ?」

 いやそんなことある? もうぬるちゃんの言うことなんか何も信じられん。
 平然と主張してくるその神経の構造を暴く元気もなく、それどころか何処かでほっとしている自分は電子レンジに追加で突っ込んだ。現状を無理矢理納得させる材料で固めたところで、出来上がる代物が美味しいはずがない。爆破。
 まあ本人が別れた言うてるんやったら、三割くらいは信じといたってもええかもしれん。ひとまずこの鬱陶しい現状を何とか打破せんと、わたしは安眠にすら辿り着けない気がしてならない。

「今日泊まるとこ、芸人さんでツテないん」
「年末進行は俺だけやないねんて……んで年末進行時の芸人の部屋なんか、足の踏み場もあらへんし」

 尤もな発言が返ってきてしまい、ぬるちゃんお得意の外堀を埋める作戦が既に決行されていることを知る。
 絶望で顔面を殴られたが、まだ負けてはいない。選択肢は残されているはずである。防戦だけでは立ち行かなくなるのが目に見えているので、反撃を開始する。

「サカイの後輩君達」
「あいつら布団やなくて寝袋で寝とるもん。あと風呂ない」
「マネージャーさん」
「別の芸人のロケに同行しとって、今カプセルホテルやて」
「ビジホ」
「やー見てくださいこの満室状況今日何これこんなことある?」
「……あー、アイドルグループのツアーとか? うわ、ビンゴや。今日と明日と……ちゃうな、他のアーティストのライブもいくつか被っとるわ」
「ほらー! 正当な理由やろ!」

 スマホから顔を上げると、彼は頬をぷくっと膨らませて社会通念上の道理が通っていることを盛大に見せびらかしてくるので、思わず半歩退いた。アラサーて言葉知っとる?
 しかし不運も甚だしい。確かにこのアイドルグループのライブがあると、周辺のホテルが一気に満室になるのは有名な話で、ライブが重なっている他のアーティストも大御所である。
 あまりにも悪条件が重なっていて、ぬるちゃんも不可抗力で、最終手段として、もうどうにもならんから、しゃーなしにこの元カノの家を頼りにした、という結論が目前に踏ん反り返っていた。
 いや、ほんま何がしゃーないねん。
 わたしがぬるちゃん宅まで行ってゴキ退治に励むことも考えたが、一匹殺して終わるか分からんので結局ぬるちゃんの安眠を確保できるか分からんという理由で、やむを得ず却下となった。
 何個目かの蜜柑を咀嚼していたぬるちゃんが、わたしの絶望顔を眺めてにやにやしていたのも束の間、今度はそわそわと落ち着きを無くし始めた。煙草か? この家は禁煙やけどな。味噌汁を啜りながら様子を伺っていると、彼は遂に蜜柑の皮を炬燵の天板に放り出して、頭を抱えて縮こまった。

「アーッ居たたまれへん!」

 あまりに今更な懺悔に、筑前煮の人参を噛み砕きながら「気付くん遅ない?」と投げ掛けてしまう。どんだけ時差開いとんねんと言いながらゴボウを噛み締めた。ぬるちゃんと視線はかち合わない。
 俯いた彼の声帯から、弱々しい告白が零れ出た。

「……いや、ちゃうねん。嘘やねん」

 どれが。全部か。

「ちゃうちゃうちゃう、全部ちゃう! 帰られへんほんまの理由、やねんけど……いや、ゴ……もほんまに出たんやけどな? 宿も全滅やけどな? 彼女ともほんまに別れてもうたけどな?」

 顔を上げた彼はいつになく深刻な表情で、硬い声音でこちらの顔色を窺っている。ここまで緊張した面持ちも珍しい。まるで就活生のそれである。

「……怒らへん?」

 何やそのお母さんに無理難題なお伺いを立てる子どもみたいな聞き方は。

「内容による」
「怒らへんて言うて!」
「はよ言いよ」

 ほうじ茶を啜ってじとりと睨み付けると、観念したようにぬるちゃんが視線を斜め下へ向けた。先生に怒られる生徒の図に収まることにしたらしい。

「……や、何かな、俺ん家の前に変な人おってな」

 たっぷりとした沈黙が落ちた。

「……正直そこまでやと思てなかってんけど、ほんまに阿呆やってんな」
「やっぱ暴言やん!」
「そっちのがよっぽど出たらあかんアレやんけ」

 あまりにも残念すぎる結果である。ゴキ云々の前にそれを先に言わんかい。
 炬燵に全身潜り込むようにして逃げるぬるちゃんを引き上げるが、頑なに視線を合わそうとしない。こんな時ばっかふざけよって。わたしの声音はどんどん硬質に寄りつつあった。

「警察は?」
「や、まだほんまに変な人やて決まった訳ちゃうし……」
「喧しわ。状況は」
「あー、うん……何や知らんけど、全身黒ずくめの男でな、エントランスにずっと立っとって微動だにせんから、ちょいブキミやなー思て、とりあえずコンビニで時間潰して戻ってきたら、今度は俺の部屋の前におってんやんか」
「ウワ……」

 メリーさんかと思たわ、とちょけるぬるちゃんだったが、いっこもおもんない。現実で起きたんやったらただのホラーである。
 炬燵の上に一度伏せていたスマホを手に取り、警察の相談窓口を検索する。こちらの胃痛を他所に、彼は底抜けに明るい声で続けた。

「エレベーターの扉越しに後ろ姿が見えてもたから、まあ逃げてきたっちゅーことや!」
「胸張る要素いっこもなかったで、分かっとるか」
「ちょっとでもおもろい話風にしようとしてるんやんか~」
「駄々滑りや、こんあほんだら」
「辛辣やなあもう」

 辛辣にもなる。ほんま何やねんこの男は。
 流石にこの寒空の下、不審者が跋扈している可能性のある中で彼の家の前に放り出すわけにもいかん。重い溜め息を吐き捨て、現実を受け止めるしかなかった。
 はいはいわたしは都合のええ女ですよ。ほんま最悪や。

「マネージャーさんには相談したん?」
「や、プライベートのことまでは……」
「アホか、仕事に影響出るかもしれんねやったら言わなあかんやろ」
「ええー……」

 渋る様子に、思わず眉間に皺が寄った。
 わたしはほぼ確信していた。言うのを少し躊躇って、舌先で転がしてから、結局尋ねることにする。

「……ぬるちゃん、もしかせんでも初めてやないやろ」
「な、何がや! 俺の童貞は自分の処女と相殺されたやろ!」
「喧しわ。今真面目な話や、ちょけんな」
「はい……」

 深刻な話題にしたくないという魂胆が明け透けである。わたしは舌打ちしたいのをどうにか堪え、あまり刺々しい声にならないように注意を払いながら、彼の薄い目蓋に視線を投げ打った。

「ほな聞くけど、あんたの元相方さんの家の前に不審者が出没して、『警察に言うほどちゃうし』とか言うてたらどないする?」
「そんなん! ロショー説得して即行で警察行くに決まってるやん!」

 炬燵から飛び出てきたぬるちゃんの顔は、当然の正義感に溢れていた。

「言うたな」
「あえ……」

 こちらの渾身の目力に怯える白膠木簓は弱々しい。

「今言うたの、相方さんを自分に置き換えるんやで。わかるな?」
「ひゃい……」

 ほんまに碌でもない。思えば昔から、ぬるちゃんは自分のことを蔑ろにする癖が染み付いとるというか、楽観視し過ぎるというか。
 二十数年そうやって生きてきた人間を説得するには時間が掛かる。今この場で何とかなるとも思えん。とりあえず早いうちに現場確認して、警察に相談だけでもしとかんと。

「彼女さんには?」
「や、付き合うてた時はそんなんなかってん。ほんまやで。せやから、余計な心配かけるのも嫌やし、まあ言わんでもええことは言わんとこかなて」
「…………」

 この男、今までずっと言わんでもええことやと勝手に判断して拗れてきよったんやな。間違いない。救いようもない。
 わたしが救う必要も、本来ない。友達ができる範囲に留めて、あとは本職にお任せするのがええ。
 ごちそうさま、と手を合わせてから食器を台所へ運ぶ。彼の視線がわたしの背中を這った。
 わたしはいつになったら甘ちゃんを卒業できるんやろ。

「ほな、今日はさっさと風呂入って寝え。ベッド使てええから」
「えっ自分はどないするん」
「炬燵に毛布突っ込む」
「あかんて! 風邪引くやん!」

 誠に残念ながら、この家に来客用の布団はないのである。選択肢は最初から限られている。

「別に今からでもあんたの家まで送ったるけど」
「いや、あの、ちょけてすんません、本日こちらでお世話になりたいんですが……」

 貴重な敬語まで拝めてしもた。残念ながら本気や。
 何やかんや言うても、不審者が自宅の前を彷徨いていたら誰でも怖いに決まっている。相手の詳細が分からへん今は特に。
 ほんまに帰るつもりがないなら、こちらもそれなりの対応が必要である。季節は冬、相手は腐ってもテレビに出る人、何があっても風邪を引かす訳にはいかん。ぬるちゃんは間違っても身体が丈夫とは言えんので、過保護なくらいで多分丁度ええ。
 重苦しく長い溜め息を吐き捨て、炬燵から這い出る。簡易クローゼットの中、ここ最近は殆ど出番のなかった目的物を手探りで見付ける。

「着替え、こんなんで良かったらあるけど」
「あー、最近女の子でもメンズ服着たりするもんなあ、て何で上下揃えのスウェットがあんねん!」

 完全にコントの時のノリツッコミを披露した彼は、グレーのスウェットを手にわなわなと震えていた。前髪で見えんけど額に青筋浮かんでるかもしれん。まあ、一人暮らしの女のクローゼットから出てくるとは思わんわな。

「デリカシーて言葉知っとるか?」
「あんたがその単語知ってた方が驚きやわ」
「自分に男の兄弟がおらんことは調査済みなんや……この意味が分かるか……?」
「せやから強制はしてへんやろ」

 言わんかったけど元カレのものであることはぬるちゃんの中で事実となってしまったらしい。彼の背後にはぷんすこぷんと怒りのオノマトペが浮かんでいるが、指摘したらわたしの負けである。罠が巧妙。
 サイズを確認するために裾を伸ばしている様子だったが、ぬるちゃんの機嫌は下り坂をトップスピードで転がっていく。

「はーっいややほんま腹立つ……しかもでかいし裾長いねんけど! 何なん!」
「大は小を兼ねるやろ。ちゃんと洗濯済みやし。嫌やったらお家帰り」
「鬼! 悪魔! 人でなし! あっお風呂は先どーぞ」
「いやそんだけ暴言吐いてから気ぃ遣っても遅いからな」
「その間にコンビニ行ってくるから鍵貸して」
「いや、不法侵入した時のブツでいけるやろ」

 手をぽんと叩いて、ぬるちゃんはコートのポケットから徐ろに針金のようなものを取り出した。技術力が怖い。鍵の付け替えってなんぼかかるんやろ。
 灰色の溜め息を零して、わたしは鞄の中をまさぐった。目的物を引っ掴んで、ぬるちゃんの手に押し付ける。「ええの?」ぱあっと花の咲いたような笑みを浮かべられて内臓にダメージが蓄積していくのを感じる。

「何べんもピッキングされる方が嫌やわ。戻ってきたら炬燵の上に置いといて」
「ほな有り難く」

 一瞬、不審者のことが頭を過ぎったが、ぬるちゃんの自宅と此処は随分離れているし、コンビニは徒歩一分の距離だ。一人で行かせても多分問題はないと判断し、ベッドの上に畳んで置いていた自分のスウェットを手に脱衣所へ向かった。
 これは、ほんまに正しい選択肢なんか。何の確証も得られないまま、服を脱ぎ始める。

「パンツと歯ブラシ買うてくるわ~」
「わざわざ言わんでええ」




 風呂を上がって部屋に戻ると、コタツムリが復活していた。天板にはネタ帳らしき小さなノートが広げられている。流れていたテレビの映像はバラエティトーク番組で、氷筋多聞が司会をしていた。

「お湯張ってるからちゃんとぬくもりや」

 水を飲みながら丸い後頭部に向かって言うと、またしてもぽかんとした顔でこちらを見上げてくるぬるちゃんだった。最近間抜けな顔ばっかやけど大丈夫か。

「……すっぴんやん。かあええなあ」

 炬燵の天板にのろのろと頬を預けて、蕩けたような声で言わんとってほしい。

「見慣れとるやろ、白々しい」
「いやなんか、きゅんとしてもうて」

 高校生の頃はほぼほぼすっぴんやったのに、何を今更。わたしの心臓も誤作動を起こしている場合ではない。さっさと平常運転に戻れ。

「起きたまんま寝言言えるねんな」
「褒めたんに! ま、ええわ、お風呂いただこ。はーどっこいしょ」

 わざとらしい掛け声と共に、彼はひょこひょこと脱衣所へ消えていった。
 風呂場から聞こえるシャワーの音に集中しないよう、テレビを適当にザッピングする。何か嫌やなこの構図。かと言って一応客人である彼をほったらかしにして先に寝入るのは憚られる。欠伸を噛み殺しながら炬燵の中で足を伸ばした。
 画面の向こうには、仕事中のぬるちゃんが元気に跳ね回っている。売れっ子芸人、ほんまどの時間帯もテレビにおるな。
 今までも敢えてぬるちゃんの出ている番組を追っ掛けるような気の持ちようはなく、ただザッピングした先に彼の喧しい姿が映っているので、まあとりあえず眺めておくか、ぐらいの姿勢だった。
 そんな状態でも、直接会うようになってしまったこの冬よりも以前から、ぬるちゃんの仕事振りはよく目に飛び込んできていたのは事実である。あーあ、と思いながら、冬の空気で乾燥した指にハンドクリームを塗り込む。

「お風呂ありがとお」

 脱衣所から顔を出したぬるちゃんは、上半身はスウェットを纏っていたものの、下はパンツ丸出しだった。ほうじ茶を吹いた。

「やっぱ小学生やん」
「あ、しもた、家のクセで」

 いや知らんがな。「普通に風邪引くからちゃんと履きや」「はあい」わたしは手持ち無沙汰にテレビに向き直った。今の完全に親子の会話では。
 意図せず日焼けしていない白くほっそりした生足を拝んだ事実を忘れようと、何とも言えない気持ちで茶を啜る。やっぱ痩せよったなあ、と要らんことにまで思考が及びそうになったので、湯飲みを置いて立ち上がった。食器洗っとかな。ハンドクリームが流れないよう、使い捨てのビニール手袋を装備してから、スポンジに洗剤を染み込ませる。
 今度こそきちんとスウェットを身に纏ったぬるちゃんが、脱衣所からふらふらと出てきた。でかいと言うてたのは本当で、手の甲はほぼ見えとらんし、裾はしっかり捲られていたが、今ここで不要な火種を生みたくないので口を閉じる。

「はー、炬燵ぬくいし最高や……」
「何か飲む? 牛乳あっためたろか?」
「え、ほんまあ」

 洗い終えた皿を水切りカゴに立て掛けて、冷蔵庫から目当ての物を取り出す。マグカップにちょっとだけ蜂蜜のチューブを搾ってやり、牛乳を注いで電子レンジへ投入する。
 ほこほこと湯気の立ち上るそれを「ん」またしてもコタツムリになっているぬるちゃんに差し出してやると、うやうやしく受け取ってみせる。

「おいしい」

 ほどけるような声音に、わたしの頬も思わず緩みかけた。
 いかん、長女モードの自分が暴走しとる。こいつはわたしの弟でも何でもない。果たして自分はこない世話焼きやったか。昔の記憶を辿っても、しょっちゅう下の子を甘やかしていた事実はないはずなのだが。

「歯ァ磨いてさっさと寝えや」
「はァい、歯ァだけに! ぷくくっ」
「…………」

 洗面所に並んでぬるちゃんと歯磨きをしている様子は滑稽や。学生の頃、一瞬だけ想像した未来予想図に被さったせいである。
 自分の妄想力が逞しすぎてキショい。オエ。実現しない想像は歯磨き粉と一緒に排水溝へ流して部屋に戻る。

「なあ、俺ほんま炬燵でええから」

 今更固辞するぬるちゃんの背をぐいぐい押して、ベッドに誘導する。家主がええ言うたら大人し従っとけや、と脅しのような声を出すも、ぬるちゃんは逆にわたしの手を掴んで、せやけどなあ、と続けた。

「女の子床で寝かして、男がベッドはあかんやろ」

 ほな女の家に簡単に上がるなや。
 ほんまに言いたいことは胸の奥へ仕舞っといて、わたしは笑みを貼り付ける。「せめて一緒に、」知らん。ぬるちゃんの常識なんか。

「電気消すで」
「無視かい! いやほんまに」

 その場で足踏みするわたしは随分滑稽に映るだろう。虚勢は得意だ。何の問題もない。友達泊めたるだけやし。
 わたしは今、上手く笑っているはずだ。

「おやすみ」

 せやから、間違い続けている中でも、これくらいは正解やと信じたい。

08|手飼いの晴天

210803
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