足裏が綿のシーツの上を滑った。背中に敷いていたはずのやらかいバスタオルは、知らぬ間にぐしゃぐしゃに絡まっていた。
 視界は薄暗く、白のレースカーテン越しに灰色の空が広がっている。空気はじとりと纏わり付くような重さを携えていた。

「は、」

 湿った吐息がへその辺りに零される。他人の二酸化炭素。
 膝裏を滑った手が滲んだ汗をなぞりつつ、ぐいと太ももを押し上げるように動いた。息苦しさを覚えて身を捩ろうとするのに、なかなか上手くいかない。

「もお、逃げたらあかん、て」

 砂糖水でも飲まされたんかと疑いたくなるような囁きと共に、胎の上を薄い手のひらが這う。中身を確認するように執拗に繰り返され、声にならない呻きが落ちる。
 拒絶の言葉は通じない。歯を食いしばると、男の長い指が下生えの際を宥めるようにそろりと撫でた。

「今日はなんや、往生際悪いなあ……」

 そういう彼こそ今日は随分饒舌で、特に機嫌が良さそうだった。
 腰を掴み直されて、その下に枕が差し込まれた。息をのみこんでものみこんでも、全然酸素が足りない。わたしは本当の意味で逃げ場がないことを知る。
 なんぼ細っこくても力の差は十分にあって、最初に逃げ出さへんかったわたしがそもそもの間違いで。

「ふ」

 男が含み笑いのような声を落とした。日頃の喧噪具合からは想像もできん、小さな音だった。それがこの静かな部屋の中では不思議と誤魔化されることなく、正しくわたしの鼓膜を揺らしている。
 今更の抵抗も虚しく、いりぐちをあっさりと探り当てられる。肺の中の空気が勝手に押し出されるようにして零れていった。

「かあいいなあ」

 腰を離れた手が今度はわたしの顔の輪郭をなぞって、片方は耳へ、片方は唇へ辿り着いた。そのまま耳朶やら上唇やらをふにふにと揉んでくる。少しでも距離を取りたくて伸ばした手は呆気なく絡め取られ、シーツに柔く縫い付けられた。
 胎の中にぐっと押し付けられた質量に、喉の奥が震えて足の指は勝手に丸まる。無意識に膝を寄せようとして、男の脇腹を足で挟んでしまった。膝頭に感じる肌の湿った感触がなまなましい。
 そんなんしても、何も誤魔化されへんのに。
 無駄に足掻くわたしを彼は吐息だけで笑って、耳のふちを食んだ。

「なあ、はよ諦めえや、もう」




 飛び起きた。
 ドコバコと心臓が急激に血液を送り出している。早鐘なんてレベルではない。二百メートル全力疾走後のように肺は痛むし、頭は酸素を失ってくらくらと揺れていた。
 薄闇の中、肌を覆うスウェットは多分灰色、足裏に触れるのは蓄熱素材のラグ、蹴飛ばした毛布と炬燵の掛け布団、黒く見えるのは濃紺の遮光カーテン、見慣れた天井。
 紛れもなく、わたしの部屋である。
 ばくばくと主張の激しいままの心音はどうにもならんので放っとくことにして、炬燵の天板をまさぐり、アラームが鳴る前のスマホを掴み取る。ディスプレイを点灯させれば、時刻は五時を示していた。
 脳裏に焼き付いた鮮やか過ぎる光景は、目前に散りばめられた現実と一致していない。

「……ゆめ……」

 言葉にして、ようやく暴れていた心臓が落ち着きを見せ始めた。明け方のレム睡眠中の現象の一種。
 最悪や。
 額に浮かんでいた汗を拭った手は、僅かに震えていた。朝っぱらから何やねん。思い出を美化するにも程がある。いや美化か? そもそも思い出か? ホルモンバランスが狂っとんのか? 誰もこんなん頼んでへん。
 まだ腰を掴まれているようなぞわぞわとした感覚すらあって、毛布と掛け布団を引っ張り上げて、その中で縮こまった。己の吐息に熱が含まれているのに気付き、嫌悪のあまり更に身体を丸める。最悪の最悪。

「……んん……」

 すぐ傍のベッドから小さく零れ出てきた声音は、男のそれだった。
 昨晩、わたしは友人を家に泊めた。それだけのことである。それ以上でもそれ以下でもない。
 折角穏やかな方向に舵を切ったはずの脈拍は、再びどくどくと速まるばかりで終わりが見えない。不整脈で死んでもおかしない。さっきの悪夢は強く目蓋を閉じて、記憶の外に弾き出す。一切知らん。必要ないので。
 わたしのベッドで唸って寝返りを打ったぬるちゃんは、まだ覚醒した素振りはなかった。ただの寝言や、わたしの身体は即刻安心しろ。頼むから。
 呼吸はまだ上擦っていたが、とりあえず朝ご飯を食べて誤魔化すことに決める。なるべく物音を立てないように毛布の海をそっと抜け出して、洗面所へ向かった。
 身体は朝のルーティーンをきちんと覚えているので、静かに顔を洗ってちゃちゃっと五分で化粧を済ませ、朝餉の準備を始める。気を配っていてもわたしはプロの執事でもないので、どうしても食器類の音が鳴った。
 ぬるちゃんがベッドからのそのそと上半身を起こしたのが見える。ぼんやりと白い壁を眺めている緑の後頭部は、寝癖でもさもさしていた。起こそうと思っていた時間と大差なかったので、そのままにしておく。
 声は平熱のそれで、表情もまあ適当で。朝からいきなり営業用の笑顔は荷が重いので。

「……おはよう、朝あんま食べへんのやっけ?」
「おはよー……や、さいきんはちゃんとたべとるで」

 まだむにゃむにゃとしながら振り返った彼は、幼子みたいに舌足らずだった。とりあえず顔洗ってきいとその背を洗面所へ押し出す。
 とろけるチーズを乗せた食パンを焼いて、冷蔵庫に入っていたレタスとハムを挟む。彩りのプチトマト、四個パックのヨーグルト、インスタントコーヒーの入ったマグカップを炬燵の上に並べる。いつもの朝食である。

「量足りる?」
「うん、ありがとお。いただきます!」

 軽快に答えた彼は、寝起きこそぐずぐずしていたものの、顔を洗って何とかしゃっきりしたらしい。目元に隈はなかったので、一応眠れたということだろう。ほんま神経繊細なんか図太いんか、よお分からん。

「ん? なんや顔赤い?」

 首を傾げてわたしの顔をまじまじと見詰めてくるのを、コーヒーを啜って半分受け流す。朝から他人のことなんかよう気ぃ付くもんやな。末恐ろしい。
 いま文句を垂れるのは不自然を餌にするようなものなので、頭の片隅で考えた適当な言い訳をでっち上げることにする。それでも制御不可能な脈拍が恨めしい。

「……化粧下地、ピンク色の奴使ったから」
「ああ、コントロールカラーの奴か。んー、自分の肌やとピンクは血色感強すぎる気ぃするな、意外と紫がええで。透明感ゆーやつ?」
「へえ」

 どうやら上手く誤魔化せたことに安堵して、トーストに齧り付いた。心臓は残念ながら未だ落ち着いていないが、大した問題ではない。
 今日を乗り越えれば、ぬるちゃんとの契約期間である七日間は満了となる。これで終わる。こんな日々は。




 六時三十分、ぬるちゃんのマネージャーさんを駅のロータリーで拾う。
 寒空の中、ダウンコートの中で背を丸めていた彼は、タクシーの到着と同時にくしゃりと破顔した。我々より少し年上だろうか。高校球児の名残を彷彿とさせる笑みが印象的だった。小さめのキャリーケースを引き摺っていたので、トランクへ乗せてやる。そういや、昨日はカプセルホテルに泊まってはったんやっけ。
 後部座席にするりと身を滑らせた彼は、白膠木のマネージャーであることを名乗った後、深々と頭を下げた。

「今週は白膠木の送迎、ありがとうございます。かなり立て込んだスケジュールやったので、ほんまに助かります」
「いえいえ。せめて車内ではゆっくりしてくださいね」
「ありがとうございます」

 顔を上げたマネージャーさんの目許には、高校球児にあるまじき疲労の色が濃く滲んでいたので、社会の荒波に揉まれるアラサーである事実がはっきりと示されていた。年末進行は凄まじい。あったかい飲みもんの差し入れ、忘れやんようにせんと。
 流石のぬるちゃんも、今日は助手席ではなく後部のシートに身を預けている。賢明な判断である。最初からマネさんもずっと一緒に送迎しとくべきやったんや。わたしのために。今更言うてももう遅いが。
 本日は地方都市のお昼のラジオにゲスト出演するとのことで、最終打合せと本番の時間を確保するため、早朝の出発となった。
 車を走らせながら、マネさんが日程を細かく確認していくのを聞き流す。ぬるちゃんはふんふんと静かに頷いているらしかったが、昼食の話題に差し掛かった途端、いつもの喧しさを取り戻した。

「お昼はラーメンな!」

 収録前に高カロリーぶち込んで平気なんか、と言わずともぬるちゃんはふふん、と笑うばかりである。マネさんも苦笑を隠さない。視線を向けただけやのに、白膠木簓はわたしの心の内など容易く読み切ってしまうらしかった。

「あんな、年末進行は体力使うねん。カロリーが必要なんや!」

 いや、ぬるちゃんただラーメン食べたいだけやな。
 赤信号に引っ掛かった。どの店がええのかをぬるちゃんに尋ねると、既に検索済みやったらしく「ここやねんけど!」前回のお好み焼きとは異なり、きちんと一店舗に絞られていた。
 数日前の反省を活かし、自分のスマホに店名を打ち込んで営業時間を確認しておく。電話予約はしていない店だったので、後は時間に勝負を挑むしかない。祈るのはタダである。

「なあなあごめん、アイマスク貸してくれへん」
「……どうぞ」

 もう聞き慣れたいつもの申し出に、わたしはグローブボックスから巾着を取り出した。無論、洗濯済みのアイマスクを入れてある。いつもなら放り投げてしまうが、第三者の目がある中では躊躇われたので、普通に手渡した。
 マネさんがぱちくりと瞬きをしたのが分かったが、わたしは口を開かずにアクセルだけを踏む。
 いそいそとアイマスクを装着したぬるちゃんは、数分後にはいつもどおりの穏やかな寝息を立て始めた。バックミラー越しのマネさんは、目を飛び出さんばかりに真ん丸にしている。

「ね、寝てる……」

 未知の生物でも見るような眼差しである。昨日の躑躅森さんの証言に恐ろしいまでの信憑性が出てきたことに震えるしかできん。
 酷道と書いて国道と読む道中、薄らと流したラジオとエンジン音だけが響く。マネさんは眠そうな目を擦りながら手帳やスマホと睨めっこを続けていて、ぬるちゃんはぴくりとも動かない。
 静かなのは気が楽や。運転に集中できるし、無駄なエネルギーを消費することもない。別にぬるちゃんと喋らんでええなら専属運転手を続けたっても構わへんが、明らかに実現不可能な妄想に過ぎないので焼却処分である。

「……マネージャーさんも寝てくれてはってええですよ」
「いや、そういう訳には」
「さっき首もげそうになってはりましたよ。ほんまにお疲れさまです」
「……ほな、お恥ずかしい限りですが、お言葉に甘えまして……」

 わたしの副音声「言い訳はええからさっさと寝てくれ」を読み取ってくださったのか定かではないが、ものすごい申し訳なさそうに肩を竦めたマネさんは、疲労困憊の吐息を零して目蓋を落とした。
 よっしゃ、わたしの安寧は保たれた。安全運転爆速で行こ。




 ラジオ局の本拠地は、商店街の中腹にあった。
 蛇のように細こい道を潜り抜け、商店街直営の駐車場に車を置く。マネさんを起こす際にぬるちゃんも自発的に目覚めたので、手間が省けて幸運だった。
 彼らを見送ったらどっかの喫茶店に入っとこかなと思った矢先、車の外に出たぬるちゃんが何故か運転席の車扉を開け放った。挙句わたしの腕を掴んでくる。いや寒い。何。

「今日は簓さんの仕事のお手伝いも頼むて言うてたやろ!」
「いや聞いてませんけど」
「なんでや! 俺言うたもん!」
「いやほんまに知らんて」

 目を白黒させて抵抗すると、彼は頬を膨らませて駄々を捏ね始めたが、こっちは完全に寝耳に水である。

「白膠木さん、ちゃんと言うてはらへんかったんですか?」

 呆れ顔のマネージャーさんに詰められて、ぬるちゃんはわたしの腕を掴んだまま暫し逡巡したのち、「やっぱ言うてへんかったかも……」しょぼくれた顔で肩を落とした。
 何でわたしが悪者みたいな扱いになるねん。あと腕ずっと掴まれたままやねんけど。連行されたない。

「商店街での食べ歩き風景の撮影を手伝ってもらいたいんですが……」

 マネさんが申し訳なさそうにこちらを見やる。本番前の打合せまで三十分以上も余裕あるなあと思てたら、こんな罠が待ってるとは。
 自然体の写真がええんです、とか言いながらマネさんの鞄から出てきたのはご立派な一眼レフである。真面目に撮らなあかん雰囲気がびちびち肌を打つ。鬱。諦める選択肢しか目の前にぶら下がってへんのはなんでなん。

「……承りますけど、素人なんでご容赦くださいね」
「おっしゃ! はよ行こ!」

 満面の笑みのぬるちゃんに腕をぐいぐいと引っ張られるまま、渋々外に足を踏み出した。ごそごそとコートを羽織り、膝に掛けていたストールを首に巻き付ける。盆地のせいで底冷えが凄まじいためである。
 ぬるちゃんが我が物顔でわたしのストールを巻いているので懲らしめたいが、すっかりタイミングを逃した。お好み焼き屋で借りパクされた奴である。持ち歩いてたんやったら昨日返しとってくれたら良かったのに。
 朝日が眩しい商店街には、既に地元の主婦と観光客が列を成しているのが見える。辛うじて通学のタイミングから外れていたのは幸いだった。学生に群がれながら写真撮るとか、素人には無理である。
 ぬるちゃんは早速かまぼこ屋さんに突撃した。バターポテトなる商品を購入し「はよ撮って~!」じゃがバターと魚のすり身を混ぜて揚げたそれに嬉しそうに齧り付く。言われるがままにファインダーを覗いて、その一瞬を切り取ってやる。

「ほれ、揚げたて! めちゃ美味いで!」
「ちょ、ま、」

 制止の声はいっこも届かず、重たいカメラで手が塞がっとって碌な抵抗もできず、わたしはぬるちゃんが持っていたもう片方のバターポテトを口に呆気なく突っ込まれた。わざわざ二本買うたんか。わたしやなくてマネさんにあげたらええものを。
 揚げたてという響きに怯えていたが、幸い火傷をするほどではなかった。パリパリの春巻きみたいなシートの中に、ほくほくのじゃがいもともっちりとしたかまぼこが共存している。染み込んだバターもそれ程くどくないし、香ばしい。

「な、美味しいやろ?」

 肩を寄せてしっかり顔を覗き込まれ、今朝方の幻影が鮮やかに脳裏に浮かんでしまった。ひっと飲み込んだ息を誤魔化すようにじゃがいもを噛み締める。

『はよ諦めえや、もう』

 喧しわ。勝手に脳内に出演してこんとって。音声だけでも出演料取るぞほんまに。愛想を振りまく相手を間違えとる。どうせならカメラ越しに頼むわ。
 店主さんの手前、美味しいのは本当なので無言で頷き、彼の手元のバターポテトにピントを合わせる。

「ん? サイン? ええよー!」

 ぺろりと平らげた彼は、店主さんの差し出した色紙に手慣れた様子でマーカーを動かしていた。いつものしょーもないギャグも飛ばしつつ、「お土産も買うてってもええ?」「はい、勿論お包みしますよ」「ほな、この玉ねぎ天と、ゆば巻と、ゲソ揚げと、もういっこバターポテトと……」タクシーの中で死んだように寝てたのと同一人物とは思えん喧しさである。
 マネさんは見守りに徹して口出しはしない主義らしく、わたしもただシャッターを切る機械になった。包んでもらった品をぬるちゃんから受け取って(どうやらわたしは荷物持ちの役目も担わされているらしい)、別の店へと歩を進める。紙袋越しの揚げ物たちは、ほこほことぬくい。
 与えられた任務に従い、食べ物やらぬるちゃんの横顔やらに向かって無心でレンズを向ける。今度はお肉屋さんの揚げたてのコロッケを頬張っていた。
 しかしまあ、よお食べるな。学生の時と全然変わってへん小動物っぽい表情に僅か跳ね上がった心臓は無視をして、腕時計に視線を落とす。打合せの時間がようやっと迫っていた。
 朝から賑やかな関西のおばちゃん達の間を縫って辿り着いたラジオ局は、壁がガラス張りになっていた。収録風景が外から見える仕様なので、ぬるちゃんが楽しそうにガラスに張り付いていると、彼に気付いたラジオ局の社員さんがバタバタと飛び出してくる。

「終わったらさっきの駐車場にお願いします」
「おっけー! ほな行ってきます!」

 ぬるちゃん一人が打合せのために奥の会議室に吸い込まれ、わたしとマネさんはぽてぽて歩いて一旦タクシーに戻った。僅かな時間で体力がどっと持って行かれた気がして、危うく吐き出しそうになった溜め息を押し留める。
 首からぶらさげていたカメラをお役御免と思ってマネさんに返そうとしたところ、彼が申し訳なさそうに頭を振った。そんな殺生な。

「すみません、今日はオオサカに戻るまで写真お願いしたいんです」
「はあ……今更ですが、特別な技術も何もないんですが……」
「大丈夫です。番組やら雑誌やらに使う写真なんで、サイズはそない大きなくてもええんですけど、結構数が必要で……」

 最近の白膠木かなり忙しくて、オフショのストックがもう……とマネさんは項垂れた。
 送迎以外にも雑用を任されることは偶にあるが、カメラは初めてである。弊社は金を貰っている立場なので、無碍に断ることもできない。マネさんも大変なんやなと思いながら、膝の上にカメラを置いた。
 エンジンを切った車内は少しずつ温もりを失っていく。わたしは慣れているので問題ないが、マネさんには申し訳ないので喫茶店に入るよう勧めたものの、またしても彼は首を横に振った。

「いえ、車内は静かやし、大丈夫です」

 そうしてスマホを取り出した彼は、手早く指を動かし始める。白膠木簓以外にも複数の芸人のマネージャーをしているらしく、今日現場に同行できない方の芸人さんへの連絡やら、諸々の調整が溜まっているとのことだった。
 と、彼の手元のスマホが震える。

「すみません、電話大丈夫ですか」
「勿論です。お気になさらず」

 彼はぺこりと頭を下げた。電話口の応対は穏やかだが、終わったと思ったら次の一本がまた掛かってくる。成る程、喫茶店に入れば自分が五月蠅くしてしまうということか。
 わたしは彼を車内に残し、駐車場のすぐ傍にある自販機に向かった。あんだけ喋っとったら喉も渇く。ぬるちゃんは甘い飲み物が好きやけど、マネさんはどないやろ。分からんから無難にお茶にしとこ。
 運転席に戻ってきても、マネさんはまだあれやこれやと喋り続けていて大変そうである。ぱらぱらと手帳を捲っては「いや、流石にもう詰め込めへんですよ。限界です」ほんまに限界なんやろなあという引き攣った声を出していた。
 マネさんは懸命にリスケを打ち重ねたのち、スマホの画面をタップして、ふうと吐息を零した。額を押さえる彼にペットボトルの緑茶を差し出すと、ぺこりと頭を下げられる。

「うわすんません、ありがとうございます。……せや、白膠木が車内であこまで爆睡するの、初めて見ました」

 躑躅森さんの証言の信憑性がどんどん固められていくんですけど。
 電話の嵐が過ぎ去ったことで雑談モードに入ってしまったマネさんは、しみじみと呟いてはお茶を喉に流し込んでいる。
 最近めっちゃ褒めてもらえるけど何なんやろ。そんだけ自分の運転技能が上がった証左なのかもしれないが、褒められる程に自分の首が絞まっていくのを感じる。はよ他のベテラン運転手に引き継ぎたい気持ちは山々どころか溢れているのだが、わたしを慮ってくれる社員が弊社には不足している。

「……そんだけ疲れてはるんやと思いますよ」
「まあ、それもそうなんですけど、普段の移動の時とは表情が全然ちゃうんですよ」

 安心しきった顔というか。しみじみそう零されると、こちらはむくむくと反抗心が育ってきてしまう。

「アイマスクしとったのに、そんなん分かるんですか?」
「いや、もう車に乗った時からリラックスしてましたもん」
「他の車やとそない緊張しとるんですか?」
「白膠木は割と借りてきた猫状態になってる方が多いですよ。やっぱ顔見知りの車はちゃうんかもしれませんね」

 その理論で行くなら、気まずさの色が少なすぎるのだが。元カノやぞ。大声で言えんけど。

「是非、このまま専属続けてもらえたら……」

 や、やばい、マネさん超ご機嫌や。このまま話が進んでまうと契約延長待ったなしや。
 焦ったわたしは脳内の抽斗を引っ掻き回し、今日絶対に相談しとかなあかん事項を取り出した。が、勝手にマネさんに言うて良いか微妙に判断に迷ったので、回り道をしておくことにする。

「そういや全然話変わるんですけど、芸能人さんてストーカーとか不審者とか、被害多そうですよね……」
「あー、白膠木も過去にありましたよ。え、もしかして最近何か?」

 唐突な話題変更にも関わらず、マネさんは目をぱちくりとさせて平然と言ってのけた。芸能人の人権てほんまに全然守られてへんな。酷い世の中である。

「本人からちょろっと聞いた話なんですけど、家の前に不審者みたいなん出たって」
「うわ、ほんまですか。社内の担当部署に一報入れときます。後で本人にも聞いときますね」
「そうしたってください」

 白膠木さん、そういう大事なこと全然言ってくれはらへんから、とマネさんは溜め息を隠さなかった。

「警察沙汰にすると色々時間掛かるけど、事件になってからやと遅いていつも言うてるのになあ……」

 わたしの心配など、マネさんはとうの昔に経験済みだったわけである。ほんまあのあほんだらは。
 その後、そのまま車内でマネさんの雑用────もとい、諸々の調べ物の手伝いをスマホでこなしていると、滞りなく打合せを終わらせたらしいぬるちゃんが駐車場に戻ってきた。

「ラーメン行くで!」

 開口一番にそれかい。
 まるで観光に来ただけかのような錯覚があるが、膝の上に置きっぱにしていた一眼レフがずしりと重いので、虚しくも現実に引き戻された。
 目当てのラーメン屋は隣の商店街の中に構えられていた。早めの昼休憩だったことが幸いし、行列ができるとの評判にも関わらず、我々はそれほど待たずに暖簾を潜ることができた。
 ぬるちゃんは豚骨塩チャーシューに焼き餃子、マネさんは豚骨醤油チャーシューに炒飯、わたしはあっさり塩チャーシューに煮卵を付け、カウンター席でそれぞれ麺を啜った。
 細麺でするっと食べられる上に、柚子皮のトッピングと魚介スープが良い塩梅で、チャーシューは分厚いのに噛み締めるとほろほろと消えていく。素直に美味しかった。関西圏に何店舗か展開されているらしいので、また行くことを決める。

「はー、美味しかったあ、ごちそーさんでした!」

 本番も頑張るでえ! と大層軽い足取りで、ぬるちゃんはラジオ局に戻っていった。今度はマネさんも同席するらしく、わたしはタクシーの中でひとり待機である。腹ごなしに商店街を少しだけ練り歩いてから、丁度ええので次の運転までの時間を仮眠に充てることにした。
 車上荒らし対策のため、まず駐車場の防犯カメラの位置を確認する。貴重品を厳重に隠すのにも慣れた。運転席のシートを倒し、コートとストールに埋もれるようにして目蓋を落とす。余計なことは一切考えない。お休み三秒である。




「あちゃあ」

 小さく隣の席から零れてきた声に顔を上げる。机の横に吊り下げたリュックサックを引っ掻き回していた男子が、見事な八の字眉毛を披露していた。クラス替えがあったばかりなので、まだ顔と名前が一致していない。何かこう、難しい字の人やったと思うんやけど。
 本鈴が鳴るまで残り一分。次は英語の授業である。今度は机の中に手を突っ込んで慌てている彼が道端の段ボールに捨てられた子犬みたいに見えたので、声を掛けることにした。

「教科書忘れたん?」

 悲壮感溢れる横顔がこちらに向いて、うん、としょぼくれた返答があった。

「昨日予習して、そのまんま家に置いてきてしもたみたいやねん」
「ほな見せたるわ」
「ええの? 助かるわ、ありがとお」

 ガコガコと机を引っ付けてやると同時、チャイムが鳴った。この授業が終わったら次は昼休みなので、お腹が鳴らへんように気を付けやんと。
 二つの机に広げた教科書は、右隣のわたしが捲った。彼は左利きらしく、席の並びが違えば腕をぶつけ合っていたことだろう。五十分の授業はそそくさと通り過ぎ、次のチャイムが鳴ると同時に購買に向かって男子生徒が駆け出していく。
 この子お昼どないするんやろ。購買組やったらさっさと送り出したらんと出遅れてまう。
 こちらの危惧を他所に、彼は勢い良くぺこりと頭を下げた。次いで、リュックの中をごそごそし始める。

「や~ほんま助かったわ! ありがとお、これお礼」

 まだ少し大きそうな学ランの袖からセロファンのかさりとした鳴き声と共に手渡されたのは、三角形のいちごみるく飴だった。随分と可愛らしい飴ちゃんが出てきたものである。

「気ィ遣わんでええのに。ほんで、ええと……名前、何て読むんやっけ」

 ごめん、とこちらが零したのに、彼はええよええよお、とはしゃいだ子犬の様相を崩さない。机に広げたままのルーズリーフに、彼はシャーペンでさらさらと文字を紡ぎ始めた。白膠木簓。膠が特に難しいな。

「ぬるで! ぬるで、ささら」
「難しい字やなあ。ほな、ぬるちゃんな」
「簓でええで?」
「噛みそうやからぬるちゃんて呼ぶわ」
「えー? 噛むかァ?」

 笑顔が向日葵みたいや。何や知らんけどものごっつ人懐っこい犬っぽい。教科書やら電子辞書やらを机になおしていると、彼は机に頬杖をついたまま、こちらをじっと見ていた。

「なあ、お昼いっつも何処で食べてるん?」
「美術室」
「そうなん。な、ご一緒ええかな?」

 意図は読めんが、断る理由も見当たらない。わたしは鞄の中から弁当箱を拾い上げて、小さめのトートバッグに突っ込んだ。お茶の入ったペットボトル、タオル、ウォークマン、筆記用具に数学の問題集とルーズリーフも追加して、席を立つ。

「別にええけど」
「ほんまに? やった。そんでそん荷物は?」
「朝の授業で出た宿題とか」
「へえ、俺も真似しよ~」

 ただ教科書見せたっただけやのに。随分前から友達やったみたいな、不思議な感覚が胸を占めていた。




 目蓋を押し上げると、当然ながら車内である。スマホのアラームが鳴る一分前、仮眠は不足なく、どしりと存在感を主張していた疲労度も少し薄れた。
 またしても過去の夢に、別の疲労が溜まり始めていることを自覚する。額に手の甲を当てて遠い目をしていると、車の窓ガラスを指でこつこつと鳴らす音が聞こえたので、ロックを外す。

「終わったで~! ただいまあ!」
「はいはいお帰、り……」

 ここ暫くは定番の応酬を口にしてから、血の気が一気に引いた。今日はぬるちゃんだけやなくてマネさんも一緒やから、気を付けとかなあかんかったのに。
 口許がゆるゆるになってるマネージャーさんが、ものごっつい生あたたかい目でこっちを見てくる。やめて。勘弁して。無理です。

「商店街で高速餅つきしてたから買うてきたで! よもぎ餅!」
「どうも……」

 手渡されたよもぎ餅は、まだほんのりとぬくい。上品なきなこに包まれた餅はふわふわで、餡子も滑らかで美味しい。美味しいけど。
 ああもうほんまに、わたしの詰めの甘さはいつになったら治るんやろ。

09|曇天にフィラメント

210817
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