仮眠のおかげで肉体の疲労はマシになったが、精神の疲弊は坂道を転げ落ちるように悪化していた。
 ぬるちゃんが物理的に距離縮めてくるんが原因なんやろか。言い訳を重ね続けて身動きができなくなっている現状は見苦しく、羞恥心がちくちくと臓腑を刺激する。

「次、事務所戻って来週からの新喜劇の打合せで良かったよな?」
「はい。終わったらすぐに単独ライブのリハです」

 後部座席の会話は淡々と続くが、白膠木簓とマネージャーさんの声はすっかり草臥れていた。

「やーしかし、明日と明後日はやっと休みやけど、そん次は収録三本、んで次は収録五本、そん次は……考えるん辞めてええ?」
「……白膠木さん、すんません」
「エ?」

 油を差し忘れたブリキのようなぬるちゃんの返答に、わたしは吹き出しそうになった口許を引き締めた。バックミラー越しのマネさんの顔色は苦渋でぐしゃぐしゃである。他人の希望をへし折るとはそういうことだ。マネさんは今にも掻き消えそうな弱々の調子で続けた。

「明日、夜に一本だけロケが……」
「ハア?」

 声の荒げ方が田舎のドンキにおるヤンキーのそれである。ぬるちゃんそんな声出せたんやなあと思いながら、マネさんの胸倉を掴んでいないことだけを確認し、わたしは無関心を盾にアクセルを踏む。
 ……いや待って、ほんまに無関心で大丈夫か? ぬるちゃんに仕事が入ったということは、即ちわたしも自動召喚される可能性があるのでは?

「や、待って、嘘やん、明日やっと休み……」

 チンピラは虐げられる憐れな社畜の姿に戻り、立派なハの字眉毛で哀愁を誘う作戦に出た。もう絶望はすぐそこまで顔を出しとる状態なので、ぬるちゃんの表情は悲痛にどんどん寄っていく。

「こちらもだいぶ粘ったんですけど……」
「あー……いや、まあ自分に言うてもしゃーないわな。流石に一本だけ?」

 思ったより聞き分けの良かったぬるちゃんはガシガシと左手で髪を掻き回し、シートにぐったりと身体を預けた。学生やったら駄々捏ね極モードに移行していた恐れがあるが、一応彼も社会人の自覚を持っていたようで安心した。
 そうは言えど、ここ暫く続いたハードスケジュールの果て、やっとの休みが遠ざかったとなれば、負の感情の切り替えは社会人言えども難しい問題である。それをよく分かっているらしきマネさんは、コーチに叱咤される野球部員の顔付きで打ち返す。

「はい。それ以上はもう限界超えますて言うときましたんで」
「正直もう超えてるで~……」
「五日後にも全休もぎ取ってますんで、それで何とか……」
「いやほんま体力……」
「栄養ドリンクどうぞ」
「貰うわ」

 額を手で押さえて空を仰ぎ、ぬるちゃんは干涸らびた声で顔をしわしわのピカチュウみたいに顰めながら、お高めの栄養ドリンクを水のように喉に流し込んでいく。
 ロケの詳細は事務所で説明しますんで。よろしゅう。互いに力の抜けた応答で、こうして搾取された人々によって娯楽が回されていることを知ると、何とも言えない気持ちになる。

「三が日まで頑張りましょうね」
「何で心折りにくるん?」

 もお、とぬるちゃんが頬を膨らませるのをマネさんが飛び切りの苦虫を噛んだ笑みで眺めている。悪いことは全部先に言うとくのは社会人として大事なことや。隠す方がダメージ大きなるし。
 年末進行と良いながら、三が日まで過酷な日々が続くのか。流石にぬるちゃんに同情した。

「運転手さんもすみません」

 当然みたいな顔でマネさんがわたしに話し掛けてくるので、危うくブレーキを踏みそうになった。青信号なので息を飲むだけに留め切ったわたしは偉いが、運転手としては当たり前である。
 いやーそうですよね、わたしが送迎するんですよねやっぱり。分かってましたけど、ええ。
 お客さんの前で文句を垂れる訳にもいかず、わたしも彼らに倣って力のない愛想笑いを顔面に貼り付けた。

「あー、まあ、大丈夫ですよ。お疲れさまです」
「ウウ……自分が運転してくれてほんま良かった……」

 後部座席で丸まってしもたぬるちゃんは、テスト前に苦手科目の勉強をしてた時と同じ声でそう言った。全く良くない兆候である。わたしは知っている。
 思わず遠くに視線を投げて、ままならない現実を足先で蹴飛ばした。




 嘆き呻く彼らをさくっと事務所まで送り届け、近くのコンビニの駐車場で停止する。コールセンター嬢から時間作ってちょっと電話寄越せ(意訳)とのメッセージが届いていたためである。
 社用端末からコールセンターへ着信を入れると、ワンコールで後輩が出た。お疲れさまでえす、間延びした声音にちょこっと安心したが証言は控えておく。スピーカーモードにして、わたしはヘッドレストに後頭部をどっしりと預けた。

『せんぱぁい、ぬるさらとの契約延長してくださいよお』

 開口一番にとんでもない懇願が飛んできて白目を剥く。姿は見えないが、間違いなく悪魔の姿をしていることだけが明白だった。

「もう電話切ってええ?」
『あかんです! ね、さっきぬるさらのマネージャーさんから連絡あって、明日の夜も追加でお願いしますとのことやったんですけど、先輩いけますかあ?』

 胃に降り積もり始めていた嫌な予感は、やはり確定した。いやまあそうなるやろと九割思てたから衝撃はそれ程でもないけどな。
 いけますかあなんて聞く素振りは見せるものの、ほぼ決定実行なことを敢えて言わん後輩の強かさよ。わたしが育てました。

「明日だけな」
『声めちゃくちゃ刺々し~こわ~』
「わたしかて休み潰れたらキツいねんけど……」

 それはご愁傷さまです! と後輩はハキハキ述べた。一ミリも感情が込められてへん。他人ごとやし何なら彼女は明日休みである。『チケット戦争に負けた先輩には申し訳ないですけどシャングリラでスネオのツアー参戦してくるんで! セトリ報告しますねえ』と豪語していたのは記憶に新しい。鬼か。

『そうそう、この案件を機に、社内で専属運転手(ハイヤー)枠増やそか~て意見出てるんですよ』

 今回は急な話やったんで、先輩は中途半端なハイヤーもどきの勤務形態になってもうたんですけど、と彼女は続けた。

「へえ。まあ、流しのお客さんも大事やけど、お抱えのニーズも高なってきてるんかもな」

 枠が増えるなら、わたしがぬるちゃんの専属を続ける可能性も低くなるはずや。一縷の望みが残っていたことに胸が躍るが、あくまでも表面上は平然たる態度でおらんと。このコールセンター嬢、揚げ足を取るのが爆裂に上手いので。わたしが育てました。

『社長も言うてはりましたよ? 先輩に契約延長してもろて売り上げどんどん伸ばしてほしいて』
「いや、そんなん先方の都合に……」

 社長直々のとんでもない提案に咄嗟に定型文を口走って、すぐにしまったと気付いた。スマホ越しの後輩が、うふふと悪女の笑い声を上げた。
 やめ、やめて! 時間遡行! 歴史修正!

『ですよね~! ぬるさらご本人さんからもアツ~い要望いただいてましたんで! 延長手続き進めときますねえ!』
「なっ、ちょっ、待って待って!」
『今の会話録音してますんで!』
「こら!」

 嬢、めっちゃ強か。わたしが育てました。
 彼女は配車のコールセンター業務が主だが、書類関係の事務もじゃんじゃん着手する優秀な社員である。多分わたしが事務所に戻る頃には全ての手続きが完了しとる。詰んだ。
 いやまさか、後輩の仕事の手際の良さを褒めちぎり続けた結果、自分の首を絞めることになるとは思わんやろ。ハンドルに額を押し当てて項垂れようとも、ビデオ通話ではないので嬢がわたしの姿を察することはない。

『先輩がお客さんのご要望を蔑ろにするはずないんで! 売上に貢献してるんやし、もっと喜んだらええと思いますけど?』
「あんた……覚えとれよ……」

 なに今更躊躇っとるんですか? 折角ぬるさらの専属やねんから楽しく仕事したらええんやないですかー? という彼女の副音声に捨て台詞を被せ、わたしは眉間に寄った皺を指先で無理矢理ほぐした。

『ほな先輩、明日の勤務条件はぬるさらから直接連絡あるみたいなんで、よろしくお願いしまーす。新しいシフトは明後日にでもお送りしますね!』
「あんた詐欺師か何か?」
『先輩のかーわいい後輩ですよう』
「自分で可愛い言うな」
『えへ』

 電話は呆気なく切れた。わたしの緊張の糸も容赦なく切られた。腹を括れとのお達しに最早涙も出そうにない。




 出待ちのお姉ちゃん達の対応を普段の三倍速で済ませてたぬるちゃんは、四百メートルリレーのアンカー選手並みの速度でタクシーに駆け込んできた。顔が必死。間違ってもカメラが回ってる時にはせん、がむしゃらな具合に驚く。
 わーとかぎゃーとか言いながら、またしても当然のように助手席に勝手に乗るのでもう指摘する元気もない。あと仕事終わりとは思えん喧しさである。

「はよ! はよタクシー飛ばして! クーロンからニューヨーク!」
「タクシーを過信すな。空港行ってき」
「なあ、あの子車体に張り付いてたりせんよな!?」

 突然出てきたヤクシマルエツコ(関西弁)に戸惑いながら、左右の巻き込み確認をさせられて意味が分からん。

「ほら、こないだのあの子! めっちゃ話長なる子、来てくれとってなあ。今日はごめんな言うてきたんやけど、もう今にも泣かれそうで心痛んだわ……でも俺はよ帰りたいねんとか言われへんやん……」

 言われへんからて爆速で逃げてきてええんか、という素直なツッコミはとりあえず置いといて、アクセルを踏む。確かに劇場の入り口付近にあの白いコートの女性の姿がちらりと見えて、芸能人は大変やなあという在り来たりな感想を述べるに留める。

「やーでも、今日で大きい仕事はとりあえず一段落やから……ほんまありがとおな、自分の運転やなかったら睡眠不足で倒れとったでほんまに」
「胸張って言うことかい」

 正面を見据えながら甘ったるいホットカフェオレのペットボトルを差し出してやると、ぬるちゃんが無邪気に笑ってほっぺたにそれを当てて暖を取っている。そう、邪気がないから逆に性質が悪いんよな。

「なあなあ、今日も泊まってええ?」

 初めて彼氏の家に泊まる女の子みたいな表情でこっちを見詰めて袖を引っ張ってくるので、白手袋でその熱視線を遮る。
 もう今すぐにでも叫び出したかった。絶対二度と泊めたらへんわこのあほんだら。喉の奥がイガイガするくらいに腹立たしいのを無理矢理咀嚼して、沸騰しそうになった声を酸素と一緒に飲み込み、平常運転の冷ややかな声に押し戻す。

「あんたのおつむはもう使いもんにならんのか?」
「暴言がデフォなん何でなん?」
「そーゆー仕様や。慣れてくれてええで」
「もー。いやあんな、帰っても虫退治せなあかんねんて。ミッションインポッシブル」
「頑張れ」
「無理です」

 何が無理ですや、こっちが無理や。ほんまに頭湧いてるとしか思えん。仕事が忙しすぎるとここまで正常な判断ができんようになるもんなんか。
 ぬるちゃんとおると溜め息ばっかり量産してしもうてあかん。幸せがどんどん逃げよるので「虫退治も重要かもしれんけど、とりあえず不審者の件を何とかするのが最優先やろ。はよ警察に相談行ってきぃ」とまともな助言を念仏の如く繰り返すしかない。

「いやー……マネージャーからも言われたけど、やっぱそない大袈裟なことでも……」

 頬を掻く様子から、やはりこちらがなんぼ説いても事の重大性を認識していないらしい。マネさんが大変可哀想である。ぬるちゃんの危機管理能力がぽんこつであることが改めて証明された。悲しい現実を欠伸で追い払う。
 隣でぬるちゃんも欠伸を零していたので、疲れている人間にやいやい言いたくはないが、必要最低限は伝えておかねば。

「ぬるちゃんのせいで明日も仕事が入ってもうたわたしに何か言うことは?」
「はい! とりあえず荷物取りに自宅まで送ってください!」
「何も分かっとらんやんけ」

 力強く挙手したぬるちゃんの手をはたき落とし、ハンドルを回す。話が全く通じてへんくて怖くなってきた。我々はちゃんと日本語で意思疎通ができる生き物のはずでは?
 絶対泊めたらへん。二度と。あんな訳分からん夢まで見てしもてこっちのメンタルは合否発表の前日の受験生並みやぞ。胃が抉れとるわ。

「せやせや、忘れるとこやったわ」

 彼は徐ろに膝の上のリュックをごそごそし始めた。漠然と嫌な予感がすると思ったら、その手は今朝わたしが手渡されたのと同じ一眼レフを掴んでいた。
 ていうかほんまに同じ奴ちゃうか。訝しむこちらを気にも留めず、ぬるちゃんのぶりっこマシマシの丸っこい声が飛び出してくる。

「明日もこれ、よろしゅうな!」

 よろしゅうなやない。カメラさんの仕事奪ってどないすんねん。

「いやほんまにな、この時期どのスタッフもいっぱいいっぱいなんや……」

 わたしはブレーキを踏み終えてから、非痛感溢れる顔を作ったぬるちゃんを横目で見やった。頼むう、とこちらを拝むつむじがよく見える。ひょこりと生えた双葉を指先で強く押す。「やめて下痢ピーなる!」容易くつむじを晒すからそうなる。
 そうしてまたどんぶらこと流されるであろうわたしは、いっそ自我を失えば楽になるんやろな。

「いやでもほんま、自分のカメラ技術なかなかのもんやで? マネージャーもめっちゃ喜んで……」
「お断りします」
「えっまだ詳細何も言うてないねんけど!」
「聞くまでもない言うてんねん」
「何でや~~~~! 忙しい簓さんのこと助けてやあ!」
「知らん」

 防御壁はすぐに強化せな、どんどん攻め込まれることを知っている。いつから我々は武士にジョブチェンジしたんや。城を守るにはあまりにも兵力が手薄過ぎる。転職すべきか。手札のカードは何枚や。

「マネージャーな、明日は別の芸人のロケ同行すんねて。ロケやのに俺ひとりでカメラだけ持たされとんねん。ロケて何?」
「知らん」
「雑誌の特集に使われる写真レポート的な奴らしいねんけどな。なー、俺自撮り得意やないしな?」
「すぐバレる嘘言いなや」

 ぬるちゃんのSNSアカウントには自撮り写真なんぞなんぼでもアップロードされているに違いない。はっきり見たことないから知らんけど。一般人よりは遙かに慣れていると表現して問題ないはずである。

「えー? ま、とりあえず文句は置いといてやな。明日のロケ地はですね~」

 人の話聞かへん妖怪、意気揚々とリュックの中からカラフルな紙切れを摘まみ上げ、ふふんと得意げに鼻を鳴らす攻撃。運転手は毎ターン体力を削られる状態異常に陥ってしまった。

「じゃーん! 冬のオサカナ鑑賞所! 夜のイルミネーションもやってるねんて!」

 オサカナ鑑賞所て何やねん。普通に水族館て言いよ。と、冷静なツッコミをすることは難しくないが気力が足りんので、青信号に従ってアクセルを踏む。

「いや反応薄! ここはもっと飛び跳ねて喜ぶとこやで!」
「運転中や」

 ぴらぴらと揺れるチケットはオオサカの水族館のものだった。そこまで遠ないから、送迎の仕事的には有り難いけども。

「事務所でチケット貰てたらしいねんけどな、これがな、入場タダにしたるから宣伝も兼ねろ~いう代物でな。ずっこい商売やでほんまに」
「それが何で明日なん」
「チケットの有効期限見てみ」

 渋々横目で確認すると、成る程、印字された日付は明日のものである。
 いや、水族館やぞ。家族連れとカップルがわんさかしとる空間に飛び込んで無事に済むか? ない。有り得ん。入院コース待ったなしである。わたしは自分の臓腑をもうちょい労ってやりたい。

「……セルフタイマーぐらい使えるやろ。頑張り」
「俺の手ブレのヤバさ知らんやろ」
「知らん」
「しかも館内は自撮り棒禁止らしいねんよな。つまり自分に頼るしかないねん!」
「炎上する、お断りや」

 せえへんて、とけらけら笑う彼だが、何も信用できん。最近のインターネットはめっちゃ怖いねんぞ。一瞬で拡散されるし、てかそんなんぬるちゃんが一番よお知ってるやろに。

「なー、ほんま何であかんの? 友達やろ?」

 そんでいきなり刺してきよるし。ノールックで脇腹を刺すな。
 ああそうや友達や。元恋人などという夢幻の関係性はゴミ箱の中に突っ込んで、学生の頃のしょーもない日々を延々と謳歌してたあの頃の距離感に戻れば良いだけである。
 わたしは今更、何に抵抗しとんのやろ。
 過ぎった思考はぐしゃぐしゃに丸めて、車線変更のためにハンドルを切る。薄っぺらい言い訳ならなんぼでも溢れてくるが、大した攻撃力のないそれを繰り出したところで勝算はない。となると、体力温存が最善の解答になるはずである。

「世間体」
「はーっしょーもな! ビックリしたわ!」
「ぬるちゃんにしょーもない言われたらめちゃめちゃ腹立つな」
「お? 喧嘩するか? 久々やな?」
「しんどいから要らんわ」

 互いに随分と攻撃力の高い刺々しい声音を投げ合うも、学生の頃ほどの体力がないので互いに消化不良で終わった。

「……てか、今朝から全然視線合わへんの何でなん」

 あーもう、無駄に勘が鋭い。無駄。ほんま無駄。有益性皆無。

「気のせいちゃう」

 今朝方と休憩時間に見た夢を引き摺っていることは明白で、容易く言葉にはできんかった。いや無理。そもそもそんな夢見たって時点でもう自分が信じられん。
 ぬるちゃんの体温に縋る自分なんて、もう二度とゴメンである。

「なんや分からんけど、ご機嫌斜めってことにしといたるわ」

 上から目線で許容されてむかつくが、わたしは唇を引き結んで運転に集中する。

「な~ほんまに助けてや……ひとりで癒やされに水族館行くのはええとしてもやで? 想像してみ、仕事でひとり水族館で自撮りてものごっつ虚しいやん……」

 虚無感は確かに凄まじいやろなと思う。周囲の家族連れやカップルに紛れての行動となると尚更である。しょぼしょぼのしわしわの声で訴えられると、僅か残った良心が的確に針山にされているのを感じる。
 結局、拒絶の言葉を吐くことは止めた。タダで水族館に行けるのは悪くない。わたしかて可愛い生き物と触れ合って現実を忘れたい瞬間なんかいくらでもある。
 どんどん言い訳を重ねる愚かな己を、冷めた目で見ている自分がいる。わたしは結局何もかもを取り繕って、彼の言いなりのお人形さんや。

「……明日の仕事は手伝ったるけど、しゃーなしやで」
「ほんまあ! 良かったあ、ありがとお! やっぱ持つべきものは友やな!」
「交換条件や。今日中に近所の交番に相談行くのとな」

 ほえー、とぬるちゃんがカードキャプターみたいな声を出したので我慢せず舌打ちした。わたしも田舎のドンキうろちょろできてまうらしかった。

「いやこっわ! あー、や、ちゃんと行くから! ……やっぱ交番も一緒に来てくれへん?」
「なんで」

 平坦な声で問い詰めると、ぬるちゃんは緩やかに視線を逸らした。ブレーキを踏みつつ、根気強く彼が口を開くのを待つ。

「……いやー、な、交番から帰りまたひとりで戻るん、怖いやん……」

 やっと本音出しよった。道のりがあまりにも長過ぎる。さっさとマサラタウンから出てジムリーダーに勝負挑みに行かんとどうにもならんやろに、ほんまにもう。

「ここまでならんと怖い言わへんの、ほんっまに重症やで」
「ええー?」

 腹立たしさも超えて呆れてきた。
 なんでこの男は他人のことはすぐ気ぃ付くくせに、自分のことはいっこも大事にせえへんのやろ。

「ほれ、スタンガンと催涙スプレー」
「待って、準備万端過ぎ」

 ドンキで買うた小型のそれらを運転席のドアポケットから取り出すと、ぬるちゃんは引き笑いしながら芋虫みたいにお腹を丸めてもんどり打った。「やーもーおもろすぎるからゆるしてえ」ヒーヒー良いながら目尻に涙まで浮かべている。ほんまにぬるちゃんの笑いのツボはよお分からん。

「しゃーないやん、正規のヒプノシスマイクがあるわけでもなし」
「あー……」

 不審者相手に過不足ない装備品であることは間違いない。正当防衛の範疇である。ぬるちゃんの手にそれらを押し付けると、彼は「……ほな、有り難く使わせてもらうわ」と困り顔のまま口の端を吊り上げた。
 結局、わたしはぬるちゃんの自宅近くのパーキングにタクシーを駐めて、彼と二人で交番の敷居を跨いだ。
 窓口で対応してくれはった警察の人は若いお兄さんで、偶然にもどついたれ本舗時代からのファンやったらしく、「コンビしてはる時、劇場めっちゃ通ってました! 今は仕事二十四時間でなかなか劇場行けへんくて、テレビでしか白膠木さんのお笑い見られへんけど、いやもうめっちゃファンなんで……! 絶対犯人逮捕しますんで! 白膠木さんの仕事の邪魔するような輩、許せませんからね!」と豪語していた。めっちゃよう喋りはるな。警察官も人間なんやな、と思った。
 自宅周辺のパトロールも増やしてくれるらしく、ぬるちゃんはようやく安心した笑みを見せた。
 交番を出て、ぬるちゃんはパーキングへ向かおうとしたわたしの腕をコート越しに掴んだ。そのままずいずいと距離を縮めてくるので恐ろしい。

「ちょっぱやで荷物取ってくるから、玄関まで一緒に来てほしなあ」
「いやわたし帰るから」
「こんな時にいけず言わんとってや~」
「いけずやない」

 夜なので攻防の声は控え目に、わたしは何とかパーキングに向かう。「え、本気? 嘘やん」わたしはいつでも本気である。
 溜め息を吐いて車の鍵を解除し、ヘッドレストのフックに引っ掛けていた薬局のビニール袋に手を突っ込む。霧タイプの殺虫剤の缶を取り出して彼の手のひらに押し付けた。

「ご所望の品や」
「えっ神!?」

 謎のきゃるきゃるした視線が顔面に突き刺さって痛い。が、急にすんとした顔に戻った。

「いや、これ焚いて二、三時間くらい部屋入られへんやん。今何時やと思う? 夜更かしはお肌の大敵やで?」

 時々ぬるちゃん悪いことしてた人間の顔するよな、と何度か指摘しそびれている。まあ自分から言うてこやんのやったら、敢えて突く必要もないかもやけど。

「明日の朝焚いといたらええやん」
「あいつおる部屋で寝られへん言うてたやろ~!」

 いや、何でわたしがブチ切れられやなあかんねん。首根っこを掴まれてガクガクと揺さぶられ、わたしは今自分に襲いかかっている理不尽にどないして対処するのが正しいのかを考えるしかなかった。
 ちょい落ち着いてくれはる、と距離のある言い方をすると、やっとぬるちゃんの手が緩んだ。キョウトの人っぽい喋り方するとぬるちゃんはほんの少しだけ怯むのである。学生の頃から変わらん、彼の謎の弱点である。

「大人しくビジホ泊まりよ、ほら、今日は空いとるみたいやで」
「く、くそう……」

 スマホの検索結果画面を目前に突き付けると、ぬるちゃんは歯噛みし、暫くの沈黙を舐めたのちに自分のスマホでしょぼしょぼと予約操作を始めた。
 最悪の事態は免れた。安堵の吐息を垂れ流し、彼の指先が決済ボタンをタップするのを眺める。




 結局、ぬるちゃんの家に連行されて殺虫剤をセットするところまでは手伝わされたが、彼を最近できたばっかのビジネスホテルに送り届け、わたしはひとりこうして自宅に戻ってくることができた。おめでとう、生還ルートである。明日の夜も仕事あるけど、一週間生き延びたので祝い酒でも飲むことにする。
 自炊する気力は遠く彼方へ飛んでいってもうたので、スーパーの割引お総菜祭りであるが特段気にする必要もない。酒が美味しく飲めればそれでええのである。
 お気に入りのナラのスパークリングの日本酒を舐めながら、満面の笑みを浮かべていたぬるちゃんの『今度フクシマのポン酒飲み放題のとこ行こ!』台詞を思い出し、フクシマ行きたいなあと思うなどした。遠出してトサとかセンダイとかフクオカでも良い。美味しいご飯とお酒で、何でもかんでも忘れてしまいたい。
 風呂上がりに水を飲みながら何となくスマホを弄っていると、メッセージアプリに通知が一件飛び込んでくる。開くと、クリームソーダのアイコンから明日の集合時間が送られてきていた。夜の水族館のロケなので、集合は夕方、ぬるちゃんの泊まっているビジホまでお迎えに上がれば問題ないらしい。
 ぬるちゃんはこの一週間の泥のような疲れを癒やすべく、昼まで爆睡すると宣言していたので、まあ予想はできとった答えである。

〔明日は私服で頼むで!〕

 何故。疑問符を浮かべるよりも早く続いて〔スーツ禁止!〕とメッセージが浮かぶ。理由を問い質すと、暫く間を置いてぽこんと通知が跳ね上がった。

〔業務の都合上お答えできひんのやけど、カジュアルな奴でええで!〕

 全然よう分からんけど、スタッフに扮しろということか。わたしの役割は素人カメラマンやし。パーカーでええか。キャップ被っといたらそれっぽいんとちゃうか。知らんけど。

〔明日のデート楽しみやな!〕

 意味分からん文言が流れてきたが無視である。わたしの脳内では処理不可能な代物だったのでしゃーない。海の藻屑となれ。

〔こら!〕〔無視!〕〔すな!〕

 怒りのメッセージに続いてまたしてもスタンプ爆撃が始まった。あ~もうほんまにこの小学生は。全然止まらんやんけ。スクロールバーどっか行ったわ。集合時間イチイチ検索すんのめんどくさ。通知が山のように重なるのでままならない。あーもう。

〔わかったから〕〔疲れとるやろ、はよ寝えや〕

 とりあえず曖昧でもええから返事したら静かになるか、と試した策が大当たりやった。何とか嵐は止み、〔うん〕〔おやすみ!〕と簡潔な言葉だけが返ってきてほっとする。
 何がデートや。人のこと振り回すのが趣味なんか。いやそうやったわ。もやもやする頭の中を一気に消しゴムでも掛けてもうたらいっそ楽にはなるやろけど、そこまでする勇気も手段もない。
 大人になるのは臆病になることやて言うてたのは誰やっけ。小説か漫画か映画か。学生の頃の無鉄砲さが懐かしく、手を伸ばしても届かないくらいに遠い。
 でもまあ、あんな夢を見るくらいやから、わたしの深層心理には未練が蜷局を巻いていて、彼を丸呑みにする機会を窺っているのかもしれん。
 自分が一体どないしたいのかも、最早よお分からんかった。このまま生傷だけぎょうさんこさえ続ける日々を続けたら、わたしはきっといつか再起不能になる。
 ぬるちゃんと距離を取りたいのに、向こうはどんどん近付いてくる。何で。分からん。体温を分け与えるような素振りとか、くだらん応酬を永遠に続けるところとか、時折とろけそうな視線を向けてくるのとか、何もかも。
 友達なら友達らしく振る舞ってほしい。
 感情の手綱に振り回される己を嘲笑って、冷えた水を喉に流し込んだ。

10|浮雲の斜度

210817
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