『なー、ほんま何であかんの? 友達やろ?』
昨晩のぬるちゃんのふて腐れた声音は、わたしの安眠を妨害するのに十分な威力を発揮していた。
一度悪夢で魘され夜中に飛び起きて、憂鬱な気持ちで布団に潜り込む。冬真っ盛りの室温に触れた頬はしっかり冷えてもうてたので、顔まで毛布を引き摺り上げた。無理矢理に目蓋を落としたものの、なかなか睡魔は召喚されない。遺憾の意。
結局、二、三時間は毛布の中で身体を丸めてじっとしていた気がする。脳裏には賑やかなぬるちゃんの姿がひょこひょこ動き回って、なあなあ何でとわたしの背を指で突いていた。わたしは頭を振ってやり過ごす。下手に答えれば揚げ足を取られて逃げ道を失うことを知っていたからである。
『今更、何失うつもりでおんねん』
しゃーないなあ、と彼がわらう。
背後から伸びてきた男の腕が額に触れ、首に回って落ち着いた。わたしの背中にぴっとりとその身を押し付けて、耳元に囀るような吐息を零す。
『なあ、はよ諦めえや、もう』
喧しい。わたしはこれが夢やて知っとんねや。騙されたらへんわあほんだら。
『強情! 好き言うたらへんぞ!』
────そんなん、それこそ今更やんか。
結局、太陽がしっかり昇り切るまで惰眠を貪ってなお、寝不足の両目は腫れぼったいままだった。身体が竦むような冷たさの水で顔を洗って適当に着替え、食料調達のために近場のスーパーへ向かう。夜のことを考えると憂鬱のあまり吐き気がした。
いや、本日のメインはストレスに揉みくちゃにされている社会人を癒やしてくれる、愛らしい海洋生物である。お笑い芸人の白膠木簓なんぞはオマケである。
折角の半休を家事に費やす悲しみはムジルシのバターチキンカレーで誤魔化して、しゃーないけど薄目に化粧をし、慣れで仕事着のスーツを手にしてから、ようやっと我に返った。
昨晩の白膠木大魔神は、スタッフに扮するべくカジュアルな服を着てこいと仰せであった。約束を違えればものごっつめんどくさい事態になって自分で自分の首を絞める羽目になる。見え見えだ。慣れ合うつもりはない。
そうして、どでかい溜め息を吐き捨てながら適当な私服を装備したわたしは、今すぐオオサカ港に沈められて然るべきだったことを知る。
事件は夕方、助手席に乗り込んできた白膠木簓の貴重な開眼シーンから始まった。
「待っブフッ」
「…………」
盛大に吹き出した白膠木簓の出で立ちは、黒のキャップ、グレーのパーカーに黒のダッフルコート、わたしから借りパクしたまんまのストール、チェック柄のパンツ、モスグリーンのスニーカー。そこら辺の大学生の装いである。
対するわたし、黒のキャップ、グレーのパーカーにグレンチェックのチェスターコート、黒のデニム、ボルドーのスニーカー。やる気のない二十代一般女性の姿に違いない。
奥歯を食い縛るも目前の惨劇に耐えられず、咄嗟にエンジンを切って逃亡を試みようとしたものの、引き笑いしているぬるちゃんに呆気なく腕を鷲掴みにされた。虚しくも退路を断たれ、絶望が鼻の先で踏ん反り返っている。
「いやもー待って待ってキャップとパーカーお揃っちやん! スニーカーも色違いやし!」
「女子高生みたいな言い方すな」
「今時の子てお揃っちとか言うんかな?」
「知らん」
まさかこんなことある? こいつわざと被せてきよった?
スニーカーに至っては、ぬるちゃんがこないだニューバランス履いとったからナイキにしたんに。何で被んねん。
運転に集中しようと思って羞恥心にしっかり蓋をしても、残念ながらどんどこ溢れ出てくる始末である。今更着替えに戻ることもできんので、ヤケクソでアクセルを踏む。ヒーヒー腹を抱えて笑っとる男に向かって舌打ちする程度の抵抗しかできん現状が恨めしい。
道中の喧しいぬるちゃんを宥め、疲労を背に何とか水族館の駐車場に辿り着いた。車から降りると、ほんまにぬるちゃんとペアルックみたいになってしもてる現状が分かりたくもないのによく分かり、わたしは前世でどんだけ悪いことしたんやろ、と現実から目を背けることしかできない。
水族館の中はひんやりしてるやろからコートをずっと着てても大丈夫やとして、流石にパーカーを脱ぐことは叶わない。せめてキャップは取ろうかと悩むと、ぬるちゃんの手がこちらに伸びてくる。
「何」
「被っとこ」
キャップを押し付けるようにして頭をやわこく撫でられ、慌ててその手を振り払って距離を取った。む、と口許をひん曲げたぬるちゃんを尻目に、黒のそれを念入りに被り直す。
やっぱ炎上覚悟やんけ。ほんま最悪や。
一刻も早くスタッフの人になり切って今日を乗り越えるしかあるまい。ゴシック体印字の腕章をくれ。
「ほい、ご所望の品がこちらに」
「あるんやったら最初から出しといてくれへん?」
「えー? 無粋やん」
唇をとんがらせて不満げな顔を作ったぬるちゃんの手から腕章を引ったくり、しっかりと己の右腕に装着する。
無粋な訳あるか。必要不可欠な装備である。
ぬるちゃんがわたしの左側にぴったりと並び立った。距離の近さを言及すると限りなくめんどくさい未来しか見えへんので、あーハイハイと投げ遣りな返答で茶を濁す。腕章は他の人からよく見えているだろうか。遺憾なく効果を発揮してくれ。
「ほな行こかあ」
拒否権はない。覚悟を決めてチケットを握り締めてカウンターへ向かう。胃はもう既に瀕死だった。
我々は仕事で来ているだけである。関係性にわざわざ名前を付与するのは得策ではない。
「オサカナ鑑賞所もひっさびさやわァ」
世間は平日の夕方に分類されるにも関わらず、大学は既に冬休みに突入しとるのか、周囲には若い二人組が溢れていた。いやまあ友人同士かておるはずや。知らんけど。
ぬるちゃんが不要な親父ギャグを噛まさないよう見張りながら、わたしはスタッフのお姉さんににこやかに送り出された。愛想笑いで何とか乗り切る。
「学生の頃に戻ったみたいやわ!」
嬉しそうに肩を寄せてくる彼の無邪気さが永遠に怖い。
わたしの歩幅に合わせてくるとこも、人混みに掻き消えそうになる声をなるべく耳元に投げてくるとこも、やっぱ昔と何も変わっとらんことを思い知らされる。
噛み締めすぎて奥歯が砕けそうになっていた。こうなったらさっさと仕事を終えて爆速で帰るしかない。
「ここ来るの、小学校の遠足以来やねん」
「そうなん」
わたしの簡潔な返答に、彼の眉は既に吊り上がっていた。
あ、やば、と思えど既に遅い。もうちょい上手いこと返事しとかなあかん場面やったが、ぶっちゃけどう足掻いても無駄な気がしてならん。ぬるちゃんは昔から、こーゆー時ばっか目敏い。
「んん? まさか俺以外の奴とデートしたんか!? もう! 浮気やで!」
「知らん知らん、誰が浮気や」
「や、デート中に喧嘩は御法度やったわ。帰ったら覚えとれよ」
真顔のぬるちゃんに少々怯えながら順路を進む。何を覚えとけと。魚に夢中になって全てを忘れてくれることを願う。
館内はフラッシュ禁止である。入り口に置いてあったパンフレットに目を通しながら、撮影箇所の候補にボールペンでチェックを入れた。八階建ての最上階から降りていく鑑賞コースになっている。
と、彼の指がボールペンのお尻を突っついた。
「真面目なんもええけど、とりあえず時間はあるんやし、ゆっくり見よや。お魚泳いでるのん見てたら癒やされへん?」
「まあ」
仕事と言えども、ひとりでロケ地に放り出されたぬるちゃんにとっては休息も兼ねとるんかもしれん。海洋生物の癒やし効果について反論する理由もなかったので、大人しく同意しておくことにした。
いやまさか、わたしのストレス解消も最初から兼ねてるとか、そんな思惑はないはずや。きっと気のせいである。
そうして早速現れたのは、トンネル型の水槽だった。青い光の満ちる中、ぬるちゃんは頭上や壁をひらひらと泳ぐ魚に大きく手を伸ばしてはしゃいでいる。
「へー、サクラダイやて!」
はいはい、いま撮れと。彼の横を他のお客さんが通り過ぎるのを待って、預かった一眼レフをリュックから取り出し、素早くシャッターを切った。
「撮れたあ?」
遠足中の小学生にすっかり戻っている彼に、カメラの背面の液晶モニターを「確認してみ」向けてやる。構図には一応気を配ったつもりだが、最終的にその手のプロがトリミングなり何なりしてくれはるやろう。
「おー、めっちゃええ感じやん!」
そない褒められる程のもんでもないけど、ぬるちゃんはモニターをなぞってにこにことしている。
「カメラは大学の頃にちょっと触ったことあるから」
「へえ」
「カメラ沼は怖いで。本体だけやなくてレンズでどんどん金が溶けるらしいからな」
「結構詳しいやん」
「別に」
元カレが、とか言うたら絶対にめんどくさいことになるので口を慎んでおく。危ない。わたしはどうにも自分で墓穴を掘り過ぎる傾向がある。
水槽のトンネルを潜り抜けると、ジンベエザメのどでかい模型が出てきた。その傍に水族館のスタッフさんがごついカメラを構えている。アミューズメント施設でよくある有料写真のサービスか。
「ほな写真お願いしますう」
「えっぬるさら!」
キャップを外したぬるちゃんに、スタッフさんが思わず小声で肩を跳ねさせていた。わたしもスタッフさんの横でカメラを構えようと歩き出す。
「や、自分はこっちな」
ぬるちゃんは素早くわたしの右側に回り込み、そのまま模型の方まで引き摺って、腕章をその身で押し潰すようにわたしの肩を抱いてピースサインを繰り出した。
手え全然振り解けへん。どんだけ力入れとんねん。てか何でわたしも撮られやなあかんの?
「はいはい写真撮りますよ~ピースして~」
引率の先生か? 疑問符は悉く握り潰されているが、ここでごちゃつくのも面倒なので適当なピースと愛想笑いを作ると、撮影は呆気なく済んでしもた。
「行ってらっしゃい!」
スタッフさんは完璧なビジネススマイルで送り出してくれ、居たたまれない気持ちを胸にぺこりと頭を下げ、先に進む。
ぬるちゃんはわざと肩をこちらにくっつけてくる上に、わたしのコートの袖を掴んで離さない。さっさと諦めた方がわたしは楽になれるが、奴を野放しにして真正面から攻撃を食らう未来も鮮やかに浮かんでいる。どない転んでもわたしに勝機はない。詰み。
もう夜に片足を突っ込んだ時間帯のためにうとうとしているコツメカワウソの横にしゃがみ、まったりと二足歩行するアデリーペンギンと同じポーズで佇み、水槽の中の眠たげなアザラシに頬を寄せるぬるちゃんをファインダー越しに眺める。
「ジンベイザメ先輩の出待ちせなあかんねん!」
分からんけど分かったから、ちょい科を作るな。
とりあえずいっぱい写真撮っといたったら、後は煮るなり焼くなりしてもらえるやろ。わたしはどんどんシャッターを切った。
「ほんまに本職のカメラさんなれるんちゃう」
「副業しよかな」
「楽しなってきてるやん」
すぐ戯ける彼に満更でもない旨の返答をしてしまった。そら良かった、と何故かぬるちゃんまで嬉しそうに言ってくるので少し気恥ずかしい。
生き物を見ていると、水槽の傍でいちゃつく他所の二人組の群れも、そういう生態なんやな、と思うだけであまり気にならなくなっていた。
薄暗い館内では、彼の顔をはっきり撮るというよりも生き物とのツーショットや、この場の雰囲気をカメラに収める方が無難だった。光源に合わせて彼の黒のキャップをオンオフする必要はあったが、作業は特に難航することもなく、さくさくとフロアを進む。
何となくいつもより表情のやわらかいぬるちゃんの写真を撮るのは、車の運転には劣るけどまあ確かに彼の指摘に違わず、楽しい分類に入れても良いと思えた。
「見てやあのマグロ、めっちゃ美味そう」
「言う思たわ」
「あっちの水槽はシャケも泳いでんで」
「炙りでもスモークでもええよな」
「いや自分のが具体的やんけ」
嬉しそうに喉を鳴らすぬるちゃんの横顔もフレームに収めておいた。静止画になると彼の顔が整っているのがよく分かる。意外と睫毛長いんよな。
くるくる言葉を掻き混ぜる賢い小学生は、ご機嫌な足取りで順路を進んでいく。
時たま家族連れが傍を通り過ぎると、無意識に視線だけで追い掛けるぬるちゃんの背中には、水中に零された墨汁のような寂寥の色が浮かんでいるように見えた。水族館の中の青い空気がそう見せてるだけかもしれん。
────彼とわたしの家族構成は偶然似ていた。小学生の時に母が家を出て行って、父の元で育てられた。ここまではそっくりおんなじで、分かった時には二人してえらい驚いたもんである。
何でもない、しあわせそうな家族が視界に入ってくると、心のどっかでええなあと思ってまうことはあるが、終ぞ口に出したことはなかった。わたしの家族はバラバラになったが、何もかもを否定したいわけではなかった。ぬるちゃんもきっとそうなんちゃうかなと思う。ただの勘やけど。
「ええのん撮れた?」
「まあ」
子どもみたいに浮かれた声音で、彼はわたしと肩をくっつけてカメラを確認してくる。
目に見えない傷が互いにあるのを感じ取って、結局わたしは絆されてもうて、今更どないもできん。
次いで、イルカのでかい水槽が現れた。優雅に水中を泳ぐイルカやシャチを見ていると、うだうだ考えている自分の間抜けさが少しだけどーでも良くなってくる。
「あー、ごはんタイムはもう終わってしもてるんか……」
水槽の傍に貼られていたタイムテーブルを見て肩を落とした彼は、またお昼も来たいなあ、と呟いた。同意すれば完全に巻き込まれることが分かっていたので、わたしは次のフロアの情報収集に入る。
「次の階、クラゲ専門コーナーやて」
「クラゲかあ。ぷかぷかふわふわしとるんかわええよな、ずっと見てられるわ」
俺クリオネとかも好き、とぬるちゃんは小声でくすくす笑う。
技巧と速度で織り成す芸風や柄物ばかりの衣装と正反対に、ぬるちゃんの本質は意外すぎるほどに静かで控え目なものだ。別にどちらの彼も無理してそうしとるわけではないのがちょい不思議である。
まあ人間なんて目に見えるものだけが正しいとは限らんし、本質なんて尚更や。
「んお?」
突然、彼が声を上げて立ち止まった。
何かと思って振り返ると、ぬるちゃんの足元に髪を二つ結びにした女の子がしがみついている。表情は硬く、不安げにぬるちゃんを見上げていた。
ぶつかったというよりもぬるちゃんの膝にしっかり腕を回して、此処から一歩も動きません、といった風情だ。大きなアーモンド型の目は、戸惑いの色に染まっていた。
「どないしたん? お友達と来たん? 親御さんは?」
しゃがんで女の子を目線を合わせたぬるちゃんが子ども慣れした様子で柔らかく質問を重ねるも、彼女はふるふると首を横に振るばかりだ。
「迷子かあ、ほな、俺が一緒に探したるわ!」
簓さんに任せときやあ、と言って丸い頭をやわこく撫でた彼に、少女は足にしがみつくのをやめて、小さな手を真っ直ぐ上に伸ばした。
「だっこ」
「お、おお、抱っこな、うん」
物怖じせんお嬢さんに今度はぬるちゃんが戸惑う番だった。「ええと」女の子の万歳した脇を手で挟み、「よっ」持ち上げたまでは良いものの、そこからどないするのが最適解か分からんらしく、とりあえず自分の肩に彼女を押し付けていた。少女の腕は宙を彷徨っていて、見ている方が不安になる抱っこの仕方である。
ぬるちゃん一人っ子やから、慣れてへんのもしゃーないか。
さっきまでの手慣れた応答が嘘みたいに、彼の顔にも不安の色が浮かんでいる。これで合っとる? と無言で尋ねてくる様子が可笑しい。
恩でも売っとくか、とわたしは首から提げていたカメラをリュックに戻し、女児の顔を覗き込む。
「お嬢ちゃん、そこの兄ちゃん抱っこヘタクソやから、姉ちゃんが交代してええ?」
「うん」
「ガーン!」
随分素直な良い子である。手を伸ばすと迷いなくこちらに小さなもみじが伸びてくる。彼女を落っことさへんかヒヤヒヤしているらしいぬるちゃんは、微塵も動かない。
お嬢ちゃんの脇に手を差し込んで引き寄せ、背中にしっかりと腕を回してやった。彼女の体重をわたしの上半身全体で受け止めるように、そのまま重心を誘導する。
「ありがとおね。うん、そお、姉ちゃんの首にお手々伸ばしてな」
「うん」
ぬるちゃんより視界が低くなったことで女児はちょっと安心したのか、ぬくぬくのほっぺたをわたしの頬に押し当てて、容赦なくしがみついてくる。幼子なので力加減ができへんのやと思われる。ちょっと苦しいが、落っことすよりマシか。
「足しんどない? ぎゅうしてええよ」
「うん」
ぷらぷらと宙に浮いていた小さな足がわたしの背中に絡みついて、体幹は随分安定した。
彼女を安心させようと、気休めに薄くて小っちゃい背中を手でぽんぽんと撫でてやる。ミルクのような甘いにおいが鼻腔を擽った。
「……とりあえず出口向かおか。はぐれた親御さんも心配してはるやろし」
ぬるちゃんが興味津々な様子でわたしの周りをうろちょろするが、お嬢ちゃんは全く動じない。ずっと抱えてたら重くなってくるし、腕が痺れる前にはよ出口に行きたい。
「ほへー、めっちゃ慣れとるやん」
「妹に抱っこせがまれること多かってん」
「抱っこは自分のが上手いけど、笑っかすことやったら俺にお任せやで!」
「はいはい。うん? カニさん気になる?」
「きになる」
鸚鵡返しする彼女は、このフロアの一番奥の水槽に釘付けだった。さっさと次の階へ行こうと思ったが、適度なご機嫌取りは重要である。我々は親ではないので、女児が泣き出してしまったら一溜まりもない。
「ほな近く通って行こね」
「うん!」
タカアシガニの水槽の前に辿り着くと、幼女は目をきらきらとさせて身を乗り出した。
「あし、ながあい!」
「長いねえ」
迷子やのに意外と神経は図太いのかもしれん。将来大物になるなあと胸の内だけで思って、水槽のガラスに手が触れない程度に近付いてやる。
「……なんか、ええなあ」
隣を追従するだけになっていたぬるちゃんが、ふんにゃりした声を落とした。
「何が?」
「へへ……」
お喋り命のはずの彼は、珍しく口を閉ざした。まあぶっちゃけ、今はぬるちゃんに構っている場合ではないので好きにさせとこ。
「お、次の階にお触り体験コーナーやて! お嬢ちゃん触ってみる?」
「うん」
「ほないこかあ!」
ぬるちゃんの手がわたしの背を撫でるように押した。リュックの隙間から差し込んできたらしい。油断したらすぐこれや。何。
女児で手が塞がっているわたしは為すがまま、偶然にも人の捌けた水槽に近寄る。お嬢ちゃんはぱちぱちと瞬きして、水槽の中を覗き込んだ。
「サメとエイやて。言うてたらサメが来てくれはったで」
「珍獣ハンターの経験もある簓さんが先行したろやないかい! ちょちょいのちょいやで! ……待ってえ何かぬめっとしとる~!」
しっかりと顔芸もこなすぬるちゃんに、お嬢ちゃんがきゃらきゃらと笑い声を上げた。
順路に従って歩を進めると、出口のすぐ傍、不安げな表情の若い夫婦の姿があった。探す手間が省けて大変に助かる。ぬるちゃんも気付いたらしく、早々に安堵の息を吐いていた。
お嬢ちゃんに「お外のひと、お母さん?」と尋ねると、彼女はこくんと首を縦に振った。わたしはちょっと痺れてきた腕を無視して歩調を速め、夫婦に向かって視線を投げ続ける。
目を真っ赤にした女性が、あっと声を上げた。
「ユカ!」
「おかあさん」
女児が母親に向かって一生懸命に手を伸ばす。お母さんにお嬢ちゃんを手渡して、わたしは一息吐いた。無事に再会できてほんまに良かった。
涙声のお母さんが娘さんを抱っこしたまんま、わたしとその隣の男に深々と頭を下げた。そして顔を上げた瞬間、彼女の瞳が驚愕の色に染まる。
「すみません、娘が大変お世話に……えっ! 簓君!?」
「あっバレてもた」
ぬるちゃんはぺろりと舌を出してみせた。わざとらしい。わたしはスタッフの腕章をこれ見よがしにアピールしつつ、一歩下がって様子を見る。
「え、どないしよ、ファンです! どつ本の時からの!」
「ほんまですかァ、嬉しいなあおおきに!」
「ユカ、良かったねえ、テレビで見てたぬるさらさんやで?」
お母さんのテンションはブチ上がりで、隣の旦那さんは完全に置いてけぼりにされていた。
女児・ユカちゃんはぬるさらには然程興味がなかったのか、お母さんの手を振り解いて地面に降り立ち、わたしの方へとてとてと歩いてくる。
「おねえちゃん」
「うん」
しゃがんで目線を合わせると、小さなもみじがわたしの指を握って、何度か上下に振った。拙い指切りみたいな動作に思わず顔が綻ぶ。
「ありがと」
「どういたしまして。お母さんの手、もう放したらあかんよ」
「うん」
ばいばい、と手を振って、ユカちゃんとお母さんとお父さんが仲良く手を繋いで水族館を出て行った。
無事に送り届けられて気が緩んだのか、またしても疲労の蓄積を感じる。
「……家族かあ……」
背後にいたぬるちゃんが、小さく呟いた。目映いものを見たなあ、と口には出さなかったが、互いにそう思っていた。
「……そういや写真もうええの」
「あっ忘れてた」
「いや本題」
ほっこりしている場合ではなかった。仕事が終わらんと帰られへん。
ぬるちゃんの手は当然の如くわたしの背中とリュックの間に入り込んで、再入場口へと押し込んでくる。最早抵抗する気力はない。
「ほな、タカアシガニさんのとこと、サメのお触りコーナーで撮ってもらおかな。あっ、俺の長い足もちゃんと写してや!」
「はいはい」
とうに失ったものに目が眩んだ事実は、手のひらの中で握り潰した。
「な、外のイルミネーションも撮っとこ」
館内での撮影を終えたところで、ぬるちゃんがわたしの袖を引っ張った。そういやそんなんある言うてたな。夜景モードのあるカメラで助かった。
「やーでも、ほんまカップルばっかやな」
こちらが敢えて指摘せんかった事項をぬるちゃんは容易く口にして、イルミネーションのモニュメントの横で熱すぎる接吻をぶちかましているカップルに対してウワアと素で引いた声を出していた。
この手の若い恋人達、駅の改札口でも同じようなことしよるので何というか、心臓が強いねんなと思う。世界は彼らを中心に回っているらしい。
まあそーゆー二人組の群れは置いといて、水族館の外のメインディッシュであるイルミネーションをファインダー越しに覗く。乱反射して滲む光は、まあまあ綺麗や。
「いやちゃうちゃう、今日は簓さんメインやろ」
「水族館の宣伝がメインやろ?」
「夢も希望もない……」
急にレンズの前に立ち塞がってくるので鬱陶しい。勝手気ままなぬるちゃんの背を押して「そこのオブジェの横立って、撮るから」誘導すると「はあい」はいはいお返事よおできました。
ぬるちゃんはほんまに黙っとったらただのイケメンやのにな。言わんけど。
あとやっぱ、写真撮るなら夜より昼の方がええ。ぬるちゃんが一番映えるのは太陽光の下や。本人はスポットライトの方がええって言うかもしれんけど。
「おお、雰囲気あるなあ」
カメラのモニターを覗き込んで、彼はご満悦である。人のこと褒めるん上手よな、と言いかけたところで、くちん、と随分可愛らしいくしゃみが隣から聞こえた。
「えっなに今の可愛いの」
「くしゃみですー」
「くしゃみ可愛いグランプリ優勝しとったで」
「何で俺エントリーされとるん」
「良かったな。優勝のコメントお願いします」
「ええと、ちょい恥ずかしくて堪えたら可愛くなってしもうたんです。許してください」
「あざといは人工物やったか」
「何で急に素に戻るんや!」
もう、とわざとらしい悪態をつきながらストールに顔を埋めるぬるちゃんである。それ返してくれ、と訴えるタイミングがこうも毎度潰されるとは。
外は結構冷えるし、あと何枚か撮って撤収しよ。そう思った矢先だった。
「あれ?」
どっかで聞いた男の声、と思って後方を振り返ったらわたしの元カレでした。
いやそんなことある?
久し振りやなあ、と気さくにスーツの男が話し掛けてくるので白目を剥きそうだった。仕事帰りとかそんなとこか、と思ったが彼の手には一眼レフが乗っかっている。
「こんなとこで何してんの?」
全く同じ言葉を投げ返すのは簡単だが、そう長話をしたい相手ではない。愛想笑いで乗り切ることにする。
「お客さんの仕事手伝ってんねん」
「へー……え!? ぬるさらや! すご!」
「どーもー、白膠木簓です!」
隣で寒さに震えていたはずのぬるちゃんが、ずずいとわたしの前に立ち塞がった。元カレが「うわー! 握手してください!」と嬉しそうに手を伸ばし、ぬるちゃんも和やかに応対している。
いや、元カレと元カレの遭遇とかめちゃくちゃ胃が痛い。勘弁して。
握手を終えた男はぬるちゃんほどではないが距離が近いので、わたしはそっと半歩後ろに下がった。
「おんなじオオサカにおるとは知ってたから、またいつかばったり会うかもしれんとは思とったけど……いや、ほんま偶然やな。それにぬるさらにも会えるとかめちゃラッキーやわ」
「ほんま兄さん、運ええなあ!」
「これで使い切ってもうたらどないしましょ!」
「何言うてん、そんなんまた溜めたらええねん!」
続け様の親父ギャグは耳から追い出したが、煙草のにおいが鼻腔を擽った。彼の後方、こちらに近付いてくるスーツ姿の女性の姿が見えたので、敢えて視線をそちらに向ける。職場の後輩さんとかかな。知らんけど。詮索する気は全くないので無駄口は叩かない。
「あ、ごめん俺もう行くわ」
「ん」
適当に手を振って見送ってやる。良かった、これ以上話が膨らんだらとんでもないことになるのが目に見えていた。
そして振り返ったぬるちゃんが、予想外に深刻な顔をしていたのでギョッとする。
「……あいつか、元カレ」
普段の朗らかさからは考えられん低い声に、喉が絞められたようにきゅっと鳴った。
勘良すぎて気持ち悪いねんけど。「成る程な、確かに俺より身長高かったな。盧笙ほどやないけど」何をぼそぼそと分析しとんねんこの男は。まだスウェット事件のことを根に持っとるんか、と茶化したら更に大惨事になる予感がしたので、わたしは口を慎んだ。
肯定も否定もしなかったわたしに、そもそもぬるちゃんは返事すら求めてへんかったらしい。ぱっと表情を切り替えて、彼はわたしの腕章を回収すると、カメラをわたしのリュックに勝手に仕舞い始める。
「な、お腹空いた! ご飯食べて帰ろ!」
「仕事だけや言うたやろ」
「この付近の晩ご飯の紹介も仕事のうちやねんて。行くで!」
「聞いてへん!」
「いま言うたもん!」
しゅっぱーつ、と遠足気分の小学生が復活してしまい、わたしは抵抗も虚しく連行されてしまう運命にあるらしかった。
ぬるちゃんの取り繕ったような声の明るさを指摘しそびれたわたしは、確かに浮かれとった。あほんだら。