今すぐ折れた方が絶対に楽になれるんに、わたしの身体は全く言うことを聞く気配がない。
水族館の駐車場に車を置いたまま、抵抗する手段もなく、徒歩圏内の飲食店に向かって悲しくも連行されているわたしである。
「うあ~~~夜めちゃくちゃ寒!」
「…………」
ぬるちゃんがわたしにぴったりと身を寄せるのは、底冷えする外気温に単純に敗北しとるからであって、それ以上の理由はない。ペンギン同士がくっついてるのと同じである。そういうことにしておく。
「せや、お店先に決めやな!」
人通りの少ない道端で立ち止まり、ぬるちゃんはわたしの袖をくいくい引っ張って、夜闇の中で煌々と輝くスマホの画面を見せ付けてきた。本文が読める程度の絶妙な早さでぬいぬいとスクロールして、写真付きの情報の波を泳いでいる。
「オムハヤシの店とな、ステーキの店やろー……あとフレンチもあるねんけどな、お酒飲みたくなるやん? でも今日、自分の運転で来てるしなあ思て」
こっちに気ぃ遣わんと自分だけでも飲んだらええのに、この男は。いや飲ませたら面倒臭いことになるのは目に見えているので、その気持ちだけは有り難く頂戴しとくんやけど。
画面をすいすいスワイプして「ど?」とこちらに判断を委ねてくる白膠木簓は、水族館の道のりで距離感がすっかりおバグり申し上げていた。
今にも頬がくっつきそうだった事実に飛び上がりそうになったのを必死に堪え、そっと薄い肩を押して、互いの空間をきちんと確保する。
きょとんとした顔すな。パーソナルスペースて単語、直接脳味噌に刻んだろか。
「自分ほんま、冗談に聞こえへん時あるねんよな……」
「誰のせいやと思てんの」
「ほんまやで、もう!」
「開き直るな」
えへ、と照れ顔を披露するんやない。意味分からんわ。
「ともかく! 今日の最後のお仕事や! 俺どの店でも美味しく食べられる自信あるし、決めてぇや」
「どこも美味しそうやけど……」
選択肢が多すぎると逆に決められんものである。優柔不断の自覚があるわたしは、結局晩ご飯もぬるちゃんの言いなりになるのが目に見えていた。
その割に、画面の端にちらりと映ったお好み焼きに対し、ぬるちゃんが一切触れへんかったのが不思議である。
「お好みの店にせんでええの?」
ぬるちゃんはぽかんと口を開けたまま、一切の動作を止めた。今日よおフリーズしよるな。電池切れか。ここ最近の勤務時間を考えれば、強ち間違っとらんかもしれんけど。
「行ったことある店なんやったら別に……」
「え、ほな、お言葉に甘えてもええ?」
言いかけた途端に彼は会心の笑顔を浮かべてみせたので、わたしは一撃で瀕死であった。
そんなん最初からお好み食べたい言うたらええのに、何で変なとこで遠慮するんやろ。もっと他のとこで遠慮すべき場面がせんどあったはずである。
彼の気遣いの境界線が何処に引かれているのか見当も付かず、わたしは画面に浮かんだデラックス焼きなる看板料理を手持ち無沙汰に指先で突っつく。
「……そういや、取材やのに店決まってへんかったん?」
「それがなあ、アポ取り含めて俺の仕事なんよ」
ふと気になって尋ねると、彼は容易く肩を竦めた。
そーゆーもんなんか? いくら人手が足りてへんからて、本人の負担が大きすぎへんか。まあ他所の会社の方針に口出しもできんので、事務所にこき使われて芸人さんも大変やな、との感想に留めておくことにする。
「よっしゃ、ほな乗り込もかあ!」
自然と肩に回された彼の腕をさり気なく振り払って、店のある方角へ足先を向ける。唇を尖らせた彼の姿など目にしたら負けである。
「……強盗ちゃうねんから」
「や、お邪魔します~言うたらわかるやろ?」
「邪魔すんなら帰って」
「待ってガチのトーンで言わんとって! 鉄板ネタやねんから! 鉄板焼き屋さんだけに!」
「ほんま帰るか?」
「は~いご飯食べてからにしよね~」
何でわたしが宥められたみたいになっとんねん。ぬるちゃんはゆるゆるの口許を隠しもせず、わたしの背をぐいぐい押した。
入り口の前には、店名がどどんと書かれた分厚い板に、ランチとディナーのメニューがごた混ぜに書かれた看板がどっしりと構えている。お昼はステーキランチやローストビーフ丼、夜はお好み焼きから炉端焼きまでと幅広いラインナップだ。
わたしが看板を眺めている間に、ぬるちゃんはちゃっちゃと店内に滑り込んでいた。取材は快く受け入れてもらえたらしく、ほっとした顔付きの彼が入り口で手招きをする。
店は繁盛していて、賑やかな声に包まれていた。既にできあがっているスーツのおじさん達がカウンターに渦巻いているし、地元の家族連れやろか、テーブル席では楽しげな笑い声が絶えない。幼稚園くらいの少年が口の周りをソースで汚しながらも、嬉しそうにお好み焼きを頬張っていた。
掘り炬燵の座敷の最奥に案内され、コートを脱ぐ。己のグレーのパーカーが視界に入ると恐ろしくも「お揃っち」状態である事実が目の当たりになって今すぐ気絶したい。
が、空腹には抗えん。唇を噛み締めながらメニューを手に取る。
「何食べよ~」
既に敗北の予感をひしひしと感じるわたしを他所に、うきうきとした表情でメニューを覗き込むぬるちゃんだった。
またしてもメニューにはずらりと日本酒が並んでいる。お好み屋さんのお酒の充実度は一体何なん。思わず悲しい顔をしてしもたのがあっさりとバレて、ぬるちゃんは妙に嬉しそうに口許を緩めてみせた。
「今日はお酒あかんくても、また来たらええやん!」
料理も口にする前から何言うてん、と一蹴するのは簡単なはずやのに、わたしはメニューに視線を落として、返事を曖昧にむにゃむにゃさせる体たらくである。防御力がどんどん下がってるのが分かる。
ほんまに、次なんかないかもしれへん。いや、そもそもない方がええ。ちゃんと理解してるはずやのに、わたしの諦めの悪さはいつまで経っても治る気配がない。
料理が出てくるまでの間、ぬるちゃんは御機嫌でカメラを弄くっていた。写真の群れひとつひとつに「これめっちゃアングルええやん!」「やっば、アザラシさんと俺のツーショめちゃくちゃ盛れてるわ~」「ちょお、ナマコ触ってる俺の顔に綺麗にピント合わせてるん何? ナマコがええ感じにボケて謎の生物になっとるやんけ」「いやー自分、素人にしては写真の腕ほんますごいで!」などと怒濤の言葉の波に攻められ、わたしは目を白黒させながら「はあ、どうも」と気の抜けた返事をするしかなかった。
仕事の成果を褒められているだけや、と自分を宥める。お得意のリップサービスに過ぎん。
でもまあ、ぬるちゃんは一緒に働く人が気持ちよお仕事できるように細かい気遣いを忘れんのやな、と社会人として感心した。
「はいお待ちどお」
ジョッキで出てきたオレンジジュースと烏龍茶で乾杯する前に、手始めに注文した生ハムのシーザーサラダやらスピード勝負の一品物やらが卓上に広がっていく。彼が颯爽と取り分けてくれるので、謎の風の吹き回しに疑問符が出た。
「お腹空いてると余計な争いが生まれるやんか」
突然の真理。それはそう。
ぬるちゃんは争いごとを特に嫌がるタイプと思っていたが、お笑いという弱肉強食の世界でも実に上手く立ち回っていて、嫌や言うてもできひんわけではないねんよな、と思った。
タコの唐揚げポン酢にだし巻き卵に冷やしトマトと、どんどんと料理が盛られていく小皿を前に、ぬるちゃんはわたしのリュック────中に仕舞っていた一眼レフを指した。
「ほなカメラさん、写真頼むで!」
成る程、こちらが撮影に集中できるようにと配慮してくれとったらしい。
店内のやわらかいオレンジの照明は、料理映えには最適である。わざとぬるちゃんが見切れるようにカメラを構えると「いや俺もちゃんと撮って!」予想を裏切らん反応があって、思わず小さく笑ってもうた。
一通りシャッターを切ってから、座敷の端っこの鞄の群れにカメラを置く。卓上に置いて飲みもん零したらとんでもないので、当然の行動である。
ぬるちゃんと同時に合掌して、食事を開始した。先に食べとってもええのに、わたしのことを待つ律儀さを見せられ、むず痒さを烏龍茶で流し込む。
学生の頃かてそうや。お昼ご飯を一緒に食べる時は、絶対わたしのこと待ってたもんな。
生ハムがこれでもか言うくらいたっぷり乗ったシーザーサラダは店の心意気を感じられて、最早それだけでも気分が良いし、あっさりとした口当たりのだし巻き卵は裏切らない。ポン酢が爽やかなタコの唐揚げは、油断したらこれで酒がぺろっとなくなるくらいである。運転手という責務を果たすために泣く泣く諦めるしかなくて辛い。
ぬるちゃんのテンションも既にギアがかかっていた。これは本命のお好み焼きも期待しててええ、当たりの店に違いない。
「そういや写真て、料理だけでええの?」
「そこに気付くとは、自分さすがやなあ!」
「別に、よお雑誌とかやと店員さんのコメントとかあるやん」
「ご明察~! お好み焼き運んでくれはる時にな、コメントもお願いしたい言うて、許可もちゃーんと貰てきたから、大丈夫やで」
何故かめちゃくちゃ御機嫌になったぬるちゃんはオレンジジュースをちびりと舐めて、タコの唐揚げを豪快に食んだ。
店内が想定していた以上に賑やかだったので、我々の会話は相対的に控え目だった。
元カレと元カレが鉢合わせする現場に出会したせいで夕食など胃が受け付けへんのではと危惧していたが、実際は何の問題もなく、箸はどんどん進んだ。心境に反して己の強靱な胃袋に感謝するしかあるまい。
だし巻き卵に舌鼓を打っていた彼が「ほんでな、ずっと聞きたかったんやけど」唐突に真面目くさった表情を貼り付けて、こちらの顔を覗き込んでくる。冷やしトマトを咀嚼して、わたしは瞬きを繰り返した。
「あの元カレ、いつからいつまで付き合うてたん?」
争う気しかないやんけ。
油断したらすぐこうや。無益な情報を強請られたことに辟易して、烏龍茶を一口。
「黙秘権を行使します」
「許さん! 吐けェ!」
「ご飯屋さんで何てこと言うねん」
「や、それもそうか」
何とか納得したらしいぬるちゃんだったが、その眉は吊り上がったまんまで、話を蒸し返す気が失せた訳ではなさそうなのが恐ろしい。時間が経てば経つほどこちらが不利になるのは目に見えている。はよお好み焼き来てくれへんかな。
「お待ちどおさんですー」
「わあ、おおきに!」
果たしてわたしの願いは叶えられ、店長さんらしきおじさんが料理の乗っかった鉄板を抱えてのご登場である。救世主に違いない。思わず拝むとぬるちゃんが勝手に笑い転げていた。店長さんは寛大な心の持ち主なのか、挙動不審な客に対しても営業スマイルを一切崩さない。素晴らしいお方である。
卓上の鉄板に移された看板料理のデラックス焼きは、車エビ、貝柱、ホタテ、タコ、イカ、豚バラに牛肉と名前のとおり盛り沢山である。香ばしいソースのにおいが腹の虫を存分に刺激した。めちゃくちゃ美味しそう。
ぬるちゃんは早速店長さんに色々と話し掛けていて、わたしは慌ててカメラを構えた。
「ふふ、写真なんか恥ずかしいですわ」
「大丈夫やで店長さん! うちのカメラさんがブラピも腰抜かすくらいイケメンに撮ってくれるからな!」
無闇にハードルを上げてくるぬるちゃんの脇目掛け、愛想笑いを浮かべながら小突く。奇跡的に店長さんがゲラゲラと笑ってくれたので、この瞬間を逃さないようにと慌ててシャッターを切った。
おすすめの料理の話、店を開くまでの物語、果ては店長さんの生い立ちまで最短に、かつ事務的な感じにならんよう、ぬるちゃんはデラックス焼きを合間に頬張り、お喋りの花をしっかり咲かせていた。
彼がいつの間にか手にしていた小さなノートには、店長さんのコメントの切れ端が走り書かれている。きちんとメモを取る姿勢は誰から見ても好ましいものだろう。
「ほんま店長さん、お忙しいところおおきに! 雑誌出来上がったら一冊お届けしますんで、楽しみにしとってな!」
「こちらこそ、数ある店の中からうちを選んでもろておおきに」
「やー、どれもこれもめっちゃ美味しいねんもん! また通わさせてもらいます! あ、せや、追加で注文ええですか? この、店長お任せ焼き鳥五本盛り! お願いします!」
「あいよお」
にこやかに応対してくれはった店長さんが厨房へと戻っていく。その後ろ姿を見届けてから、ぬるちゃんはノートに怒濤の勢いでメモを加筆し始めた。
「あ、俺んことはええから食べとってや!」
テレビ用と寸分違わぬ笑みで、彼の左手はペンを走らせる。店長さんの言葉のひとつひとつ、言い回しや声のトーンまでがノートの余白に書き込まれていく。わたしは彼の言葉に大人しく従って、お好み焼きを食みながら見守りに徹した。
ぬるちゃんの根は至って真面目で、普段おちゃらけてる以上に頭ん中は理屈詰めで、無駄に見える振る舞いも計算の内であることが多い。一生懸命仕事に励む姿を見ていると、わたしも頑張らんとなあと思わされてしまうから不思議である。
まあ、そんな彼やから、一緒に仕事したい言う人がぎょうさんおるのもわかる。
店長さんに替わってバイトらしき若い店員さんが持ってきてくれた五本盛りは、ずり、かわ、豚トロ、ぼんじり、せせりで構成されていた。メモを終えたぬるちゃんが箸で肉を外し始めるのに倣って、わたしもひとつ串を摘まむ。
意外と空気を読んだのか、結局ぬるちゃんはアルコールを口にせんかった。意外と。わたしはそないに恨めしい顔でもしとったんやろか。
ついついドリンクメニューに視線を投げてしまうわたしに、ぬるちゃんがふにゃっと笑った。
「また来よな」
わたしは烏龍茶を喉に流し込むことで、まともな返事を噛み殺した。代替案として、話題をぬるちゃんに移すことにする。
「……飲まんで良かったん」
「や、肝臓労るんも大事やんか」
ぬるちゃんがお好み焼きの最後のひとかけを頬張って、突然まともな発言をしたので素直に驚く。どうやら酒にはそれほど弱くないらしい彼が、わざわざ休肝日を設けなあかんくらいに疲れとるんやろか。
────いや、こっちを気遣っとるだけや。
「はー、ごちそうさんでした! お腹いっぱいになったし帰ろかあ」
ほんまこの男は。何でこう、急に慈愛の塊みたいな目ぇしてにこにこと。そんなん、元カノに向ける必要性なんか全くあらへんのに、と勝手に痛む胃を手でそっと押さえた。
まあ実際のところ、ぬるちゃんは栄養ドリンクの常飲で内臓の状況は芳しくないはずや。そういうことにしとこ。それが一番ええ。わたしにとっては。
「なー、でも何でなん? 俺よりアイツのどこが良かったん?」
なーんも納得しとらんやんけ。言動に一貫性を持たせんかい。
車内に戻ってからがほんまの地獄の幕開けだった。小首傾げてぶりっこしながら尋問すな。一滴もアルコール摂取してへんはずやのに戯れ言ばっか抜かしよって。
這々の体でも何とか今日一日を乗り切った達成感で満たされていたのに、一気に足元を崩された。心の底から勘弁してほしい。
黒のキャップをリュックと共に後部座席に置いてきたぬるちゃんは、今度はわたしのキャップを奪って手遊びをしている。
「はよシートベルト締めて、出発できんやろ」
「えー? 質問答えてくれへんのに?」
「そおか、電車で帰るんやな。メトロはあっちやで」
「イヤッ冗談です! 締めました! お手々は膝の上! 褒めて!」
「今時の幼稚園児さんのがもっとお利口やわ」
「はわ……二十も下の子に負けた……」
薄暗い車内でようやく多少大人しくなったぬるちゃんを尻目に、エンジンを掛ける。
ていうか元カノの元カレのことなんぞを執拗に聞いてくるのてどんな心境? 正直全く意味が分からん。興味を抱く対象を完全に間違えとるやろ。何かのネタにする気か? 身内ネタでウケを狙おうとすな。
「暴言禁止!」
「ほなお口にチャック付けてくれはる」
折角美味しいもんでお腹も膨れたんやから、帰路は心地良く爆睡しとってくれたらええものを。
起きとるんやったら窓の外の夜景でも見て、何もかも全部有耶無耶にしてくれへんかな、と思いながらアクセルを踏む。さっさと送り届けやんとわたしの寿命がどんどこ削られていく。常にデバフかかってて鬱。
こちらの願いがやっとこ叶って、ぬるちゃんは静かに口元を引き結んだ。
「……自分そんなん言うけどなあ、音信不通になった挙句に他の男と付き合うてたて分かったらな、そいつどんな奴なんかなあて普通に気になるやろ?」
沈黙は数分だけだった。運転してへんかったらずっこけるところである。
しかも窓の外の夜景を眺めながら、砂糖みたいな声色で宥める振りして恐喝してきはるねんけど。怖。普通て何。
道路は空いているとは言えず、それなりの速度しか出せない。この道が混むのはもっと後の時間のはずやのに。近くの官公庁勤めの社畜達が終電を逃すには、まだ随分と早い。
「よっしゃ簓さんが当てたるわ」
「当てんでええ」
「大学かバイト先の人やろ」
ぬるちゃんが人の話全然聞かへんモードに突入してもうたので、もうおしまいです。ご静聴ありがとうございました。来世に期待。
「しかも割かし長いこと付き合うてたやろ」
何で確信持って言うてくるんやろ。背筋が薄ら寒い。
なあなあと猫に負けじとぬるちゃんが鳴く。喧し、当たっとるわ。大学おんなじ人やったわ。絶対言わんけど。
「その観察眼の無駄遣い何とかならんの」
「一ミリも無駄ちゃうもん!」
「そおか。はよ寝えや」
「もー!」
「牛か」
何度目の応酬か分かったものではない。暗がりの車内でこんだけ元気なんもどうなんやろと思う。
「なあ、付き合お言われたから付き合うたんちゃうん?」
ほんまにどっかで見とったんか?
口元が引き攣りそうになるのを気合いで誤魔化して「何でそう思うん」アクセルを踏む足先に力を入れる。ぬるちゃんがしぱしぱと瞬きしたのがルームミラー越しに見えた。
「や、勘やけど」
「…………」
「え、ほんまに当たった? も~何勝手に押され負けとんねん!」
「負けてへんし」
「いやゴリ押しされてウン言うたんやろ。簓さんには分かるで!」
誠に残念なことに、それは間違いではなかった。
今度こそ黙秘権を行使しながらハンドルを切る。ぬるちゃんがこの尋問に飽きて睡魔に屈することを願い、肌に突き刺さる視線は感じないことにして、暗がりの道を無理矢理ぐいぐい抜けていく。
「はーええなあ、俺かて自分と同棲したかったわ」
……過去形やんけ。
何も言葉を返すことができず、無力な自分はただ適切にアクセルとブレーキを踏み分けて道路を進むしかない。
跳ねとる心臓なんか幻覚や。飛んだ脈拍は多めに吸った酸素で宥める。熱くなった目の奥は気のせいに過ぎん。何でもない顔を作るのは、少し骨が折れた。
傷付けたいという欲望が丸出しの言葉に容易く刺されて情けない。今すぐに鋼の精神が欲しい。
「な、ドキッとした?」
無邪気な声色に素直に苛立ちを覚えたが、正直にぶつける度胸はすっかり消えてしもた。
落ち着け。ぬるちゃんの手のひらの上で踊るにしても、もうちょいマシな振り付けがあるはずや。探せ。絶対に泣くな。歯を食いしばって笑顔作ったらええねん。運転中のわたしにはその程度の逃げ道しか残されてへんのやから。
────道化ばっか上手くなっても、待ち構えとるのは破滅の道やと分かってるんに。ああもう。
ハンドルを握る指先は、パーカーの袖の下で僅かに震えている。いや、気のせいや。薄い酸素を肺に押し込んで、なるべくいつもの、力のない愛想笑いを浮かべてやる。
「……あんた、テレビ出てへん間に随分悪いことしとったみたいやな」
「いやいや、俺をドキッとさせてほしいんちゃうねん!」
「知らんがな。腕揺するんやめて」
「……言いそびれてたんやけど、今日のお化粧かわええな。仕事ん時も今日くらいの感じにしたらええのに」
急に普通のトーンに戻るん止めてもらってええですか。
ほんま、人を誑かすんばっか上手くなりよって。無駄な攻撃も合わさって感情の処理が追いつかへん。遂に返事に窮したわたしの二の腕を両手で掴んだまま、ぬるちゃんは口を閉ざした。
一刻も早く振り払いたいのに、こんな時に限って信号は青一色だ。己の不運を呪いながら、やっと少し微睡み始めた彼を刺激しないように細心の注意を払って、アクセルを踏み続ける。
こくり、と緑の頭が揺れた。今日はアイマスクの出番がなくとも平気なんやろか。眠たげな顔を隠しもせんので、安眠の提供のためわたしのキャップを被せてやろうかと思った瞬間だった。
「……はー、帰りたないなあ」
ほんまにしょげたような声で何言うとんねん、どつき回すぞ。
と、恫喝できたなら話は早いが、生憎わたしの願いは微塵も叶えられそうにない。
彼の長い指先が縋るようにわたしの袖まで伸びてくる。あっという間にぬくい指が手の甲まで這ってきて、そのまま動きを止めた。運転の邪魔やねんけど、と返した言葉に反応はない。
こん男、こうして色んなひとの下を渡り歩いてきたんとちゃうか。
ほぼほぼ確信に近いそれに、わたしの手はどんどん体温を失っていく。車内の暖房はしっかり効いとるのが皮肉のようだ。
わたし以外の元カノのことを聞き出す勇気は備わっていない。考えるだけでも心臓が嫌な音を立てて軋みよる。傷を負うことが分かっていて一歩を踏み出せるほど、わたしは強くない。
流石に疲労が蓄積していたらしく、時間にして十五分程度、白膠木簓は営業休止していた。
そろそろぬるちゃんの自宅付近である。叩き起こすよりも早く、わたしの腕からいっこも離れへんかった彼の手が、やっと意思を持って距離を取った。
よお寝たわ、と自主申告があった。そら良かったな、と平然とした声色を投げることに成功したわたしはめちゃくちゃ偉いと思う。
「あー、帰りたないなあ……」
ほんまこいつ、と半目になりかけたが、声音が酷く沈んでいたので僅か思い留まった。
友達と遊んで家に帰ったら、親はまだ仕事から帰ってきてへんくて、真っ暗な家に足を踏み入れる時に出すような、そんな声に似ていたからだ。
そう、解決していない事象がある。鬱屈とした気分を強制的に味わう羽目になっている彼を、しばき倒すにはまだ早いことを思い出す。
「……不審者の件、警察から連絡あった?」
「んや、全然」
「…………」
交番のお巡りさんが自宅周辺のパトロールを増やしてくれるとは言っていたが、そう簡単に不審者が逮捕されるわけではないのが現実だ。
不安になるのもしゃーないか。結局甘ちゃんから卒業できないわたしは、ぬるちゃんの自宅であるマンションの駐車場に車を駐めてエレベーターまで送らざるを得なかった。
「なんか、ごめんな」
「謝られる心当たりが多すぎてどれのことか分からんわ」
「照れ隠しヘタクソすぎひん?」
「遂に頭沸騰してもたんか、可哀想に」
「ひど! 簓さん傷付いた!」
こっちはとっくの昔に血塗れやあほんだら。
負傷している事実を述べるのは癪なので、今度はわたしがぬるちゃんの背中を押してやる。はよ乗れ、と目で訴えるも、ぬるちゃんは視線を逡巡させてから扉の前で立ち止まった。
「……部屋の前までええ?」
「ゴキ退治はせえへんで」
「嘘やん! いや、流石にもうおらんとは思うけど!」
出たらまた助けてくれやな困るやんかあ、と勝手に人の袖を自分のもののように引くぬるちゃんには、溜め息程度の返事で丁度ええ。
完全に男女の役割が逆転しているが、護身用のスタンガンをコートのポケットに仕込んだ女と丸腰の男では、まあしゃーないのかもしれん。今回はそういうことにしておく。
彼と一緒にエレベーターに乗ったが、意外と他の住民には遭遇せず、ぬるちゃんの部屋がある階まで滞りなく浮上した。
箱の外に出て、扉の鍵を開ける彼の後ろ姿を見守りながら、不審者の影がないかを目視で確認する。そう簡単には出てこーへんか。警察がしっかり仕事をしてくれている証左ということにしておく。
「明日はしっかり休むんやで」
「うん」
つい、その後ろ姿に声を投げ掛けてしまう己の甘さは、今すぐこの場で捨ててしもた方がええ。理解していながら、身体は上手く動かないから不思議である。
「ほな」
ひらりと手を振って踵を返そうとしたところで、彼の手に手首を掴まれた。
「……ちょっと上がってかへん?」
「は?」
「運転ずっとお任せやし、お茶くらい出すで」
普段と変わらぬ、人懐っこい笑みではあった。
彼の意図が読めないのは、今に始まったことではない。手首の骨をしっかり掴んでいた長い指を引き剥がし、わたしは丁寧に営業用の笑顔を浮かべてみせた。
「いや、そんなん仕事やから。おやすみ」
彼の身体を玄関の中へ押し戻す。わたしはエレベーターに駆け込むようにして乗り、ドアを閉めるボタンを押した。
何か言いたげに口を開いていたぬるちゃんなんか、絶対見てへん。気のせいである。
地上に辿り着いたエレベーターから逃走して、急いで愛車に乗り込んだ。悪夢は運転で外に出すに限る。
コートのポケットに入れていたスマホが震えた。職場からかと思ったら、クリームソーダのアイコンから吹き出しが出ている。
〔今日はありがとうな〕〔また明後日からもよろしゅう!〕
わざわざ律儀なこっちゃな、と少し感心する。そう、ぬるちゃんは普段の距離感可笑しいけど、こーゆーとこはマメや。昔から変わらん、数少ない彼の長所とでも言うか。
〔お疲れ、しっかり休みや〕
それだけ打ち付けて画面をオフにしたのに、すぐに通知が飛んでくる。画像添付、一件。タップすると水族館の写真だった。
どでかいジンベエザメの模型の前で、テレビで見慣れた笑顔の白膠木簓の隣に、愛想笑いのわたしが並んでいる。ファンに対応する芸能人とチェキに慣れていない一般人の図に見えた。
自然と溜め息が零れ出る。まさか元カレと元カノの姿には見えるまい。わたしの肩にしっかりぬるちゃんの手が回ってしもてるのには目を瞑る必要があったが、妥協も必要であると学んでいる。思わず苦笑いが込み上げた。
またスマホが振動して、あー既読スルーを咎める文章でも投げられたか、と思って通知に指先を滑らせる。
液晶に広がったのは、イルカの水槽を眺めるわたしの横顔と、カメラに向かって屈託のない、ふんやりとした笑みを浮かべたぬるちゃんの姿だった。いつの間にこんなん撮ってたんやろ。
〔自分、全然カメラ気付かへんの変わってへんなあ〕
続いた文字列には絵文字もなくて、温度が読めへん。からかわれてんのか、責められてんのか、別の意図があるんか。
〔おやすみ! ええ夢見るんやで〕
難しいこと簡単に言いよって。