二度と泊めたらへんわと息巻いとった過去のわたしへ。わたしは無力です。わたしより。




 水族館に鉄板焼き屋に元カレとの遭遇に、休日やのに怒濤の半日やった。疲労感が半端ない。さっさと風呂入って寝よ、と炬燵から這い出たところで、軽やかなチャイム音が鳴って肩が跳ねた。
 時刻はもうじき二十三時、こんな時間帯に宅急便が届くわけもない。はて、と首を傾げたところで、少し間を置いてからピンポンピンポンと連打が始まった。
 嫌な予感で胸がいっぱいである。
 唾液を飲み込みながら怖々とドアスコープを覗くと、何故か送り届けたはずの顧客の姿があって今すぐ気絶したかった。いや、不法侵入(ピッキング)せんようになっただけでも進歩したと喜ぶべきなんか。

「開~け~て~!」

 ドア越しに聞こえる近所迷惑野郎の猫撫で声と、延々と鳴り続けるチャイム音に気が狂いそうである。
 数分の格闘の末、結局わたしは根負けして、苦渋の判断で玄関を鍵を開けた。
 白膠木簓、目的達成のためならば手段を選ばず里抜けする系の男であるので、こちらが一旦折れて説得する方が結果的に効率が良い。

「ただいまあ!」

 わたしが恐る恐るドアノブを回すよりも早く、ぬるちゃんが扉を開けて玄関に侵入してきた。夜分にそぐわぬ元気な犬っころのタックルを食らい、狭い玄関で尻餅をつかないように努めるので精一杯である。
 ただいまやないねん、さっきわたしが家まで送り届けたはずやのに、全部無駄やんけ。
 ぬるちゃんと共に肌を刺すような外気温が流れ込んできて、小さく震えた。朝晩の冷え込みはどんどん厳しくなる。まあ十二月やし。

「……せめてお邪魔しますて言うてくれへん」
「やー寒い! さっき乗ってきたタクシーな、全然暖房上げてくれへんくてなあ! いっつも自分のタクシーにどんだけ甘やかされてたんか、よおわかったわあ」
「聞け、人ん話を」

 げんなりした顔のわたしの姿は、ぬるちゃんには見えとらんのかもしれん。都合の悪いことはぜーんぶ見捨てよるから。
 彼は身に着けていた黒のキャップをわたしの頭に無理矢理被せて、散歩に行きたくてたまらんポメラニアンの姿から一転、八の字眉毛でぐいぐい距離を詰めてくる。わたしは必死に腕を突っ張った。負けてはならぬ。
 いや、侵入を許した時点でわたしの負けではあるんやけど。

「なあ聞いてや! 冷蔵庫と洗濯機が一気におじゃんになってもてな? まあ買うた時期も一緒やし、わからんでもないけどな、風呂の湯沸かし機能まで壊れるんは何なん? 次はテレビとエアコンか?」

 情報量が多い。
 家主の許可を一切得ることなく、すぽんとスニーカーを脱いで洗面所で手洗いうがいまでして、彼は炬燵に素早く収まった。挙句、天板に置いていたわたしのマグカップのお茶を勝手に啜る始末である。最早怒る気力も失せる。
 行動速度がおかしい。ピンポン連打から炬燵まで三分クッキングやんけ。
 床に乱雑に投げ出されたぬるちゃんの黒のダッフルコートを拾い上げ、とりあえず余ったハンガーに掛けてやる。炬燵にまで入り込んでもた彼を追い出すには、それなりに時間が必要や。

「こっちは毎日めちゃくちゃ一生懸命働いとんのにやで? この仕打ちは何なん、どゆことなん」

 あーあ、完全に御機嫌斜めや。わたしは今後の自分の運命を想像して、彼のキャップを手に適当に十字を切った。救いなどない。
 ぬるちゃんの眉間の皺はごっついのに、真ん丸に膨れた頬が厳つさを相殺していたので、やはり彼の属性は可愛らしさが含まれていないとどうにもならんらしい。知らんけど。
 家電が一気にお釈迦になるのはよくある話だ。わたしも経験がある。しかも繁忙期。阿鼻叫喚。ぬるちゃんも正しく年末進行という名の地獄月間の最中で、運が悪いとしか言い様がない。

「ほんでな、こんな時に限って近所のコインランドリー覗いたらめちゃくちゃ混んどるしな、しかもそこ隙間風ごっついから待ってるん寒いし……冷蔵庫はたまたま大したもん入ってへんかったからまあええけどやな、部屋入ったら床水浸しで気ぃ失うとこやったわ。もーやってられんて、とりあえず一日の疲れ風呂で洗い流そかあ思たら、シャワーから湯やなくて水出るし。湯船か思たら水風呂やし。死ぬか思たわ」

 確かに踏んだり蹴ったりである。「お祓いでも行った方がええんちゃう」と素直な感想を述べると、むう、とぬるちゃんは口許をひん曲げた。慰めの言葉が欲しかったらしい。そんなもん簡単にくれてやらん。
 しかしまあ、それらの惨劇はしばらくの間、ビジホ暮らしで十分に凌げるはずである。

「冷た! 酷い! もうちょい温もりのある言葉くれてもええやん!」
「正論を述べてるだけや、諦めえ」
「友達やろ! 慰めてえや!」
「寒いから情緒バグっとるだけやろ。はよビジホ行きいや、ここよか快適やろ」
「いけず言わんとってやあ!」

 つまり、この元カノの家に、わざわざ他のタクシーを飛ばしてやってくる理由なんざ一ミリもないのである。
 炬燵の傍、ラグの上で仁王立ちになり、なるべく冷たい視線で彼を見下ろす。「知らんわたし関係ない帰れ」と畳み掛けるも「いやや~!」ぬるちゃんの腕が素早く伸びてきてしまい、わたしはうっかり逃げ遅れて体勢を崩した。

「ちょ、」

 手にしていた彼のキャップが、ぽすんと軽い音を立ててラグの上に落ちた。
 彼の緑の頭が、膝を折らされたわたしの肩の骨にぐりぐりと擦り付けられている。わたしの背中にはしっかりと腕が回されていて、こちらに動揺を隠す余裕はない。
 そろそろ本格的に護身術を学ぶべきかもしれん、とひとつ現実逃避。またこの展開か、飽きたわ。
 抜け出そうにも難しい力加減の拘束で、色っぽい抱擁ではないにせよ、心臓に悪いことは確かである。鼻腔がぬるちゃんの纏う香水を捉えてしもて、今すぐ気絶して全部なかったことにしたかった。車内に漂っているのと同じ、仄かなバニラのにおいは、彼の残り香のそれである。
 ────何でわたしにこないなことするんやろ。
 考えるだけ無駄やと知っている。ぬいぐるみでも抱き締めるみたいにぎゅうぎゅうしてくる彼の、パーカーに包まれた肩を押しやってもびくともせん。
 こんのくそったれ、降参やと両手を挙げても全然力緩まへんねんけど。細っこいくせにこんな時ばっか男の力で腹立たしい。

「……ほんま、ふざけんのも大概にしいや」
「ふざけてへんもん」

 即答されて思わずイラッとした。ふざけてへんなら尚のこと悪質である。だがわたしは大人なので、なるべく建設的なやり取りで解決を図りたい。深呼吸をしてから、彼のつむじに視線を落とす。

「あーわかったわかった、ビジホの予約すらするんしんどいねんな。やったるからとりあえず離れえや」
「ま、待って! ほんまに!」

 本気で焦った声と共に、背骨を圧迫する力が更に強まった。わたしは上半身を逸らしてぐえ、と間抜けに呻くしかない。挙げたまんまの両腕が辛い。ぷるぷるしてきた。

「……ひ、ひとりになるん、いややねん……」

 語尾は今にも掻き消えそうやった。演技やとしたら今年の主演男優賞を受賞できとったに違いない。少なくとも素人のわたしには、それが本気か演技か見抜く技術がない。
 学生時代のぬるちゃんも、時折こんな風になることがあった。
 ────帰っても家ん中、だーれもおらんし。テレビ見ながらスーパーかコンビニのお弁当食べて、風呂洗って入って、うとうとした頃におとん帰ってくんねん。テレビでお笑い観てたら時間はあっという間に過ぎるんやけどな。……でもなあ。毎日そんなんで、仕事で疲れとるおとんとはあんま喋られへんし。
 彼は、寂しいという言葉を使わんかった。使い過ぎて言うんも嫌になったんかもしれん。知らんけど。
 わたしの背に最早縋るように回された彼の手は、震えていた。

「……具体的に理由を述べよ、さもなくば帰れ」
「ガチトーンやん……や、言うけど……」

 ようやく観念したらしい彼は、それでも俯いたまま、こちらと一向に視線を合わせようとしない。普段とは真逆や。
 ぬるちゃんの手は、わたしのパーカーのフードに伸びた。肩に押し付けられていた彼の額は、ずるずる下がってわたしの胸の辺りで落ち着いた。いや、何でそこなん、と冷静に言葉を投げても、彼の顔は上がらない。

「……なんかな、ほんまに疲れてもうて」

 ぽつりと零された本音らしきそれに、わたしは思わず少し後退った。
 受け止めきれるか、咄嗟に判断できひんかった。それでも中途半端なことはしたらあかんと思って、わたしは何とか踏み留まるように足を床に縫い付けて、両腕をそっと下ろす。
 そして、「俺な、頭撫でてもらうの好きやねん」なんて学生時代のぬるちゃんがはにかんどったのを思い出して、めちゃくちゃ迷って、躊躇って、遂に彼の髪をくしゃくしゃと撫でた。

「こんなん初めてでなー……仕事が嫌なわけちゃうねんけどな……」
「うん」

 彼の吐露に力はない。
 そら、人間やから疲れもするやろ。板の上でお客さんを笑わせる本業以外にも、彼の仕事はあまりにも幅広い。テレビの仕事が嫌なわけやない、とは言うとったものの、秒刻みのスケジュールの中、年末年始の特番なんて、普段関わりのない芸能人やらスタッフやらと仕事することになるわけで。ずっと頭を回転させっぱやったら、摩耗するのも当然である。
 ただ、彼はプロの芸人で、関係者の前で弱音を吐くことはないんやろう。彼女と別れたとか前にも言うとったし、ガス抜きが上手くいってへんのかもしれん。

「自分やったら、俺のこと適当に扱ってくれるやん」

 ……ほんま、こん男は。
 さっきまで慰めの言葉が欲しいとか言うとったくせに、矛盾しとるにも程がある。どうせやったら自分のことを大事にしてくれる人んとこに行けばええのに、何でわたしに拘るんか、全く意味が分からん。
 おでこをわたしの胸元にくっつけていたぬるちゃんは、今度は耳をこちらの身体に押し当ててきた。前髪で表情までは窺い知れんが、纏う空気はさっきよりも僅か柔らかく感じる。

「……はー、フードの下あったかいなあ」
「暖取っとっただけかいな。はよ炬燵戻り」
「ん、ふふ。心臓の音聞こえるなあ」

 人のフードの下で何かごそごそしとるなと思ったら。ぬるちゃんがくすぐったそうに笑った。
 ────都合の良い「友達」に甘んじて、色んなもんを諦めて受け流せばええ。それが、わたしにとって一番傷が浅くて済む方法や。
 溜め息がひとつ、勝手に零れ出た。

「ほな適当に扱ったるから、とりあえず解放してくれへん」
「ちょっとはドキッとしてくれたらええのにぃ」

 そう言うて、彼は名残惜しそうに炬燵に戻っていった。わざとらしい。人の心拍数聞いといて、何やその口振りは。全部わかっとるくせに。

「あ、なあ、俺のスウェット置いてくからこれ捨ててええよな?」

 一瞬でいつもの調子を取り戻した彼が、リュックの中から自前のグレーのスウェットを取り出して、わたしの部屋に元々あったスウェットも掲げて、あっけらかんと告げてくる。
 こうして比較してみると、ぬるちゃんのスウェットの方が(スウェットと言えども)上質であることや、別の元カレのそれは結構毛玉が目立つな、と非常にどーでもええことに思考が泳ぐ。
 いや、せやからどーゆー理屈?
 何でぬるちゃんの寝間着をわたしの家に置く必要があるのか。わたしが尋ねるよりも早く、彼は炬燵の天板に顎を乗せて、小悪魔の笑みを浮かべた。

「そら、必要なもん置かせてもらわんとな?」
「あ?」
「声こっわ! や、真面目にな! ご存知のとーり、いま年末進行中やん? 正直体力ギリギリやねんよ。朝早いんは慣れてるつもりやったけど、やっぱしんどいし、朝自分と一緒に出発したらちょっとでも寝れるやん? いま倒れたら元も子もないしやな……」

 あーあ、白膠木節が出てきた。結局わたしは彼に口喧嘩で勝てた試しがない。捨てられた柴犬モードでガンガン攻撃してきよると、防ぎたくてもめちゃくちゃ難易度が高い。

「風呂壊れたんがいっちゃんキツイわ……近所に銭湯ないし」

 せやから最初から素直にビジホ行きいや、と言いかけたわたしの口を、彼は視線と手で塞いだ。こちらの唇に触れた指先を思わず手で払うと、彼は目に見えてわたわたとし始める。

「あー待って、言い訳さして、ええと……」

 ひとつひとつ、言葉を探しているようだった。

「……最近な、やっぱ誰かに見張られてるような気ぃしてしゃーないねん。ま、こんな仕事やし、有名税みたいなもんやとは思うんやけど」

 それは、きっと気のせいではない。
 件の不審者の動向は読めず、進展もない。だからこそ真綿で首を絞められるような恐怖を、ぬるちゃんは知らず知らず味わっている。
 素直に最初からそう言うとったらええのに。そしたらこっちも、それなりの心構えで対応したるのに。
 何やかんや言うても、ぬるちゃんが他人の顔色を窺って生きているのは、幼少期から染み付いてしまった生活習慣に過ぎない。改善してやらねばとは思う。

「……言うてわたしの家で寝泊まりしても、結局会社まで車取りに行くのんに時間かかるから意味ないわ。収録先の近くで宿探した方がええ」
「んわ~~~~~現実的なこと言われてもた!」
「そらそやろ」
「や、でも! 今日はもうこんな時間やし、な? 今日だけ!」
「……ほんまに今日だけやで」

 やったあ、と盛大に万歳する彼を横目に、わたしは頭を抱えた。結局この展開に落ち着くの、全部ぬるちゃんの筋書きにハマってるとしか思えん。
 手口があれや、「先っちょだけでええから!」のそれである。最悪や。一体どんだけの女の子が食われてきたんやろなあ。

「んん? 何か失礼なこと考えてへん?」
「どうやろな」
「えっ否定してや! 今日の俺お利口さんやったやろ!」
「手洗いうがいしとった時だけな」
「一瞬やん! そないなことあらへんやろ! なあ!」
「喧しわ、この家壁薄いねん、お隣さん迷惑やろ」
「えっそんな薄い壁で……」

 何を邪推しているのか知らんが、ちらちらとこちらに視線を投げてくる様子が鬱陶しい。空っぽになったマグカップを手に、わたしは台所へ足を向けた。

「せや、衣服のゴミの日て何曜日?」

 元カレのスウェットを必ず滅却せんと黙らんつもりか、こいつ。
 急須に湯を注いで、食器棚から新しくもうひとつマグカップを出す。あったかいもん飲ませて眠くさせるんがええ。これ以上無駄な応酬を繰り広げとったら、心臓がいくつあっても足りん。

「……それ、ゆにくろやし、リサイクルボックスに入れるから」
「地球環境に優しい! 俺にも優しゅうして!」
「売り切れました」
「まだや! 在庫復活セール!」
「それやと完全に生産終了するけどええねんな?」
「いやや! 永遠に販売しとって~!」

 どんな地獄やねん。ほうじ茶を注ぎながら、自嘲した。




 どっちが風呂に先入るかで一悶着あり、じゃんけんで平和に解決した。わたしが髪を乾かし終わってから部屋に戻ると、湯上がりのぬるちゃんは炬燵でスマホを弄っていた。

「お帰り! 洗濯モン干しといたで~」

 室内干し用のハンガーラックを見やると、わたしの二日分の服やらタオルやら、加えてぬるちゃんの服も綺麗に干されていた。が。
 ぬるちゃんのパンツの横に自分のパンツが干されているシュールな光景に「ワア」と乾いた声が出た。もうワアとしか言いようがない。
 何しとんねん、いや干してもらったのは有り難いが、下着はせめて躊躇えや。
 グレーのボクサーの隣でひらひら揺れる己のグレーのショーツが恨めしい。下着まで色お揃いとか何なん。頭痛い。

「洗濯モンの干し方ひとつで喧嘩になるてよお聞くやん?」

 何の話や。
 ずるずるとほうじ茶を啜って炬燵で丸まった白膠木簓は、天板に頬をくっつけたままわたしを見上げてくる。どーゆー意図?
 彼の視線に誘導されると、百均で買うたメッシュ状のランドリーボックスの中に、今日着ていたわたしのニットがあった。

「ニットの扱いは注意せなあかんよなあ思て、それだけまだ干してないねん」

 下着までバッチリ干しといて、妙なとこで気遣いを見せる男である。脱力するしかない。
 ぬるちゃんがわたしという玩具に飽きるのは時間の問題だ。傷付く前の心構えは大事である。何も期待したらあかん。
 とりあえず伸びないようにニットをハンガーに掛け、下着をどうこうするのは今更過ぎるので諦める。風呂上がりの水分補給のために蛇口を捻り、冬なのできんきんの水道水を喉に流し込んだ。

「……めちゃくちゃ癪やけど、干してくれてありがとお」
「どーいたしまして!」

 偉いやろ~褒めてくれてええで~と彼の顔にでかでかと書いてあったので、従ったまでである。わたしの意思などどーでもよい。
 折角温もった身体を冷やしたくはないので、マグカップを片手に炬燵に足を突っ込む。流れていたテレビは深夜枠のバラエティ、賑やかな芸人さんやタレントさんに混じって、当然のように白膠木簓の姿もあった。
 軽快なコメントを重ねるテレビの中のぬるちゃんを眺めながら、水を一口。いま自分の横にその彼がいるのが、大層不思議な光景に思われた。

「とうっ」

 妙な掛け声と共に、ぬるちゃんがわたしとベッドの隙間にわざわざ身をねじ込ませてくる。形ばかりの抵抗に意味などないと知っているので、わけ分からんなあと言いながら享受した。背中にぴっとり張り付いたぬるちゃんの体温は、スウェット越しにもわかるくらい熱い。風呂上がりやし。
 こいつ、他の女の家でもこーゆーことしとるんやろなあと思う。

「これが! 幸せや!」
「安いな」
「何てこと言うねん! そこはほっぺた赤らめてウン言うとこやろ!」

 ドラマの見過ぎでは? ここは月九でも何でもない。わたしよりも頬を林檎にしているぬるちゃんが、むうと唇を尖らせた。

「寒いと人肌恋しいやん」
「同意を求めんなや」
「え、ええの?」
「いや待ち、何やねん、あかん」
「ちっ」

 舌打ちしよった。何する気やったんやこいつ。
 ていうか狭くて寛げん。ぬるちゃんの手を振り払って、もうひとつ隣にずれて座った。全然内容を捉えられていない液晶から、どっと笑い声が上がる。

「はー、コタツは正義や……」

 否定はしない。まあ、一度入ってしまえば出るのが非常に困難になるので、一人暮らしにとっては諸刃の剣にも等しいのだが。
 ぬるちゃんは背を丸めて、天板にしな垂れかかるようにして溶けていた。

「ほれ、お手手もぬくぬくなったで!」

 ぬるちゃんの宣言どおり、わたしの頬は彼の温もった両手に包まれた。少しかさついた指先が、こめかみを撫でるように滑っていく。

「なるほど」

 反射でわたしも彼の頬に手のひらを押し当てる。手のひらでもわかる滑らかな肌理に、そういや腐っても芸能人なんやったなと思い出す。
 あんだけテレビにもラジオにも引っ張りだこやのに、何を今更言うてんねんやろ。
 液晶や電波を通さずに見る白膠木簓は、学生時代から変わらない「友人」であり、「かつての恋人」であり、芸能人としての彼との差異なんてそうあらへんのに、実は全くの別人なんちゃうかと思う瞬間がある。
 非常に珍しいことに、真ん丸になったぬるちゃんの瞳がこちらを射抜いていた。

「……今のナシ」
「何でや! もっともちもちしてくれてええで!」
「いや確かにもちもちやったけど」
「せやろお? お肌のケアはちゃんとしろ言われてんねん!」

 週一レギュラーのお昼のバラエティ番組で共演しているタレントさんから指導を受けているらしい。彼の薄い頬を指で摘まむ。

「ご飯しっかり食べやな、可食部ないで」
「何で食われる前提?」

 ふにゃんとぬるちゃんが蕩けた笑みを浮かべるので、慌てて指を遠ざけた。
 いまの、ぶりっこやなくて完全に素のぬるちゃんやった。
 元カノに対して向ける表情やない。こっわ、と思いながら、誤魔化すようにマグカップを傾ける。

「あっ待ってネタ降ってきた! ごめんテレビ音量下げてええ?」

 急に叱られた子犬の顔でこちらを見詰めてくる彼を止められるわけもなく、わたしはリモコンに指を掛けた。番組は元々見てへんかったようなもんやし、音量を最小限に絞ってやった。
 仕事熱心というか、人を笑わせることが生き甲斐の彼である。邪魔する理由もない。
 丁度ええか、と積み過ぎて部屋のオブジェに成り果てていた本の山から一冊抜き取り、炬燵から何とか出て湯を沸かし直す。わたしはコーヒーで、ぬるちゃんには牛乳をたっぷり入れたカフェオレにした。ホットミルクやとすぐ寝てまうから、とひたすらノートにペンを走らせながらの注文である。

「寝る前にコーヒー飲んでも全然平気なん、変わらんなあ」
「ネタが逃げる前に無駄口閉じたら」
「むう」

 こちらの正論に従って、数秒後には真剣な顔でノートに向き合うぬるちゃんやった。
 紙の上をペンが滑る音は淀みなく、わたしがページを捲る音と、僅かな呼吸音が間に挟まる。完全な無音よりも若干の雑音がある方が集中できるとはよく言ったものだ。

「……ふいー…………」

 三十分ほど経った頃、掻き消えそうな吐息と共に、ペンが彼の指先から離れた。ぐぐ、と背伸びと欠伸をする彼に釣られてわたしの口からも二酸化炭素がまろび出る。

「眠なってきた。寝よ!」
「はいはい」

 本に栞を挟んで、歯を磨きに洗面所に立つ。当然のように隣で歯ブラシを動かしている彼を尻目に、これが最後や、と自分に言い聞かせた。
 部屋に戻って炬燵の電源を消す。ぬるちゃんはベッドな、と言いながらわたし用の毛布を炬燵の傍に配置していると、なあ、と呼びかけがあった。

「このベッド、セミダブルよな」
「せやな」

 がーん、と口で言うぬるちゃんである。いや、それが何。あんたこないだもそこで普通に寝とったけど何か文句でもあんの。

「ワンルームで同棲しとったん?」
「いや、たまに泊まりに来とっただけで、……何言わすねん」

 気を抜いたらコレである。何故か膨れっ面のぬるちゃんを宥めてベッドに投げ飛ばし、わたしは毛布に包まって更に炬燵布団を被り、消灯。




 目が覚めると午前五時だった。
 そろそろ準備せな、とぼやぼやした頭で今日のスケジュールを思い描く。いや、今日は休日やった。目蓋を何度か上げ下げして、あと一時間の二度寝を己に許可した。
 意識を手放してすぐ、スマホのアラームの第一音と共に、反射で画面をタップする。二度寝の一時間は一瞬である。
 炬燵でそのまま寝ると背中がバキバキになってまうので、昼寝用のロングクッションシートを敷いた昨日のわたしを褒めておく。今日の背骨はどうやら無事である。
 くわ、と欠伸をひとつ零してから上半身を起こそうと腹に力を入れたところで、何かが身体に巻き付いているのが分かった。
 何かというか、ぬるちゃんしか有り得へんのである。
 ベッドで健やかに寝とったはずやのに何故。穏やかな寝息に反して腕は緩む気配がない。いや、重い。寝とる人間の腕、めちゃくちゃ重い。
 団子状態になったまんま、全然気付かんかった自分の眠りの深さを褒めれば良いのか、嘆けば良いのか。背中がやたらとぬくいのは、彼の体温に依拠していたようである。
 ていうか、いつからや。二度寝する前の自分の状態すらあやふやで笑うしかない。
 寝惚け眼で彼の姿を見下ろすと、その身はしっかりと毛布に包まれていたのでほっとする。いま風邪を引きよったらとんでもない。年末進行は体力勝負のそれだ。

「……んん~……」

 こちらが声を掛けるまでもなく、むずがるようにぬるちゃんが顔をしわくちゃにした。

「……おはよぉ」

 悔い改める機会が爆速で遠ざかっていく。
 絶対手に入らへんてわかってんのに、目の前にぶら下げられた人参に飛び付いて。

「おはよお。寝相どないなってんの」
「んへへ……」

 なあ、友達て名前の免罪符、いつまで有効なん。

13|遮光の殻は甘い

211205
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