人間は慣れる生き物だ。劣悪な環境で常に傷を負っていても、繰り返せばそれが通常運営になってしまうものである。
 ぬるちゃんの専属運転手の契約は当初履行期間の七日間をあっさり超え、コールセンター嬢の迅速な事務処理のせいで、契約期間は見事に延長されてしまっていた。
 最早ヤケクソである。世の中、何でも自分の思うようには行かんということの証左である。愚痴ぐらいは許されたい。
 水族館での任務を全身負傷しながらも何とか乗り越え、翌日丸一日の休暇(ただし白膠木簓を添えて)を挟み、また怒濤の日々が始まった。
 色んなもんを諦めて、全部忙しさのせいにして、間違えた距離感はちゃんと元に戻して、何とか友人の皮を装備して。わたしは生きていて偉い。
 ぬるちゃんのスケジュールの隙間は緩む気配がなく、マネージャーさんも日々窶れているように見えるが、誰も助けることができない。
 十二月も瞬く間に半ばを過ぎ、食料調達のためにスーパーをちらりと覗けば、延々と定番のクリスマスソングを聞くことができる。憂鬱の季節が到来してしもた。

「はよ……休みくれ……」

 最近のぬるちゃんの鳴き声は、専らこのとおりである。
 朝は大凡が死体、夜はテンション可笑しなってマシンガントーク、呻きは干涸らび、お高い栄養ドリンクで何とか気力を保っているらしき彼の情緒は最骨頂に不安定だが、仕事には全く影響を及ぼさないところがまた恐ろしい。これはマネさんの証言である。
 時刻は二十二時。指定されたのはナンバの飲み屋街付近。飲み会嫌やあ、と嘆きの電話が夕方に入って「絶対はよ切り上げて帰ったんねん!」ぬるちゃん自身はそう豪語しとったが、結局この時間である。
 駅の改札口の近く、マスクとニット帽で武装した群れを発見し、多分ぬるちゃん達やろなあと思って目を凝らす。
 大袈裟なくらいの身振り手振りのリアクションに、ぺこぺこ頭を下げとる黒のダッフルコートの青年の姿があった。一瞬でぬるちゃんやとわかる。その細っこい背をバシバシ叩いて鼓舞する大御所らしき着物姿の男性に、スーツの中年が数名、べろんべろんに成り果てている若手の────あー、あの子ら、サカイに住んどる後輩君達や。
 随分な大所帯やった。ぬるちゃんはそれぞれに弊社のタクシーを宛がって、最後にわたしの車両まで戻ってくる。売上に貢献してくれはってどうもおおきに。
 助手席の車扉を開けてやると同時、嘆きの声が鼓膜を盛大に打った。

「あっかん、めちゃくちゃ飲まされたァ!」

 アルコールにはそれほど弱くないはずの彼の弱気な発言に、運転席で思わず瞬きを繰り返す。確かに、車内に身を滑り込ませてきた瞬間から酒臭い。

「どんだけ飲んだん」
「えーと……? ビール、ジョッキ五やろ、ワイン二杯とハイボール二杯、ポン酒は一合やったかな、ほんで……」
「ちゃんぽんにも程があるやろ」

 指折り数える彼の虚無の表情に、深淵が垣間見える。
 こちらが差し出したミネラルウォーターのペットボトルを受け取った彼は、ほんまになあと力の抜けた声で返してきた。ただでさえ体力を削られる年末進行やのに、同情を禁じ得ない。
 キャップを開けてぐびぐびと水を飲んでいる彼が落ち着くまで、アクセルを踏むのは留まることにする。ふう、と溜め息を吐いた彼が眉尻を下げた。

「運転待ってくれたん、ごめんな」
「そこはありがとうでええねん」
「……ありがとお」

 ふにゃふにゃの笑みと声が返ってきて、わたしはようやく足先に力を込めた。
 酔っ払ったぬるちゃんの相手は至難の業だ。常日頃もそう易々と勝てる相手ではないが、攻略難易度は鰻上り、丸腰では戦線崩壊が目に見えている。
 つまり、時間との勝負である。

「冷たいのばっか飲まされてお腹も手もヒエヒエやで!」

 今更騙されたらへんわ。すぐに手を握ってこようとする幼稚園児をいなして、ハンドルを握る。正直こないな戯れももうすっかり慣れてもたけど、胃が痛まんわけではないので避けるに越したことはない。

「一応ビニール袋そこにあるから、気分悪なったら使いや」
「はあい……はー、もう、年末進行終わるまでは酒ええわ……」

 そう言ったきり、彼はぐでっと体重を座席に預けて項垂れていた。ほんまに弱っとる。
 念のためと思って薬局で調達しといた、二日酔い対策セットの袋を彼に持たせると、鼻声のお礼が返ってきた。

「明日はちょい朝遅いから、八時やな」
「あーい……」
「しっかり水飲んで休みや」
「うん、おやすみい……」

 へろへろのぬるちゃんをビジネスホテルにぶち込んで、わたしは助手席のドアを閉めた。どでかい溜め息を零して、何とか今日を乗り切った自分を褒めておく。
 目蓋を落とすと先日の、結局丸一日わたしの家の炬燵でぐだぐだしていたぬるちゃんの姿が鮮やかに蘇って眩暈がする。ほんまになかなか帰らへんし、ひとの家で全力で寛ぎよるし、最終的にふたりでたこ焼きを生成する羽目になった。まるで学生みたいな休日の過ごし方やったな、と遠い目をするしかない。
 ぬるちゃん家の風呂の故障は、多分給湯器が原因やと思われたので、マンションの管理会社に電話するよう誘導してやった。多分近日中には何とかなるやろけど、問題はまだ残っている。
 実際のところ、分どころか秒刻みで仕事に取組むぬるちゃんに、家電を揃える時間も気力も残されてはおらず、移動の待ち時間を使ってわたしが諸々の手続きを代行することになった。
 休日の間に彼の尻を叩いて解決しとくべきやったと悔やんでも遅い。わたしかて休みの日は全力でだらだらしたい。まあ、そのツケがいま回ってきてしもてるんやけど。
 ビジホ暮らしはそう悪くないはずやけど、自分の家で寝られへんのはそれなりのストレスもあるかもしれん。可哀想に思う気持ちが一ミリ程度残っていたので、そこに容易く付け込まれ、新しく買う製品の最安値を調べて、下取りを確認し、購入手続きから受取日やらの設定まで全てを承ることになった。
 いや、改めて思うとわたしチョロすぎるんよな。もっと強い心で挑まんと。

『ほい、これ俺のクレカな』
『は?』
『いや、決済してもらわなあかんやん。暗証番号はァ』
『いやアホなん?』
『何でや! 絶対いるやん!』
『他人に暗証番号教えんなや』
『他人やなんて、冷たい言い方せんとってやあ……』

 要らん回想まで黄泉がえりを果たして気分が悪い。ぬるちゃんは頭ええし常識がないわけでもないのに、妙なとこがぶっ飛んどってこっちがヒヤヒヤする。
 信頼、ともまたちゃう気がする。慌てて彼の黒のクレジットカードを突っぱねた時、不思議そうに首を傾げてきよったのがまた怖かった。
 溜め息ばっか良くないよなあと思いつつ、止める方法もわからんまま、車を会社へ戻すためにアクセルを踏む。




 多忙な毎日を繰り返して本日は五連勤目、ぬるちゃんにとって明日は待ちに待った全休である。つまりわたしも休みなので心が躍る。彼も朝から「今日頑張れば休み今日頑張れば休み今日頑張れば休み」とエンドレスに自分に言い聞かせながら、割と静かに狂っていた。わたしもさっさと彼を送り届けて、即行で家帰ってゲームでもしたい。
 十九時四十五分、指定されたチャヤマチのラジオ局の駐車場でぼんやりと欠伸を噛み殺す。日勤の五連勤、この時間帯は爆裂に眠いのでブラックガムを口に放り込み、何とか正気を保っておく。
 ビルの出入り口を眺めていると、ダッフルコートに身を包んだぬるちゃんが、背中を丸めて小走りに出てくるのが見えた。歩数が増える度、ぶわりと白い吐息が彼の口から零れていく。外気温は一桁ですっかり冬も本番だった。
 ちなみに、まだストールは返してもろてない。このまま永劫に借りパクされる運命なんかもしれん。諦めた方が気が楽になるか、いやでも、としょーもない葛藤を繰り返す。
 送迎車を目に留めて、ぬるちゃんの足は加速した。彼の顔はもうふにゃふにゃである。全休に対して喜びが隠し切れずに溢れ出とるらしかった。
 助手席のドアを開けてやるのに雀の涙程度の抵抗もなくなってしもたことが恐ろしいが、今更である。慣れとはほんまに恐ろしい。

「ただいまあ……」

 這々の体のとこアレやけど、まだ家ちゃうぞ。
 冷蔵庫はまだやけど給湯器は復活したし、洗濯機も新品の設置が完了したので、今日からビジホ暮らしは卒業するとのことだった。
 お疲れさん、とだけ言葉を投げ掛けて、ふと、彼の顔色が今朝よりも随分白いことに気付いた。寒いだけやなくて、血の気が足りてへんような。

「……体調悪い?」

 リュックを後部座席へ押し込もうとしたぬるちゃんは、ぎくりと肩を強張らせた。わたしは流していたラジオの音量を下げ、彼の口から何らかの言葉が零れ出てくるのを待つ。
 いつものぬるちゃんなら、こちらが視線を投げようもんなら散歩に行きたくて興奮状態に陥ったポメラニアンみたいな具合になるのが常である。
 しかし今日の彼はそっぽを向いて、額にゆっくりと手を宛がって俯いた。手の隙間から見える垂れ下がった眉尻に力はなく、脱いだコートを丸めて抱えて、零れ落ちる吐息は鉛色で、のそのそとシートベルトを装着している。

「……なんで、わかってまうの」

 スイッチが切れたみたいに、どっと疲労にのし掛かられているような声音が、わたしの鼓膜を細やかに揺らした。
 仕事中は微塵も表に出さへんかったんやろな、と思った。

「どこしんどいの」
「頭くらくらすんねん」

 保健室で病状を訴える小学生や、と茶化しかけて口を噤む。
 熱出てるんかもしれん。この時間やと夜間救急になるなあと思って彼の顔をしっかりと覗き込むと、こちらの思惑を正しく理解した上で、彼は首を弱々しく横に振ってみせた。

「いっぺん家帰りたい……」
「常備薬は? 薬局寄ろか?」
「解熱剤は置いとる……」
「分かった、とりあえず家帰ろな」
「うん……」

 天下のお笑い芸人とは思えない、覇気のない音量である。やっとの思いで勝ち取った休みに、体が先に安心して電池切れになったんかもしれん。
 コンソールボックスにこれ見よがしにビニール袋を突っ込んで、グローブボックスから箱ティッシュを取り出しておく。元々夜勤の運転手なので、酔っ払いがタクシー内でゲロゲロするのには慣れている。準備も抜かりない。
 これ以上のダメージを与えないよう、妊婦さんを乗せた時と同じくらい気を遣ってアクセルを踏む。まあ、こんなんは腕の見せ所である。

「袋の中なら吐いてもええからな。返事要らんから寝ときや」
「…………」

 当社比最速でぬるちゃん宅の近くのパーキングに駐車し、貴重品と彼の荷物を抱えて外に出る。彼はコートの袖に腕を通す気力も残ってへんのか、ただ羽織っているだけやった。

「鍵どこ」

 マンションのエントランスホールに到着したが、ぬるちゃんの意識は既にぼんやりし始めていた。熱、思たより結構高いんちゃうか。
 彼は消え入りそうな声で「これさして」リュックの内ポケットから銀色のそれを取り出した。
 高そうなマンションやと思ってたのに、オートロックは集合キーやったんか。ふらふら揺れる彼の背を手で押しながらエレベーターに乗り込む。加えられた重力すら辛いのか、彼の体重は僅かにこちらに預けられ始めていた。だいぶしんどいんやな。

「吐き気は? ないならええから」

 こくん、とぬるちゃんは小さく頷いた。
 上層階の角部屋、わたしがずっと握り込んだままの鍵を差し込んで扉を開ける。玄関でのそのそ靴を脱ぐ彼を尻目に、わたしは腕時計をちらと見た。二十時十五分。まだ間に合う。

「薬局行ってくるわ。とりあえずすぐ食べられるのんと、飲みもんと……宅配ボックスに入れといたらええ?」

 まだ新しい冷蔵庫は届いてへんので、常温保存が可能なやつにせんと、とスマホにメモしておく。
 玄関に座り込み、壁に頭を預けた彼は、こちらを見上げる気力も残ってへんらしい。顰めっ面で随分苦しそうである。

「……ごめん、もどってきてくれへん?」
「わかった、戻ったら連絡する」

 あまりに弱々しい声にぎょっとする。病人の我儘を足蹴にするほど落ちぶれてはいないので、素直に承諾した。
 ふ、とぬるちゃんと口許が緩む。ありがとお。ほぼ空気みたいな声だった。

「布団まで頑張りや。すぐ帰ってくるから」
「うん……」

 覇気のない返答に、心配するなと言う方が無理があった。逸る気持ちを押さえ込んで扉を閉める。




 薬局の黒いビニール袋を持ち上げるとガサガサと鳴き声が上がった。マンションのエントランスに入ったが、意外にも隙間風が酷い。タワーマンションなのは見てくれだけらしい。
 すぐに悴んでしもた指でメッセージアプリを開いて適当なスタンプを押すと、数秒置いて着信画面に切り替わった。慌てて耳元にスマホを押し付ける。

「……もしもし」
『あける……ちょいまって』
「ゆっくりでええで」

 舌足らずな彼の声音に、嫌な汗が流れた。オートロックが解除され、他の住民に出会さないことを祈りながらエレベーターに乗り込む。

『げんかんあけといた』

 物騒な世の中なので止めてほしいが、緊急事態なのでそうも言ってられん。わたしはなるべく足音が大きくならないように気を付けながら、駆け込むようにして彼の部屋のインターホンを鳴らした。

『そんままはいって』
「お邪魔します」

 すぐ近くにおるのに、電話で喋っとるのは何か変な感じや。脱いだ靴を揃えて、廊下を進む。
 奥の寝室、ぬるちゃんはベッドの上でぐんにゃりと倒れていた。部屋着に着替えてそのまま力尽きたらしく、布団から手足がはみ出たまま震えている。体調悪化するやろ阿呆か、と詰るのは後にして、とりあえず布団をかけ直してやる。
 こないだゴキ退治のアレソレでぬるちゃん宅には侵入したが、一刻も早く脱出することばかり考えていたがために、内装の印象は薄かった。改めて見ると、部屋は随分とシンプルで小綺麗だった。
 ちゃんと掃除してるん偉いなあと思わず零すと、「かじだいこう、さいこうやで……」と力のない返答があった。他人に家の中まで入ってこられるのに抵抗がありそうな印象を勝手に抱いていたので、意外に思う。

「とりあえずスポドリ飲み」

 紙コップに注いでやると、彼は消え入りそうな声で礼を述べた。目尻に薄ら涙滲ませた病人のくせに、こんなことで気ぃ遣わんでええ。
 くぴくぴとスポドリを口に含むぬるちゃんの体調は、着実に悪化の一途を辿っている。

「熱測った?」
「まだ……」
「体温計どこ?」
「みぎのとだな、いっちゃんうえ」
「薬もちゃんとまとめて置いてて偉いやん」
「せやろお……」

 しもた、いつものノリで返事してもうたら、こいつ病人の自覚はあるくせに延々喋り続けよるわ。

「あーごめん喋らして、ほれ、挟んで」
「うん……」

 とりあえず買うてきた諸々のうち、すぐ使うものだけを袋から取り出していると、軽い電子音を鼓膜が捉える。布団からにゅっと出てきた手から体温計を受け取って、デジタル表示の数字を見た。

「は? 三十八度? 寝とれ」
「はあい……」
「冷えぴた貼ったろ」
「ありがとお」

 浅葱の前髪を捲ると、吹き出物のひとつもない額が現れた。学生の時に「俺ニキビできたことないねん」と豪語していただけのことはある。羨ましいを通り越して妬ましいが、今は関係ないのでセロファンを剥がし、優しさ成分多めな具合で冷えぴたを貼り付ける。
 シートを密着させるために少し手で押さえてやると、指先が彼の肌を掠った。

「んふ……てえ、つめたい」

 そのままわたしの手は彼の長い指に握り込まれてもうたが、まあ病人のすることやしな、と今回ばかりは大目に見ることにした。
 咳き込んだりくしゃみをしたりする様子がないので、疲労による発熱だけやろか。ほんまに夜間救急に行かんで良かったんか、今更不安を覚える。

「……きょうな、ばんごはんたべそこねてんやんか」

 それは可哀想に。唐突な告白に次いで「おかゆある?」と彼のか細い声がのろのろと追い掛けてくる。

「レトルト買うてきた。たまごと梅」

 彼の家に米が備蓄されているのかさっぱり分からなかったので。ぬるちゃんはやったあ、とへろへろの声で喜んだ。

「たまごがええなあ」
「食べたいんやったら準備するけど、やっぱちょっと寝た方がええんちゃう」
「ほな、さんじゅっぷんご」
「わかった」

 額に貼り付けたシートが心地良いのか、ぬるちゃんは表情筋を緩ませてわたしの手を解放すると、ようやくベッドへ沈んでいった。
 ふと、サイドテーブルに黒の革財布がぽつんと置いてあるのが目に入った。やっぱどう見てもわたしが過去にプレゼントと称して贈り付けたもので、ほんまこいつどーゆーつもりで、と憤りかけて、相手が病人であることを思い出して何とか堪える。
 元カノから貰ったもんとかはよ捨てろや、あらゆる火種の元やろ。
 溜め息を吐いてキッチンに戻った。コートを丸めて椅子の上に置き、今のうちにお粥の準備を進めておくことにする。言うて電子レンジでチンするだけなので、器を探せばそれで終いである。
 食器棚に手を伸ばした瞬間、ガチャ、と玄関の鍵が回る音がした。

「お邪魔しまーす」

 それは軽やかな、女性の声だった。
 女性? え? 修羅場始まってまう? 
 混乱するも、部屋の中のどこに隠れて良いかもさっぱり分からん。いや、わたしの格好を見ればタクシードライバーであることは明白で、疚しいことはひとつもなく、待っていま白手袋してへんからただのスーツの女やない? 名刺でもぶら下げておけばええ?
 結局わたしはキッチンで棒立ちまま、声の主が部屋に入ってきてしまう。
 ど、ど、と嫌な脈拍が身体の中を走り回って、生唾を飲み込んでわたしは立ち竦むしかなかった。
 ぱたぱたと軽いスリッパの音。ベージュの上質そうなトレンチコートの下、デニムに包まれた細い足が見える。

「……こんばんは?」
「こんばんは」

 いや、もう少し何かなかったんか自分。
 平然と挨拶を交わし、マスクとボストン型の眼鏡を掛けた彼女は、大きめのキャンバストートを手に洗面所へと消えた。ガサゴソと何やら物音を立てたあと、彼女はビニール袋を片手に戻ってくる。

「あ、あの」

 挙動不審のまま話し掛けようとするわたしに、彼女はマスクを下げてにこりと笑った。キューティクルの美しい髪が、さらりと彼女の肩の上を滑った。

「すぐ帰りますので、お気になさらないでくださいね」

 ずがん、と頭を鈍器で殴られた心地だった。
 朝のニュース番組の、お天気キャスターのお姉さんである。
 見間違えるはずがなかった。何故なら夜勤明けのわたしは、いつも彼女の天気予報と「今日も元気に行ってらっしゃい」の掛け声で逆に健やかな眠りについていた。
 突如落とされた爆弾に思考が混線している。いや、毎朝お世話になってたお姉さんがぬるちゃんの元カノで? 何?
 ぎい、と扉が軋んだ音を立てたかと思うと、ぬるちゃんが寝室から出てきていた。壁に身体をべたりと預けた彼は、額の冷却シートを手で押さえながら、彼女とわたしに視線を投げる。

「……おつかれさん」

 声は彼女に向けられたものだ。お天気お姉さんはくるりと上がった睫毛を瞬かせた。どう見ても体調不良真っ只中のぬるちゃんを認めて、彼女は大きな瞳をまんまるにしている。

「え、簓君、風邪? お大事に」
「うん」
「荷物取りに来ただけだよ。申し訳ないけど、次の燃えるゴミの日にこの袋捨てておいてくれる?」
「うん」
「鍵、返しておくね。それじゃ」
「うん、ほなね」

 淡々とした会話だった。元恋人同士のそれにしては、あまりにも色がない。いや、別れてもうたからこそなのかもしれないが。
 テーブルの上に置き去りにされた小さな金属は、何も語らない。
 玄関の扉はそっと閉じられ、再び静寂が戻ってくる。緊張の糸が切れ、どっと疲労が肩に乗った。ぬるちゃんも壁にめり込んだまんま、特に言葉を発さない。

「……待って、わたしのお天気お姉さんと付き合えるとか何なん」

 段々落ち着いてきたわたしの口からは、気付けば素直な感想が飛び出ていた。これは一視聴者としての飾り気のない本音である。

「ええ……? ヤキモチのやきかた、おかしない……?」
「いや、ホンモノやったもん……可愛かった……顔めっちゃ小さかった……」
「ちょい、ささらさんのこと、もうちょいでええから、いたわってくれんか……」
「寝とけ」
「めっちゃざつやんけ……」

 真顔のぬるちゃんの視線は光線銃みたいにわたしに突き刺さっていたが、正直それどころではない。
 彼女のゴシップは一切見聞きした覚えがなかった。こんな異常事態でなければ知りえなかった真実だろう。ほんまに心の底から驚いた。テレビで見る以上に現実の彼女は華奢で華々しく、あと声が良かった。わたしの安眠の神は実在する。
 その神とぬるちゃんの逢瀬の邪魔をしていた自分を思い出し、申し訳なさと僅かながら安堵する気持ちがごちゃごちゃになって、胃の中が引っ繰り返りそうになった。
 自分が嫌な人間であることを思い知らされている。

「……おくちはわるいけど、けっきょくめんどう、みてくれるもんなあ」

 ぬるちゃんはそんな台詞を吐いたかと思うと、床にぺしょりと座り込んでいた。そんなとこ座ったらお尻冷えるやろと言いかけて、わたしは引き攣っていた自分の頬を手でむにむにと解した。
 支離滅裂な己を宥め賺すには時間が足りないが、目の前のタスクを片付けることが最優先である。

「……寝とき言うたやろ」

 彼の腕を引っ張って、寝室へと送り出す。見透かされたような口振りが気に食わんかったが、他に選択肢があるわけでもない。彼にしっかりと布団を被せて踵を返す。

「お粥できたら呼ぶから」
「ん」

 今し方わたしの胃に空いた穴には気付かんかったことにして、好奇心に負けて台所を少しだけ物色する。一通りの調理器具が揃っていたので、自炊を全くせん訳ではないらしい。
 ────いや、お天気お姉さんと同棲しとったんやろ? 彼女が作ってはっても何も不思議ではない。
 ファンには手を出さへんと豪語しとったぬるちゃんの恋人て、どんな人やろと想像したことはあった。多分可愛い子やろなあと思ってはいたが、そおか、テレビに出てる人か。
 まあ、そうよな。
 今更、ぬるちゃんとわたしの間には分厚く高い壁が聳えていたことを知った。気付きもせんと手のひらの上でくるくる踊ってたわたしの間抜けさは片腹痛い。
 きっとそこに佇んでいるダイニングテーブルで一緒に楽しく食事してたんやろな、などと無駄な妄想も止められず、ただ黙々と電子レンジでレトルトのお粥をあっためる。五分。
 作業、一瞬で終わってもうた。
 ほんま今更。想像力の欠如も甚だしい。少し緩んだ涙腺は無理矢理閉じて、ぬるちゃんを呼びに寝室へ向かう。
 横になったことで少し回復したのか、リビングに戻ってくる彼の足取りは先程よりも安定していた。のろのろと椅子に座ったぬるちゃんの前に、丼鉢に入れたお粥とスプーンを置く。

「ゆっくり食べや」

 それだけ告げて、わたしはキッチンに戻って、薬局で買うてきた保存食やら薬やらを全部袋から取り出して並べておく。

「……おいしい。ありがとお」

 風が吹いたら一瞬で消えそうな声だった。味が分かるのは良いことである。最近のレトルト商品はほんまにすごい。コンビニで売ってるフリーズドライの具沢山のお粥も、割高だがなかなかに良いものである。
 腹が満たされてちょっと余裕が出てきたらしいぬるちゃんが、なあ、と椅子に座ったまま話し掛けてきた。

「じぶん、ばんごはんは?」
「帰って食べるから気にせんでええよ」
「…………」

 物言いたげな視線が肌に突き刺さる。彼が何を言いたいのかは、さっぱり分からん。

「……なあ、きょうとまってってえや」
「はア?」

 ほんまこの男は。
 恋人と別れたばっかで何言うとんねんと声を荒げることも考えたが、相手が病人であることを思い出して踏み留まる。
 ぬるちゃんの倫理観は、学生の頃はもうちょいちゃんとしとったように記憶している。テレビ出てへん時期に相当遊んどったとしか思えん。どこで狂ったんや。

「……さみしいねんもん」

 こいつ、いま何歳や。
 それでも、初めて聞く言葉に、僅か動揺したのは嘘ではない。そんだけしんどいからか、普段は口にせんはずの本音が零れたとでも?

「単純に寒いんやろ。レンジであっためる小豆カイロも買うてきてるからちょお待っとき」
「ちゃうもん」
「ほな何やの」

 ぬるちゃんは机に上半身をぺっとり伏せて、すんと鼻を鳴らしてみせた。

「ひとはだこいしい」

 あーあーあー。
 しんどいくせに自分の演出力がカンストしとって本気で怖い。その技術力で数多の女を落として泣かせてきたんか。そうなんか。

「それは弱った人間誰しもが思うことや。気にせんとさっさと寝え」
「いややあ」
「恋人と別れてもうたんが悪いんやろ」

 あんな可愛いひと手放してまうとか、めちゃくちゃ勿体ないやん。
 思わず口から飛び出た言葉に自分で想像以上に傷付いて、わたしは必死に口の端を吊り上げるしかなかった。

「……それ、じぶんがいうんか」

 彼の平坦な声音と共に、室温が氷点下まで一気に落ちた。
 ────わたしの迂闊なところ、詰めの甘いところ、悪いところ、全部出た。
 最悪や。全部間違えた。正しい返答は喉に張り付いてもうて、全く出てくる様子がない。一刻も早くこの場を逃げ出さなければと焦っても、ぬるちゃんの視線はわたしの小賢しい演技なんぞ一瞬で見破ってまう。

「……なあ、きかしてや。なんでおれら、わかれやなあかんかったん」

 きっといつか尋問されるやろなとは、思っとったけど。
 色んな言い訳を考えていた。でも、そのどれもがぬるちゃんの口八丁で蹴散らされていく予感があった。
 なんでなん。彼はもう一度、静かに繰り返す。
 ひとつ深呼吸して、わたしは丸めて椅子に置いていたコートを手に取った。

「……言いたない」
「なんで? いうてくれやな、なんもわからへん」

 彼の声は微かに震えていた。わたしは奥歯を噛み締めて、彼の顔を見ないように玄関の方へ視線を向ける。

「ええから、はよ寝え。休み明日だけなんやから、ちゃんと回復しとかんと」
「なんでにげるん」
「逃げてへん」
「おれのこときらいになったん」

 今にも泣き出しそうな声に、胃と胸が竦んだ。口の中で感情は暴れとるけど、何ひとつまともな形にならへんくて、わたしはただ空気を飲んで、フローリングの木目なんかを睨み付けるしかない。
 迷って迷って、結局、ちゃんとした返事をする勇気は出てこおへん。

「…………そうやない」
「ほな、なんで? なあ」

 これ以上聞かんとって、と声を荒げられたら楽やったのに。その選択肢はいつかのわたしが踏み潰してもうてたから、自業自得である。

「……鍵ちゃんとしときや」
「まってや!」

 しんどいはずのぬるちゃんが、わたしの腕を掴んで自分の方に引っ張った。それでも病人の力でしかなく、わたしはちゃんと自分の足で立ったままやった。
 くしゃ、とぬるちゃんの表情が歪んだのを、視界の端で捉えてしまう。視界はすっかり歪んでいた。

「……いっぺん壊れたもんは、元に戻らへんやんか」
「そんなん、」
「おやすみ」

 みっともない鼻声のまま、わたしはぬるちゃんの手を引き剥がして、逃げるように扉の外へ踏み出した。

14|きらきらの傷口

211207
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